他のことをやろうとしたのですが、まとまらないので以下のことにしました。
金印碑と立磐神社の直線と直角になるのは、阿武山古墳、長岡宮跡それに平安京全体のようです。
距離も考慮に入れると、金印が埋められたのは長岡京ができたとき、784年あたりではないかと思われます。
百済王・豊璋の墓である阿武山古墳を中心に考えられたものかもしれませんから、それより少し前かもしれません。
金印公園・立磐神社・ . . . 本文を読む
本日は、自分の中での、ほんの少しの修正です。
一直線上になくとも、それぞれ直角とみなすべきところがある、と考えます。
高千穂峰を直角とする三つの三角形
扶余(プヨ)-高千穂峰-平城京・朱雀門、平城宮跡…直角
公山城(コンサンソン)-高千穂峰-藤原京一帯…直角
公山城-高千穂峰と直角となるのは藤原京全体 2009・6/20
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A伊勢神宮・内宮-平城京・朱雀門-出雲大社-公州(コンジュ)は一直線上にありました。
公州(コンジュ)《公山城(コンサンソン)》と金印公園と出雲大社の三角形は金印公園で直角になりました。
さてA線ができたのは西暦710年の平城京遷都の時と考えられます。
また法隆寺もそのころ完成したはずです。(書紀の火災の記述は?)
とすると、金印が埋められたのはその710年以降のことになるはずで . . . 本文を読む
以前から、金印は意味のある地に埋められた、と推測していました。
ただ、発見されたときの状況がどのようなものだったのか、はっきり知りませんでした。
ところが、図書館で借りた本を読んだところ、きちんと空間があり、埋められた状態のものが発見されたことを知りました。
ほっぽり出されて土の中に埋もれていた、というものではありませんでした。
(今までのイメージでは、まるでほっぽり出されていたものが見つ . . . 本文を読む
ただし、近いには近いですが、隠岐島・玉若酢命神社-出雲大社-宇佐神宮は一直線上にはありません。
また、隠岐島・玉若酢命神社-白兎神社-熊野本宮大社も一直線上にありません。
隠岐島・玉若酢命神社-熊野本宮大社-宇佐神宮の三角形をみます。
みて想像がつくように二等辺三角形になっていました。
隠岐島・玉若酢命神社→熊野本宮大社
①138.863度 ②320.276度 ③345. . . . 本文を読む
もともと、卑弥呼トヨは宇佐から出港し、須磨(明石も)、和田岬(生田も)、纒向(まきむく)(箸墓)辺りに移動したと考えていました。
しつこくいいますが、卑弥呼トヨは妊娠したために九州を離れるしかなかったのです。
卑弥呼という地位は男性との性的な交わりは許されません。(おそらく)
それが判明したならば、卑弥呼は殺されなければならないのでしょう。
それは卑弥呼の神性を消失させ、国を崩壊させるほど . . . 本文を読む
中途半端でまとまりませんが、時間もありませんので投稿します。
宇佐神宮-隠岐島・玉若酢命神社-伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)も直角になります。(前回のリンク先を参照してください)
伊勢神宮・内宮でも斎宮跡でも直角にはなります。
伊勢神宮・外宮の本来の名前が豊受大神宮とトヨが使用されているために、卑弥呼トヨの移動の説明にはなりやすいと思われます。
ただし、伊勢は生存した卑弥呼の移動先ではあ . . . 本文を読む
平塚川添遺跡-隠岐島・玉若酢命神社-箸墓が直角三角形になることは以前やりました。
『稲羽の素兎』が隠岐島に居た本当の理由
2007年12月04日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/2e4e60b420bd332248f1274aa40b6f52
『稲羽の素兎』が隠岐島に居た本当の理由Ⅱ
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2 . . . 本文を読む