新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

だいぶ体調が良くなったので上野にお出かけ (後編)

2021-02-28 20:35:59 | 美術館・博物館・アート/タウンウォッチング

だいぶ間が空いてしまいましたが、先々週金曜日(2月19日)のお出かけのことを書いた「だいぶ体調が良くなったので上野にお出かけ (前編)」のつづきです。

ほんとはさっさと書いてしまいたかったのですが、正直、前後編に分ける必要があったのか? と思うほど、後半に書くべきネタが少ないのでありまして…
とはいえ、書いておきたい話が皆無でもありませんので、前編で書いた特集展示「木挽町狩野家の記録と学習」以外で、惹かれた作品をいくつか紹介いたしましょう。

まずは、こちらは既に2月21日で終わってしまった特集展示「館蔵 珠玉の中国彫刻」で拝見した仏像から。

この仏像は、法隆寺が所蔵する檀像「観音菩薩立像(九面観音像)」(記事はこちら)を元に、1893年に森川杜園が彫った模刻像です。

私、中国の仏像は、あんまり好みじゃありませんで、「仏像ならガンダーラか日本」なのですが、この7世紀で彫られたたというこの「観音菩薩立像(九面観音像)」のオリジナル法隆寺で拝見したとき(記事)は、そんな私の嗜好がひっくり返るような衝撃でした。
そして、今、この観音さま(オリジナル)は、「私のお気に入りの仏さま 10選」に唯一入る渡来仏でいらっしゃいます。

   

東京国立博物館(トーハク) 本館の総合文化展(平常展示)の中で、一番地味なのは、2階 15室の「歴史の記録」じゃないかと思っているのですが、私が密か楽しみにしている展示でもあります。

今年度は、

伊能忠敬測量による日本沿海輿地図(中図)、各種の博物図譜、五海道分間延絵図のうち基幹街道である五街道、古写真を展示し、19世紀日本の社会、文化、交通、景観などを紹介します。

で、この日(2月19日)日本沿海輿地図は、

関西地方の中図が展示されていました。
そして、この地図の京都の南部を、去年1月に行った宇治(記事はこちら)辺りをしげしげと視ると、、、

「大池」とあるのは、今は亡き巨椋池ですな

そういえば、巨椋池って、いつまであったんだろうか 今は跡形もないけど…

と調べると、、、っつうか、Wikipediaに書かれていました
それによると、

江戸時代には一般に大池と呼ばれており、巨椋池という名が広く使われるようになったのは近代に入ってからである。

だそうで、なるほどなるほど
そして、1940年代までに干拓されて、巨椋池無くなってしまったのか
そして、そして、Wikipediaの、

京都競馬場の馬場の中央にある池は、かつての巨椋池の名残りを残した池だと考えられてきた。1999年(平成11年)に、京都府によって池中の生物の生態調査が実施されている。

との記載に、ほぉ~
京都競馬場は昨年末から約2年半にわたる大改修工事に突入していますが、この機会を捉えて、再調査したりするんでしょうかねぇ

   

五海道分間延絵図「甲州道中分間延絵図」で、

)

ここで描かれているのは、

甲州街道玉川上水が交差する辺りっぽい。
当然のことながら、江戸は現在の東京へと繋がっているんですな。

   

同じ展示室で目に止まったのは、こちら古写真

これはもしかして…
と思ったら、説明板によると、

浄土真宗の宗祖親鸞聖人の遺骨を祀る大谷本廟、いわゆる西大谷の一角にある圓通橋(通称眼鏡橋)です。前庭から総門に向かうなかに架けられています。

と、やはり、京都大谷本廟(西大谷)に向かって架かる「眼鏡橋」でした。

展示されていた古写真「明治時代(19世紀)」に撮られたものだそうで、まぁ、変わりようがない、というところでしょ

   

次は、トーハクの中で私がもっとも楽しみにしている本館2階 5・6室「武士の装い―平安~江戸」に展示されていたこちら羽織

徳島・蜂須賀家伝来の「袖無革羽織 白地薬玉模様」(18~19世紀)です。(展示はきょうで終了しました)

裏身頃がまた現代的でよござんす

この羽織は、説明板に、

徳島藩の厩方(うまやかた)で一括して23件の装束が長持ちに保管されていました。稀に見る華やかな装束がそろっており、「犬追物」「流鏑馬」「打毬」「鷹狩」といった伝統行事のために特別に誂えられたものでしょう。端午の節句にちなんだ薬玉模様を描絵を表わしています。

