新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

2日続けておでかけ (前編)

2021-03-24 20:47:16 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

今週月曜日に別邸から2週間ぶりに戻ってきました。

別邸へは新幹線で帰省したもので、ほとんど別邸に引きこもった生活をしていました。
それならブログでも書いていれば良さそうなものの、2週間の帰省期間中に書いたのは3.11絡みの1本(こちら)のみ。
これというのも、さっぱり沈静化しない新型コロナウイルスに、やはり閉塞感みたいなものを感じて気が晴れないこと、出かけようにも出かける先がないこと、そして、別邸に物理的な不具合が続いて、その対応にあたったりと、なんとも冴えません

そして、Uターンしてくると、天気は良いし、暖かいし、サクラは咲いているし、一応緊急事態宣言解除されたしで、「お出かけしたい虫」が蠢きます。
時刻表を見ることなく最寄り駅に行っても、すぐに電車がやってくるというのは、別邸ではあり得ないシチュエーションですし。

そこで、昨日は、東京国立博物館(トーハク)に行って、「博物館でお花見を」を楽しんで来ました。
きのうの上野公園は、平日だというのにかなりの人出で、

大丈夫かなぁ と心配になったのですが、トーハクの敷地内は人が少なくのんびりサクラを楽しめました。

   

そして、きょうも美術館に行こう となりました。

先月、私はこんなTweetをしました。

先月末の私のTweet

備忘録的に、帰省Uターンしたら行きたい展覧会をリストアップしたのですが、さて、きょうはどれに行こうか…
と考えた結果、会期末が近いところから、、、と、東京都庭園美術館に行ってみることにしました。

そして、

 最寄り駅埼京線恵比寿駅山手線目黒駅

と電車を乗り継いで、東京都庭園美術館に向かったのですが、、、なんと、きょうは休館日でした
美術館・博物館は、火曜日を休館日にしている六本木の美術館たちを除いて、ほとんどが月曜日が休館日なんですが、なぜか東京都庭園美術館「毎月第2・第4水曜日」が休館日です。
よりによって、きょうが「第4水曜日」だったとは…

新年度からは、東京都庭園美術館も休館日を「毎週月曜日」に変更するそうですが、いやはやまいりました

でも、このまま踵を返して 目黒駅に戻るのは癪に障るので、白金台駅から地下鉄に乗って別のところに行こうと考えました。

そして、もうすぐ白金台駅だというところで、左側にスクラッチタイル堂々とした建物が見えました。

私、白金台国立公衆衛生院古めかしい建物ある or あったことは知っていましたが、その建物が現存していることは知りませんでした
しかも、今は港区立郷土歴史館になっていて、内部も拝見できるとは

これは見物するしかないではありませんか

中央エントランス前のサクラ立派です。

そして、この建物立派さときたら…

この建物の概要を、いただいたリーフレットから転記しますと、

名称 ゆかしの杜 (港区郷土歴史館等複合施設)
所在 東京都港区白金台四丁目6番2号
構造 鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階地上6階塔屋4階
竣工 昭和13 (1938) 年
設計 内田祥三
施工 大倉土木株式会社 (現・大成建設)

だそうで、トーハクの本館(計画案:渡辺仁)とほぼ同時期の竣工ですな。

「港区立郷土歴史館」入館料 300円をお支払いして中央ホールに入ると、
あまり上手ではない筆で記された プレートがありました。

公衆衛生院は我国の公衆衛生の改善を目的としてロックフェラー財団の厚意ある寄附に依て設立された
本院は厚生省所管として昭和13年3月29日よりその事業を開始した

だそうです。
リーフレットによれば、

この建物は、昭和13(1938)年、米国ロックフェラー財団の支援・寄附のもと、国民の保健衛生に関する調査研究及び公衆衛生の普及活動を目的に国が設立した機関、「公衆衛生院」のために建設されたものです。平成14(2002)年に、国立保健医療科学院として統廃合され、埼玉県和光市に移転するまでこの建物は使用されていました。

そして、

平成21(2009)年、港区がこの建物と敷地を取得し、郷土歴史館を中心とした複合施設として改修を実施します。歴史的建造物であるこの建物の意匠等を保存しながら、耐震補強やバリアフリー化等の改修工事を行い、平成30(2018)年に工事が完了し、開館となりました。

というわけで、今の形で公開されるようになったのは、ついちょっと前のことだったんですな。

それはそうと、この建物、安定感にあふれるシンメトリーで、威厳に満ちていて、どこかで視た建物と似てる気がする…

と思ったら、設計者内田祥三(よしかず)さんは、建築家であり、かつ、東大教授であり、東大の営繕課長として東大本郷キャンパスの多くの建物を設計したのみならず、東大総長まで務めた、プレイングマネジャーの極みみたいな方です。
旧公衆衛生院の隣にある東京大学医科学研究所(元・伝染病研究所)も、内田さんの設計だそうで、

確かに正面入口アーチの連なりがそっくりです。

と、約2週間ぶりにブログを書くと、かなり疲れます

そんなわけで(?)キリは良くありません、今夜はこの辺にして、「後編」に続きます。

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東日本大震災から10年

2021-03-11 12:21:01 | 日記・エッセイ・コラム

東日本大震災が発生した2011年3月11日から10年目の日がやってきました。
「3.11」東北で迎えるのは、震災後初めてです。

そんな特別な日ですから、10年前を思い出してみることにします。

当時、私は連日欠かさずブログを投稿していて、この日も、前夜のうちにほぼ書き上げていた記事を、出勤前にアップしました。
そして、その日のうちに帰宅することができなかったものですから、とんでもない災厄の日だというのに、その日の記事は、ノーテンキ「予定を変更して増上寺のこと」1本だけ…。

