あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

日本国屈辱の日

2015年04月29日 23時01分40秒 | Weblog
 前の記事で4月28日が沖縄の屈辱の日だと書いたが、今日はある意味で日本国の屈辱の日となった。訪米している安倍総理は米国オバマ大統領から最大限に頭を撫でられて、バタバタとしっぽを振り回した。今日の日米首脳会談前後の両者のはしゃぎっぷりは、ロン・ヤス、ブッシュ・小泉以上のものがあった。
 憲法も国会も、そして国民の安全も経済も何もかも無視して、安倍総理は日本が米国の属国として言いなりになる、というより積極的にアメリカのために尽くすことを誓ったのである。言葉は悪いが、この光景は超大国に従属する三流国にしか見えない。戦後日本の誇りはいよいよ地に落ちてしまった。

独裁政治とロンリーウルフ

2015年04月28日 23時25分10秒 | Weblog
 同時に自民党に呼びつけられたNHKとテレビ朝日が、今日同時に謝罪見解を発表した。同じ日に同じようなことを言うのはあまりにも不自然である。何もかもがお膳立てされ、誰かの書いたシナリオ通りに進められている。これが政府によるマスコミのコントロールでなくて何なのか。自主性、独立性というマスコミの矜持はどこにいったのか。
 そもそも「圧力ではない」などという自民党の言い分が通るはずがない。しかしマスコミはこの問題を、まさに自分自身の存立基盤の最も重要な問題であるにもかかわらず、徹底追及することを回避してしまった。
 一方であの時、産経は起訴されて出獄を許されなかった前ソウル支局長が安倍総理にお礼の訪問をしていた。確かに外務省などが折衝したことは事実だろうが、しかし少なくともマスコミである以上、いくら出獄に力を借りたとしても総理大臣や政治家に公然と頭を下げに行くのは問題があった。

 これが言論弾圧なのだということに気づかねばならない。
 ぼくたちは何となく政府の圧力とか言論弾圧とか言う言葉を使ってきたけれど、まさにこの状況こそが国家権力による言論弾圧の形なのだと言うことをちゃんと理解する必要がある。おそらく遠くから見ていれば、この状況のあまりの異様さに気づくのだろうが、自分の身の回りで起きていることは、逆になんとなく見逃してしまうと言うことがある。かつて、日本が日中戦争から太平洋戦争へと、あまりにも無謀な戦争に突入していった時、多くの人はそのことの異様さに気づかなかった。わかっていたのは海外の人々だった。

 今日4月28日は「主権回復の日」なのだという。敗戦後の日本が再独立を認められた日というけれど、沖縄においては「屈辱の日」である。日本の再独立の人身御供として沖縄は米軍に献上されたのだ。沖縄では辺野古基地建設反対を掲げて、この日に抗議する集会が開かれた。
 同じ日に安倍総理は訪問中の米国で、オバマ大統領とリンカーン記念館を訪ねて人種差別廃絶を訴えたキング牧師を悼み、その後ホロコースト記念館で杉原千畝が救ったユダヤ人と面会した。
 差別排外主義者たちに支えられ、沖縄県民を二級国民として差別支配する安部氏が、このような演出によってまるで全く逆のイメージが作られようとしていることには、違和感を通り越して怒りを感じざるを得ない。

(もちろん杉原は政府の指示ではなく個人の判断でユダヤ人を助けたのであって、その当の日本政府はユダヤ人を虐殺したナチス・ドイツを支持し、同盟し、共闘していたのである。更に言えば、そのとき日本軍は中国や朝鮮半島で虐殺を繰り返していたのである)

 しかし一番大きな問題はもちろん日米軍事同盟の強化、集団的自衛権行使を前提とした体制作りである。
 すでにアメリカでは日本が憲法九条を事実上放棄し、集団的自衛権を発動し、米軍の下請け部隊として実戦投入されることが既成事実のように語られている。日本国内ではいまだに国会での議論が何一つ始まってさえいないのにである。そして辺野古基地建設も既定路線として絶対変更しない態度表明がなされた。沖縄では何度も民意が示されているというのにである。

