ジーン・ウールの不思議な旅

ジーン・ウールは不思議な女性です。姿を変えて過去にも未来にも現れます。
もしかしたら貴方の友人や奥様かも知れません。

慰安婦問題に思う-2   転載です

2014-05-08 19:01:21 | 石平チャイナ・政治・経済

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日本の心を伝える会様  転載させて頂きます~♪
メールマガジン2
  2014/5/7

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慰安婦問題に思う-2
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※昨日からの続き


この問題の本質にあるのは、シラス国とウシハク国の対立です。

ウシハクは、「主人(ウシ)が佩く」で、「佩く」は、大刀を腰に穿くというときの言葉で、身につける、転じて、私有物にするということです。
つまり、主人が国民を私物化し、利用して自分の利財を図る。それがウシハク国です。
こうした治世にあっては、主人となったものは、国民の利益を独占しますから、そこに富が集中します。
重ねて主人(権力者)は、その権力の行使を絶対的なものとしますから、国民は言いなりになるしかありません。つまり国民は、ただの奴隷とされるわけです。

韓国の旅客船の沈没事故に際して、多数の犠牲者となった方々は、船長などの「その場を動くな」という指示を守って、室内に残り、結果、尊い命をなくされました。
日頃、うるさ型の多い韓国人が、どうして沈没まで1時間もかかったのに、船長の指示を守ったのか、そのところは、不思議に思われた方も多いかと思います。

けれど、これは韓国社会では、あたりまえのことなのです。
彼らは上下社会です。
船においては、船長や船員の指示が絶対のものとなります。
ですからもし指示に逆らって、自身の身の安泰を図る、つまり船室から出て海上に避難できる位置に移動するとなれば、後日その責任を追及され、「お前が出たから船が転覆したのだ、すべてお前のせいだ」と罪をなすり付けられ、社会から徹底した苛めに遭うことになる。
その恐怖があるから、出るに出られない。
これがウシハク国です。

もし同じような事故が日本であれば、そもそも船長以下船員たちが先に避難するということ自体、日本ではあり得ないけれど、多くの乗員たちは、船員たちの指示を振り切って早い段階で外気に触れる場所に出て、たすかっていたことと思います。

東日本大震災などで、整然とした姿でコンビニの前に並ぶ日本人、船室からさっさと避難する日本人、いっけんするとまったく異なる反応に見えますが、実は、この二つは共通しています。
それは、各自が、各自の判断で動いている、ということです。
それが、ひとりひとりが高い教養を持ち、自己の責任で行動しようとするシラス国の特徴です。

ウシハク国では、国民は貧乏です。
なぜなら富はみんな施政者、権力者たちが独占するからです。
ですから大多数の国民は貧乏だけれど、上に立つ者は巨額の富を手にします。
そして巨額の富を独占していますから、その権力者の思いひとつで、巨額の政治資金が動かせます。

これに対し、シラス国は、国民ひとり一人が、決して贅沢はできないまでも、そこそこの生活ができます。
権力者も施政者も、国民と同じ人であり、富は分散されていますから、誰かが誰かの思いひとつで、巨額の政治資金を動かすということもできません。

100人で100の富を得たとき、権力者ひとりが80の利益を独占し、残りの20を99人で分散するのがウシハク国。
100人で100の富を得たとき、みんなで1ずつ均等割するのが、シラス国です。
政治工作は、どちらが容易かは、一目瞭然です。

ですが、国民みんなの幸せを考えれば、後者の方がはるかに良い国であることも、これまた自明の理です。
日本は、神話の時代から、シラス国を目指してきました。

このシラスとウシハクは、大国主神話に出てくる言葉なのですが、その神話においても、ウシハク統治は、ある意味においてたいへんに魅力的であることが説かれています。
ですから二度に渡って、大国主に使いに出た天孫の神は、ウシハク統治で金持ちの大国主の接待にすっかり取り込まれ、任務を放棄して大国主の部下になってしまいました。

そして三度目の使いに立ったのが建御雷神(たけみかづちのかみ)で、彼は海の上に刀を逆さまにして立て、その上に大あぐらをかいて、大国主に国ゆずりを迫り、大国主自慢の二人の子を打ち負かして国を譲り受けています。

これは、私は比喩だと思っています。
「海の上に刀を逆さまにして立て、その上に大あぐらをかいて」というのは、軍船を率いてやってきて、その船上で刀剣類を逆さまにして立て並べ、船上で大あぐらをかいて、大音声で国ゆずりを迫った」ということなのではないかという気がします。

ともあれ、こうしてシラス国とウシハク国の違いと、ウシハク国の怖さ、そしてシラス国の大切さが神話に説かれているわけですが、昨今の韓国の行状は、まさに韓国の施政者たちが、己の利権を狙って、自由を奪った民衆を動員して、異論を許さずに反日に傾斜しているわけです。
現代世界において、いまだ、このようなウシハク統治が公然と行われているという現実は、まさに驚くばかりですが、韓国は、古来、そういう国ですし、そもそもの建国自体が、日本によるシラス統治によって、特権階級の両班たちが、その特権を奪われた「はらいせ」につくったのが、いまの韓国でしかありません。

日本は、いま、こういう国から、武器を使わない戦争をしかけられているわけです。

そういうウシハク韓国の慰安婦攻撃に対して、日本は、猛然と反論しなければなりません。
しかし、それだけでは、実は片手落ちで、日本とはどういう国なのかという文化面での日本の情報発信力が、いま、本当の意味で問われているのだと思います。

