新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

今年も最初の遠征先は関西 #3-3 [完結編]

2023-02-24 17:46:03 | 旅行記

「今年も最初の遠征先は関西 #3-2」のつづきです。
あすから福岡遠征なので、続けざまに書いてしまいます。

京都市による東福寺についての説明板がありました。

恵日山(えにちざん)と号し、臨済宗東福寺派の大本山である。藤原道家が嘉禎2年(1236) 東大寺、興福寺と並ぶ大寺の建立を発願して東福寺と名付け、禅僧円爾弁円(聖一国師)を開山に招いて、建長7年(1256) 完成した。その後火災を受けたが、室町初期に道家の計画通りに再建され、京都五山の一つとして栄え、多くの伽藍、塔頭が建ち並び、兵火を受けることもなく明治に至った。明治14年に惜しくも仏殿、法堂など中心部を焼失したが、今なお堂々たる中世禅宗の寺観を保っている。
三門(国宝)は室町初期の作、禅宗三門として最古の遺構である。禅堂(禅僧の坐禅所)、東司(便所)、浴室も室町時代の建物(重要文化財)で、いずれも禅宗建築の重要な遺構である。本堂、方丈は近時の再建で、開山堂に至る渓谷には多くの紅葉があって通天橋が架かり、また、偃月橋、臥雲橋がかけられて紅葉の名所をなしている。

東福寺の建立を発願した藤原(九条)道家は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場した「三寅」くんのお父上なんですな。
また、円爾弁円(聖一国師)は、博多祇園山笠「祖」とされていることも初めて知りました。
さらに、多くの塔頭が残っているのは、応仁の乱戦火を免れたことが大きいのかなと思った次第

さて、禅堂の南隣にある大きな建物が「東司(とうす)、つまりトイレです。

トイレとしてはあまりにも大きい 日本最大級ではなかろうか

東司 (重要文化財)  室町時代
「東司 (とうす)」とは便所の建物を云い。俗に百間便所(百雪隠(ひゃくせっちん))と称し、子供たちは「100人便所」とも云っている。禅堂の横に必ず「東司」が置かれる。禅宗叢林の便所では日本最古最大であり、現存する唯一の遺構である。
当時の排出物は貴重な堆肥肥料であり、京野菜には欠かせない存在となっていた。京都の公家、武家、庶民の台所をおいしい野菜で潤した。叢林としても現金収入の大きい糧となっていたとも云われる。

江戸時代、長屋の大家さんは、長屋から出る下肥を農家に売ることでも収入を得ていたということを聞いたことがありましたが、お寺もそうでしたか…

この東司の筋向かいにあるのが、三門です

「ダイジェスト」で書きましたように、この三門の模型(1/10)は、二度拝見してほぇ~ となったことがありましたが、遂に現物を拝見することができました
ほんと、堂々として雄大です

一般的には「山門」と表記され、寺域の入口(境)を指す。しかし、東福寺では「三つの門:三門」と表記している。この意味は「三解脱門」の略で、涅槃に達するための通らねばならない門とされる。三つの門は、「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無作門(むさもん)」である。大きさは、5間3戸、二階二重門、入母屋造り、本瓦葺き、左右に階段を覆う山廊を有す。構造的には大仏様(天竺様)であるが、視覚的には禅宗様である。三門正面二階には北朝第四代将軍足利義持の筆である扁額「玅雲閣」が掲げられている。「妙」は「女」偏が一般的ですが、額は「玄」の偏を用い、本来の「玄」の意味である「奥深い道理」の意味を添え、「妙」の意味の「心理・美しい」の意味を強化している。大きさは小さく見えるが畳三畳分あり、又、力強い筆運びである。二階内陣中央に35歳と云われる宝冠釈迦如来坐像、左前に月蓋尊者、右前に善財童子、両側に十六羅漢が安置されている。周りには五百羅漢とも、森羅万象とも云われる木片が置かれている。
天井・柱には極彩色の迦陵頻伽(極楽に住む人面鳥身の架空の鳥)や飛龍(極楽に住む応龍)を描き、又金襴巻牡丹唐草等で天上界を表している。天上界は悟りに達した精神界究極の世界を現していると言える。東福寺の僧である兆殿司寒殿司の筆にて描かれ、三門内陣に心の存在を感じさせる空間を創造している。大屋根の四隅の角柱は、桃山城崩落の天正大地震による三門の痛みを天正13年豊臣秀吉が行った大修理の際に補足した柱で、通称「太閤柱」と呼ばれている。

長々と説明板を転記しましたが、これを読んでいると、三門の二階に上ってみたくなります。
ときどき一般公開しているようですが、取り急ぎ、朝日新聞こちらのサイトでガマンしておきましょ。
ところで、説明板にある「桃山城崩落の天正大地震」という記述、桃山城(伏見城)に大きな損害を与えたのは慶長伏見地震だと思います

   

本堂明治14年火災で失われた仏殿・法堂の後継として昭和9年(1934)に再建されたものだとか。

本堂には賀陽宮恒憲王の筆による「毘盧宝殿」という扁額がかかっていました。

恒憲王の后が東福寺と縁の深い九条家出身ということで筆を執ったのでしょうか?

堂内(入れません)には、釈迦三尊立像らしき仏さまたちが安置されていて、ちゃんと拝んでまいりました。

   

無料で見物できるのはここまでで、本坊庭園(方丈)通天橋・開山堂はそれぞれ拝観料が必要です(共通券あり)

私は、本坊庭園パスして、通天橋を渡って開山堂まで行ってみることにしました。拝観料は600円でしたが、11月10~30日「秋期期間として1,000円らしい

通天橋を渡ります。

拝観券紅葉シーズンの写真が使われていました。

でも、今の時季は、、、、

寒々しい
でも、臥雲橋は今の季節の方が良く見えます なんて負け惜しみを言ったりして…

開山堂を目の前にして、振り返ると、

おぉ、いい眺め
屋根の連なりがイイ感じ

開山堂にお参りしたあと、

重要文化財の愛染堂にもお参りしました。

重要文化財 東福寺愛染堂  室町時代前期
江戸時代まで東福寺北隣にあった塔頭三聖寺(鎌倉時代創建、廃寺)の愛染堂で、昭和9年の室戸台風で倒壊し、現在は東福寺普門院辺のこの地に移転され修理された。朱塗の八角円堂で、屋根は一重、宝形造でこけら葺とする。八面観音開きの開口部とし、正面後方三面の位置に設けた須弥壇上に宝塔形の厨子を置き、中に鎌倉時代制作になる愛染明王を安置する。

愛染明王って、どこの像もみんな同じように愛染明王に見えるのはなぜなんでしょ

   

さて、このまま渡ってきた通天橋を戻るのも芸が無い と思ったら、渓谷に下りていく小径があり、洗玉澗には小さな橋も架かっているようなので、こちらのルートを採ってみました。

すると、下から見上げる臥雲橋も、

通天橋なかなかであります

以上を以て、東福寺の拝観は終了
「東福寺の伽藍面(づら)」ということばがあるそうですけれど、建物好きの私にとっては、めちゃくちゃ楽しめました
あと、あまり拝見できなかった東福寺の仏さんたちには、東京国立博物館特別展「東福寺」でお目にかかることにしましょう。

ちょっと遠回りながら南門を通って境内から娑婆に戻りました。

   

そして、のんびりとJR東福寺へと歩きました。
と、中国人っぽいグループと出くわし、そのリーダーっぽい人からバス停はどこですか?」と聞かれました。
私も東福寺界隈は初めてですし、電車を使うつもりですので、バス停の場所なんぞ知りませんし、見かけた記憶もありません。
そこで、どこに行きたいのかと聞いてみると、京都駅に行きたいといいます。それならJRで行くのが早いし安い(JAPAN RAIL PASSを首から下げていましたし)と説明しました(もちろん日本語)。
でも、その後、そのグループと再度出会うことはありませんでした
バスに乗らなきゃならない理由があったのだろうか???

