新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

2ヵ月ぶりの「MISIA星空のライヴ」で長野遠征 #1

2021-09-30 19:52:02 | 旅行記/美術館・博物館・アート

先週の日曜日、「MISIA星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSEを聴きに長野まで遠征してきました。

大宮駅 9:45発の北陸新幹線「かがやき」に乗ると、

1時間後には長野ぉ~

速い速い

「MISIA星空のライヴ」までの約4時間の過ごし方についてあまり考えていなくて5年ぶり善光寺にお参りしようかな(前回の旅行記)漠然と思っていました。
そんな状況で改札口近くにある近隣地図を眺めていると、目に止まったのは「小布施」
小布施といえば、葛飾北斎と縁のあることで有名ですが、そもそも小布施が長野県のどの辺にあるのかも知らない私でして、この近隣地図によれば、長野駅から電車一本で行けるではありませんか
よし、コレだ と、小布施に行ってみることにして、まずは「MISIA星空のライヴ」の会場、ホクト文化ホールの場所を直接目視で確認して、

長野電鉄のホームに向かいました。

ところが長野電鉄・長野駅に着いてみると、次の電車まで30分ほどあります。
ただ漠然とこの地下ホームで発車時刻を待つのももったいないので、ちょっと早めの昼食を食べることにして地上に出たのですが、5年前そばを食べたお店(もりそばを七味唐辛子で食べた)閉まっています
まだ11時ちょい過ぎですから致し方あるまい… です。
そこで、一服するか…と、案内図で見つけたペデストリアンデッキ下にある喫煙所に行き、一服
と、道の反対側にあるそば屋さん営業中みたいです
これ幸いと、横断歩道を渡り、そば屋さんに入ると、ささっと出てきてささっと食べられそうな、もりそばを注文しました。
そして、視線を上げると、壁に貼られていたのは、

「神坂雪佳」展のポスター

あれまぁ 長野まで来て「神坂雪佳」展に遭遇するかぁ

このブログでは神坂雪佳は何度も登場しておりまして(こちらこちらこちら など)、さらに、わが家のトイレには神坂雪佳「秋草花図」の額絵をのみならず年間を通じて架けておりまして、

ほぼ毎日鑑賞しております。
そんな神坂雪佳の作品を拝見できる機会がやってくるなんて

さっそく会場の水野美術館の場所を調べると、長野駅の南口を出て、ホクト文化ホールを通り過ぎて、さらに同じくらいの距離を進んだあたりにあって、時間に余裕があれば行けないこともなさそうです

小布施から戻ってきて時間があれば行ってみよう なんて考えているうちにそばが出てきて、気がつくと小布施行きの電車まであまり時間がありません
どわわぁ~そばをたべ、会計して、再び長野電鉄長野駅に戻り、小布施までの乗車券(680円)特急券(100円)を買い(交通系ICカードは使えませぬ)、改札口からホームに入ると、、、、おりょ

この車両はもしかして…

さらに、ドアは折りたたみ式だし、座席には折りたたみ式の横長のテーブルがあるし、

これは小田急ロマンスカーお下がりではなかろうか?

電車が動き出したあと、スマホで調べると、Wikipediaによれば、

老朽化した2000系の代替として、小田急電鉄で使用されていたロマンスカーの10000形「HiSE」無償で譲り受けた車両である。車齢としてはまだ若かったが、小田急電鉄ではバリアフリーに対応できないとされ廃車となった車両である。

だそうな
やはりそうでしたかぁ。会議で厚木まで行くのにタバコを吸いたいからと特急料金を奮発してロマンスカーに乗った昔が懐かしいゾ
そうそう、テーブルの下には、今は用済みとなって吸い殻入れが潜んでおりました

長野駅を出発して、雨中を走ること20分少々小布施駅に到着

駅の地図で北斎館の位置を確認して、歩き出しました。

小布施駅周辺は閑散としていて、早めながら昼食長野駅前で摂ってきて良かったと思いました。

というところで #2 につづきます。

つづき:2021/10/02 2ヵ月ぶりの「MISIA星空のライヴ」で長野遠征 #2 

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超久しぶりに象潟へ (後編)

2021-09-22 19:53:25 | 旅行記

「超久しぶりに象潟へ (前編)」のつづきです。

現在の象潟は、田んぼの中に点々とが生えたが点在していますが、文化元年(1804)の大地震で地面が隆起する前は、田んぼの部分に海水が入り込み、ちょうど、松島のような景観だったようです。

