ジーン・ウールの不思議な旅

ジーン・ウールは不思議な女性です。姿を変えて過去にも未来にも現れます。
もしかしたら貴方の友人や奥様かも知れません。

北条時宗と元寇

2010-11-27 09:20:04 | 石平チャイナ・政治・経済
北条時宗と元寇  (ねずきちのひとりごとさんより 転載)



東北地方の山間部に、「モッコ」という言葉があります。

「モッコ」というのは、ふるくから“この世の中で一番怖いもの”とされるもので、「何だかわからないけれども、とにかく一番怖いものなの」なのだそうです。

その「モッコ」は、じつはモーコ(蒙古)のことだといわれています。

元寇の恐怖が、東北の山の中で、いまでもこのような形で語り継がれている。

それほどまでに蒙古襲来は、鎌倉時代の恐怖のできごとだったわけです。

1268年、高麗の使いによってフビライの書簡が九州の太宰府にもたらされました。
ちなみにこの書簡をフビライが書いたのは1266年。その書簡が高麗を経由して、ようやく太宰府に届くまで、なんと2年を経由しています。どこで書簡が停滞していたかというと、高麗です。

当時高麗は元の属国だった。蒙古と日本が戦争になると高麗は兵員や食糧を負担しなければならない。事大主義でああでもないこうでもないと、高麗の国内であれこれ議論やっている間に、2年が経っちゃった。

さてその書簡が、いよいよ大宰府にもたらされます。
当時の太宰府は、中国・朝鮮をはじめとするアジアに向けられた日本の玄関だった。

太宰府はこの書簡に驚き、幕府をとおして朝廷に書簡を届けます。
朝廷も、書簡を見てびっくり。連日会議を重ねたあげく、諸国の大きな寺や神社に蒙古が来ないよう、来ても勝つようにと加持祈祷祈を命じます。
いまでいったら、憲法9条論者に命じ戦争・放棄経を読むように命じたというところでしょうか。

他方、鎌倉幕府にも、蒙古襲来そなえよと命じます。
つまり自衛隊にミサイルに備えよ、と命じた。
これも、命じただけです。この時点で具体策はなにもない。

蒙古の書簡が到着からわずか6日後、北条時宗は、若干18歳にして幕府の頂点、執権の座につきます。

幕府も当初は朝廷と同様だったのでしょう。鳩首会議をするけれど、主戦派、穏健派に分かれ、容易に結論がでない。

時宗もこの時点では、執権に就任したばかり。周囲の声もかしましかったのでしょう。なんの手も打たずに放置した。

しびれをきらしたフビライは、何度か高麗に命じて使者を日本に派遣します。

ところが高麗は、天候が悪いの、海が荒れたのと理屈をつけて途中で帰ってしまったり、日本に蒙古と通交するようにすすめたりと、まるでらちがあかない。

業をにやしたフビライは、4度目(日本には2度目)の使者としてシナ人の趙良弼に命じ、日本に赴かせ、日本との交渉を前にすすめます。蒙古にしてみれば、高麗は属国といっても、なんの信頼に足る国ではなかったのでしょうね。

同時にフビライは、6千人の兵を高麗に送り、日本との戦いに備えます。
高麗はそのために土地や人や農耕のための牛を出さなければならず、人々は草や木を食べて飢えをしのいだと記録に残っているとか。
わずか6千人の兵の駐屯で、そこまで飢えるとは、当時の高麗の国力や、推して知るべしです。

太宰府に着いた趙良弼たちは「天皇や将軍に会わせないならこの首を取れ」とまで言います。

ところが、今回も返事はない。

4ヶ月滞在した趙良弼はいったん高麗に戻りますが、再び日本にやってきて一年間日本に滞在します。

この滞在は、戦争準備のための日本の国力調査のためだったといわれています。
趙良弼の報告を聞いたフビライは「大変よくできている」とほめています。

最初の使いから6年後である1274年1月。

フビライは高麗に対して日本遠征のための造船を命令します。

高麗はそのための人夫3万5千人と食糧・材料の木材を出すことになります。
労働者として使われたり食料を出さなくてはならない庶民の生活は苦しくなり、飢えて死ぬ人も多くいたという記録もあるそうです。

