新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-5 [完結編]

2023-10-31 15:05:28 | 旅行記

「良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-4」のつづきは、ようやく完結編です。

さっき見た説明板では「本丸には南側の竹林橋跡の土橋から入るが」とありましたが、一昨年3月に150年ぶりに復活したという「本丸への正規ルート」たる極楽橋を渡って本丸に足を踏み入れました。

極楽橋の上から南側を見ると、

空濠があって、奥は石垣で濠が塞がれています。
柳沢文庫前で見た「郡山城絵図の世界」によれば、本丸の周りは「の」の鏡文字のような形に内濠で囲まれていて、この部分にも水が溜められていたようにも見えます。

反対側(北)は、「#3-3」で書いた「鬼門消し」の辺りには水が溜まっていましたものねぇ。が降り続ければ普通の濠になったのかも…

本丸曲輪に入ってまず目に止まったのは神社でした。

この神社は、その名も「柳澤神社」で、御祭神は柳澤家として初代郡山藩主となった柳澤吉里公ではなく、その父・柳沢吉保公。

由緒書きによると、

享保9年(吉保の)御子柳澤吉里公が国替で甲府から転じ15万石をもって郡山城に入城。以来6代140年余、明治維新まで郡山の礎を築き繁栄へ導いた。
明治13年、ご功績を称えると共に、大和郡山の繁栄と安寧幸福を祈願し創建される。

だそうで、明治に入ってから創建された比較的新しい神社でした。
実は、大和郡山の名産品の金魚は、柳澤のお殿様あってのものらしい。
観光協会のサイトから引用しますと、

大和郡山市における金魚養殖の由来は、享保9年(1724年)に柳澤吉里候が甲斐の国(山梨県)から大和郡山へ入部のときに始まると伝えられています。
幕末の頃になると、藩士の副業として、明治維新後は、職禄を失った藩士や農家の副業として盛んに行われるようになりました。もっともこれには最後の大和郡山藩主柳澤保申候のおしみない援助があったことが大きいと言われています。

だそうで、それは神社を建てて祀りたくなるのも理解できます
「祀りたくなる」といえば、遠征から帰って、撮った写真を見ていて気づいたのですが、本丸の東、二の丸から更に濠の向こう側(西の丸)にある麒麟曲輪には、5代将軍徳川綱吉の御霊屋があったらしい

そりゃ、一藩士の子息として生まれた柳澤吉保大名にまでなれたのは、徳川綱吉の「思し召し」あってのことですからねぇ
旧領主その他が江戸幕府へのおべんちゃら(?)として建てた東照宮が日本各地にあるものですが(東大寺にさえあった)東照大権現さておいて、大恩ある徳川綱吉公を弔い続けたとは、義理堅い柳澤家です

   

さて、本丸の天守台です。

説明によれば、

(天守台の)石垣の解体修理に先立ち発掘調査を実施した。その結果、礎石列や金箔瓦が出土し、豊臣政権期1階が7×8間規模の天守が建っていたことが判明した。また、付櫓台地階を伴う築城時の入口を確認した。織豊期城郭の天守の地下構造の様相が判明しているものは少なく、貴重な成果となった。

だそうで、現在天守台にのぼる石段は、明治時代につくられたものなんだとか。

天候がイマイチながらも、天守台からの眺めはなかなかでした。
比較的、東側の眺めがイイ

んん? あれは薬師寺

案内板には、

郡山城西ノ京丘陵の南端部に築かれている。この天守台の標高は81m、城下町地帯の標高は53m、比高は28mであるが、四周に比較的眺望がきく立地をとっている。なかでも東方への展望が開け、大和東山の連山が一望できる。平城京跡はもちろんのこと、南都の諸寺奈良町天理~桜井の龍王山三輪山も望める。さらに南方に目を転じれば、大和三山も視野に入る。

とありましたが、見えたのは、説明板では「南都の諸寺」とひとくくりにされている薬師寺と、ゴミ処理場の煙突ゴルフ練習場邪魔されながらも、なんとか東大寺大仏殿くらいのもの

遠くが霞んでいたことと、周りの木が高いからなんだろな

7日と8日の夜は、ここから東大寺大仏殿どんな風に見えたんだろ? 音は聞こえたのかな? などと考えましたが、天守台に上がれるのは、今月は 7:00-17:00です

ということで天守台から降り、「#3-3」で書いた「さかさ地蔵」の説明板だけ見ました。「さかさ地蔵」前は、団体の観光客が群れていて、説明板の写真だけでいいや となった次第です。
石垣の裏込石にされたお地蔵さんを拝見するのは不憫でしたし…。

   

帰りは「竹林橋跡の土橋」を通って退城しました。

本丸から竹林橋を渡った突き当たりは、「二の丸屋形」と呼ばれたエリアで、

藩主の居館や藩の役所などが立ち並ぶ、郡山城の中心だったところです。
明治6年の廃城令以降、明治14年には学校施設が建てられ、現在は奈良県立郡山高校校舎になっています。

だとか。

以前、私は、お殿様天守の中で暮らしているものだと思い込んでいたものでした。
でも、天守狭い上に階段だらけ(しかも急な階段が多い)ですから、住むにはかなり不便。実際は、本丸二の丸御殿を建てて、普段はこちらで暮らしていたようです。

それで思い出すのは熊本藩(細川氏)です。熊本城はあんな名城なのに、立派本丸御殿があるのに、「不便だから」と、わざわざ外堀代わりの川の外にある花畑(はなばた)屋敷で暮らしていたんでしたっけ…
きっと、熊本城を築城した加藤清正公は、草葉の陰歯ぎしりしていたことでしょう

   

それはさておき、本丸から出た時点で、時刻は13:40でした。

私が乗る予定の電車は、近鉄奈良駅発 14:50ですから、それまで1時間とちょっとしかありません。
この日の朝、

ルートの途中にあるので、時間に余裕があったら… です。

と考えていた唐招提寺断念して、またの機会にということにしました。

そして、大和郡山駅から大和西大寺駅まで行き、乗り換えの待ち時間に、ホームから安倍前首相が襲撃された現場に心で黙礼し、

やってきた電車に乗って近鉄奈良駅に戻りました。

駅近くで「お茶して時間を調整し、そこからは予定どおり京都東海道新幹線に乗り換えて帰路につきました。

さすが3連休最終日の夕方だけあって、新幹線の指定席はほぼ満席の状態で、前日の朝に指定席を確保しておいて良かったと思ったのでした。

改めてこの遠征を振り返ると、天候にはちょっと恵まれなかったものの、「MISIA PEACEFUL PARK Dialogue for Inclusion 2023」2 days最高 だったし、東大寺ではめったにお目にかかれない秘仏にお会いできたし、その他の観光も充実していたし、良き旅となりました。

めでたしめでたし…。

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良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-4

2023-10-30 18:35:04 | 旅行記

「良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-3」のつづきです。

郡山城追手門裏手二の丸の一段高い場所に立っていたこの建物、

これは、旧奈良県立図書館の建物だそうで、説明板によれば、

この建物は、明治41年(1908)、日露戦争の戦勝を記念して奈良公園内(現在の県庁の南側に建てられた奈良県最初の県立図書館です。建設当初は奈良県立戦捷記念図書館と称し、本館は南向きに建てられ(現在は西向き)背後に煉瓦造りの書庫や木造の附属屋が接続していました。昭和43年(1968)本館のみがここ郡山城内に移築され、以降、市民会館や教育施設として利用されてきました。

