山上俊夫・日本と世界あちこち

大阪・日本・世界をきままに横断、食べもの・教育・文化・政治・歴史をふらふら渡りあるく・・・

シベリア抑留 スターリンとともに日本の参謀本部の責任追及を

2016年08月25日 22時28分18秒 | Weblog
 8月23日は「シベリア抑留の日」だ。アジア太平洋戦争が終わったあとに、ポツダム宣言に違反する日本人捕虜のシベリア抑留がおこなわれた。命令したのは旧ソ連の指導者スターリンだ。57万5千人が強制労働に従事させられた。そのうち5万5千人が飢えや病気で亡くなった。身元が特定されたのは4万人、収集された遺骨は2万人だ。
実態解明そのものがじつに心もとない。日本政府の姿勢が問われる。日本政府が事実上放置にも近い対応をしてきた背景には、旧日本軍参謀らが日本兵を切り捨てたことがある。
瀬島龍三参謀起案のソ連軍に対する「陳情書」には「極力貴軍の経営に協力する如くお使い願いたいと思います」とされていた。朝枝繁春参謀の報告者には、「在留邦人および武装解除後の軍人はソ連の庇護下に満鮮に土着せしめて生活を営むごとくソ連側に依頼す」「土着するものは日本国籍を離るるも支障なきものとす」と書かれていた。
これらが、8月16日段階では捕虜をソ連領に運ぶことはしないとしていたのを正反対の方向にスターリンが切り替えることを誘導した。だからといって、捕虜の取り扱いを定めたジュネーブ条約やポツダム宣言などの国際法違反の行為が免罪されることはない。厳しくその責任を追及しなければならない。
いっぽうで、満州で多くの日本人を切り捨てたのと同じことを日本兵に対しても、参謀本部は行っていた。瀬島龍三は戦後日本の黒幕として暗躍した人物だ。侵略戦争の責任追及とともに、日本人・日本兵に対する棄民政策にも追及の手を伸ばさなければならない。
わたしの近所の清水博さんもシベリア抑留体験者だった。満蒙開拓青少年義勇軍として満州に送り込まれ、やがて現地で招集され、戦後シベリアに抑留された。若く身体が強健だったので帰還できた。去年、89歳で亡くなられたが、その前に詳細に体験を聞き取りをし、心ある人々に伝えることができたのが、清水さんの反戦の思いを生かすことになった。
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