そんなことがありながらも、余裕を持って京都駅に戻ってきました。
例によって八条口にある551 HORAIにはドカンと行列ができていましたが、時間に余裕があるもので、行列に並び、ほかほかの豚まんを購入しました(この店ではチルドの取り扱いがない)

かくして、予約通りの新幹線に乗り、帰ってまいりました。

あ~、MISIAのライヴも、観光も楽しかったなぁ
今年最初の旅行も良い旅になりました。明日からの福岡遠征楽しむ

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今年も最初の遠征先は関西 #3-2

2023-02-24 13:57:02 | 旅行記

「今年も最初の遠征先は関西 #3-1」のつづきです。

京都市京セラ美術館を出た私は、三条駅から京阪電車に乗るべく、仁王門通りを西へ、川端通りを目指して歩き始めました。

と、なんとも不思議な建物が目に止まりました。

最上部に八角堂風のものが乗っかっていて、入口には中国風の獅子が一対佇んでいます。

なんともただならぬ雰囲気を醸し出すこの建物、なんだろ?
と思ったら、京都市が設置した説明板がありました。

公益財団法人藤井斉成会 有隣館
有隣館第一館は、藤井善助(1873~1943)が収集した中国の美術工芸品を展示するために建設された美術館で、大正15年(1926)に武田五一京都帝国大学教授の設計、大林組の施工により竣工した。
外観は装飾が少なく、壁面は平滑な仕上げであるが、屋上には中国から移築された八角堂が乗り、内部も、陳列室の折上格天井の各格間に東洋風の模様の布を張り、陳列ケースも中国風意匠としている。
この建物は、近代的な民間美術館では現存最古の建築遺構である。また意匠的にも特色があり、昭和60年(1985) 6月1日、京都市登録有形文化財に登録された。また、第二館と収蔵庫は平成12年(2000) 2月15日、国登録有形文化財に登録された。

ほぉ~
知りませんでした。
でも、開館してない…
Wikipediaによると、

開館は原則として1月・8月を除く毎月第1・第3日曜の12:00-15:30のみ(その他、臨時に開館する場合がある)。その他の時期の入館は事前の申請が必要。

だそうです。
京都にはこうした「なかなか開館していない美術館」少なくない気がします。

それはそうと、この歩道はどうしたことだ

カチンコチン凍っています

圧雪路にはちょっと自信をもっている私ですが、凍結路無理

建物の北側の歩道を歩くのは危険だと判断した私は、去年1月にロームシアター京都から地下鉄の三条京阪駅まで歩いたときのように、古川町通りから三条通りへと進路を変更しました。

そして三条通り沿いのそば屋さん昼食

それにしても、どうして「三条京阪駅」京都市営地下鉄の駅で、「三条駅」京阪電車の駅なんだ?

Wikipediaに書かれている「地下鉄開業以前から、バス停の名称や地域名として『三条京阪』と呼ばれている」ということからなのだろうか
こちらで書いた「七条」(しちじょう/ななじょう)といい、こちらで書いた「西院」(さいん/さいいん)といい、京都のしきたりには田舎者はついて行けませぬ

   

途中、高校の修学旅行で宿泊した(はず) 旅館の前を通り、三条駅に到着し、京阪電車に乗車しました。

三条駅から東福寺駅までは、4駅、所要時間はたった7分
そもそも、距離が3.2kmしかないのに、4駅ってのは多過ぎませんか? ほとんどバス停並みの間隔です。
就職して上京したとき、品川から横須賀方面に行くのに、時間に余裕があるからと京浜急行各停に乗ったら、あまりにも頻繁に駅があることに辟易して、川崎で特急に乗り換えたことを思い出しました ちなみに京急品川~京急川崎間11.8kmで13駅ですから、平均の駅間距離は900mです

   

東福寺駅は、JR京阪電車駅が隣接していて、こんなに乗り換えが簡単な駅は関西では珍しいのではないかと思ったりして。

さて、東福寺

塔頭がたくさんあります
これほど多くの塔頭が残っているお寺は京都では少ないのではなかろうか?
大徳寺にも多くの塔頭が残っていますが、現存の塔頭の数は大徳寺の22に対して、東福寺は25だそうな

気づいたのは、「新墓地受付中」としている塔頭が多いこと。
これから日本の人口が減っていくであろうことを考えると、お寺間の競争も激しくなっていきそうです

さて、いよいよ東福寺核心部に入るぞ と思わせてくれたのが、境内を東西に流れる渓流「洗玉澗」に架かる屋根付きの橋、臥雲橋でした。

新緑紅葉のハイシーズンには、この臥雲橋や、一つ上流にかかる通天橋は観光客で大変な賑わいだそうですが、今の季節は閑散としています。

臥雲橋を渡って、更に先に進み、

日下門をくぐると、東福寺の境内です。

さっそく大きな建物が目に飛び込んできました

大きな懸魚(けぎょ)が片面に5もついています
この建物は「禅堂」

説明板によりますと、

禅堂(重要文化財) 室町時代 貞和3年(1347)
禅宗の叢林で重要な建物である禅堂である。選佛場とも称し、坐禅を通じ自己究明と自己の心の佛を撰ぶ場所である。僧侶になるための修行道場であり、修行僧である雲水が、座禅はもとより寝食を行う所であった。昔は400名以上の僧が修行を行ったこともあった。
内陣の「選佛場」扁額は宋国径山万寿寺無準師範(佛鑑禅師)の筆であり、無準師範の心が残っている。無準師範は東福寺開祖聖一国師の師匠である。入口の扁額「禅堂」は当山303世福島慶道管長の筆である。禅堂の大きさは桁行7間梁間4間、一重もこし付切妻造、本瓦葺である。我が国最大最古の道場である。

だそうです。
この文中にでてくる「径山万寿寺」「径山」「きんざん」と読むそうで、金山寺味噌の名前の由来だそうな
知らなかったぁ~
これだから「復習としてのブログ書きやめるわけにいきませ

と、心を新たにしたところで、「#3-3」(おそらく完結編)につづきます。

つづき:2023/02/24 今年も最初の遠征先は関西 #3-3 [完結編] 

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今年も最初の遠征先は関西 #3-1

2023-02-23 21:37:58 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「今年も最初の遠征先は関西 #2-4」のつづきです。