 これは何を意味するのか。
 そのひとつは、日本の本当の憲法は日本国憲法ではなく、日米安保条約であるということだ。憲法が安保の内容を規定するのではない。安保条約の都合によって憲法は好き勝手に変更できるということが公然と示されているのだ。
 そしてもうひとつは、これこそが独裁政治だと言うことである。国会よりも総理大臣の決定が優先され、国会はただその追認をしていくだけの機能に成り下がった。このことに加えて、裁判所が最も重要な違憲問題について判断を拒否したり、一票の格差問題のように仮に違憲の判断を下しても政府がこれをずっと無視し続ける状況は、事実上、三権分立の否定以外の何ものでもない。これを独裁と言わずしてなんと言えるのか。
 言論弾圧と同じように、これはきわめて異様な事態なのだが、日本人はこのことの異様さをまるで感じていない。むしろそのことの方が更に異様だとも言えるかも知れない。

 繰り返しなるがもう一度指摘する。すでに言論弾圧が激しく行われている。独裁政治が暴走している。それは未来の危険ではなく、まさに今どんどん進行している現実の危険なのである。
 そのときマスコミ・ジャーナリズムは完全に口を塞がれ、何も見ないふり状態になっている。いや、むしろかつてのマスコミのように政府の手先として政府の方針を美化し、宣伝し、刷り込むための機関と化している。ただそのやり方が21世紀的に洗練されているだけでしかない。
 パニック映画のゾンビのごとく増殖する右翼、ナショナリスト、差別排外主義者たちは、政府方針に異論を唱え、反対する者へ個別的・暴力的・精神的攻撃を激化させている。社会全体がかつてのスターリン主義やマッカーシズムのように「社会の敵」をねつ造し排除しようとしている。

 そんなときに、いわゆるリベラルや左翼はこうした状況と真正面から闘うことが出来ず、相手側の論理に巻き取られ、後退し続けている。まさに「地獄への道は善意で敷き詰められている」。それはまるで銃で武装した悪漢の前に立ち素手で説得を試みる賢者のようだ。彼らは全く無力である。

 ここまで追い詰められてしまうと、状況は質的な変化を見せてくる。もはや既存の平和勢力に期待しない、できない人が、もはや自分自身を投げ打って一矢を報いようと無謀な突撃を始める。
 安倍政権になってから複数の抗議自殺決起が起きた。今月には例の官邸サンタのドローン「攻撃」も起きた。ここで特徴的なのは、こうした人たちの多くが既存の運動や組織と無関係だったり、関わりが薄かったりしている点だ。官邸サンタは自らをローンウルフと呼んでいる。

 このことはもうひとつの危険をはらんでいる。独裁の暴走に対抗する反対者の暴走である。組織という歯止めが無く、戦略的展望もない個人の突出は、たとえばかつての反日武装戦線「狼」の爆弾闘争や現在のイスラム国シンパによるホームグロウンテロのように、敵も味方も区別がつかなくなるような混沌とした暴力のエスカレートを生むようになるかもしれない。
 こうした状況を防ぐための方法はひとつしかない。人々が社会として危険な独裁政治や言論弾圧を拒否し、跳ね返し、「自由・平等・博愛(友愛)」を自らの手で獲得することだ。その中で「他者」を自らの内側に取り込み、「類」を形成していくこと、それ以外にはない。

マルウェア駆除顛末記

2015年04月27日 00時00分43秒 | Weblog
 全く不覚なことだが、サブマシンで使っているパソコンがマルウェア(悪意あるソフト)に感染してしまった。悪質アドウェア(広告ソフト)である。

 最初はサイトを閲覧している最中に、「注意:ご使用のPCパフォーマンスが低下している可能性があります。今すぐWindowsのエラーを修復する為に下記の、はいというボタンをクリックして下さい。」というポップアップが出現した。当初はそれがそのサイトに仕掛けられているポップアップだと思い、消そうとして「×」印をクリックしたら、あたかもマイクロソフトが提携しているように見えるメンテナンスソフトのサイトに飛ばされてしまった。
 やがてそれが何度か続くようになり、ポップアップ出現の頻度が激しくなってきた。ページ上の重要なボタンやリンクがそのポップアップで隠されるようになり、ページ移動もうまくいかなくなってきた。

