まったく知らなかったのだが、先日ぼくが天皇問題で書いたこととそっくりな提案が宮内庁から出ているという週刊誌の記事があるらしい。なにやらもめているようだが、読んでいないので誰が誰に対して何を求め何を怒っているのか、全然わからない。
いずれにしても、ぼくのような凡庸な人間の考えることなど必ず誰かが先に考えているわけで、そういう意味では別にぼくの主張がさほどエキセントリックなものではないということなのだろう。
まあ、それはともかく。
本当のことを言えば、ぼくはずっと反天皇制主義者だ。
もう大昔といえるくらい昔、大学の卒業論文を提出した日に、表紙の提出年度を西暦で書いて提出したら大騒動になった。大学事務局が騒ぎ、学部や研究室の教授が何人もかかって、年号に書き直すよう「説得」された。西暦では論文を受け付けることが出来ず、そうすると卒業できないと言うのである。
事務局とはいろいろな問題でずっともめていたが、教授とは良好な関係だった。彼らも悪意があったわけではない。ただ「制度上」形式だけ整えてくれればよい、それだけの問題ではないか、と言われた。
実を言うとこちらにもちょっと微妙な問題があって、と言うのも、ぼくの論文のタイトルが「明治前期の東京語」だったのである。
もちろんタイトルの「明治前期」は日本の文化史における区分であって、別にそれが自分自身で年号を使うか使わないかという問題とは別問題だったのだが、「タイトルに明治を使っているんだから、提出年を昭和で書いても良いではないか」と言われたりして、結局不本意ながら表紙に紙を張って、提出年の西暦を昭和に直した。論文自体は珍しいテーマであったこともあって、ありがたいことにどの教授からも高評価を受けた。
ちなみに翌年卒業した友人は、西暦で書いて事務局の受付窓口の中に放り込んでそのまま帰ってきたら、別に何の問題も無く受け付けられていたと言っていた。
その当時はこの事件がとても悔しくて仕方なかったのだが、もう今となっては悲しい笑い話である。
これを書くと時代が特定されてしまうけれど、この事件が起きたのは「元号法」が制定されてから間もない時期のことである。
それまで戦後の日本人は年を表現するのに、年号を使っても西暦を使っても全く自由だった。そして元号法が制定されたときも、法律は作ったが国民を縛るものではないと説明されていた。
しかし実態はこういうことだったのである。そのうち様々な公文書、私的文書の用紙の年月日記入欄の先頭にあらかじめ「昭和」と印刷されるようになった。ぼくはかなりの期間、わざわざこの「昭和」を横線で消して西暦を書き、ほんとに小さな抵抗を続けたものだった。
それからおおよそ20年後、今度は「国旗国歌法」が制定された。このときも法律は作るけど国民を縛るものではないのだ、と説明された。しかし今では学校の卒業式で校長、教頭が一般教師の口の動きまでチェックするほどの事態になっている。
言うまでもないが、年号(元号)は天皇が時間をも支配するという思想であり、君が代はどう言おうが天皇賛美の歌である。
戦前・戦中の日本では天皇は現人神(あらひとがみ)とされ逆らったら大変な罰を受けた。それは何のためだったのか。それこそ今の言葉で言えば既得権者の権益を確保するためであり、そのために庶民の反発、反抗を封じ込め、ついには日本を無謀な戦争に突入させるところまでに至った。
しかもその戦争で多数の人の命を失わせ、日本人にも世界の人々たちにも大きな苦痛を与えたのに、ほんのわずかの責任者にだけ責任を負わせて、ほとんどの政治家、官僚、資本家はたいした傷も負わずに生き延び、戦後ほとぼりを冷ましたら皆復活してしまった。
日本は間違っていなかったという右翼の主張はつまりこうした輩の責任を無かったことにしようということに他ならない。
だから多くの日本人が天皇制に嫌悪感を覚え、疑問を持ち、異議を唱えたのは当然のことだった。
ただよく考えてみると、ぼく自身は別に最初から反天皇制でも反体制でもなかった。
子供のころ育ったのは埼玉県で、当時は日教組反主流派が強い力を持っていた。そのころの日教組・高教組は主流派が社会党系で反主流派は共産党系だった。
