新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

MISIA星空のライヴ絡みのドライブ旅行ダイジェスト #1

2021-04-30 20:55:36 | 旅行記

昨夜4月29日から始まった「MISIA 星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSE」、私は、河口湖ステラシアターでの3公演に、なんとかすべて参戦することになり、きのうから3泊4日ドライブ旅行を決行中です。

昨夜はダイジェストを書くこともなく、ホテルの自室でビールをかっくらって寝てしまいましたので、この「#1」では旅行の初日 & 2日目の分をまとめて書いてしまいます。

   

まずは2日間の旅程

【初日】
自宅高島平ランプ首都高速5号線首都高速中央環状線首都高速3号線東名高速港北PA御殿場ICR138ぐみ沢ICR138 須走道路・御殿場BP須走口南ICR138道の駅 すばしりR138道の駅 富士吉田R138(上宿)R139県道707号富士吉田IC西⇒一般道⇒(河口湖ステラシアター)一般道(富士吉田IC西)県道707号富士急ハイランド駐車場⇒徒歩県道707号(富士吉田IC西)⇒一般道⇒河口湖ステラシアター (MISIA星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSE)⇒徒歩⇒一般道⇒ (富士吉田IC西)県道707号富士急ハイランド駐車場R139県道707号(河口湖大橋)県道707号R137県道21号県道719号(若彦TN)県道719号県道36号県道313号県道22号逢沢R20県道3号⇒ホテル

【2日目】
ホテル県道3号ほか⇒山梨県立美術館(テオ・ヤンセン展, コレクション展)R52(県民文化ホール北)穴切通りやまなみ通りコイン駐車場⇒徒歩舞鶴城公園⇒徒歩(JR甲府駅)藤村記念館(旧睦沢学校校舎)⇒徒歩甲府時の鐘⇒徒歩コイン駐車場紅梅北通り(防災新館前)平和通り(甲府警察署前)R52竜王立体⇒ひたすらR20ホテル

両日とも、とても「順調」とはいえないドライブ旅行になっています。

一番「誤算は、私が河口湖ステラシアターに到着する30分ほど前に、河口湖ステラシアターの専用駐車場満車になってしまい、富士急ハイランドの駐車場使わざるを得なくなったことです。

私の過去の経験から、15時前河口湖ステラシアター到着すれば専用駐車場に駐めることができ、終演後に駐車場からクルマを出すとき、町民グラウンドの臨時駐車場よりもはるかにはるかにスムーズであること、大雨が降ったときは町民グラウンドの臨時駐車場は使えず富士急ハイランドの駐車場を案内されることは頭に入っていました。

ですから、ドシャバシャ降っていた昨日は、ちょいと早めに、14:45頃河口湖ステラシアター到着しました。

河口湖ステラシアターに到着! かと思いきや…

ところが、専用駐車場はその30分ほど前満車

どうして、私のヨミが外れ、こんなに早く満車になってしまったのか、理解できずにいたのですが、河口湖ステラシアターで会ったミー友さんとの会話から、その理由判明しました。
今回のライヴは、過去のMISIAの河口湖ステラシアターでのライヴよりも、開場・開演時刻1時間早い

ひやぁ~~ です

確かにふり返れば、過去のライヴでは、15時頃に到着してから、開場まで2時間はありました

「15時までに河口湖ステラシアターに到着すれば専用駐車場を使える」ではなく「開場の2時間前までに河口湖ステラシアターに到着すれば専用駐車場を使える」が正しいみたいです
きのうも、14:15頃専用駐車場が満車になったということは、この仮説を裏づけてくれます。

敢えて時間調整(暇つぶし)をしてまで15時到着を目指した私の浅はかさ代償は、駐車料金2000円の出費と、往復で1時間弱雨中トボトボ歩きと、グショグショに濡れそぼった靴と靴下でした。

でも一方で、まったく予定が立っていなかったきょう、山梨県立美術館「テオ・ヤンセン展」を観られたことは、かなりの僥倖でありました。

テオ・ヤンセン展

そして、今夜は、宿泊するホテル近くの居酒屋さんで、私の「一人酒」史上 BESTと言ってもよいひとときを得たことは、これまた、かなりの僥倖でありました。

さて、今回の旅行は、あす・あさって後半に入ります。
どんな旅行になるのでしょうか?

良い気持ち酔っ払っている私としては、良い予感しかありませぬ

まったくもって手抜きのダイジェストで失礼いたしました

つづき:2021/05/01 MISIA星空のライヴ絡みのドライブ旅行ダイジェスト #2 
旅行記本編:2021/05/08 2021年春のドライブ旅行記 #1-1 

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今回の帰省をふり返る #4 (完結編)

2021-04-28 18:43:18 | 旅行記/食・レシピ

「今回の帰省をふり返る #3」のつづきです。

千畳敷駅に停車した「リゾートしらかみ 3号」から降りて千畳敷海岸に向かおうとする乗客たちを右手⇒バックミラーで眺めながらR101北上すると、5分もしないうちに、真っ正面に津軽を代表する山で青森県の最高峰、岩木山が見えてきました。

真っ正面に大きな山が見えるってイイものです。

   

千畳敷海岸から20分ほどでナビに目的地として設定した「焼きイカ通り」に到着したのですが、営業しているんだか休業しているんだか判らない店ばかり

むむむむ…

こうなったら、ミーハーと言われようとなんと言われようと、あのイカ焼き屋さんに行ってみようか、ということで、更ににクルマを走らせました。

そして着いたのがこちら。

秋田犬わさおが住んでいた「きくや商店」です。

こちらも一人もおらず、二人のシニア女子が店番しているだけですが、ここまで来たらきくや商店イカ焼きを食べるしかありません

ところが、ここは、予想に反して、既に焼き上げてパックに入れ店頭に並べられたイカ焼きテイクアウトする「仕組み」でした。

シニア女子はぶっきらぼう感じ悪いし、イカ焼きイメージと違うしで、はぁ~ でした。

それでも、せっかくここまで来たのだから、と、秋田犬「ちょめ」ちゃんにご挨拶して、

クルマに戻ろうとすると、

おぉ、岩木山

岩木山の姿を見たことで、ちょっとは元気を取り戻し往路とほぼ同じルートを通って別邸に帰りました。

この日のルートを地図にプロットしますと、

こんな具合。

所要時間は、往路の3時間半に対して、帰路は、秋田道秋田中央ICまで走ったこともあり、3時間弱でした。
秋田中央ICから別邸までは、15分ちょっとしかかからないのです。

