新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #4-1

2022-05-28 21:52:32 | 旅行記

「1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #3-5」のつづきは、今回の北海道旅行最終日(4月19日(火))のお話です。

この日の行程は、「ダイジェスト」でも書きましたが、

ホテル⇒徒歩札幌駅特急 北斗白老駅⇒徒歩ウポポイ⇒徒歩白老駅特急 すずらん南千歳駅エアポート快速新千歳空港飛行機羽田空港京急品川駅上野東京ライン赤羽駅埼京線最寄り駅⇒徒歩本宅

というもので、要は、ウポポイの再訪がメインでした。
初のウポポイ訪問となった1年半前は、こちらで書いたように、ウポポイの中にある国立アイヌ民族博物館(以下、「博物館」と略します) の予約を忘れていて、気がつくと、この日に空きはありませんでした

ウポポイ日時指定入場券は確保していたというのにこの失態
ちなみに、博物館入館料は、他のほとんどのアトラクションと同様に、始めからウポポイの入場料に含まれていて、予約さえ取っていれば、そのまま観られたのですが…

そんな痛恨の体験をしている私ですから、今回は、まず博物館の予約をして、それからJRのチケット予約しました。

その結果、私が組んだこの日の行程は下記のとおりでございまして、

 09:38 札幌駅発 (特急 北斗8号)
 10:43 白老駅着
 12:00 ウポポイ 博物館
 14:20 白老駅発 (特急 すずらん7号)
 14:53 南千歳駅着
 14:58 南千歳駅発 (エアポート快速14号)
 15:01 新千歳空港着
 16:00 新千歳空港発  以下略

というもの。
行き当たりばったり緻密さ混在するのが私の旅行の流儀でございます

   

最近では稀なほど前置き長くなりました、ホテルで早々に朝食を摂ってチェックアウトし、札幌駅へと歩きました。

札幌駅のホームは、相変わらず薄暗い
でも、ディーゼル車最盛期の頃に比べれば、臭くはありません (かつては、列車が発車すると、黒煙臭いがプラットフォーム全体に充満していました)
そして、この懐かしい眺めが残っているのが良い

最近は見なくなった乗車口を示す金属製の「カンバン」です。
今では、吊り下げ式のLED表示器や、ホームへのペインティングが主流になっていますものねぇ~

そして、汚れまくりエアポート快速とは裏腹

ピッカピカ特急北斗の乗って、札幌とお別れしました。

と、まだまだ序盤ではありますが、かつ、短編ではありますが、かなり酔っ払ってしまいましたので、きょうはここまで

つづき:2022/06/07 1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #4-2 

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1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #3-5

2022-05-26 21:25:01 | MISIA/旅行記

「1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #3-4」のつづきです。

三吉神社にお参りしたあと、そのまま市電通りを東へ進み、駅前通りに出ると右折して、すすきの交差点を目指しました。
でも、昼食にはまだ早いだろうということで、狸小路ドトールでひと休み

すぐ隣のブロックではビル建て替え工事真っ最中でした。
ここに限らず、札幌の中心部ではあちこちでビルの建て替え工事が行われていて、札幌は景気が良いのかな? と思ったりして…

しばしアイスラテ & 加熱式タバコでくつろぐうちに13:00を過ぎ、いよいよ昼食タイムです。
さて、何を食べましょうか??

半年前札幌遠征(記事)2日目の昼食は、狸小路ジンギスカンを食べましたが(この北海道の形をしたも良かった)

今回はどうしよう…
振り返ると、私は、オフ会やホテルの朝食を除くと、北海道では、ほぼラーメン、寿司、ジンギスカンどれかばかりを食べています (前夜も寿司だった)
守備範囲を広げなくてはなぁ~と思いつつも、せっかくの札幌ですので、ラーメンを食べることにして、ドトールを出ました。

そして、すすきの交差点

私が初めて北海道の地を踏んだのは、中学校の修学旅行のときで、2回目大学生のときでした。
その2回の北海道を経験して私にすりこまれたのは、「北海道の米は美味しくない」ということ。
米どころの秋田で生まれ育ち、これまた米どころの宮城で暮らした私にとって、当時の北海道の米はちょっと受け入れがたくて、大学生のときは、米はほとんど食べず、炭水化物ラーメンで摂っていました。
実は、就職して首都圏にやって来たら、会社の食堂も、米が美味しくなく、それまでの「食事の一口目はご飯という習慣を変えるほどだったのですが…

ところが時代が変わり、現在では、北海道の米ブランド米化して、高評価を得るようになりました。
北海道当局や、農家の方々が懸命にがんばった成果だと思いつつも、温暖化もその後押しをしたのかな? とも考えたりして

さて、今回は、新ラーメン横丁味一番つばさ味噌チャーシュー麺をいただきました。

美味かったです
ただ、が、私以外には一人しかいなかった
平日だと、13:00過ぎはこんなものなのでしょうか??

昼食を終えると、「MISIA星空のライヴ」1st Stage開場まで1時間あるタイミングだったので、ひとまずホテルに戻り、撮った写真の整理かたがた、しばし御休息をとりました。

   

ここからは、「MISIA星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSE札幌公演 2 Stagesのお話。

ホテルからライヴ会場の札幌文化芸術劇場 hitaru までは徒歩10分くらいの距離なので、開場時刻を過ぎてから出撃しました。

会場までエスカレーターを上がって行くと、チケットの半券に名前と電話番号の記入を求めるアナウンスが響いていて、そのアナウンスをよくよく聞くとなんか変

誰かが「それじゃ逆と指摘したのか、本人が気づいたのか、担当者が変わったのか判りませんが、2nd Stageのときには、

でございました
「対策」を「防止」してはいけません

で、1st Stageの幕が開くと、、、、あれぇっ 

2日前旭川公演とバンドメンバーに入れ替わりがあったぁ~
まさか、中1日でバンドメンバーの交代があるとは…
しかも、行き来の楽じゃ無い北海道

現場で会ったミー友さんによると、帯広⇒旭川と出演されていたこのメンバーさんは、札幌公演の日は、別のライヴにご出演される予定があったのだとか。
なるほどぉ~ なんですが、私、個人的には、この日のメンバーさんの方が好みです

さて、札幌公演 2 Stagesは、どちらも、「MISIA星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSE」史上最高だったと感じるような、素晴らしいライヴで、本当にツアーファイナルなのではなかろうか と思えるものでした
とりわけ「聴きどころ」だと思ったのは、札幌育ちあの方と、千歳出身あの方との「北海道ダービー・バトルでした。
MISIA煽る煽る

こういうことがあるものだから、できる限り、あちこちでのライヴに行きたくなるんですよねぇ~

   

