新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

いつも赤信号な交差点 2017年3Q

2017-09-30 21:41:51 | タウンウオッチング

気がつけば、9月はきょうが最終日で、明日から、国・地方公共団体や多くの企業が2017年度の下半期に入ります。 見方を変えれば、2017年(CY)は早くも3/4が過ぎてしまったんですな。 ほんと、早い…

というわけで、恒例「いつも赤信号な交差点」シリーズの2017年第3四半期(3Q)編を書きます。

例年のことながら、至極平穏だった2Q(2017年4-6月)と様相を変えて、夏休み渋滞だ期末渋滞だ と、渋滞まみれ3Q(2017年7-9月)でありまして、「いつも赤信号な交差点 2017年2Q」で載せた、四半期ごとの、帰宅ルートの所要時間の傾向はそのままでした。
かなり貴重なデータだと自負しておりますので、もう一回載せておきます。

これによると、4Qは、年末渋滞3Qよりも厳しい交通状況が予想されるわけで、ちょいとウンザリなんですが、「2017年3Qの帰宅」をふり返ります。

まずは、基本中の基本 (?)「赤信号な交差点」ランキング
(  )は前期:2017年2Q[  ]は前年同期:2016年3Q (記事はこちら)のランキングです。

おぉっと 「いつも赤信号な交差点」の代名詞ともいうべき、土支田(笹目通り)首位陥落
土支田交差点28回通って、そのうち2回ノンストップで通過できたのですよ

ちなみに、前期:2017年2Qでは、土支田交差点を通った46回中、46回赤信号で、見事(?) パーフェクトを達成したのに、これはどうしたことでしょ
信号制御のパターンが変わった気配はありませんので、たまたまの、珍事だったのだと思っています。
2位に落ちたとはいえ、安定「十中八九 赤信号」ですから…。

ところで、上に載せた「いつも赤信号な交差点」ランキングは、渋滞による停車(信号待ち2回以上)を除いています。
その渋滞を加味すると、こんなランキングになります。

ランキング自体は「赤信号」ランキングと似たようなものですが、「停められた率」レベルアップしていまして、「十中八九 停められた交差点」は、御三家「世田谷清掃工場前(環八)」「千歳台(環八)」「土支田(笹目通り)」に、「中の橋(環八)」「環八神明通り(環八)」「江田駅前(R246)」が加えて合計6ヵ所

凄いなぁ~、、、っつうか、酷いなぁ…

それじゃ、渋滞ランキングはどうなっているんだろ… と思って集計してみたら、こんな風になりました。

このデータを見ると、酷い と思っていた2017年3Qの渋滞は、去年よりもマシだったことが判ります。

一方で、環八川南を先頭とする渋滞が、今年は密度は薄くなりながらも、元祖「いつも赤信号な交差点」こと世田谷清掃工場前まで長く伸びているるらしいということも見てとれます。

   

そんな3Qが終わり、年末渋滞までは一息つけるかと思いきや、週明けから東名高速の集中工事が始まります。

2017年 東名集中工事

毎年のこととはいえ、工事予定を見ても、なかなか渋滞度合いが読めないんだよな…

加えて今年は、東名高速~第三京浜~首都高速・横羽線をつなぐルート建設の一環として、横浜青葉IC高架橋を架けるのだそうで、

夜間通行止

と、10月3日21時~4日6時、10月11日21時~12日6時2回にわたって、東名川崎IC~横浜青葉IC通行止めになるのだとか。

私の場合、東名川崎IC付近を通過するのは7時10分前後ですから、影響はなさそうな感じですけれど、10月4日(水)と12日(木)の朝、通行止めが解除されてもなお渋滞が残っている気がしないでもない…

10月4日(水)と12日(木)の両日は電車通勤を選択するのが無難かな…

つづきのようなもの:2017/12/29 いつも赤信号な交差点 2017年4Q

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暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #2-5

2017-09-27 23:45:42 | 旅行記

「暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #2-4」のつづきです。

浄瑠璃寺からのバス近鉄奈良駅前で降りた私は、近鉄電車に乗って大和西大寺駅へ行きました。
次なる目的地・秋篠寺は、大和西大寺駅から歩けない距離ではありませんが、

せっかく路線バス1 Day Passを持っていることですし、待ち時間もさほどありませんので、バス秋篠寺へ向かいました。

途中、奈良競輪場駐車場らしきところで、こんな看板を見かけました。

 ゴルフ等の危険な行為禁止

だそうです。
ゴルフにはとんと縁が無く興味持っていない私としては何の影響もなく、どちらかといえば、この看板が指摘するとおり、私に危害を加える可能性を持つスポーツですので…、まぁ、ノーコメントとさせていただきます

