またもや所沢の藤本正人市長である。埼玉県所沢市が今年度から育休を取得した家庭の場合、保育園に通っている園児を退園させるとしたことに対して、保護者が退園差し止めを求めて提訴した。テレビでは市長の「3歳までは母親と一緒に過ごすべき」という発言も大きく取り上げられているが、なぜか2月の住民投票の話題には触れられることがない。
当ブログでも取り上げたのだが、藤本市長は基地の騒音対策として学校の防音化に伴う空調設備の設置方針を廃棄しようとして、住民からの大きな反発を受けた。結局、住民投票となって藤本市長が負けた形になったのだが、今回の問題の根本も全く同じなのだと言うべきである。
育休家庭の保育園退園制度は所沢に限ったものではない。それなのになぜ所沢が問題になるのか。その点をもっとマスコミは突っ込むべきだ。これは明らかに藤本市長の子育てに関する時代錯誤というか、右翼的というか、きわめて不適切な思想に起因している。もし本当に待機児童の解消を根本に据えているのだとしたら、むしろ子育て家庭に優しい政策、子育てを支援する政策であるはずだ。おそらく多くの自治体ではそうした観点からの配慮と話し合いを行っているから、大きな問題にならないのだろう。
しかし藤本市長は逆に、子育てを行政サービスから切り離し、家庭に押しつけたいのだ。それは空調問題と同様に、子供は大人の論理の犠牲になってかまわない、親は子育てで世間に迷惑をかけるなという、子供の人権無視、子供を社会が育てる観点の否定であり、それは単純な行政サービスの割り振りの問題ではなく、藤本氏の思想的偏向、欠陥であると言わざるを得ない。
しかし、それを単に藤本氏が国の子育て支援、輝く女性政策に反していると批判するのも、また早計である。次のような記事が出た。
輝く女性政策、それじゃない感 トイレ?キャラ弁推し?(朝日新聞デジタル 6月26日)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150626-00000012-asahi-pol
まったくもって国の政策自体がこれである。しかもそれを提案しているのが女性の大臣だ。これも具体策をどうするのかというような問題ではなく思想的問題である。効果的かどうかと言うような話ではなく、根本的に方向性が間違っているのだ。
これもずっと指摘していることなのだが、戦後の日本の選挙制度は地縁や人脈、カネではなく、政策で候補を選びましょうと言われてきた。それでもなお、小渕氏のような問題は後を絶たないのが問題だが、しかし、もはや政策で選ぶことにも限界がやってきている。近代の枠組みが限界に来て、だんだんと取り得る政策の選択肢は狭まってきた。選挙に出てくる候補は皆同じような公約を掲げる。また政策というのはパッケージだから、ある一面だけを評価するシングルイシュー的選挙を続けたら政策全体が破綻するしかない。
そこでは結局、政策ではなくその人の思想で選ぶしかないのだと思う。思想的に自分に近い人ならば、いろいろな政策はとるかもしれないが最終的には目指す方向は同じになるはずだ。しかし多くの政治家は自分の思想を隠そうとする。日本の有権者も「思想」に強いアレルギーを持っている。しかしもうそんなことを言っている時ではない。思想が恐いのなら自分で対峙して打ち勝たねばならない。自分の思想を苦しみながら作り上げ、自分の思想を基盤にしてものごとを判断していくしかない。
社会は閉塞していると言われるが、閉塞を作り出しているのもぼくたち自身である。それを打ち破るためには、もう全く新しい価値観、新しい生き方を獲得していく以外にないのだ。
当ブログでも取り上げたのだが、藤本市長は基地の騒音対策として学校の防音化に伴う空調設備の設置方針を廃棄しようとして、住民からの大きな反発を受けた。結局、住民投票となって藤本市長が負けた形になったのだが、今回の問題の根本も全く同じなのだと言うべきである。
育休家庭の保育園退園制度は所沢に限ったものではない。それなのになぜ所沢が問題になるのか。その点をもっとマスコミは突っ込むべきだ。これは明らかに藤本市長の子育てに関する時代錯誤というか、右翼的というか、きわめて不適切な思想に起因している。もし本当に待機児童の解消を根本に据えているのだとしたら、むしろ子育て家庭に優しい政策、子育てを支援する政策であるはずだ。おそらく多くの自治体ではそうした観点からの配慮と話し合いを行っているから、大きな問題にならないのだろう。
しかし藤本市長は逆に、子育てを行政サービスから切り離し、家庭に押しつけたいのだ。それは空調問題と同様に、子供は大人の論理の犠牲になってかまわない、親は子育てで世間に迷惑をかけるなという、子供の人権無視、子供を社会が育てる観点の否定であり、それは単純な行政サービスの割り振りの問題ではなく、藤本氏の思想的偏向、欠陥であると言わざるを得ない。
しかし、それを単に藤本氏が国の子育て支援、輝く女性政策に反していると批判するのも、また早計である。次のような記事が出た。
輝く女性政策、それじゃない感 トイレ?キャラ弁推し?(朝日新聞デジタル 6月26日)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150626-00000012-asahi-pol
まったくもって国の政策自体がこれである。しかもそれを提案しているのが女性の大臣だ。これも具体策をどうするのかというような問題ではなく思想的問題である。効果的かどうかと言うような話ではなく、根本的に方向性が間違っているのだ。
これもずっと指摘していることなのだが、戦後の日本の選挙制度は地縁や人脈、カネではなく、政策で候補を選びましょうと言われてきた。それでもなお、小渕氏のような問題は後を絶たないのが問題だが、しかし、もはや政策で選ぶことにも限界がやってきている。近代の枠組みが限界に来て、だんだんと取り得る政策の選択肢は狭まってきた。選挙に出てくる候補は皆同じような公約を掲げる。また政策というのはパッケージだから、ある一面だけを評価するシングルイシュー的選挙を続けたら政策全体が破綻するしかない。
そこでは結局、政策ではなくその人の思想で選ぶしかないのだと思う。思想的に自分に近い人ならば、いろいろな政策はとるかもしれないが最終的には目指す方向は同じになるはずだ。しかし多くの政治家は自分の思想を隠そうとする。日本の有権者も「思想」に強いアレルギーを持っている。しかしもうそんなことを言っている時ではない。思想が恐いのなら自分で対峙して打ち勝たねばならない。自分の思想を苦しみながら作り上げ、自分の思想を基盤にしてものごとを判断していくしかない。
社会は閉塞していると言われるが、閉塞を作り出しているのもぼくたち自身である。それを打ち破るためには、もう全く新しい価値観、新しい生き方を獲得していく以外にないのだ。