干上がった部分は水田に変えられ、本荘藩は丘になってしまったかつての小島を崩してこれも水田にしようとしたことは「前編」に書いたとおりです。
浅い潟に小島が点々と浮かび、水面に鳥海山の姿を写す様子は、さぞかし美しかったことだろうなと思います。
この日の鳥海山は、残念ながら、半分から上を雲の中に姿を隠しておりました。

田植えの直前・直後頃は、水田に写る鳥海山を眺めて往時(?)をしのぶことができるそうですが、今は稲刈りが始まる季節でございます。

   

補修中とおぼしき本堂にお参り。

本堂に向かって左側に大きな石碑があって、ただ「紅蓮尼の碑」と書かれた杭が立っていました、
『ぐれんに』って誰だ?」と、思いつつも、何の説明板もないので写真も撮らなかったかったのですが、このブログを書くためにいろいろ調べたところ、「おくのほそ道」を遡ること300年以上も前に、象潟と松島をつないだ人物だとわかりました。
詳しくはこちらのサイトとかこちらのサイトをご参照いただきたいと思いますが、そもそも、読みが「こうれんに」だというのが、なんともお恥ずかしい話で…

そういえば松島で象潟絡みの看板を見たことがある と思い出して、11年前の写真をコレクションから探したところ、見つかりました

「松島と象潟は夫婦(めおと)町です。」と大書きしてあって、

象潟の娘タニ(のちの紅蓮尼)と松島の若者小太郎悲恋物語が、
今も2つの町を固く結びつけています。

象潟にもおいでください。

ですと
あぁビックリした…
それにしても、地図にプロットすると、松島と象潟とはこんなに近いんだとこれまたビックリ

話を象潟紀行に戻しまして、本堂の左手にある廊下の下をくぐって庭園に歩を進めました。

立派なタブノキがあって、

その緑陰お稲荷さんの小さな社と、苔むした芭蕉の句碑がありました。

説明書きによると、

表に「象潟の雨に西施がねぶの花 芭蕉翁」裏に「宝暦13年癸未9月 願主本荘英良、滝沢、矢嶋、汐越、助力水戸行脚」と彫られている。芭蕉70回忌を記念して建立されたものである。

だそうです。
句が「おくのほそ道」に載っているものとビミョーに違うのはご愛敬でしょうか

この碑のすぐ近くに「親鸞聖人御腰掛石」なるものがありました。
親鸞聖人が象潟にやって来たわけではなく、Wikipediaによると、

肥前島原の西方寺にあった親鸞が腰掛けたとされる石。
安永6年(1777年)切支丹ノ変を避けるために信者が蝦夷地に輸送中、シケにあい、象潟に陸揚げしてここに納めたものであるといわれている

だそうです。

島原/切支丹といえば島原の乱を思い出しますが、島原の乱江戸時代初期の寛永年間に起こったものですから、ここでいう「切支丹ノ変」別物です。
また、島原から蝦夷地に避難させるというのもかなり不自然
よく判りません

   

芭蕉象潟までやって来たのは、能因西行足跡を辿るためだったと言われています。
で、「西行法師の歌桜」という標柱のあるがありました。

西行がこのを観て

 象潟の 桜は波に うづもれて
  花の上こぐ あまの釣り舟

と詠んだのかは判りません。
なにせ西行900年前の人ですから…

ところで、能因が詠んだ歌は、

 世の中は かくても経けり 象潟の
  海士の苫屋を わが宿にして

だそうで、西行の歌は能因の歌を踏まえた可能性が高そうですし、「おくのほそ道」

闇中に模索して「雨もまた奇なり」とせば、雨後の 晴色またたのもしきと、蜑(あま)の苫屋に膝を入れて、雨の晴るるを待つ。

の部分も能因の歌を意識しているに違いありません

能因が3年間住んだという能因島(by 芭蕉) は蚶満寺からちょっと離れた場所にあったらしい(地名としては現存)のですが、

芭蕉の句だけでなく、能因や西行の歌も、歌碑までは無理としても、説明板くらいはあってもよいのではないかと思った次第です。

   