 さすがにウィルス感染だと気づいたが、どこで感染したか全く覚えがない。確かにぼくはフリーソフトを多用していて、過去にも不愉快なアドウェアなどを埋め込まれてしまったことがあるけれど、今回はログを見返してみても特に怪しいソフトをインストールした記録もない。不気味である。

 ポップアップがどのサイトから出てくるのか調べてみると、このマルウェアがどうやらイスラエル製のBabylonという悪名高いソフトの系統であるらしいことがわかった。しかし、インターネット上に書かれている削除方法をいろいろ読んでみても、自分の状況に当てはまらない。インストールされたマルウェアを削除しろと書いてあるのだが、そもそもそういうソフトが見当たらない。
 入れてあるセキュリティソフトで検索・削除しようとしても出来ない。ブラウザのポップアップ禁止のオプションも効果がない。
 それで次善の策として、表示させたくないサイトへのリンクを強制的に遮断するという強力なアドオンを導入した。このおかけでポップアップの出現していた場所は白紙となり、間違ってクリックしてもブランクのページが開くだけにはなった。

 しかし、依然としてポップアップのあった場所の下のボタンやリンクは使えないままだし、それどころか症状はどんどん重くなってしまった。これまではポップアップをクリックしなければ広告ページが開かなかったのだが、次第に画面のどこをクリックしても広告ページ(アドオンを入れたので実際はブランクページだが)が開くようになってしまった。
 更にはブロックしていたサイトとは別のサイトから来る別のポップアップが出現するようになり、飛ばされる先の広告も複数のサイトに増えてしまったようだ。新しいものが出現する度に、アドオンのブロック・サイト・リストに加えていくというイタチごっこになってきた。

 もういいかげん嫌になったので、駆除ソフトに頼ることにした。実は駆除ソフトを使うと自分には理解できないところで強力に動くので、少し不安なところがあり躊躇していたのである。しかしもう仕方がない。
 使ったのはVectorに掲載されいる「AdwCleaner」というソフト。これは軽いし使い方も簡単で、見事にマルウェアを駆逐してくれた。本当にありがたいソフトだった。

 ただ、いまだに感染経路がわからないままだし、また今回のセキュリティソフトや駆除ソフトによる「副作用」について把握もできていない。おそらくLAN上の他のパソコンからのリモート機能の一部が壊れたと思う。まあそれはこのところ使っていないからよいのだが。他にも何かあるかもしれないが、今のところその有無すらもわからない。
 今回の件でかなりの時間を割かれてしまったが、ただ結局こういうトラブルが自分のスキルを少しずつ上げることにもつながるので、良い勉強だったということにしておきたい。

官邸ドローン事件を考える

2015年04月26日 18時26分55秒 | Weblog
 首相官邸屋上にいわゆるドローンが落下しているのが見つかった事件で、実行者が名乗り出た。
 マスコミはまるで大きな事件を起こしたテロリストのような扱いをしているが、実際上は何の法律が適用できるかもわからない、ほとんど軽犯罪に近い事件でしかない。当初、ドローンに発煙筒がつけられていたと報道されていたが、それが発火するような仕組みになっていたのかどうかもわからず、放射性物質というのも現に人が普通に住んでいた福島県の土地の土であり、もしそれが危険な物であるのなら、そのような危険を比較にならないほど振りまいた者たちは、重罪に問われるべきだが、いまのところ誰一人責任を問われた者はいない。

 もちろんこの実行者の原発抗議行動が素晴らしいと言うつもりもない。彼のブログも少し見たが、正直言って何を主張しているのかよくわからない。言葉=論理で主張できない者が実力で抗議をしても、残念ながらそれは多くの人には伝わらない。ある意味では逆効果になってしまうことさえある。個人の限界なのかもしれない。

 政府や自民党はこの事件を受けて、早急な対策をと叫ぶ者、金儲けのチャンスなのに規制は困ると言う者などがいて、混乱している。国家の指導者を自負する人たちが、いったいどの方向を向いているのか、こういうところでよく見えてくるのである。この問題を「権力への攻撃」として見ているだけなら、それは国民を置き去りにした議論にしかならないだろう。本当に考えるべきは、国民の安全と利益なのであり、その視点からこの事件を反省できない政治家は、政治家として失格と言うしかない。