そうそう、白神山地の姿は、往路では「#3」で書いた能代市内からしか見えなかったのですが、復路ではよく見えました

帰宅後、きくや商店から買ってきたイカ焼きをレンチンして、ビールと共にいただきました。

買った時は、これで650円高い と思いましたが、この量・質であれば、そして、今月初めに本宅近くのスーパーで買った生の小ぶりスルメイカ500円もしたことを考え合わせれば、CPは十分ある と思いました。

ということで、「3時間でどこまで北に行けるかドライブ」無事に終了したのでありました。

   

「今回の帰省をふり返る」の最後は、友人たちと3人こぢんまり決行した飲み会のほんの備忘録な話。


「おまかせコース」の一品の「かやき」に、初めて食べる食材&料理が入っていました。
なにやらねっとり感のある植物薄い牛肉で巻いたものなんですが、これがかなり旨い

この植物は何かと聞いてみると、「さしぼ」なる山菜だとな。

調べると、この時季にしか食べられない山菜(イタドリ若芽)で、しかも、もっぱら秋田県内でも南西部の由利地方で食されているのだそうな。

Wikipediaによれば、

高知県では「イタズリ」とも称され、皮を剥ぎ、塩もみをして炒め、砂糖、醤油、酒、みりん、ごま油等で味付けし、鰹節を振りかける等の調理法で食べられている。和歌山県では「ゴンパチ」兵庫県南但では「だんじ」とそれぞれ称され、食用にする。新芽を湯がいて冷水に晒し、麺つゆと一味唐辛子の出汁に半日ほど漬け、ジュンサイのようなツルツルとした食感がある。秋田県では「さしぼ」と称され、水煮にして味噌汁の具に使ったりする。岡山県では「さいじんこ」、「しゃじなっぽ」、「しゃっぽん」などとも称される。

とな。いやぁ~知らなかった それにしても「さしぼの牛肉巻き」旨かった

以上で「今回の帰省をふり返る」シリーズ完結です。

明日から「MISIA星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSE」河口湖公演をメインに、3泊4日ドライブ旅行に出かけますので、その前に完結できてよかった、よかった…

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今回の帰省をふり返る #3

2021-04-27 12:38:55 | 旅行記/日記・エッセイ・コラム

「今回の帰省をふり返る #2」のつづきです。

4月22日(木)好天に誘われて、ドライブに出かけました。
どこに行くかは決めず「3時間でどこまで北に行けるか」という初めての試みで、R7から能代市を抜けて津軽地方北上することにして、10時ちょい過ぎに別邸を出発しました。

まずはR13を通って、その終点・臨海十字路からR7に入ります。

つい先日(21/3/31)廃線になり、踏切の線路側に車止めが設置された秋田臨海鉄道の線路を左手に眺めながら進み、ポートタワーセリオン(全国的に有名になったうどんの自動販売機があるところ)が見えてきたところで、渋滞

こんな時間に、こんなところで渋滞するのかよ… とブツブツ言いながら土崎臨海十字路を過ぎると、そこからはスムーズに流れていました。
そして、幼い頃には何度も遊びにきた母の実家付近を通過して、飯島の辺りで「30分経過。ここまで走った距離は13.5kmと、思ったより時間がかかっています。

昭和男鹿半島ICから秋田道に乗り、有料区間の最後・琴丘森岳本線料金所を通過する直前で「60分経過。ここまでの走行距離は44kmでしたから、秋田市を抜けてからは極めて順調です

能代南IC(無料区間なので料金所は無い)秋田道からR7に降り、芝童森交差点で左折してR101に入りました。

能代の市街地に入って、真っ正面に見える山々は本州で唯一世界遺産(世界自然遺産)白神山地

大学生の頃、友人たちと津軽旅行をして、十二湖辺りを観光した記憶はありますが、その頃は白神山地まったく意識しておりませんでしたから、世界遺産たる白神山地を見るのはこれが初めてでした。

ところが、海岸沿いの区間に入ると、まったく景色は見えません

と、急に視界が開けて日本海が見えてきました

なぁ~んというキレイ海の色

うまい具合に駐車場(鹿ノ浦展望所)がありましたので、トイレ休憩かたがたクルマを停め、日本海を眺めました。

景色は良いのですが、強いのなんのって…。下手すると、風の勢いでクルマのドアが閉まって手足を挟まれてしまいそうでした。

鹿ノ浦展望所を後にして、もう青森との県境まですぐ近く「道の駅 はちもり」昼食を摂りました。

八森といえば、秋田民謡「秋田音頭」で、

秋田名物 八森ハタハタ 男鹿で男鹿ブリコ あ~ソレソレ

と歌われているように、ハタハタ名産地で、「道の駅 はちもり」の食堂でもハタハタ系のメニューが並んでいたのですが、私が食べたのは、

生姜焼き定食
八森まで来て生姜焼き定食無いだろ と思いつつも、今はハタハタのシーズンじゃありませんから…
この生姜焼きボリューミーだし、山菜をつかったつけ合わせ豊富で、そんなところにローカル色を感じました。
ボリューミーなのは、駐車場のつくりからして、トラッカーの利用者が多いのだろうなと推察いたします。

食事を終えてクルマに戻り、始動させると、ここまでの走行時間は1時間58分で、走行距離は97.5km

あと1時間どこまで北上できるか、なんですが、鰺ヶ沢まで70km程度の由。
3時間は超えてしまうけれど、鯵ヶ沢まで行って、大好物イカ焼き食べよう と決め、数十年ぶり(大学3年のとき以来)青森県に足を踏み入れました。

   

青森県に入ると日本海が見える区間が多く、正直、秋田県内よりもずっと眺めがイイ

そして、景勝地の千畳敷海岸でクルマを停めて見物しました。

このの岩畳は緑色凝灰岩かな?ブラタモリを気取ったりして (帰宅して調べると正解でした)

