新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

半年前の信州旅行記(その36)茅野編 6

2016-03-19 22:40:00 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「半年前の信州旅行記(その35)茅野編 5」のつづきです。

「神長官 守矢」について、「その36」では、現地の説明板から

守矢家の祖先は諏訪大明神建御名方命入諏以前からの土着の神といわれ、古代以降上社大祝(おおほうり)を補佐し、上社五官の筆頭として代々祈祷と政務事務を掌握してきた家柄である。

そして、東京国立近代美術館の説明板から、

長野県茅野市にある神長官守矢史料館は、諏訪大社の筆頭神官である守矢家の歴史的資料を展示する施設。

と微妙に違う説明を引用しました。
方や「補佐」と書き、方や「筆頭神官」と書いています。

どういうこと?

茅野市神長官守矢史料館のリーフレットの表紙から転記しますと、

神長官守矢家は、古代から明治時代の初めまで、諏訪上社の神長官という役職を勤めてきた家である。大祝(おおほうり)諏方(すわ)氏は、現人神(あらひとがみ)(生き神)であり実際に神事を取り仕切っていたのは、神長官をはじめとする五官祝(ごかんのうほうり)である。五官祝には、祢宜太夫(ねぎだゆう)守屋氏・権祝(ごんのうほうり)矢島氏・擬祝(ぎぼうり)伊藤氏・副祝(そえのほうり)長坂氏がいた。

ということで、諏訪大社上社では、最上部別格(現人神)大祝(おおほうり)がいて、実務(神事)は、神長官トップとする五官祝(ごかんのうほうり)が担っていた、ということらしい。

ちなみに、諏訪大社下社の方は、Wikipediaによれば、

大祝==武居祝(たけいほうり)=禰宜太夫=権祝=擬祝=副祝

という「職制」だったようですが、上社のように世襲だったのかは不明です。

   

さて、「鎌倉時代より守矢家で伝えてきた守矢文書を保管・公開する史料館」だという茅野市神長官守矢史料館に入館します。

と、、、、なんじゃこりゃぁ

壁面に、動物が…

こちらなんか、TVで見る富豪の館の飾り(いわゆるハンティング・トロフィー)みたいだし、

串刺しのウナギならまだしも、串刺しのウサギってのは…

この展示は、公式サイトによると、

諏訪神社上社において、御柱祭と並んで重要な祭礼である「御頭祭」復元展示を行っています。「御頭祭」は旧暦3月の酉の日に行われていたので、別名「酉の祭り」ともいわれています。現在の御頭祭は4月15日に、上社前宮(茅野市)で行われている祭礼で、中世においては信濃各地の豪族に当番が割り当てられて執行されていました。

だそうです。「御頭祭(おんとうさい)について、さらにリーフレットから引用しますと、

神事は、諏訪上社前宮十間廊で行われ、十間廊に鹿の首70頭余りを供えた神事であった。現在は、剥製の鹿の首3頭で神事を行っている。

とのこと。(下の写真は「御頭祭」が行われる諏訪大社上社前宮十間廊)

「その32」で、諏訪大社上社本宮大欅「贄掛けの欅」と呼ばれることについて、

「贄(にえ)」って、「生け贄(いけにえ)「贄」ですよ。なんとも、神社とは縁遠いことばが登場しました

と書きましたが、またもや生々しいものが登場しました

私、神様への供物といえば、とかご飯とかといった鉱物・植物由来のモノがほとんどで、動物性のモノではのし鮑くらいのものだと思っていましたが、これほどまでに動物性というか狩猟系血の臭いがするようなお供物があるとは知りませんでした。

諏訪大社は、伊勢神宮をヒエラルキーのトップにいだく「神道」とは別の系統の、いわば土着の信仰にしているのだろうなと思いました。

ところで、、この「御頭祭」の展示は、史料館内の説明書きによりますと、

諏訪大社の祭祀の中心をなすのが 前宮で行われる御頭祭(現・酉の祭)で 春先神社前に75頭の鹿を始め魚・鳥・獣の肉を山のように盛り上げ 酒を献じ かがり火に照らされながら神と人が一体となって饗宴を催うした
この展示は 江戸時代中期の様子の一部で天明4年(1784)3月6日に御頭祭を見聞した菅江真澄のスケッチをもとに復原した

とあります。

ここに「菅江真澄」という人物が登場します。

この菅江さん、全国的にはあまり知られた人ではありませんが、秋田県人たる私にとっては耳に馴染んだお名前です。

手許にある図説 秋田県の歴史によれば、

秋田の生まれではないが半生を秋田で過ごし、秋田でその生涯を終えた菅江真澄(1754-1829)は秋田の文化を高めたひとりであった。
真澄は30歳前後に三河国を出て旅を続けるが、信濃国から越後・出羽国と海岸を北上し、本荘から出羽山地を越え湯沢に入り、天明5年(1785)5月、湯沢を出発、山本郡から津軽へ、そして青森から大館に南下、南部藩鹿角を通り仙台伊達藩で逗留した。天明8年に仙台から北上し、青森から北海道松前藩へと旅をつづけるが、寛政13年(1801)、津軽の深浦から秋田に入り、藩内をめぐり、やがて秋田藩に腰をおちつけることになる。

だそうで、私としては、「え ここで菅江真澄といった感じでした。

秋田の文化を高めた」だけでなく、江戸時代末期の秋田の風俗を文書やスケッチで残してくださった菅江真澄、この「御頭祭」のスケッチもまた、貴重な史料を残してくださったのだと、深く感謝申し上げる次第です。

つづき:2016/03/20 半年前の信州旅行記(その37)茅野編 7

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