全国民主主義教育研究会の42回湯河原大会(2011・7・28~30)に参加して、横浜の高校教員が痴漢の犯人に仕立て上げられ、有罪とされ、あげくに懲戒免職、教員免許もとりあげられたという事件を知った。
冤罪被害者は河野優司さんという社会科教員だ。『推定有罪・それでもあきらめないボクと家族の物語』というパンフレットを買った。パンフレットといっても147ページの立派な本だ。読み出したら怒りがこみ上げてきて最後まで読んだ。そのため翌日の研究会は一瞬居眠りしてしまった。
刑事裁判の原則は「推定無罪」だ。疑わしきは被告人の利益に、つまり疑わしい程度では罰してはいけない、有罪が立証されるまでは無罪だ。ところが、この21世紀の日本は刑事裁判の99・9%が有罪となり、「推定有罪」、疑わしきは罰する、有罪の立証がないのに有罪にするという、真昼の暗黒の社会なのだ。映画『それでもボクはやっていない』は現実なのだ。
勤続30年の横浜市立高校の教員・河野さんは、2006年1月15日(日)AM10:40、横浜高島屋地下食品売り場で二人の女性に痴漢行為をしたとして逮捕され、25日間留置された。
一人目の女性は子供の手を引いていた。そのジーパン姿の女性の股間をすれ違いざまに右手でなで上げたということでの逮捕だ。しかし河野さんは右手にバッグを持っていて、そのような行為はできない状態だった。さらに、地下売り場には河野さんの娘さんがアルバイトをしていて、弁当を買うついでに娘さんの顔を見ようと思って高島屋に行ったのだ。娘さんが働いている近くで痴漢をする人がいるだろうか。検察官は最初から「やったと言って楽になれ」の一点張り。4通調書がつくられたが、右手にバッグを持っていたことと、娘がアルバイトをしていることが、河野さんの抗議によってようやく調書に付け加えられたのが最後の調書だった。それまで河野さんに有利なことは主張しても書いてくれなかったのだ。明らかな違憲違法。
検察官が検察官なら、裁判官も裁判官。ひどい裁判だ。日曜の高島屋地下は混雑していた。ところが、裁判では被害女性の主張=現場は空いていたとされ、河野さん側が日曜の高島屋の混雑を撮影したビデオは証拠として採用されない。ガラガラのところで痴漢ができるのか。河野さんの弁護団の調査で痴漢現場の向かい側の店で試食販売をしていた店員さんは痴漢の騒ぎは知らないというのだ。一人目の女性は混雑で肩がぶつかったので記憶しているが、二人目の痴漢被害者については河野さんは全く認識していない。
横浜地方裁判所(木口信之裁判長)は、2006年10月12日、執行猶予月の懲役4ヵ月を言い渡した。「被害者」の供述以外、有罪の証拠はひとつもなく、逆に無罪を推測させる状況証拠がいくつもあるにもかかわらず、変転をした「被害者」の供述は信頼性があり信用できるが、「被害者」の供述と相いれない被告人の供述は信用できないと、バッサリきりすてて有罪としたのだ。真相を究明することは念頭になく、被告人は有罪だとの思い込みでことを裁断するだけだ。あらゆる証拠をあつめて事実を認定するのではなく、有罪にするには都合の悪い被告人の証言(「右手にバッグをもっていて痴漢などできない、娘の働く近くで痴漢をするはずがない、痴漢行為は断じてやっていない」)や、証拠(「被害者」のいうのと違って現場は混雑していた=「被害者」の証言の信用性がない、現場向かいの試食販売の店員の痴漢騒ぎはなかったという証言)は採用しなかった。つまり検察の論告をなぞっただけの判決なのだ。
横浜高等裁判所での控訴審は、2007年3月28日、初公判。だが高橋省吾裁判長は初公判で結審、次回判決を宣言した。あまりの暴挙に弁護団は抵抗したが、1回だけ弁論を行なって、4月23日判決公判となった。判決は、罰金40万円の有罪。事実を調べる気はまったくない。本件犯行は計画的でなく、前科がなく、執行猶予がついたとしても公立高校の教員の職を失う可能性が高いので、地裁判決は重すぎ、罰金刑にしたというのだ。一方で、判決では「被告人は、被害者らに対し、何ら慰謝の措置を講じていないのであって、被害者らが被告人に対する厳重処罰を望むのも当然である。さらに、被告人は、捜査段階から一貫して本件各犯行を否認し、被害者らが嘘をついているなどと不自然、不合理な弁解に終始しているのであって、反省の情は見られない」という。河野さんはひどい取り調べ、25日におよぶ留置にも耐えて、一貫して無実を叫び続けている。それをさして反省の情がないというのだ。やっていないものは反省しようがない。検察官は「認めろ、認めても大した罪にはならん、すぐ帰してやる」とさんざん懐柔をした。裁判官は検察官と同じ立場に立っている。