で、クルマに戻り、さぁ、鯵ヶ沢イカを食うぞ というところで、リゾートしらかみ がゆっくりと通過していきました。

乗客が車窓から千畳敷海岸をじっくり見られるよう、徐行してるのかな? と思いましたが、この駐車場から100mほど先に「千畳敷駅」があって、乗客が車両から降りて散策できるよう、15分間停車することになっているみたいです。

ちなみに、私が遭遇したのは「リゾートしらかみ 3号」で、秋田駅を出発したのは10:50。こちらは一部だけとはいえ高速道路を使ったのに、電車の方が早いんですな…

さて、この時点で、走行時間ほぼ3時間を経過していましたが、思いつきどおり、鯵ヶ沢まで足を伸ばしてイカ焼きを食べることにして、クルマのナビの目的地を「焼きイカ通り」にセットしました。

こんなところですが、「#4」につづきます。

つづき:2021/04/28 今回の帰省をふり返る #4 (完結編) 

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今回の帰省をふり返る #2

2021-04-26 16:19:47 | 日記・エッセイ・コラム

「今回の帰省をふり返る #1」のつづきは、今回の帰省での4つのタスクのうち、別邸1階南側の網戸の張り替えから。

私、帰省すると別邸の中では、2階の自室中心に時間を過ごしています。そんなわけで、2年前のゴールデンウィークに帰省した際、やってくるに備えて、2階の自室と旧・自室網戸の張り替えを実施しました(記事)
この時点で、1階の南側3部屋(リビング、和室、仏間)の網戸はまだ大丈夫という感じで、リビングの網戸の破れを補修した程度で済ませました。

ところが、今年初めに帰省したときには、和室と仏間の網戸はもう実用に耐えないというか、ズタボロになっていました。
それでも、が積もっていた時には目立たなかったのですが、今回帰ってみると、そのズタボロの網戸が、塀越しに道路から丸見えで、みっともないといったらありゃしない
さらに追い撃ちをかけるように、隣の家にお土産を持って挨拶に行くと、そのスタボロ網戸を「直してあげようか? 網を大量にストックしてあるから」と、声かけされてしまいました。
お申し出は丁重にお断りし、さっそく和室と仏間の網戸 計4枚張り替えに着手することにしました。

まず、網戸の枠サイズを採寸して、必要な網と押さえゴム長さを算出

そして、切りとった押さえゴムの切れ端(太さチェックのため)採寸メモを持ってホームセンターへ行き、網と押さえゴムを買ってきました(押さえローラー専用カッターは持っています)
ここまでの行動は素早かったのですが、実際の作業は、この5日後に行いました 天候が良すぎたり、悪かったり他の用事があったりと、いろいろ事情がありまして…

帰省2週目の月曜日(19日)、まずは和室の網戸から作業を開始しました。
古いゴムを外し、網(だったもの)を外し、使用済の歯ブラシで溝を掃除すると、網戸の枠をベランダに横たえて、網を枠に洗濯ばさみで仮留めして、ゴムをねじ込んで行きました。

やはり洗濯ばさみで網を仮留めするのは、あまり具合がよくありません
枠は結構厚みがあって挟みきれないし、床に置いているものだから、すぐに外れて飛んで行ってしまいます
洗濯ばさみではなく、専用のクリップか、文具の大型クリップを使うのがよろしいかと思います。

また、1枚目を張り始めて気づいたのですが、右利きの場合、押さえゴムは反時計回りに押し込んでいく方が良さそうです。
そしてそして、石貼りやコンクリート仕上げのベランダで網戸張りを行うのは、キツい 膝が痛い 
それでもなんとか1時間弱を要して、和室の2枚の網戸の張り替えが完了しました。
波打つようなところはなく、ピンキレイに仕上がりました

つづく仏間の網戸の張り替えは、昼食を挟んだ午後、今度は掃除機を用意して、室内で行いました。
やはり畳の上だと作業が楽ちんです
そして、こちらは40分程度2枚の張り替えが完了しました。

これで、あばら家の風情すら漂わせていたズタボロ網戸が解消されたのでありました。

   

タスクの最後は庭の手入れ」です。

思い出すのは、2019年8月に帰省したときのの様子。

セイタカアワダチソウやらスギナやら雑草が生い茂り、とんでもない状況になっていたものです。
雑草引っこ抜き作戦除草剤が奏功したのか、去年の夏ややマシな状況になりましたが、油断大敵 
また、枯れ枝や、落ち葉を放置していたもので、見た目がかなり悪い

そこで、落ち葉を徹底的に取り除き、萩やススキの枯れ枝・茎を取り除き、そして、通路部分のを掘り起こして「ふるい」にかける作業を行いました。

驚いたことに、土の中から、長さ1cmくらいの小さな球根が出てくる出てくる
この球根から雑草が生えてくるんでしょうなぁ。

この「土ふるい」作業は、予想していた以上に体力と時間を要するもので、今回は全体の1/4くらいしかできませんでしたが、次回以降もじわじわと作業を継続したいと考えています。

ちょっとは庭の見映えが良くなった と思ったら、その2日後つくしが大量に生えているのを見つけました。
つくしが生えてきたということは、このあと、あのスギナ生えてくるということです
スッポンスッポンと面白いように根ごと引っこ抜けるセイタカアワダチソウと違って、つくしスギナ地下茎で繋がっているため、手で引っ張っても、土の上の部分がちぎれるだけで、根本的な解決になりません
そこで、つくしの周辺には、念入りに除草剤を撒いてあげましたとさ。
その効果の有無が明らかになるのは次回の帰省のときです。
楽しみでもあり、怖くもあります

こうして、容量30リットル回収袋2枚枯れ枝&枯葉を詰め込んで、今回の庭の手入れは終了したのでありました。

ところで、今年も庭ではいくつものが咲いていました。

サザンカとか(18日ので花びらがかなり散らされた)

シャクナゲとか、

やはりcuteスノーフレイクとか、

ローマンヒヤシンスとか、

その他、ムスカリとかシバザクラが咲きまくっておりましたです。

ということで、22日(木)に決行した「3時間でどこまで北に行けるかドライブ」のことなどを#3で書きます。

【追記】諸般の事情により、タイトルを修正しました (2021/04/26 22:25) 