この奈良競輪場を除けば、バスは、ほぼ住宅街の中を走り抜け、あまりにも道幅が狭く誘導員さんが配置されている曲がり角に「秋篠寺」のバス停がありました。

バス停からちょいと歩くと、

こぢんまりとした秋篠寺の門(東門)があり、ここから境内に入りました。

苔むす「金堂跡」がきれいで、私の体からストレス(すでに浄瑠璃寺でかなり抜けていましたが…)が音をたてて抜けていくようです

そして、拝観料をお納めして、本堂へ…。

と、「金堂跡」「本堂」、お寺のメイン二つ現れて、あれ? となったところで、リーフレットから引用します。

奈良時代末期宝亀7年(776)光仁天皇の勅願により地を平城京大極殿西北の高台に占め、薬師如来を本尊と拝し僧正善珠大徳の開基になる当寺造営は、次代桓武天皇の勅旨に引き継がれ平安遷都とほぼ時を同じくしてその完成を見、(中略)
保元元年(1135)一山兵火に罹り僅かに講堂他数棟を残すのみにて金堂東西両塔等主要伽藍の大部分を焼失し、(中略)
鎌倉時代以降、現本堂の改修をはじめ諸尊像の修補、南大門の再興等室町桃山各時代に亘る復興造営の甲斐も空しく、明治初年廃仏毀釈の嵐は十指に余る諸院諸坊とともに寺域の大半を奪い、自然のままに繁る樹林の中に千古の歴史を秘めて佇む現在の姿を呈するに至っている。

だそうです。

そして、いかにも天平風の本堂(国宝)は、

当寺創建当初講堂として建立されたが金堂の焼失以降鎌倉時代大修理を受け、以来本堂と呼ばれてきたもの。事実上鎌倉時代の建築と考えるべきであるが様式的に奈良時代建築の伝統を生かし単純素朴の中にも均整と落ち着きを見せる純和様建築として注目される。

だそうです。

ここでも出てきました、平安時代末期争乱と、鎌倉時代の再興、そして、廃仏毀釈
廃仏毀釈全国的熱病だったようですが、興福寺東大寺の沿革をふり返っても、上記の3点セットは、とりわけ奈良にとってエポックメイキングなできごとだったような気がします。

そんなことを考えたわけですけれど、きょうはここまで。

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名古屋にSOUL JAZZ旅行 #2-4

2017-09-26 23:24:31 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「名古屋にSOUL JAZZ旅行 #2-3」のつづきです。

手抜きと言われるかも知れませんが、きょうは「#2-4」で紹介したトヨタ博物館所蔵のクラシックカー細部を眺めてみたいと思います。

まずは、パナール ルヴァッソール B2 [1901]ラジエーター

普通、クルマ外観の決め手になるのは、ラジエーターグリルヘッドランプですけれど、このクルマにはラジエーターグリルはなくラジエーターむき出しです。
しかも、見た目よろしいものではない、っつうか、気持ち悪く感じる人も少なからずいそうな気がします。
でも、見た目はともかく、機能としては、冷却効果高そうです。

実は、このパナール ルヴァッソール B2ラジエーターは、自動車史的に大きな意味を持っています。
というのも、「エンジンを車体の前部に置いて、後輪を駆動する」というFR方式を発明したのが、このクルマを製造したパナール社なんですって。

ここで、自動車の元祖「ベンツ パテント モトールヴァーゲン」を思い出していただきたいのですが、自動車の黎明期には、「エンジンを車体の後部に置いて、後輪を駆動する」RR方式が主流だったんですな。

ちなみに、現代の小型車では、「エンジンを車体の前部に置いて、前輪を駆動する」FF方式が主流になっています。
車体の大きさに比べて車室を広く確保できるのが特長のFF方式が広く普及するきっかけになったのは、1959年に発売されたMINIらしい。

パナール ルヴァッソール B2は、運転席の足元回りも、かなり興味深いものでした。

パナール ルヴァッソール B2の運転席

   

お次は、ロールスロイス 40/50HP シルバーゴースト [1910]です。

今も昔も高級車の代名詞、ロールスロイスは、クルマという機械を離れて、工芸品の次元にありました。

例えば、

エンジンフードは、宝石箱みたいです
ヘッドランプも、単品として装飾品の域に達しています。

そして、クラシックカー一番の見どころ(だと思ってます)のラジエーターキャップ(フードマスコット)

あれ?
ロールスロイスラジエーターキャップといえば、Spirit of Ecstasyが乗っているイメージなんだけど、違う…

Wikipediaによれば、Spirit of Ecstasyがロールスロイスのボンネットを飾るようになったのは「1911年もしくは1912年」だそうで、ロールスロイス 40/50HP シルバーゴースト はその直前の製品なんですな

なるほど~

   

きょう、最後は、前席後席とが完全に差別化されてショーファードリブン特化したイスパノイザ 32CV H6b [1928]