 自民党国土強靱化総合調査会長の二階俊博総務会長は、記者に対して「非常に恥ずかしい事態」と述べた。いったい何が恥なのか。これは無人機によって街中の一般の人々が危害を受ける危険の発見なのであって、そのことを全く考えていませんでしたというのなら恥であろうけれど、誰もいない燃える物さえない首相官邸の屋上にドローン一機が墜落しても、別に国民には何の不利益もない。
 二階氏の言う「恥」はようするに権力者としての権威に傷がついたということでしかない。本来なら原発による環境汚染を含めて、国民全判への危機が明らかにされたと言うべき問題を「恥」と言ってしまう感覚こそが、国民の方を見ない施政者の傲慢と権力志向を明瞭に表しているのである。
 恥というのはメンツの問題ではない。それはその人の人間性の問題である。まさにこのような権力者の思考こそが、先の戦争を本心から反省することを妨げ、反戦思想を心に抱く多くの日本人や近隣諸国の戦争被害者と、右翼政治家たちが和解できない理由なのでもある。

 政治家やマスコミはドローンの規制を早くするべきと主張している。それはもちろん現実的には必要なことであろう。もちろんその主眼は一般国民への危険の除去であるべきだが。
 しかしいくらドローンを規制しても「テロ」を防ぐことにはならない。今回はたまたま小型無人機というテクノロジーについて権力者がよく把握していなかったので抗議に使われたに過ぎない。問題の本質はテクノロジーにあるのではない。
 もう憶えている人も少なくなったろうが、かつてロッキード事件が社会問題になった当時、小型機に乗って田中角栄邸に体当たりした無名俳優がいた。また30年以上前に左翼の知人から聞いた話だが、火焔瓶ゲリラは盗んだ単車に夜間二人乗りをして後ろの者が瓶を投げて逃げれば成功すると言っていた。非常に単純で原始的だが、おそらく逮捕覚悟なら今でも有効な方法ではないだろうか。

 それを「テロ」というかどうかはともかく、技術問題のレベルで実力による対人・対物攻撃を止(とど)めることは不可能である。どんな方法でも「テロ」や「実力行動」は可能なのだ。
 それを止めるのは、ただ権力を持つ者と抑圧される者との間で粘り強く交渉を続け、融和の道を見つけること以外にない。そしてもちろんその場合、譲歩するのは力を持つ側でしかあり得ない。最も難しいがしかし最も重要なのは実力行動が発生する以前にそれが行われることである。
 もちろんそれは、いつでもはっきりした交渉集団があるとは限らないだろう。現代のように人々が分断される時代では、抑圧される側が不特定のある階層、ある漠然としたグループであることも多い。今回のドローン事件ではそれは原発事故の過去、現在、そして未来の被害者たちである。それでも自分のメンツを汚されて「恥」たり、技術開発との永遠の追いかけっこをするよりも、抑圧される者たちとの融和をどこまでも求めることこそが、問題の本質的な解決の道なのだということを理解しなくてはならない。

 このことは別の言い方をすれば、いずれの「テロ」や「実力行動」も、その背景には多くの人々の苦しみが存在しているということである。今回のドローン事件の実行者は個人であった。しかしこの事件が起こるまでには、彼とは直接関係ない多くの人々の苦しみが重なりつづけてきたことも事実である。実行者の思想や意図はともかく、そうした社会的問題の蓄積がこのような事件を生んだのである。
 その意味で、20年前のオウム事件も、現代のイスラム国問題も同じ構造を持つ。社会的に疎外された多数の若者、移民排斥運動で傷ついたイスラム教徒たち、そうした人々の苦しみの連鎖と拡大こそが、テロを生み、育て、そして擁護、隠蔽する土壌となっている。イスラム国は現代の悪魔のごとく伝えられているが、現実には現地に多くのイスラム国を支持する民衆が存在するからこそ、なかなか駆逐することが出来ないのだ。
 オウムもイスラム国も「他者」ではない。実は我々の社会が内包する矛盾の顕在化に他ならない。だからこそ常に誰でも何らかのきっかけで「向こう」側に行ってしまう可能性があるのである。