ライヴ終了後、ミー友さんたちと、行き当たりばったりの居酒屋オフ会を楽しみました。
「行き当たりばったり」とは言え、ちょっと席が狭かったとは言え、楽しかったし、ホッケ大きかったし、

どれも美味しかったし、そして、安かったしで、いやぁ~、良いひとときでした

かくして、北海道旅行 3日目は、幸福感つつみ込まれるように、暮れたのでありました。

つづき:2022/05/28 1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #4-1 

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1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #3-4

2022-05-20 17:52:55 | 旅行記

「1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #3-3」のつづきです。

大通公園の散策を終えた私は、すすきの辺りで昼食を摂ろうと、こんなルートを辿って移動しました。

大通公園から南に2ブロック歩いた南1条西13丁目の交差点に目を惹くビルがありました。

なんとなくいわくありげな風情ながら、このときは写真を撮るだけにとどめたのですが、さっき調べたら、このビル、三誠ビル(旧藪商事会社ビル)は、

市内に現存する鉄筋コンクリート造の事務所ビルでは最も古く、レンガ造や軟石造から鉄筋コンクリート造へ移行する時代の貴重なビルです。建物全体はシンプルなデザインながらも、正面3階窓のアーチ飾りや重厚感ある玄関などに、正面から見た姿を意識した細やかなデザインが見られます。

だそうです
上の説明文を引用した札幌市のサイトによると、このビルの竣工は大正13(1924)年だそうですから、この前に見物した旧札幌控訴院庁舎より2年古い。つまり、ほぼ同時期の建築です。
そういえば、旧札幌控訴院の建物は、

壁体を石と煉瓦の組積造とする一方、二階床は鉄筋コンクリート造とし、新旧の構造技術を織り交ぜる。

というものでした。
ちょうどこの時期、関東大震災(1923年)で、レンガ造り耐震性の弱さが露呈したのでしたっけ…

古い鉄筋コンクリート造りの建物で思い出すのはこちら、

端島(軍艦島)にある「30号棟」で、1916(大正5)年に完成した日本で最初の鉄筋コンクリート造りの集合住宅(社宅)です。
ちなみに、こちらのサイトによると、日本で鉄筋コンクリートが使われ始めたのは明治の初めのことで、全体が鉄筋コンクリート造として日本最初の建物は、1911年竣工の三井物産横浜ビル(現・KN日本大通ビル)らしい。
関東大震災をもくぐり抜けたこの建物は現存しているそうですから、いつか観に行かねば

   

さて、「南1西13」交差点市電通りを渡り、通りの南側の歩道を進んでいきますと、道の反対側に行列のできた中国料理屋さんがありました。

このとき、写真のタイムスタンプによれば12:12で、まさに、腹を空かせた会社員がドッとオフィスから街に繰り出す時間とはいえ、スーツ姿の大勢の人たちが小さな店の入口に群れています。
調べると、ここはザンギの名店」として札幌市民に愛されているらしい「布袋 本店」でした。

この行列を見て、昼食にはまだ早い と歩を進めると、これまた道の反対側に気になるものを見つけました。

懸社 三吉神社」という標柱の立つ神社です。
「三吉神社」とは、秋田市で生まれ育った私にとっては馴染みのある神社と同じ名前。
由緒書が見えますが、通りをはさんで読み取るのは無理です。
ちょうどうまい具合に、クルマの通りが途切れましたので、横断歩道がないにもかかわらず、道路を走って横断し、神社側のサイドに渡りました。
そして、由緒書を見ると、、

由緒 霊峰秋田太平山ノ山頂二祀ル太平山三吉神社ノ御分霊ヲ明治11年豊平川東詰ニ奉斎シ翌年現地ニ遷座ス
大正14年氏神トシテ幣帛共進指定セラル

あれまぁ~
ご本家秋田太平山三吉神社でした

もそっと詳しい由緒書がありましたので、こちらも転記します。

明治11年5月秋田県人木村藤吉、秋田の国太平山鎮座三吉神社の御分霊を豊平川東詰に奉斎、8日を祭日として武田萬水に託し鎮座祭を執行するが、「地所火除地に接近するを以て除宮すべし殊に廣く参詣人を許さず」との御達しがあり、翌明治12年4月鹿島通121番地(現中央区南1条西8丁目)に遷座す。
武田萬水高齢により札幌神社(現北海道神宮)禰宜若林嘉倫に依頼し、毎月8日に小祭を執行することとし、5月8日を例祭日とする。しかしこの日は雨が多いため、先々代宮司佐藤桂、大正13年例祭日を5月15日に変更する。

「5月8日は雨が多いので、例祭日を5月15日に変更」と、意味がよく判りませんが、三吉神社御神紋は、

三吉神社の御神紋

「三ツ吉紋」で、太平山三吉神社と同じでした。
そして、社殿も、

ご本家の太平山三吉神社里宮と似た雰囲気です(ご本家の方がかなり大きい)

但し、太平山三吉神社里宮現社殿1977年の竣工で、それ以前は神社のHPに載っている写真を見ると、現在のような大きな破風は無く「切妻造・平入」のシンプルな流造だったようです。
ちなみに札幌の三吉神社の社殿も1977年の改築だそうですから、意匠を示し合わせていたのでしょうねぇ

実は私、太平山の山頂にある奥宮には、学校行事の太平登山の際にお参りしたことがありましたが、里宮には一度もお参りしたことがなく、この記事を書くにあたって、きょう、初めて里宮にお参りしてきました

社殿が立派なだけでなく、太平山はきれいに見えるし、

由緒その他デジタルサイネージで見られるようになっているしで、

さすがは秋田市内で最もメジャーな神社だと思いました。

ところで、この二つの神社の御祭神を比べてみましょう。
まず、札幌の三吉神社は、

大巳貴神、少彦名神、藤原三吉神、金刀比羅宮、天満宮

そして、太平山三吉神社は、

大己貴大神、少彦名大神、三吉霊神

です。
このうち、藤原三吉神(ふじわらのみよしのかみ)と三吉霊神(みよしのおおかみ)とは、太平山三吉神社のHPの記述、

太平の城主藤原鶴寿丸三吉は郷人の面倒を良くみた名君であったが、他の豪族にねたまれ追い出されたため、世を捨てて太平山に篭り、太平山の神様即ち大己貴大神、少彦名神様を深く信仰し、修行せられて力を身につけ神様として祀られた郷土の神である。

からして、同一の神様だと考えられます。

ひとつ、調べても判らなくて、なんとも歯がゆいことがあります。
それは、三吉神社の鳥居の手前に建てられた2基の石柱です。

並べてみると、こうなります。

篆書体らしき文字で、右が「天左が「地かと思うのですが、素養が無くて読めませぬ

もしかして右が「天長」左が「地久」で、合わせて「天長地久」とか??