だとか。
「奈良公園内(現在の県庁の南側)」というのは、興福寺の敷地北東角なのかな
でもこの場所で「南向きに建てられ」というのはあまりに不自然だな…

奈良県庁付近の地図

もしかして、登大路の北側に、奈良県庁と登大路に挟まれる感じで建っていたのかもしれません
ネットで情報を探したところ、旧奈良県庁舎(1895年竣工)は現庁舎(1965年竣工)の東側、つまり、現在のバスターミナルの辺りに立っていたわけで、旧奈良県立図書館は、上のGoogleマップで「EV充電スタンド」とある辺りに、登大路に面して、県庁と並んで立っていたものと推察されます。
奈良県のサイトから旧県庁舎の写真を拝借しましょ

この建物と旧奈良県立図書館が並んでいる光景(1908~1965)を想像すると、なんだかワクワクする私です。

旧奈良県立図書館の設計者は、奈良県技師の橋本卯兵衛という方だそうで、この窓のデザインとか、ナカナカです。私、唐破風は嫌いですけど…

この左右対称で正面に唐破風の車寄せを持つデザインは、奈良国立博物館(奈良博)裏手春日大社の参道(三条通り)を向いて(南向き)建っているこちらの建物と似た雰囲気を漂わせています。

こちらの建物は奈良博の仏教美術資料研究センターこの記事で書いたように、1902年に、建築史家・関野貞の設計により、奈良県物産陳列所として建てられたもの。
時期的にも場所的にも近い

ちょっと整理すると、

1895年 旧奈良県庁
1902年 旧奈良県物産陳列所
1908年 旧奈良県立図書館

と、明治末期の奈良公園周辺には、和風テイスト溢れる公共建築物が相次いで建てられたことになります。
ここで気になるのは、旧奈良県庁に先立って1894年に竣工したこちらの建物です。

国宝迎賓館赤坂離宮(訪問記)を手がけた宮廷建築家にして、奈良・京都・東京の国立博物館の設計をコンプリートした片山東熊による奈良国立博物館(ぶつぞう館)です。

片山内匠頭(ホントの役職)は、「これからは本格的洋風建築の時代じゃと意気込んでいたはずなのに、周辺にあとから建てられる建物は前記の3件のみならず、東京駅丸の内駅舎を設計した辰野金吾さえも、見かけは和風奈良ホテル(1909年竣工、片岡安との共同設計)を作ってしまうしで、振り向いたら誰もいない」状態
もっとも、そんなこと奈良市民からの不評なんぞ気にしないのが建築家の建築家たる所以(私見です)なわけで、片山内匠頭は次々と洋風建築を設計し続けたのでありました。

ずいぶんと脇道にそれましたが、旧奈良県立図書館は、土日祝日のみ、それも1階ホールだけ、見学できるようでしたが、私はパスして、郡山城本丸を目指しました。

   

本丸に向かって歩いて行くと、石仏石塔集中して立つ場所がありました。
そんな中に、「両面石仏」という説明板のある石仏がありまして、その両面を1枚の写真にしますとこんな具合。

昭和48年(1973)、郡山城本丸石垣より出土した。
奈良などの寺院から、石垣の転用材としてここに運ばれたものであろう。舟形の石材(花崗岩)の両面に、浮き彫り(薄肉彫り)で像容を表す。上端部が欠損しており、現状で高さ65cmを測る。片面は中央に大きく十王の一人(泰山府君)の坐像が彫られ、向かって左側に金棒を持つ鬼、右に従者が配置されている。
また、もう一面には蓮台に地蔵立像を浮き彫り(半肉彫り)とし、その左右に十王を薄肉彫りで配置している。地蔵は右手に錫杖、左掌に宝珠を持つ通形で、首から上を欠損する。亡者は泰山府君の前で生前の罪を暴かれるが、一方で地蔵菩薩によって地獄の責め苦から救われる
つまりこの両面石仏においては、堕地獄の恐怖とそこからの救済が表現されている鎌倉後期の製作と思われ、民衆に対し、罪の怖さと信仰の尊さを説くために使われたものだろう。全国的にあまり例を見ない、非常に貴重な作例である。

仕事とはいえ、こうした石仏を石垣に積む作業に携わった人たちどんな気持ちだったでしょうか
おそらく、仕事を終えると、徴用されなかったお地蔵さんお詫びをして、自分が地獄に堕ちないようにと必死お祈りをしてたのだろうな…

こんな感傷は、私だけではないようで、石塔にも示されているようでした。

普通の五輪塔に見える一番大きな石塔は「寄せ集め塔」なんですって (他の石塔もそうかもしれない)

柳沢文庫の脇に立てられていた石塔。あたかもオリジナルを保った石塔のように見えるが、実は複数の異なる時代の石塔の部材を組み合わせた「寄せ集め塔」である。
具体的には、下から、
 ①宝篋印塔屋根(傘)の段形 (鎌倉後期)
 ②五輪塔の反花座 [かえりはなざ]
  (鎌倉後期~南北朝期/天地逆)
 ③小型五輪塔の反花座 (室町後期)
 ④五輪塔水輪 (室町期/天地逆)
 ⑤五輪塔火輪 (室町期)
 ⑥五輪塔空風輪 (室町期) となる。
石材はいずれも花崗岩で、総高は約 1.2m(六尺)を測る。郡山城の石垣を築く際に搬入された石材を柳澤侯爵別邸(現在の柳沢文庫建物)が新築された明治39年(1906)以降地元郡山の石工が六尺塔として再構成したものだと思われる。

だそうです。
明治の石工さんたちは、石工の大先輩たちの作品がこんな「ただの石」扱いされたことにいたたまれなくなったんだろうな…

説明板に出てきた「柳澤侯爵別邸(現在の柳沢文庫建物)」のエントランスがこちら。

むくりのついた屋根の大きな車寄せが印象的ですが、私は内部の観覧はパスして、玄関前の掲示ケース内に貼られていた「郡山城絵図の世界」をパシャリ

この絵図は、江戸時代の郡山城の姿を偲ぶ資料になりそうです

さぁて、復興(復元?)された極楽橋を渡って、いよいよ本丸

なんですが、「#3-5」につづきます。
どこまで続くんだ

つづき:2023/10/31 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-5 [完結編]

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良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-3

2023-10-28 17:23:53 | 旅行記

「良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-2」のつづきです。

郡山城は、近鉄郡山駅から歩いて10分もかからない場所にあります。

柳御門跡を通り抜け、

三の丸緑地にあった案内図を見て、見物のルートを検討しました。

そして、正々堂々(?) 追手門から入って、天守台を目指すことにしました。
しっかりと整備されたお城もキレイですが、こんな「いかにも城跡」っぽい眺めも良いものです

郡山城趾

追手門前に到着しました。

おぉ、立派櫓門です

「柳沢文庫」と染め抜かれた幟をちょっと気にしながらも、追手門前にある文字数たっぷり「郡山城ならびに追手門(梅林門)の由来」を読みました。

これによると、現在の追手門は、昭和後期に、

近時郡山城復興の声が高まり、第一次として市民の手による追手門が秀長築城にふさわしい姿で復元された。

だとか。なるほど…

で、郡山城の歴史をこの説明板から略記すると、

1580年、松永久秀を破った筒井順慶築城に着手
1585年、大和・和泉・紀伊3ヶ国の太守(100万石)として入城した豊臣秀長本格的に築城
1600年の関ヶ原の戦いの後に郡山城を接収した徳川方は、この城を取り壊し建物のすべてを伏見城に移築
1615年、大坂の陣後、水野勝成が郡山に転封(6万石)され、城の再興に着手
1618年、徳川家康の外孫(母が家康&築山殿の長女・亀姫)の松平忠明が転封(12万石)され、家康の口利きで、追手門(当時は「一庵丸門」と呼ばれた)を始めとする諸門を伏見城から再び郡山城に移築
その後、本多氏(忠勝の次男忠朝系)⇒松平信之本多氏(忠勝の長男忠政系)と藩主が引き継がれる
1724年、柳澤吉里が甲府から転封(15万石余)
柳澤吉里⇒信鴻⇒保光⇒保泰⇒保興⇒保申と代替わりの後、明治維新で廃城

ということらしい。
そっかぁ、柳沢吉保の系統が江戸時代の後半ずっと郡山藩主(城主)だったのか… と、「柳沢文庫」の幟が理解できました
徳川綱吉側用人として権勢を誇った柳沢吉保でしたが、綱吉逝去後もしっかりと血筋を繋いで明治維新まで大名家であり続けていたとは知りませんでした。
失脚後の田沼意次一族とはぜんぜん違う…

ところで、江戸時代前半のかなりの期間、郡山藩主を務めた本多家、その系図を調べたら、大名家にありがちな養嗣子がボコボコあって複雑怪奇
ついには、系図を手書きして整理してしまいました

   

さて、追手門(旧称:一庵丸門梅林門)をしげしげと眺めました

この追手門「秀長築城にふさわしい姿で復元された」そうで、軒の「五三桐」紋金色に輝いています。

ん?
豊臣家の紋は「五七桐」じゃなかったか?
豊臣秀頼が寄進したという蓮華王院(三十三間堂)「太閤塀」軒丸瓦「五七桐」です。

ま、細かいことは置いといて\(^^\)  追手門をくぐりました。

そして、天守台の見える内濠沿いにあった説明板を見ると、

方角を確かめると、、、、おお、本丸のこの凹み(土砂がたまってますけど)、私の大好物丑寅(北東)鬼門消しではありませんか

この写真は私の「丑寅コレクション」入りが決定です

この説明板から「本丸」の部分を転記します。

本丸全体は南北150m、東西70mで、北端の天守台がある一角がすこし西側にずれて接続する形をなる。本丸の周囲は高さ10~14mの高石垣と幅10~30mの内堀に囲まれている
本丸内には月見櫓、白沢門、竹林門、坤櫓、厩向櫓などの建物が建ち、それぞれが多聞櫓で連結されている、天守台の周囲は堀で囲まれていた。
内堀には二つの橋が架けられていた。東側の毘沙門郭から極楽橋を経て正規のルートであり、極楽橋は表門として位置づけられていた。現在、本丸には南側の竹林橋跡の土橋から入るが、竹林橋は本来は裏門の扱いであった。

説明板には、つづいて石垣に関する記述があって、その中にこんな興味深いことが書かれていました。

正面に見える本丸東麺の石垣の最下部に四角い石材がいくつも並んでいる状況がみてとれる。南北幅20m、高さ2mの範囲に約60石が積まれている。すべて墓石、地蔵などの転用石材である。郡山城の石垣には転用石材が数多く使われているのが特徴であるが、ここは城内で最も集中する場所であり、また、全国的に見てもこれほど集中的に積まれている事例はない。初期の城づくりのすさまじさがうかがわれる。

この辺りですな。

天守台の石垣には、「さかさ地蔵」と呼ばれる、お地蔵さんのお姿そのままに、逆さまに石垣の中に積み込まれている場所があります。

団体らしき観光客が群れていて、私はじかに見るのは諦めました
本丸石垣の転用石材筒井順慶によるものか豊臣秀長によるものか不明ですが、天守台のこれは豊臣秀長の時代の「所業」らしい。

これらの天守台や郡山城の石垣に積み込まれた石仏、墓石並びに城史有縁の諸霊を慰めるため、毎年お城まつりの初日に数珠くり法要が営まれます。

だそうですが、こんなことをするから、筒井家豊臣家悲しい末路を辿ったのではないかと思ったりして…

ここで振り向くと、天守台とは反対側の二の丸エリア興味深い建物が見えました。

せっかくですから、近くから見物することにしました。

このまま書き続けると、記事が長くなってしまいますので、ここで一旦切って「#3-4」につづきます。

つづき:2023/10/30 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-4

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良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-2

2023-10-26 18:33:36 | 旅行記

「良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-1」のつづきも、大神神社からはじまります。

大神神社の拝殿前に、大きな杉の木が植わっていて、その前にこんなお供え物が並んでいました。

供えられているのは、日本酒生卵ばかり
神社に日本酒が奉納されるのはよくある話ですが、生卵のお供え物なんて初めて見ました

でも、この(巳の神杉)由緒書きを見て納得

御祭神の大物主大神が蛇神に姿を変えられた伝承が「日本書紀」などに記され、蛇神は大神の化身として信仰されています。この神杉の洞から白い巳さん(親しみを込めて蛇をそう呼ぶ)が出入りすることから「巳の神杉」の名がつけられました。
近世の名所図絵には拝殿前に巳の神杉と思われる杉の大木が描かれてあり、現在の神杉は樹齢400年余のものと思われます。巨樹の前に卵や神酒がお供えされているのは巳さんの好物を参拝者が持参して拝まれるからです。

白蛇縁起の良い生き物だと言いますものねぇ。
Wikipediaによれば、

ユダヤ教やキリスト教、イスラム教では聖書の創世記から、ヘビは悪魔の化身あるいは悪魔そのものとされてきた。

だそうですが、杖に絡んだ1匹のヘビとか、翼のついた杖に絡んだ2匹のヘビとか、ギリシャ神話に由来する意匠は、それぞれ医療とか商業・交通のシンボルとして国際的に使われているのがなかなかおもしろい

ヘビといえば、私の祖父はヘビが大の苦手で、私の「あいうえお」の絵本(私の保育所時代の愛読書)に描かれていたヘビの絵糊で紙を貼りつけたかと思うと、紙を貼って中を見えなくした1升瓶に入ったマムシ酒愛飲したりしておりました

それはともかく、生卵をお供え物にするのは衛生上マズいのではないか? と思ったら、担当の人が、供えられた生卵頻繁に回収しているようでした。
よかったよかった安心(あの生卵はその後どうなる?)するなり、かなりがっかりする掲示を見つけました。

  コロナウイルス感染拡大予防のため
  当分の間 三ツ鳥居の拝観は出来ません

ですと
大神神社の大きな見どころの「三ツ鳥居」拝観できないとは

新型コロナウイルス感染症5類に移行してもなお拝観できないとなると、大神神社はどんなタイミングで拝観を再開するつもりなんでしょうねぇ

がっかりしつつ、時計を見ると、これから三輪駅にもどれば、いいあんばいで桜井行きの電車に乗れます。
これを逃せば30分も空くわけで、以上を以て大神神社の拝観お開きにしました。

   

桜井駅に向かう大和まほろば線に乗りながら、ふと大事なことを思い出しました。
大直禰子神社[おおたたねこじんじゃ]にお参りするのを忘れた

2021年9月、私は東京国立博物館の「国宝 聖林寺十一面観音 三輪山信仰のみほとけ」展聖林寺十一面観音像立像を拝見していたく感動しました。

堂々としたお姿といい、凛としたお顔立ちといい、なんとも力が漲った観音さまでした。

760年代に造られたというこの観音さまは、大神神社神宮寺大御輪寺(旧名:大神寺)御本尊だったのですが、明治初期の神仏分離(また出た)大御輪寺が廃されることになったため、当時の住職のツテで聖林寺に移されたという来歴をお持ちです。

そして、その大御輪寺だった建物がそのまま神社として生まれ変わったのが、大直禰子神社なのです。
大神神社作成の「境内巡拝マップ」の説明によると、

この地は長く大御輪寺として、奈良時代以降、神仏習合の影響を受け、三輪流神道など神道哲学の発展に多大な影響を及ぼした。現在の本殿は鎌倉時代末期の建築として国重文となり、その材には奈良時代のものも含まれていると云う。
江戸期までは十一面観音菩薩立像(聖林寺安置)地蔵菩薩立像(法隆寺安置) (ともに国宝)などの仏像が併祀されていた。