 今回の事件を本当に本質的な問題としてとらえ返し、政治や社会が自分たちの問題として反省しない限り、ドローンはいつか本物の爆弾を抱えるようになるかもしれない。


マスコミと体制崩壊

2015年04月22日 00時08分05秒 | Weblog
 今日の報道ステーション(テレビ朝日)でもメインキャスターの古館伊知郎氏は「国際平和支援法」に関する自公の合意成立を受け、安保法制の問題点などを熱く語った。しかし、おそらく多くの人たちはしらけた気分で見ていたに違いない。
 このところのテレビ朝日と報道ステーションの安部・自民党政権への屈服ぶりを目の当たりにすると、古館氏が何を言おうが、それは結局最終的には権力側の思い通りに執着するシナリオの上にあるパフォーマンスでしかない。
 もちろんそれは古館氏の責任ではないかもしれない。マスコミがマス・コミュニケーションである以上、それは国家権力から存在を許されなければ存続し得ない。それは別の言い方をするならば、マスコミは瞬間的にはともかく、本質的に体制を維持する役割を果たすときだけ(それは狭い意味ではなく、広い意味で「ガス抜き」の役割も含めて)存在しうるのである。それをもうひとつ別の言い方で言うならば、マスコミが反体制的でも存立しうるのは、ただ政治革命=体制の転覆・交代の時期だけだということである。
 このことを更に別の言い方で言えば、「マスコミ側の人」はマスコミからクビにならないことしか言えないと言うことである。古館氏は自分が「マスコミの側の人」であろうとする限り、絶対にクビになるような態度はとれない。逆に今回騒動になった古賀氏などは、官庁においても、マスコミにおいても、クビになることを恐れず自分の主張を貫いた「マスコミの外の人」なのである。
 本来なら、マスコミは自分自身は中立でありつつ、こうした「マスコミの外の人」をコメンテーターなどとして起用し、総体としてバランスのとれた放送をするべきものだ。しかし現在のマスコミはそうした矜持を完全に失っている。
 その背後にはもちろん「体制」の大きな変化がある。マスコミは体制崩壊につながるような主張はしない。やれるのは体制の内部にいる個人や潮流に対する批判までである。しかし少なくともそれがマスコミの「権力のチェック」と呼ばれる役割であり、社会的な存在意義であった。だから第二次安倍政権の発足以前、民主党政権時代やその直前の自民党政権時代には、古賀氏のようなスピーカーは排除されることはなかったし、むしろ歓迎されていた。
 だが現在の安部氏のような絶対的権力者が現れてしまうと、もはや一政治家、一潮流がイコール「体制」になってしまう。そうなったときマスコミは体制側にあるものを一切批判できなくなってしまうのである。すなわちこれが独裁政権である。
 だがもうひとつ指摘しておくことがある。この文章の前半で「マスコミが反体制的でも存立しうるのは、ただ政治革命=体制の転覆・交代の時期だけ」と書いた。逆に言えば、人々がマスコミを信じることが出来なくなり、マスコミが見限られてその存在意義を問われるようになったとき、それは実は体制が根底から揺るぎ始める時でもあるのだ。正直に言って、ぼくはただ体制が崩壊するということが必ずしも我々にとって良いことだとは思わない。その次に来るべき体制が社会の内部に醸成されないうちに体制が崩壊したら、大きな悲劇だろう。しかし現状はどのような結果に向かうにせよ、大きな分岐点に至ったと考えざるを得ない。
 マスコミがこのまま大政翼賛化し政府のプロパガンダになっていくとしたら、良くも悪くも「戦後」は終焉する。