旅行記をサボっている間に、次の福岡遠征あさってに迫っていて、こりゃイカン

というわけで、関西旅行3日目(最終日)のこと。
この日(1月29日)は、「MISIA THE GREAT HOPE」大阪公演最終日だったのですが、私はパスして、京都を観光して、自宅に帰ってきました。
旅程は「ダイジェスト」に書きましたので省略しまして、ホテルで朝食を摂ったのち、新大阪駅からJR京都線に乗って、いざ、京都へ

この日はニッポン放送「三宅裕司のサンデーヒットパラダイス」MISIA特集だというので、車中、radikoで聴いていたら、体感、あっという間に京都駅に到着しました。
まずは荷物をコインロッカーに入れて(一時期のような「コインロッカー難民」になることはなくなった感じ)11:00からの予約をしていた京都市京セラ美術館に向かいました。

ここでちょっとしたアクシデント。
今回、私は京都駅から地下鉄を乗り継いで岡崎公園まで行こうと考えていたのですが(去年1月に体験済みのルート:記事)、かなりぼ~っとしていて、なぜか市バスに乗ってしまいました。
バスでは運良く座れましたが、ギッチギチに混んでいて、乗客の乗り降りに時間がかかるし、ルート自体がクネクネしていて、なかなかなものでした

それでも11時ちょい過ぎ平安神宮大鳥居をくぐって京都市京セラ美術館に到着できました。

この美術館に来るのは12年ぶり4回目
この12年の間に大きく変貌を遂げていました (2020年5月下旬にリニューアルオープンしたらしい)

以前は、道路と同じ高さの1階入口から入館したはずですが、美術館の前が掘り下げられ、サンクンガーデンのような場所に新しい入口が作られていました

   

それはそうと、私お目当ての「 アンディ・ウォーホル・キョウト/ANDY WARHAL KYOTO」の会場、「新館 東山キューブ」ってのは何? どこ?
ロームシアター京都の隣に美術館の別館がありますが、それとは別で、本館の裏手に「東山キューブ」はありました。

この展覧会は、

ウォーホルは、1956年の世界旅行中に初めて来日し、京都を訪れました。本展では、京都とウォーホルの関係に目を向け、そのゆかりを示す貴重なスケッチなどを展示し、若き日のウォーホルの心を捉えた京都の姿に思いを馳せます。アメリカ・ピッツバーグのアンディ・ウォーホル美術館の所蔵作品のみで構成される日本初の展覧会であり、約200点+映像15作の展示作品のうち、100点以上が日本初公開作品となる本展に是非ご期待ください。

というのもので、巡回展は無し 
だからこそ行きたかったんだよね

で、珍しいことに、写真撮影可でした ただし、カメラはNGで、スマホはOK
どうしてなんだろね?

さっそく最晩年(1986)の自画像をパチリ…。

迷彩柄がなんか新鮮です。

説明板によると、

ウォーホルは、胆嚢炎の手術後の合併症がもとで早すぎる死を迎える9か月ほど前に、スケールの大きな自画像シリーズに着手している。無表情でこちらを見つめるその顔に、鑑賞者や批評家の多くは、「死を忘れることなかれ(メメント・モリ)の警句を見て取った。どの自画像でもトリミングされた頭部がキャンバスの中心に据えられ、逆立った髪の毛が光輪のごとく描かれている。縦横2m近いモニュメンタルな作品では、漆黒を背景に暗い色調や無彩色が使われ、陰鬱で幽霊のような雰囲気を漂わせている。

とあります。
迷彩柄が使われたこちらの作品(自由の女神)も素敵でした。

へぇ~と驚いたのは、ウォーホル来日したときに貯めこんだコレクションでした。

タイプされた旅程表やら、航空会社の荷物用のタグやら、ホテル備え付けのリーフレット・絵はがき・便箋やら、あちこちのリーフレットやらが、たっぷりと保存されているんです

図録によると、

壮大なコンセプチュアル・アートともいえるウォーホルの「タイム・カプセル」は、画一的ユニットにして自由形式の作品だ。すなわち、610個の段ボール箱にウォーホルが収納した多彩な品々であり、それらはおおむね資料的な側面が強い。1974年のスタジオ移転の際、荷造り目的で考案された「タイム・カプセル」にウォーホルは夢中になり、1987年に本人が亡くなるまで、日々、儀式のように続けられた。各「タイム・カプセル (CT)」には、手紙、写真、出版物、レコード、衣服、食品、薬品、玩具、骨董品、チケットの半券、ウォーホルや他のアーティストによる小作品など、平均して500点以上の品々が収められている。

だとか。
旅行中にgetしたいろいろなモノをコレクションしている我が身にも照らし合わせたのですが、平均500点以上×610箱ですから、比べものになりません

   

この展覧会のメインビジュアルに採用されている作品は、「三つのマリリン」です。

なんとなくお馴染みっぽい作品なのですが、日本初公開なのだそうです。
「いかにもウォーホル」ですし、きっと出版物やTVその他で観たんでしょうねぇ。
なお、作品名のオリジナルは、「Three Marilyns「Marilyn」が複数形になっています

「いかにもウォーホル」といえば、こちらとか、

「ダブル・エルヴィス」なんかもそうですな。

そしてこちらは、シルベスター・スタローンアレサ・フランクリン、そして坂本龍一と、多くの人が知っている方々の肖像です。

一方、ちょっと意外で、ひょえ~と思ったのは、「ハンマーと鎌」シリーズでした。

「ハンマーと鎌」といえば、言わずと知れた赤旗と並ぶ共産党のシンボル。

ハンマーと鎌ウォーホルに政治的な意図があったのかと思いきや、説明板によると、

「ハンマーと鎌」シリーズが制作されたのは、1976年のイタリア旅行の後である。旅行中、公共の場で目にする落書きといえば、旧ソビエト連邦の国旗に取り入れられたこのシンボルだった。共産主義体制下で、ハンマーと鎌は、工場労働者と農民の団結を意味していた。第二次世界大戦後、民主主義国となったイタリアの街で見られたこのシンボルの落書きは、政治的というよりポップなものとしてウォーホルの目に映ったようだ。アメリカに帰国後、ウォーホルはアシスタントのロニー・カトロンに頼んで、このシンボルの写真を探し始める。本や雑誌に載っていた写真はどれも、ソ連の国旗にあったような平板なシルエットで、ウォーホルが求めるイメージではなかった。カトロンは、近所の雑貨屋で似たようなハンマーと鎌を購入し、それらをさまざまに配置して写真に収めた。ウォーホルは、カトロンの写真を使って、この絵画シリーズを制作したのである。

ですって

僕のことを知りたければ表面だけ見ればいい
裏側には何もないから

と語ったウォホールですものねぇ。
でも、「ハンマーと鎌」ポップかなぁ

   

最後に紹介するのは、縦約3m×横約10mもの超大作「最後の晩餐」です。

ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」をモチーフにした作品なんですが、なんでバイク? 「699って何?  「THE BIG C」とは?

