電脳筆写『 心超臨界 』

歴史とは過去の出来事に対して
人々が合意すると決めた解釈のことである
( ナポレオン・ボナパルト )

進歩を競い合うことが人間の幸せには結びつかない――山口昌男

2024-11-04 | 08-経済・企業・リーダーシップ
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


5月から日経新聞の連載「やさしい経済学」を山口昌男教授が担当されています。タイトルにある通り「遊びと文化と経済」の対比のなかで経済を論じようというものです。特に生活や仕事のなかで遊びをどのように位置づけるのかに興味を惹かれます。

きょうの内容は、プロテスタンティズムによる競争志向が経済の発展におおいに貢献したものの、進歩を競い合うことが人間の幸せには結びつかないという欠陥が顕在化し始めているというものです。

松下幸之助さんは、戦後の混沌とした世の中をなんとか根本的に直したいとして、PHP(Peace and Happiness through Prosperity =繁栄によって平和と幸福を)という研究を立ち上げました。その後の日本は、PHPの理念通り高度経済成長期を通じ物質的な繁栄を築くことになります。

では、平和と幸福はどうなっているでしょうか。イラク戦争のおかげでテロは日常化し、ストレス社会は、人の命の重みを全く無視した異常犯罪を生み続けています。物質的な繁栄は、平和と幸福をむしろ遠ざける方向に働く結果となりました。

経営資源のことをよく「ヒト、モノ、カネ」と言い表します。このときのヒトは、物質としてのヒトです。しかし、物質の繁栄を求めて競い合うことが平和と幸福に結びつかないことを知った今、経営資源は、「ヒト、モノ、カネ、ココロ」に訂正することが求められているように思います。ココロは徳と置き換えてもいいです。このココロの部分を制度的に縛ろうという現実的な動きがCSRでもあります。

CSR関連ブログ: 労働法からみたCSR ~ある裁判の和解のプロセスに潜むもの~


◆進歩を競い合うことが人間の幸せには結びつかない

「遊びと文化と経済――[4] 苦痛・遊びと幸福」やさしい経済学――21世紀と資本主義
東京外国語大学名誉教授 山口昌男
( 2005.05.18 日経新聞(朝刊))

マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかで「勤勉」「節約」を実践し、富を蓄積することを祝福するプロテスタンティズムが浸透することで近代の資本主義が形成されたとする。近代資本主義の中核にあるこの考え方を基に豊かな社会がつくりあげられた。日々勤勉に勤め、今日は昨日より、明日は今日より豊かな生活を手に入れること、そのために科学技術を発展進歩させること、そうしたことを通して人間は幸せになれること、このような「物語」を近代の人々は共有してきた。そして、市場経済と呼ばれる近代資本主義のシステムを大きく育てあげてきた。

しかし、このシステムは現在大きな曲がり角に来ていることはさまざまなカタチで指摘されている。環境問題一つとっても、従来のように便利さや機能性、効率性を追求していくことの限界がはっきりしてきたし、何よりも進歩を競い合うことが人間の幸せには結びつかないことにみなが気づいてきた。競争志向のシステムそのものの欠陥が指摘されているわけである。

この競争志向は砂漠のような過酷な自然環境から生まれた宗教やイデオロギーの特徴である。希少な資源をどう配分するかという経済学の基本的問題意識や、「戦争」「軍事」をモデルに「戦略」を立てて競争相手をつぶし、シェアを高める経営学における思考法などはその典型だろう。

一方。文化人類学が対象としてきた「未開」と呼ばれる社会は、これまでの「進歩」史観のなかでは、貧しく未発達の社会だと思われがちだったが、実際には豊かな社会で、1日働けばあと1週間は寝て暮らせるといった例が多く報告されている。そうした社会では労働そのものも「苦痛」ではなく「遊び」のように考えられる傾向がある。

そして重要なのは、苦痛の労働を通じ生まれる利便性や機能性という価値よりも、遊びとしての労働から生まれる快楽性や文化的な価値のほうを人々は高く評価し始めたということだ。そのために従来の資本主義の「核」にあった価値観の見直しも始まった。

例えば中国などでも老荘思想や儒教を核にした資本主義(市場経済)は可能か、といった研究が行なわれているという。プロテスタンティズムの精神から形成される資本主義と、老荘思想をコアにもつ資本主義では、環境問題やビジネスの提供する価値についてどのような違いが生じるのか、考えてみるのも面白い。
コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「悪意なき欺瞞」――「ホモ・... | トップ | 病も心の投影である――稲盛和夫 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
マジャヨ、そのとおりです (papichan2222)
2005-05-19 11:38:32
papichanもヒト、モノ、カネという言葉が嫌いです。特にカタカナで書いてあるのを見ると、暗い気持ちになります。まるで生物学的人間が、というかエコノミックアニマルという種族みたいな感じがしてきます。カネもゼニというイメージに結びついてしまいます。
返信する
CSRって (shun@娑婆に出る)
2005-06-14 19:58:44
なんだか、一過性なんじゃないかとCSRを不安視しています。

最近はレピュテイションといった、また違った考え方も登場しているようですが・・・

私は個人的には、CSRを語る前にコンプライアンスとディスクロージャーを徹底してくれと企業に注文付けたいです(笑
返信する

08-経済・企業・リーダーシップ」カテゴリの最新記事