とありますので、戦場用(陣羽織)ではなく、イベント用晴れ着なんでしょう。

ところで、この記事を書いていて知ったのですが、徳島藩10代藩主の蜂須賀義重公は、末期養子として秋田の佐竹家から入った方でした。

Wikipediaによれば、義重は、徳島藩主に就いて15年後の1769年、「藩政宜しからずとして幕府より隠居を命じられ」隠居
更に、

かなりの贅沢三昧の生活を幕府に咎められ、江戸屋敷への蟄居を強要されそうになったので、1788年8月、阿波の富田屋敷へ移り、江戸行きは免れた。

だそうで、この華やか「袖無革羽織 白地薬玉模様」は、「贅沢三昧」だったとされる蜂須賀義重好みなのかもしれません

   

久しぶりのトーハク観覧を楽しんだ私は、鶯谷駅から山手線に乗って池袋に向かったのですが、トーハク東隣にある両大師屋根の装飾に目が止まりました。

上の写真では良く判らないと思いますので、肝心の部分を拡大しましょ。

そこにあるのは、「二引両紋」です。

両大師を含む寛永寺では、もっぱら徳川家三つ葉葵の紋を用いているはずなのになぜ?あざとい

寛永寺の開山は、両大師(開山堂)に祀られている慈眼大師こと天海僧正です。

「二引両紋」天海の紋であること(桔梗明智家の紋 ではありませぬ)は、こちらで書いたとおり。

当然のことながら、江戸は現在の東京へと繋がっているんですな。(二度目)

このあと、池袋とある目的の下、行動した私ですが、目的を達することはできず、結局は、週に一度の「分不相応(=豪華)な昼食をとって帰宅したのでありました。

以上です。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

だいぶ体調が良くなったので上野にお出かけ (前編)

2021-02-20 13:21:27 | 美術館・博物館・アート

腰の具合を整形外科クリニックで診てもらって約1週間経ちました。
まだ、左のお尻から腿の裏にかけて違和感は残っていますが、平常の生活ができるまでに回復しましたので、きのう、上野の東京国立博物館(トーハク)に出かけてきました。

一昨年11月から使ってきたトーハクのメンバーズプレミアムパスが、新型コロナウイルスによる休館期間分の延長も含めて、きょう期限を迎えるものですから、

その使い納めを兼ねて、トーハクの庭でを楽しもうという魂胆でした。

予想どおり、紅梅

白梅も咲いていましたが、香りが弱い…

まだ五分咲きといった感じで、盛りの時期には大勢で一心不乱に蜜を吸っているメジロは一羽もいませんでした
見頃は来週以降でしょうかねぇ…

   

きょうは、本館(日本ギャラリー)総合文化展(平常展)だけ拝見してきたのですが、いつなんどきでも、総合文化展(平常展)だけでも満足できるのがトーハクの一番の魅力でして、きょうもしっかりと楽しませていただきました

まずは、1階で最初の展示室で拝見した「弁才天坐像」(鎌倉時代・13世紀)

福々しいお顔が cuteなんですが、注目するべきは、その

説明板を転記しますと、

とぐろを巻いた蛇の体に老人の顔をつける宇賀神を、頭上にいただく弁財天像です。宇賀神食物の神で、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)として『古事記』にも登場します。弁才天を福徳・財宝の神とする弁才五部経にこうした姿が説かれます。宇賀神が制作当初のまま残る最古の作例です。

だそうな。
「蛇の体に老人の顔」といえば、「千と千尋の神隠し」に登場する「オクサレ様」(こちらは「竜の体に老人の顔」ですが…)を連想してしまった私です

   

「木挽町狩野家の記録と学習」パンフレット現在、トーハクでは、特集展示「木挽町狩野家の記録と学習」が行われています。

江戸幕府の御用絵師のなかでも、将軍への直じきのお目見えがかなう、旗本にも匹敵する身分を「奥絵師(おくえし)」といいますが、その筆頭を務め、画壇の中心的な役割を担ったのが木挽町狩野家(こびきちょう かのうけ)です。