さよならキンキン

2015年04月17日 23時26分07秒 | Weblog
 ぼくにとって愛川欽也は、好きとか嫌いとかを越えた「隣の兄ちゃん」だった気がする。
 愛川欽也との「出会い」は、たぶん「おはよう子供ショー」のロバくんか、「スーパーマン」の吹き替えだったろう(今はもう無くしてしまったが、昔は大平透と愛川欽也、そして彼の妻だった女優が一緒に写っている「スーパーマン」のアテレコ風景の写真が掲載された本を持っていた)。もちろん、そのころに愛川欽也の名前を知るわけもないのだが。
 ぼくの子供の頃の遊び相手に年上はいなかった。だいたい近所の年下の女の子たちと、さらにその下の弟たちが、ぼくのいつもの遊び仲間だった。今から思うと不思議だが、中学に入っても先輩とのつきあいというものが全く無かった。
 そんなとき深夜放送のパックインミュージックで再び出会った愛川欽也は、ぼくにとって初めてと言ってよい年上の「友達」だったのだと思う。パックの看板は言わずと知れた那智・チャコだったけれど、ぼくは那智・チャコよりも絶対的にキンキンに引かれた。キンキンのパックは自己陶酔と言っても良いくらいのべたべたのロマンチズムにあふれていた。そしてその一方で黒柳徹子や永六輔などのゲストが大勢出演し、戦後リベラルの思想を、まさにそれこそがスタンダードにあるものとして語り尽くしていたのだった。
 おそらくそれはぼくにとって文化サロンであり、カルチャースクールでもあった。受験勉強の眠気覚ましに聞いていた深夜放送が、今となってはむしろそちらの方が重要な勉強だったのかもしれないと思う。
 今でも滅多にタレント本は買わないが、愛川欽也の「太陽のエトランゼ」と白石冬美の「妖精志願」は高校時代の愛読書になった。間違いなく愛川欽也はぼくに最も影響を与えた「師」の一人である。
 やがて愛川欽也はしだいに「偉く」なっていった。今風に言えば「略奪愛」であったうつみみどりとの電撃結婚も、多感な時期だったぼくにとってはちょっとしたショックだった。いつかぼくは愛川欽也から「卒業」していた。
 キンキンの番組を見ることも無かったし、正直言って俳優としても監督としても司会者としても、ぼくはあまり評価しない(ただ、ジャック・レモンの声だけは彼でなければいけないと思うが)。だからと言ってその存在感は常に感じざるを得なかった。最近は全然会うこともないが、ちょっとうっとうしくて、でも懐かしい「隣の兄ちゃん」、それがぼくにとっての愛川欽也であった。
 思いついて以前録画しておいた「さよならモロッコ」を少し見てみた。むちゃくちゃな、ただ思いだけが先走った「ひどい」映画だが、でもこれこそが愛川欽也だという暑苦しいくらいの匂いが、詰まりに詰まっていた。

上西議員パッシングに異論あり

2015年04月08日 17時23分44秒 | Weblog
 維新の党の衆議院議員である上西小百合氏に対するバッシングが激しい。比例代表で当選した二回生議員である上西氏が、国会本会議を仮病の診断書で欠席し、あちこち飲み歩いたあげく、自分の秘書と不倫旅行をしていたというのである。
 あらかじめ言っておくが、ぼくは上西氏が国会議員としての適正を持っているかどうか全く分からない。そもそも維新の会で出馬した時点でダメなんじゃないかと思うし、正直言えばこんなろくでなしの極右議員など消えてもらいたいのが本音である。とは言え…

 やはり政界・マスコミがよってたかって徹底的に叩くという構造には強い違和感を感じる。前にも似たようなことを書いた気がするが、いったいいつから日本はこんな風な一方的に誰かを血祭りに上げるような文化になってしまったのだろう。
 大阪維新の会代表で維新の党最高顧問で大阪市長である橋下徹氏は、上西氏を「娘」扱いした上で、国会議員の三千万円の報酬によって堕落したというような批判をした。しかしもちろん三千万円もの大金を受け取っているのは上西氏だけではない。むしろ他の議員はもっといろいろ大きな収入を得ているかもしれない。まだ議員としての影響力の少ない上西氏はどちらかと言えば少ない方だろう。
 もし橋下氏の指摘するように現在の議員報酬が議員としての自覚を失わせるほどの高額であるというのなら、維新の党は国会議員の歳費や政党助成金を自主返納したらどうだろう。橋下氏の論理から言えば、そうすれば国会議員の質が向上するはずだ。