つづき:2021/04/27 今回の帰省をふり返る #3 

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今回の帰省をふり返る #1

2021-04-25 17:43:40 | 日記・エッセイ・コラム

きのう、ほぼ2週間に渡る帰省からUターンしてきました。

もう降雪を気にする必要もなかろう、ということで、昨年11月末以来クルマでの帰省でした。
先々週の日曜日、4月11日の往路では、岩手・秋田の県境にさしかかると、道路脇にはたっぷりと残雪がありましたが、福島市付近ではが咲いているのが見えたし、仙台以北~北上の辺りでは見頃で、良い季節だなぁ~ でありました。

そして、わがふるさとでも満開で、15日に、別邸(実家)からほど近い太平川沿いの桜並木を見物に行ってみると、、、、

わぉ
地元では撮影スポットとしてちょっとは知られた愛宕下橋からの眺めは、別邸の徒歩圏にこんなところがあったのを知らずに今まで生きてきたことが恥ずかしくなるようでした。

   

今回の帰省ではいくつかのタスクがありました。
順不同で並べてみますと、

前回の帰省Uターン後に施工してもらった別邸の修繕確認
地上波TVの難視聴への対応
別邸1階南側の網戸の張り替え
庭の手入れ

といった具合。

は、工務店さんから修繕後の写真を送ってもらっていましたので、まったく問題ありませんでした

つづいて
別邸では、数年前からNHK 総合テレビだけ、ときどき映りが悪くて、画面がブロック状に乱れたりまったく映らなくなるという現象を抱えていました。
前々回の帰省の際、NHKの受信相談に電話してみたところ、携帯電話のアンテナとの干渉の可能性があるとの指摘を受けて、「700MHz受信障害対策コールセンター」に電話して、実地調査していただいたのですが、その結果は「異常なしとのご託宣をもらってしまいました。

前回の帰省では、TVの受信状況はそれまでの「時々映らない」から「たまには映る」まで状況は悪化していて、こりゃ我慢できない と、再度NHKの受診相談に電話して、「700MHz帯の影響は無いと言われた」と相談したところ、今度は、NHKに実地調査してもらうことになりました。そして、担当の方に別邸に来て調べてもらったところ、テレビに入る電波は1, 2, 4chで視聴できないほど弱くブースターからの出力も弱いとのこと。一方、外で電波強度を測定すると、まったく問題なしとのこと。
そりゃ、大森山のTV塔が肉眼でも見えるほどの場所ですから…。

じゃ、何が悪くてどうすれば良いのか? ですが、診断は「アンテナ又はブースター又は屋内配線のいずれかに異常があると思われるので、家電販売店等にご相談ください」と、ここまで。
次回帰省したときに、家電販売店に相談してみよう、ということで、今回の帰省に至ったのでありました。

今回帰省した翌日、さっそく家電量販店に出かけて相談。その翌日13日に実地調査&見積もりしてもらいました。
とりあえず、腐食してガタガタポール年期の入ったアンテナ交換して、それでも受信できなようであれば、これまた年期の入ったブースターを交換することにして、15日に工事してもらうことになりました。

そして、約1時間アンテナ交換が完了して、TVの受信強度を見ると、それまで40行くか行かないかくらいだったレベル(メーカー推奨は44以上)が、70前後までにはね上がりました
これならブースターを交換する必要はない ということで、我が家の数年来の懸案が、2万円ちょっと解決したのでありました。

ところで、13日の実地調査の際、UHFアンテナの交換に併せて、同じポールにBSアンテナも取り付けて、UHFとBSの電波を混合することはできないかと業者さんに相談してみました。
すると、可能ではあるけれど、ポールにかかる負荷大きくなって、強風(とりわけ冬の季節風)の影響が心配であることと、古い宅内配線BSアンテナへの電流が流れることで発火する危険性も否定できないとの返事でした。

この相談の発端は、今年初の大雪

別邸にはBSアンテナ2基ありまして、1階の軒下にある古いアンテナリビングの端子に直結されていて、19年9月に自分で取り付けたBSアンテナは、2階にあるエアコンの室外機の土台に付いています。

2階BSアンテナを取付けたときは、とにかくしっかりと取り付けることしか頭になく、また、2019-20年シーズンは雪が少なかったことで、その取付位置になんの問題も感じていなかったのですが、この冬、一気に問題が顕在化しました。
上に載せた写真からも想像できるように、BSアンテナの取付位置は2階の屋根の軒下からかなりはみ出しています
この状態で大雪が降ると、こうなります

コンバーターは完全にに埋もれて、これでは受信できません
それでも、雪を払ってあげれば、受信できるようになるのですが、積雪以上に問題なのは、2階の屋根から落ちてくるつららです。

2m程度の高さから落ちてくるとはいえ、を含む大きな雪塊直撃したら、BSアンテナは無傷ではすまないでしょう

そんなわけで、UHFアンテナと同じポールBSアンテナを付け替えてもらうことを考えたのですが、私のアイデア儚く散りました

とはいえ、次シーズンの対策をなんとかしたい
と、思いついたのは、壁に対して垂直に取り付けたBSアンテナのステイを、90°向きを変えて、壁に対して水平に付け替えるというアイデア。こうすれば、BSアンテナ軒下にひっぱりこめるのではないかという次第です。

さっそく、作業に取りかかり、角度&向き調整にちょっと苦戦したものの、完成しました

この位置ならば、雪&氷の塊直撃避けられます

というところで「#2」につづきます。

【追記】諸般の事情により、タイトルを修正しました (2021/04/26 22:25) 

つづき:2021/04/26 今回の帰省をふり返る (#2) 

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深谷までドライブ #4(最終回) 建物編

2021-04-09 21:18:48 | タウンウオッチング

「深谷までドライブ #3 石碑編」のつづきは、建物編です。

訪問した順番に紹介しましょうか。

まずは、「旧渋沢邸 中の家(なかんち)」

リーフレットによれば、

屋根に「煙出し」と呼ばれる天窓のある典型的な養蚕農家の形を残している。

だそうで、このあと訪れた「尾高惇忠生家」も同様に「煙出し」のある様式でした。
「おかいこさま」が飼われていた屋根裏の通気と採光を考慮した設計かとおもわれます。
養蚕は日本各地で行われたわけですが、それぞれの地域毎に、「通気と採光」を目的とした屋根の設えに特徴があるようで、今後の旅行の際には注目したいと思います。