という木挽町狩野家、そこに伝来した模本や下絵を5000件近くもトーハクが収蔵しているそうで、

本特集では、この膨大な木挽町狩野家伝来資料の一部を「記録と学習」というキーワードからご紹介いたします。本画とは異なる、模本や下絵ならではの魅力を発見いただければ幸いです。

というのが、この特集展示の趣旨。
これが面白かった

かつての私の勤務先の近所(東銀座)に、中央区教育委員会が設置した「狩野画塾跡」の説明板があって、「木挽町」「狩野」とは簡単に結びつけられる私でしたが、奥絵師筆頭木挽町狩野家「任務」というか「仕事」というか、まったく知らなかったことを痛感させられました

トーハク(企画者)の意図は、展示の「章立て」に明らかで、

第一章 木挽町狩野家のはじまりと奥絵師の御用
第二章 鑑定と模写
第三章 記録から想像へ

奥絵師は、ただの「御用絵師」だったのではなく、技能者集団であり、アーカイブであり、そして、教育機関でもあったことが実感できました。
その「いかにも」な仕事(業績)の一つが、古今東西の傑作模写
毛利家所有の雪舟「山水長巻」とか、大名各家所有の「瀟湘八景図」とかを幕命で借り出し、その詳細な模写をした仕事なんぞは、幕府の命令もあったのでしょうけれど、狩野家がうまく幕府の威光を使って借り出した側面もあるのではないかと思ったりして…
展示されていた「瀟湘八景図」12点のうち5点は、その原本現在の所蔵者が不明だというのは、この模写の貴重さを裏書きします。

「珍品」もありまして、なぜか横向き平置きされていたこちらの作品

岩に留まったが水面を見下ろしている絵なんですが、鷹の右半身に黒い線不自然に引かれています。

この作品のタイトルは「有徳院吉宗加筆鷹画草稿」で、説明によれば、

徳川吉宗は幼少より鷹を好み、自ら頻繁に飼育小屋に通っていました。古信にも鷹匠の元に通わせ、鷹狩にも随行させるなどして多くの鷹図を描かせています。ここでは自ら筆をふるって古信画の上に墨線で描き直し線を加えています。

だそうで、奥絵師筆頭の木挽町狩野家の四代目・<栄川>古信の絵を修正してしまうなんて、暴れん坊将軍面目躍如です
恐らく吉宗は、12歳年下の古信のことをかわいい弟分と思っていたのでしょう

ちなみに吉宗が紀州から江戸にやって来て将軍になったのは享保元(1716)年で、吉宗は33歳古信は21歳くらい(何月生まれか判らない)、そして、古信36歳の若さで亡くなったときに吉宗は48歳くらいのはずです

   

この特集展示でふわぁ~ となったのは、八曲一双「長篠・長久手合戦図屏風」下絵でした。

この屏風は、右隻「天正3年(1575)に三河国設楽原で勃発した武田勝頼と織田信長・徳川家康連合軍による『長篠の戦い』左隻「天正12年(1584)に尾張国小牧・長久手を中心に展開した羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康による『小牧・長久手の戦い』」が描かれるべく、七代目惟信11代将軍家斉周辺から受注したものだとか。
「『画様(図像)』は幕府関係者と面談で面談のうえ、決定してた」そうですが、

幕府から古地図や参考図を貸し与えられ、万全の体制で始まった制作でしたが、その進行は難航をきわめたようで、子である榮信が死去した際も、右隻「長篠合戦図」「認めカケ」、すなわち草案までしか進んでおらず、左隻「長久手合戦図」はいまだ「白紙」。その後、孫の養信なども制作を続けたようですが、完成には至らなかったようです。

詳細は不明ながら、受注から50年くらい要してもなお、下絵の段階だったとは、何があったんでしょ?
合戦から間もない頃ならば、登場人物の近親者から「もっと大きく描け」とか「もっと良いシーンにしろ」とかグダグダ言われそうですが、もう幕末に近い時期ですから、そんな雑音は無さそうです。
多忙だったのか、やる気が湧かなかったのか…

それはともかく、「長篠合戦図屏風」の第八扇に、家康の本陣が描かれていました。

「白地に三葉葵、総白の招き」陣旗に囲まれて、「金開扇に朱の丸」大馬印の下、「五の字」使番指物を背負った伝令から報告を受けているのが家康のはずなのですが、家康が跨がっているとおぼしき黒馬の頭部しか見えず、全身で覆われています。

一方で、織田信長は、「黄絹に永楽銭、はね題目の招き」陣旗に囲まれて、「金の傘」馬印無色ながら、葦毛馬に騎乗した様子が第七扇にしっかりと描かれています。

徳川家に仕える狩野家としては、東照大権現のお顔・お姿は描けないということなのでしょう。

特集展示「木挽町狩野家の記録と学習」3月21日までですので、まだまだ余裕があります。
地味といえば地味ながら、観ておいて損はないと思います。

というところで、後編につづきます。

つづき:2021/02/28 だいぶ体調が良くなったので上野にお出かけ (後編) 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きょうは体調が良い

2021-02-16 18:51:47 | 日記・エッセイ・コラム

最後にブログを書いたのは、まだ帰省中の2月7日(日)のことで、その翌日8日(月)に本宅に戻ってから約1週間経ったのですが、この間、まったくブログがかけませんでした
これというのも、10日(水)の夕方から坐骨神経痛に襲われて、昨夜まではブログを書くどころではなく、安静に努めて(?)おりました。
けさも、目が覚めた直後と、ベッドから降りるまでは、左のお尻から腿の裏にかけて痛みがあったのですが、それでも、リビングまではスタスタと歩けて、それ以降は、昨夜までのあの痛みはどこに行ったんだろうか? と不思議なほど普通に立てて、歩けています
まだ、左のお尻がモゾモゾと痛い(固い椅子に座り続けたみたいな感じ)ので、予断を許しませんが、ここ数日の病状を備忘録的に書いておこうと思った次第です。

   

異変が起こったのは、10日(水)の夕方で、椅子から立ち上がった直後、強烈な鋭い痛みが腰から全身にズキーンと走り、思わずひざまづきました。それでも痛いのなんのって、う~~と呻きながら痛みの少ない姿勢を探った結果、リビングの何も敷いていないフローリングの上に仰向けに横になるのが一番なことが判り、しばらくそのまま天井を眺めていました。

私は過去に3度ぎっくり腰をやらかしたことがあるのですが、そのいずれもきっかけになる「行為」がありました。
誰もいない温泉の大浴場で濡れたタオルの水を切っていたとか、床に敷いたラグの端を踏んで掃除機をかけていたとか…。
でも、今回は、そんな「危ないことは何もしていなかったので、何がきっかけだったのかさっぱり判りません。きっかけは判らないものの、痛いことは痛いのでなんとかせねば

しばらくフローリングの上で寝て、ちょっと落ち着いたところで、よつんばいの状態で洗面所まで行き、前回の腰痛のときに使ったコルセットを探し出し、そして、装着してみました。
でも、前回のような楽になる感覚まったくなく、過去のぎっくり腰とは状況が違うみたい。

真っ直ぐには立てなくて、家の中を移動するときは、しゃがんで進むか、腰を曲げて歩くという有様。
それでも食事しなければならないわけで、この夜は、パスタを茹でて、この日の午前中に作りだめしていたミートソースをかけて食べました。
トイレ(小)にはちょいと苦労しましたが、風呂には普通に入れまして、一晩寝たらなんとかなっていてほしい根拠レスの期待をいだきながら就寝

   

11日(木・祝)は、だいぶ具合がよくなった感じで目覚めました。
普通に朝食を摂り、ゴミ出しをし、そして昼食後には洗濯機を回したりしたのですが、昼下がりになると、またもやキツい痛みが襲ってきました
真っ直ぐ立てない状況で、洗濯物を干す(浴室内に吊して除湿機を稼働させるいつものやり方)のは大変な作業でした。

「明日は整形外科クリニックに行こうと思うものの、クリニックまで行ける状態なのかがカギだな…と、不安を抱えながら腰痛2日目が終わりました。

   

12日(金)は、前日と打って変わって、から痛みが酷くて、とてもじゃないけれど、自宅から約800m離れた場所にある整形外科クリニックには行けそうもありません
そして、ここまで半日単位「良⇔痛」を繰り返してきたのに、この日は一日中痛くて、クリニック行きは断念しました。

ここにきて、クリニックにクルマを運転していく手があることに思い至りました クリニックの入っている建物には市営駐車場がありますので、自室⇒自宅駐車場と、市営駐車場⇒クリニックのそれぞれ数十mを歩ければなんとかなります。
そして、ついでに、在庫がほぼ無くなったメインディッシュ用の食材を買い込んでこよう と決めたところで寝たのですが…。