 確かに仮病を使って衆議院本会議の予算案採決に欠席するなど言語道断である。しかし、そうは言っても現実の国会は自民党の圧倒的数の力に支配され、最終的な決議はもはやただのセレモニーでしか無くなっている。残念ながら現状の国会は何かを決議する以前の段階で、野党議員が質問などを通じて安倍政権の実情を問いただすことだけに意義があると言ってよい状況だ。
 はっきり言って、上西氏が、と言うより維新の党が採決に全員欠席したところで、別に何も変わりはしない。そこに出席するのはただ自分の立ち位置を明らかにするためだけの意味しかない。(もちろんそれはそれで大変重要だが)
 それでは誰がこんなに緊張感のない国会を作り出したのか。橋下氏に代表される右派系言論人がリベラルを放逐し、安倍極右政権を誕生させたからではないか。そもそも維新の党と自民党とどんな政策の違いがあると言うのか。

 今回おこなわれた上西議員の除名処分は、明らかに橋下氏の画策である。ひとつには現在の統一地方選で大阪維新の会のイメージダウンを防ぐためだ。この五月に行われる橋下氏肝いりの大阪都構想に関する住民投票で、だんだん橋下氏側の旗色が悪くなって来ている。ここでこれ以上のイメージダウンをしたくないのが橋下氏の本音だろう。
 もうひとつは、維新の党の中で橋下氏の影響力を少しでも増やしたいという思惑がある。上西氏が辞職すれば、その代わりに繰り上がるのは橋下氏に忠実な人物だそうだ。いわゆる東西、維新対結いの勢力あらそいの中で、国会内に橋下氏の「忠犬」が少しでも多ければ橋下氏としては有利である。上西氏のスキャンダルはまさに災い転じて福となす絶好のチャンスでもあったのだ。

 もちろん橋下氏の上西氏批判はそうでなくても強引である。橋下氏のニュアンスには、その辺の娘っ子がなんとなく選挙に出て、有頂天になって堕落したというストーリーが隠されているが、事実は違う。彼女は橋下氏が開いた維新塾の塾生であり、さらにその中から選抜された、いわば橋下氏の眼鏡にかなった候補だったのである。しかも二度も公認しているのだ。もし上西氏が失敗したのだとしたら、その失敗は橋下氏の失敗である。いったい橋下氏は彼女に何を教え、そして何を見て合格点を与えたのか。それとも自分の目は節穴だと懺悔でもするだろうか。

 マスコミや政界では比例区で選出された議員だから、党を離れたら辞職すべきと言っている。確かに普通ならそれはそうだろう。しかしその論理で言えば、政党の公認を受けた候補はみな政党を離れたら議員辞職すべきと言うことになるのではないだろうか。なぜ選挙区選出なら許されるのか。
 しかも上西氏は比例復活である。そもそもが選挙区から立候補した候補であり、彼女の「志」が選挙区で選ばれた議員と違うと言うことは出来ない。もし選挙区選出議員と比例復活議員の身分が異なるなどと言ったら(現実には多くの党の中に身分格差があるらしいが)、それこそ公序良俗に反するのではないのか。
 だいたいにおいて、上西議員の選挙区は誰が決めたのか。そして比例名簿に掲載することは誰が決めたのか。本当のことは知らないが、もしかしたら党の都合で勝目が薄いかもしれない選挙区に割り当てられたのかもしれない。党の戦略として比例復活させるポジションだったかもしれない。はじめからそういう約束で上西氏が党の選挙戦術を飲んだとしたら、それは100%彼女の意志ではなかった可能性がある。
 その時点では上西氏と維新の党の間に信頼関係があったから、別にそれで双方が納得できたろうが、このような事態になった場合、その責任が一方的に議員の方に押しつけられるのだろうか。