さて、明治期前半の建築と聞くとおりの佇まいを見せている「中の家」主屋の周囲を時計回りに巡ると、

 width=

おりゃ? この主屋の写真を改めて眺めると、2階の屋根の鬼瓦には家紋の「丸に違い柏」「煙出し」の鬼瓦には商標の「ちぎり」(「#2 紋編」をご参照方) が描かれていました。

生活と家業とに区切りをつけるとか、そんな意味があったのでしょうか?
知らんけど…

そんなことを考えながら、土蔵Ⅲをしばし眺めて

主屋の裏手に出ると、、、、、あれ

正面から見るのとぜんぜん違う
現代の農家だと言われればそのまま信じそうな感じです。

栄一が東京を拠点に生活していることから、中の家当主は、栄一の妹・てい(貞)の婿・市郎(才三郎)が務め、その跡は次男・治太郎が、これまた東京を拠点に生活した長男・元治に代わって引き継いでいます。

また、リーフレットによると、

昭和60(1985)年からは「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され、多くの外国人留学生が学んだ。平成12(2000)年、同法人の解散に伴い深谷市に帰属した。

つまり、現在のような「史跡」扱いになったのは20年ほど前のことで、それまでは普通に使われていたわけですから、「現代の農家」のような風情をたたえているのもむべなるかなですな

   

次は諏訪神社です。

諏訪神社は、本殿拝殿が完全に別棟になっていて、また、籬に囲われているわけでもありませんので、

本殿をしっかりと拝見することができました。

本殿の篇額栄一の揮毫でした。

この本殿は、「諏訪神社修繕記念碑」によれば、

現在の本殿は、明治40(1907)年9月に竣工したもので、郷土の偉人澁澤榮一翁と当時の血洗島村民が費用を折半して造営されました。

だそうで、栄一と村民の折半というところがイイです。
村の鎮守の本殿の造営に、神社の崇敬者が懐具合に応じて費用を出し合うというのは、自然だし、村民にとっては、「自分たちの神社」という感覚を持てるでしょう。

ところが、これだけで話は終わらないところが爽快なところで、「#3 石碑編」で書いたように、大正5(1916)年に、村人が栄一喜寿を祝して獅子舞を披露したところ、意気に感じた栄一は、拝殿を新築して寄進したのだとか。

何ともカッコいい

諏訪神社社務所は、地域の集会所を兼ねていて、その名も「血洗島ふれあい会館」
「血洗島」「ふれあい」のことばの響きがなんとも…です
あ"、写真は撮っておりません

   

次は「渋沢栄一記念館」

栄一の祥月命日である平成7(1995)年11月11日に開館しました。資料室には栄一ゆかりの遺墨や写真などが展示されています。

という、深谷市威信をかけたような威風堂々の記念館でした。
展示は、諏訪神社の獅子舞に使われる獅子頭とか、米国からやってきた「青い目の人形」(めちゃかわいかった)とか、興味をそそられるものもありましたが、もうちょいと整理した方が、観る側にとってはありがたい気がしました。
どことなく、時代的に行ったり来たりする感がありましたので…

   

最後は、「尾高惇忠生家」です。

リーフレットによると、

この尾高惇忠生家江戸時代後期に惇忠の曾祖父磯五郎が建てたものと伝わっています。当時は「油屋」の屋号で呼ばれ、この地方の商家建物の趣を残す貴重な建物です。
この家で栄一の妻となったちよ、見立養子となった平九郎、惇忠の娘で富岡製糸場工女第一号となるゆうが育ちました。また、若き日の惇忠や栄一らがときの尊皇攘夷思想に共鳴し、高崎城乗っ取りの謀議をなしたのもこの家の二階と伝わります。

NHK大河ドラマ「青天を衝け」を視ていれば、すんなりと頭に入ってくる一族ですが、判らない方のために、リーフレットに載っていた尾高家の系図を転載しましょう。字が細かいので、PDFも視られるようにしました。

「旧渋沢邸 中の家」は、家の中に立ち入ることができませんでしたが、この「尾高惇忠生家」は、土間通り抜けることができました。

この家を建てたのは磯五郎さん(1807年没)だということは、築後210年以上は経っているということですか…

ところで、この家も、中の家みたいに、から見たら今風(いまふう)になっているのでしょうか?
そこで、土間を抜けてふり返ると、、と、その前に

レンガ造り土蔵がありました。
この土蔵に使われているレンガは、渋沢栄一が設立した日本煉瓦製造製のものだそうで、まさしく「地産地消」(工場は現在の深谷市内)でございます。

良く見ると、これはイギリス積みですな(こちらの記事をご参照方)

で、尾高惇忠生家の裏側はこんな具合でした。

おぉ、これはちょいと時代を感じます
ただ、UHFアンテナが、私を現実に引き戻したのでありました。

ということで、甚だ簡単ではありますが、これにて尾高惇忠生家の見学を終えて、帰路につきました。

旧煉瓦製造設備も見学したいところだったのですが、ホフマン輪窯保存修理工事のため、2024年頃まで公開中止だそうで、そのまま自宅に向かいました。

こうして往復約130kmのドライブ無事に終了しました。

「往復約130km」といえば、かつての私のクルマ通勤とほぼ一緒。
なんという長距離通勤をしていたのだろうかと、改めて、しみじみと感じ入った次第です。
めでたしめでたし。