いかにも高級車然としているのですが、

そのドア・ラッチはといいますと…

イスパノイザ 32CV H6bのドア・ラッチあれま

普通のドア・ラッチじゃん…
私の自宅のドアと比べても大差ありませぬ。 

ただ、ネジ留めの数が違いますな(イスパノイザ>私の自宅)

そこんとこは「高級車に譲りましょ

ところで、「#2-5」以降をどう書き繋げようか、思案しています。

トヨタ博物館では、銀塩カメラの時代には考えられないほど大量の写真を撮っておりまして、撮影したクルマのすべてを紹介していたら、この旅行記が終わりません

さて、どうしましょうかねぇ…

つづき:2017/10/08 名古屋にSOUL JAZZ旅行 #2-5

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南東北ドライブ旅行記 #2-9

2017-09-25 20:50:08 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「南東北ドライブ旅行記 #2-8」のつづきです。

東北という地、あれほどの面積がありながら、旧国名でいえば、陸奥出羽2国しかありません。畿内とか中国地方には狭い「国」がワンサカとあるのに…。
から激しく遠く中央からすればどうでもいいような感じだったのかも知れません。

そんな歴史的・地理的背景を反映してだろうけれど、東北にある国宝はとても少ない…。

6県合わせても27件しかありません。(2017/9/1現在、以下同じ)
ちなみに、東京(博物館・美術館を含む)は277件京都232件奈良202件も国宝があります。もっとも、この3都県突出していまして、以下、大阪60件滋賀55件和歌山36件と続きます。東京・京都・奈良は、さすがは「みやこ」ですなぁ。

さて、山形には国宝が6件ありまして、私は、そのうち、鶴岡市致道博物館所蔵の太刀2振以外4件で拝見したことがあります。
羽黒山五重塔は、中学校の遠足で拝見しましたし土偶「縄文の女神」(山形県立博物館所蔵)は、東京国立博物館で何度も拝見しましたし(例えばこちらの記事)、あと二つの国宝も何度か拝見しました。

その「あと二つ」の国宝を所蔵しているのが、、、、

この立派な米沢市上杉博物館です
そして、「あと二つ」の国宝とは、洛中洛外図屏風(上杉本)上杉家文書

このうち、「上杉家文書」の方は、

南北朝・室町時代の中世文書を中心に、鎌倉時代から明治時代に至る2018通4帖26冊および附、歴代年譜325冊両掛入文書箱等並赤箪笥3合2棹は平成13年6月22日、武家文書としては初めて国宝となりました。

というとんでもない規模の文書ですから、「生で拝見したことがある」といっても、巨人の爪の垢を眺めたというレベルのお話です。
もっとも、「上杉家文書」のすべてを拝見したことのある人なんて、中世・近世史の研究者でも数少ないのではなかろうか…
私は、九州国立博物館「上杉家文書」ごくごく一部を拝見して(こちらの記事をご参照方)、

上杉謙信の書状以上に、心を込めて丁寧に書いたことがひしひしと伝わってくる文書の目録(仕切り板に書かれています)に、上杉謙信に対する米沢藩の藩士たちの崇敬の念が現れていて、感動いたしました

です。

そんなわけで、やって来た米沢市上杉博物館で、「洛中洛外図屏風(上杉本)」を観られるのかどうか(油絵彫刻と違って、日本の絵画は年がら年中確実に観られる保証はありませぬ)、ドキドキものでした (あらかじめ調べておけばよさそうなものなのに…)

そして、

おぉ~ 「原本展示中」とな

うっひょう~ と舞い上がって、たまたま開催中だった特別展「戦国時代展 A Century of Dreams」も観られるチケット(620円 Suicaが使えた)を購入しました。
いただいたリーフレットは、当然のように「洛中洛外図屏風(上杉本)」に使われていました。

で、まずは常設展示室へ…。

常設展示室では、「洛中洛外図屏風(上杉本)」「上杉家文書」専用の展示室がそれぞれ設けられていて、やはり別格の扱いでした。
ちなみに、「洛中洛外図屏風(上杉本)」は、やはり原本展示期間は限られていて、原本が一服している間は、レプリカが展示されているそうです。

「洛中洛外図屏風(上杉本)」のことは「#2-10」先送りいたしまして、他の常設展示で一番面白かったことを先に書きます。

それは、「古文書の折り方体験」のコーナーです。

博物館昔の手紙を観ると、妙なことに気づきます。
それは、横長の紙の上半分だけに書かれている手紙があったり、横長の紙の上下に逆さまに書かれている手紙があるということ。
例えばこんな具合 (折り方体験コーナーに用意されていたもの)