最高裁に上告したが、最高裁では公判が開かれることはない。ある日突然、判決が送付される。2007年11月6日、最高裁第2小法廷(今井功裁判長)の「本件上告を棄却する」という判決が届いた。有罪が確定した。
11月29日、横浜市教育委員会により懲戒免職処分がなされた。懲戒処分に関する情報開示を請求してもろくに公開しない。処分を決定した教育委員会議は、いっさい議論なしに原案の通り了承とした。懲戒免職は働く者には死刑にも匹敵する極刑だ。無実の人を何の審議もせずにあっという間に免職にする。これが権力というものの姿だ。
検察には有罪の立証責任が無いに等しく、逆に無実を主張する被告人には無実を主張するだけでは100%有罪になってしまうので、無罪であることを立証しなければならないという逆転した事態があるのだ。しかも裁判所によって証拠は恣意的に選定される。申請された証拠はすべて採用した上で審理をすればいいのに、被告に有利な証拠は却下される。これでは、戦前の暗黒裁判と同じではないか。民主憲法はどこへいったのか。
河野さんは、それでもあきらめないといっているが、この本を読んだ私は絶望的な気持ちになった。河野さんは、横浜市立高等学校教職員組合の役員をし、現場で授業をしながら副委員長もした人だった。
冤罪被害者は河野優司さんという社会科教員だ。『推定有罪・それでもあきらめないボクと家族の物語』というパンフレットを買った。パンフレットといっても147ページの立派な本だ。読み出したら怒りがこみ上げてきて最後まで読んだ。そのため翌日の研究会は一瞬居眠りしてしまった。
刑事裁判の原則は「推定無罪」だ。疑わしきは被告人の利益に、つまり疑わしい程度では罰してはいけない、有罪が立証されるまでは無罪だ。ところが、この21世紀の日本は刑事裁判の99・9%が有罪となり、「推定有罪」、疑わしきは罰する、有罪の立証がないのに有罪にするという、真昼の暗黒の社会なのだ。映画『それでもボクはやっていない』は現実なのだ。
勤続30年の横浜市立高校の教員・河野さんは、2006年1月15日(日)AM10:40、横浜高島屋地下食品売り場で二人の女性に痴漢行為をしたとして逮捕され、25日間留置された。
一人目の女性は子供の手を引いていた。そのジーパン姿の女性の股間をすれ違いざまに右手でなで上げたということでの逮捕だ。しかし河野さんは右手にバッグを持っていて、そのような行為はできない状態だった。さらに、地下売り場には河野さんの娘さんがアルバイトをしていて、弁当を買うついでに娘さんの顔を見ようと思って高島屋に行ったのだ。娘さんが働いている近くで痴漢をする人がいるだろうか。検察官は最初から「やったと言って楽になれ」の一点張り。4通調書がつくられたが、右手にバッグを持っていたことと、娘がアルバイトをしていることが、河野さんの抗議によってようやく調書に付け加えられたのが最後の調書だった。それまで河野さんに有利なことは主張しても書いてくれなかったのだ。明らかな違憲違法。
検察官が検察官なら、裁判官も裁判官。ひどい裁判だ。日曜の高島屋地下は混雑していた。ところが、裁判では被害女性の主張=現場は空いていたとされ、河野さん側が日曜の高島屋の混雑を撮影したビデオは証拠として採用されない。ガラガラのところで痴漢ができるのか。河野さんの弁護団の調査で痴漢現場の向かい側の店で試食販売をしていた店員さんは痴漢の騒ぎは知らないというのだ。一人目の女性は混雑で肩がぶつかったので記憶しているが、二人目の痴漢被害者については河野さんは全く認識していない。
横浜地方裁判所(木口信之裁判長)は、2006年10月12日、執行猶予月の懲役4ヵ月を言い渡した。「被害者」の供述以外、有罪の証拠はひとつもなく、逆に無罪を推測させる状況証拠がいくつもあるにもかかわらず、変転をした「被害者」の供述は信頼性があり信用できるが、「被害者」の供述と相いれない被告人の供述は信用できないと、バッサリきりすてて有罪としたのだ。真相を究明することは念頭になく、被告人は有罪だとの思い込みでことを裁断するだけだ。あらゆる証拠をあつめて事実を認定するのではなく、有罪にするには都合の悪い被告人の証言(「右手にバッグをもっていて痴漢などできない、娘の働く近くで痴漢をするはずがない、痴漢行為は断じてやっていない」)や、証拠(「被害者」のいうのと違って現場は混雑していた=「被害者」の証言の信用性がない、現場向かいの試食販売の店員の痴漢騒ぎはなかったという証言)は採用しなかった。つまり検察の論告をなぞっただけの判決なのだ。
