古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

高市山の位置から想像すること

2024年02月28日 10時46分38秒 | Weblog
今までもずいぶんと想像してきました。
相変わらず、まとまりませんし、付け足しのつもりですが、にもならないかもしれませんが、想像ついでです。


△高市山-石見一宮物部神社-宇佐神宮は直角三角形でした。
△高市山-石見一宮物部神社-熱田神宮も直角三角形になります

高市山という名称の山があり、その位置に意味がありそうだ、と言うことは高市天皇(高市皇子は即位していなかった、とされていますが、実は、天皇位についていたと考えています)の存在を否定できないのでは、と想像します。

△高市山-石見一宮物部神社-宇佐神宮は直角三角形です。
これは、高市天皇と物部氏が結びつき、協力し合った、ことを表している、はずです。
高市山は高市天皇(高市皇子・天武系))を象徴し、石見一宮物部神社は物部氏を象徴しているとすると、高市天皇と物部氏が協力関係にあったと想像できます。
私の想像では、その場面は・・・・・・
天武天皇崩御《686年10月1日〈朱鳥元年9月9日〉》の後、皇位を継ぐのは大津皇子だったはずです。大田皇后の皇子の大津皇子のはずです。崩じていたとはいえ、大田皇女というよりも大田皇后です。
そして、皇位を継ぐための禊ぎ(みそぎ)を終え戻って来た大津皇子を、高市皇子は待ち伏せして殺害したもの、と想像しています。
大津皇子のクーデターとされていますが、逆で高市皇子が物部氏、藤原不比等の協力でクーデターを起こしたとみます。
ここまではこれまでも主張しています。
大津皇子一行は待っていた高市皇子たちを歓迎のために待っていると考え、大津皇子側は武装を解いていたものと思われます。
事前に、高市皇子は大津皇子が天皇位を継ぐことを、大勢で歓迎して待っている、と伝えていたのでしょう。ともかく、武装を解かせる手を打っていたはずです。
大津皇子一行は高市皇子達が大旗をはためかせて、大勢で待ち受けているのを、大津皇子即位を祝福しているものと理解します。

古事記では倭建(ヤマトタケル)は出雲猛をだまし討ちにします。
「木刀と真剣を取り替える話」ですが、おそらく、この高市皇子と大津皇子の話があり、創られたものと想像します。
スーパーヒーローを卑怯者におとしめます。(のちに、高市天皇をおとしめるために)
日本武尊(やまとたけるのみこと)には高市皇子が投影されている部分があるものと信じます。
そして、この出雲猛には大津皇子が反映されている、と考えます。
高句麗・朝鮮から戻って来た卑弥呼臺与(トヨ)の子孫の天武系は出雲に身を寄せました。
なぜなら、ヤマトには磐之媛とスサノヲの子孫の王朝が続いていたからです。磐之媛は嫉妬にかられて、卑弥呼臺与(トヨ)を火で殺したはずだからです。
ですから、天武系はヤマトには行けません。出雲にとどまっていたはずです。
のちに物部氏などの協力により、出雲からヤマトに降臨するわけです。
ですから、高市山の地図上の位置は、日本武尊(やまとたけるのみこと)関連で熱田神宮、伊吹山があり、降臨関係で出雲大社、石見一宮物部神社が絡んでいると、考えられます。
瀧原宮は、皇大神宮(伊勢神宮内宮)の前身と考えます。
瀧原宮-三輪山-出雲大社は一直線上になります。










この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 再度 無題 | トップ | △瀧原宮-阿紀神社・阿騎野-... »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事