それが、「古文書の折り方体験」コーナーでは、なるほどぉ~目からウロコを落としながら(?)、実際に手紙を折りたためるのですよ。

福岡市博物館のサイトから引用しますと、

漉(す)いた紙を規格のまま使用する形を竪紙(たてがみ)といいます。折らずに使用する竪紙に対し、紙を横に二つ折りして折り目を下に向けて書く形を折紙(おりがみ)といいます。広げると上下で文字の向きが逆さになります。折紙は竪紙にくらべ、略式、薄礼(はくれい)な形式となります。物の価値や人の評価がすぐれていることを「折紙付き」といいますが、これは鑑定書をこの折紙に書いたことに由来します。

というわけ。
まず、横に二つ折りした紙に、折り目を下に向けて書いて、

この面だけでは書き切れなかった場合には、左右にひっくり返して、折り目を下にして文章を書き続けて、それを真ん中から折って

更に、縦長に真ん中から2回折って完成

小っちゃい

ところで、この書状は、誰が、誰に、どんな内容で書いたもの(のコピー)なのでしょうか?
私には、さっぱり読めませぬ

差出人を表す花押は、

上杉謙信の花押(下の画像)に似ているような、ちょっと違うような…

書状「書き下し文」「読み下し文」を用意しておいてくれたらありがたかったなぁ~。

でも、十分に楽しめましたし、勉強になりました

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6年ぶりの鹿児島旅行記 #3-5 (完結編)

2017-09-24 13:02:10 | 旅行記

「6年ぶりの鹿児島旅行記 #3-4」のつづきは、いよいよ鹿児島旅行記完結編です。

帰りの飛行機までの繋ぎとして(いわゆる「時間つぶし」)観覧した維新ふるさと館だったのですが、気がつけばもう12:30近くになっていて、14:30鹿児島空港を出発する飛行機に乗るためには、もうおいとましなければ…

ということで、後ろ髪を引かれる思い維新ふるさと館を後にして、荷物を引き取るべく、ホテルに戻りました。

と、その途中で、、、、

「西郷南州翁宅地跡」がありました。

記念碑はなんとなく墓石っぽい…

説明板を転記しますと、

西郷隆盛が上之園町に移ってきたのは安政2(1855)年29歳の頃です。その前々年に祖父、父、母を相次いで失い、下加治屋町の屋敷を売り借金の返済にあてたといわれています。この屋敷では、弟の吉次郎や従道の結婚式が行われ、妹が嫁ぎ、西郷自身も慶応元(1865)イト夫人と結ばれました。ここに居住していた時期は、西郷の人生も波乱万丈の時代でありました。藩主島津斉彬に才能を認められ、薩摩から日本へと活躍の舞台は広がったものの、その斉彬公が急死、近衛家から保護を依頼されていた僧月照をかくまうことが出来なくなり、共に入水自殺を図り遠島流刑を経験します。その後大久保利通らの助力によって志士として復活した西郷は、抜群の働きで明治維新の英雄と呼ばれるまでになりました。維新後は、参議、陸軍大将として新しい時代の基礎づくりに大きな役割を果たしました。宅地跡の碑は、昭和9(1934)年旧上之園町50番地に建てられましたが、太平洋戦争中に失われたため復元したものです。

西郷隆盛生誕の地は、6年前に拝見しましたなぁ…

生誕の地居宅跡地とは、ホント、目と鼻の先で、地図にプロットするとこんな具合です。

前にも書きましたが、加治屋町周辺は、薩摩藩の下級武士の居住地だったところで(鶴丸城からちょいと離れている)、明治の元勲生誕の地がそこかしこにあります。

ところで、「西郷南州という表記にちょいと引っかかります。

西郷隆盛が、遠島とか政府に出仕していた時期もありますけれど、上之園町を離れて鹿児島中央駅の西側にある武村で暮らし始めたのは明治6(1873)で、その時、隆盛齢45、とても「翁」と呼ばれる年齢とは思えないのですが…
担ぎ上げられるように西南戦争に参戦して亡くなった時でも50歳です。
下野して武屋敷で半ば隠居している最中は、傍から見れば「翁」だったかもしれませんが、50前のまだまだ働き盛りの隆盛を「南州翁」と呼ぶのはいかがなものかと思うしだいです。

   

こうして鹿児島市内観光を終えた私は、リムジンバスに乗って鹿児島空港へ…。

そして、遅い昼食として、今回の旅行で初めて黒豚を食べました。
空港ターミナルビルの中のレストランポークステーキを食べたのですが、正直、どうってことのない感じ
お気に入りの、那覇空港アグー豚のトンカツには、遠く及ばない…。

さて、帰りの飛行機から桜島は見えるのだろうか?ワクワクしていたのです、鹿児島空港を飛び立った飛行機は、桜島の手前からに進路を取り、宮崎をかすめて太平洋上に出ました。