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深谷までドライブ #3 石碑編

2021-04-08 18:57:27 | タウンウオッチング

「深谷までドライブ #2 紋編」のつづきです。

「旧深沢邸 中の家」の裏にはが植わっていて、その隙間から青淵公園サクラが見えました。

小川(清水川)の両岸に桜並木がつづき、その先には青淵公園と、なかなかの風情なんですが、立っていた記念碑によれば、

平成17(2005)年6月13日、深谷コミュニティセンターで開催された「緑豊かできれいなまちづくり運動推進協議会(GCC競技会)」理事会において、新しい花の名所として青淵公園に桜を植樹しようとの提案がなされました。これを受けて7月27日には渋沢栄一記念館を会場に各協力団体が参集し、「青淵公園記念植樹実行委員会」が設立されました。
(中略)
平成18年2月13日には、渋沢栄一翁生誕の日を記念し、植樹祭を行いました。翁と誕生日を同じくする八基・豊里地区の老若男女十名のご参加をいただき、関係者とともに、翁の遺徳を偲びました。植樹は平成18年3月と11月の2回に分けて行いました。全長1,320m、面積13.6ha、桜を中心に二百余本の植樹が完了し、これに加えて17基のベンチも設置しました。

かなり新しいの眺めなんですな。

   

「中の家」の敷地内東側に、3基の石碑が立っていました。

そのうち北側に並んでいる2基は、渋沢栄一の両親の慰霊碑で、向かって左側が「先妣澁澤氏招魂碑」と刻まれた、渋沢えい(ゑい)さんの、

そして、右側は「晩香澁澤翁招魂碑」と刻まれた、渋沢市郎右衛門さんの慰霊碑です。

この2基の慰霊碑の碑文を読んで、へぇ~ と思ったことが2つありました。

一つは、栄一の父・市郎右衛門さんの号が「晩香」だということ。
王子・飛鳥山旧渋沢邸(曖依村荘:あいそんそう)跡に、1945年4月空襲をくぐり抜けて現存する2棟の建物のうち、栄一が「迎賓館として使ったという瀟洒な建物「晩香廬」は、父上の号が由来だったとは知りませんでした

渋沢栄一記念財団のHPでは、

栄一自作の漢詩の一節「菊花晩節香」から命名されました。

としていますが、仮に、栄一本人がそう説明していたとして、元をたどれば「父・澁澤晩香」が頭にあったことは間違いないと思います。

と書いたものの、こちらの資料によれば、

「晩香廬」の命名の由来について、従来、「バンガロー」の字音に合わせ、渋沢が自作の漢詩「菊花晩節香」からとったとされていたが、渋沢の詩作以前に既に渋沢の父をはじめ幕末明治には「晩香」と号する例はいくつかあり、渋沢自身も個人用箋には「晩香書屋」を印していたことを指摘し、「晩香」は、陶淵明の「飲酒其五」に由来する「雛籬晩香」にちなむ

という研究があるらしい…
でも、「陶淵明の『飲酒其五』に由来する『雛籬晩香』」とはどういうことなんだろ 「雛籬晩香」の4文字のうち「飲酒其五」に登場するのは「籬」だけなんだけど…

それはおいといて、もうひとつの「へぇ~ と思ったこと」は、父・市郎右衛門は明治4年11月、母・えいは明治7年1月に亡くなって、共に血洗島「中の家」近くの墓に葬られたものの、栄一が、後に自分が眠ることになる谷中霊園渋沢家墓所内に、この慰霊碑を建てたということ。
自分の近くに両親の霊を感じていたかったんでしょうねぇ。
ちなみに、撰文は、市郎右衛門碑が市郎右衛門の甥にあたる「あにい」尾高惇忠、えい碑が栄一自身、はいずれも巌谷修です。

さて、「中の家」敷地内に立つもうひとつの石碑は、

「澁澤平九郎追懐碑」です。

渋沢平九郎とは、旧姓・尾高栄一にとって従兄弟であり、妻・千代の実弟(=栄一の義弟)であり、養子でもある人物。
このあと訪れた「尾高惇忠生家」(平九郎の生家でもある)の駐車場に立っていた説明パネルに、平九郎の写真が載っていまして、これがまた、、、、

一部で話題になっているとおり、かなりのイケメン

それはともかく、この「追懐碑」の栄一による碑文の最後の方の読み下し文を転記します。

今ここに丁巳(大正6年:1917(没後) 50年の命日に(平九郎)の遺墨を改めて広げてみると、追懐の情が止められなくなり、平九郎の書いたものを探し出し、その書いたものをまねて石に刻み、もってその志を見(あらわ)すものである。

没後50年を経て、平九郎の小さかった頃のことや、既に亡くなった平九郎のきょうだいたち(惇忠, 長七郎, 千代)のことなんかも思い出して、こみ上げるものがあったんだろうな…

この平九郎さんの慰霊碑も、ご両親の慰霊碑と同様に、谷中霊園の渋沢家墓所内に建てられたものだそうで、説明板によると、

渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

だそうです。
確かに、ご両親のお墓にも近い「中の家」にある方が、これらの石碑を見てもらえる機会が増えて、栄一の意思にも沿うのではないでしょうか。

   

諏訪神社には、渋沢家(中の家) 累代当主を称える碑のほか、「澁澤青淵翁喜寿碑」がありました。

渋沢栄一喜寿(77歳)をお祝いする碑です。

題額は、徳川慶久公爵

徳川慶久さんは、栄一のかつての主君徳川慶喜七男で、徳川(慶喜)公爵家の2代目です。

そういえば、東京・日本橋の橋銘板は、徳川慶喜さんの筆によるものでした。

「澁澤青淵翁喜寿碑」に話を戻しまして、撰文は、渋沢栄一著「徳川慶喜公伝」ゴーストライターと言われる萩野由之博士
文中から印象的な部分を紹介しておきましょう。旧字は新字に改めます。

翁は嚮(さき)八基小学校の新築と其維持法とに就きて多くの援助を与へ、一村の子弟をして就学の便を得しめたり。
村社諏訪神社は翁が幼少の時境内にて遊戯し、祭日には村の若者と共にさゝらなど舞ひたる事あれば、村に帰れば先づ社に詣づるを例とし社殿の修理にも巨資を捐てゝ父老を奨励したり。今年は翁の喜寿に当りたれば、翁を迎へて彼のさゝらを催しゝに、翁は記念として拝殿を造りて寄進したり。

文中「さゝら」とあるのは獅子舞のことでしょうか?