それでも高麗は、わずか10ヶ月の間に大型船300艘、中型船300艘、給水用の小型船300艘、あわせて900艘の船を作りました。

最近でも、韓国が請け負った橋梁工事で、その橋が落ちたとか、できあがった高層ビルが傾いたとか、韓国製品の粗雑さは有名ですが、このことは当時もいまもかわらない。

高麗は、船を作るのにあたり、頑丈な中国式ではなく、簡単な高麗式の船を作った。


1274年10月3日、中国兵6,000人、高麗兵24,000人、合計3万の兵を乗せた船が、高麗の合浦を出発します。

10月5日には対馬、14日には壱岐を襲います。島民の数は、当時おそらく数千人。
いきなり襲ってきた3万の兵にかなうはずもありません。

対馬・壱岐の人々は殺され、生き残った人は手に穴をあけられ、そこをひもで通して船のへりに鎖のように結ばれたといいます。
戦前の通州事件や、尼港事件、終戦直後の半島人やシナ人の残虐さを考えれば、壱岐対馬の方々の惨状は、想像するだに恐ろしい。


中国・朝鮮の連合軍は、19日に博多湾に集結します。
そして10月20日、連合軍は、筥崎・赤坂・麁原・百道原・今津あたりに上陸を開始します。

当時の日本の武士たちは、ほぼ全員が兼業農家です。

それまでの日本の国内のいくさというものは、おおむね次のようなものだった。

農家の長男坊が、いざ鎌倉の掛け声で、馳せ参じる。家の人は心配だから長男坊に、小者4~5人をつけて出征させます。
おおむね、馬上の者が武士。その周囲には4~5人の小者。

そしていくさがはじまると、双方の陣地から腕自慢の者が前に出て、
「やぁやぁ我こそは○○県○○村の○×△太郎と申すもの。腕に自慢のあるもの、おであえそうらえ」とやる。

そうすると、敵の陣地からも、同じく腕自慢の男があらわれて、
「我こそは□□村の◇◇と申すもの。いざや尋常に勝負、勝負~~」と名乗りをあげ、互いに一騎討ちをやる。

小者を含めた全軍が見守る前での勝負です。いまでいったら、K-1や、ボクシングの試合みたいなもので、ギャラリーとなる観客(この場合は戦いの場にいる武士や小者たち)にとって、名だたる武士の一騎討ちなんてのは、当時としては最高のスポーツ観戦だった。双方、全軍あげて、応援する。

なんどかそうした試合が行われると、双方のギャラリー(兵士たち)の興奮も最高潮に達し、小者たちが、敵陣に向けて、石投げをはじめる。

ちなみに日本の鎧かぶとは、弓矢は通すし、槍や刀も、突かれたら、刺さってしまう。
でも、考えてみてください。兜をみても、よろいを見ても、投石は、よく防ぐ仕様です。

そうした個人試合と、投石にはじまって、大将首をあげたら、それで終わりという日本式いくさ法に対し、シナと高麗の連合軍は、長年の奴隷を使った集団戦法です。

日本の武士が前に出て行って、「やぁやぁ我こそは」とやると、いきなり矢が飛んでくる。

凝り性の日本人は、弓も矢も、凝りに凝って作りますから、なにせ弓も矢も、値段が高い。当然、弓矢を持つのも武士だけです。名入りの高級品です。当然、敵の雑兵に向けて弓を射るなんてもったいない。雑兵相手には、小石で充分。なにせ小石なら、地面にいくらでもある。