私の座席左側でしたので、結局、桜島は見えませんでした

でも、2泊3日の旅行中、桜島を、遠くから&近くから思う存分拝見して、6年前リベンジを果たしましたので、良しとします。

肝をつぶすできごと もありましたけれど、天候にも恵まれ、良い旅になりました。
肝心の「Misia Candle Night 鹿児島・仙巌園」2 days 最高 でしたし…。

ということで、とっぴんぱらりのぷう

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暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #2-4

2017-09-23 09:20:25 | 旅行記/タウンウオッチング

「暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #2-3」のつづきです。

浄瑠璃寺参拝&観光を終えた私は、路線バスに乗って奈良の市街地に戻りました。

バスが、浄瑠璃寺のある京都府木津川市から奈良県との県境にさしかかる手前から、私はカメラのスイッチをONにして、レンズキャップを外して、とある被写体を待ち構えていました

というのも、浄瑠璃寺に向かう途中のバスの車窓から、わが目を疑うような建物が見えたから…。あまりにも思いがけなかったものだから写真を撮ることができず、帰りにはしっかりと撮影するゾ と準備していたのです。

で、見えました
これです

まるでブリューゲルが描いたバベルの塔みたい

もう1(走行中のバス窓越しの撮影ですので、構図や色合いが変なのはご勘弁)

ちょうど、この2日後から、大阪の国立国際美術館「ブリューゲル『バベルの塔』展」が始まるタイミングでしたから、この時点で「バベルの塔」(絵画)の現物は既に中之島にあったはずで、なんともを感じました
私は、東京での「バベルの塔」展には行きませんでしたので、現物未見ですけど…

それはともかく、この「木津川のバベルの塔」は、「タツタタワー 木津川市(木津南配水池)」という公共施設で、「地元特産のタケノコ」をイメージした給水塔らしいのですが、タケノコというよりは、やはり「バベルの塔」ですよねぇ~

給水塔といえば、私が東京・板橋で営業活動をしていた頃、公園の中にひっそりと立つ大谷口の給水塔(大谷口配水塔)に、江戸川乱歩(少年探偵団)のイメージ(怪人がアジトにしていそう…)を感じたことを思い出します。

大谷口配水塔1972年で役目を終え、廃屋だったのですが、以降、老朽化2005年に取り壊されるまで、地元のランドマークとして親しまれていました。

30年以上も、廃屋が存在し続けたこともさることながら、跡地には、大谷口配水塔のイメージを残したポンプ塔新築されて、大谷口配水所として整備されたことは、かなりなことだと感じています。
今、通勤の際、首都高速5号線渋滞がキツい時には、前野町⇒東新町⇒R245⇒板橋中央陸橋⇒環七⇒小茂根⇒大谷口⇒中野通り⇒要町通り⇒山手通り⇒首都高速C2(西池袋)という迂回ルートを使うことがありまして(きのうもこのルートを走りました)、この大谷口配水所の前を通るたびに、和んでいます。
中野通り拡幅されて、木々に囲まれた薄暗い中に大谷口配水塔ひっそりと立っていた当時とは雰囲気がずいぶんと(明るく)変わりましたけれど…

ちなみに、大谷口配水塔とそっくりの野方配水塔(1~2度、通りすがりに眺めたことがあります)は、現在も残っているようです。

またまた話が逸れました

私は、バス近鉄奈良駅前で降り、近鉄電車に乗って次の目的地、秋篠寺へ向かったのですが、そのお話は「#2-5」で…。

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名古屋にSOUL JAZZ旅行 #2-3

2017-09-21 23:25:43 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「名古屋にSOUL JAZZ旅行 #2-2」のつづきは、いよいよエスカレータートヨタ博物館2階に上がり

展示の本編突入です

トヨタ博物館のリーフレット

まずは、やはり、来ましたかぁ~
こちらのクルマでした。


ベンツ パテント モトールヴァーゲン [1886]【レプリカ】です。

カール・ベンツが製作した世界最初ガソリン自動車で、私もTVや写真で見て、は知っておりました。

説明板を転記しますと、

ベンツ パテント モトールヴァーゲン [レプリカ] (1886 ドイツ)
ガソリン自動車の第1号といわれるベンツの三輪車で、1886年に作られた。棒ハンドルで前輪を操向しており、時速15kmで走行可能であった。

だそうで、スペックは、

全長:2,547mm 全幅:1,454mm 全高:1,623mm
車両重量:313kg ホイールベース:1,450mm
エンジン形式:水冷単気筒 総排気量:984cm^3
最高出力:0.7kW/0.9HP/400min^-1