御存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひご教示くださいませ。

つづき:2022/05/26 1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #3-5 

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1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #3-3

2022-05-19 18:50:04 | 旅行記

「1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #3-2」のつづきは、大通公園の西のはずれ、西13丁目のお話です。

西13丁目魅力的な建物があることを私が知ったのは、2011年4月16日、ホテルから「THE TOUR OF MISIA JAPAN SOULQUEST」の会場のニトリ文化ホール(さっぽろ芸術文化の館)に向かう途中でした。

かなり興味をそそられたものの、優先するべきはMISIAのライヴでしたので、そのまま大通公園を突っ切って、ニトリ文化ホールに直行しました。(記事)

ニトリ文化ホール2018年9月閉館して、現在は更地になってしまったようですな。

それはともかく、そのとき以来、11年ぶりに見る札幌市資料館(旧札幌控訴院)の建物でしたが、この日は月曜日で、札幌市資料館休館
これは想定内でしたので、落ち込むことなく、外観のみ、たっぷりと見物してきました。

説明書きによれば、この建物は、1年ちょっと前の2020年12月23日重要文化財に指定されたのだそうで、

 区分:重要文化財 (建造物)
 名称・員数:旧札幌控訴院庁舎1棟 附(つけたり) 門2か所
旧札幌控訴院庁舎は、札幌市街の中心部、大通公園の西端に面し、現在は札幌市資料館として公開されている。
大正15年の建設で、札幌の近代を代表する建材である札幌軟石の建物として現存最大級で、多彩な石加工技術を見ることができる。
意匠は、ルネサンス様式を基調とするが、セセッションなどの近代芸術運動の影響も見られる。
壁体を石と煉瓦の組積造とする一方、二階床は鉄筋コンクリート造とし、新旧の構造技術を織り交ぜる。
旧札幌控訴院庁舎は、司法省の盛期の設計を伝えるとともに、意匠と構造の両面で建築の近代化が進展した時代を具体に示しており、高い価値を有している。

だそうです。
軟石を使った建物は、小樽とか北海道開拓の村でもよく見かけますな。

で、「附(つけたり)」がこちら。

近づいて玄関(車寄せ)を拝見。

「札幌控訴院」というフォントがレトロモダンでおしゃれです
そして、その上にあるのは、目隠しした女性の顔のレリーフ。

剣と天秤を持つ正義の女神の姿は、司法、裁判の公正さを表す象徴、シンボルとして、古来より裁判所や法律事務所など、司法関係機関に飾る彫刻や塑像、絵画の題材として扱われてきた。現在は目隠しをした像が主流であるが、目隠しがないものも多い。(Wikipedia)

ということは私も知っておりまして、目隠しした顔だけじゃ「正義の女神(テミス)」成り立たない と思ったら、左右に天秤のレリーフがありました
でも、が無い と探したら、

天秤の支柱でした

ところで、「控訴院」というのは、現在の「高等裁判所」に相当する裁判所です。
「控訴院」を調べてみると、なかなか興味深いことが判りました。

1875年に「控訴院」の前身の「上等裁判所」が置かれたのは、東京・大阪・長崎・福島4か所で、福島はさっさと仙台に移転
1881年「控訴裁判所」に改称されて、函館に新設。
1882年広島と名古屋に新設。
1886年「控訴院」に改称。
1921年函館から札幌に移転
1945年高松新設されるも、さっさと廃止長崎から福岡に移転
1947年「高等裁判所」に改組。高松が復活。

福島⇒仙台3か月高松の新設⇒廃止半年と、わずかな期間で移転や廃止があったのにはどんな事情があったのでしょうか? いくらなんでも朝令暮改過ぎやしませんか?
それと、九州 陸軍は熊本司法は長崎が中心で、福岡が中心になったのはそんな昔のことではないんですな。まぁ、地理的にはそうかもしれないと思ったりして…

話を札幌市資料館(旧札幌控訴院)に戻しまして、この日は休館日で中を見ることはできませんでしたが、また機会があったら、是非参観したい と思ったら、気になる掲示を見つけました。

この「お知らせ」によると、

札幌市資料館リノベーション事業に係る改修工事につきましては、事業スケジュールの遅延が生じておりますことから、2023 (令和5) 年度までは現状どおり施設利用が可能となります。

と、2024年度以降長期休館が見込まれるらしい。
これは頭の中に in put しておかねば です。

というところで、1時間強を要して、今回の大通公園の散策終了です。

時刻は正午を回り、昼食どきを迎えました。
でも、平日ですから、ちょうど、働く人々のライチタイムでもあります。
昼食ラッシュを避けるべく、のんびりとすすきの辺りまで歩きましょうか、ということで、私は歩き続けたのでありました。

つづき:2022/05/10 1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #3-4 

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1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #3-2

2022-05-18 20:07:39 | 旅行記

「1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #3-1」のつづきです。

札幌・大通公園の散策も半ばを過ぎ、西10丁目までやって来ると、いかにも「偉人」っぽい銅像が1対見えてきました。
これは誰の像でしょうか?

近づいて台座を見ると、向かって右が黒田清隆

そして、左がホーレス・ケプロンの像でした。

せっかくですので、台座の裏にある銘板を転記します。
まず黒田清隆については、

黒田清隆は鹿児島県の人。明治3年開拓次官、のちに開拓長官に任ぜられ、北海道開拓の大任にあたった。清隆はその性、明察果断にして、開拓の知識を先進国に学ぶ必要性を痛感し、自ら海外におもぬき知見を広めるとともに、ホーレス・ケプロンをはじめ、多数の外国人技師を招き、その進言を入れ、着々開拓の巨歩を進めた北海道開発の基礎は、まさに清隆の卓見により確立したというべく、その偉業まことに偉大である。
ここに北海道百年を迎えるにあたり、その偉業を回顧し、功績を永く後代に伝えるため、この像を建立する。
昭和42年10月
北海道開拓功労者顕彰像建立期成会
会長 廣瀬経一

で、ケプロンについては、

ホーレス・ケプロンは、アメリカ合衆国の人。明治4年農務長官の要職を辞して開拓使教師頭取兼顧問となり、北海道開拓の大業に参画した。すなわち、多くの外国人技師を指揮して本道の実情をきわめ、卓越した識見と豊かな経験に基づいて、北海道開拓の基本方策を進言し、開拓長官をたすけてその実現に努めた。その偉業まことに偉大である。
以下同文

だそうです。
なお、「北海道開拓功労者顕彰像建立期成会」が建てた銅像は、この2基のほか、もう2基あって、初代北海道庁長官の岩村通俊像と第2代北海道庁長官・初代第七師団師団長の永山武四郎像が、それぞれ円山公園と旭川の常盤公園にあるのだとか。

