(続) お山でウォーキング

里山歩きをメインにして運動不足の解消を図ろうと思っています。

長野県  飯盛山を歩く(2)

2017-10-17 20:15:26 | ウォーキング
2017年10月10日(火)

飯盛山山頂より


飯盛山山頂を後にして  見晴台へ (1)


見晴台は右寄りの最高点の所にあるようです。 (2)


(3)


広場を過ぎて、フェンス外側の四差路へ (4)


四差路(鞍部)に出たら右の三沢・見晴台方向へ(三沢は見晴台の北東方向にある集落) (5)


草地の広がる尾根筋へ (6)


草地から飯盛山を見る (7)


右の「三沢」方面へ (8) 


緩やかな斜面をのんびりと (9)


見晴台の手前までやってきました(上の柵で囲まれている所が見晴台)。  右側が三沢方面へのルートで、案内板も設置されています。 (10) 


案内板 (11) 


指導標 「 ← 見晴台」 (12) 


見晴台 その1 標高点1643m なぜか、飯盛山の標高と同じなんですね、山容は全く異なりますが。 (13)


見晴台 その2 北東方向 (14)


見晴台 その3 同じ高さの飯盛山 (15)


見晴台 その4 南アルプス方面 (16) 


見晴台 その5 八ヶ岳方面 (17) 


見晴台を後にして  いったん飯盛山方向へ (18) 


左へ  もう少し飯盛山方向に戻る  右は「野辺山学園へ」という標識あり (19) 


前掲写真から飯盛山方向に少しばかり進んだ所ですが、ここから正面に見える平沢山に向かいます。 (20)


(21)


往路でチェックしていた分岐点  左、飯盛山 右、しし岩(平沢峠)  僅か3分程で、平沢峠に戻るメインのハイキングコースに合流しようとしているところです。 (22) 


平沢山を右手に見ながら   よく見ると登山路らしきものも見えます。 (23) 


平沢山への進入口 (24) 


直登なのでやや急なルートですが、距離が短く短時間で登り切れます(健脚の方であれば5分ぐらい?)。 (25) 


後方を振り返ると (26) 


(27)


山頂目前 (28) 


平沢山山頂 その1  この山の山頂部も周回できるような歩道が付けられています (29) 


平沢山山頂 その2  すぐに三角点が目に入りました。 (30) 


平沢山山頂 その3 三角点と山頂標識 (31)


平沢山山頂 その4 三角点 (32)


平沢山山頂 その5 珍しい形の山頂標識 【平沢山 1653M】 (33) 


平沢山山頂 その6 今日歩いてきた中でこの地点が一番の高所になります。 (34) 


平沢山山頂 その7 (35) 


平沢山山頂 その8 (36) 


平沢山山頂 その9 ここから下山 (37) 


(38)


(39)


分岐  指導標 左、飯盛山  直進、しし岩(平沢峠)  見覚えのあるところへ戻ってきました。 往路で、登山道の風景がガラリと変わった所です (40) 


この左手の土手のようなところを越えた時のインパクトは記憶に残りますね (41) 


平沢峠へ (42) 


(43)


(44)


(45)


復路も展望地を覗いてみましたが、雲の様子が少しばかり変わっているだけでした。 (46)


眼下に駐車場が (47)


獅子岩もはっきりと (48)


登山口から駐車場の歩行者専用通路へ (49) 


駐車場から獅子岩へ
立て看板 「獅子岩周辺整備中(10月31日頃まで) ご通行には注意をお願いします。 南牧村」 (50)


指導標 「しし岩 → 」 (51) 


獅子が伏せているようにも? (52) 


獅子岩  近づいたら獅子の顔?  単純で想像力が乏しいので(苦笑) (53) 


後方にもう少し大きな岩塊があって (54) 


獅子岩より その1 (55) 


獅子岩より その2 南アルプス方面 (56)


獅子岩より その3 (57) 


獅子岩より その4  駐車場を見ると (58) 


駐車場に戻って (59) 


「平沢古道」説明板より  
かつて佐久甲州街道(佐久往還)は山梨県の韮崎市から長野県の佐久市岩村田の中山道と合流するまでを結ぶ交通の要所であったという。・・・しかし、平沢~海ノ口間は16キロもあるうえに非常に悪路でもあったことから往来する旅人が難儀をしたそうです。・・・その問題を解決するために江戸時代から様々な対策が取られてきたが、現在は国道141号線にとって代られ、通る人もなく「古道」と言われるようになった。 (60) 


「フォッサマグナ発想の地」説明板より
・・・「フォッサマグナ」の命名者はドイツ人のエドムント・ナウマン博士です。博士は1875年から3回の旅行を行い、その結果を1885年の論文「日本群島の構造と起源について」において、「グローセル・グラーベン(大きな溝)」として説明し、翌1886年に名称を「フォッサマグナ」とした。
1875年(M5)11月の第1回旅行で平沢を訪れたナウマン博士は、ここから赤石山脈(南ア)を眺めた景色をきっかけに「フォッサマグナ」を考えたそうです。・・・ (61)


「日本の分水嶺  ← 日本海へ  太平洋へ → 」 (62) 


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No.532