後ろから見ますと、

水平に設置されたフライホイール(はずみ車)とか、ベルトとか、チェーンとか、機構がむき出しです。
よく見ると、エンジン水平に置かれていまして、ピストン車体に対して前後に動き、それがクランクを通じて水平方向の回転運動に変えられ、ギアを通じて垂直方向の回転運動になり、そこからベルトを通じてドライブシャフトに伝わり、ドライブシャフトからチェーンを通じて車輪を廻す、、、という動力の流れがよく判ります

このベンツ パテント モトールヴァーゲンから8年「フランス、アメリカにも出荷された史上初の量産車という説明が加えられていたのが、ベンツ ヴェロ [1894]でした。

四輪車になっています。
説明板によれば、

フライホイールを垂直にセットしたエンジン、プーリーとベルトによる2段変速ができ、時速21kmで走行した。

だそうです。
排気量1,045cm^3(cc)と、ベンツ パテント モトールヴァーゲンとはほとんど同じですが、変速機能が加わったり、速度が向上したりと、着実に進歩しています。

ただ、いかにも馬車の御者席のような運転席、、っつうか、運転者+αしか乗れないという状況に変わりはありません。

つまり、初期の自動車は、「人を運ぶ機械」ではなく「人が動くための機械」だったということでしょうか?

この状況は、パナール ルヴァッソール B2 [1901]でも同じ。

ところが、ロールスロイス 40/50HP シルバーゴースト [1910]になると、

「人を運ぶ機械」になっています。
さらに、イスパノイザ 32CV H6b [1928]では、

前席御者席伝統に則って革張り後席は馬車の伝統に則ってクロス張りと、完全に「ショーファードリブン」高級車に変貌しています。

この辺りまで来て、私は、自分が大変な勘違いをしていたことに気づきました

私、トヨタ博物館を、歴代のトヨタ車を軸としたトヨタ自動車の史料館的なイメージを持っていたのですが、現実は、一企業の枠を超えた、普遍的な自動車博物館でした

う~む…、トヨタ博物館って深い…と、心を入れ換えトヨタ博物館の探訪を続けたのでありました。

つづき:2017/09/26 名古屋にSOUL JAZZ旅行 #2-4 

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南東北ドライブ旅行記 #2-8

2017-09-20 23:15:22 | 旅行記

「南東北ドライブ旅行記 #2-7」のつづきです。

上杉神社にお参りして、その社殿をしげしげと鑑賞したあと(素人目には普通の神社でした)、上杉家由来のお宝を拝見しようということで、まずは、上杉神社の宝物庫稽照殿へ。

と、その前に、こんな石碑がありました。

艶のある石に刻まれた碑文は、光線の関係で激しく読みづらい のですが、「赤穂事件殉難追悼碑」です。

赤穂事件、世に言う「忠臣蔵」事件は、「#2-6」で書いたように、米沢藩にとって「身内の事件」でした。

なにせ、吉良上野介義央正室は、米沢藩2代藩主上杉定勝で、3代藩主綱勝富子だし、赤穂事件が起こったときの4代藩主綱憲は、吉良義央の長男その人だし、吉良家当主義周は、上杉綱憲の実子という状況だったのですから…。

せっかくですので、「赤穂事件殉難追悼碑」の碑文を採録しておきましょう。

元禄15年(1702)、12月15日黎明、浅野内匠頭家臣数十人、吉良の本所邸を取り囲み狼藉に及ぶ
夜陰と言い、急変不意に依って利を失い、義央公害し給う

上杉家附人吉良の御小姓討死
5代綱憲公病床に在り、異変を聞こし召し驚嘆し給い、7手士隊中3組、御馬廻馬上、其外士卒を以って急ぎ本所へ馳着き、一人も洩らさず討取るべしと御下知あり
己に出勢に及ばんとする処に、高家畠山下総守櫻田邸に馳来り、老中下知の趣を演達抑留せらる
綱憲公孝道を捨て、公聴の下知を承け出勢の士卒を止められ、米沢藩15万石の静謐を保つ
宝永元年6月2日綱憲公ご逝去、同年8月8日義央公室(三姫)没、宝永2年閏4月綱憲公正室没、
宝永3年1月20日左兵衛義周配所上諏訪高島城に没す
赤穂浪士事件の為に上杉家の不幸後年に及ぶ
星霜茲に280余年乃ち其の殉難の士を悼惜、藩侯哀史の実正を表白追念し勒して後昆に傳う。

かなり難しい文章ですが(改行位置を調整しました)、要は、赤穂事件の巷間伝えられる「物語」の陰にある上杉家&吉良家受難の歴史も胸に留めてほしい、ということだと解釈します。