そういうこともあって周りにいた先生には熱心な組合活動家が多かった。ほとんどの先生は良い先生だった。逆に組合活動に反発しているような先生には尊敬できる先生がいなかったような気がする。
しかし、ぼくは子供の頃から自分で納得できないことを押し付けられるのが嫌いだった。そのころぼくが通学していた学校では行事のときに君が代を歌うことは無かった。教わったことも無かった。
小学生の頃だから歌の意味も歴史もわからず、どうして君が代を歌わないのかが理解できなかった。だからぼくはたぶん一人で大声を出して君が代を歌っていた。
おそらく戦後、1970年代くらいまでは、世の中全体も今とはずいぶん雰囲気が違った。おじさんたちは軍歌が好きで酒を飲むと軍歌を歌うというのが「デフォ」だった(父は歌わなかったが)。
一方で天皇や皇室に対する感覚も今とはずいぶん違った。美智子皇后(当時は皇太子妃)は「ミッチー」と呼ばれ、紀宮(現黒田清子氏)は「サーヤ」と呼ばれた。それは本当に何の悪意も無く、親しみを込めて愛称で呼ばれていたのである。
ぼくは直接は知らないが戦後すぐには天皇家を一般家庭のように描いたマンガもあったそうだ。
もちろんメディアによるこうした天皇と皇族の伝えられ方の背景には、日本全体に強く残る天皇制アレルギーを和らげるために意図的に作られたイメージ戦略があったと思われる。まだ昭和天皇が健在で、それはつまり天皇の戦争責任の問題が生々しい問題として残っていたからでもある。
しかしあえて言うが、そういう政府・政権の思惑というものがあったとしても、少なくとも天皇や皇室に対して「神聖にして侵すべからず」(大日本帝国憲法・第三条)という雰囲気は強くなかった。おそらく現在よりずっと明るく軽やかな感じだったと思う。
もちろんすでに「風流夢譚事件(嶋中事件)」のような事件も起こっていて、マスコミはナーバスになり右傾化が始まっていたが、それでも今のような暗く重苦しい感じではなかった気がする。
天皇と天皇制を巡る話は、長くならざるを得ない。とりあえず今回はここまでと言うことで。
いずれにしても、ぼくのような凡庸な人間の考えることなど必ず誰かが先に考えているわけで、そういう意味では別にぼくの主張がさほどエキセントリックなものではないということなのだろう。
まあ、それはともかく。
本当のことを言えば、ぼくはずっと反天皇制主義者だ。
もう大昔といえるくらい昔、大学の卒業論文を提出した日に、表紙の提出年度を西暦で書いて提出したら大騒動になった。大学事務局が騒ぎ、学部や研究室の教授が何人もかかって、年号に書き直すよう「説得」された。西暦では論文を受け付けることが出来ず、そうすると卒業できないと言うのである。
事務局とはいろいろな問題でずっともめていたが、教授とは良好な関係だった。彼らも悪意があったわけではない。ただ「制度上」形式だけ整えてくれればよい、それだけの問題ではないか、と言われた。
実を言うとこちらにもちょっと微妙な問題があって、と言うのも、ぼくの論文のタイトルが「明治前期の東京語」だったのである。
もちろんタイトルの「明治前期」は日本の文化史における区分であって、別にそれが自分自身で年号を使うか使わないかという問題とは別問題だったのだが、「タイトルに明治を使っているんだから、提出年を昭和で書いても良いではないか」と言われたりして、結局不本意ながら表紙に紙を張って、提出年の西暦を昭和に直した。論文自体は珍しいテーマであったこともあって、ありがたいことにどの教授からも高評価を受けた。
ちなみに翌年卒業した友人は、西暦で書いて事務局の受付窓口の中に放り込んでそのまま帰ってきたら、別に何の問題も無く受け付けられていたと言っていた。
その当時はこの事件がとても悔しくて仕方なかったのだが、もう今となっては悲しい笑い話である。
これを書くと時代が特定されてしまうけれど、この事件が起きたのは「元号法」が制定されてから間もない時期のことである。