これに対し、集団戦術の蒙古隊は、粗製の矢を雨のように射かけてくる。名乗りをあげるなんてのもありゃしません。

こりゃたまらんと、とりあえず、引きに引いて遠巻きにするくらいしかなすすべがない。

ところが一夜明けると、シナ・高麗の連合軍の船が一艘もない。
湾内を埋め尽くしていた船が一艘も見あたらない。

一説によると、この第一回蒙古襲来(文永の役)は、大暴風がやってきて多くの船が沈んだというけれど、日本側の記録である八幡愚童記などを見ても、嵐のことは一行も触れていない。そればかりか「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚いた」と書いてある。

どうやら、文永の役では、嵐が来た(神風が吹いた)のではなく、そもそもが様子見に来寇したシナ・高麗連合軍が、無抵抗だった壱岐対馬と異なり、意外に日本側が武器を持って戦いに臨んだので、驚いて帰っちゃった。。。というのが真相のようです。

高麗の歴史書である「東国通鑑」には、夜半に大風雨があったこと、多くの船が海岸のがけや岩にあたって傷んだと書かれているけれど、これはどうやら、いがいな抵抗を受けて逃げ帰ったシナ・高麗連合軍が、本国である元に報告する際に、記録を捏造したというのが、最近の通説になっています。
なんと、かれらの捏造史観は、いまにはじまったことではない!


これに対し、ほんとうに神風が吹いたのが、文永の役の7年後に起った1281年の弘安の役です。

この7年の間に、幕府の執権、北条時宗は悩みに悩み、尊敬する日本に禅宗を伝えた宋のお坊主、蘭渓道隆からも、

「宋は蒙古を軽く見て、だらだらと交渉している間に侵略され、国をなくしてしまった」と教わり、

また蘭渓道隆の後継者である無学祖元からは

「莫煩悩(ばくぼんのう)」=あれこれ考えずに正しいと思うことをやりとおしなさいの意を教わり、武家の棟梁として、日本を守るために断固戦う決意を固めます。

そして北条時宗は、敵が世界を手中に収める大元帝国であろうと、座して死を待つより、いさぎよく戦って死のう、と決意する。

文永の役の翌1275年4月15日、元は、杜世忠を正使として、日本に降伏を迫る書簡を解けどます。

文永の役は「蒙古の恐ろしさを知らせる」のが第一の目的で早々に撤退したけれど、こんどはもっとたくさんの軍隊を送るよ。言うことを聞くなら今のうちだよ」というわけです。

しかし。「国を守る」。そう覚悟を決めていた北条時宗は、竜の口で、杜世忠一行5名を、全員を処刑。見せしめとして首はさらしました。いまでいう打ち首獄門さらし首です。
時宗は、これによって、日本の国内世論を、開戦やむなしに固めたのだといいます。

ところが、全員殺してしまったので、肝心の元の側は、使者が死んだとは知らない。
いつまでたっても杜世忠が帰ってこないので、元は翌1279年6月に、周福を正使とする一行を、再度日本に送り込みます。

ちなみに杜世忠も周福もシナ人です。さしもの元も、この時点ではまるで高麗を信用していなかったということでしょう。

北条時宗は、この周福一行も、博多で斬り捨てる。

杜世忠と周福が首を刎ねられたことを知った元は、怒りまくります。
「日本をうつべし」
元の腹は固まります。

一方、北条時宗は、全国の御家人に命じて、博多に防塁を築きます。この工事への参加には、時宗は一切の反論を認めなかったし、各藩の御家人たちも、国を守るためにと、幕府の命に従った。

そして、1281年(弘安4年)、元は、范文虎を総大将とする14万の大軍を博多に差し向けます。

これに対する日本の武士団は、小者の数まで入れて6万5千人。武士だけなら、おそらく1万の軍勢です。
なんと武装兵力でいえば、14倍の大軍を相手に日本の武士たちは戦いを挑むことになった。