 「THE BIG C」「C」「Christ」のことかと思ったら、説明板では

新聞の見出し「ビッグC:がん治療に効く心構え」から取られたもので、ウォーホル自身の死に対する恐怖が示唆されているだけでなく、イエス・キリストに対する遊び心のある呼び名でもあるのだろう。

だとか。
NHK 日曜美術館では「当時「A Cancer」と呼ばれたエイズを意味している」としてましたけど、いろんな見方があるものですな

   

しっかりと展覧会を楽しんで館外に出ると、雪化粧した比叡山が見えました。

この時点で時刻は12:00ちょい前。
15:00ちょい過ぎの座席指定している新幹線までは約3時間あります。さて、どうしよう…

しばし考えた結果、これまで2度にわたって見送った東福寺に行ってみることにしました。
岡崎公園からなら、三条駅から京阪電車乗り換えなしで行けます

というところで「#3-2」に続きます。

つづき:2023/02/24 今年も最初の遠征先は関西 #3-2 

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今年も最初の遠征先は関西 #2-4

2023-02-14 20:25:03 | 旅行記

「今年も最初の遠征先は関西 #2-3」のつづきは、万博記念公園日本庭園最奥部から始まります。

④深山の泉 から正門を目指して散策は続きます。
次のエリア、③竹林の小径 では、「竹の補植工事」が行われてるのだそうで、一部が立入禁止になっていました。
説明板柵の内側にあって、写真を撮ろうとすると、

と、説明板ではなくの方にピントが合ってしまい、なんじゃこりゃ
動物園でありがちなパターンです

日本庭園を造成する前の千里丘陵には大規模な竹林が広がっていました。「竹林の小径」は、郷土の風景を再現するためにつくられた場所で、タケの下にはセンリョウマンリョウナンテンなどが植えられ、“もののあわれ”を感じさせる静かな流れも配置されています。
手入れされた竹林の静けさの中で、「ししおどし」や「せせらぎ」の音がどこからともなく聞こえ、いっそうの静寂を感じるこの場所で、千里の郷土風景である竹林を思いながら、穏やかな刻を過ごしてみませんか。

だそうで、これはマンリョウかな?

竹林を眺めていると、以前、本宅の隣家の庭にはが生えていたっけな… と思い出したりして。

   

そして、この日最後の「万博日本庭園八景」⑥千里庵の枯山水です。

エントランスから「侘び寂び」の景ですな

植えられているのは「クロチク」
JRA3歳特別レース「黒竹賞(くろちくしょう)」というのがあるのだけれど、もしも「金竹(コンチク)」という植物があって、それを特別レースの名称に採用したら、「コンチクショウになるのだろうけれど、ことばの響きからして、あり得ないだろな

冗談はさておいて

茶室「千里庵」は、禅院の方丈を象って造られています。
室町時代には、方丈前の小さな空間に、水を使わずに石や砂、草木などで自然風景の山と水を象徴化する「枯山水」の庭が発達し、禅僧はこの庭の前で悟りを開こうとして日々座禅に取り組んでいたといいます。一見簡素で変化に乏しい庭ですが、太陽の移ろいによる砂紋の陰影、植物の多様な緑、生垣越しに広がる空の青も含めて違った色彩を見せてくれます。
このような見方が、簡素なものの中にも、美しさを見出す日本人の「わび」の心に通じます。

「茶室」としてはかなり大ぶりの建物ですが、「方丈」を象っているそうですから、こういう規模になるのでしょう。
季節によっては、ここでお茶&菓子を楽しめるようですが、この日は「休業でした。

枯山水を眺めたあと、正門まで戻った私は、「近世地区」の半分と「現代地区」はしょって日本庭園を後にしました。

そして、最後に、もう一度「太陽の塔」を見上げて、今回の万博記念公園はおしまい。

私が万博記念公園に来たのは、これが4回目だったのですが、これまで自然文化園西半分(以上)「未踏の地」になっています。
国立民族学博物館(みんぱく)には3回も行ったのにね

みんぱくの観覧に盛り上がり過ぎて疲れ果ててしまったり、今回のようにオフシーズンだったり逆に暑すぎたりと、案内マップであの広大なエリアを示されると、なかなか足が向かないのです
でも、いつかは良い季節に散策したいものです

運営面でいまやドロドロになってしまった感のある TOKYO 2020 、施設の新設等にあたって「レガシー」ということばが多用されたことが思い出されます。TOKYO 2020最大のレガシーは、スポーツ関連ビジネスの醜い面周知されたことだと思っていますが、EXPO'70 は、50年以上経っても人々をワクワクさせてくれる有形・無形のものをたっぷりと「レガシー」として残してくれたんだなぁ

   

来たルートを逆に、今度は間違えることなく モノレール&電車を乗り継いで新大阪駅まで戻り、新大阪駅駅ナカ昼食を摂りました。

そして、ホテルの自室に戻り、しばし「御休息

この日の「MISIA THE GREAT HOPE」の開演時刻は、前日より1時間半早い17:00
当然のように、前日より早く、それも、ちょっと余裕をプラスしてホテルを出発しました。

そして、見込みどおり、大阪城ホール前の噴水付近で、ミー友さんたちとお会いできました。ちなみに前夜は、見知った人とは一人も会えませんでした。
で、楽しく談笑していたのですが、「一天にわかにかき曇り…」とばかりに、みぞれのようなが降り出しました

こりゃかなわん と、ちょいと早めながら入場することにして入場口へと向かいました。迷ったあげく持ってきた超軽量折り畳み傘活躍することになろうとは…

入場する前であればグッズ売場を眺めたりして時間をつぶすことができますが、入場してしまうと、やることが無い…
じゃぁ、タバコ(電子タバコ)でもふかすか…と、喫煙所に向かいました。
大阪城ホール喫煙所は、バルコニーみたいな屋外だけど、大阪城の天守が見えて、眺めが良いんだよね

と、そのとき、に変わって、どわぁ~と降り始めました

思わぬ景色に、タバコを吸っていた人たちは、喜々として、多くがスマホで写真撮影を開始
私も何枚か撮ったのですが、その中の一枚がなかなかのデキでした

なんか「風雲急を告げる大阪城天守」って感じじゃありませんか?
この3枚の写真は、10分足らずの間に撮ったものなのですが、3それぞれの大阪城天守が撮れていて、写真っておもしろい

このあとのMISIAのライヴのことは、既にこちらで書きましたので、ここでは省略

   

終演後は、ミー友さんに出会うこともなく、また、寄り道することもなく、来たルートを引き返して新大阪駅に戻りました。

そして、またもや新大阪駅の駅ナカで、串かつだるま串かつとビール夕食
考えてみれば、大阪での食事(昼⇒夜⇒朝⇒昼⇒夜⇒朝)は、ぜぇ~んぶ新大阪でした
なんとも芸が無い
でも、ホテルでの朝食を除く4食は、ぜぇ~んぶ違うお店です。

それはともかく、大阪2日目も、無事、いや、かなり盛り上がって終わったのでした。

つづき:2023/02/23  今年も最初の遠征先は関西 #3-1 

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「MISIA THE GREAT HOPE」宮城公演のこと