あの地震は、東京・丸の内の職場で体験しました。
低層階にある事務所でしたので、恐怖を感じるほど揺れたわけではありませんでしたが、日本人の体に染みついた「マナー」として机の下にもぐり込んで揺れが収まるのを待っていると、泣き叫ぶ女性の声が聞こえました。
誰? と思ったら、その声の主は、日頃は沈着冷静な知的美人だった、中国人の契約職員でした。
事務所の中でパニックに陥っていたのは彼女一人だけで、私を含めた他のすべての職員は「どした?」という感覚だったと思います。
恐らく彼女にとって人生初の大地震だったのでしょう。

地震が治まった直後から職場ではTVを流し続けていて、TV画面に映る仙台平野を遡上する津波リアルタイムの映像衝撃的で、記憶の中に音がありません。

職場には東京電力からの出向者がいて、「原発は自動停止したそうです」と情報を伝えてくれたけど、まさか、福島第一原発が電源を喪失して、メルトダウンに至るとは、このときは想像もしていませんでした。

また、身近なところでは、職場の同僚が外出している先の九段会館で、天井が崩落して死者が出たというニュースに、みんな愕然
その彼からは何の連絡もなく、ヤキモキしたのですが、結局無事で、胸をなでおろしました。

   

さて、この日の個人的な問題は、どうやって帰宅するかということでした。「当日中の運行再開はない」というJR東日本の発表を聞いた私は、翌日が土曜日だということもあって、徒歩での帰宅を決意しました。
その総行程24km、6時間(当日中に帰りつけると思ってたのに…) にわたる「中山道徒歩き」は、翌日の記事「東北地方太平洋沖地震は現在進行形」に書いたとおりです。

今年は妙に暖かくて10年前3月中旬の気候が想像しがたいのですが、この日、私は、ウールのロングコートを着込んでいましたから、普通に寒かったのだろうと思います。

今思い返しても、都心から自宅に向かう人々の流れは印象的でした。
ヘルメットを被り、非常袋を背負った人も結構目立っていて、そう、朝ドラ「あまちゃん」で出てきた「3.11当日の東京」の様子は、コンビニの空っぽの陳列棚のシーンも含めて、まさにそのままでした。

   

一夜明けると、とんでもない筋肉痛で家の中を移動するのもキツいくらいでした。

で、まずやったことは、実家(現・別邸)電話すること。
前夜は、電話回線が輻輳しているだろうと、遠慮していたのですが、ちょっとは落ち着いたかな? と思った次第です。
電話はすぐに通じ、母と話したところ、実家は停電していること以外は問題無く「久しぶりにガスでご飯を炊いた」なんて言っていました。
そして興味深かったのは、2階にある本棚の様子を恐る恐る見にいったところ、倒れることも本が散乱することもなく、ただ、本棚自体が前にズレていたという話。地震に影響されて本棚が歩いたということでしょうか?
実家の停電は、12日の夕方には終わったそうです。

次に電話した先は、宮城県に住む友人宅でした。
ところが電話が通じない
時間をおいて電話しても、翌日電話しても通じません
別の友人に聞いてみると、彼も同様に何度も電話していて、通じないといいます。
数日経って、ようやく電話が通じて話したときは、ホント安心しました

   

幸いにも、私の周辺には東日本大震災の犠牲になった人はいませんでした

死者(震災関連死を含む)・行方不明者が2万2000人余にものぼり、震災で否応もなく人生を変えられてしまった人が無数にいることを思えば、震災後の計画停電とか、スーパーの空っぽの棚とかモノ不足とか、間引き運転でギュウギュウ詰めの通勤電車とか、電車内が一気に凍る緊急地震速報のアラーム音とか、私の経験なんて「生やさしい」というのすらおこがましい気がします。

レベルこそ違えど、非常時を経験して得た教訓は何だろな? と考えると、思いつくのは、ちょいと前に話題になった「自助・公助」のことです。

大規模な災害が起こった場合、すべての人に速やかに「公助」が行き渡るのは到底無理です。「公助」が自分のところにやってくるまでは、「自助」で生き残るしかありません。
「自助より公助が先だと、目を三角にしてわめいていた方々が、東日本大震災当時には政権党だったというのがなんとも…

映画「シン・ゴジラ」でも描かれていましたが、日本のお役人さんたちは、ときどきヘマをやらかしたり、変な人もしますが、基本的には、職務に忠実有能だと思っています。
ですから、非常時には、必ず助けがやってくることを信じつつ、まずは自分でなんとかして生き残ることが大事。そのためには、非常用の保存食や水などを用意しておくべきなんだろうな。

おっと 本宅には保存食と長期保存水常備しているけれど、別邸には無い

そんなことを考え、身の回りをチェックするのには、きょうのような日が最適だと思った次第です。

今夜、TBS系で放送される「音楽の日」は、セキスイハイムスーパーアリーナからの生中継だそうですが、

グランディ21

この会場は、東日本大震災後、しばらくの間、遺体安置所として使われた場所です。
そこのところも胸に刻んで「音楽の日」を楽しむことは、亡くなった人たちへの供養になるだろうと思います。

ちなみに、私が今いる別邸では「音楽の日」をリアルタイムで視聴できません
本宅のブルーレイ・レコーダーに録画予約していますので、帰省Uターンするまで我慢です。

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