新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

ウン十年ぶりの弘前 [弘前城編 #2]

2022-11-19 14:42:33 | 旅行記

「ウン十年ぶりの弘前 [弘前城編 #1]」のつづきです。

ポツポツと降りだした雨の中、内濠にかかる下乗橋を渡り、

本丸へ。
下乗橋の説明板によると、

本丸と二の丸を結ぶ橋で、この橋の二の丸側に下馬札があり、藩士は馬から降りるように定められていた。築城当初、橋の両側は土塁坂であったが、文化8年(1811)に石垣に直したものである。
以前は擬宝珠が十二支をかたどったものであった。

だそうで、このかなり無骨石垣江戸時代後期に積まれたものなんですな。

私はここまで、弘前城平城だと思っていたのですが、左手を見ると、

意外にもちょっとしたがあって、実は平山城だったんだと知った次第。

でも、ここまで坂道があった記憶はなく、誰でも巡りやすい城跡だと思います。同じ「平山城」に区分される松山城(本丸はほとんど「山城」)なんかと比べれば、ほとんど高低差が無いと言っても良いかもしれません。

なお、本丸&北の郭は、入場料320円が必要です。

本丸に入ると、展望用のやぐらがありましたので、登ってみました。

ぐわぁ~岩木山の中~

それはそうと、天守ちょっと変に見えませんか?
天守の多くは、石垣を積んだ天守台の上に建てられているものですが、弘前城の天守は、なんだか地中に沈み込んでいるような…

実は、この天守は、文化7 (1810) 年に、本丸の南東隅「隅櫓」という名目で建てられたもの。
ところが、

弘前城本丸の石垣が外側に膨らむ「はらみ」がみら れ、天守真下から石垣の一部を修理することになりました (こちらのHP)

ということで、2015年天守曳屋して本丸中央の現在の位置まで約70m移動させて(当時、ニュースで見た)石垣修理の真っ最中なのだとか。
移動前の写真はリーフレットからの転載です。

この天守の佇まいを見て思い出したのは丸亀城でした(訪問記)
丸亀城の天守本丸の石垣の上に建てられていて、下から見上げたらカッコイイのに、

本丸の同一地平で見ると、小ぶりなこともあって、ちょいと寂しい

弘前城本丸の石垣工事が終了して、天守が元の位置に戻るのは「早くても2025年度」だとか。まだまだ時間がかかる…

ここで説明板。

築城当初天守本丸南西隅に建てられましたが、寛永4年(1627)の落雷で焼失したと伝えられています。現在の天守文化7年(1810)に九代藩主津軽寧親本丸南東隅櫓造営の名目で建てたもので、三重三階の独立天守です。内濠に面する東・南面には破風や懸魚を設けていますが、本丸側の北・西面や内部は質素に作られています。

二の丸から見上げられる側面と、本丸でしか見られない側面とで作りわけしてるって…
どれどれ?北・西面を見ると、

あはは、ホントだ
破風がなくてシンプルで、他のホントの隅櫓をちょいと大きくしたようにしか見えません

そうそう、前記の「説明板」にあった初代天守の落雷&焼失ですが、Wikipediaによると、ただの焼失ではなく

1627年 (寛永4年) 9月の落雷で出火し、天守内部に収納されていた火薬に引火して (4重目に吊るされていた釣鐘が落下して下層に収納してあった火薬に引火したとも) 大爆発を起こして本丸御殿や諸櫓とともに焼失した。天守は再建されることなく、今でも天守台を支えていた石垣は本丸南西隅に聳えている。

という壮絶なものだったらしい

それでは、資料館になっている天守に入ります。

現在行われている石垣修理工事と天守の曳屋に関する説明パネルが並んでいて、曳屋に使われたジャッキなんぞも展示されていました。

そんな中に、牡丹の紋(杏葉牡丹紋)金色に輝く駕籠がありました。

そして、その上に、私がずっと気になっていたこと「解答」が書かれていました

津軽牡丹杏葉牡丹の一種であるが、文禄2 (1594)為信が上洛の際、近衛関白家より使用を許され、以降、津軽牡丹として公式紋(表紋)に定め、本陣幔幕、紋服(大紋)等に用いられた。殿様の馬印及び軍勢の旗印等に用いられた。

だそうです。

私のイメージでは、津軽=卍 だったのですが(弘前市の市章)、そうか、そうだったのか…

天守の中の展示で私がもっとも興味津々だったのは、弘前城本丸のジオラマでした。

本丸には建物がギッシリと建ち並んでいて、建ぺい率が高い
いや、そんなことよりも、注目するべきは、当然ながら「丑寅」でして、さて、弘前城本丸の鬼門はどうなってる?

