653年の中大兄皇子の難波から飛鳥への遷都とされるものは、710年の藤原宮から平城京遷都から導かれた架空のものです。
710年から繰り返しの57(=19×3)年を引き、方位を90度変更したものです。 . . . 本文を読む
元明陵、聖武陵、そして、不比等邸の位置から、彼等は親子関係にある、と推測します。その時、不比等と元明は光源氏と藤壺の関係になります。不比等と氷高皇女(元正)は光源氏と若紫の関係になります。
そのように仮定しますと、その時の文武天皇の気持ちとしては、母・元明、姉・元正を毒牙にかけた不比等が憎くてしかたがないはずです。悲劇のクライマックスの直前です。
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文武天皇の陵は彼の母・元明、姉・元正、子・聖武天皇の陵からも、妃(妻)・宮子の言い伝えの墓所からも離れています。親子・姉弟・夫妻の中心となっていたはずの肝心の人物・文武天皇の陵だけが別の場所にあります。そして、文武のいるべき場所には、代わりに藤原不比等が存在していました。 . . . 本文を読む
1月8日のブログには「法隆寺夢殿と阿武山古墳を結んだ線は、阿武山古墳と諏訪大社上社・本宮を結んだ線と直角になる」というものでした。
ところが、天香具山・耳成山・夢殿・阿武山古墳は一直線上に並ぶことがわかりました。ということは、739年(738?)に造られた夢殿は、天香具山・耳成山・阿武山古墳の直線上に、後から組み込まれたものとなります。
なぜだかは、まだわかりません。とりあえず、大和三山にいきます。 . . . 本文を読む
前回、文武天皇を即位させることが、持統・不比等・元明たちにとって重要であることに気がつきました。ところが、文武天皇は、697年に即位したものの、707年には、わずか25歳で崩御していました。持統既になく、不比等と元明は善後策に悩んだはずです。たぶん、この707年に、法隆寺の建立が決定されたはずです。 . . . 本文を読む
皇極三年(644)、神祇伯を固辞した鎌足は軽皇子(後の孝徳天皇)を尋ねます。軽皇子は鎌足の来訪を喜び、寵妃に寝所の世話をさせます。これも持統三年(689)の不比等の姿です。ここで、不比等は大胆で、生々しい告白をしています。 . . . 本文を読む