有力政治家の発言を巡ってふたつ。
ひとつは日本維新の会共同代表の石原氏の発言。
石原氏は共同通信のインタビューに対して、同じ共同代表の橋下氏のいわゆる「従軍慰安婦発言」について「大迷惑」、「言わなくてもいいことを言ってタブーに触れた」と批判し、選挙結果によって責任を取るよう示唆した。
まあ石原さんのことだから、裏の方で打ち合わせをした上であえて「悪役」を演じて見せただけなのかもしれないが、それにしても無責任極まりない。
自分でも同じような(と言うか、もっとひどい?)ことを堂々発言しておきながら、橋本氏の発言がマスコミに叩かれたから「大迷惑」とは、いったいどこに信念を持っていらっしゃることやら。「言わなくてもいいことを言っ」たとはどういう批判だ。
政治家が自分の意見を言えなくてどうするのか? マスコミも「政治家なんだから」とか「公党の代表なんだから」とかよく批判するが、政治家であり公党の代表だからこそ、我々は本音を知りたいのだし、その本音を以って選挙に臨んでもらいたい。そうなって初めて有権者は正しい選択ができると言うものではないのか?
そもそも「言わなくてもいいことを言ってタブーに触れた」のは石原さんの方が先だし、現実には維新の会の盛衰なんかよりもっと「国益」に関わる重大な問題を引き起こしているではないか。石原さんが「東京都が尖閣列島を買う」などと言わなければ、昨年から現在に至るまでの日本の外交や経済の混乱は起こらなかったか、もしくはもっと小さくて済んだのではないのか?
前にも書いたけれど、自分のことを棚にあげて他者を非難する政治家は腐りきっていると言うしかない。
もうひとり、実はこんな成り上がり野党などとは比べ物にならないくらい政治責任が重いにもかかわらず、何でもかんでも言いっぱなしで、責任の「せ」の字も感じていない政治家がいる。自民党の高市早苗政調会長だ。
今回は、自民党兵庫県連の会合で「原発は廃炉まで考えると莫大なお金がかかるが、稼働している間のコストは比較的安い」「事故を起こした東京電力福島第一原発を含めて、事故によって死亡者が出ている状況ではない。安全性を最大限確保しながら活用するしかない」と発言し、批判をうけている。
もちろん「原発事故で死者は出ていない」という点が注目されているわけで、それ自体、被災者が怒りを感じるのは当然だ。ぼくの友人にも南相馬で両親が被災し、結局避難先で相次いで亡くなったという人がいる。
ただ、この言葉ひとつだけを取って論評したり非難したりするのは、やはり違うと思う。橋本氏が何度も強調していた「国語力」の問題である。
話の中のひとつの単語だけを切り出してきて、そればかり攻撃するのは揚げ足取りと言うものだ。かつて民主党政権下で当時の官房長官だった仙谷由人氏が「自衛隊は暴力装置」と発言して批判されたが、あの場合はどう聞いても社会学的概念としての「暴力装置」の意味でしかなく、本来、批判の対象になるような話ではなかった。
その意味で、今回の高市発言についてもマスコミはその意味を文脈で捉えていないから、まったく的外れと言うか、本質を突いていないヘンテコな批判に終わってしまっている。そしてそれは結局は高市氏と自民党の政策を側面的に擁護する結果になってしまっている。
マスコミは「死者は出ていない」という言葉だけを捉えて「心無い」とか「言葉が足りない」と批判しているが、はっきり言って問題はそんなところにあるのではない。
高市氏は釈明の会見で「被ばくで亡くなった方はいないが安全を確保しなければならないと伝えたかった」「もし誤解されたとしたら、しゃべり方が下手だった」と述べた。
果たして本当にそうだったのか。
まさにこれこそ読解力であり、正しく読み解く能力が問われるところだ。
高市氏の講演での発言は、あきらかに「死者が出るほどの事故にはならないから、原発は使い続けるべきだ」と言っている。釈明での「死者はいなかったがもっと安全性を確保しなければならない」というのとは、まさに趣旨が変わっている。
マスコミはこの違いをこそ分析して解説しなくてはならない。なぜなら、この二つの発言の狭間にこそ高市氏の本音と性根が読み取れるからだ。
もし「原発は言われているほど危険ではない」という主張ならそれを堂々と言い続ければよい。しかしそれを批判されたら姑息に本音を隠すような態度を取る。ここにこそ政治家の質を問わなくてはならない。
政治家の言葉が「失言」なのかどうか、そのことは決して面白おかしいことではないかもしれないが、最も重要なことだと思う。
ひとつは日本維新の会共同代表の石原氏の発言。
石原氏は共同通信のインタビューに対して、同じ共同代表の橋下氏のいわゆる「従軍慰安婦発言」について「大迷惑」、「言わなくてもいいことを言ってタブーに触れた」と批判し、選挙結果によって責任を取るよう示唆した。
まあ石原さんのことだから、裏の方で打ち合わせをした上であえて「悪役」を演じて見せただけなのかもしれないが、それにしても無責任極まりない。
自分でも同じような(と言うか、もっとひどい?)ことを堂々発言しておきながら、橋本氏の発言がマスコミに叩かれたから「大迷惑」とは、いったいどこに信念を持っていらっしゃることやら。「言わなくてもいいことを言っ」たとはどういう批判だ。
政治家が自分の意見を言えなくてどうするのか? マスコミも「政治家なんだから」とか「公党の代表なんだから」とかよく批判するが、政治家であり公党の代表だからこそ、我々は本音を知りたいのだし、その本音を以って選挙に臨んでもらいたい。そうなって初めて有権者は正しい選択ができると言うものではないのか?
