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水攻めされた高松城

2022-03-19 | Weblog

待っとるで!と小学生の手描きポスター見せられたら、おじさん行っちゃう備中高松城……家柄よりも能力主義の織田信長に嘱望されたハゲネズミこと秀吉が毛利攻めを命じられ、手をこまねいたところで黒田官兵衛の提言により水攻めした城。

水攻めされるだけのことはある低湿地……そういえば黒田官兵衛、信長の命を受けて味方に抱き込もうとした中国地方の武将に捕獲され1年ほど投獄された場所も低湿地だった。それで頭が禿げて脚が不自由になった。中国は低湿地が多いのか。

水攻めされた高松城主、清水宗浩……だれ? 毛利攻めといっても毛利の本体じゃなくて、下っ端ごときに手こずって水攻めの奇策を用いて兵糧攻めしてる最中、あろうことか主君の信長が本能寺の変で死去したと知らせが来たからサァ大変! 清水宗浩の首を急いで取って、秀吉は「中国大返し」から「山崎の合戦」で明智光秀を討ち、天下人になる転機をつかむ。

その「中国大返し」だけど、小学校の歴史の時間に先生の話を聞くともなく聞いていたときは日本海側だと思っていた。山間の城を急流でも堰き止めて水攻めしてた秀吉が急報に触れて中国山地を越えて天王山に駆けつけたものとイメージして、それからずっと日本海側だと思っていたのに来てみたら太平洋側(岡山)じゃないか。

岡山なら京都からの伝令だって速やかに駆けつけるし、清水宗浩とやらの首を取った秀吉が大急ぎで引き返せば光秀を討ち取ることも可能だろう。「中国大返し」なんて大袈裟な呼び方、きっと秀吉の法螺話が史実の皮をかぶったに違いない。そんな岡山の高松城址公園にある土蔵の資料館(無料)に立ち寄る。

水攻めの詳細をスタッフ(83)が解説してくれる。この土蔵、1億を超える予算がついて近代的な資料館に改築されることになり、今年8月に工事が始まって来年3月リニューアルオープン予定だという。今度ここに来ることがあれば装いも新たな資料館になっていることだろう。果たして来る機会あるだろうか。

このへんは元から低湿地なので、水攻めなどしなくても水害に遭いやすい。その証拠に昭和60年(1985年)にも一夜にして水浸しになってしまった。蛙ケ鼻のほうなど毎年のように国道が冠水して通行止めになる。おそらく土地勘のある黒田官兵衛は、そういった事情を知っていて水攻めの奇策を秀吉に進言したのだろう。

土木工事の仕切りが得意な秀吉は蛙ケ鼻(手前)から取水口(奥の川沿い)まで約3kmに及ぶ堤(赤っぽい線)を12日間で完成させ、梅雨で増水した足守川が氾濫して高松城をたちまち孤立させた。6月2日に信長が死んだと伝令に聞いた秀吉は大いに泣き崩れたが、官兵衛がそそのかし秀吉に天下取りの野望を抱かせた。

毛利側の軍師である安国寺恵瓊を招き、清水宗治とやらに「今日中に和を結べば毛利の領土には手を出さない。城主・宗治の首だけで城兵の命は助ける」と伝えさせた。おかしな条件なのだが、宗治(写真の像)は「主家の安泰と部下5千の命が助かるなら明日6月4日に切腹する」と条件を飲んだ。

何枚も上手の秀吉に転がされた凡将としか思えないが、400年以上経っても地元の小学生は「みんなの命を守ったヒーローなのです」って清水宗治とかいうのを激賞してやまない。もしくは先生にそう書けと指導されて素直にそんなものかと従っている。なあにかまうもんか、そのうちわかるだろう。

資料館があるのは高松城の二の丸の端っこ。見ての通り周囲は田畑か平家の民家で、城の建物や石垣といった当時を偲ぶよすがは残っていない。立て看板にさえ「詳細は不明である」と明記してある。資料館のおじいさん(83)が案内してくれなかったら何もわからない。おじいさんは引退を考えているそうだから、次にここに来る機会があったとしても、資料館はリニューアルされているとして案内はきっと望めない。

