DJポリスというのが話題になっている。
先日のサッカー・ワールドカップ・アジア予選で日本がオーストラリアと引き分けた試合の直後、渋谷駅前のスクランブル交差点で群集の規制を行った機動隊の指揮官車から、マイクを使って人々に解散を呼びかけた警官のことだ。
報道によると彼は「12番目の選手であるサポーターの皆さん、どうか交通ルール、マナーを守って、フェアプレーで、きょうの日本代表ワールドカップ出場を喜び合ってください」などとアナウンスしたという。マスコミは絶賛状態だ。
しかしぼくはすごく気色悪く感じたし、気味が悪い。
それはつまりあれが警視庁機動隊の規制だからだ。一見やわらかく、フレンドリーに見えるが、しかし彼らは暴力のプロフェッショナルであり、治安維持の専門部隊である。気味の悪さはそこにある。
彼らの言葉の底に群集に対する共感、共鳴があるのなら、きっとその言葉はさわやかなのだろう。しかし彼らはそれとは全く逆に、本質的に群集を排除すべき敵と考えているのだ。そしておそらくあの場でも、群集が言うことをきかなければ、物理的な圧倒的暴力で人々を殴り、蹴り、逮捕し、追い払ったことだろう。
ぼくはそれを必ずしも否定するわけではない。治安維持部隊にとってはそれが仕事だからだ。少なくとも現在の日本が国家であり、絶対的多数の人がそのことを是としている以上、その存在を完全否定することは出来ない。国家と暴力装置は不可分の関係にあるのだから。
ともかくも、あの渋谷の機動隊の本質は群集という「敵」を排除するための暴力であって、ただひとりDJポリスの言葉だけがフレンドリーであっただけだ。だからこそ、そこに不気味さを感じる。もちろんあえて挑発的な言葉を使って暴動を誘発するなどもっての外だが、あのようないわばソフィストケイトされた暴力は気味が悪いのである。
それは改憲論議をする自民党のスタイルとも重なる。表面的には平和のため安心のため民主主義を守るためと笑顔で語りつつ、しかし本質は戦時下の国家主義を復活させようとする自民党の戦術に、同じようなものを感じてしまうのだ。
よくはわからないが、機動隊の手法が「洗練」されてきたのは、民主党政権下で巻き起こった反原発国会包囲行動がきっかけなのかもしれない。そこには本当に普通の人々がやって来た。その人たちに対して機動隊の生々しい暴力性を隠しておこうという意図が働くようになったのではないかとも推察できる。
日ごろ民主主義だ平和だと言っているテレビのコメンテーターたちもこぞってDJポリスを賞賛する。なぜ彼らは違和感を感じないのか。それは彼らが観念的民主主義者でしかないからだろう。
ぼくは何十年も街頭デモに参加してきた。それはお祭りのパレードではない。本当に切迫した気持ちから、いてもたってもいられずに街頭に出て行くデモンストレーションだ。
その時にデモを潰しにかかってくる実働部隊が機動隊である。
日本の機動隊によるデモ規制がどんなにひどいものか、まさにデモを潰すためにやっているとしか思えないその手法については、いつかあらためて書きたいところだが、ともかく機動隊はそのための、民衆の自由を規制するための部隊なのである。
重ねて言うが、それが全く不要だと言いたいのではない。そういう本質を隠そうとするところが不気味だと言っているのだ。前にも何かで引用したが、ティム・バートン監督の「マーズ・アタック」に、宇宙人が拡声器を使って大声で友好を語りながら人々を虐殺していくシーンがある。ぼくはついついそれを思い出す。
テレビに出てくる民主主義大好きの評論家のどれたけが本気のデモに参加したことがあるのか。参加し続けているのか。
テレビに出てくる人たちはそれだけで全員が成功者であり「声の大きい」人たちだ。街頭で体を張って本気のデモで意見を表明するしかない人々の感覚はきっとわからない。
