同時に自民党に呼びつけられたNHKとテレビ朝日が、今日同時に謝罪見解を発表した。同じ日に同じようなことを言うのはあまりにも不自然である。何もかもがお膳立てされ、誰かの書いたシナリオ通りに進められている。これが政府によるマスコミのコントロールでなくて何なのか。自主性、独立性というマスコミの矜持はどこにいったのか。
そもそも「圧力ではない」などという自民党の言い分が通るはずがない。しかしマスコミはこの問題を、まさに自分自身の存立基盤の最も重要な問題であるにもかかわらず、徹底追及することを回避してしまった。
一方であの時、産経は起訴されて出獄を許されなかった前ソウル支局長が安倍総理にお礼の訪問をしていた。確かに外務省などが折衝したことは事実だろうが、しかし少なくともマスコミである以上、いくら出獄に力を借りたとしても総理大臣や政治家に公然と頭を下げに行くのは問題があった。
これが言論弾圧なのだということに気づかねばならない。
ぼくたちは何となく政府の圧力とか言論弾圧とか言う言葉を使ってきたけれど、まさにこの状況こそが国家権力による言論弾圧の形なのだと言うことをちゃんと理解する必要がある。おそらく遠くから見ていれば、この状況のあまりの異様さに気づくのだろうが、自分の身の回りで起きていることは、逆になんとなく見逃してしまうと言うことがある。かつて、日本が日中戦争から太平洋戦争へと、あまりにも無謀な戦争に突入していった時、多くの人はそのことの異様さに気づかなかった。わかっていたのは海外の人々だった。
今日4月28日は「主権回復の日」なのだという。敗戦後の日本が再独立を認められた日というけれど、沖縄においては「屈辱の日」である。日本の再独立の人身御供として沖縄は米軍に献上されたのだ。沖縄では辺野古基地建設反対を掲げて、この日に抗議する集会が開かれた。
同じ日に安倍総理は訪問中の米国で、オバマ大統領とリンカーン記念館を訪ねて人種差別廃絶を訴えたキング牧師を悼み、その後ホロコースト記念館で杉原千畝が救ったユダヤ人と面会した。
差別排外主義者たちに支えられ、沖縄県民を二級国民として差別支配する安部氏が、このような演出によってまるで全く逆のイメージが作られようとしていることには、違和感を通り越して怒りを感じざるを得ない。
(もちろん杉原は政府の指示ではなく個人の判断でユダヤ人を助けたのであって、その当の日本政府はユダヤ人を虐殺したナチス・ドイツを支持し、同盟し、共闘していたのである。更に言えば、そのとき日本軍は中国や朝鮮半島で虐殺を繰り返していたのである)
しかし一番大きな問題はもちろん日米軍事同盟の強化、集団的自衛権行使を前提とした体制作りである。
すでにアメリカでは日本が憲法九条を事実上放棄し、集団的自衛権を発動し、米軍の下請け部隊として実戦投入されることが既成事実のように語られている。日本国内ではいまだに国会での議論が何一つ始まってさえいないのにである。そして辺野古基地建設も既定路線として絶対変更しない態度表明がなされた。沖縄では何度も民意が示されているというのにである。
これは何を意味するのか。
そのひとつは、日本の本当の憲法は日本国憲法ではなく、日米安保条約であるということだ。憲法が安保の内容を規定するのではない。安保条約の都合によって憲法は好き勝手に変更できるということが公然と示されているのだ。
そしてもうひとつは、これこそが独裁政治だと言うことである。国会よりも総理大臣の決定が優先され、国会はただその追認をしていくだけの機能に成り下がった。このことに加えて、裁判所が最も重要な違憲問題について判断を拒否したり、一票の格差問題のように仮に違憲の判断を下しても政府がこれをずっと無視し続ける状況は、事実上、三権分立の否定以外の何ものでもない。これを独裁と言わずしてなんと言えるのか。
言論弾圧と同じように、これはきわめて異様な事態なのだが、日本人はこのことの異様さをまるで感じていない。むしろそのことの方が更に異様だとも言えるかも知れない。
繰り返しなるがもう一度指摘する。すでに言論弾圧が激しく行われている。独裁政治が暴走している。それは未来の危険ではなく、まさに今どんどん進行している現実の危険なのである。
そのときマスコミ・ジャーナリズムは完全に口を塞がれ、何も見ないふり状態になっている。いや、むしろかつてのマスコミのように政府の手先として政府の方針を美化し、宣伝し、刷り込むための機関と化している。ただそのやり方が21世紀的に洗練されているだけでしかない。
パニック映画のゾンビのごとく増殖する右翼、ナショナリスト、差別排外主義者たちは、政府方針に異論を唱え、反対する者へ個別的・暴力的・精神的攻撃を激化させている。社会全体がかつてのスターリン主義やマッカーシズムのように「社会の敵」をねつ造し排除しようとしている。
そんなときに、いわゆるリベラルや左翼はこうした状況と真正面から闘うことが出来ず、相手側の論理に巻き取られ、後退し続けている。まさに「地獄への道は善意で敷き詰められている」。それはまるで銃で武装した悪漢の前に立ち素手で説得を試みる賢者のようだ。彼らは全く無力である。
ここまで追い詰められてしまうと、状況は質的な変化を見せてくる。もはや既存の平和勢力に期待しない、できない人が、もはや自分自身を投げ打って一矢を報いようと無謀な突撃を始める。
安倍政権になってから複数の抗議自殺決起が起きた。今月には例の官邸サンタのドローン「攻撃」も起きた。ここで特徴的なのは、こうした人たちの多くが既存の運動や組織と無関係だったり、関わりが薄かったりしている点だ。官邸サンタは自らをローンウルフと呼んでいる。
このことはもうひとつの危険をはらんでいる。独裁の暴走に対抗する反対者の暴走である。組織という歯止めが無く、戦略的展望もない個人の突出は、たとえばかつての反日武装戦線「狼」の爆弾闘争や現在のイスラム国シンパによるホームグロウンテロのように、敵も味方も区別がつかなくなるような混沌とした暴力のエスカレートを生むようになるかもしれない。
こうした状況を防ぐための方法はひとつしかない。人々が社会として危険な独裁政治や言論弾圧を拒否し、跳ね返し、「自由・平等・博愛(友愛)」を自らの手で獲得することだ。その中で「他者」を自らの内側に取り込み、「類」を形成していくこと、それ以外にはない。