コダワリの女のひとりごと

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水攻めの備中高松城で武士の鑑「清水宗治」を思う<前編>★黒田官兵衛ゆかりの地をめぐる旅31

2014-03-04 | 旅 岡山県

官兵衛ゆかりの地めぐりの最終目的地、備中高松城址です。
なんと、関東甲信地方を襲った大雪の日に、水攻めの城の見学となりました。

岡山も山間部は雪が降るので、多少の雪でJRが止まったりはありませんが、岡山も一晩に降った雪がすごかったららしく、お願いしていたボランティアガイドさんには振られてしまいました。(笑)

備中高松城の水攻めは官兵衛が活躍した戦いであり、官兵衛の出世につながった戦。

備中高松城は城址公園となり、城跡は一般家庭のお家も立っていたりしているそうですが、備中高松はJR岡山駅から4駅。
時間にして20分くらいでしょうか。
さらに備中高松城跡公園は、JR備中高松駅からは800Mくらいです。


JR備中高松駅を降り、右手へ曲がり踏み切りからまた右手に折れると、「史蹟ふなはしにたどり着きます。




高松城のあった辺りは昔は海だったそうで、地形的に池のような場所に作ったお城だったそうです。

この舟橋ですが、城への行き来は人がギリギリすれ違うことができるほどの細い道があったそうですが、開戦直前に濠にしたそうで、行き来するときは舟を並べて橋にしたそうで、橋の名前の由来になっています。


舟橋を超えてさらに歩くと


備中高松城跡公園の駐車場があり、中国自然歩道案内がありました。

レンタサイクルもあるので、レンタサイクルなら軽々回れるのかな?と思ったけれど、JRの駅と駅は4キロ以上あるそうで、さらに、その奥まで続くので、やはり、レンタカーで回る方がおすすめのようです。

山陰・山陽には古戦場がいくつもありますが、いつか、レンタカーでいろんな古戦場を回ってみたいです。


駐車場のそばに可愛らしい「高松城址公園資料館」があります。

この日、ボランディアガイドさんをお願いしていたのですが、岡山地方も雪でガイドさんは無理かな??とは思い、予定より早く到着、早めに一人で観光しようと思ってい訪問。
雪景色が好きな私には、備中高松城の雪攻めはある意味歓迎。


水攻め音頭


自分で歩いてみようと思っていたので、資料館が開館する30分前に到着。

史蹟には青いのぼりが立っているので、目印となり観光しやすくなっていますし、事前に資料をお送りいただいていたので、自力で観光できると判断していたのです。
のぼりのある辺もすべて、水没した場所。


資料館の方も早めに到着、時間前にオープンしてくださいました。
ガイドさんは凝れないのでと、予想していたお答えでした。(苦笑)

資料館の方が代わりに丁寧に水攻めの経緯や、清水宗治についてや、備中高松城跡について説明してくださいました。

資料館には、清水宗治の像がありました。

秀吉が備中高松城を攻めているときに、信長は本能寺の変で自刃。
秀吉は、すでに信長が死んだことを知っていたわけですが、毛利側に絶大な武将としての能力と忠義をかわれていた、清水宗治の首が何がなんでも欲しかったようです。

清水宗治も信長が死んだことを知っていれば、また状況は変わったような気がします。
本能寺の変は秀吉の策略だったという説もありますし。


私はこの模型の水攻めで、深く水没した辺りを歩いてみることにしました。


もともと、池ような沼地の中にあったお城なので、水に弱く、台風で水攻めのような状況になったこともある地域だそうです。

城の形式は梯郭式平城で、石垣は築かれず土塁によって築城され、城の周囲は沼地の低湿地帯のため、天然の堀を形成していたそうです。

織田信長の命令で秀吉は中国攻め任され、4月、高松城攻めにかかりました。
高松城の周囲は沼地に囲まれ難攻不落を誇っていたため、攻城戦は持久戦となったそうです。

軍師・官兵衛の策により城を堰堤で囲むという、土木工事が開始し、低湿地にあった高松城を水没させたのが、世に言う「高松城水攻め」。
人夫に礼をはずみ、突貫工事で11日後に堤防が完成、梅雨時で堰堤内には水が溢れ城は見事に水没。

城主の清水宗治は切腹し落城。


清水宗治の辞世の歌碑
浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して



清水宗治は水上に舟を漕ぎ出し、切腹の前に舞を舞ったのち、潔く腹を切り、介錯人に首を刎ねられたそうです。
宗治の作法は見事であるとして、それを見た武士達の賞賛を受けたそうです。

秀吉は、本能寺の変の信長の敵討ちのため、一刻も早く京へと戻りたいがために、水攻めで落城を急いだそうですが、秀吉は「名将・清水宗治の最期を見届けるまでは」と、陣から一歩も動かなかったといわれ、また、後に小早川隆景に会った秀吉は「宗治は武士の鑑であった」と絶賛したそうです。


宗治以前にも捕えれらた武将は、首をはねられることはありましたが、切腹というのはなかったそうです。
清水宗治の切腹から武士にとって切腹は名誉ある死という認識が広まり、また刑罰としても切腹を命じる習慣が広まったのだそうです。

清水宗治のような立派な武将も、自刃するしかなかったのかと思うと、なんともやるせないです。


首なき胴体のみが、宗治がのった舟にのったまま、本丸に戻ってきたそうです。
介錯した家臣は自分の手で宗治の首をはねたことを悔やみ、その家臣も自刃したのだそうです。


公園内の宗治蓮 

首塚と胴塚は離れた場所にあり、さらに自刃の場所も離れています。
清水宗治の首塚


取城の吉川経家、備中高松城の清水宗治、どちらも文武に長けた名将でした
だからこそ、秀吉も首が欲しかったのでしょう。





■高松城址公園資料館
〒701-1335 岡山市北区高松558-2
電話(FAX) 086-287-5554
開館時間:午前10時~午後3時 休館日:月曜日、年末年始
入館料:無料
※高松城址公園は、常時無料開放。
ボランティアガイドの方がいらっしゃいます。(事前に予約、問い合わせ必須。)


高松城の本丸跡や、首塚、胴塚の後は、水没した辺りを散策してみました。
備中高松城、後編につづく。

水攻めの備中高松城で清水宗治を思う<後編>★黒田官兵衛ゆかりの地をめぐる旅32

 

姫路、岡山、鳥取城下町推進協議会 / 黒田官兵衛ゆかりの城をめぐる山陰・山陽の旅
まとめの目次


 

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