とのこと。

その大直禰子神社(旧 大御輪寺)はどこにあるかといいますと、東京国立博物館作成の「国宝 聖林寺十一面観音 三輪山信仰のみほとけ」展 鑑賞ガイドに載っているによれば、
大神神社とまわりのようす

いくらなんでもこの絵図大ざっぱ過ぎますので「大神神社境内案内図」を拝借しますと、

二の鳥居の手前を左に入ってすぐ(大神神社の拝殿よりも近い)のようで、電車との競争、あるいは1本遅らせることになったかもしれませんが、あぁ~大直禰子神社にもお参りして、社殿を見学すればよかった… でした。
当初から大神神社に行くつもりだったら、予習していたはずなのに、残念です。
三ツ鳥居の拝観が再開されたら、聖林寺への参拝と併せて、再チャレンジしたいと思います。

   

JR三輪駅に戻った私は、ダイジェストで書いたように、

  三輪駅JR大和まほろば線⇒桜井駅⇒近鉄大阪線⇒大和八木駅⇒近鉄橿原線⇒近鉄郡山駅

というルートで、近鉄郡山駅に降り立ちました。
途中、耳成山が間近に見えたり、

近鉄郡山駅の一つ手前の駅が「筒井駅」筒井順慶などと、内心で盛り上がっておりました。
「盛り上がったといえば、4年前に、高校の修学旅行以来ウン十年ぶり慈光院に行ったあと(記事)、大和郡山駅まで路線バスに乗ったら、途中に「大織冠」というバス停があって(近くに藤原鎌足を祭神とする大織冠神社がある)「中臣鎌足盛り上がったことを思い出しました

なお、郡山城に行ってみよう と考えたきっかけは、このとき、バスの車窓から石垣が見えて、「ここに城跡があるのかと思ったことでした。このときまで、奈良のお城ってあまり印象がなかったのですよ。

   

さてさて、近鉄郡山駅で電車を降りたとき、時刻は12:15頃で、昼食どきでしたので、駅前の飲食店でカツ煮定食をいただきました。

遠征最後の食事はカツ煮定食

大和郡山といえば「金魚のまち」で有名です。
街なかにはこんな金魚オブジェがあるし、

もちろん、マンホール蓋金魚

大和郡山のマンホール蓋

そして、昼食を摂った飲食店でも、、、

生け簀に食材となるを泳がせている店は普通にありますが、カウンターの目の前に金魚が泳ぐ水槽を置いているなんて、さすがは大和郡山

昼食を摂ってお腹が落ち着いたところで、郡山城に向かいましたが、その見聞録は「#3-3」(恐らく遠征記の最終回)で書きます。

つづき:2023/10/28 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-3

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良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-1

2023-10-25 14:51:28 | 旅行記

「良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-6」のつづきは、遠征最終日10月9日のお話です。

最終日の行動予定は、帰りの電車以外、未定でしたが、ホテルチェックアウト時刻が近づくなか、ようやく決まりました

「まだ行ったことのない場所に行きたい」ということで、大安寺も候補に入っていたのですが、ネットで調べると、う~む… という感じで、大神神社と、バスの車窓からちらっと石垣を見たことがあるだけの郡山城をピックアップしました。
唐招提寺は、ルートの途中にあるので、時間に余裕があったら です。

で、ホテルをチェックアウトして外に出ると、某ミー友さんとバッタリ
他のミー友さんが同じホテルに泊まっていることは知っていましたが、2人目です。
でも、こういうことは珍しいことではなかったりします

ホテルから近鉄奈良駅まで歩き、荷物をコインロッカーに入れたあと、路線バスに乗ってJR奈良駅へ。歩いても良かったのですが、この日は時間を有効に使わなければ と、ちょっと無精をしてバスを使いました 車内で大和まほろば線(土日祝日はほぼ30分に1本のダイヤ)の時刻表を調べると、ちょうど良いタイミングの電車があります 

そして、JR奈良駅に着いて5分も経たずに、髙田行きの電車が発車

そしてそして、約25分三輪駅に着きました。

列車の本数の少ない駅ではいつもやるように、メモ代わりにスマホで三輪駅の時刻表の写真を撮り、駅前の案内図を写真に撮ってから、いざ大神神社

でも、どうして三輪駅改札口三輪山・大神神社とは線路を挟んだ反対側にしか無いのでしょ? 大神神社に参拝する人は必ず踏切を渡らなきゃならないのにね…

それにしても、狭いエリアに、そうめんを食べさせる店のなんと多いことか
さすがに10:30頃でしたから営業中のお店はありませんでしたが、さすがは手延べそうめん発祥の地を自負する地だけのことはありますなぁ

参道に出て、踏切を渡ると、三輪駅臨時出口がありました

例大祭(4月9日と10月24日)とか初詣とか、参拝客どっと押し寄せたときに、駅から出る人・入る人をある程度分けて、人の流れを良くするためなんでしょうねぇ

三輪駅からのんびりと歩くこと約5分二の鳥居に到着しました。

おぉ~、厳かな雰囲気
二の鳥居の先は、木々つつみ込まれるようで、まさに「神域」という風情です。

ここでどうでもいい話。
私が今いる別邸は、私が小学3年生のときに親が建てたもので、その上棟式の「あること」が記憶に残っています。
「あること」というのは神主さんの祝詞で、「なんとかのおおかみ」が何度も何度も唱えられていたことが忘れられないのです。「どうしてここにが出てくるんだ?」と思って…。
もちろん、祝詞にあった「おおかみ」ではなく「大神」のこと。そこは小学3年生には理解できないところです
でも、狼(オオカミ)の語源は大神(おおかみ)だとする説があるそうで(Wikipedia)幼少の私は意外に真実を突いていたのかもしれません

どうでもいい話はここまでにしまして、この「大神神社」は、「おおみわじんじゃ」と読みます。

大神神社由緒書きの一部を転記します。
( )は由緒書きどおり、[ ]はふりがなです。

大和国一の宮 三輪大明神 大神神社[おおみわじんじゃ]
  御祭神 大物主大神 (おおものぬしのおおかみ)
  配 神 大己貴神 (おおなむちのかみ) 少彦名神 (すくなひなのかみ)
遠い神代の昔、大己貴神(大国主神)が自らの幸魂[さきたま]奇魂[くしみたま](すなわち和魂[にぎたま])三輪山にお鎮めになり、大物主神(詳しくは倭大物主櫛𤭖魂命[やまとおおものぬしくしみかたまのみこと])の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、ご神体の三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられている、我国最古の神社であります。
大三輪之神[おおみわのかみ]として世に知られ、大神おおみわと申し上げるように、神様の中の大神様として尊崇され、各時代に渡り、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内大社・二十二社・官幣大社として最高の待遇に預かり、無比の御神格がうかがわれます。

ふ~、転記するだけでもなかなか大変

さて、大神神社拝殿からご参拝。

立派な拝殿です。
この拝殿は、

寛文4年(1664) 四代将軍徳川家綱公改建 (国の重要文化財)

だそうな。

由緒書きにあったように、大神神社のご神体は三輪山そのもので、本殿はありません

私がお参りしたことのある本殿の無い神社としては、那智の飛瀧神社(ご神体:那智滝)、諏訪大社上社本宮(同:神体山)、下社秋宮(同:イチイの木)、下社春宮(同:杉の木)で、御祭神は、飛瀧神社大己貴神諏訪大社建御名方神八坂刀売神です。
これを調べて気づくのは、大神神社を含めて、御祭神がすべて国津神だということ。なお、大国主神・大物主神・大己貴神はすべて同一神です。それなのに、大神神社が、御祭神を大物主大神としつつ、配神にも大己貴神としているのは不思議です