また、「翁は記念として拝殿を造りて寄進したり」とありますが、その辺りは、つづきの「#4 建物編」で書くことにします。

つづき:2021/04/09 深谷までドライブ #4(最終回) 建物編 

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深谷までドライブ #2 紋編

2021-04-06 10:45:38 | タウンウオッチング

「深谷までドライブ #1 『中の家(なかんち)』まで編」のつづきです。

「旧渋沢邸 中の家」「土蔵IV」は、1階が奥座敷、2階が宝蔵として使われていたそうですが、私の目は屋根の鬼瓦Lock On

奥の鬼瓦には渋沢家の家紋「丸に違い柏」が描かれていて、手前には別の紋が描かれています。
この「別の紋」は、「澁澤」の名を冠した数少ない企業、澁澤倉庫のトレードマークに使われているはずなんですが、この「別の紋」と渋沢家とはどんな関係があるのだろうか?

帰宅してから、澁澤倉庫のHPを見ると、答えがありました。

澁澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷市にあり、農業・養蚕の他に藍玉(染料)の製造、販売も家業としていました。この藍玉の商いをするときに使用した記章が「別の紋」であり、澁澤家では「ちぎり」と呼んでいました。
文献によりますと、「別の紋」「りうご」あるいは「ちぎり」共に正しいとのことですが、当社の昔からの言いならわしによれば、元来は糸巻に糸を巻き付けた形であって、この形が鼓を立てて横から見た形に似ているところから「立鼓(りうご)」とか、またあるいは、「別の紋」漢数字の「五」が立っている形と見て「立五(りうご)」と呼ぶようになったとも伝えられています。

だそうな。
上の転記で「別の紋」と表記した部分は、HPでは、社章の画像が使われています。

そうか、渋沢家家紋商標なんですな。

実は、NHK大河ドラマ「青天を衝け」第1回を見返すと、藍玉を入れた袋にこの「ちぎり」の焼き印を捺す場面が出てくるし、「青天を衝け 紀行」では、しっかりと、「渋沢家が商売の際に使用した商標紋」と説明されておりました

私の目は節穴

   

「中の家」から200mも離れていないところに、立派すぎるくらいの鳥居を持つ諏訪神社があります。

諏訪神社にも駐車場があるのですが、「中の家」から歩いてすぐの距離です。
私は、諏訪神社に駐車場があることは知りませんで、クルマ「中の家」の駐車場に置いて、歩いて往復しました。
で、栄一さんが晩年まで大好きだったというこの神社の篇額は、もちろん「澁澤栄一謹書」

Wikipediaによると、「諏訪神社」を名乗る神社は、

全国に約25,000社あり、長野県の諏訪湖近くの諏訪大社(旧称:諏訪神社)を総本社とする。

だそうで、この血洗島の諏訪神社もご多分に漏れず、境内の「諏訪神社修繕記念碑」には、

当社は、その創立の年代を詳らかにしていませんが、かつては諏訪大明神ととなえ、信州諏訪の地より勧請したものと伝えられています、江戸時代には岡部藩主安部氏の崇敬するところでもありました。

と刻まれていました。
そして、御神紋はというと、

「丸に立ち梶の葉」です。

総本社たる諏訪大社御神紋は、こちらで書いたように、上社4本の根を持つ「諏訪梶の葉」

下社5本の根を持つ「明神梶の葉」で、

共に「カジノキ」がモチーフになっています。
ちなみに、諏訪大社上社で拝見したホンモノのカジノキの葉っぱがこちらです。

どちらかというと、諏訪大社の御神紋よりも、そこから別れた各地の諏訪神社などが使っている「立ち梶の葉」の方が、実物に近い気がします。

それはともかく、「梶の葉」の紋を見たら、「諏訪大社と縁がある」と思いましょう。

   

最後は、「尾高惇忠生家」で拝見したこちら

こりゃどう見ても、家紋ではなく商標ですな。

リーフレットによれば、

「入り山二」の印は、当時、菜種油等の商いをしていた尾高家の商標にあたるものと考えられます。

だそうです。
そういえば、「青天を衝け」で、尾高千代さんがを売りに行く場面がありましたな

それはそうと、尾高家の紋は何?

尾高惇忠の肖像写真を見ると、はっきりとは判りませんが、なんとなく「丸に木瓜」紋のように見えます。

実際のところ、どうなんでしょ…

記事の前半に「青天を衝け 紀行」からのキャプチャー画像を載せましたが、「ちぎり」入りの鬼瓦満載の建物はどれなんだろ? と思って、撮った写真をじっくり見て、見つけました

正門の右側にある「副屋」で、リーフレットによると、

現在の副屋は、明治44年(1911)に上棟。
それ以前には藍玉の取引きにつかわれたのか「お店」と呼ばれていた。
また、市郎(栄一の妹・ていの婿)が近隣の子供に漢学を教えるために学者を住まわせていた時期もあるという。八基村農業協同組合事務所として使われていた時期もある。

だそうで、建て替えられる前の「お店」と呼ばれていた頃の設えを踏襲して、商標入りの鬼瓦や軒丸瓦を使ったのかもしれません。

ということで、「紋編」はここまで。

#3「石碑編」とする予定です。

つづき:2021/04/08 深谷までドライブ #3 石碑編 

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深谷までドライブ #1 「中の家(なかんち)」まで編

2021-04-04 12:43:39 | タウンウオッチング

相変わらずブログ書きに怠慢で、「2日続けておでかけ (前編)」つづきを書けないまま新シリーズ(?)を始めてしまいます。

一昨年末までは、平日ならほぼ毎日往復130kmクルマ通勤をしていた私ですが、会社を辞めてからはクルマを運転する機会がめっきり減りました。帰省ドライブ(往復1,200km)ができる時季はともかく、が見込まれる12月~3月の期間は新幹線で帰省しますし、今期は月のほぼ半分を別邸で過ごしましたから、ますますクルマが駐車場でご休憩される時間が長くなってしまいました。
そして、もう4ヵ月給油していない

来週末、昨年11月以来帰省ドライブを決行する予定にしているのですが、その前に、クルマの調子を見ておこう ということで、一昨日、深谷までドライブしてみました。
なぜに深谷? ですが、私にとって、友人の一人の故郷だという以外に接点はないものの、「半日ドライブ」にはちょうど良さそうな距離ですし、今年はNHK大河ドラマ「青天を衝け」の舞台になって、盛り上がっていそうですから。
NHK大河ドラマ絡みでふり返ってみれば、「真田丸」放映前年の2015年には上田に行ったし(メインの目的は「MISIA星空のライヴⅧ」上田公演)[記事]「麒麟がくる」放映の昨年春には岐阜・比叡山・静岡に行ったし[記事]で、結構ミーハーな私です

   

さて、黄砂にまみれたクルマを駐車場から出した私は、ナビに目的地として深谷市の血洗島交差点をセットして、いざ出発
道順は、ひたすらR17(旧中山道)を北上するだけというシンプルさです。

新大宮BP片側3車線の広い道なのですが、どうしてあんなに混んでんだろ
とりわけ、大宮近くの三橋辺りは、いっつも渋滞しています
三橋の先の宮前IC~吉野町ICR17R16との共用区間になっているせいなのかな?