スマホビヨンビヨン緊急地震速報を鳴らしている音で目が覚め、そして、すぐにゆっさゆっさと揺れ出しました。
自宅でもけっこう大きな揺れ(震度4)で、しかも長く揺れていましたが、物が落っこちることはなく、枕元に置いてあったリモコンでTVのスイッチを入れ、地震の状況を確認すると、こんな状態じゃ避難できないな… と身も蓋もないことを考えながら、再び眠りに落ちたのでありました。

   

13日(土)は朝から痛みキツくて午前中整形外科クリニック行き断念
それでも、幸いなことに、昼過ぎから具合が良くなったのでこの機会をのがしてはならない と、クルマを立駐から出して、クリニックに行きました。
クリニックでは40分ほど待たされた後、問診を受けたのですが、待合室から診察室までの数mの移動キツかった 同じ姿勢をとり続けるのは良くないみたいです。
更に、待合室からX線室までの移動も、ようやく診察してもらうべく待合室から診察室までの移動もキツかった

で、先生の見立てによれば、本来なら緩やかにカーブしているはずの背骨が、周りの筋肉が凝り固まっているせいで真っ直ぐになっていて、それが神経を刺激しているのが痛みの原因だとか。

そして、貼り薬と鎮痛剤を処方されて通院は完了しました。

このあと、クルマ市営駐車場に入れたまま、すぐ近くのスーパーマーケット食材を買いだめたのですが、不思議なことに、買い物の最中に痛みはありませんでした
クリニックでの処置は、X線を浴びただけだというのに、どうしたことでしょう

   

14日(日)は、貼り薬と前夜の鎮痛剤服用が効いたのか、健やかに目覚めました。
ところが、昼過ぎから再び痛みが襲ってきて、そうそう簡単に直るものではないと思い知らされました

   

15日(月)は、今度はから痛みキツくゴミ出しができませんでした
それでも、昼食後の安静(昼寝)から起きると、一転して痛みがなくなっていました
ここぞ とばかりに、近くのコンビニに行き、在庫切れ直前だったタバコ(加熱式のカートリッジ)と、この日の朝で飲み終えた牛乳を買ってきました。
青空が広がっている と思いきや、まだ細かい雨が降っていて、こんなときには虹が出るもの…と思ったら、

やはりが架かっていました。

   

そして、きょう16日(火)は、起きた直後を除けば、ここまでは痛みが皆無で、普通の生活を送れています。

調子が良いうちに ということで、洗濯2R決行して(きょうは楽々干せました)缶ビール1ケース買ってきました。

坐骨神経痛発症から1週間、このまま治癒することを祈りつつも、警戒を緩めず、摂生したいと存じます。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりに平野政吉コレクションを堪能

2021-02-07 19:21:50 | 美術館・博物館・アート

一昨日、友人との「1 on 1 飲み会まちなかに出たついでに、秋田県立美術館で開催中の「藤田嗣治 布との対話-筒描・藍染を慈しむ-」を観てきました。

この展覧会は、

藤田嗣治は生涯、染織品や衣装を愛し、自ら収集した品を手元に置いていました。それらの布は、絵の重要なモチーフとして藤田の描いた作品のなかにたびたび登場します。藤田が心を寄せた布は、実際に着たり使うなどされたもので、庶民の暮らしの中の布でした。
本展では、フランス・エソンヌ県にあるメゾン=アトリエ・フジタが所蔵する藤田が日本滞在中に収集した布や着物を、布が描かれた1930年代の藤田作品とともに紹介。日本人の生活に根ざし、藤田が愛着をもって接していた衣服や小物を展示し、日本人の営みを描いた藤田の画業に、布という工芸品からアプローチします。

というもの。
メゾン=アトリエ・フジタが所蔵する布や衣類と、秋田県立近代美術館所蔵の「雪國の少女」「秋田川反美人図絵」「秋田おばこ」3点の絵画(どれもお持ち帰りしたい作品)を除くと、他の絵画作品はすべて平野政吉コレクション藤田嗣治作品だというところが、いかにも秋田県立美術館らしい展覧会です。

   

上に載せた展覧会のフライヤーには2つの画像がフィーチャーされていて、下段は、何度も生で拝見したことのある「自画像」(1936)
四谷左門町にあった借家での食後の一服を描いた作品で、画面の右半分を占める藍染めの壁掛けが印象的です。