本丸と二の丸の間には沼があったという記録があるので、昭和57年(1982年)に岡山市が歴史公園造成計画で沼の復元を試みた。すると土中の蓮が息を吹き返し、植えてもいないのに400年前と同様みごとな蓮の花を咲かせるようになったという。

さて、五千の城兵の命と引き換えに自刃した宗治の首塚が本丸跡にあり、いまでも毎年、清水家の末裔が集まって追悼の祭礼を催したり会食を行ったりする。首塚の頂には五輪塔があったけれども、なぜかギャンブル運がつくというので石を持ち去る族が後を絶たず、あのような間に合せの石を積み上げる仕儀になっている。

明治になるまで首塚はあの山の中腹、黒田官兵衛が陣取ったあたりに秀吉が首実験後に築かせつつ「中国大返し」したそうだけど、それを高松城址の本丸に末裔が移してきたらしい。だから本丸の首塚の土中には、ちゃんと壺に入った宗治の骨や歯や刃物が埋まっている。

そして、首が戻って来ないものだから胴塚を遺臣たちが少し離れた場所に作った。これも心ない人たちが少しずつ削り取ってギャンブル運を高めようと試みるため、だんだん貧相になっているとか。

それを悲しんでかどうか、最近になって末裔の有志が清水宗治とやらの自刃の地に、ちゃんとした五輪塔を建てた。その石には清水方と豊臣方の双方の兵士を悼む文言が刻まれている。しかし自刃の地はここではない。

清水宗治が自刃した場所は、三の丸のはずれにあたる2本の電柱(トランスつき)のそばだった。以前そこに記念物があったが、どういうわけか撤去されてしまったので現在はもう詳しい場所がわからない。

現在ある「自刃の地」の五輪塔の近くには「こうやぶ遺跡」なるものが佇み、あそこで宗治を敬愛する家臣が数多く互いを刺して殉死したそうだ。触るとお腹が痛くなるので地元の人は誰も触らないが、歴史に興味を持つミーハーが訪ねてきては触るのでお腹が痛くなるとか。(触りにくいよう囲ってあるのに触る人は触る)

水攻めのために築いた堤は明治になっても残っていたが、その土台を利用して鉄道が敷設されるころ切り崩されてしまった。しかし現在も、蛙が鼻と呼ばれる場所にだけ堤がちょっと残っている。わずかに残った堤を見に行く。

ちょっとわかりにくいけど、これが水攻めに使われた堤らしい。鉄道のコースを外れていても、周辺の土地を水没させないための盛り土にしたり、自動車の道路を通すために切り崩されたりして、幅も高さも削られている。秀吉が築いた当時は、高さ8m、上部の幅12m、底部の幅24mあったらしい。そんなものを約3kmも、たった12日間で……。

手前の芝生が底部の幅24mに当たり、奥の囲んだ部分が上部の幅12m、高さ8mだった部分がせっせと削られた残り。この芝生のエリアの左にある低地が水浸しになった側で、遠くに列車が走っていく様子をときどき眺めることもできる。そこが堤だった場所だと思ってイメージふくらませる。

堤に下には俵に土を詰めて埋めた工事の跡や、俵に混入していた人骨などがある。人の骨はわざわざ埋めたわけではなくて、墓地の土を俵に詰めて堤を築く基礎にしたことから骨が紛れ込んだのだろうと目されている。

高松城の清水宗治を攻める秀吉の軍勢は約3万人だった。約3万人で約3kmの堤を築くということは、1km当たり1万人、100mあたり千人、10mあたり百人、1mあたり十人だから1人あたり10cmという計算になる。それなら12日間で堤を作らせることができなくもないような気がしてくる。競わせて褒章を与えれば何とかなるのかも。

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