日本の武士たちは、夜陰にまぎれ、敵船に乗りこんで火をつけたり、敵兵の首を取るなどゲリラ戦を用いて果敢に戦います。
一方、元軍は、あらかじめ日本軍が用意した防塁に阻まれて、侵攻ができない。

戦線は膠着状態となります。

そうして運命の7月1日がやってくる。

旧暦の7月1日は、いまでいう8月16日です。

この日、北九州方面を、大暴風雨が襲った。

港をうめつくしていた4千艘の船は、台風のまえに、ひとたまりもなく破壊されます。なんといっても船は手抜きの高麗製。どうにもならない。


翌2日、船の残骸と無数の死体が海をうめつくした。

当時を記した「八幡愚童記」は、このときの様子を
「死人多く重なりて、島を作るに相似たり」と記しています。

「高麗史」もまた「大風にあい江南軍皆溺死す。屍、潮汐にしたがって浦に入る。浦これがためにふさがり、踏み行くを得たり」と書き残しています。
つまり海を埋め尽くす死体の上を歩くことができた。

同史によれば、生存兵19,379名。
士官や将官などの上級軍人の死亡率7~8割、一般兵士の死亡は8~9割だった。


すっかり戦意を無くした范文虎らは残った船で宋へ引き上げます。
港には、置き去りにされた元の兵士が多数残った。

これを見た日本軍はたちまち生き残りの元軍兵士におそいかかります。
戦闘は7月7日まで続いた。
捕虜となった数千の兵士はそれぞれの御家人の生け捕り分を記録後、ことごとく首をはねたと記録されています。残虐な殺し方はしない。いっきに首を刎ねている。

殺害したことに抵抗のある人もいるかもしれないが、壱岐対馬での彼らの残虐行為を考えれば、当時の日本軍のやり方は、紳士的にすぎるといっていい。

今でも博多周辺には蒙古塚とか首塚と呼ばれる場所が残っているけれど、これらは当時元軍兵士の首を埋めた場所でもあります。遺体は、日本はちゃんと供養までしている。この供養に行われたのが”踊り念仏”です。

こののち、鎌倉幕府は、弘安の役に対する御家人への恩賞が不十分だった・・・外国からの防衛戦だったために、恩賞を与える土地がない・・・ことから、教科書によっては、
「鎌倉幕府は、外国からの侵略は防げたが、御家人の生活を守れなかった。このため鎌倉幕府は御家人たちの不満が募り、滅亡した」などと書いています。

アホか!といいたい。戦後左翼の思考はそんな程度か!
もし日本が元に侵略されていたら、その後の日本はなくなっている。

それに鎌倉幕府の滅亡は、1333年です。弘安の役の52年後です。そして幕府は源家から足利家に移るけれど、その後1868年の明治政府樹立まで、日本は長い武家政治の時代が続きます。なるほど鎌倉幕府は滅んだけど、日本の国体が解体されたわけではない。征夷代将軍が、交替しただけで、武家政治は、その後500年続く。

つまり、武家を施政者として認める風潮が我が国に定着した。
いいかえれば、元寇によって、世間で、武家の信用が増したといえるのです。

文永の役と弘安の役、この2つの日本史上の大事件、そしてわずか1万の武家で14万の大軍と対峙したという事実は、東北地方の「モッコ」の怖さの伝説同様、武家というものが、国を守る誇り高き志士たちであるという認識を深く日本人の心に刻んだ事件だったのです。


最後にね、蒙古のフビライが日本に送ってきた書簡(文永の役の前のもの)の口語訳を掲載しますので、是非、一読してみてください。

-------------------------------------
大蒙古国・国書

天に守られている大蒙古国の皇帝から日本国王にこの手紙を送る。

昔から国境が接している隣国同士は、たとえ小国であっても貿易や人の行きなど、互いに仲良くすることに努めてきた。

まして大蒙古皇帝は天からの命によって大領土を支配してきたものであり、はるか遠方の国々も代々の皇帝を恐れうやまって家来になっている。

例えば私が皇帝になってからも、高麗が蒙古に降伏して家来の国となり、私と王は父子の関係のようになり喜ばしいこととなった。

高麗は私の東の領土である。

しかし日本は、昔から高麗と仲良くし、中国とも貿易していたにもかかわらず、一通の手紙を大蒙古皇帝に出すでもなく、国交をもとうとしないのはどういうわけか?