それまで戦後の日本人は年を表現するのに、年号を使っても西暦を使っても全く自由だった。そして元号法が制定されたときも、法律は作ったが国民を縛るものではないと説明されていた。
しかし実態はこういうことだったのである。そのうち様々な公文書、私的文書の用紙の年月日記入欄の先頭にあらかじめ「昭和」と印刷されるようになった。ぼくはかなりの期間、わざわざこの「昭和」を横線で消して西暦を書き、ほんとに小さな抵抗を続けたものだった。
それからおおよそ20年後、今度は「国旗国歌法」が制定された。このときも法律は作るけど国民を縛るものではないのだ、と説明された。しかし今では学校の卒業式で校長、教頭が一般教師の口の動きまでチェックするほどの事態になっている。
言うまでもないが、年号(元号)は天皇が時間をも支配するという思想であり、君が代はどう言おうが天皇賛美の歌である。
戦前・戦中の日本では天皇は現人神(あらひとがみ)とされ逆らったら大変な罰を受けた。それは何のためだったのか。それこそ今の言葉で言えば既得権者の権益を確保するためであり、そのために庶民の反発、反抗を封じ込め、ついには日本を無謀な戦争に突入させるところまでに至った。
しかもその戦争で多数の人の命を失わせ、日本人にも世界の人々たちにも大きな苦痛を与えたのに、ほんのわずかの責任者にだけ責任を負わせて、ほとんどの政治家、官僚、資本家はたいした傷も負わずに生き延び、戦後ほとぼりを冷ましたら皆復活してしまった。
日本は間違っていなかったという右翼の主張はつまりこうした輩の責任を無かったことにしようということに他ならない。
だから多くの日本人が天皇制に嫌悪感を覚え、疑問を持ち、異議を唱えたのは当然のことだった。
ただよく考えてみると、ぼく自身は別に最初から反天皇制でも反体制でもなかった。
子供のころ育ったのは埼玉県で、当時は日教組反主流派が強い力を持っていた。そのころの日教組・高教組は主流派が社会党系で反主流派は共産党系だった。
そういうこともあって周りにいた先生には熱心な組合活動家が多かった。ほとんどの先生は良い先生だった。逆に組合活動に反発しているような先生には尊敬できる先生がいなかったような気がする。
しかし、ぼくは子供の頃から自分で納得できないことを押し付けられるのが嫌いだった。そのころぼくが通学していた学校では行事のときに君が代を歌うことは無かった。教わったことも無かった。
小学生の頃だから歌の意味も歴史もわからず、どうして君が代を歌わないのかが理解できなかった。だからぼくはたぶん一人で大声を出して君が代を歌っていた。
おそらく戦後、1970年代くらいまでは、世の中全体も今とはずいぶん雰囲気が違った。おじさんたちは軍歌が好きで酒を飲むと軍歌を歌うというのが「デフォ」だった(父は歌わなかったが)。
一方で天皇や皇室に対する感覚も今とはずいぶん違った。美智子皇后(当時は皇太子妃)は「ミッチー」と呼ばれ、紀宮(現黒田清子氏)は「サーヤ」と呼ばれた。それは本当に何の悪意も無く、親しみを込めて愛称で呼ばれていたのである。
ぼくは直接は知らないが戦後すぐには天皇家を一般家庭のように描いたマンガもあったそうだ。
もちろんメディアによるこうした天皇と皇族の伝えられ方の背景には、日本全体に強く残る天皇制アレルギーを和らげるために意図的に作られたイメージ戦略があったと思われる。まだ昭和天皇が健在で、それはつまり天皇の戦争責任の問題が生々しい問題として残っていたからでもある。
しかしあえて言うが、そういう政府・政権の思惑というものがあったとしても、少なくとも天皇や皇室に対して「神聖にして侵すべからず」(大日本帝国憲法・第三条)という雰囲気は強くなかった。おそらく現在よりずっと明るく軽やかな感じだったと思う。
もちろんすでに「風流夢譚事件(嶋中事件)」のような事件も起こっていて、マスコミはナーバスになり右傾化が始まっていたが、それでも今のような暗く重苦しい感じではなかった気がする。
天皇と天皇制を巡る話は、長くならざるを得ない。とりあえず今回はここまでと言うことで。