そもそも「言わなくてもいいことを言ってタブーに触れた」のは石原さんの方が先だし、現実には維新の会の盛衰なんかよりもっと「国益」に関わる重大な問題を引き起こしているではないか。石原さんが「東京都が尖閣列島を買う」などと言わなければ、昨年から現在に至るまでの日本の外交や経済の混乱は起こらなかったか、もしくはもっと小さくて済んだのではないのか?
前にも書いたけれど、自分のことを棚にあげて他者を非難する政治家は腐りきっていると言うしかない。
もうひとり、実はこんな成り上がり野党などとは比べ物にならないくらい政治責任が重いにもかかわらず、何でもかんでも言いっぱなしで、責任の「せ」の字も感じていない政治家がいる。自民党の高市早苗政調会長だ。
今回は、自民党兵庫県連の会合で「原発は廃炉まで考えると莫大なお金がかかるが、稼働している間のコストは比較的安い」「事故を起こした東京電力福島第一原発を含めて、事故によって死亡者が出ている状況ではない。安全性を最大限確保しながら活用するしかない」と発言し、批判をうけている。
もちろん「原発事故で死者は出ていない」という点が注目されているわけで、それ自体、被災者が怒りを感じるのは当然だ。ぼくの友人にも南相馬で両親が被災し、結局避難先で相次いで亡くなったという人がいる。
ただ、この言葉ひとつだけを取って論評したり非難したりするのは、やはり違うと思う。橋本氏が何度も強調していた「国語力」の問題である。
話の中のひとつの単語だけを切り出してきて、そればかり攻撃するのは揚げ足取りと言うものだ。かつて民主党政権下で当時の官房長官だった仙谷由人氏が「自衛隊は暴力装置」と発言して批判されたが、あの場合はどう聞いても社会学的概念としての「暴力装置」の意味でしかなく、本来、批判の対象になるような話ではなかった。
その意味で、今回の高市発言についてもマスコミはその意味を文脈で捉えていないから、まったく的外れと言うか、本質を突いていないヘンテコな批判に終わってしまっている。そしてそれは結局は高市氏と自民党の政策を側面的に擁護する結果になってしまっている。
マスコミは「死者は出ていない」という言葉だけを捉えて「心無い」とか「言葉が足りない」と批判しているが、はっきり言って問題はそんなところにあるのではない。
高市氏は釈明の会見で「被ばくで亡くなった方はいないが安全を確保しなければならないと伝えたかった」「もし誤解されたとしたら、しゃべり方が下手だった」と述べた。
果たして本当にそうだったのか。
まさにこれこそ読解力であり、正しく読み解く能力が問われるところだ。
高市氏の講演での発言は、あきらかに「死者が出るほどの事故にはならないから、原発は使い続けるべきだ」と言っている。釈明での「死者はいなかったがもっと安全性を確保しなければならない」というのとは、まさに趣旨が変わっている。
マスコミはこの違いをこそ分析して解説しなくてはならない。なぜなら、この二つの発言の狭間にこそ高市氏の本音と性根が読み取れるからだ。
もし「原発は言われているほど危険ではない」という主張ならそれを堂々と言い続ければよい。しかしそれを批判されたら姑息に本音を隠すような態度を取る。ここにこそ政治家の質を問わなくてはならない。
政治家の言葉が「失言」なのかどうか、そのことは決して面白おかしいことではないかもしれないが、最も重要なことだと思う。