小一時間かけてのんびりと蚶満寺の境内を散策すると、ちょうど昼時
すぐ近くの「道の駅・象潟『ねむの丘』」に移動して昼食を摂りました。

4階にある展望温泉「売り」「道の駅・象潟」ですが、温泉に入る準備はしていませんでしたので、2階のレストラン日本海を眺めながら海鮮丼をいただきました。

そして食事後は、しばし日本海を眺めました
の色はキレイだし、飛島が見えるし、

心地良いし、

でも、鳥海山は見えない…

このあと、どこかに寄ろうかとも考えましたが、心身共にけっこう満腹状態でしたので、そのまま来た道をとって返して別邸に帰ったのでありました。

なかなか結構な往復150km弱のドライブでした。

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超久しぶりに象潟へ (前編)

2021-09-21 20:32:39 | 旅行記

先週の水曜日、好天に誘われて、象潟までドライブしてきました。
象潟に行って蚶満寺にお参りすることは、懸案になっていまして、これが三度目の正直2019年9月には、羽黒山⇒加茂水族館⇒酒田市内⇒蚶満寺のドライブを決行したものの、羽黒山「登山」体力を、そして加茂水族館時間を使い果たし(記事)、そのリターンマッチのはずだった今年6月庄内方面ドライブ酒田市内の観光時間を使い果たしました(記事)。

そんなわけで、今回は、狙いを蚶満寺に絞り込んで、10時ちょい過ぎに別邸を出発。
R7から日本海東北道無料区間(岩城IC~金浦IC)を走り、1時間10分蚶満寺の駐車場に到着しました。

平日ですから、広い境内にほとんど人はおらず、静かったらありゃしない。近くのR7からのクルマの走行音くらいしか聞こえません。
で、私が蚶満寺に来るのは、、、何十年ぶりなんだろ…
小学生のときに、親戚一同と「汽車に乗ってきた記憶が残っているのですが、それが最後っぽい。
というわけで、まずは駐車場にあった案内図でちょっと勉強

説明板によると、

皇宮山と称し、古くは仁寿3年(西暦853年)に、比叡山延暦寺慈覚大師円仁が開山したといわれ、はじめは天台宗に属していたが、のちに真言宗そして曹洞宗に改宗し、現在に至っています。
正嘉年間(1257~1259年)北条時頼が諸国行脚の途中この寺に立ち寄り「干満寺」に改めたと言われています。この干満の文字が神功皇后の伝説にある「干珠満珠」を連想させるところから、「干満珠寺」とも呼ばれ奥の細道には干満珠寺の名で出てきます。
蚶満の名の起源についてはこのあたりを古くは「蚶方」と書き。寺名も方寺」であったものをいつの頃からか、万寺読みまちがえ、文字を改め、満寺にしたといわれています。

だそうです。

そういえば、という文字は「蚶満寺」以外にみたことがありませんが、どういう意味の漢字なんだろ と調べると、どうやら「アカガイ」のことだそうで、こちらによると訓読みは「きさ」
つまり旧地名とされる「蚶方」は現在と同じく「きさかた」と読んだんでしょうな。
ちなみに、「キサガイ(象貝)」という貝は、アカガイとは別の種類だそうで、ややこしい

   

さて、私の記憶の中では本堂より印象が強く残っている山門です。

この山門は、

建築年代は不詳であるが、江戸時代中期と推定され、矢島藩主生駒家から寄進されたと伝えられる仁王像が収められている。

だそうで、生駒家寄進の仁王像がこちら。

生駒家といえば、高松城丸亀城を築城した讃岐一国の国持大名だったもの、お家騒動の末、出羽・矢島大左遷された一族ですな。

こうして寄進するお殿様もいれば、文化元年(1804)大地震で地面が隆起し、潟が陸地に変わってしまうと、それまでの景観保護の方針を転換して島々を崩して新田開発に乗り出し、それに反対する蚶満寺と住職迫害した本荘藩みたいなのもあったりするという…

山門の丸軒瓦に菊の紋がついていて、どうしたことやらと思っていたら、Wikipediaによれば、

これは、閑院宮家祈願所となったことによる。

だそうで、蚶満寺の覚林和尚本荘藩への対抗措置として、蚶満寺を閑院宮家の祈願所にしていただいたことが、その背景にあったんですな…

では、蚶満寺の寺紋? といいますと、

ちょっと上下に潰れた「三つ鱗」紋、関東の覇者・北条氏と同じ紋です。

境内には「北条時頼公のつつじ」なるものがあるし、

駐車場で観た由来書きに

正嘉年間(1257~1259年)北条時頼が諸国行脚の途中この寺に立ち寄り「干満寺」に改めたと言われています。

とあったしで、北条氏由来の寺紋と考えるのが自然でしょ。
それにしても、「北条時頼公のつつじ」って何???