 おそらく上西氏が除名処分になった最大の理由は、橋下氏や党幹部の言いなりにならなかったからである。報道によれば彼女は党の懇親会や勉強会をよくボイコットしたそうだ。また橋下氏に対して軽口を叩くということもあったそうだ。ようするに彼女は反権威的で、また自己主張が強い人なのである。
 だから彼女は自分が悪いなどは全く思っていないのだ。それは空気を読めないとも言えるし、生意気だと言えるかもしれない。しかしそれは悪いことなのだろうか。
 はっきり言って、自分の頭で何も考えず、自分の意志で何も行動できず、幹部や先輩の言いなりになっている議員と比べたら、まだましだと、ぼくは思う。そんな議員が「優等生」と言われ、党の中で階段を上っていき、やがて三千万円どころではない多額のカネを自由に出来る身分になっていく。そういう構造が「真っ当」だなどとは絶対に思えない。
 上西議員と同じ程度の議員は、おそらく沢山いるはずだ。ただ頭を低くしているから見えないだけである。というより、頭を上げる気力も能力も無いのだ。ほとほと我々の国会は悲しいまでにレベルが低い。

テレビ朝日の変質に思う

2015年04月01日 23時23分02秒 | Weblog
 なかなか更新が出来ない。今はいろいろなことが(必ずしも重要なことばかりではないが)滞っていて、「書く」という気力が出てこない。
 さて、四月の年度替わりで、テレビ番組も新編成になった。もちろんそんなに多くの番組を見ているわけではないので、見方が偏ってしまうのは否めないが、テレビ朝日の報道番組はかなりひどくなったと思う。
 すでに夕方のニュース番組では数年前から一見リベラルだが、実はかなり保守色の強いコメンテーターが固定するようになり、昨年からは昼のキャスターが橋本大二郎になった。そしてこの四月からは、古舘対古賀の生バトルが象徴するように夜の報道ステーションからも、また朝のモーニングバードからも政府を公然と批判するコメンテーターが消えてしまった。(日曜のサンデースクランブルだけは極右の黒鉄ヒロシが「鉄板」でメインコメンテーターとして居座っているが)
 ついでにいえば、昼のワイドスクランブルではNHK会長を批判した水谷修氏のコメントについて謝罪をした。どうしても印象としては常にテレビ朝日が権力側から圧力をかけられている感じが強い。
 いったい何が、というより誰が変質してきたのかということは明らかである。キャスターやコメンテーターたちが主張や立場を変えたのではない以上、変質したのはテレビ局の方である。一方的にどんどん自民党権力に押しつぶされているのである。
 もうただテレビを見ているだけで腹が立つような状況だ。しかし、逆に考えると、それだけ権力者たちに余裕が無くなっているのだとも言える。かつてなら自民党や政府への批判はどんなに強烈にされても何とか出来るという自信と実力を持っていたものが、これだけ国会で圧倒的な力を持ったにも関わらず、現状ではほんの些細な批判にも神経をとがらせて叩いていかねばならないほど、権力者は切羽詰まった恐怖感を抱いているのである。
 これはようするにソ連(ロシア)や中国などと同じと言うことだ。一見権力者は絶大な力を握っているように見えるが、実はそれは危ういバランスの上にかろうじて立っているだけで、何かきっかけがあったら一気に崩壊するということを権力者自身がよく知っているのである。だからこそ言論弾圧、言論統制をし続けるしかないのだ。まさに現在の日本はそうした状況にあるのだと言って良い。
 しかしもちろんそれをただ権力者が追い詰められているなどと楽観して見ていることは出来ない。アラブの春が象徴的に示しているように、徹底した独裁の中で健全な反対派が育っていない社会では、いったん政権が崩壊したらその後はよりひどい混沌しか生まれない。おそらく現在の日本も実はそれにかなり近い状況にある。日本人には自分のことを客観的に見る能力が著しく欠けている。他国のことを他山の石として見ることが出来ないのだ。
 世界的視点から見たらどれほど日本が危険な状況にあるのかわかるはずだが、多くの日本人は一向に無頓着である。ただただ内側から外をうかがっているだけだ。しかもそののぞき窓があまりにも狭くてアメリカと中国、朝鮮半島くらいしか見えていないのである。
 こんなときこそ斬新で革新的なオピニオンが現れるべきなのだが、知識人たちも劣化していて、「大きな物語は終わった」みたいなことしか言えていない。だからこそ、未来はあなたにかかっている。あなたが世の中の「常識」から自分を解き放ち、自分の頭で考えて、新しい時代を生み出すのだと決意するかどうかにかかっているのである。