「本殿の無い神社」というのは国津神をお祀りする神社だけに見られる特徴なのかなと思いきや、同じく「本殿の無い神社」として有名らしい金鑚神社(かなさなじんじゃ)主祭神天津神の代表格的な天照大神と、天津神⇒国津神と「移籍」した素戔嗚尊だというのですから、困ってしまいます

と、困ってしまったところで「#3-2」につづきます。

つづき:2023/10/26 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-2

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良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-6

2023-10-24 11:15:05 | MISIA/旅行記

「良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-5」のつづきです。

「MISIA PEACEFUL PARK」限定グッズを買えなかったことで、自然、2度目の出撃のメインは、東大寺ミュージアムとなりました。

エントランスを入ると、超横長のスクリーンで東大寺の歴史を紹介する映像が繰り返し流されています。
こういった映像は素通りすることの多い私ですが、時間に余裕もあることだし…と拝見しました。
大仏造立の際、聖武天皇が人々に「一枝の草、一把の土を持て像を助け造らん」と呼びかけたことは知っていましたが、当時の人口が600万人弱だったこと、その約半分の人々が大仏&大仏殿の造立に関わったことは初めて知った気がします。
そして、この映像の最後にあったフレーズ、

あなたのご先祖様も大仏さまの造立に関わったかもしれません

には軽い衝撃を受けました。
冷静に考えれば、総人口の半分の人々が大仏さま造立に関わり、それから1300年近く経っているわけですから、渡来系でない限り、ご先祖様の誰もこの事業に関係しなかった確率はほぼゼロです
そうして考えると、私にとっても、大仏さまは他人事ではありません

さて、東大寺ミュージアムでは、「東大寺開山良弁僧正1250年御遠忌記念」として、特別展示「良弁僧正と東大寺」が開催されていました。

正直、私にとっては、この特別展示よりも、常設展示されている「金銅八角燈籠火袋羽目板(鈸子)」とか、

「西大門勅額」、そして何といっても、「日光菩薩像」「月光菩薩像」の方を興味深く拝見しました

日光菩薩像」「月光菩薩像」を拝見したことで、創建当時に法華堂内を構成していた(「#2-2」をご参照方)という不空羂索観音菩薩像(法華堂)、四天王像(戒壇堂)と合わせてコンプリートできました

そうだそうだ

東大寺大仏殿前庭には、「東大寺開山良弁僧正1250年御遠忌法要」のために七重宝樹」らしき柱が立てられていたのですが、同じ形のものが、昔々の大仏殿前庭での儀式を描いた絵図にしっかりと描かれていました

思いつきではなくちゃんと根拠のある荘厳(しょうごん)だったんですな、当然ながら…

   

東大寺ミュージアムを観覧したあとは、再びホテルに戻り、この日集まった資料を整理したり、天気予報を見てヤキモキしたりして過ごしました。
なお、この日の「MISIA星空のラジオ~Sunday Sunset~」は、前週のアンコール放送だと知っていたので、聴きませんでした。

前夜の「MISIA PEACEFUL PARK」では、かなり寒かったので、パーカーを持ってこなかったことを後悔しながら、Tシャツ2枚重ね着して、「使わずに済む」ことを願いつつもこの遠征のために新調したポンチョをバッグに入れ、18:00ちょい過ぎに、この日3度目の東大寺大仏殿へと出発したのでした。

東大寺方面に向かうバスに乗ったは良いけれど、路線を間違えてしまって真っ暗な初めて歩く道を含めて大仏殿を目指して歩いたこととか(ダイジェスト)前夜の轍は踏むまい とあらかじめスマホに電子チケットを表示した状態で入場口に並んだのに突然電子チケットが消えたこととか(#M-3)アクシデントはありましたが、開演には余裕を持って間に合い、席につけて良かった良かった…

もともと野外ライヴにはあまり行かない私ですが、野外ライヴで雨に遭ったのはこれが3回目でした(屋根のある河口湖ステラシアターは除く)
開演前に土砂降りになり、傘をさしてもジーンズグショグショになった長崎・稲佐山での「星空のライヴIV」とか、「LUVE PARADE」でジャンプしたら着地でズルッと滑った山中湖での「星空のライヴIII」とかに比べれば、今回は別次元のように穏やかな雨でした。
長崎のときは、ライヴが始まる頃に雨が上がったものの、終演後のオフ会のあいだじゅう、ぐしょ濡れのジーンズ不快極まりなかった(ひざを曲げたくなかった)記憶がありますから…

逆に、今回は、照明に照らされた細かい雨が美しく見えたりして…

また、2枚重ねのTシャツの効果か、ポンチョのおかげか、寒さを感じることもありませんでした

ここしばらくMISIAのライヴに行った後、ちょくちょくTweet (現 post)している「MISIAのおことば」、この日はこちらを選びました

「みんなで大仏さまにお手々を合わせましょ」も候補だったのですが、こちらを選出しました 
前日のメンバー紹介ではサトシさん名前を間違えたんだよね、MISIA
かつてはよくキーボードをギターと言い間違えていたMISIA、ここしばらくはサトシさんの名前が鬼門っぽい
ちなみに、前日、10月7日の「MISIAのおことば」はこちら。

10月7日の「MISIAのおことば」

そして、終演後はポンチョを脱ぎ、傘もほとんど使わず、緩やかな傾斜の道を下って、気分良く ホテルに戻ったのでした。

   

ホテルでは、途中のコンビニで買ってきた惣菜と缶ビールで簡易な夕食(?)を済まし(なにせ営業中の飲食店がほとんど無い)、シャワーを浴び、そして、翌日、遠征最終日観光スポットを検討しました。

帰りの新幹線(京都発 15:48)と、近鉄奈良⇒京都の特急券(近鉄奈良発 14:50)のチケットは取ってありますので、それまでどう過ごすか…

まだ行ったことのない場所に行きたいと思いつつ、明朝9:00頃迄に決めればいいや と、寝ました

MISIA絡みの遠征に行くと、ライヴで興奮するせいか、なかなか寝付けないことの多い私ですが、この遠征では、2夜とも、すぐに爆睡して朝までひと眠りでした。
MISIAがライヴ中になんども口にした「安寧」を、ライヴでいただいたのかもしれません

こうして遠征2日目が終わり、「#3-1」につづきます。

つづき:2023/10/25 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-1

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良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-5

2023-10-23 19:43:44 | 旅行記

「良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-4」のつづきです。

きのう10月22日から私は別邸に帰省中ですが、今回は写真データの入ったポータブルHDD(前回の帰省では忘れてきた)とか旅行中に入手した資料を持ってきていますので、おそらく普通に遠征記を書けると思います。

さて、登大路に出た私は、なにやらイベントで賑わっている登大路園地の北西角を左折し、国宝館の駐車場横から興福寺の境内に入りました。
この日の私は、年に一度は観覧している国宝館を珍しくパスし、たまには東金堂にお参りしようかと思っていたのですが、なんとなんと、東金堂は拝観停止中でした
今年7月に始まった五重塔の保存修理工事の絡みで、素屋根工事の期間中(2023年7月~2024年7月)は、五重塔の隣の東金堂の前も工事エリアに入ってしまうのだとか

ん~~、あてが外れました

ちなみに、この日の五重塔はこんな感じ。

初層部分にだけ足場が組まれた状況で、素屋根工事は始まったばかりのように見えました。

ちょっとがっかりしながら南円堂前の石段を降り始めましたが、せっかくなので、三重塔を見物しました。

興福寺三重塔は、こちらでも書いたように、

平安末~鎌倉初期に建てられた、興福寺では北円堂と並ぶ最古参の建物です。

ちなみに現在の興福寺五重塔は、室町時代の応永33年(1426)頃に再建されたものです。

いやぁ、観れば観るほど、バランスの良い端正な塔です

三重塔ほれぼれと見学したあと、さらに石段を降りて三条通りに出ると、いつの間にか猿沢池の畔にできていたスタバORIGAMIを購入しました。
実は、旅行の必需品として持って行く「コーヒーセット(ORIGAMIと断熱カップ)」忘れてきていまして、この日の朝は、ルーティーンのアイスコーヒー飲めなかったのです