   

片側3車線の広い車道(R230)を横断すると西11丁目

左の「マイバウム」は以前からありましたが、五輪マーク(オリンピック・シンボル)は初めて見ました
いかにも新しく昨夏東京2020のマラソンと競歩札幌で開催されたからなのかな? と思ったのですが、違っていました。
傍らにある札幌市の説明板によれば、

1972年2月に開催された第11回オリンピック冬季大会(札幌オリンピック)から50年の節目を記念し設置しました。
大通公園は札幌オリンピックの聖火集火・歓迎式を実施した会場であり、オリンピックとゆかりのある場所です。
このオリンピック・シンボルを恒久的に設置できるのは、オリンピックを開催した都市のみです。

だそうです
新しそうだと思ったら、設置されてから2か月ちょっとしか経っていない。

そうかそうか…
それにしても、「このオリンピック・シンボルを恒久的に設置できるのは、オリンピックを開催した都市のみです」なんて「縛り」があるとは知りませんでした。

なお、このモニュメントを裏から見ても、当然ながら、左:青⇒:右の順番になっています。

一方の「マイバウム」、見るのは2011年4月以来(旅行記) 11年ぶりですが、鮮やかな色が、そのときと変わりません

実は、「ドイツ語で『5月の木』を意味し春を迎える喜びを象徴しています」というこのマイバウム(Maibaum)1976年に姉妹都市のミュンヘン市から寄贈を受けた後、
 1982年:改修
 1992年:塗装改修
 2000年:老朽化により装飾一部撤去
 2001年:復元
 2010年:塗装改修
 2020年:大規模塗装修繕
と、ほぼ10年毎塗装・修繕を繰り返してきたのだそうな。
手間も金もかかる…
本場のドイツでは、毎年立て替えるところもあれば、数年に一度新調するところもあるのだとか。
札幌のマイバウムは、こちらの資料によれば、エゾマツで作られた初代の支柱が、1981年8月の台風15暴風で折れてしまい、翌年、鉄製の支柱に変えて復元したのだそうな。
実は、この台風通過後まもなく、私は札幌に旅行していまして、中島公園で撮ったとされる写真が残っていました。

   

西12丁目バラが有名らしいサンクガーデン

でも、大通公園には残雪があるような季節ですから、

しか見られませんでした。
その代わり、というか、旧札幌控訴院(札幌市資料館)を背景にポーズをとる女性の像

これはどう見ても佐藤忠良 と思ったら、正解でした
「若い女の像」と、そのまんまのタイトルのこの作品、説明板を転記します。

ジーンズを身に着けた若い女性の像です。札幌控訴院であった札幌市資料館を背景にバラの咲くサンクガーデンで、環境と調和しています。佐藤忠良は像を設置する場所として、ここを選び、『札幌で育てられた私が、こんな良い所に作品を置かせてもらえ、大変嬉しい』と語りました。1984年に東洋東南アジアライオンズフォーラムが札幌で開催されたことを記念して同組織委員会が建立しました。

この説明板、読点の置き場所が良くない
それはともかく、佐藤忠良さんは宮城県出身だということは知っていましたが(宮城県美術館佐藤忠良記念館のコレクションが好き)、父上を亡くされた6歳から上京する20歳まで、北海道(夕張・札幌)で暮らしていらっしゃったんですねぇ

というところで「#3-3」につづきます。
外観のみをしげしげと鑑賞した札幌市資料館(旧札幌控訴院)のことを書き始めたら終わらなくなりそうなので…

つづき:2022/05/19 1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #3-3 

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1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #3-1

2022-05-15 21:19:25 | 旅行記

「1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #2-7」のつづきです。
ようやく3日目の旅行記突入

この日のメインタスクは、札幌文化芸術劇場 hitaruでの「MISIA星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSE2公演でした。
ずっと基本的に1日2公演開催されている今回の「MISIA星空のライヴ」、私はずっと1日1公演に絞って観戦(?)してきました。1月中旬の京都公演例外的1st & 2nd2公演に参加しましたが、これは、「今年最初の生MISIAと京都遠征ダイジェスト #1」で書いたように、日程変更のアヤで、私が意図したものではありませんでした。
それが、札幌公演に限って 2公演に参加しようと考えたのは、この札幌公演がツアーファイナルになる可能性があったからでした。
結局、延期になった高知&高松公演の代替開催とか、静岡と前橋の追加とか、東京でのバースデイ & イヴ公演の追加とか、長崎・稲佐山での野外公演が追加され、札幌公演はツアー・スケジュールの中に埋もれてしまったのですけど…

   

さて、15:30開演の1st Stageまでどうやって過ごすかが、旅行3日目の課題でした。
そして思いついたのは、「ダイジェスト #3 & #4」で書いたように、大通公園散策
何年も前の夏に、大通公園でのビアガーデンで一杯やったことはありましたが、のんびりと歩き回ったことはありませんでした。

あいにくの小雨模様の中、駅前通りから大通公園内を西に向かって歩きました。

で、まず目に止まったのは、西5丁目の中央に立つオベリスク風の記念碑でした。

「聖恩無彊」と彫られていて、東側の台座には、舞楽の蘭陵王の面(東儀秀樹さんのブログが面白い)とおぼしきレリーフがあります。

これは何の記念碑なんでしょ? 「聖恩」とあるからには、皇室絡みなのだろうと推測できますが、説明板は無いし、西側にある碑文は、字が小さいし、近寄れないので読めませんでした。

そこで、撮ってきた写真を拡大すると、、読めました

漢数字をアラビア数字に、カタカナをひらがなに変え、句点・句読点を加えて、転記すると、冒頭は、

昭和11年秋天皇陛下、北海道に行幸し陸軍特別大演習を統監し給ふや 10月1日より9日に至る迄を本市に駐め、其の間各所に親臨し、又、勅使を差遣し、以て愛民撫下の仁恵を垂れさせ給へり。20萬市民此の盛事に際会し、欣躍抃舞感激の情、今に至て猶ほ新なるものあり。

と、#2-6でさんざん調べて書いた1936年の昭和天皇の行幸のことが書かれています
碑文はこのあと、明治天皇・大正天皇・昭和天皇からの「恩榮」を並べた上で、こう〆ています。

昭和11年行幸記念事業の一として碑を建て紀すに、三朝の恩榮を以てす。凡そ其の下を過ぎ、其の事を徴する者誰か聖恩の疆り無きに感じ、肅然として尊皇愛國の念を振起せざらん。閑院宮載仁親王、特に題字を賜ふ。感載に勝へず、予、謹で其の梗概を敍し、碑陰に書すること此の如し。
昭和13年11月 札幌市長 従四位勲四等 三澤寛一 謹撰

