「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

日出神社&上郷まつり 弐

2007-06-18 15:37:40 | 郷土芸能
 昨日に続き、お祭り。日出神社に向かうと神社境内が車で混みあうので、臨時バスに乗り換えて神社へ。境内には既に奉納を終わった婦人会の手踊りの方々が終わって、森の下さんさが踊られていた。



以前遠野TVで見た時には、昔は若かったご婦人方が踊っていたものだったが、今回は小学生以上の若手中心の構成。

  ●森の下さんさ踊り●(遠野教育事務所編遠野郷の郷土芸能より)
 大正時代から昭和初期にかけて上郷町森の下に居住した紫波町長岡出身の藤原米太郎が、若者達にさんさ踊りの手ほどきをしたことが始まりだという。踊り手は花で飾った編み笠をかぶる。笛太鼓と踊りが完全に分離されていて、動きが大振りなのが特徴。また、私見として、太鼓や笛がしし踊りの道具を共有したものとなっており、盛岡周辺の現在のさんさと違い、音程が低い。これも味なのかもしれない。



 次に平野原田植え踊り。そばにいた年配の方の話を聞いていると「ひなのはら」と言っていた。現在は「ひらのはら」と一般的には呼ばれるが、確かに「上郷聞書」には、かつて「ひなのはら」と呼ばれていたことが記されていた。そのとおりだったことが確認できた気がした。これも漢字にした時点で当初の呼び名が変わったいい例である。



 平野原は上郷の中でも、世帯数が少なく平倉地域に囲まれたかつての平野原村。江戸時代には村として成立している。この地域は個人的な思い入れがあり、高校時代の同級生やその奥さん、そして子供たちが総参加で継承している。この祭り情報を得るきっかけとなった友人の工務店専務もちょっと前まで平野原の住人だった。
 
  ●平野原田植え踊り●(出展同じ)
 弘化年間(1844~48)頃、仙台黒川から兄弟が来て、兄は中澤(青笹町)、弟は平野原で田植え踊りを教えたという。世話人、太夫、笛吹、中太鼓、唐団扇持ち、子踊りで編成され、50人以上になる。と、かつての隆盛の様子がわかる記述となっているが、現在は、その半分ぐらい。
 
 ○この時代の出来事○
 ・天保 4年1832)~大飢饉
 ・天保13年(1842)~小友の能伝坊に「神教院能伝房神阿闍梨法師」の銘がある碑が建立された
 ・天宝14年(1843)~高室村出身の四戸長作が来内川に堤防築く
 ・弘化 3年(1846)~板沢しし踊りが南部公御屋敷で踊る。九曜星紋にて
           長野しし「獅子踊供養塔」建立
 ・弘化 4年(1847)~三閉伊農民一揆遠野に強訴する(12000人)
 ・嘉永 6年(1853)~ペリー、浦賀に来航。三閉伊農民一揆伊達領に越訴する
 
 この頃は、飢饉により困窮状態の生活が続いている時期で、南部領のみならず、伊達領でも同様であった。田植え踊りを伝えた兄弟も、故郷を離れ、新しい生活の場を遠野に求めてきた人であろう。江戸時代末期の荒んだ時代に土淵のしし踊りも達曾部の湯屋神楽も伝承されたということからも飢饉によって移動した人々が新天地でかつて習い覚えた芸能を復活させたことを意味するのかもしれない。

 小規模ながらも継承しようと努力されている郷土芸能にこそ、拍手を送りたい。