それでも、上尾市内以降は、ほぼ信号毎に停められながらも、比較的スムーズに流れていました。
運転免許の更新鴻巣にある運転免許センターに行く時は、基本的にR17を走るのですが[例外:上尾のマラソン大会に遭遇して迂回したときの記事]、今回、クルマのナビは、R17とほぼ並行する旧中山道県道164号線を指定してました。
Why? と思いましたが、R17混みまくることを知っていましたので、指示されるがまま旧中山道を走りました。

「人形のまち」といえば、すぐに岩槻が思い浮かびますが(訪問記)鴻巣もまた「人形のまち」。旧中山道沿いに人形屋さんが並ぶ佇まいは、なかなかの風情でした。

ところで、信号待ちした交差点の近くにその名も「鴻神社」という神社があって、コウノトリのイラストなんぞも見たとき、そういえば「鴻巣」という地名は、この地に鴻(コウノトリ)の巣があったからなのかな? と思いました。
そういえば、前日のニュースで、渡良瀬遊水地に営巣しているコウノトリにヒナが生まれたという話もありましたっけ…

帰宅してから調べて判ったのは、意外なことだらけで、

鴻神社は明治初年氷川社・熊野社・雷電社3社を合祀してできた。
鴻巣の地名の由来は「コウノトリ伝説」にある。
と思いきや、「『国府の洲 こくふのす』」が『こうのす』となり、後に『こうのとり』の伝説から『鴻巣』の字をあてるようになった」説もある

とな
詳しくは、鴻神社のHPをご覧くださいませ。

さて、鴻巣の市街地を抜けて熊谷BPに入ると、クルマの流れはさらにスムーズになって、燃費もどんどん良くなっていきました。
また、前回・前々回の帰省ドライブで連続してトラブルになって、今回のドライブでの最大のチェック項目だったタイヤの空気圧も、約4ヵ月の惰眠期間を経てもなお、適正値を保っていました 気温が上がったのも効いているのでしょう。

天候は「晴れたり薄曇ったり」でまずまず。
終盤に入ったサクラとか、最盛期を迎えつつあるナノハナとか、新緑が始まったケヤキとか、目に麗しい

バイパス沿いのそば屋さん昼食を摂って、その後ちょっと深谷BPを走ったのち、ナビに従って右折して地方道に入りました。
最初の目的地を示す案内看板を見つけて、それに従って、血洗島交差点を過ぎてさらにちょっと走ると、「旧渋沢邸『中の家(なかんち)』に到着しました

けっこうなキャパの駐車場があって、3割程度の利用率でした。
平日ながら、なかなかの人出です。

立派な門の両側に「史蹟 澁澤榮一生地」「青淵翁誕生之地」2本の石柱が立っています。
蛇足ながら、「青淵」とは、渋沢栄一「号」でございます。

門も立派ですが、主屋も立派です。

主屋を始め、建物の中には入れず、敷地内を歩き回るだけですが、それだけでも建物好きの私には楽しい しかも、駐車場を含めて無料
深谷市太っ腹だなぁ

上に載せた主屋の写真の左端に笠をもった人物の銅像がちょいとだけ写っていますが、これは青年期の栄一さんの像です。プライバシー保護の観点から、お顔を隠させていただきました ←ウソ

ところで、この主屋は、渋沢栄一の生家ではありません
リーフレットから転記しますと、

現在残る主屋は明治28年(1895)市郎[栄一の妹・貞の婿]により上棟されたものである。梁間5間、桁行9間の切妻造の2階建、西側に3間×3間の平屋部分等を持つ。また、主屋を囲むように副屋、土蔵、東門が建ち、北武蔵における養蚕農家屋敷の形をよくとどめている。

だそうで、このあと訪れた「尾高惇忠生家と異なり、正門の門前の石柱に「生地」「誕生之地」としているのにはこんな背景がありました。

さて、視線を右に向けると、大きな蔵2棟建っています。

リーフレットによると、左奥の「土蔵Ⅰ」米蔵等、右手前の「土蔵Ⅱ」藍玉の製造・貯蔵庫として使用されていたと伝えられる」とか。

2棟の土蔵を拝見した後、ようやく主屋に足を向け、身近に見上げると、

なんとなく旅館みたいな風情です。
そして、一番奥の部屋にいらっしゃったのは、

紋付袴姿の渋沢栄一翁、のアンドロイド
ときどき、ビミョーに顔が動くのがめちゃくちゃリアルで、そんじょそこらのマネキンとはまったく違います

ちなみにこの部屋は、

帰郷する栄一のために市郎が特に念入りに作らせた、と伝えられる。

だそうです。

というところまで書いて、このシリーズを今後どう書き進めようかと考えてしまいます。
いつもの旅行記のように、時間経過を追うのか、はたまた、「建物編」「石碑編」「紋編」ジャンル毎に書くのか…

しばし考えた結果、「ジャンル別」を採用することにしました。

したがいまして、この後の私のルートを先に書いておきます。

旧渋沢邸「中の家」⇒徒歩諏訪神社⇒徒歩「中の家」駐車場⇒クルマ渋沢栄一記念館⇒クルマ尾高惇忠生家⇒クルマ⇒帰宅

今のところ、つづきの「#2」「紋編」として、家紋・標章・社紋の視点から書こうと考えております。

つづき:2021/04/06 深谷までドライブ #2 紋編 

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