あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

所沢の藤本市長の問題は

2015年06月26日 10時09分06秒 | Weblog
 またもや所沢の藤本正人市長である。埼玉県所沢市が今年度から育休を取得した家庭の場合、保育園に通っている園児を退園させるとしたことに対して、保護者が退園差し止めを求めて提訴した。テレビでは市長の「3歳までは母親と一緒に過ごすべき」という発言も大きく取り上げられているが、なぜか2月の住民投票の話題には触れられることがない。
 当ブログでも取り上げたのだが、藤本市長は基地の騒音対策として学校の防音化に伴う空調設備の設置方針を廃棄しようとして、住民からの大きな反発を受けた。結局、住民投票となって藤本市長が負けた形になったのだが、今回の問題の根本も全く同じなのだと言うべきである。
 育休家庭の保育園退園制度は所沢に限ったものではない。それなのになぜ所沢が問題になるのか。その点をもっとマスコミは突っ込むべきだ。これは明らかに藤本市長の子育てに関する時代錯誤というか、右翼的というか、きわめて不適切な思想に起因している。もし本当に待機児童の解消を根本に据えているのだとしたら、むしろ子育て家庭に優しい政策、子育てを支援する政策であるはずだ。おそらく多くの自治体ではそうした観点からの配慮と話し合いを行っているから、大きな問題にならないのだろう。
 しかし藤本市長は逆に、子育てを行政サービスから切り離し、家庭に押しつけたいのだ。それは空調問題と同様に、子供は大人の論理の犠牲になってかまわない、親は子育てで世間に迷惑をかけるなという、子供の人権無視、子供を社会が育てる観点の否定であり、それは単純な行政サービスの割り振りの問題ではなく、藤本氏の思想的偏向、欠陥であると言わざるを得ない。

 しかし、それを単に藤本氏が国の子育て支援、輝く女性政策に反していると批判するのも、また早計である。次のような記事が出た。

輝く女性政策、それじゃない感 トイレ?キャラ弁推し?(朝日新聞デジタル 6月26日)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150626-00000012-asahi-pol


 まったくもって国の政策自体がこれである。しかもそれを提案しているのが女性の大臣だ。これも具体策をどうするのかというような問題ではなく思想的問題である。効果的かどうかと言うような話ではなく、根本的に方向性が間違っているのだ。

 これもずっと指摘していることなのだが、戦後の日本の選挙制度は地縁や人脈、カネではなく、政策で候補を選びましょうと言われてきた。それでもなお、小渕氏のような問題は後を絶たないのが問題だが、しかし、もはや政策で選ぶことにも限界がやってきている。近代の枠組みが限界に来て、だんだんと取り得る政策の選択肢は狭まってきた。選挙に出てくる候補は皆同じような公約を掲げる。また政策というのはパッケージだから、ある一面だけを評価するシングルイシュー的選挙を続けたら政策全体が破綻するしかない。
 そこでは結局、政策ではなくその人の思想で選ぶしかないのだと思う。思想的に自分に近い人ならば、いろいろな政策はとるかもしれないが最終的には目指す方向は同じになるはずだ。しかし多くの政治家は自分の思想を隠そうとする。日本の有権者も「思想」に強いアレルギーを持っている。しかしもうそんなことを言っている時ではない。思想が恐いのなら自分で対峙して打ち勝たねばならない。自分の思想を苦しみながら作り上げ、自分の思想を基盤にしてものごとを判断していくしかない。

 社会は閉塞していると言われるが、閉塞を作り出しているのもぼくたち自身である。それを打ち破るためには、もう全く新しい価値観、新しい生き方を獲得していく以外にないのだ。