米沢藩は、2代藩主・定勝の治政以降、減封やら赤穂事件やらと、悲惨な時代を過ごし、9代藩主治憲(鷹山)による藩政改革を待つことになったんですなぁ…

そんな事情もあり、上杉家伝来のお宝は、謙信⇒景勝の時代のものと、治憲の時代書状の類のものに絞り込まれてしまうようです。

で、拝観料400をお納めして稽照殿に入りますと、例のもの現物が、さりげなく展示されていました。

「愛」前立どぉ~んと目立つ、直江兼続所用の「金小札浅葱糸威二枚胴具足」です。
ご多分にもれず稽照殿の館内は撮影禁止でして、写真はございませんので、あしからず。

上杉景勝の家臣にして、「山城守」公式な官職を持ち、かの「直江状」徳川家康喧嘩を売り、そして、大名の陪臣ながらNHK大河ドラマの主人公に取り上げられた直江兼続安土桃山時代を語る上で欠くことのできないキャラですなぁ。

去年のNHK大河ドラマ「真田丸」では、渋い声村上信吾さんが直江兼続を演じていて、その渋い声直江状の全文の朗読が聞けて、非常に舞い上がった私ですが、内野聖陽さん演じる徳川家康が、直江状を読んで怒り狂い直江状を木っ端みじんに破りまくるシーンを観て、はて、家康が直江状を破り捨てたとすれば、その文はどうやって後世に伝えられたのだろうか…という疑問を持った次第です。
下書きが残っているのでしょうか…

と、今回もほとんど前に進めませんでしたが、ここまで。

つづき:2017/09/25 南東北ドライブ旅行記 #2-9

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6年ぶりの鹿児島旅行記 #3-4

2017-09-19 22:00:41 | 旅行記/美術館・博物館・アート

NHK大河ドラマには、「主人公が女性だと当たらない」「幕末ものは当たらない」というジンクスがあるようですが、その両方を覆したのが、2008年に放送された「篤姫」だそうです(両方を「証明」してしまったのが2015年「花燃ゆ」だった模様)。

島津家分家に生まれ、名君の誉れ高い薩摩藩主斉彬養女スプリングボードとして、五摂家筆頭の近衛忠煕養女となって、第13代将軍・徳川家定正室(御台所)として嫁いだ天璋院篤姫は、大河ドラマ「篤姫」の影響もあるでしょうけれど、現代の鹿児島でも特別の存在のようです。

鶴丸城趾にはがありましたし(下の写真は6年前に撮ったもの)、

今回の鹿児島旅行のメインの目的地だった仙巌園には、

として茶店が再現されていました(これも6年前に撮ったものでして、今もあるか不明)。

で、「6年ぶりの鹿児島旅行記 #3-3」のつづきも「維新ふるさと館」見聞録です。
維新ふるさと館には、「篤姫(天璋院)コーナー」が設けられていました。

上の写真は、江戸城大奥篤姫「個室」を再現したものだろうと思いますが、わたしは、川越(訪問記はこちら)の喜多院で拝見した「客殿 徳川家光公 誕生の間」を思い出しました。
と、徳川家光川越生まれたわけではなく2代将軍・秀忠の正室・江(崇源院)家光を産んだ部屋が、江戸から川越に移設されたため、「家光公 誕生の間」川越にあるわけです。
で、篤姫将軍の正室ですから、同じような部屋を「本拠地」にしていたのでしょう。

さて、「篤姫(天璋院)コーナー」には、江戸城中奥(なかおく)と大奥をつなぐ有名な廊下、「御鈴廊下」の一部が再現されていました。

あれ? です。
映画TVドラマに登場した「御鈴廊下」よりかな~り狭い感じ…。
これでは、こんな風に、大奥に勤める人たちが左右に居並んでひれ伏すことはできなさそうですな。

上に載せた写真は、映画「大奥」の一シーンですが、徳川"柴咲コウ"吉宗公が、めちゃカッコ良かった

それはともかく、この「御鈴廊下」には、

この廊下の寸法は、現在残されている御鈴廊下の資料を参考に製作されています。
頭上・お足元にご注意ください。

と、わざわざ表示されていましたので、K.I.T これが正しい「御鈴廊下」の姿なのでしょう

   

ところで、昨夜、NHKドラマ「眩(くらら)~北斎の娘~」が放送されていました。

いかにもNHKらしい、丁寧に丁寧に創られた作品で、江戸絵画好きの私としましては、かなり興奮して観ました。

なかでも、こちらで書いた葛飾応為(お栄)の筆による「三曲合奏図」

Live演奏として再現されていたことには、わおっ でした。
また、渓斎英泉(こちらの記事をご参照方)が登場したことにも、はお~ん

このドラマで唯一残念だったのは、JR京浜東北線人身事故で不通になっているというテロップが入ってしまったこと
なんでも、線路に座り込んでいた相模原署の33歳の警部補(エリート警察官か?)が電車に轢かれたそうですけど、