先日のサッカー・ワールドカップ・アジア予選で日本がオーストラリアと引き分けた試合の直後、渋谷駅前のスクランブル交差点で群集の規制を行った機動隊の指揮官車から、マイクを使って人々に解散を呼びかけた警官のことだ。
報道によると彼は「12番目の選手であるサポーターの皆さん、どうか交通ルール、マナーを守って、フェアプレーで、きょうの日本代表ワールドカップ出場を喜び合ってください」などとアナウンスしたという。マスコミは絶賛状態だ。
しかしぼくはすごく気色悪く感じたし、気味が悪い。
それはつまりあれが警視庁機動隊の規制だからだ。一見やわらかく、フレンドリーに見えるが、しかし彼らは暴力のプロフェッショナルであり、治安維持の専門部隊である。気味の悪さはそこにある。
彼らの言葉の底に群集に対する共感、共鳴があるのなら、きっとその言葉はさわやかなのだろう。しかし彼らはそれとは全く逆に、本質的に群集を排除すべき敵と考えているのだ。そしておそらくあの場でも、群集が言うことをきかなければ、物理的な圧倒的暴力で人々を殴り、蹴り、逮捕し、追い払ったことだろう。
ぼくはそれを必ずしも否定するわけではない。治安維持部隊にとってはそれが仕事だからだ。少なくとも現在の日本が国家であり、絶対的多数の人がそのことを是としている以上、その存在を完全否定することは出来ない。国家と暴力装置は不可分の関係にあるのだから。
ともかくも、あの渋谷の機動隊の本質は群集という「敵」を排除するための暴力であって、ただひとりDJポリスの言葉だけがフレンドリーであっただけだ。だからこそ、そこに不気味さを感じる。もちろんあえて挑発的な言葉を使って暴動を誘発するなどもっての外だが、あのようないわばソフィストケイトされた暴力は気味が悪いのである。
それは改憲論議をする自民党のスタイルとも重なる。表面的には平和のため安心のため民主主義を守るためと笑顔で語りつつ、しかし本質は戦時下の国家主義を復活させようとする自民党の戦術に、同じようなものを感じてしまうのだ。
よくはわからないが、機動隊の手法が「洗練」されてきたのは、民主党政権下で巻き起こった反原発国会包囲行動がきっかけなのかもしれない。そこには本当に普通の人々がやって来た。その人たちに対して機動隊の生々しい暴力性を隠しておこうという意図が働くようになったのではないかとも推察できる。
日ごろ民主主義だ平和だと言っているテレビのコメンテーターたちもこぞってDJポリスを賞賛する。なぜ彼らは違和感を感じないのか。それは彼らが観念的民主主義者でしかないからだろう。
ぼくは何十年も街頭デモに参加してきた。それはお祭りのパレードではない。本当に切迫した気持ちから、いてもたってもいられずに街頭に出て行くデモンストレーションだ。
その時にデモを潰しにかかってくる実働部隊が機動隊である。
日本の機動隊によるデモ規制がどんなにひどいものか、まさにデモを潰すためにやっているとしか思えないその手法については、いつかあらためて書きたいところだが、ともかく機動隊はそのための、民衆の自由を規制するための部隊なのである。
重ねて言うが、それが全く不要だと言いたいのではない。そういう本質を隠そうとするところが不気味だと言っているのだ。前にも何かで引用したが、ティム・バートン監督の「マーズ・アタック」に、宇宙人が拡声器を使って大声で友好を語りながら人々を虐殺していくシーンがある。ぼくはついついそれを思い出す。
テレビに出てくる民主主義大好きの評論家のどれたけが本気のデモに参加したことがあるのか。参加し続けているのか。
テレビに出てくる人たちはそれだけで全員が成功者であり「声の大きい」人たちだ。街頭で体を張って本気のデモで意見を表明するしかない人々の感覚はきっとわからない。