古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

もう一つの「笠沙の岬」 あくまでも空想

2018年07月29日 16時26分58秒 | Weblog
台風12号は関東を去り、午後3時現在、中国地方を西に進んでいますが、関東は、また暑さがぶり返してきました。中国地方・九州地方も被害が少ないといいですが、日本海側はフェーン現象で猛烈らしい。 ということで、ボーッとして、以下まとまっていませんが 笠沙の岬が野間岬ではないとすると何処にあるべきでしょうか。 笠沙の語源を検索しましたが、わかりませんでした。 「笠沙」の意味はなんなんでしょうか。 (わけ . . . 本文を読む

高千穂峰から眺めて陽が昇り、沈むのは?

2018年07月27日 08時59分10秒 | Weblog
今までも似ているというか、同じというか,やった気はしますが、ほんのちょっと深まっているのではないか,ということにして・・・。 藤原宮(飛鳥浄御原宮)→立磐神社→高千穂峰はピッタリ一直線ではありませんでしたが、まぁ、ほぼ一直線といっていいかもしれません。 また、その先の、笠沙の岬は野間岬ということですが、天孫・ニニギノミコトは降臨した場所は「笠沙の岬に真の道が通じていて,朝日が射し、夕日が良く照る国 . . . 本文を読む

藤原宮の位置と天武・天智系

2018年07月23日 15時03分22秒 | Weblog
△高千穂峰-藤原宮跡-武寧王陵(ムリョンワンヌン)が直角三角形であることは以前やっていました。 武寧王陵-高千穂峰-藤原宮跡辺り 2015年05月04日 https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/6445e1aabea6e2ca7681847a24981975 数値は少し違っていますが高千穂峰で直角になるのは間違いありません。 そして、高千穂峰→藤原宮跡の線 . . . 本文を読む

立磐神社ー沖津宮・宗像大社の延長線は大城山(テソンサン)

2018年07月20日 11時33分11秒 | Weblog
立磐神社→沖ノ島・沖津宮・宗像大社の延長線上は朝鮮・ピョンヤン(平壌)の安鶴宮跡に行きつきそうに見えました。 やってみたところ、少しずれそうです。しかし、当時そこまで測量能力があったのか,こころもとありません。 立磐神社→沖津宮・宗像大社の延長線の狙いは安鶴宮跡にあったのではないか、と想像しました。 しかし、大城山(テソンサン)にして、 大城山(テソンサン)-立磐神社の線を引くと、その線は沖ノ島、 . . . 本文を読む

△沖津宮・宗像大社-立磐神社-藤原宮跡

2018年07月16日 13時41分29秒 | Weblog
とりあえず △沖津宮・宗像大社-立磐神社-藤原宮跡 立磐神社→沖津宮・宗像大社  ①326°46′26.90″ ②145°56′46.75″ ③253,558.300(m) 立磐神社→藤原宮跡  ①57°15′40.98″ ②239°34′23.75″ ③458,045.215(m) 沖津宮・宗像大社→藤原宮跡  ①85°14′16.83″ ②268°27′35.12″ ③525,320. . . . 本文を読む

都と沖津宮・宗像大社

2018年07月09日 23時18分51秒 | Weblog
平城宮跡ー難波宮跡-和田神社ー明石・須磨ー沖津宮・宗像大社は一直線で、 平城宮跡―藤原宮跡の直線と直角になっていました。 とりあえず、確認のため、 平城京第一次大極殿跡-和田神社-沖津宮・宗像大社の位置だけ検討します。 平城京第一次大極殿跡→沖津宮・宗像大社  ①266°08′12.29″ ②82°54′52.40″ ③525,120.063(m) 平城京第一次大極殿跡→和田神社  ①266°11 . . . 本文を読む

平城宮跡-難波宮跡―和田神社・須磨・明石の延長線上に沖津宮・宗像大社

2018年07月07日 14時24分17秒 | Weblog
光源氏は平安京のどこかから、自らの意志とはいえ、須磨に流されました。 そこで、京都御所-須磨・明石に線を引きますと、以前やったんではないか、と思えました。 少なくとも、以前似ていることをやっているはずです。 難波宮跡ー平城京・朱雀門ー藤原宮跡が直角三角形になることをみていました。 平城京・朱雀門の代わりに平城京第一次大極殿跡・平城宮跡とされるところでやっても、大して違いはありません。 平城宮から須 . . . 本文を読む

光源氏が須磨に向かうときのこと

2018年07月03日 14時04分09秒 | Weblog
流されていた光源氏が許されて召喚される時のことです。 《七月二十余日のほどに、また重ねて、京へ帰りたまふべき宣旨下る。》 明石から京に戻るときの衣装は『狩の御装束』となっています。 この場面は、247年スサノヲが北九州の奴国に攻め込む時のことが下地となって いるはずです。この場面の『狩の御装束』とは「戦闘服」を意味します。(と、信じているわけです) 《入道、今日の御まうけ、いといかめしう仕うまつれ . . . 本文を読む