TPPは第二の安保、第二の憲法になる

2015年06月24日 23時21分38秒 | Weblog
 アメリカ合衆国上院で大統領に強い交渉権限を与えるTPA法案が可決される見通しとなった。日本政府は来月にもTPPの妥結があると言っている。
 このブログでは何度も指摘してきたことだが、日本を支配する憲法は日本国憲法ではなく日米安保条約である。TPPは第二の安保、第二の日本の憲法になってしまう危険が大きい。
 憲法では戦争と軍隊の保持を放棄するとなっている。しかしそれを覆させたのは米国であった。自衛隊は米国が朝鮮戦争を闘うための後方部隊として作られた。海外派兵もアメリカの強い要請に基づくものだった。憲法で明示されている国民の権利は日米地位協定によって無効化されている。まさに日米安保は憲法の上に存在する憲法以上の法規、事実上の日本の憲法なのである。そしてTPPは企業が関税障壁であると言えば、国内法規がどうであれ、日本国内の様々な規制の存在が提訴されて違法認定される危険性をはらんでいる。
 国内においても原理主義的な規制反対派が大きな発言力を持っているが(一言付け加えれば既得権益が悪いのではない。どのような権益であれ、新しい権益でも、問題なものはあるのだ)、規制はそれなりの理由を持って作られてきたのであって、小泉改革のひどさを知っている者は、規制改革というのが日本のあらゆるタガを緩めてしまう危険性を秘めていることを知っている。まさにそれが、いよいよ日本国民の意思を無視する形で強行されるのである。第二の安保と言うしかない。
 そうであるならば、TPPは安保の下、日本国憲法の上に来る日本の「第二の憲法」と呼ぶべきものになるだろう。これがグローバリズムというものなのだ。インターナショナリズム(国際主義)は各国・各地域・各民族の独立性を前提にした上での国際連帯運動であるが、グローバリズムは米国のナショナリズムを世界中に広げていく運動である。今まではグローバリズムで飲み込まれていくのは途上国だけだと高をくくっていた人もいるかもしれないが、これからはいよいよ日本が丸呑みされることになるのである。このことは忘れない方がよい。

沖縄慰霊の日に反戦を考える

2015年06月23日 23時27分05秒 | Weblog
 しばらく更新が滞っていた。正直、ぼくは文章能力が低いので、ひとつの文章を書くのにずいぶん時間がかかる。それだけではなく、一度に一つのことしかできないという欠陥もあるので、毎日の生活のリズムが乱れたり、他にやるべきことが入ってくると、とたんにブログが書けなくなってしまうのだ。今回は母の体調問題や自治会関係の仕事、自分自身の体調問題などがあって、ペースがつかめなくなった。

 それはともかく。

 沖縄慰霊の日である。沖縄戦の「悲劇」をマスコミは取り上げ、沖縄に「同情」するが、なかなかそれ以上に突っ込むことはしない。一般の人と比べものにならないような巨額の年収を得ているアンカーマンが、さも重大そうに問題を語るが、我々はそのニュースショーが自民党からの圧力にさんざん屈してきたことを知っている。別に非難するつもりはない。そうしなければ報道することさえ出来なくなるのだろう。
 しかしマスコミはあまりにも本質から離れすぎている。それはもちろん国民の民度が、本質と向き合えるほどのものではないと言うことでもある。たとえ知識が乏しくても、頭が良くなくても、かつての日本の国民の意識はもっと高かった。仮にただの直感に過ぎないとしても人々の意識は本質に迫っていた。だがもうそのような質は失われてしまった。おそらく裕福になってしまったからだろう。守るべきものが大きくなりすぎ、それがさらなる欲望を生み出しているのだろう。
 本質は不平等にある。いくらテレビキャスターがスマートに「反戦」を語っても、それは条件付きの「反戦」でしかない。ようするに自分の現在の権益が守れる限りにおいての「反戦」でしかないのだ。それはもちろん彼だけではない。日本国民が皆そうだと言ってよい。しかしそれは不平等の固定化、もしくは拡大化を意味する。
 競争社会である。同じキャスターが「日本の国際的競争力をいかに高めるか」を語る。競争力とは何だ。競争とは何だ。競争は勝負であり、勝つ者と負ける者を作る。勝てなければ生きていけないのだとしたら、人は当然ながら必死で勝とうとする。しかしそれは本当にヒトという動物にとって本質的な生き方だったのだろうか。
 競争の行き着く先が戦争である。戦争の本質は不平等の形成、もしくは固定化、もしくは拡大にある。本当に本質的に戦争を無くそうと思うのなら、不平等を解消し、平等な世界を作る以外にない。それは現代日本人にとっては自分の特権を捨てることを意味する。その本質について何も考えないところで、戦争について語っても結局は意味がない。そういう論議はいざというときに結局、戦争容認、戦争賛成に巻き取られるしかない。そこまでわかった上で、そこまで語った上での反戦論をどれだけの人がしているのか。安倍政権の戦争国家化を誰も止められない理由は、そこにこそあるのだ。