おお、本丸の北東隅面取りされたようになっています
北東隅を正方形に切り込ませる「鬼門除け」が多いなか、こういう「面取りタイプ」は初めて見た気がします
広島城内濠の外側がこんな感じでしたな(本丸側は特に対策していない感じ)

こりゃ、実際に見なければ

はやる心を抑えつつ、さっきよりは雲が上がった岩木山を眺めたのち、

鷹丘橋を渡って北の郭に移動し、本丸の鬼門除けを見物しました。

おぉ、ジオラマのとおり 当然
良いものを見られました

そうだ そのうちにこれまで日本各地で収集した「鬼門除け」をセットにして記事にしてみよう

と思い立ったところで、「弘前城編 #3」につづきます。

つづき:2022/12/11 ウン十年ぶりの弘前 [弘前城編 #3] 【完結編】

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ウン十年ぶりの弘前 [弘前城編 #1]

2022-11-18 18:28:48 | 旅行記

「ウン十年ぶりの弘前 [建物編]」のつづきは「弘前城編」です。

私が駐車場からの道を間違えた(遠回りした)せいで、弘前城外堀に突き当たった地点は、東門と追手門の中間辺りでした。で、ちょっとだけ近い東門から入城するべきか、正門である追手門から入城するべきかちょっと迷った結果、追手門から入城して、弘前城址を巡ったあと、東門から出ようと決めました。
距離的には、東門から入って追手門から出る方がムダが少なかったのですが、それはあとで判った話

その追手門なのですが、養生幕で覆われていました

去年の8月から今年の12月末までの予定で保存修理工事が行われているそうで、ちょっと残念
2013年に二条城に行ったとき(記事)唐門がこんなだったっけ…

追手門の説明板を転記しますと、

弘前藩四代藩主・津軽信政の代に、参勤交代経路が変更され、それに伴い、大手(正面)の門とされました。建築は築城当初まで遡ると考えられています。当初は本瓦葺でしたが、後に銅瓦葺に葺き替えられました。また、明和3年の大地震によって大きな被害を受けたことから、二層内部に、支柱・筋違・捨梁を入れて補給しています。

とあって、気になる点が2つありました。

一つは「参勤交代経路の変更」、もう一つは「本瓦⇒銅瓦の葺き替え」です。

まず、津軽藩(弘前藩)の参勤交代ルートはどのように変わったのか、です。
答えは簡単に見つかりました
こちらのサイトによると、寛文4 (1664)年までは日本海沿いを通る現在のJR五能線ルート翌年以降は内陸の矢立峠で久保田藩領から津軽藩領に入る奥羽本線(R7)ルートに変更されたらしい。
つまり、弘前城の「北側から出入り⇒南側から出入り」に変更されたというわけですな。

次に「本瓦⇒銅瓦」の葺き替えですが、「建物編」で引用した百石町展示館の説明に、

屋根は雪国に珍しい瓦葺

という記述がありました。
確かに雪国では瓦葺の屋根は珍しい存在です。

が積もることで水分が染み込み、それが凍って瓦が割れるとか、瓦の重さがその理由だと思われます。
この追手門に限らず、弘前城の瓦屋根は、瓦状の木型に薄い銅板をかぶせる銅瓦が使われているようでした。
[参考] 写真は名古屋城天守銅瓦です。

さて、追手門を抜け、案内図で弘前城址の全体を把握しました。
丑寅櫓があるということは、大好物鬼門消しはないのかな? などと考えながら…。

そして、まずは「建物編」で書いたように弘前市民会館の外観を見物した後、城内を散策しました。
中濠に架けられた朱塗り「杉の大橋」を渡り、

南内門を通って二の丸に入ります。
南内門の向かいのカエデ紅葉真っ盛り

と、南内門工事用の足場で囲まれていました

こちらは、工事があらかた終わったようで、足場を解体する作業に入っていて、内側はすっきりと観ることができました

二の丸南の両角には、南西未申櫓(ひつじさるのやぐら)