   

ところで、蚶満寺のある象潟(きさかた)は、秋田県人にとっては馴染みのある地ですが、全国的な知名度はどうなんでしょ?

松尾芭蕉「おくのほそ道」紀行の最北の地が象潟で、その章を

江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責

と書き始めています。
訳せば、「これまで素晴らしい川・山・海・地を数限りなく巡ってきたけれど、今、象潟を目前にして、心が沸きたつ」とでもなりましょうか?

そして、蚶満寺を訪れ、

此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道 遙に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。

として、二首

象潟や雨に西施がねぶの花

汐越や鶴はぎぬれて海涼し

芭蕉が象潟を訪れたのは元禄2年6月16日で、新暦にすれば1689年8月1日で、秋田では暑い盛り。

9月も中旬ともなればねぶの花(合歓木の花)の時季はとうに過ぎて、がなっていました。

あ、このネムノキ芭蕉像の周りに植えられておりまして、

そしてその向かい側には西施像。

ネムノキが咲く季節の雨の日にここに来ると、芭蕉の句「象潟や雨に西施がねぶの花」実感できるという次第です。

そうそう、「おくのほそ道」って、初老の芭蕉若造の曽良を引き連れて旅をしたイメージですが、芭蕉と曽良は4~5歳しか違っていなくて、この旅のときは揃って40歳代前半なんですよ

そこんとこをお忘れなく

というところで後編につづきます。

つづき:2021/09/22 超久しぶりに象潟へ (後編) 

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ただいま別邸に帰省中

2021-09-14 19:04:36 | 日記・エッセイ・コラム

約2ヵ月もブログをお休みしておりました。

体調が悪かったわけでも、書くネタが無いというわけではなく、やはりコロナ禍気持ちが乗らないというのが一番の理由でした。
まだ緊急事態宣言が19もの都道府県で発令中で、コロナ禍は継続中なんですが、それでも2回のワクチン接種を終えた人が国民の半数を超え、新規感染者数が前週比でマイナス傾向が続いているそうで、下手に気を緩めなければ、ようやく下火になりそうな気配が漂っています。

ということで、先週金曜日の深夜っつうか土曜日に日が変わって間もない頃から別邸に滞在中です。

今回の帰省は「お彼岸帰省」なんですが、先月中旬までは、このタイミングで帰省することは考えていませんでした。
というのも、9月12日に予定されていた「MISIA星空のライヴ Across the Universe」旭川公演遠征するつもりで、その次の長野遠征(9月26日)との間隔から、お彼岸帰省は見送ることにしていました。
それが、旭川公演を含む8月下旬~9月中旬の公演がキャンセルになってしまい、それならば と帰省してきたしだいです。

   

私の帰省パターンは、新幹線のときは、往復ともゴミ出しする木曜日か月曜日に(平日なら別邸近くを通るバスを使えるし)、クルマのときは、往復とも高速道路料金の休日割引のある土日と決めていました。

ところが、今年のゴールデンウィーク以降、高速道の休日割引停止されたままで、恩恵にあずかれない状況が続いています

休日割引は適用されません

それならば と利用しているのが、夜間割引です。

夜間割引は、0~4時入口出口を通過すれば適用されますので、私の場合、Aパターン:夕方に出発して0時過ぎに目的地近くのICを出るか、Bパターン:朝の4時前に出発地近くのICから高速道に乗るかの2通りあります。

Aパターンは、出発するのは楽ですが、道中はほぼ闇の中を走ることになって、運転がつまりません また、SA・PAのレストランはほぼ使えず、フードコートやコンビニ質素な食事を摂ることになります。

一方、Bパターンは、徐々に明るくなっていく様子沿線の眺めを楽しむことができる反面、とにかく朝起きて準備して出発するのが大変です。
今年5月末の帰省ではBパターンをとったところ、さいたま市内の信号にことごとく引っ掛かって、浦和ICの料金所を通過したのは4:01 わずか1分か2分遅かったために3,570円の割引受け損ないました

   