これを転記&読んで、大いなる疑問が湧き上がりました。

碑文の「聖恩のり無き」は、「聖恩には限りが無い」ということで、意味は通じます。

一方、碑に刻まれている「聖恩無彊」は、新字体では「聖恩無強」で、意味が通じません。「聖恩無比」ならともかく、「聖恩無強」とはどういうこと?
もしかして、「疆」「彊」を取り違えてしまったのでしょうか
見た目、とても似ているとはいっても、意味は違うし、碑文ではしっかりと「疆」を使っているし… でございます。

もちろん、この碑を見た当日は、こんなことはまったく気づかず、何の疑問もなくさらに西に歩を進めたのはいうまでもございません

   

西5丁目から西6丁目へと渡る横断歩道から、北海道庁旧庁舎(赤れんが庁舎)横顔が見えました。

西6丁目で見た記念碑は、「ダイジェスト」でも紹介したこちら。

書聖王羲之の筆蹟からサンプリングしたという「開拓紀年碑」です。

こちらは「聖恩無彊」碑と違い、説明板がありました。

この説明板には書かれていませんが、これが王羲之の筆蹟(拓本)からのサンプリングであることが判明したのは21世紀に入ってからのようで、それまでは、黒田清隆の書とも、榎本武揚の書の可能性も指摘されていたらしい。
この記事を書くにあたって調べていたところ、札幌市文化資料室発行「文化資料室ニュース (2007年2月)」に、王羲之の書と判明した経緯が書かれているのを知りました

カギとなったのは明治19年9月8日「時事新報」だそうで、そこには北海道開拓使の官僚だった奥並継さんが、王羲之の「淳化秘閣帖黄庭経」と「曹娥碑」から文字をサンプリングして、400倍の大きさにしたと書かれている由。
そこで、公開されている「黄庭経」「曹娥碑」「開拓紀年碑」とを筆跡鑑定したところ、

独特の隷書(細楷)の書体が合致する。これで奥並継の拓字が確認できた。

とな

こんな劇的な展開がありながら、説明板には、経緯を省いて、事実だけを淡々と記す札幌市粋(いき) です

ところで、「開拓紀年碑」を回り込んでみますと、

右側面に「朙治19年9月建之」とあるだけです。

ん? 「明治」ではなく「朙治」です

またややこしい漢字が出てきた という感じですが、「朙」は、「明」旧字で、この「開拓紀年碑」に限らず、あちこちで使われているようです。

それにしても、撰文」のない記念碑(紀年碑)とは、珍しいのではなかろうか?
これは、「文化資料室ニュース」にあった、

開拓紀念碑は、開拓使が廃止され、函館・札幌・根室県の三県分治に移行した明治15年の10月、設置が発起され、建設費用4000を目標に募金が開始した。(中略) だが、思うように募金が集まらなかったためか、建立の実現は4年後となった。

という残念な事情が影響しているのかもしれません

例によって匍匐前進ですみません。
「#3-2」につづきます

つづき:2022/05/18 1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #3-2 

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1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #2-7

2022-05-14 20:17:51 | 旅行記

「1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #2-6」のつづきです。

ひとけの少ない春光園で時間を過ごしたあと、路線バスに乗って、旭川駅前に戻りました。
それにしても、いくらコロナ禍とはいえ、良い天気日曜日だというのに、春光園旭川市彫刻美術館も、人が少なすぎました春光園で遊んでいた家族は2組だったし、旭川市彫刻美術館では、私以外の観客は皆無
実は、旭川市COVID-19の新規感染者数は、私が滞在した日(4月16-17日)以降、それまでの倍に急増しました。


(旭川市の公式サイトより)

とりあえず、「私のせいじゃないと主張させていただきます

   

旭川駅に戻ったのは、12:20頃で、次の札幌行きの特急(ライラック24号)までは40分ほど
1年半前と同様、「駅ナカ食堂 なの花」ラーメンを食したあと、お土産売場を眺めているうちに、時間となり、列車に乗り込みました。

1年半前に旭川駅から札幌行きの特急に乗ったとき、私はてっきり列車は南東側に走り出すものだと思っていたところ、座席北西側を向いた状態でホームに停車していたので面食らった記憶があります。

函館本線は、忠別川美瑛川に沿うように北西に進んだあと、石狩川に沿って大きく左にカーブして、そして札幌方面に向かうんですな。

旭川市近郊の地図

さて、走る列車の窓から沿線をぼ~っと眺めていると、ところどころに緑の一団が見えました。
あのきみどり色といい、一団の佇まいといい、あれはふきのとうなんだろな。
それと目についたのは、ところどころに突如出現する巨大雪の塊でした。あれは、市中の除雪後の雪捨て場だったと思われます。さすがの北海道でものために丸1日以上も札幌駅発着の列車がすべて運休するほどの豪雪だったといいますから…

岩見沢駅だったか、隣のホームに激しく汚れまくった列車が停まっていました。使わない編成をホームに留置しているのかな? と思ったら、運転士が乗っていて、あれまぁ、運行しているのかビックリ

汚れまくった列車はこれだけではなく、特急以外の列車は、どれも汚れまくっていました

上の写真は、札幌駅で見かけた快速エアポートですが、まさか窓に磨りガラスを使っているなんてことはないよなぁ
経営が厳しいと伝えられるJR北海道は、洗車する工数とコストを削っているのでしょうけれど、そして、何よりも優先するべきは安全なのは確かですが、旅客サービスという観点からは、いかがなものか と思うのです。

   

かくかくしかじかで、14:30頃札幌駅に到着しました。

持ってくるのを忘れたUSB充電器を、駅前のビックカメラポイント交換したあと、地下道を歩いてホテルへ。
そして当初予定どおり、15:00チェックインしました。

ダブルルームのシングルユースで、良い部屋

このホテルは、ずいぶん前に札幌出張の際に使って以降、お気に入りだったのですが、インバウンドが盛んになったら、お高くなってしまい、しばらく泊まれなくなっていました。
それが、ホテルにはお気の毒ですが、コロナ禍のせいで、私にも泊まれるレベルのお値段に下り1年半前に引き続いての利用です。

窓からの眺めは、、、

北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)です

このホテルはいわゆる「シティホテル」で、使われているフォントレトロでまたイイ

客室内の置き時計も、これと似たフォントの文字盤のものにするなんて、凝っております

唯一の不満というか、不便なのは、ビジネスホテルではほぼ常識となっている製氷機無く「アイスキューブ」ルームサービスで届けてもらわなくてはならないこと。
もちろん無料ですが、私のような小市民にとっては、ちぃと気が引けます
自宅でも遠征先のホテルでも、ほぼ毎日アイスコーヒーを淹れて飲んでいる私、2泊3日の滞在中、2日目の朝だけ1回、ルームサービスを利用しました。