日本が二千年以上に渡って行ってきた統治は、どこまでも民衆をこそ「おおみたから」とする統治でした。
そしてすべての国民を、天皇の臣民とするという統治でした。
ですから、このことが律令制度として確立された大化の改新以降は、日本からは、生口(せいこう)と呼ばれた奴隷階層は、完全にいなくなっています。

そして、問題の売春婦にしても、かつてはこれを「春を売る婦人」と呼び、戦時下においては「兵隊さんたちを慰め安心させる婦人」という名称を与えてきたのが日本です。

そもそも、日本語で売春と呼ばれる行為は、支那では「売淫」と書きます。
「淫」という字は、膣の中に精液を入れるという意味を持つ字ですから、それを売るというのは、まさに読んで字のごとしであり、きわめて動物的です。
さらにいえば、売春婦たちは、隠語では、「ピー」と呼ばれていました。
ピーというのは、女性の性器そのもののことを指す隠語です。
つまり、女性たちを、まったく「人」として認識していず、ただの性器としてしかみなしていないということが、こうした言葉が如実に物語っています。

最近の韓国が主張する「性奴隷」も同じです。
まさに性の奴隷であり、奴隷というのは古今東西、報酬も人権もなく、ただ使われるだけの存在ですから、その言葉には、わたしたち日本人なら誰もがびっくりするような女性蔑視、人権無視が言葉に隠されています。

ところが日本ではどうでしょう。
先に述べましたように、売春は、「うららかであたたかな春を売る」というのです。
「遊郭」は、楽しく遊ぶための建物であり、「花魁(おいらん)」は、美しい花のさきがけ」、「遊女」は楽しく遊ぶ女性、吉原などの遊郭にいた「太夫(たゆう)」は、恵まれたスポンサーのある女性という意味です。
どこにも性のかけらもない。
あくまで、女性たちを、人として見ているということが、こんな言葉からもわかります。

さらにいえば、朝鮮半島でも、支那大陸でも、売春宿では、年頃の女性を連れてきて、その日から性行為をさせています。
稼ぐために連れてきたのです。これは彼らにとっては当然のことであったことでしょう。

ところが日本は、女性たちは6?7歳で遊郭に連れて来られました。
幼児売春のためではありません。店に出て性行為の仕事をするのは、17歳になってからです。
それも22歳までの5年間だけです。

商売のためなら、年頃の女性を連れてくればよさそうなものを、どうして6?7歳の女の子を連れてきたかといえば、6?7歳から17歳まで、まる10年間、お店では、たいへんな経費をかけて、女の子たちに、読み書きソロバンから、小唄、三味線、お琴、長唄、都々逸、小堤、太鼓、絵画、和裁、お花、お茶など、ありとあらゆる教育を施していたのです。
なぜかといえば、女の子たちには、5年間、お店のために商売をしてもらわなきゃならない。
そのかわり、お店を出たあと、この子たちが一生食べるに困らないだけのことは、お店として、きちっとしてあげようとしたのです。

女の子たちは、もちろん売られてきた子たちです。
そしてまる10年間、お店で衣食住の面倒をみてもらうだけでなく、高いレベルの教育を受けさせてもらいます。
10年経ったときには、たいへんな借金ができています。
けれど、商売に出ることで、たいていは最初の1?2年で、どんな女の子も、お店からの借金は全額返済してしまいます。(このことは、慰安婦の給料を考えてもわかることと思います)。
そのあとは、もっぱら貯金です。

ですからお店に出て5年経って卒業する頃には、クニに帰って料亭の1件、2件建てれるくらいの蓄えができていました。
世界中、どこを探しても、売春婦たちが、生涯食べるに困らないだけの教育と蓄財を与えたクニというは、ないと思います。

では、なぜ日本は、そのような手厚いことをしたのでしょう。
答えは簡単です。
すべての民は、日本では、天子様のおおみたから、なのです。
つまり、お店の女の子たちは、天子様(天皇陛下)からのあずかりものであり、親御さんのたいせつな宝物なのです。
それをお預かりしているのです。
ですから、出来る限りのことをしてあげる。
それが日本です。

だからこそ、戦時下においても、なるほど、朝鮮人の女衒たちが、兵舎の近くに売春宿を作りました。
その売春宿を、わたしたち日本人は、売淫宿ではなく、昔からある売春宿でもなく、兵隊さんたちのための慰安所と呼びました。

中で行われるのは性行為かもしれません。
けれど、そこにいる女性たちへの意識は、あくまでも人の子であり、男性と対等な女性であるという共通認識が、私たちの父祖にはあったのです。
だから、慰安所と名付けていました。

日本人が、慰安婦(売春婦)を、見下したり性奴隷のような存在などとはまったく考えていなかった証拠には、これはねず本の第二巻に書いたことですけれど、総理大臣や、藩の要職の人の妻が、もとはそういう女性であったという事例さえも、あるという事実がこれを証明しています。

私なども、子供の頃、粋に和服を着こなしている、ひどくかっこいい中年の女性などを見たことがあります。
ある芸事のお師匠さんですが、生徒さんたちからも、町内でも、たいへんに尊敬されていたこの女性の和服の着こなしの見事さや、仕草の艶っぽさ、そして周囲に対する気配りや、小唄や三味線の巧さ、町内の頑固親父たちを手なづける手腕の見事さに、祖母は、「やっぱり玄人さんだった人はちがうわねえ」と、悪い意味どころか、大変な尊敬さえもしていました。
たしかに、子供の目からみても、すごいおばさんだった。

慰安婦や淫売どころか、「玄人さん」ですよ。
尊敬さえされていたのです。


※明日のメルマガに続く



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