南東辰巳櫓が立っています。

銅瓦を葺いていると違って、の屋根が銅板葺き
装飾の少ない壁面ともあいまって、かなりシンプルな感じですな

上に載せた案内図はちょいと判りづらいので、リーフレットに載っていた地図をここにも載せておきます。方位も判りますので。

弘前城には、ここまで見てきた追手門南内門未申櫓辰巳櫓のほか、北門東内門東門丑寅櫓、そして天守と、江戸時代からの9つの建物が現存していて、いずれも国の重要文化財に指定されています。

ここで、追手門の手前にあった説明板を転記します。

津軽氏城跡 弘前城
弘前城は、津軽藩主代々の居城で慶長16年(1611) に二代藩主津軽信枚によって築かれた城である。
面積約49万2千平方メートル(約14万9千坪)を有し、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭よりなり三重の濠土塁でめぐらされた城郭である。

石垣で囲われているのは本丸だけで、他は基本的に土塁で囲われているのが、いかにも東日本の城です

二の丸馬場跡の北端に立派なイチョウが立っていて、きれいに黄葉していました。

傍らに「弘前市古木名木」という立て札が立っていまして、

種名 イチョウ
幹周 7.3メートル 
樹高 24メートル

推定樹齢 約400年
由来 いつごろに植えられたものか明らかではないが、弘前市内では最も太いイチョウである。
「津軽俗説選」によると、このイチョウの葉が落ちると弘前地方に雪が降り出すという言い伝えがある。
イチョウは雌雄異株であるが、この木は雄木である。

だそうです。
この様子だと、初雪はまだですな

なんてことを考えていたら、ポツリポツリとが降り出しました。

別邸を出発するときは良い天気で、折りたたみ傘を持ってきていません
途中、秋田・青森県境付近ではが降っていましたが、弘前に着いた頃には大丈夫そうな感じだったので、クルマのトランクに2本も入れてある長傘だって持ちだしていません

こりゃさっさと天守の中に入って、見学がてら雨宿りしよう と、ちょっと早足本丸に向かいました。

というところで「弘前城編 #2」につづきます。

つづき:2022/11/19 ウン十年ぶりの弘前 [弘前城編 #2]

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ウン十年ぶりの弘前 [建物編]

2022-11-15 15:26:08 | 旅行記

きのう、弘前まで日帰りドライブしてきました。
今回の帰省は残り5日間で、今週半ばは天気が悪いらしい、以前から行ってみたかった弘前れんが倉庫美術館開館日(休館日は火曜日)だというので、朝食を済ませて出発

秋田中央ICから秋田道に乗って北上しました。
弘前へは東北道大鰐弘前ICで降りることになるのですが、そこまでの間に「ミッシング・リンク」があります。二ツ井白神IC~蟹沢IC未開通で、R710kmほど走らなくてはなりません。また、戻りは、二ツ井白神IC~能代東IC上り線工事通行止めなので、さらに12km余計にR7を走る必要があります。
でも、往復とも、この区間は信号機が少なく、かつ結構なスピードでクルマが流れているので、この区間前後の秋田道(ほとんど片側1車線の対面通行)を走るのと大きな違いは無い印象でした。

別邸を出発して2時間20分ほどでクルマは弘前市街に入り、まちなかの駐車場にクルマを駐めました。弘前れんが倉庫美術館には専用駐車場(おもいやり駐車場)2台分しか無いことを調査済みで、また、弘前公園にも行ってみたかったので、その中間点に近い土手町の駐車場を選択しました。

まずは弘前公園に行こう と、スマホで方角を確認して歩き始めました。
どこか途中で昼食をとろうと思ったものの、なかなか店がみつかりません
ご多分に漏れず、弘前市街でも「テナント募集」が目立ちます

と、あの建物はなんだ?