   

ホテルで一息入れたあと、夕食がてら、夕暮れのに繰り出しました

が、しかし、旭川⇒札幌列車内で、柿ピー & 缶ビールを楽しんでしまったことが効いて、さほど腹が減っていない
幼少のみぎり、夕方に好物の柿の種を食べ過ぎて、夕食への食欲を取り戻せないということを何度も繰り返した私、成長していない

ススキノ辺りまで歩いても、って、すぐ近くですから、お腹は空かない

かといって、食事をしないと、空腹で目が覚めるという最悪のシナリオがちらつきます。

そこで思いついたのが、コンビニ弁当、、、、ではなく、「回転しない寿司屋」から寿司をテイクアウトして、ホテルの自室でほどよいタイミングで食する、という作戦でした。

スマホでテイクアウトできる寿司屋さんを見つけて、その店に突撃 して、寿司折を作ってもらいました。当然ながら、なかなかお値段 でも、それなりのお味

でもでも、わたし的には、のり巻き「のり」は、巻き立てのパリッとしたのがお好みです

かくして、ホテルの自室で寿司折&ビールを嗜んで、北海道旅行2日目を終えたのでした。

つづき:2022/05/15 1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #3-1 

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1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #2-6

2022-05-13 15:53:43 | 旅行記

「1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #2-5」のつづきも、中原悌二郎記念 旭川市彫刻美術館 (旧旭川偕行社)の建物のお話、「#2-5」思わせぶりに終わった2題について書きます。

まずは、旭川市彫刻美術館に向き合うように春光園の案内図にあった「偕行社周辺配置図(昭和11年)」のオリジナルが「旭川行在所配置圖」というタイトルだったことについて。

「行在所(あんざいしょ)」というのは、「天皇が外出したときの仮の御所」を意味するわけで、昭和11年昭和天皇が旭川偕行社に宿泊されたということが察せられます。
その辺りのことは、旭川市彫刻美術館旧旭川偕行社資料室の説明パネルに書かれていました。

旭川偕行社は将校たちの社交場、迎賓館を目的に建設され、軍関係者による会議や研修会、講演会、宴会、結婚披露宴、宿泊などの用途に利用されました。
特に、宿泊施設として多くの著名人が利用しています。明治44(1911)年に東宮嘉仁親王(後の大正天皇)が、大正11(1922)年には摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が、それぞれ北海道行啓の際に行在所として旭川偕行社に宿泊しています。また、昭和11(1936)年の陸軍特別大演習の折には昭和天皇が2度目の宿泊をしています。その他、大正3(1914)年には当時の医務総監であった森鴎外が陸軍付属病院の視察のために来旭し、やはり旭川偕行社を宿泊所としています。

だそうです。
この「陸軍特別大演習」は、旭川で行われたのか? と調べてみると、意外や意外、北海道大学総合博物館こちらの資料によれば、

(1936年) 10月2日から5日まで札幌近郊石狩平野想定戦場とし、悪天候の中、展開された北軍(旭川第七師団)と南軍(弘前第八師団)の遭遇戦を統監した大元帥の本陣に設定されたのが、北大構内の農学部新校舎だったのである。「大本営」門標はこの期間に掲げられ、演習終了と共に大元帥から天皇に戻った10月6日以後に「行在所」門標に掛け替えられた。

とあります。
さらに調べると(こちらのサイトを参照しました)、昭和天皇9月26日軍艦「比叡」室蘭に入港した後、御召列車旭川に直行して14:19に到着。その日は、第七師団と旭川師範学校を訪問して旭川偕行社に一泊。翌朝 8:00には旭川偕行社を出発して 8:18発の御召列車旭川をあとにした、ということが判りました。
なかなかハードですが、当時の昭和天皇は35歳ですから、へっちゃらだったのでしょう。
ちなみに、北海道行幸の最終日は、10月9日で、札幌から小樽に向かい、小樽高等商業学校(現小樽商大)北海製缶などを訪問した後、13:18小樽港「比叡」に乗船され、帰京されたそうな。

   

ここでちょっと寄り道

旭川市彫刻美術館の説明パネル「旭川偕行社の創設と役割」で、

大正3(1914)年には当時の医務総監であった森鴎外が陸軍付属病院の視察のために来旭し、やはり旭川偕行社を宿泊所としています。

とありましたが、ちょっと違う
1914年当時の森鴎外(森林太郎)は、階級軍医総監(中将相当)で、役職が陸軍軍医のトップ、陸軍省医務局長だったはずです。
さらに寄り道すると、森鴎外は1916年に実質的に陸軍を退職(予備役編入)していまして、現代ならば、関連する団体や企業に天下りするところなのでしょうが、鴎外は、1918年に帝室博物館総長 兼 図書頭に就任しています。

現在の肩書きでいえば、東京国立博物館館長 兼 宮内庁書陵部といったところですが、当時の帝室博物館総長は、

主事の特別補佐のもと、各帝室博物館の統督として東京帝室博物館'に勅任の総長が置かれ、総長が上野公園や動物園の総管理者を兼務した。京都帝室博物館・奈良帝室博物館については、館務責任者として館長各1名が任じられた。(Wikipedia)

と、担当業務がめちゃくちゃ広い っつうか、上野恩賜公園ドンと言って良いかもしれません。

   

話を「旧旭川偕行社」に戻しまして、昭和初期の旭川偕行社の2階ベランダが、現在の旭川市彫刻美術館(旧旭川偕行社)と違って、ガラス窓で覆われていた話」です。

このガラス窓について、現地では気づきませんでしたが、撮ってきた写真を見ていたら、説明パネルに書かれていました

明治35(1902)年の落成以降、大きな回収が何度か施されており、その度に少しずつ姿を変えていますが、現在の姿は基本的に建築当初の形に復元されたものとなっています。
最初の改修は明治44(1911)年の東宮の来旭に合わせて行われており、バルコニーに続く2階の外廊下に窓が設けられました
2度目の改修大正11(1922)年の摂政宮の来旭前か、昭和11(1936)年の陸軍特別大演習に係る昭和天皇の来旭の前か、いずれかの時期と考えられます。この改修では、半円形のバルコニーがなくなり、トタン屋根に替えられています
戦後になって荒れ果てた建物は、昭和43(1968)年に復元改修を行い、バルコニーと2階廊下が建築当初の姿に戻されています。また、荒廃の著しかった瓦屋根を鉄板葺きに改めています

つまり、外廊下=ベランダは、竣工から10年も経たずガラス窓で覆われてしまったわけです。
やはり旭川には、コロニアル風のベランダやバルコニー、そして瓦屋根合わないということだったのでしょう。