日本が我々のことを知らないとすると困ったことなので、特に使いを送りこの国書を通じて私の気持ちを伝える。

これから日本と大蒙古国とは、国と国の交わりをして仲良くしていこうではないか。

我々は全ての国を一つの家と考えている。

日本も我々を父と思うことである。

このことが分からないと軍を送ることになるが、それは我々の好むところではない。

日本国王はこの気持ちを良く良く考えて返事をしてほしい。

至元3年8月(1266年・文永3年)
-------------------------------------

わかりますか?

相互に仲良くしようといい、一通の国書をも送らないとささいなことでケチをつけ、すべてをひとつの国であるなどと調子のいいことをいい、シナを父と思えと都合のいいことまで云いながら、その一方で言うことを聞かないのなら軍を送るぞと、脅かしている。

これって、いまのシナの対日外交姿勢と似ていると思いませんか?

日本は戦いました。元を強大な国家と知って戦った。

そのおかげで、いまのわれわれがいる。
先の大戦と同じです。
当時の人は、何十倍もの兵力を持つ相手と、必死になって戦った。

それとね、もうひとつ。

文永の役では、実は神風は吹かず、弘安の役で神風が吹いたと書いたけど、上の文にいちばんたいせつなことを加えます。

当時、ただ動揺するだけの朝廷や、幕府の閣僚に対し、北条時宗は元の使者を切り捨てることで、明確に「戦う意思」を示した。

おそらくは当時の多くの「護憲・9条派」から、反対と怨嗟の声を浴びたと思う。

だけど北条時宗は、断固として「戦う意思」を示した。

これに多くの武士たちが賛同し、弘安の役の備えをした。

ぼくはね、元寇における真の「神風」は、台風ではなく“北条時宗の決断”そのものだったのではないかと思っています。時宗そのものが「神風」だったのかもしれない。

そしてその決断に、日本の八百万の神々が、台風をもって答えてくれた。

そしてたぶん、いまの日本に一番必要なのは、北条時宗なのではないか。

ちなみに元も、高麗も、元寇のあと、内乱に次ぐ内乱が起こり、元は明に滅ぼされ、高麗は李氏朝鮮に統治が変わり、とりわけ李氏朝鮮は、国民にとっての収奪国家としてその後の半島の発展を400年間にわたって失わせています。

日本に手を出した国は必ず滅びるのです。

弘安の役で、もし日本が戦うことをしなかったなら、元の大軍は、易々と上陸を果たしていたことでしょう。

そして上陸していたならば、彼らは台風で軍団が壊滅することもなかった。

明確に戦う意思を示した北条時宗の英断と、命を的に戦いぬいた鎌倉武士たちの活躍がなければ、その後の日本の歴史は大きく変わっていた。そのことは、誰でもが理解できることだろうと思います。

日本を守ってくれた北条時宗、そして鎌倉武士団に、わたしたちは深く感謝すべきだと思うのです。

同様に、先の大戦で亡くなられた多くの日本の将兵のみなさんも同じです。
国を守るために必死になって戦った。

施政者は、その苦しい戦いに大決断を下した。

その彼らに対し、わたしたち現代に生きる日本人は、やはり、深い感謝と哀悼をささげなければならないと思うのです。


2010年10月21日習近平守護霊の霊示で、習近平はチンギス・ハンの生まれ変わりであることが判明しました。
幸福の科学出版 「世界皇帝をめざす男・習近平の本心に迫る」が、本年11月9日に出版されています。ぜひお読みください。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。