京浜東北・根岸線など3線で18本が運休するなどし、約6万人に影響が出た。

というJR利用者だけでなく、「眩(くらら)~北斎の娘~」を観ていた首都圏の人たちからも大ブーイングです
再放送してくれないものですかねぇ~

どうしてここで「眩(くらら)~北斎の娘~」のことを書いたのかといいますと、このドラマで、父(葛飾北斎)を演じた長塚京三さんと、北斎の娘・お栄を演じた宮崎あおいさんは、「篤姫」でも父と娘を演じていたから という、どうということのないことが理由です。

失礼しました…

【追記】「眩(くらら)~北斎の娘~」再放送が決まりました

どうか、どうか、「ニュース速報」が入りませんように…(-人-) (2017/09/23 16:24)

つづき:2017/09/24 6年ぶりの鹿児島旅行記 #3-5 (完結編)

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暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #2-3

2017-09-18 08:09:39 | 旅行記

「暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #2-2を書いたのは夏休み中の8月15日で、以降、1ヶ月以上にわたって続編を書かずにおりました。
「大阪旅行記」のつづきが書きにくいとか、書きたくないといった理由で放置していたわけではありませんで、単に忘れていただけです

一度何らかの理由ですっ飛ばしたら、そのままローテーションから落っこちてしまったんですな。

そんなわけで、気を取り直して、大阪旅行2日目、奈良市近郊(京都府だけど)の浄瑠璃寺から旅行記を再開します。

   

本堂九品仏にお参りしたあと、苑池周回路を歩きました。

それにしても、本堂の建物がステキ

本堂は、もともと檜皮葺で、江戸時代前期(寛文6年=1666年)に現在の本瓦葺になったそうですが、

檜皮葺だった頃の様子を偲ぶのもまた乙なものです。
阿弥陀如来をお祀りする本堂のある「彼岸」と、苑池を挟んだ反対側には、

浄瑠璃寺創建時の御本尊で、寺名の由来にもなっている薬師如来をお祀りする三重塔が立っています。

屋根の大きさに比べて胴体というのか堂体というのか本体が小さくて、ちょっとバランスが悪く見えますが、この三重塔浄瑠璃寺のリーフレットによれば、

平安末の治承2年(1176)京都一条大宮から移されてきたもの。初層内は扉の釈迦八相、四隅の十六羅漢図などと、装飾文様で壁面が埋められている。元は仏舎利を納めていたと思われる。この寺に来てからは東方本尊の薬師仏を安置している。

だそうで、国宝指定を受けています。

薬師如来像「秘仏」になっていまして、

 毎月8日、彼岸の中日
 ※1月のみ1・2・3日と8・9・10日

のみ公開されています。但し、「いずれも好天に限る」だそうですから(堂内に風雨が入らないようにするためでしょう)、お出かけの際にはご注意

ちなみに、吉祥天女像は毎年 1/1~15, 3/21~5/20, 10/1~11/303回、大日如来像は毎年1/8~10の3日間だけ公開されています。
ということは、1月8~10日の好天の日浄瑠璃寺に出かければ、秘仏3体を拝観できるんですな。

ちなみに本堂の前と、三重塔の前に立つ2基の石灯籠南北朝時代のものだそうで、いずれも重要文化財に指定されています。

とても暑かったのですが、浄瑠璃寺静かな境内を歩くと、マイナスイオンを浴びてリフレッシュする感じでした。
まとわりつくがちょいと鬱陶しかったけれどオオシオカラトンボカッコ良かったし、

白いキキョウはホント、きれいだったし、

に覆われた鐘楼趣深かったし、

苔むした石仏には癒されました

超久しぶり浄瑠璃寺に至極満足した私は寺を出て、バス停に向かいました。

帰りのバスまではまだちょっと時間があるし、暑いしで、ふと目にとまった「氷」の幟に引き寄せられて、今シーズン初のかき氷をいただきました。

お茶屋さんの店内には、奈良の観光ポスターが何枚も貼られていて、ここ当尾(とおの)は京都府とはいえ、距離的にも文化的にも奈良なんだなぁと感じ入りました。

で、バスの発車時刻までには、完食(完飲)できると思っていたのですが、ここで来ました、頭キーン 
この症状の医学的な正式名称「アイスクリーム頭痛」というのだそうで、頭痛を癒しつつかき氷に取り組むうちに時間は無情に過ぎていき、結局、完食(完飲)できませんでした

残してしまい、お店の方には申しわけなかったのですが、なにせバス逃すと、また1時間も待たなければならなかったもので…

ところで、今夏の帰省の際に知ったことですが、わが母親は、この頭キーン経験したことがないのだとか
実際、一緒にシャーベットを食べたとき、私が頭キーン に襲われてこめかみを押さえる傍らで、母親は平気でシャーベットを食べつつけていましたとさ。

めでたし、めでたし…。 

つづき:2017/09/23 暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #2-4

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