地震と反省

2015年06月01日 11時38分30秒 | Weblog
 5月30日の午後8時半頃、小笠原諸島西方沖を震源とするマグニチュード8.1の地震があった。大変特殊な地震で深さ682kmというから、どうやら平面距離に直すと東京から広島とか函館くらいの遠さ(深さ)のところで起きたものらしい。途方もなくて感覚的にはとらえきれない(ちなみに3.11は25キロくらい)。
 トリビア的に言えば「マグニチュード」というのは地震自体のエネルギーを表す単位だが、いろいろな計算式があるらしくそれによって違ってくるのだという。ただ基本的には対数計算なので、マグニチュード9と8では、そのエネルギーは約1/32となり、9と7なら1/1000になる。こういうのも日常感覚的にはわかりづらい。

 ぼくは普段はほとんど自宅から半径3キロ圏内しか移動しないのだが、この日はたまたま仕事で東京に出ていた。夕方に打ち合わせが終わって、それから歌舞伎町の入口あたりで友人と飲んで、新宿駅の改札をくぐったのが8時20分すぎくらいだった。地下通路をホームへ歩いている時、ちょうど25分発くらいの列車が出発してしまい、次の35分発に乗ろうとホームへ上がった。
 たぶんこの時に地震があったのだろうが、ぼくは全く気づかなかった。オーディオプレーヤーで古いポッドキャスト番組を聴いていたこともあるが、まわりの人にも別に特別な様子はなかった。ホーム上でも何事もなく普段通りだったのだが、アナウンスがあって小笠原で地震があったから電車がみんな止まっているという。なんで小笠原の地震で東京の鉄道が止まるのか、地震の揺れを全然感じていなかったから不思議だったが、おそらく津波の警戒をしているのだろうと思っていた。
 たぶんぼくは一番幸運だった。もし25分発に乗ろうと思って走って無理矢理飛び込んでいたら、ぎゅうぎゅう詰めのまま途中で止まっていたかもしれない。むしろホームの列の一番前で楽に立って待っていられたのはよかったのだ。だがここから一時間待ちとなった。もちろん、そのころには新宿駅でも改札規制が行われたらしく、少し駅に入るのが遅れていたらと考えるとその点でもラッキーだった。
 もうひとつ、ぼくが乗る路線が他の路線に比べて比較的早く再開したのも幸運だったと言えるかもしれない。一時間遅れで来た列車に乗り、満員の中、自分の家の最寄り駅に着くのが更に通常より一時間以上長くかかったけれど、何とか日付をまたぐことなく帰り着くことが出来た。

 さて、ここからが反省である。ぼくは普段持ち歩くバッグの中に「サバイバルキット」を入れてある。サバイバルというのも大げさだが、小型の懐中電灯や方位磁針、歯ブラシ、タオル、楊子、アルミの保温シート、小型のスイスアーミーナイフ、呼び子笛、そして鉱石ラジオなどである。このうちの半分くらいは出先で母に何かあった時のために持っているものなのだが(たとえば食堂で母の歯にものが挟まった時に取り除いてやる場合とか)、この日はクライアントと会うということもあって、いつもとは違うカバンを持ち、時計さえ持たずに(オーディオプレーヤーで見ればよいと思って)出て来てしまったのだ。
 ぼくは携帯電話を持っていない。だからいったん外に出てしまうと連絡も取れないし、情報を探すことも出来ない。そのために一応ラジオを入れてあるのだが、今回はそれも無かったので最後まで地震の大きさを知らずにいた。
 ぼくは他人より用心深い方だと思っていたのだが、現実は思いもかけないところで思いもかけないことが起こるのである。今回は別に大したこともなかったので特に不便も感じなかったが、これがもっと大きな災害に遭遇する可能性は常にある。やはりいつでも緊張感を持っていることが大切だとあらためて痛感させられた夜だった。

 蛇足だが、なぜ方位磁針を持ち歩いているかというと、ぼくが方向音痴だからである。むかし渋谷に職場があって何年も通っていたが、いまだに渋谷の駅では迷う。それでも東京の街中なら看板などを見てなんとかなるが、自宅近くの畑や田んぼの中の曲がりくねった道などを自転車で走っていると、ときどき迷子になってしまうのだ。方向感覚が鈍いのだと思う。これは脳内のグリッドセルと言われる位置情報獲得細胞の働きが… まあようするにぼくは方向音痴なのだ。そういうときパニックになってしまうので、磁石で大まかの方向を見て同じ所をぐるぐる回らないようにして行けば、必ずどこか分かる場所に出るはずだということで、お守りのつもりで持っているのである。まあね…、それでどんどん持ち物が多くなるのもどうかと言うことではあるのだけれど。