説明板によると、この建物は弘前市立百石町展示館で、

1883(明治16)年、豪商・宮本甚兵衛が新築した「角三」呉服店の店舗で、防火を第一に考えた土蔵造りで、屋根は雪国に珍しい瓦葺本屋の外壁隅は石積風住居部分は和風真壁とした。「角み」「角は」「久一」という弘前三大洋風呉服店の先駆となる擬洋風の建物である。
1917(大正6)年、津軽銀行に譲渡され、銀行店舗に改装、カウンター台を設け、床を板張りとして、一部開放されていた一階店頭を壁で閉鎖、新たに玄関ポーチを造った。
1943(昭和18)年から青森銀行と合併、1998(平成10)年まで青森銀行津軽支店として使用された。

だそうです。
百石町展示館は無料公開されているようですが、後回しにして先に進みます。

実はこのとき、弘前公園追手門を目指していたのですが、遠回りしておりました でも、ケガの功名というか、びっくりドンキーを見つけ、あそこで昼食 と思ったら、またもや目を惹く建物が目に入りました

日本基督教団弘前教会です。

1875(明治8)年に設立された東北最初のプロテスタント系の教会だそうで、その建物は、公式HPによると、

 設計/桜庭駒五郎 (教会員)
 施工/斎藤伊三郎
 完成/1906年(明治39) 12月
 材料/ヒバ(青森県産)
 大きさ/幅16m・奥行き22m
     高さ15m・塔の高さ20m
この礼拝堂はパリのノートルダム聖堂を参考にして設計されたと言われています。創建時には会堂中にヒバの癒しの香りが満ちていたと思われます。双塔式ゴシック風木造建築は、明治期の木造洋風建築としては全国的に珍しいものです。内部は和洋折衷が特徴で、1階後部はふすまで仕切られ、2階は30畳の和室となっています。今も毎週日曜の礼拝で使用されており、信徒が祈りを捧げる場となっています。なお、歳月による傷みにより、近年、側壁は外部より鉄骨で補強されました。外壁は2015年に塗装されました。

そっかぁ、パリのノートルダム聖堂がモデルですかぁ
本家に比べるとはるかに小さいけれど、いかにも木造らしい建物で、なかなかです

びっくりドンキー昼食を済ませたあと、追手門に向かっていると、またもや

こうなったら、旅行記前編として「建物編」にしてしまいしょ

この建物は、青森銀行記念館 (旧第五十九銀行本店本館) [重要文化財]で、青森銀行が立てた説明板を転記します。

この建物は、当行の母体となった旧第五十九銀行本店として明治37年(1904年)に建築されたものである。
昭和18年(1943年)10月 第五十九銀行ほか数行合併して青森銀行が創立された後は弘前支店に転用してきたが、昭和40年(1965年) 5月に支店新築にあたり、この地に移転し、第五十九銀行時代の貴重なる記念物として又当地方における明治期の文化財として永く保存することにしたものである。
設計施工は、当時名匠といわれた当市の棟梁堀江佐吉氏の手によるもので構造は木造(欅材を多く用う)ルネッサンス様式の洋風建築としてこの地方に極めて貴重なものとされる。

前述の「百石町展示館」「青森銀行津軽支店」、こちらは「青森銀行弘前支店」だったというわけですな
そういえば、わがふるさとには「秋田銀行秋田支店」という奇妙な店名の銀行がありましたっけ…

この旧第五十九銀行本店本館すぐ近くの建物にも私のセンサーが反応しました。

ちょっと薄汚れて、しもた屋風ではありますが、これまた風情のある建物です

帰宅してから調べると、国の登録有形文化財に指定されている「旧弘前無尽社屋 (三上ビル)」という由緒正しき建物でした
弘前市のHPによると、昭和2年建築 鉄筋コンクリート造三階一部四階建、建築面積109平方メートル」だそうで、

弘前無尽株式会社(後に弘前相互銀行:現みちのく銀行)が自社専用ビルとして建設したもの。弘前市内初期の鉄筋コンクリート造建造物で、設計は青森工業学校長の大竹巽。角地の隅を切り垂直性を強調した壁面を立ち上げ、3階窓上部にあしらった歯飾状装飾を背面にまで連続させるなどアールデコ調の意匠に特色がある。

だそうです。
あと、追手門をくぐる直前、弘前公園の南側に、そこはかとなく興味を惹く建物がチラリと見えたのですが、こちらは近くまで行かずじまいでした
その建物はこれまた国の登録有形文化財「旧第八師団長官舎」