でも、復元改修された「建築当初の姿」は、降雪期使い勝手の悪さを無視すれば、とてもとてもステキではあります。

こうして約1時間にわたって、たっぷりと旭川市彫刻美術館(旧旭川偕行社)展示と建物満喫した私は、バス旭川駅前に戻ることにしました。

ところが、バス停で時刻表を見ると、次のバスまで20分あります。
なんとも中途半端
事前に帰りのバスにメドをつけておけば良かった…
20分では、旭川市彫刻美術館の隣りにある「井上靖記念館」を見物するにはビミョー過ぎます
実は、私、文学館への興味が薄くて、井上靖記念館には行く気がありませんでした
そして、井上靖旭川とはどんな縁があるのだろうか?? と考えていたのですが、実は、そのイメージはありませんが、旭川の生まれなんですな。
でも、伊豆出身の両親の下、1907年軍医だった父の赴任先である旭川で生まれたものの、翌年には父の韓国(当時は日本の保護国)への転勤に伴って、母の郷里である伊豆に転居した、といいますから、井上さん自身にとっての旭川出生地であるけれど出身地ではないという認識だったのですねぇ。

結局、春光園内をブラブラ歩き回りながら、時間をつぶし、ほぼ定刻にやってきた路線バスに乗って、旭川駅前へ戻ったのでした。

なお、春光園内にはトイレがあるのですが、この日は「冬期間 閉鎖ということで使えませんでした4月も中旬だったというのにね。

ここで一句、

春光園 名ばかりなりき 春は来ず

お粗末さまでした

つづき:2022/05/14 1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #2-7 

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「MISIA CANDLE NIGHT 2022」を振り返る

2022-05-12 15:14:19 | MISIA

4月30日、5月1, 3, 4日河口湖ステラシアターで開催された「MISIA CANDLE NIGHT 2022 PEACE OF MIND」を振り返ります。

5月4日のライヴ終了後、東名うんざりする渋滞を走り抜け、日が変わってまもなく自宅に帰着した私、早々にこのライヴのことを書くつもりだったのですが、5日渡辺裕之さんの訃報を耳にして愕然とし、6日夜にはMISIAのオールナイトニッポンGOLDMISIAのコメントを聞いてますます「心の平和=Peace of Mind」乱されて、8日には帰省ドライブの準備&早寝して、9日には2時半起き約600kmのロングドライブして…、と、なかなか落ち着いて振り返りを書き始めることができませんでした。

でもようやくその気になりましたので、ボチボチと…。
初日のことをチラリと書いたこちらの記事もご参照くださいませ。

   

私が参加したのは初日と、3日目 & 最終日3公演でした。

開催中の「MISIA星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSEの間を縫うように開催された今回の「MISIA CANDLE NIGHT」「星空のライヴ」の札幌公演から2週間も空けずというスケジュールでしたから、「星空のライヴ」がベースになっているのだろうなと思っていたところ、4名のゲストが登場したことを別とすれば、バンド&コーラスは、「星空のライヴ」のメンバーからホーン隊とkbが1人が抜けてストリングスが加わるという微少な変更にとどまっていました。

でも、セットリストは、久しぶりに聴く曲や、ライヴ初披露の曲、さらには初めて耳にする新曲、そして「MISIA CANDLE NIGHT」ではお約束の曲と、「MISIA CANLDE NIGHT 2022」ならではのものだったと思います。

「MISIA CANDLE NIGHT 2022」のセットリスト

とりわけ、当代一流のギタリスト、村治佳織さんと沖仁さんが加わっての「ドラマ(アニメ)主題歌 4曲」が良かったぁ~。
河口湖ステラシアターという会場にもピッタリギターの響きでした
「恋は終わらないずっと」は、ドラマ「はつ恋」のエンドロール(田貫湖からの富士山の眺め)を思い出しました。

オリジナルではMISIAコーラスで参加した矢野顕子さんの「音楽はおくりもの」は、はるばるニューヨークから清水ミチコさんに「降りてきた」矢野顕子さんとのデュエット
そういえば、2016年春日大社での「世界遺産劇場 Misia Candle Nightの時にも(記事)、ミチコさんに「降りてきた」ユーミン「雨の街を」をデュエットしてましたっけ… 

初披露された新曲「希望のうた」は、矢野顕子さんがMISIAのために書き下ろした曲だそうで、「音楽はおくりもの」となった曲提供なのでしょう。
でも、「音楽はおくりもの」矢野さんとMISIAの共演は、矢野さんがこの曲を書き上げたところ、矢野顕子史上最ムズの曲で、「MISIAが歌ってくれないかな?」Tweetしたことがきっかけだったはずなのに、この「希望のうた」は、歌うとなったら「音楽はおくりもの」より格段に難しそうで、矢野さんはMISIAへの提供を前提に作った曲なのかなと思いました。

それにしても、「歌を歌おう」(さだまさし)「Higher Love」(藤井風)、そしてこの「希望のうた」(矢野顕子)と、才能にあふれたシンガーソングライターから素晴らしい曲を続けざまに提供されるMISIAシンガーソングライターの感性を刺激するシンガーだということなんだろな…

もう一人のゲスト、加藤登紀子さんは、2月24日以降の「MISIA星空のライヴ」で、MISIA登紀子さんの訳詞「花はどこへ行った」を歌い続けていることから必然的なご登場でした。
登紀子さんがMISIAのライヴに出演されるのは、2019年7月の「Misia Candle Night Reiwa」最終日 @いわき市三崎公園野外音楽堂 以来のこと(記事)
このときは「時には昔の話を」1曲だけデュエットしましたが、今回は、「百万本のバラ」(feat. 村治佳織 or 沖仁)「花はどこへ行った」2曲でした。
「百万本のバラ」は、MISIA星空のラジオ」のスタジオライヴで、真琴つばささんとのデュエットを聴いたことがありましたが、MISIAライヴで歌ったのはこれが初めてだと思います。
登紀子さんの歌声はかなり低いのですが、MISIAも負けず劣らず低い声を出せるんですな

   

最終日の5月4日のライヴは、WOWOW生中継されて、私も予約録画しました。そして、さっそく5日に録画を視て反芻したあと、BDにダビングして、別邸に持って帰り、そして、再度鑑賞いたしました。
別邸の大スクリーンでみると、私の姿もしっかりと確認できました
マスクをしていたからすぐ判る
この日の私の座席は、1階席の最も下手(しもて)側の最前列でして、この日、物理的にステージに一番近い席でした(アリーナ席は前方の数列が撤去されてカメラエリアになっていた)。1歩前に踏み出せばステージの端っこに触れられるほど っつうか、終演後にタッチしてきました