そして、今回は、Aパターンで帰省しました。
というのは、秋田道北上西IC~湯田ICで、平日9:00~19:00片側交互通行が行われていて、Bパターンだとギリギリこれに当たる可能性があったから。かなり微妙ではあるんですが…。

で、17:23に自宅を出発し、17:57浦和ICから東北道に乗っかり、ひたすら北上
前回は、浦和IC付近から「二本松⇒福島西 事故通行止」の表示が出ていて、それがなかなか解除されずにヤキモキさせられつつ、私が通過する30分ほど前に通行止めが解除されるなんてことがあったのですが、今回はそんなこともなく、まぁ快調なドライブが続きました。

ところが、仙台を過ぎた辺りで、「湯田⇒横手 工事通行止」の表示が出てきました
「事故通行止」ならば処理が終われば解除される可能性がありますが、「工事通行止」だと、夜間ずっと通行止めになっていると考えてよさそうです。

ということは、湯田IC高速道を降りて、横手ICまでは一般道(R107)を走ることになりそうです。
この区間はもともと70km/h制限ですから、30km弱だけ一般道を走ったところで時間的なロスは大したことはなさそうですが、問題は、なんといっても深夜割引適用されなくなってしまうこと
湯田IC手前の錦秋湖SA1時間ほど時間をつぶせば、24:00過ぎに湯田ICから出ることは可能ですが、別邸への到着も1時間遅くなってしまいます

結局、錦秋湖SAで時間調整するはやめにして、おとなしく湯田ICからR107に降りました。
出口の料金表示は、無慈悲「10,400円」
途中2箇所で片側交互通行があったことを除けば、信号もなく、突っ走る大型トラック(片側交互通行の信号を無視するは、はみ出し禁止を無視するはで、かなりやんちゃな運転)に先導されて横手を目指しました。
そして、30分もかからずに横手ICから再び秋田道に乗り、ガラッガラの道を走りました。

ビールのつまみと翌朝食べるサンドイッチを買うべく、西仙北SAにクルマを駐めると、、、、通行止めの看板が立っていました

通り過ぎてからお知らせされてもどうしようもないのですが、それでも、秋田道の夜間通行止め来週火曜日で終了して、帰省Uターンには影響がないことを確認できたことは良しとしましょう。

別邸でNEXCO東日本のサイトを見ると、7月30日付けリリースが出ていまして、要は私の準備不足なんですが、前回の帰省&Uターンの際に、前述の「片側交互通行」のチラシは見つけて持ち帰ったけど、この夜間通行止めについての告知は気づかなかったなぁ、ブツブツ…

   

深夜割引が適用されれば、浦和IC⇒秋田南IC8,330円(11,900円-3,570円)だったところが、湯田IC~横手IC中抜けしたことで、浦和IC⇒湯田IC:10,400円、横手IC⇒秋田南IC:1,180円(1,680円-500円)合計11,580円

高速道路料金は、料金所チャージ長距離逓減制を採っているため、途中で降りて再び乗ると割高になってしまいます。
そこでNEXCO各社は、

通行止めによりいったん高速道路を降りた場合、長距離逓減が途絶えてしまい、最初の通行と再度乗り直した通行の料金の合計額が、直通の通行料金よりも割高になってしまう場合があります。
東/中/西日本高速道路株式会社ではこのような場合、お客さま個々のご利用に合わせて料金調整を行っております。

だそうな(こちらをご参照方)
そして、

  • D料金所の料金表示器では通常のCD間の料金が表示されますがクレジットカード会社等からの請求時には調整後の料金(ETC時間帯割引を加味)となります。
  • ETCマイレージサービスにおける還元額明細に表示されるご利用金額は、計算処理が終了した時点で調整後の料金に修正されます。
  • ETC利用照会サービスの表示金額については、通常料金が表示されます。

だそうで、いったいいくら請求されるんでしょうねぇ。
でも、浦和IC⇒湯田ICにも深夜割引が適用されるのは無理だろな…

慣れたルートのつもりでも、事前の確認は必要なのだと思い知らされた帰省ドライブ往路でございました。

【追記】本日9月25日、本宅に戻ってまいりました。今回は、2:30起き奏功し、すんなりと深夜割引の適用がICの料金表示でも確認できました。
そして、ようやく往路の通行料金が確定し、なんとなんと、浦和IC⇒秋田南ICトータル深夜割引適用されました
やんややんやです

(2021/09/25 18:58) 

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