2023-02-13 19:54:52 | MISIA

きのう(2月12日)「MISIA THE GREAT HOPE」宮城公演2日目に行ってきました。
今回は 2 daysのうち、2日目だけ
帰省していた秋田の別邸から、きのう、仙台に移動してライヴを楽しみ、仙台に1して、きょう、本宅に戻ってきました。

先週の広島公演18年ぶり広島グリーンアリーナでの開催でしたが、宮城公演の会場、セキスイハイムスーパーアリーナでの開催も2009年2月21日「CDデビュー記念日以来の14年ぶりと、こちらもなかなかのご無沙汰

 注:MISIAがここで歌うのは、2021年3月11日のTBS「音楽の日」生放送(無観客)以来

私にとっても、セキスイハイムスーパーアリーナでライヴを楽しむのは14年ぶり3回目と、ほんとお久しぶり

セキスイハイムスーパーアリーナがあるのは、仙台市のお隣利府町です(私が敢えて「宮城公演」と書いているのは、これが理由)
私が仙台に向けて乗った新幹線がその近くを通過したのが14:25頃で、それから5分も経たず仙台駅に到着したのですが、仙台駅西口を出発したシャトルバスは、会場まで40分もかかりました
ルートのほとんどが渋滞していて、日曜日の夕方近いということから、仙台にクルマで出かけた多くの人たちが家路を急いでいたんでしょうね
11日に、Twitter「東北地方のトレンド」「セキスイハイムスーパーアリーナ」が上がっていて、中身を見たら、そのほとんどが「不便というものだったのもむべなるかなです

   

さて、私が会場に到着したのは、開場時刻の16:00ほぼピッタリでした。

グッズ売場長蛇の列だったのであっさり断念(行列が嫌いなもので…)。
また、MISIAのサインを目指して「MISIA THE GREAT HOPE BEST」を買おうかとも思いましたが、マグカップ「本日分は終了しました」だったのでやめ、事前購入していたデジタルガチャを受け取るだけにして(3回連続でポーチでした)、会場に入りました。

14年前の「THE TOUR OF MISIA DISCOTHEQUE ASIA」のときは、会場内がめちゃくちゃ寒かった 印象が強かったのですが、今回は、ホテルから持ってきたランドリーバッグにアウターを入れて椅子の下に押し込み、セーターをトートバッグに入れ、Tシャツ&ネルシャツ姿になっても、寒さを感じないほど暖かい
ただ、椅子が小さく、かつ、びっしり並べられているもので、かなり狭い
これで、横を向いて、あの曲やこの曲で腕を動かすのはキツいことが容易に想像できました。

   

私も参加した大阪公演2日目に最後の「MISIAコール」復活し、その後、コール&レスポンスも解禁されたと噂で知っていましたが、前説で、

マスクの着用を条件として、声出しも可とします

と発表があり、やったぁ です

さっそく、オープニングから会場内には歓声が響き、MISIAの歌声も、歓声に応えるように、広い場内に響き渡ります
これだよねぇ~ これこそがライヴだよねぇ~
拍手でしかこちらの感情をステージに届けられない日々が続いてきたけれど、感じるままに歓声を上げられることがこんなに楽しいなんて、しばらく忘れておりました。
MISIAも、イヤモニを外して、歓声に耳を傾けるシーンもあったりして、ようやく「普通のライヴ」が戻って来た気がしました。

久しぶりのコール&レスポンスだというのに、かつてFUJI ROCK「MISIA先生の歌唱指導」とも言われた、高度なバリエーション豊かなコール&レスポンスがいきなり繰りひろげられ、付いていく聴衆も、聴力と再現力を問われる展開となりました

   

ここで、私が行かなかった広島 2 daysと宮城 初日のも含めて、セットリストを載せます。
セットリストを見たい人だけ、画像をクリック(タップ)してくださいね。

これまで、2 days / 3 daysの公演では、ほぼ日替わりのセットリストでしたが、宮城公演は、武道館の2日目 & 3日目以来の「2日連続で同一のセットリスト」でした。

ここで、ちょっとだけネタバレを。
きのうの私のTweet

2011年に発生した東日本大震災復興応援ソングとしてつくられた「明日へ」は、宮城・福島・岩手県内のホールライヴでも、いわきでの「Candle Night Reiwa」でも、TVで視た石巻での「ap bank fes 2016」東松島で収録した「音楽の日」(2021)でも、思い切り感情が込められたMISIAの歌声心が震えましたが、この夜の「明日へ」@セキスイハイムスーパーアリーナは、MISIA史上過去最高のパフォーマンスだったと言えるかもしれません。
歌うMISIAも、聴衆の多くも、こみ上げるものを抑えきれなかったみたいでした もちろん、私も…

   

話は変わって、私の座席は、席番から予想していたとおり、大阪公演初日ほぼ同じ位置でした。

モニタースピーカーや譜面台のために見切れるバックミュージシャン同じ方々なら、「落ちモノ」がきわどく私の前や横や後ろに落ちていくのも同じ…

このツアーでは、アリーナの前方が多くて、それはそれで大変ありがたいのですが、どうも前方の右端や左端に片寄っている気がして…
たまにはスタンドからステージ全体を観たい、なんて贅沢なことを思ったりもしています

   

ライヴの最後は「MISIAコール」

前説では、「MISIAコール」練習があったのですがその時と、本番とは、聴衆の声の出まるっきり違いました

そりゃねぇ、あんな素晴らしいライヴを体験して、そのお礼というか、感謝の気持ちがこもっていますから、違って当然です

こうしてライヴがお開きとなり、例によって規制退場待ちの時間があり(その間にもステージの撤収作業が始まっていました)、外に出ると、寒い

会場を出て、シャトルバスの乗り場までテクテクと歩くと、その距離がけっこうあるせいか、待ち時間ほぼ無しで暖房の効いたバスに乗ることができました。

帰りのバスでは、この日、唯一会えたミー友さんとあれやこれやと談笑するうち、30分ほどで、仙台駅東口近くのバスの乗降場所に到着しました。

1公演だけでしたが、なんとも満足できる宮城公演でした。

さ、次は横浜 2 days、そのまた次は「幻のファイナルになってしまった福岡 2 days
これまでと、またまた違う(進化した)「MISIA THE GREAT HOPE」を楽しめると確信している私であります。

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今年も最初の遠征先は関西 #2-3

2023-02-11 18:04:19 | 旅行記

「今年も最初の遠征先は関西 #2-2」のつづきです。

万博記念公園花の名所だそうで、ちょうどきょう2月11日から「梅まつり」が始まったようですが、私が出かけた1月28日は、完全に端境期というかオフシーズンで、咲いている花はまったくありませんでした
そのせいか、土曜日だというのに、来園者もまばら…。
ちょっと寂しい気分だったのが、さらに侘び寂びの境地へ誘ったのが、それまで座っていたベンチの近くの木でした。

木の根元に、置かれたように鎮座していたのは、ミニーマウス

誰かがここに置いていったのか?
いや、誰かが落っことしたのを、別の誰かが木の下に置いたっぽい。

もしそうならば、落っことした子(大人かもしれない)ショックだったろうな…
そして、拾って木の根元に置いた人は、落とした人が探しに戻って来たら見つけやすく、かつ、雪や雨が降りかかりにくいということで、ここに置いたんだろうな、なんてことを考えたしだいです。