こちらのサイトによれば、

旧第八師団長官舎は、大正6年(1917年)旧第八師団長官舎として建てられた。終戦とともに米軍の進駐部隊の司令官宿舎として使用されたのち、昭和26年(1951年)に市に払い下げられ、市長公舎として利用された。弘前市庁舎本館の建設に際して、三分の二が解体されて、一部を敷地内南西部へ曳屋したものを、平成24年の保存修理工事にあわせて現在地に曳屋したものである。
旧第八師団長官舎は木造平屋建で、面積156.56平方メートル。堀江佐吉の六男・金蔵の施工で建設された。ヨーロッパで発達したハーフティンバー風(短い材木を効率良く組み合わせて作られた工法)の洋風建築で、玄関に切妻破風を造り外壁はモルタル塗りで屋根窓が付いている。内部は応接室、会議室、控室の洋室と、縁側付き二間続き和室からなる。額縁で囲われた欄間付きの上げ下げ窓など、大正時代の雰囲気をよく残す。応接室の白漆喰塗り、腰壁は竪羽目板、上部を白漆喰仕上げにするなど、大正時代の洋風高級住宅を偲ばせる。蛇腹や照明のレリーフなど、細部の意匠もモダンである。

だそうで、現在はなんとなんと、スタバ弘前公園前店として活用されているんだとか (上の写真はスタバのサイトから借用)
行ってみればよかったぁ~

最後の建物は、弘前公園内にある弘前市民会館です。

私が弘前に来たのは、ウン十年前中2の部活で来て以来2度目でして、そのときの思い出の場所がこの弘前市民会館大ホールです。

当時は建物の外観にはまったく興味がなく、ただステージが狭く「恐ろしく響かない(デッド)なホールだという印象でした。
要するに良い印象が残っていないのですが、この建物が当時のまま (1964年5月竣工)で、巨匠・前川國男の設計だとは、別邸に帰ってくるまで知りませんでした

リーフレット「趣のある建物」

前川さんの手による建物は弘前市内に数多くて、この弘前市民会館の隣にある弘前市立博物館とか、弘前市庁舎とか、旧弘前市立病院とか、弘前市斎場まで…。
新潟生まれ東京育ちの前川さん弘前とはどういうつながりがあるのかと思ったら、母上が弘前藩士の家系で、フランスから帰国して最初に設計したのが弘前市内木村産業研究所だったというのが発端で、次第に弘前市との関係が深まっていったということらしい。

それにしても、弘前の街歩きをするまで、こんなに建物ウオッチングのしがいのある街だとは思いもよりませんでした。
弘前公園内の弘前城情報館で入手したリーフレット「趣のある建物」を見ると、私が実際に目にした建物はほんの序の口にすぎません
また機会をみつけて、のんびりと弘前の建物ウオッチングを楽しみたいものです。

つづき:2022/11/18 ウン十年ぶりの弘前 [弘前城編 #1] 

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今年最初で最後の奈良へ [ダイジェスト]

2022-11-02 12:50:18 | 旅行記

1か月半ほど前のこと、ふと、今年は奈良に行っていないことに気づきました。
振り返れば、2009年からずっと毎年1度は奈良に出かけているのに、今年は、1月と3月に関西遠征をしたのに、奈良には行っていません
別に願掛けしているわけではないけれど10年以上続けている習慣を途切れさせるのもなぁ~ と思ったところで気づきました
「秋の奈良には正倉院展がある

さっそく今年の正倉院展の会期を調べると、10月29日~11月14日で、「よっしゃ2度目の正倉院展に行くと決定
ただ、完全日時指定制で、前売りは9月26日から。この時点は発売前で、いつのチケットを取れるのか不明だったので、ホテルの予約は後回しにしました。

そして、前売りが始まると、もくろみどおり「10月31日(月) 11:00~」のチケットをgetでき、今回は諸般の事情により、京都の安いホテルを予約しました。思いつきの旅行ですから、1泊2日のコンパクトかつ質素なものにするつもりで…。

すると、全国旅行支援が始まることが発表になり、旅行サイトが対応ができるようになってから、ホテルの予約を取り直しました Lucky

   

ということで、10月30~31日関西旅行をしてきました

2日間の旅程はこんな具合。

【初日】
自宅⇒徒歩最寄り駅埼京線赤羽駅上野東京ライン東京駅東海道新幹線新大阪駅JR京都線大阪駅新梅田食道街大阪駅大阪環状線福島駅⇒徒歩大阪中之島美術館(ロートレックとミュシャ展)⇒徒歩福島駅大阪環状線大阪駅阪神百貨店大阪駅JR京都線京都駅⇒徒歩ホテル

【2日目】
ホテル徒歩京都駅近鉄京都線近鉄奈良駅⇒徒歩興福(北円堂国宝館)⇒徒歩奈良国立博物館(正倉院展)⇒徒歩餅飯殿センター街⇒徒歩東大寺転害門⇒徒歩旧奈良監獄⇒徒歩正倉院⇒徒歩近鉄奈良駅近鉄京都線京都駅東海道新幹線東京駅上野東京ライン赤羽駅埼京線最寄り駅⇒徒歩自宅

旅行に出発する前に「ここに行くと決めていたのは、そもそもの旅行の動機だった正倉院展@奈良博特別開扉開催中の興福寺北円堂、ついに行ける(なぜか大阪に行くタイミングは閉館中だった) 大阪中之島美術館の3か所だけで、その他は、成り行き思いつき時間の余裕で行ってみました。
でも、「成り行き思いつき時間の余裕」で行ったところが「大当たりなのは私の旅行ではよくあることで、今回もご多分に漏れず、「大当たり連発でした

「成り行き」の最たる収穫は、2日目の昼食後の、転害門⇒旧奈良監獄⇒正倉院の流れでした。

昼食を摂っている最中、「さて、次はどこに行こうか?」と考えていたとき、気になっていたのは、Twitterでフォロワーさんからいただいた「刑務所いった?」という短いコメントでした。
旧奈良監獄が、ホテルに生まれ変わるべく改装中だということは知っていましたが、そもそもどこにある?
どうやら東大寺のやや北西にあるらしいということで、スマホで地図を見ると、ありました。近鉄奈良駅からはやや遠いイメージのある転害門よりさらにその先

と、目に止まったのは、転害門の門前、一条通りにある「東包永町」という町名でした。
この町名、つい3日前「静嘉堂@丸の内」で拝見した国宝「太刀 銘 包永 (手掻包永)」の作者、包永由来の町名でしょ
刀工・包永は、こちらによると、

鎌倉時代の刀工。奈良東大寺転害門前に住した手掻派の祖。同名が南北朝時代まで3代続き,初代は鎌倉時代の正応(1288~93),2代は嘉暦(1326~29)ごろと伝え,3代には延文(1356~61),貞治(1362~68)の年紀作がある。

だそうで、「転害門前」にもほどがあります
これは「東包永町」に行ってみねば となりました。
ちょっとここでオヤジだけど老婆心ながら…転害門の北西側の手貝町手掻も、読みはいずれも「てがい」包永東包永町・西包永町も、読みは「かねなが」です。

で、実際、東包永町を通って転害門まで行ってみると、時間的に余裕があることだし、せっかくだから旧奈良監獄まで行ってみよう ということに…

ところが、手貝町付近から旧奈良監獄まではだらだらと続く上り坂で、距離はともかくも、この傾斜楽ではありませんでした

それでも、旧奈良監獄は、坂を登った甲斐があったぁ~ 

も、

中の建物(管理棟だったっぽい)も、

イイですぅ~

私の生家の近くには秋田刑務所がありまして、赤茶けた煉瓦塀が印象的だったっけなぁ… まさにこんなイメージでした

今や秋田刑務所は様変わりして、塀の外側は緑化されていて、ものものしくなくなっています

今回の関西旅行で一番の「掘り出し物」旧奈良監獄かな? と思っていたら、京都に戻る近鉄特急の車窓から、千載一遇のものを観られました

大地に架かるです
こんな半円形の虹を見たのは初めてだと思います。
もさることながら、色も鮮やか

電車の中もざわついておりました。
あとでTwitterを眺めると、奈良市から京都府南部にかけてこの目撃情報がたっぷりと上がっていました。
そりゃ、こんなを見たら、気分が上がりますよ

ということで、なんとも良いシメになったのでした。

旅行記本編は気が向いたら書きます

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