この壁掛けは、こちらの、共に自分の画室を描いた2点の作品にも描かれています。

上は戸塚のアトリエを描いた「吾が画室」(1936)で、画面の左端に、下は下六番町(現:六番町)の住居兼アトリエを描いた「私の画室」(1938)で、中央奥に、それぞれ藍染めの壁掛けが描かれています。

フライヤー「自画像」の上に載せられているのがこの藍染めで、はるばるフランスから日本に一時帰国して展示されていました。

出品目録から転記しますと、

 茶道具文様筒描布団鏡表
 148cm × 128cm
 木綿

だそうで、もともとはふとん用の生地(鏡表)のだったんですな

ところでこの展覧会のタイトルの副題に、「筒描・藍染を慈しむ」とあるんですが、この「筒描(つつがき)」って何????

こちらのサイトによりますと、

素朴な糊防染法を用いた染の一種。
渋紙でつくった円錐形の筒防染糊を入れ、絞りだしながら糊置きをし、染色するもの。
図柄は変化に富み、大胆で個性豊かな構図が多く、型紙では出ない線や輪郭が表現できる。

だそうで、お菓子を作るときの絞り出しみたいなものっぽい。
そして、

を防染剤に用いた染色には、型紙を用いる型染と糊で手描する筒描染がある。日本における筒描染の起源は、中国から琉球を経て伝わったとする北上説と、中国から朝鮮を経て伝わったとする南下説があるが、明らかではない。いずれにしても、日本では糊置き防染法を用いた加賀染、友禅染が起こったのが元禄時代(1688~1704)であるのに対し、琉球では室町末期にはすでに筒描染が行われていた。
筒描染は、船乗りの独特の風俗として商人たちの手により本土沿岸各地に伝わり、発達してきたといわれている。

だとか。

   

展覧会では、「藤田愛蔵の布たち」として、茶道具文様筒描布団鏡表の他にも、藤田が日本からフランスに持っていった衣裳端布、さらには藤田自身が制作した衣裳が展示されていました。

驚くのは、この「藤田コレクション」には「ハイ・ソサエティ」的なものがなく、すべてが当時の日本で暮らす一般人が着用していたものであること。

この中で「万祝(まいわい)」「晴れ着」に分類されるでしょうけれど、

船主が船子に、水揚げが千両以上の大漁年にボーナスのような形で年の暮れに反物で贈り、おかみさんが主人の身長に合わせて袷仕立で縫い上げ翌年一月二日に新しい万祝を着、信仰している神社へお詣りし、船主の家で三日三晩の酒盛りをしたそうです。
 一人の漁師さんは平均三、四着の万祝を持っていたそうです。これを着る風習が昭和30年代までは、残っていました。
 大漁のいわば儀式の時だけに着る万祝は、漁業の世界的な服飾文化の中ではかなり珍しいものです。

と、これもまた一般労働者(漁師)の晴れ着ですし、「『江戸っ子』文字型染袢纏」(縦長の「王」の字を格子状に白抜きした柄が素晴らしかった)とか「『魚河岸・魚市場』文字文様型染鯉口シャツ」なんてのは、まさに労働着

ところで、「自画像」左下隅に描かれているのは、

和裁用具です。
藤田は、若い頃から服を自作していたそうで、その手になる2着の袢纏が展示されていました。
「片身替袢纏」も良かったのですが、

私としましては「唐草文様袢纏」がお好みです。

基調の色合いも、ペイズリー風の唐草文様もさることながら、裏地縞模様でございました。

   

NHK朝ドラ「おちょやん」で、主人公の千代のセリフに、

うちが捨てられたんやない。うちがあんたらを捨てたんや。

というのがありました。
このセリフと、1949年に日本からアメリカに渡る藤田が発した、

絵描きは絵だけ描いてください。仲間げんかをしないで下さい。日本画壇は早く世界水準になって下さい。

とオーバーラップするのは私だけでしょうか?
米国からフランスに移動した藤田は、1955年にフランス国籍を取得し、日本国籍から離脱。
さらに1959年には洗礼を受けて「レオナール・フジタ」に…。

 俺が捨てられたんじゃない。俺が日本を捨てたんだ。

という感覚だったんじゃなかろうか?