それはさておき、時刻はちょうどお昼時
私は、奈良に行くと必ずといってよいほどランチを食べている餅飯殿センター街レストランランチをいただきました

お腹が満ちた私は、餅飯殿のアーケード街を歩いて三条通りに戻ったのですが、三条通りを歩く人が傘をさしているのが見えました
天気予報どおり降ってきましたかぁ

私は、うどん屋(麺闘庵)餅屋(中谷堂)の前に群れるとんでもない雑踏をかき分けながらバッグから折り畳み傘を取りだし、しとしと降る雨の中、ホテルに戻ったのでした。

   

ホテルの私の部屋からは、春日大社へとつづく三条通りが見下ろせて、春日山が見えるのですが、前日もこの日の朝も、御蓋山が後ろの春日山と融け合ってよく判りませんでした。

それが、曇って雨に煙ると、あれまよく見えるではありませんか

私、御蓋山には痛恨の思い出があります。

高校の古文の試験に、阿倍仲麻呂の有名な歌、

  あまの原 ふりさけ見れば 春日なる
    三笠の山に 出でし月かも

を答える問題が出たのですが、これがうろ覚えもいいところで、なかなか思い出せません 仕方なく、適当に5・7・5・7・7に言葉を並べたのですが…。

答え合わせの際、先生から私名指しで、「お前の歌よりずっといいだろ?」とのご指摘を受けてしまいました

この歌は一生忘れることがないでしょう

   

さて、これからどうする????

買ってきたORIGAMIコーヒーを淹れて、しばし長考…

熟慮(?)の結果、15:00からの「MISIA PEACEFUL PARK」限定グッズ先行販売に出撃し、その後、東大寺ミュージアムを観覧したのち、一旦ホテルに戻る
そして、ライヴの開演時刻 19:00に合わせて、この日3度目東大寺大仏殿への出撃敢行する ということにしました。

「ダイジェスト」に書いたように、この日も、私が大仏殿前についた15:20頃には「MISIA PEACEFUL PARK」限定グッズSOLD OUTで、結局、買えずじまいでした。
現地で逢ったミー友さんによれば、15:00前から並んでもSOLD OUTの商品があったとか 
私が甘すぎた…

でも、その後、グッズは、PEACEFUL PARKのサイトで購入できるようになり(私もオーダーしました)、現在も売り切れ品の補充がつづいているようです。ご参考まで。

ところで、15:30頃東大寺は、午前中とは様相がかなり変わって、主に外国人と修学旅行生たちでかなりかなり賑わっていました
土日でも修学旅行をやるんですね ただでさえ混む土日名所旧跡を見学しなくてもよいのに…と私は思います
なお、友人たちとじゃれ合う中高生たちを見て感得したことがあります。
それは、

いつの時代も、男子中高生はおバカである

ということ
まぁ、そういうお年頃ですから

ちょいと短めですが、東大寺ミュージアムの観覧以降については、「#2-6」につづきます。

つづき:2023/10/24 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-6

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良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-4

2023-10-21 16:18:08 | 旅行記

「良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-3」のつづきです。

東大寺上院地区か猫坂を通って大仏殿回廊横まで降りた私は、大仏殿の裏手を通って、戒壇堂を目指しました。

大仏殿の裏は、芝生の上に講堂跡の礎石が残っていて、鹿せんべいよりも孤独を愛する鹿たちの憩いの場になっています。観光客も少ないですし…。

ここに、「東大寺 講堂・三面僧坊跡整備事業」と題した説明板がありました。

ここは、講堂とその東・北・西の三方をコ字状に囲うように建っていた僧坊の跡です。講堂は僧侶が仏教の教義を学ぶための建物で、僧坊は僧侶の住まいです。中央の講堂の礎石(柱を支える石)がよく残っています。
長い間に、講堂跡と僧坊跡の間を流れる川による浸食が進んでいるため、護岸の工事を行います。さらに、今後予定している発掘調査の成果に基づいて、遺構を表示するなどの整備を、令和10年度(2028)の完成を目指して進めます。

大仏殿の裏には、それこそ「小川」が流れているのですが、その川の小ささに反して、両岸はけっこうな高低差にえぐられています。
そりゃ創建から1300年近くも経てば、地形も変わってしまいます。
整備事業の完成を楽しみに待ちたいと思います。

大仏殿の北西角を左折してちょいと進むと、大仏殿を囲む石垣前に、いかにも「臨時楽屋口」といった風情の「受付」があって、

さらに、大仏殿回廊の脇に大型車4台が止まっているのが見えました。
2台は電源車で、

もう2台は、今年2月に横浜アリーナでも見かけた映像収録班(と呼ぶのかは知らぬ)の車両でした。

そして、スロープと呼んでもよい緩やかな石段を降りると、下の地図で「タクシー降車場所」と表示されている場所がありまして、大型ワンボックスのハイヤが数台駐まっていました。
「MISIA PEACEFUL PARK」出演者の皆さんは、ここまでクルマでやって来て、石段を昇って、あの臨時楽屋口から大仏殿エリアに入るのでしょうねぇ

勧進所の前を通り過ぎ、戒壇堂が見えてきたところで振り返ると、塀越しに校倉造り勧進所経庫の一部が見えました。

この勧進所と呼ばれるエリアは、江戸時代大仏と大仏殿(現在の大仏さまと大仏殿)再興に尽力した公慶上人が一院を建て、復興の寺務所としたところだそうで、ここには、経庫(平安時代前期からあった)のほか、指図堂鐘楼公慶堂阿弥陀堂八幡殿などが立っているらしい。
そして公慶堂には公慶上人坐像阿弥陀堂には「アフロ仏」こと五劫思惟阿弥陀如来坐像八幡殿には僧形八幡神坐像が祀られているだそうです。

このうち、快慶作の国宝・僧形八幡神坐像は、もともと手向山八幡宮のご神体だったものの、明治初期の神仏分離のため、東大寺に「移籍」したらしい。八幡宮から八幡神像追い出してどうする という感じですが、ご神体「僧形」というのが、神道派の癇にさわったのかもしれません

   

さて、約6年ぶり3度目戒壇堂です。(最初=2016年の訪問記)

前回の訪問は2017年10月でしたが、戒壇堂では2020年7月から保存修理・耐震化工事のため拝観が停止され、この後、四天王像東大寺ミュージアムで公開されていました。
その工事も完了し、四天王像戒壇堂に戻られ、10月1日から拝観が再開されたばかりです。

四天王像とは2020年12月に東大寺ミュージアムでお目にかかって以来、3年ぶりでした。
改めて4像を拝見すると、4像それぞれのポーズが、バランス良く見えるように作られていることが判ります。
須弥壇向かって左側の増長天と広目天左足に、右側の持国天と多聞天右足(つまりすべて内側)重心を置いています。
また、左奥の広目天と右手前の持国天片手を伸ばして片手は腰のちょい上に構え、右奥の多聞天と増長天右手を挙げて左手は腰より下にあります。
増長天だけが阿形というところだけが異色ではあります。

戒壇堂のリーフレットには、

(戒壇堂)創建時の四天王像は銅造であったが失われ、現在の四天王像は寺内の中門堂から移されたものといわれる。

とありますが、「寺内の中門堂」とは?