横浜高等裁判所での控訴審は、2007年3月28日、初公判。だが高橋省吾裁判長は初公判で結審、次回判決を宣言した。あまりの暴挙に弁護団は抵抗したが、1回だけ弁論を行なって、4月23日判決公判となった。判決は、罰金40万円の有罪。事実を調べる気はまったくない。本件犯行は計画的でなく、前科がなく、執行猶予がついたとしても公立高校の教員の職を失う可能性が高いので、地裁判決は重すぎ、罰金刑にしたというのだ。一方で、判決では「被告人は、被害者らに対し、何ら慰謝の措置を講じていないのであって、被害者らが被告人に対する厳重処罰を望むのも当然である。さらに、被告人は、捜査段階から一貫して本件各犯行を否認し、被害者らが嘘をついているなどと不自然、不合理な弁解に終始しているのであって、反省の情は見られない」という。河野さんはひどい取り調べ、25日におよぶ留置にも耐えて、一貫して無実を叫び続けている。それをさして反省の情がないというのだ。やっていないものは反省しようがない。検察官は「認めろ、認めても大した罪にはならん、すぐ帰してやる」とさんざん懐柔をした。裁判官は検察官と同じ立場に立っている。
最高裁に上告したが、最高裁では公判が開かれることはない。ある日突然、判決が送付される。2007年11月6日、最高裁第2小法廷(今井功裁判長)の「本件上告を棄却する」という判決が届いた。有罪が確定した。
11月29日、横浜市教育委員会により懲戒免職処分がなされた。懲戒処分に関する情報開示を請求してもろくに公開しない。処分を決定した教育委員会議は、いっさい議論なしに原案の通り了承とした。懲戒免職は働く者には死刑にも匹敵する極刑だ。無実の人を何の審議もせずにあっという間に免職にする。これが権力というものの姿だ。
検察には有罪の立証責任が無いに等しく、逆に無実を主張する被告人には無実を主張するだけでは100%有罪になってしまうので、無罪であることを立証しなければならないという逆転した事態があるのだ。しかも裁判所によって証拠は恣意的に選定される。申請された証拠はすべて採用した上で審理をすればいいのに、被告に有利な証拠は却下される。これでは、戦前の暗黒裁判と同じではないか。民主憲法はどこへいったのか。
河野さんは、それでもあきらめないといっているが、この本を読んだ私は絶望的な気持ちになった。河野さんは、横浜市立高等学校教職員組合の役員をし、現場で授業をしながら副委員長もした人だった。
二人も被害者いて冤罪ですか
二人も被害者がいるのに冤罪ですかといっていますが、被害者の人数は冤罪とは関係のないことだす。
第一、被害者は右手で股間を触られたというのですが、加害者とされた男性は右手でカバンを持っていたのです。カバンをもった右手でどのようにしてさわるのでしょうか。また娘さんが高島屋でアルバイトをしているのを見に行ったときに冤罪に巻き込まれたのです。娘の働く姿を見に行ったときに痴漢をするバカがいますか?
とにかくひどい捜査、ひどい裁判でした。
それで、このような事件が起こるのでしょう。多少のことにも、めくじらをたて、とことんやらないと気が済まない。二人の女性とも、幸せではない人なのでしょう。
痴漢された上に恥ずかしい思いをしながら長い裁判で闘って司法で勝利した女性を嘘つきと言ってるのですよ。
誤審という可能性だけならどんな裁判でもあります、だからといって最高裁で決着したものを認めないだけではなく女性が嘘を言ってるかのごとく罵る。女性の人権について理解がゼロみたいですね。
橋下徹さんみたいですね。
この人の、私に対する批判は全くばかげています。最高裁が有罪判決を出したから正しい?そういう神話を信じられるならありがたいことですが、実際は、日本の刑事裁判は検察のいうままで、重大な誤審があるのが事実です。長い裁判といいますが、知っているのですか?あっという間に判決を出しているのですよ。慎重な審理など全くしていません。
この人は、女性が言っていることは100%間違いがなく、私は女性の人権について理解がゼロだといいます。女性がうそをついているか、勘違いをしているか、とちらかわかりません。ですが事実を総合的に判断すると女性のいい分、そして警察検察の主張は真実とはかけはなれています。まして私が女性の人権に理解がないとどうしていえるのでしょうか。私の経歴を知っているのでしょうか、言ってきたことを知ってのことでしょうか。許せません。その挙句の結びのことばが「橋下徹さんみたいですね」です。
こんなことを言うのだったら、まずあなたは名前を名乗るべきです。そのうえで議論しましょう。名前を名乗らないのだったら、あなたのいうことは、たわごと、人に対する誹謗中傷に過ぎないということがはっきりするだけです。忙しくて数日間見ていなかったので、時間的ずれがおきましたが、返事をしてください。