   

ということで、初めての大阪日本民芸館を目指しました。

Expo'70パビリオンの前を通り、夢の池の南岸からお祭り広場の北側を抜け、国立民族学博物館を横目に、平和のバラ園(当然ながらすべてのバラは幹と枝のみ)の前を通り…と、大阪日本民芸館までやって来ました

かなり遠回りしていますが(太陽の塔からお祭り広場を突っ切るのが最短ルート)東大路を東に歩き、EXPO'70パビリオン近くのベンチで、ようやく次の計画が固まったためです

さて、大阪日本民芸館じゃぁ と、、、、なんか

どこが入口? と思ったら、なんか貼り紙があります。
近づいて貼り紙を見ると、

どあ~、冬期休館中だと

なんと無体なぁ~

まあね、、太陽の塔の内部観覧のあとのこと何も考えていなくて下調べしていなかった私が悪いんですけど…

さて、どうしましょ…

そうだ ここから一番近く、かつ、まだ一度も入ったことの無い日本庭園を歩いてみよう と思いつきました。

さっそく、開け放たれた正門から入園して、案内図を拝見

1970年日本万国博覧会の際に政府出典施設として当時の造園技術の粋を集めて造られた名園です。庭園の広さは26haで、東西1300m、南北200mの西高東低の細長い地形を利用して西側に源泉を設け、そこから東に流れる水の「流れ」を主題として構成されています。万国博のテーマ「人類の進歩と調和」を受け、その流れに「人類の進歩」と「時の流れ」を象徴し、上流から順に日本庭園が辿ってきた各時代の特徴的手法が表現され、最下流では現代の日本庭園の創造が試みられています。また同時に、これらが全体として「調和」のとれた、新しいひとつの庭園としてまとめられています。

だそうです。
広さが26haだなんて、こりゃ「庭園」というよりは「人工林」だろ と思います

ところで、この日本庭園は、東から「上代」「中世」「近世」「現代」4つのエリアが配されています。

万博記念公園の日本庭園

北西端にある迎賓館出発点&終点にすれば、往路では時の流れに沿って日本の庭の変遷を楽しみ、復路時代を遡る楽しみを味わうことができるという趣向なのでしょうが、一般ピープルの入口は近世地区①心字池近くにあります。(注:現在は一般ピープルも迎賓館を借りられるみたいです)

さて、この広大な庭園をどう巡ろうかとしばし考えたのち、心字池より西側だけを廻ることにしました。それにしてもデッカい築山
そして、まずは、②松の州浜へ…。

通路には直線が無く、ゆったりとカーブしているのが、いかにも日本的
次のカーブを過ぎたらどんな眺めなんだろう? なんて楽しみもあります。

そして②松の州浜

説明板によりますと、

「松の州浜」は、川が河口付近から海へと注ぐ姿を象ったものです。
西端の「深山の泉」からの湧水が南北二つの流れに分かれ、やがてここで合流して心字池へ流れていきます。
白い砂利のまわりにクロマツハマボウなどの海岸に生える植物が植えられており、設計者である田治六郎氏は、ここに枯山水庭園の起源となる景観を再現した、と語っています。

だそうです。
まさしく「白砂青松」ってやつ。

「州浜」といえば、家紋にも「州浜」があります。

州浜を象ったものだそうですが、どことなく「州浜」ならぬ「舞浜」にある某テーマパークのシンボルマークをひっくり返したみたいだと感じるのは私だけでしょうか?

話が逸れそうなので、先に進みます

それにしても広い
大阪万博の会場自体がハンパなく広いのですが、この日本庭園もめちゃ広い まだ歩き始めたばかりなのに…

それでいて、枯葉一枚落ちていなくて、しっかりと手入れされています
この日本庭園造ったことも凄いけれど、維持していることも凄いよなぁ

   

と感嘆しながら進むと、どうしても頭の中に「木洩陽の記憶」が流れてしまう⑤木漏れ日の滝です。

「木漏れ日の滝」は、高さ3.5mの二段落ちの滝を中心に、その左に一つ、右に二つの形の違った小滝で構成されています。主瀑に使われている石は、庭園で最も大きく、その重量は1個で17t、15tもある巨石が使われています。
滝口からの渓流は、流音、姿とも人工の流れとは思えないほどの力強さがあり、両岸にはモミジが多植され、新緑の薄葉を通す光や樹冠の隙間を通る木漏れ日、真っ赤に染まった葉など、訪れるたびに違った表情を楽しめる紅葉渓の景色を呈しています。
昔の人々は滝の力強さや躍動感に心を動かされ、数々の和歌を残しています。

これまた、広葉樹が葉を落としてしまったこの時期はオフシーズンなんですな
それでも、撮った写真には木漏れ日が写っていました

そういえば、朝ドラ「カムカムエヴリバディ」で、「木漏れ日に相当する言葉は英語には無いなんて言っていたっけ…

それはともかく、この滝は「人工」だそうですが、高松の栗林公園にある滝は「藩主の観賞用としてつくられた」そうで、

紫雲山の中腹に置いた桶まで人力で水を汲み上げたことから桶樋滝 (おけどいのたき) という名前がついたといわれている。

でしたっけ (探訪記)

    

そして、最深部に到着しました。

④深山(みやま)の泉です。
水面に映る木々の緑がよござんす

平安時代は貴族の“寝殿造り”と呼ばれる邸宅に付随して「寝殿造り庭園」が作庭されていました。
「深山の泉」は、迎賓館を寝殿造りの建物と見立て、この様式をモデルとして作られており、迎賓館のまわりのモミイヌマキなどは、太古の大自然を表し、泉から涌きだした水は“時の流れ”を象徴しています。4つの時代の庭園様式を取り入れた万博日本庭園の源泉を表現しています。
平安時代は中国大陸の影響を大きく受けて、海をイメージした庭が発達しました。「深山の泉」に立つ石は、島々を表し、手前の石敷きは海岸の多様性を表した州浜をイメージしています。
平安時代の貴族は、この庭を儀式の場や遊興等に利用していました。

「上代庭園地区」の説明板には、上記の説明を簡略化したものに加えて、「現存する代表的な庭園」として、神泉苑平等院庭園が挙げられていました。どちらへも行ったなぁ (探訪記:神泉苑平等院庭園)

私の「日本庭園散策」中間点に到達したところで「#2-4」につづきます。

つづき:2023/02/14 今年も最初の遠征先は関西 #2-4 

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今年も最初の遠征先は関西 #2-2

2023-02-08 22:41:18 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「今年も最初の遠征先は関西 #2-1」のつづきです。

さぁ、「太陽の塔」内部観覧の目玉ともいうべき「生命の樹」です。

なんとも岡本太郎造形です

リーフレットを引用しますと、

太陽の塔の胎内には、地下から上へ上へと伸びる前代未聞のオブジェがそびえています。岡本太郎が構想した高さ41メートルにおよぶ巨大造形<生命の樹>です。天空に伸びる1本の樹体に、単細胞生物からクロマニョン人まで、生物進化をたどる33種もの“いきもの”がびっしりと貼りつく独創的なインスタレーションで、世界にも類がありません。
万博当時、テーマ館は地下展示「過去:根源の世界」からはじまり、このドラマティックな空間体験へと誘われました。地下空間からアプローチしてきた観客たちは、エスカレーターを乗り継ぎながら、始原のときから営々とつづく“生命のものがたり”を間近に見ていったわけです。