こちらのサイトには「東大寺辞典」からの引用として、

東大寺中門堂は東大寺にあった観音堂。本尊は十一面観音。平安時代中期に建立現在の指図堂の位置にあった。法華堂と共に堂衆、禅衆と呼ばれる僧侶が拠点とした。永禄10年の兵火で焼失して廃絶

とあります。
また、東大寺HP指図堂の説明には

現在、指図堂の建つ地は、平安時代に創建された中門堂の跡地で、永禄10年(1567)三好・松永の乱でこの堂舎が大仏殿とともに焼失すると、しばらくは空地となっていた。それから100年余りを経た江戸時代初期、大仏殿三度目の復興の気運が盛り上がり、この辺り一帯は復興事務所ともいうべき勧進所の建物群が立ち並んだ。その折、この中門堂跡地には大きな板絵に描かれた「指図」すなわち大仏殿の計画図面を展示するお堂が建てられた。指図堂という名称はこのことに由来するという。

とあります。

戒壇堂は、治承4年(1180)[南都焼き討ち]、文安3年(1446)、永禄10年(1567)[三好・松永の乱]三度火災に遭ったということですから、四天王像は、平安中期どこかからか現在の勧進所エリアにあった中門堂に移され、1180年か1446年の戒壇堂の火災のあと、すぐ近くの戒壇堂に移されたと考えられます。
ただ、三好・松永の乱では、中門堂も戒壇堂も焼け落ちていますから、そのとき四天王像はどこにいらした?というなかなか大きな疑問が残るわけですが…
「#2-2」で書いたように、戒壇堂の四天王像は、法華堂で不空羂索観音をお守りしていたと考えられているそうですから、法華堂⇒?⇒中門堂⇒?⇒戒壇堂と引っ越しを繰り返した理由と併せて、であります

戒壇堂の拝観を終えると、時刻は11:30
ここで昼食かたがた、一旦、東大寺を離れることにしました。

水門町入江泰吉旧居の前を通り、まだ一度も入ったことのない依水園・寧楽美術館吉城園の前を通ってバスターミナルのところで登大路に出て…。
このルートの一部を、この日の夕方に、再び同じ方向に歩くことになろうとは、知るよしもない私なのでした

つづき:2023/10/23 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-5

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良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-3

2023-10-18 10:54:27 | 旅行記

「良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-2」のつづきは、東大寺法華堂の南隣りにある手向山八幡宮から始めます。

この神社(実は、私がお参りするのは初めて)は古い歴史を持っています。
説明板を転記しますと、

この手向山八幡宮は、奈良時代、聖武天皇が大仏の造営をされたとき、これに協力のため749(天平感宝元)年に宇佐から八幡宮を迎え大仏殿の近く鏡池(八幡池)の東側に鎮座したのに始まる。そして以降東大寺を鎮守したのである。
鎌倉時代の1250(建長2)年に北条時頼によって現在地に遷座した。
祭神は、応神天皇、姫大神、仲哀天皇、神功皇后、仁徳天皇

ということで、大仏開眼前に創建された神社です。
そういえば、この祭神の顔ぶれ、どこかで聞いたことがある… 
と、これだ

福岡の香椎宮の御祭神から住吉大神を除いて姫大神仁徳天皇(応神天皇の皇子)を加えたメンバーです。半ば神話の時代の天皇及びその関係者ですな。
聖武天皇は、大仏の造営にあたって、ご先祖様の力をお借りしようと考えたのでしょう

東大寺の境内には、明治初期の神仏分離によって東大寺から切り離された手向山八幡宮のほかにも、いくつもの鳥居と社を見ることができます。

「#2-2」でも登場したNHK「千三百年祈り続ける ~お水取り・東大寺修二会~」によると、修二会では神事も行われるし、全国の神社から神様を勧請する儀式があるし、練行衆は修二会に先立って、二月堂の周りにあるにそろってお参りするしで、神仏習合が生きています。
手向山八幡宮のお祭りの際、御神輿御旅所になる東大寺転害門には注連縄も張られていますしね。

「明治政府が何を言おうと、こちとら1200年近くこうやってるんだ」という気概が感じられます

ところで、手向山八幡宮境内の石灯籠には、こんなを描いた紙が貼られていました。

「対い鳩(むかいばと)」という紋だそうで、お目々ぱっちりの二羽の鳩が向かい合って(「八」を意味しているらしい)、二羽の間にがつくられているという、なかなかcuteな紋です。
武神として武家の崇敬を集める八幡宮の紋が、平和の象徴とされるとかとか、逆のイメージなのがおもしろい
一方で、拝殿の前の提灯に描かれているのは別の紋です。

この紋は何の意匠なんでしょう
また、「対い鳩」紋との関係?
今後の宿題とさせていただきます

   

手向山八幡宮の向かい側に、校倉造りの建物が、南北に並んで2棟立っています。

ほぼ同じ大きさ(若干南側の蔵が大きい?)の蔵ですが、上に載せた南側の蔵は手向山八幡宮の宝庫で、下に載せた北側の蔵は東大寺法華堂の経蔵(軒丸瓦に「東大寺」の文字入り)です

校倉造りの建物は、法隆寺とか唐招提寺とか石山寺とか東京国立博物館でも見たことがありますが、やはり、正倉院正倉デカさが飛び抜けていますなぁ。

このデカさで観ないと判らないだろうなぁ。
正倉院正倉は、年末年始を除く平日と、奈良国立博物館での正倉院展期間中(今年は10月28日から11月13日)なら休日でも外構を見学できますので、機会がありましたら是非

話を東大寺に戻しまして、東大寺法華堂経蔵の隣りに石塔が立っています。

これは「御髪塔」というものだそうですが、東大寺のHPには説明が載っていないし、現地にも説明板がないので、どういう塔なのか判りません

ただ調べると、この塔は鎌倉時代に建てられた十三重石塔らしい。でも、どう見ても「十二重」です。石塔は二重(多宝塔)を除けば三重、五重、七重、九重、十一重、十三重と、奇数ばかりのはずなのに…。
どうやら、地震かなにかで崩れて積み直す際、一つの屋根が失われたようです。てっぺんの法輪の上にあるはずの水煙宝珠もありませんし…

それにしても、「諸説あります」でもいいので、御髪塔について、何らかの説明が欲しいなぁ。

   

ここからはこの日午前中の東大寺散策の後半に入りますので、改めて、東大寺上院地区付近の地図を載っけておきます。

国宝 木造良弁僧正坐像が祀られている開山堂を、屋根だけ拝見しました。

良弁僧正坐像は、法華堂の執金剛神立像と同様に、良弁忌の12月16日のみの公開ですが、今年は、1250年御遠忌ということで、10月28日~11月19日法華堂で特別拝観できるそうです。

上院地区から一段降りると、鐘楼を囲むようにして、いくつかのお堂が立っています。

鐘楼は、屋根の先端が反り返っている(中国っぽい)という日本では珍しい形をしています。
鎌倉時代、南都焼き討ち後の復興に貢献した重源上人のあとを継いで東大寺大勧進を務めた栄西禅師が再興したものですが、梵鐘は東大寺創建当初からのもの。
この梵鐘がデカい
総高3.86m、口径2.71m、重量26.3tですと
梵鐘の真下に入って内側をパチリ

今、この瞬間に梵鐘落下して閉じ込められたら、救出されるまでどれくらい時間がかかるのだろうか? なんてことを考えたら、私の次に梵鐘の下に入った人が同じことを言っていました

東大寺のHPによると、

延久2年(1070) 10月と永長元年(1096) 10月に地震のため墜落し、又延応元年(1239年) 6月には龍頭が切れて転落したが、すぐに修理されたことが修理銘によって知られている。

だそうです。地震で鐘楼の梁が折れて落下するのはあり得そうな話ですが、竜頭(鐘楼の頂部にある輪っか)が切れるというのはゆゆしき事態ですぞ

鐘楼の向かい側に立っているのが俊乗堂で、

中には、私がここで実際に拝見して(記事)