録画を視ると、ところどころ、カメラがステージ上の動きに反応しきれていないところが散見されました。←生中継ならでは
当日は10台以上のカメラが入っていましたので、それぞれのテイクを再編集して、BD / DVD化されることを願っております。

ところで、3公演目が行われた5月3日に、俳優の渡辺裕之さんが亡くなられたことが、5月5日に発表されました。
今回のライヴには、「星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSEと同様、渡辺さんのお嬢さん渡辺磨裕美さんがコーラスで出演されていましたが、MISIAが語ったところによると、磨裕美さんを含めて、ライヴ出演者には渡辺さんの訃報は伏せられていたとか。
おそらく、お母様の原日出子さんほかご家族の意向でこういう対応にしたのだろうなと想像しています。

実は、5月3日のライヴでは、冒頭の数曲の間、いつもはニコニコ磨裕美さん表情が固くどうしたんだろうと思っていたのですが、渡辺裕之さんの件とは関係なさそうです。

渡辺裕之さんのご冥福をお祈りすると共に、磨裕美さんが5月31日の「星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSE高知公演から、元気にステージに立たれることを願っています。

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1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #2-5

2022-05-02 22:38:09 | 旅行記

「1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #2-4」のつづき、というか番外編です。

旭川駅前から旭川市彫刻美術館最寄りの春光園前に向かうバスは、ほぼ長方形の陸上自衛隊旭川駐屯地南西側と北西側の2辺を通るのですが、広い
東京と埼玉にまたがる朝霞駐屯地&朝霞訓練場もかなり広いのですが、こちらも広い

旭川市中央部航空写真だとこんな具合。

下端のほぼ中央部に旭川駅があって、その北の長方形部分(ほぼ東西に滑走路がある)旭川駐屯地、その北の角から3ブロックくらい北東にある緑地旭川市彫刻美術館(旧旭川偕行社)の向かいにある春光園です。

日本陸軍の関連施設だった旭川偕行社現旭川駐屯地からちょいと離れてるんだ…と思っていたのですが、旭川のお寺さん・東川寺のHPで見つけた古い地図を見て驚きました

現在の旭川駐屯地は「練兵場」で、第七師団の兵舎を初めとする施設はその北東側北西側に広がっていて、旭川偕行社はほぼ「地続き」だったんですな

現在の旭川の航空写真を、上の古地図に合わせて切り出すとこうなります。

また、古地図にみえる「鉄道」の廃線跡も航空写真でとらえることができます。

現在の旭川運輸支局の辺りで師団敷地外に出て南西方向に進み、やがて右カーブして、近文駅函館本線に合流するルートです。
旭川運輸支局の向かいにあったらしい貨物駅・旭川大町駅についてのWikipediaの記載によると、

当初この路線は、1899年(明治32年)日本陸軍第7師団兵営地建設と運用のための引込線として建設された。師団専用線、または師団の置かれた鷹栖村から鷹栖専用線と呼ばれたこの引込線は、その後、大正年間から周囲に多くの木工場や道立林業指導所が設置されて、軍用よりもその木材貨物専用線としての性格が既に大きくなっていたが、1950年(昭和25年)になって師団跡地手前までの2.9kmが残されて当駅が新設され、石炭や木材資源等の貨物支線として利用されるようになった。 その後、貨物駅の北旭川駅の整備が進められていること、当駅が主に扱っていた石炭や木材の需要が減少した事等により、昭和53年10月2日の白紙ダイヤ改正の貨物駅集約による削減対象となって廃止された。

だそうです。
師団敷地内から鉄道札幌や小樽へダイレクトに移動できるというのは、この時代の陸軍にとっては重要だったのでしょう。

旭川にとって日本陸軍第七師団の存在はかなり大きかったらしく、そのことは、旭川市の人口推移からうかがえます。(グラフはこちらのサイトから借用)

旭川市の人口は、明治33(1900)年の8,729人からわずか5年後明治38(1905)年には21,959人へと2.5倍急増しています。
第七師団が旭川で師団本部の建設を開始したのが1899年6月で、司令部ほかが新庁舎に移転したのが1901年10月だそうで、異常値のような人口急増は、第七師団札幌から旭川への移転が原因だと考えるのが自然でしょう。

また、この前夜、「MISIA星空のライヴ」後にプチ飲みをした歩行者専用道としてはあまりに道幅が広すぎる『買物公園』は、もとは普通の道路で、公式サイトによると、

駅から旭橋に至るメインストリートは、戦前「師団通」という名称が付けられていました。その後、第二次大戦の敗戦により第七師団は解体、通りの名称・呼称も「平和通」と改められたのです。 (※現在は第七師団解体後、同地に陸上自衛隊北部方面隊第2師団が置かれています)
1960年代以降のいわゆる交通戦争の影響が旭川においても大きく、メインストリートであった平和通においても交通事故が多発しました。 このことから当時の五十嵐広三市長により、歩行者専用道路を旭川においても導入しようと取 組が始まられました。当初は難色を示していた道警との折衝も、数度の試験的な歩行者専用道路の実施を経て、1972年に日本初の恒久的 歩行者専用道路を開設。その際に通りの名称を「平和通買物公園」と改められて、現在に至ります。 

だそうです。

街のメインストリートが「師団通」だというのですから、相当なものです。
その通りの突き当たりが「師団」ならまだしも、「師団」かなり離れているのですから。
旭川の街「第七師団」との関わりの深さが感じられるネーミングだと思います。

   

どうして、この「番外編」を書いたのかといいますと、旭川市彫刻美術館の向かい側にある公園、春光園に立っていた説明板がきっかけです。

この冒頭に書かれている、

春光園は、旧旭川偕行社(現:旭川市彫刻美術館)の前庭として整備されたことが始まりです。春光園の入口が偕行社の正門となっていました。

という事実、そして、「偕行社周辺配置図 (昭和11年)」という平面図では、

春光園旧旭川偕行社だけでなく、現在は井上靖記念館が立っている付近も含めて、このブロック全体旭川偕行社関連施設が建ち並んでいるらしいことが推察されたからでした。

そうであったとすれば、かつての「第七師団」の敷地はどれだけだったのだろうか? と関心を持ったわけです。

ところで、「偕行社周辺配置図(昭和11年)」という資料(防衛省防衛研究所所蔵)のタイトルが、「旭川行在所配置圖」だとお気づきでしょうか?

この話と、「#2-2」で書いた、昭和初期旭川偕行社の2階ベランダが、現在の旭川市彫刻美術館(旧旭川偕行社)と違って、ガラス窓で覆われていた話は、「#2-6」で書きます。

つづき:2022/05/13 1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #2-6 

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