です。
万博当時は、最初の部分だけ階段を上り、そこから4基のエスカレーターを乗り継いで、右腕の中のエスカレーター大屋根に出るというルートで、所要時間はたった5分だったそうですが、現在は、エスカレーターは重量軽減のため取り外され、高さ30メートルまで、5つの階段 (145段)で登りながら鑑賞し、別の階段(避難階段のようにほぼひたすら下るだけ)で地上に降りるようになっています。でも自分のペースで上れる階段ですから、万博当時とは比べものにならないほどゆっくり生命の樹を鑑賞できました。

2010年7月に秋田市立千秋美術館で観た「岡本太郎展 太陽の塔への道」には、生命の樹復元模型と、

太陽の塔内部の復元模型が展示されていて、

なんとなく雰囲気をイメージしていた私です。

ですが、やはり現物、というか実物大の復元を目の当たりにすると、ビリビリするような刺激が伝わってきました

太陽の塔は、とんでもない外観をしていますが、内部もまたとんでもない

ちょっと先を急ぎすぎました

写真撮影可1階で、思いっきり写真を撮りました。
まずは、生命の樹の根元、「原生類時代」

ネバネバしてそうなポリプとか、のようなウミユリとか、サルバドール・ダリワイングラスを設計したらこうなりそうなべんもう虫とか、なんとなくMISIA「希望のうた」のMVを連想してしまいます。
見上げるとクラゲもいるし…

撮影禁止になる階段の一歩目の前に、最上部を見上げてみようと思いましたが、カメラではうまくとらえられませんでした

「岡本太郎展 太陽の塔への道」で観たカットモデルだと、

腕の上から首元(?)まで、こんなラジエーターみたいな構造になっているらしいのですが、下から見上げると、ふにふにした層がどこまでも上に連なっている感じ
なんとなく日本武道館天井とも似た雰囲気でもありました。

こんなところで、カメラをバッグにしまい、階段を昇り始めました。

生命の樹は、下から「原生類時代」⇒「三葉虫時代」⇒「魚類時代」⇒「両生類時代」⇒「はちゅう類時代」⇒「哺乳類時代」と、現在に近づいてきます。

もう一度、リーフレットから引用します。

<生命の樹>は下から上に向かって原生類から哺乳類へと進化していきます。しかし、アメーバは下等で人間が最上級、と訴えているわけではありません。表しているのは、根源から未来に向かってふきあげる「生命のエネルギー」です。<生命の樹>は単純な「生物進化模型」ではないのです。

そうだろうねぇ 大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」に、「人類は進歩なんかしていないとイチャモンをつけたというあの岡本太郎ですから、「生物進化模型」なんて創るはずもありません

それにしても、1960年代末期の日本はなんというとんでもないものを創ったんでしょ
発想した岡本太郎凄いけれど、そのアイデアを認めて、ヒト・モノ・カネをつぎ込んだ国・事務局凄い

そのエネルギーは、現代の観覧者たちにも伝わっているようで、階段を上っている最中も、見終わって地上に降りてからも、みんなニコニコでした。

見学エリアの最上部まで行くと、大屋根へのエスカレーター(右腕)と避難階段(左腕)が設けられていた両腕の内側を見られました。
これがまた、ときめかせてくれました

この空間を、エスカレーターに乗って、未来を象徴する大屋根に移動したなんて、万博の来場者はさぞかしワクワクしただろうな…

その太陽の塔腕の内部こちらのサイトからちょいと写真を拝借します

この「日本文化情報発信サイト IHCSA Cafe」の記事には驚く話が多いのですが、中でも極めつきは、

最終的に地面から腕の下までを大きな1階とみなして、地下1階・地上2階建ての「準耐火建築物」とした。

という話
あれが「地下1階・地上2階」ですと

というわけで、階段を下り、ミュージアムショップで「岡本太郎傑作選」という、太陽の塔を含む岡本太郎6作品のどれかが入っているという、いわばガチャガチャ(880円)を買って、外に出ました。

そして、見上げると…、

ずいぶん階段を上って下りた気がしていたのですが、あそこ(腕の位置)までしか上っていない

ちょっとショックでした

でも、次の行動を考えながら、ベンチに腰掛け、「太陽の塔…、太陽の塔…念じながら「岡本太郎傑作選」のパッケージを開けると、

やったぁ~ 

太陽の塔です

おそらく、「6作品のどれか」でも、場所柄、「太陽の塔」比率が高いんでしょうな
なにはともあれ、これはうれしい

さて、太陽の塔の内部観覧に要したのは30分弱で、まだ正午にもなっていません。
朝食をしっかりと摂ったこともあって、まだおなかもすいていません
さぁ、どうしましょか…

そういえば、EXPO'70 パビリオン国立民族学博物館は何度か見学したけれど、大阪日本民芸館には一度も行ったことがない…。
よし、大阪日本民芸館を見学しよう と決め、ベンチから立ち上がりました。

というところで、「#2-3」につづきます。

つづき:2023/02/11 今年も最初の遠征先は関西 #2-3 

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今年も最初の遠征先は関西 #2-1

2023-02-03 17:59:15 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「今年も最初の遠征先は関西 #1」のつづきは関西遠征2日目(1月28日)の見聞録です。

MISIAのライヴで遠征すると、ライヴ当夜は興奮して寝付けないのが常でして、この夜も寝付けないし、朝の5時半には起きてしまいました。
目覚めると、PCTwitterほかをたらたら眺め、製氷機のあるフロアに行ってgetし、毎朝のルーティーン、アイスコーヒーを淹れました。

そして頃合いを見計らって、遠征でのお楽しみ、朝食会場へ。

う~ん、良い天気、良い眺めです。
この日もしっかりと朝食をいただきました

さて、この日は、念願だった「太陽の塔」の内部観覧の予約をしていました。
予約は11:00~なんですが、「予約時刻の20分前には来い」だそうで、さらにちょっと早めにホテルを出発しました。
千里中央駅で、北大阪急行から大阪モノレールに乗り換えようと歩いていると(大阪の電車って乗り換えが面倒な駅が多い)

おぉ、残雪
大阪市内ではが降った気配はなかったのですがねぇ
持っている靴の中でもっとも滑らない靴を履いてきてよかった

ところが、大阪モノレールに乗ってしばらくして、あることに気づきました
なんと、私は逆方向(大阪空港行き)に乗っていたのです
千里中央駅から万博記念公園に行くのは初めてじゃないのに、なんということを…
気づいたのは柴原阪大前を過ぎた直後で、そこから次の蛍池までは、ただでさえトロいモノレールが、いつも以上にトロく感じられました。
寝不足のせいか、ボーッとしていたんだろな