唐招提寺鑑真和上坐像双璧をなす肖像彫刻の大傑作だと思います

と思った「俊乗房重源上人坐像」が祀られています。
この坐像の作者は明らかになっていないそうですが、運慶ほか慶派の仏師が有力視されているそうな。
なお、俊乗堂の内部公開は、重源上人の命日「俊乗忌」の7月5日と、これまた良弁忌の12月16日年2回です。

このあと、例の「猫段」を、コケないよう慎重に下って(死後、ネコに転生するのも悪くはないけど…)、大仏殿の裏手に回ったのですが、そのお話は「#2-4」で書きます。

つづき:2023/10/21 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-4

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良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-2

2023-10-17 18:19:18 | 旅行記

「良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-1」のつづきです。

秘仏・十一面観音を本尊とする東大寺二月堂がなぜ「二月堂」と呼ばれるかというと、「修二会(しゅにえ)」が行われるお堂だから。現在は3月1日から2週間行われている修二会ですが、かつては旧暦2月1日から行われていたそうです。

なんとなく、「二月堂の舞台から松明の火の粉を飛ばす行事」というイメージが強いかもしれませんが、本質はそこにあるのではなく、お堂の中で2週間にわたって連日連夜行われる法会十一面悔過法要」にあります。
大仏開眼の725年から一度も絶やすことなく、兵火大仏殿や大仏が灰燼に帰した(南都焼き討ち:1181年、永禄の変:1567年)直後も、大阪の空襲(1945年3月13-14日)に向かうB29の編隊が上空を飛んでいったときも行われ、今年も1276回目の法要が行われたそうな。

法要と聞くと、お坊さんがお経を唱えるだけ…と思いがちですが、2021年にNHKで放送された「千三百年祈り続ける ~お水取り・東大寺修二会~」(私は4K版を録画)を視ると、木沓(差懸さしかけ)履いた11人のお坊さん(練行衆)ドタバタとお堂の中を走り回るは、見事なハーモニーの声明(しょうみょう)を聴かせるは、火の粉を飛び散らして松明を振り回す(木造の国宝建築物の中)、お坊さんは飛び上がって床に自分の体を叩きつける(五体投地)コンテンポラリーなお祈りを捧げる(「新型コロナ」ということばも登場した)は、全国の神社の神様を勧請するはで、ほとんど「体育会系」の儀式です

お坊さん個人の修行のようでもありますが、そうではなく、お坊さんが人々に成り代わって、日常に犯しているさまざまな過ちを懺悔し、天災や疫病や反乱を取り除いて、鎮護国家、天下泰安、風雨順時、五穀豊穣、万民快楽など、人々の幸福を願うという、志の高い行事です。

【追記】20年以上前に放送されたNHKハイビジョンスペシャル「東大寺 お水取り~炎の行・修二会のすべて~」の録画を視たら、さだまさしさんが「自分のためだけだったら、こんな行なんてできない。他の人のためだからこそできる」とおっしゃっていました。同感です。(2023/10/30 21:29)

法要の内容については、Wikipediaに詳しく書かれていますので、そちらをご参照ください。

   

二月堂内部には入れませんが、私が行った時は、堂内でお坊さんがお勤めの真っ最中で、そのお経を聴きながら、回廊から「下界」を眺めました。

二月堂の南隣りには法華堂(三月堂)があるのですが、珍しく、法華堂の北側の扉が開いていました

執金剛神立像が公開中ということで、明かり取りのためなんだろうと想像しました。

二月堂の南側の石段を降りてくると、こういう法句が掲げられていました。

仏は笑う。希有の難事を見て笑う。その笑いは人々が困っていればいるだけ 苦しんでいるだけ大声で笑う困っている人を助けるために笑っているのである。
慈悲の笑いである。
人々は仏の笑いを見て苦悩から抜け出す負けないための笑いである。

と、なんとも深いことが書かれています。
難事に際して笑うことは不謹慎だと考えるのが普通です。仏さんだって、「気の毒に…と思っているだろうところを、敢えて笑ってしゃがみ込んでしまった人たちの背中を押してくれる、という意味なのだろうと解釈しました。
でも、困ったり苦しんでいる人たちの前で大声で笑うのは、仏さんだけに許される特権だと思います

   

さて、いよいよこの日午前中のメイン法華堂の拝観です

「MISIA PEACEFUL PARK Dialogue for Inclusion 2023」絡みの奈良遠征と、「東大寺開山良弁僧正1250年御遠忌記念」行われる法華堂執金剛神立像の特別開扉にタイミングが一致することを知った私は、それこそ欣喜雀躍しました。秘仏 執金剛神立像が公開されるのは、年に一度、良弁僧正の忌日(旧暦 閏11月16日)にちなんだ12月16日だけなんですから。
私は、予習として、録画してあったNHK「国宝へようこそ 第13集 東大寺」をじっくりと視ました。この番組は「東大寺」にかんする諸々ではなく、もっぱら法華堂の仏さまたちのことに焦点を当てた番組になっていましたから。

現在の法華堂の「仏さまフォーメーション」は下図のようになっています。

正堂(しょうどう)中央の八角形の須弥壇の上段に御本尊の不空羂索観音、その左右に梵天帝釈天、その外側の四隅四天王、増長天と持国天に挟まれるように金剛力士(阿形と吽形)、そして、不空羂索観音の背後の厨子の中で、執金剛神不空羂索観音とは背中合わせに、法華堂の仏さまたちのなかでは唯一、北を向いて立っているというものです。

NHK「国宝へようこそ 第13集 東大寺」では、番組HPにあるように、「本尊の不空羂索観音(362cm)より脇に立つ梵天(402cm)帝釈天(403cm)の方が大きい」というから始まって、須弥壇に残る痕跡から、須弥壇の中段、左右に伝日光・月光菩薩(現在、東大寺ミュージアムで公開中)梵天・帝釈天として立っていて、四方に戒壇堂の四天王が立っていた可能性が高いという結論を得ていました。

伝日光・月光菩薩像は、東大寺ミュージアムに引っ越すまでは法華堂にいらっしゃって、うちにあるビジュアルワイド 図説日本史には、かつての法華堂でのお姿が載っています(Wikipediaにも載ってた)
なお、伝日光菩薩像(207.2cm)・月光菩薩像(204.8cm)の高さは、梵天・帝釈天像の約半分と小柄です。
また、戒壇堂の四天王は、160.5~169.9cmと更に小柄

そんな予習を経て、2~3度目くらいの法華堂の拝観です。
確かに、梵天・帝釈天像デカいし、四天王像金剛力士像デカくて、堂内に仏さまがひしめいている感じがしました。

それが、梵天・帝釈天伝日光・月光菩薩と、四天王も戒壇堂の四天王とそれぞれ入れ替わり執金剛神キャラがかぶる金剛力士がいなくなれば、かなりスッキリするでしょうねぇ。

そしてそして、秘仏 執金剛神立像とご対面

第一印象「口が赤い

存じていましたけれど、1200年以上の年月を経ても、かなり彩色が残っています
そして、腕の血管はち切れんばかりで、凄い迫力です。

1回 20人くらいが像の前でおじさんの説明を聞くのですが、混雑している感じはありませんでした。説明員のおじさん曰く「毎年の開扉のときは、3時間待って5分間だけ拝観です」とのこと。
なお、傍らにタイマーが置かれているのを見つけました。毎年12月16日には冷酷非情活躍するのでしょう

私はおじさんの説明を聞いたあと、復元彩色された模刻像をちょっとだけ観て、再び不空羂索観音像率いるユニットを拝観し、もう一度、おじさんの解説を聞き流しながら執金剛立像を拝観したあと(つまり2周して)、法華堂を退出しました。

いやはや貴重な体験ができました

つづき:2023/10/18 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-3

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