山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

学生時代からの仲間、近藤知昭さんの生き方に学ぶ

2018年11月18日 16時32分58秒 | Weblog
 11月16日、志位委員長を迎えてナンバの府立体育館満員の演説会で訃報を聞いた。大阪外大2部で共に学び、活動をした仲間、近藤知昭(ちあき)さんの死だ。横浜翠嵐高校出身の秀才で、外大2部のロシア語から早稲田大学のドクターでロシア文学を研究した。研究職に就くことはかなわなかったが、たくましく生き、神奈川県大和市の地域のために尽くした。遠く離れたので疎遠にはなったが、2005年の衆院選で近藤君の名前を見つけて驚いた。神奈川13区で日本共産党から立候補したのだ。えらい!と、さっそく選挙事務所に花を贈った。大阪から応援が届いたと話題になった旨聞いた。2009年も立候補した。相手は後に世間を騒がせる甘利氏だった。公開討論会では甘利氏をぐいぐい追い詰めたそうだ。
 わたしが上本町8丁目の外大から上町台地を東の方に少し下りた細工谷に下宿していた時、近藤君はしょっちゅう遊びに来ていた。近藤君は自治会の書記長や委員長をつとめた人だ。1967~70年は、外大民主化闘争が闘われた時代だ。その中身は真に学問ができる大学をつくろうというカリキュラム改善闘争だった。外大は戦前の外事専門学校の流れを引きずっており、われわれ学生は古く貧しい大学の体質を批判した。与謝野晶子が歌壇の大御所に立ち向かったように、私たちも恐れを知らない若者だった。
 先輩たちそして私たちの闘いによって、一般教養の科目が大幅に増えた。自治会の学生みずからが関西各地の大学、教授宅を訪ねて訴えた結果招聘された。さらに専門的な科目とゼミを開設する運動をすすめた。その結果一番運動が実ったのが、英語学科だった。経済学の森岡孝二先生や、アメリカ政治、イギリス史専門の若手の研究者が専任として着任した。単なる語学学校的なものから多様な研究、教育をする大学へと変容し始めた。その後の外大のすすんだ道は、私たち若造がえらそうに主張した方向をさらに発展させたものだ。その運動の中心に近藤君もいた。のち和歌山大学副学長を務める堀内英雄君、その他研究者になった先輩・友人たちがたくさんいた。貧しい生活だったが、意欲にあふれていた。
 近藤君が亡くなった翌日、その外大2部の自治会運動の中心であるいは周りで支えた仲間たちが上六に40人ほど集った。東京、横浜からも何人も来てくれ、懐かしさで心が満たされた。近藤君を偲び、思い出を語り、思いを引き継ごうと、出席者一同心に誓ったことだ。日頃は離れていて、日々思い出すことはないが、心の中でつながっていて、生きる支えになっている大切な仲間がいることを幸せに思う。ちょうどBSプレミアムで山田洋次監督が、幸せとは何だろうか、金とモノをあふれるほど持っていることだろうか、それより、大切な人とのつながりではないだろうか。寅さんは、自分のふるまいで人が温かい気持ちになってくれることに、幸せを感じているんではないでしょうか、という話をしていた。山田監督の話を聞いて、昔の仲間とのつながり、離れていても励まし合う、ここに幸せと生きる希望があるのだとしみじみ感じた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする