古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

聖武天皇陵・平城宮跡・難波宮跡は一直線上

2008年03月28日 23時43分28秒 | Weblog
わかりにくいとは思いますが、一応「聖武天皇陵・平城宮跡・難波宮跡は一直線上」にあることを示す図です。グーグルアースでやったものですが、平城宮跡が見えなくなっていますから、わかりようはないと思われます。すみません。(平城宮跡の部分を大きくすれば良かったのかな。相変わらず、二つ図をのせられません) 東側の黄色いマークがが聖武天皇陵で西側が難波宮跡です。 平城宮跡 http://watchizu.gs . . . 本文を読む

飛鳥・斑鳩・難波宮・聖徳太子御廟所の位置関係Ⅲ

2008年03月25日 13時51分55秒 | Weblog
A聖徳太子御廟所、B伝飛鳥板蓋宮跡、C法隆寺金堂、D難波宮跡、E長屋王邸跡、F石上神宮(前回の図に石上神宮を加えただけです。) △DAC、△BACは二等辺三角形であることはみました。 △EABも二等辺三角形になります。 長屋王邸→伝飛鳥板蓋宮跡 ①175.752度 ②355.763度 ③23.71156km Ⅰ175°44′01.21″  Ⅱ355°44′40.37″ Ⅲ23,669. . . . 本文を読む

飛鳥・斑鳩・難波宮・聖徳太子御廟所の位置関係Ⅱ

2008年03月21日 23時27分21秒 | Weblog
前回と同じ図です。A聖徳太子御廟所、B伝飛鳥板蓋宮跡、C法隆寺、D難波宮 今回は△DACの形と直線DBと直線ACの交点の角度を見ます。 C法隆寺は金堂にします。(夢殿でも大して変わりません。) 難波宮跡→聖徳太子御廟所  ①149.246度 ②329.311度 ③20.79166km 難波宮跡→法隆寺金堂  ①110.779度 ②290.899度 ③20.65203km 聖徳太子御廟所→法隆寺 . . . 本文を読む

飛鳥・斑鳩・難波宮・聖徳太子御廟所の位置関係

2008年03月18日 22時56分12秒 | Weblog
A聖徳太子御廟所、B飛鳥《飛鳥寺(法興寺)や伝飛鳥板蓋宮跡》、 C法隆寺(金堂、夢殿、斑鳩宮跡?)、D難波宮跡    何ヶ所か候補に挙げています。どこがふさわしいのか判断しにくいためです。 形としては、△DACと△BACは二等辺三角形のようですし、直線ACと直線BDは直角に交わるようです。 強引かもしれませんが、斑鳩寺(法隆寺)と飛鳥寺(法興寺)を、時に応じて入れ替えるための一つの方法かもしれない . . . 本文を読む

法隆寺と法興寺は入れ替わったのでしょうか、それとも・・

2008年03月14日 22時36分15秒 | Weblog
 法隆寺と法興寺の寺名は同じ意味を持っているように思えます。  法を(興・隆)させるという意味と考えられます。  では、なぜ同じような時期に同一の意味を持つ寺を二つ造ったのでしょうか。  崇峻元年(588)に飛鳥寺(法興寺)の造営が始まるとあります。  そして完成は推古4年(596)とされています。   飛鳥寺・ウィキペディア(Wikipedia) 《『書紀』の推古天皇4年(596年)11月条に . . . 本文を読む

隠岐島・玉若酢命神社と伊勢神宮・外宮を結んだ線と斎宮跡の関係

2008年03月12日 00時01分06秒 | Weblog
前回の文章の最後に、密かに入れたかったのですが、やり方がわかりません。 それとも、トップにしか入れられないのかしら。 どうであれ、この図は、今のところ、あまり意味はないでしょう。 真ん中に黄色く光って見えているところが「斎宮跡」のはずです。 斜めの線が隠岐島・玉若酢命神社と伊勢神宮・外宮を結んだものですが、斎宮跡とは離れています。 伊勢神宮・内宮だともっと離れます。 水若酢神社でもだめでした。 . . . 本文を読む

621年かなぁ

2008年03月11日 23時41分05秒 | Weblog
前回621年は聖徳太子の母の「穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)」の亡くなった年である、としました。 これは法隆寺の釈迦三尊像光背銘のものです。 ですが、書記では聖徳太子自身が亡くなった年でした。 そして、621年については以前考えたことがありました。 http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/6df2742f4effe771d03007ac8578 . . . 本文を読む

元明天皇の崩御年721年と蘇我氏一族の崩年の関係

2008年03月07日 22時04分54秒 | Weblog
元明天皇の即位年707年は、継体即位年507年、推古即位年593年と結びついています。ところが、なんと元明天皇の崩年721年はあの蘇我氏と結びついていたのです。 . . . 本文を読む

法興という年号は『高市系列』のものではないでしょうか

2008年03月04日 22時37分20秒 | Weblog
この紀年問題に取り組むと、思いのほか、規則正しい組み合わせが登場するにもかかわらず、なぜかまとまりませんので、前に進めません。 どうも全体的に把握できないと理解することはできないのかもしれません。 うまくいかなくても仕方ありません。 (2006年5/8各天皇方の崩年と即位年と19年間の関係や2006年8/8不比等のマジックでも考えました。それからあまり進歩していないようです。) ただ、今回ひとつ . . . 本文を読む
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