こんなことがあったことで、かなり余裕があったはずなのに、予約時刻(の20分前)ピッタリのタイミングで万博記念公園に到着しました。

中央口の券売所で、スマホの予約画面を呈示して「自然文化園・日本庭園」の入園券を受け取り、入場

そして、太陽の塔の後ろ側に回り、

スロープを降りて太陽の塔入場口に到着しました。ところが、私が入場できるまでは20分近くあるわけで、手持ち無沙汰 よほど混んでいるときならまだしも、こんなオフシーズンにも20分前に来させる意味が判らん

しばし無為なひとときを過ごしたのち、窓口で再び予約画面を呈示して「入館券」を受け取りました。

そして、いざ、太陽の塔の内部に侵入

最初は<地底の太陽>ゾーン

リーフレットを引用しますと、

<地底の太陽>ゾーンは、万博当時、太陽の塔の前段に位置していた地下展示「過去:根源の世界」の雰囲気を体感する空間です。仮面や神像、映像や照明などを組み合わせて、テーマ館の世界観を伝えます。

だそうです。
大阪万博 EXPO'70テーマ館は、太陽の塔その内部だけでなく、地下の展示大屋根も合わせたものだったことは知っていました。
岡本太郎記念館で見た復元模型では、「行ってみなきゃ判らない」地下展示の構成と規模を伺い知れましたし、

2018年4月に国立民族学博物館で観た特別展「太陽の塔からみんぱくへ-70年万博収集資料」(見聞録) では、「過去:根源の世界」で展示するため、世界各地から収集された仮面や神像が、万博終了後に国立民族学博物館に移管されたこととか、同日、EXPO'70パビリオンで観た企画展「The legacy of EXPO'70Ⅱ リバース-太陽の塔再生」(見聞録) では、なぜ太陽の塔筐体だけが保存されたのかなんてことを知っていましたから、<地底の太陽>ゾーンは、まさにリーフレットにあるとおり「雰囲気を体感する空間」で、それ以上でもそれ以下でもないものでした。

<地底の太陽>ゾーンのメインは、「地底の太陽」

万博で展示されたオリジナル「地底の太陽」行方不明で、しかも3Dデータは残っておらず、現在展示されているものは、当時の写真を元に造形師の木下隆志さんほかが原型を起こしたという話は、岡本太郎記念館での「太陽の塔 1967-2018 -岡本太郎が問いかけたもの-」で知り、1/10サイズの「原型」を拝見しましたっけ… (見聞録)

ついに、オリジナルサイズの「地底の太陽」を拝見できました

なお、太陽の塔の内部で写真撮影ができるのは1Fエリアだけで、生命の樹の外周を巡る階段を上るときには、スマホやカメラをバッグに収納することを求められます。
階段での渋滞とか、スマホやカメラを階下に落っことすことを防止することが目的なんだろね…

さぁ、いよいよ生命の樹
なんですが、「#2-2」につづきます。

つづき:2023/02/08 今年も最初の遠征先は関西 #2-2 

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今年も最初の遠征先は関西 #1

2023-02-01 12:49:42 | 旅行記

「今年も最初の遠征先は関西 MISIA編」のつづきは、関西遠征初日のあれこれ。

でも、「ダイジェスト」に書いた旅程のとおり、「自宅⇒大阪のホテル⇒大阪城ホール⇒大阪のホテル」という移動MISIAのライヴだけで、他にはこれといったことはなかったよな…

いや、遠征3日前(1月24日)の夜、「最大級の寒波到来」が大きなニュースになっていて、西日本を中心に各地に大雪が降りました。とりわけJR西日本は、「京都線や琵琶湖線などあわせて21か所で線路のポイントの切り替えができなくなり、15本の列車が立往生した結果、一時、およそ7000人が車内に閉じこめられ、16人が体調不良を訴えて救急搬送されました」(こちらの報道より)という惨事に見舞われるありさま

私が関西遠征に出発する27日にも再び寒波がやって来るという予報が出ていて、ちょっとドキドキでした。
27日朝の関東地方には曇空が広がっていて、途中、富士山もさっぱり見えず
それどころか、名古屋を過ぎると、車窓にはうっすらとをまとった景色が広がっていました

東海道新幹線ボトルネック関ヶ原減速せずに通過できるのかとちょいと不安でしたが、無事に乗り切りました。
ところが、滋賀県内は本格的な雪景色

この季節の東北新幹線なら「通常モード」ですが、東海道新幹線から雪景色を眺めたのはこれが初めてかもしれません。

京都府内に入ると雪景色は姿を消し、定刻新大阪駅に到着しました。

   

新大阪駅の駅ビルで昼食を摂ったあと、ホテルに向かうと、寒い
駅前のぴちょんくん温度計「3℃」と表示していました。

ホテルにチェックインすると、慣れない昼間のビールが効いたのか眠くなってきたので、スマホのアラームを16:00にセットして昼寝

しばしの睡眠から覚めると、空が良い具合に明るい

そして気温2℃上昇して5℃

しかも湿度は、この時季には高い67%と、MISIAの喉には優しい数値を示していました

「MISIA THE GREAT HOPE」大阪初日は、平日だけあって他の公演よりちょい遅めの「17:30開場 18:30開演」なので、なおもホテルの自室でコーヒーを淹れるなど、まったり過ごして、17:00ちょい過ぎに出発

大阪駅大阪環状線に乗り換えたら、電車が動かない
なんでも、どこかの路線からの緊急信号を受信したとかで発車を見合わせているとか…
ほんのちょっとだけ不安になりましたが、5分ほどで発車
約10分大阪城公園駅に到着しました。

と、まだ夕食には早すぎる時間なのに、ここで腹がへってきた

軽くでいいや、と、コンビニでおにぎりお茶を買うことにして、ローソンへ。

大阪城公園のローソンを使うのは初めてだったのですが、面白いシステムになっていました。
大きなイベントの開催時のみなのだと思いますが、入店するとそのまま行列に並び、行列が進むにつれて棚から欲しいものをとって、最後にレジでお支払いというシステム。
客は、行列しながら店内のすべての棚の前を通ることになるわけで、普通ならうっとうしいところですが、客が多いときには極めて有効な方法だと感服いたしました。
しかも、行列で進む途中で、大きな窓越しにSL C58を間近に眺められるというなんとも珍しいアトラクション付きです

18:00ちょい前には大阪城ホールに入場して、空いている椅子を探し、そこでおにぎりをパクリ

MISIAのライヴのことは「MISIA編」で書きましたので省略いたしまして、終演後は、来たルートをそのまま逆に進んで新大阪駅まで行くと、駅ナカで夕食を摂りました。

このとき、MISIAアプリチェックインするのを忘れていたことに気づきました

あちゃぁ~ またやっちまった

でも、入場券の写真電子チケットのスクリーンショットを添付してMISIAアプリ内の「問い合わせ」にメールすれば後付けしてもらえるので、まぁ大きな問題ではありません
実際、私は昨日、無事にスタンプを頂戴いたしました

ホテルに戻ると、風呂に入り、関西遠征初日が心地良く終了したのでありました。

つづき:2023/02/03 今年も最初の遠征先は関西 #2-1 

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