1920年代にはパリ時代の寵児としてもてはやされていた洋画家・藤田嗣治が、実生活は日本趣味・日本嗜好だったなんて、ねぇ…

   

久しぶりに拝見した「客人(糸満)」、やはりイイ
たっぷりと湿気を含んだ熱い風が窓から入ってくる感じ、そして、サラサラの芭蕉布の着物が心地良さげです

この作品の隣に、藤田コレクション紅型(びんがた)の端布が展示されていたのですが、小さな端布でも紅型だと判るとか文様とか、これまたイイです

   

「藤田嗣治 布との対話-筒描・藍染を慈しむ-」を観終わってから、この展覧会が、昨年末福岡市美術館で開催された「藤田嗣治と彼が愛した布たち」small版だと理解しました。
秋田県立美術館のミュージアムショップで販売されていた図録「藤田嗣治と彼が愛した布たち」のものでしたから。

できることなら、「藤田嗣治と彼が愛した布たち」巡回展を観たいところですが、いかんせん、秋田県立美術館の展示スペースが狭い「県立美術館」と名乗るにしては、あまりにも狭い狭すぎる

展示スペースは、確か、旧秋田県立美術館よりも狭いはず。

秋田県立美術館のすぐ近くに秋田市立千秋美術館があって、そちらとの連携をも考えた結果かもしれないけれど、なんとも解せません

いまさら秋田県民ではなくなった私がぼやいても仕方のないことではありますけど…

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年2度目の帰省中なんだけど

2021-02-03 15:12:07 | 日記・エッセイ・コラム

先週の月曜日から今年2度目帰省中です。

別邸(実家)には、2週間滞在して、来週月曜日、2月8日にUターンする予定にしています。
もともとは、緊急事態宣言発出中の首都圏からの「疎開」のつもりだったのですが、緊急事態宣言が1ヵ月延長されることになり、もくろみが外れました

さて、前回の帰省では、こちらで書いたように、別邸のほとんどの水道が凍って使えない状況でしたので、

前回の帰省時の状況

Uターンするときには、しっかりと水道の元栓閉め水抜きしました。それが奏功したのか、今回は、すべての水栓が無事に使えました

ところが、しばらくして、お湯が出ないことと、トイレの水が出ないことに気づきました。

なんでこうなる?
別邸に到着して元栓を開いた直後には、お湯は出たし、トイレの水も出ていたのに…

しばらく自分の行動をふり返った結果、洗濯機の裏側にある元栓閉め直したことを思い出しました。
この3日後に洗濯機入れ換えを予定していたことから、洗濯機につながる蛇口だけでなく、元栓まで閉めたのですが、もしかしたら、この元栓は洗濯機だけでなく、トイレ給湯器にもつながっている?

洗濯機裏の元栓

ダメもとでこの水栓を開いてみると、、、、、トイレ給湯器復活しました

まさかこの元栓トイレ給湯器をもコントロールしていたとは…

それにしても、別邸の「仕組み」ぜんぜん理解していないことを、前回の帰省時に引き続いて痛感したのでありました。

   

ところで、別邸の洗濯機&乾燥機はかなりの年代物で、父が貼りつけたテープライターによれば、27年近く使い続けているものです。

旧・乾燥機

洗濯機は今でも十分に使えるのですが、乾燥機故障していて、動かすと数分で停止してエラーコードが出ます。
修理してもらうには型式が古すぎて、部品が入手できるとは到底考えられません。
外干しできる季節ならまだしも、この季節は、乾燥機無しで洗濯物を乾かすのは大変です。

乾燥機だけを買い換えることも考えましたが、乾燥機単体でも結構な値段だし、今は使えている洗濯機も、いつ逝かれても不思議ではない「お歳」を考えて、結局、洗濯乾燥機買い換えることにしました。

そして、先週木曜日、新しい洗濯乾燥機がやって来ました。

新しい洗濯乾燥機

設置してくれた業者さん曰く、「普通の家庭の3倍以上は使われましたねぇ」

こうして約13万円を要して洗濯乾燥機入れ替えたわけですが、昨シーズンには自室の石油ファンヒーターを入れ替えて約14万円かかったし、石油給湯器11年目、自室のエアコン10年目を迎えて、買い換え時を迎えています。
また、修理が必要な箇所が見つかっていて、になったら、業者さんを探して相談しなければなりません。

本宅と別邸維持するには、いろいろ出費が嵩むものでございます

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする