あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

情報と権力と私

2013年06月30日 11時38分35秒 | Weblog
 CIAの元職員であるエドワード・スノーデン氏は、アメリカ政府の違法な(もしくは行き過ぎた)ネットワーク上の諜報活動について暴露し、その結果、死刑になる危険性があると本人が表明している。彼は亡命申請もしているが、米国政府が旅券を失効させたり、また各国に圧力をかけていることもあって、未だにモスクワの空港内から動けない状況にあるらしい。

 ジョージ・オーウェルの小説「1984年」が描くように、情報社会が進めば進むほど情報をコントロールすることも可能になり、事実であろうが嘘であろうが、与えられた情報が「本当」になってしまう社会が出来上がってしまった。
 当然、権力を握る人間たちは情報の収集とコントロールに力を入れ、それを崩そうとする者に対しては激しい攻撃が向けられる。

 もちろん事実というのはそれだけでは情報にはならない。事実に対する解釈と翻訳と編集が行われて初めて情報になるのだ。その意味で情報はすべてあらかじめコントロールされているとも言える。
 しかしそれでも多くの多面的な情報が与えられれば、ひとりの人間の中で情報に対する咀嚼、消化が行われ、その結果、その人にとっての真実が現れてくる。
 もし与えられる情報がたった一つであったら、誰も「真実」にたどり着けないとも言える。もしそれでもそこに真実を見出したと思えるのなら、それは誰かの情報コントロールにはめられているということである。

 我々は可能な限りの情報を、しかも意図的に改ざんされていない情報を求めなくてはならない。我々が自分自身の真実にたどり着き、それを持てなかったら、なんの判断もできないし、それはつまり民主主義国家の主権者としての責任を果たすことも出来ないということである。
 国家権力が情報を隠し、改ざんするということは、つまり国民から主権を奪うのと同じことだ。

 米国民のスノーデン問題への意識は矛盾しており、この暴露を良かったと思う人が半数いるが、その一方で半数以上の人が彼の暴露は違法で逮捕されるべきと考えていると言う。
 これが何を表しているかと言えば、自分にとって利益のあることだけを歓迎するという浅はかさだ。情報は暴露された方がよい、しかし安全のためには裏切り者を処罰した方がよい。これは結局どこまで行っても自分にだけ都合のよい結果を求めているということに他ならない。
 これは民主主義国家の国民という主権者の無責任であり責任放棄である。

 日本では安倍さんが国会に提出した国家安全保障会議(日本版NSC)の設置計画に対し、ネット上では日本の安全保障の向上に役立つと「期待する」する人が多数なのだそうだ。
 それ自体をどうこう言うつもりはないが、情報を隠してもらった方がかえって安心する、生の情報を集めて自分自身の頭で考えるのは面倒だ、政府が責任を持つというなら全部お任せする、というような考え方が国民の中にあったとしたら、諜報機関はあなたの安全には役立たない。むしろあなたの安全を脅かすものになるだろう。

 戦前、戦中の情報統制と言論弾圧の時代、その結果としての無謀な戦争と悲劇的な結末をリアルな痛みとして知っていた日本人は、国家による情報コントロールに敏感だった。また乱暴な陰謀論にも惑わされない理性も磨いてきた。
 しかし日本人の感覚はまさに「平和ボケ」して劣化してきたかもしれない。
 情報は隠されたり改ざんされてはいけない。しかし野放しになっていてもいけない。そのコントロールをする役目は国家権力ではなく、我々の日常的な常識が担うべきだ。そしてそのためには、我々自身が目先のことだけにとらわれず、広く大局からものを見て考えられるだけの民度を獲得しなければならないのだと思う。



鳩山氏の尖閣問題への発言を擁護する

2013年06月29日 00時02分10秒 | Weblog
 鳩山元総理が中国で、尖閣諸島の領有権について中国側の主張には根拠があり理解できるという趣旨の発言を繰り返している。

 報道によれば、鳩山氏は尖閣諸島について「ポツダム宣言の中で日本が守ることを約束したカイロ宣言は『盗んだものは返さなければならない』としており、中国側が(返還すべき領土の中に尖閣諸島が)入ると考えるのも当然だ」と述べた。また訪中前にも香港のフェニックステレビのインタビューで同様の発言をしている。
 さらに「(日清戦争終了直後の1895年の)下関条約ができる3カ月ほど前に(尖閣諸島は)日本領として閣議決定した事実がある。中国側として中華民国に返せという中に当然入るのではないかという理解は成り立ち、それを否定するものではない」とも語ったそうだ。(時事通信社の報道より要約)

 マスコミは大騒ぎをして袋叩き状態になっているが、実はかなり現実的な意図を持った発言だったのではないかと思う。

 もちろん鳩山氏が総理大臣のときに、そんな風に言えたのかどうかは問われなくてはならない。普天間基地の「最低でも県外」移設論も正しい認識ではあったが、彼はただ言いっぱなしでひとつも闘うことなく現状固定化の立場に戻ってしまった。
 少なくとも政治家としての最も重要な資質は全く持っていないと言ってよい。

 しかしそれでも、現状の日中関係を考えたとき最良の選択は領土問題の棚上げである。と言うより、どの国との関係においても領土問題を棚上げにしておくことは、必ずしもベストとは言わないがベターなのである。
 この場合、現状の日中両国の極端なナショナリズムの雰囲気を緩和することが必要になってくる。誰かが右に対するカウンターとして左側の発言をしてバランスを取り(ここで言う左右は政治的な意味ではなく一般的なたとえだが)、世論というか社会の雰囲気をニュートラルな方向へ持っていかなくてはならない。

 その役割として、まさに鳩山首相ほどの適任者はいないのだ。
 現実の政治家としては全く阻害物でしかなかったが、元総理の肩書きと自由すぎる言動が出来る鳩山氏こそ、こうした非政府外交にはうってつけだ。

 ぼくは必ずしも鳩山氏の主張に賛成するわけではないが、と言うより正直に言えば何を言いたいのかよくわからないのだが、それでもあえて鳩山氏を擁護したい。
 日本のマスコミは鳩山発言をエキセントリックな発言のように報道しているが、世界から見たら石原慎太郎氏らの発言の方がずっとエキセントリックに映っているのだ。
 マスコミも大衆に媚びるか、大衆を操るか、といった態度をやめて、真の「国益」に立った報道を、それはどこかに偏向しろというのではなくむしろどこまでも中立的に、おこなって欲しいと思う。


事実を隠蔽する教育とは何か

2013年06月28日 00時02分27秒 | Weblog
 唖然とするような、とんでもないニュースが流れた。
 東京都教委が高校教科書である実教出版の「日本史A」と、来年度向けに改訂された「日本史B」を選定しないよう都立高校の校長に命令したというのだ。
 都教委はこの教科書に、日の丸・君が代について「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」と記載されていることが、表現の明らかな間違いであり、採用するわけにはいかないと説明している。

 驚くしかない。
 日常茶飯事のように新聞で報道されている表現のどこが間違っているというのだろうか。
 都教委は教職員への日の丸・君が代強制問題で最高裁まで争ってきたが、その過程では行き過ぎとの判断も出ている。以前にも書いたが政府も公式には日の丸・君が代を強制しないと明言している。

 実況出版の教科書はそうした事実をそのまま記述しただけなのだろう。別に何が正しいという価値判断をしているわけでもなさそうだ。ましてやこれは高校の教科書である。都教委は高校生に新聞もテレビニュースも見るな、教科書だけを信じよと言うつもりなのだろうか。それでちゃんとした社会人に育つと思っているのだろうか。
 そもそもが相当に歪曲されている国の教科書検定規準を通った教科書である。それさえ敵視し、異例のやり方で排除しようとする都教委は常軌を逸している。これこそ歴史歪曲と言うか事実歪曲だ。教育する側に立つものとして恥ずかしくはないのか。
 もし自分たちのやっていることが正しいと主張したいのなら、事実を隠すのではなく、その事実についてていねいに説明すればよい。それこそ生きた教育になるだろう。

 自民党の憲法草案にも日の丸・君が代の強制を強める意図がありありと表れている。まさに都教委の教科書への介入はその先取りとも言えよう。今はまだ、おかしいと異議を唱えることが出来るが、自民党憲法が制定されたらおかしいとも言えなくなるのかもしれない。

 おとといの通常国会閉会にともなう記者会見で、安倍首相は「半年前、世の中を覆っていた暗く重い空気は一変したのではないでしょうか」と語りかけた。ますます社会を暗く重たくしている当の本人から言われると、背筋が寒くなるような恐怖を感じるのである。


ネットを利用しようとする者には

2013年06月27日 00時00分20秒 | Weblog
 某地方議員はブログの炎上によって殺された、というニュアンスの議論がある。もちろんそうかなと思わないでもない。ただ、それも考えてみると納得がいかない話だ。
 地方議員氏もその前の復興庁の官僚もブログやツイッターを実名で開設していた。そのことの意味を踏まえた議論がされなくてはならない。
 ぼくも実は開店休業中のホームページがあって、そこはほぼ実名でやっていた。そもそもペンネームがほぼ実名だし、ハンドルネームで書き込んでいたサイトでさえ文中に自分のペンネームを明記することが度々あったので、ネットで検索すると自分の過去の様々な発言や行状がいろいろ出てくる(とは言っても別に有名人ではないので、ぼくのことを直接に知っている極わずかの人にしか意味の無い話なのだが)。

 しかし昔から電子的ネットワークの文化の中では(というのはインターネットが普及する以前から)ハンドルネームを使うのが一般的だった。と言うより、こんな風にインターネットが普及する以前には、本名を名乗るメリットはほとんど無かったのだ。
 それがある時点から急速に変わっていった。多くの人がEメールやWWWサイトを使うようになったら、それを利用して自分の宣伝に使おうとする人たちが急増したのだ。
 もちろんかなり早い段階から「公式サイト」というものは存在した。ただそれはいわゆるホームページであって、その場で瞬時にアップロードするようなものではなく、多くの場合は専門家の手を経て作られたものだった。
 だがもっと注目を浴びたい、もっと効果的に自己宣伝したい人たちは、掲示板を使うようになり、やがてブログへ、そしてツイッターやフェイスブックへ流れていった。今回の地方議員はまさにそれだと言ってよいだろう。

 純粋に自分のための日記として使っている人はともかく、当ブログもそうだが、多くの人は「自分の感じたこと」や「自分の意見」自体を伝えたくてブログを書く。自分ではなく中身を伝えたいのだ。中身に共感してもらいたいのだ。もちろんそうは言っても多くの人に注目されたいと思う人もいる。しかしそれでもそれは生身の自分ではなく、ネット上のブロガーとしてだろう。
 こういう一般的な人々と、中身以前に生身の「自分」自身を宣伝したい人のサイトでは、その意味が違うという点を押えておく必要がある。もちろんぼくはネットを自分の宣伝に使ってはいけないと言いたいのではない。

 自分を宣伝したいから本名で書く。それはかまわないが、そこには当然リスクは生じるのだし、そこにおけるリスク管理はそれこそ「自己責任」でやるべきことだ。
 もちろん自分の関与できないところで、たとえば2ちゃんねるのようなところで勝手に自分を誹謗中傷するスレッドが立てられてしまったのなら、悪いのは匿名性を悪用して他人を陥れようとする悪質ネットワーカーたちである。しかし自分のブログに批判的なコメントが書かれるのは100%自分の問題だ。
 そもそもブログならコメントが書き込めないようにすることも可能だし、いったんコメントの内容を検討してから表示を許可することも出来る。それをあえて自由に書けるようにしておくのは、それなりの意図があっての判断だろう。誰の責任でもないブログ主の主体的責任である(SNSの管理はどうするのか、ぼくはやったことが無いのでわからないが)。

 少なくとも今回の地方議員の場合、その死をネットの責任にされるのは迷惑だ。もしこういう言い方が許されるなら、ネットを利用しようとするの者はネットにしっぺ返しを食らうのだ。それはもしかしたら、ネットにおけるひとつの「神の手」なのかもしれない。


続く批判の集中砲火

2013年06月26日 00時04分10秒 | Weblog
 不祥事を起こした政治家が急死したり自殺したりすることはそんなに珍しいことではない。そこには政治家独特の理由もあるのだろう。
 もちろん普通の人と同じように病的な問題の場合もあるだろうし、精神的なプレッシャーによって絶望し自殺する人もいるだろう。死んでお詫びしますということで責任を取って死ぬ人もいるだろう。またこれ以上問題を拡散させないために自分のところで問題を止めるために死ぬ人もいるだろう。抗議やあてつけで死ぬ人もいるだろう。
 しかし、やはりいずれにしても、現役の政治家が死を選んでしまったら、それは有権者への裏切りだし責任の放棄だと言われても仕方ない。もっと穏やかに言っても少なくとも政治家としての資質が低かったというしかない。
 死者に鞭打つようなことは言いづらいのだが、先日ツイッターで「失言」問題を起こした地方議員が亡くなった。自殺なのかどうかはわからないが、もやもやした気持ちは残る。

 それにしても何だかここに来て、世間にはあれやこれや批判の言葉が飛び交っている。この地方議員の場合もそうだが、その前の復興庁の官僚のツイッター問題や、全柔連の会長への責任追及、橋下発言問題もそうだったし、今度は例のヨットによる太平洋横断に失敗したキャスターである。
 現時点ではこの人が批判の集中砲火を浴びている。原因のひとつはこのキャスターがイラク戦争のときの日本人ボランティア人質事件で、いわゆる「自己責任論」を声高に叫んだ中心人物の一人だったからだ。
 さんざん自己責任と言っておきながら自分は自衛隊を危険にさらしてまで救出してもらってなんだ、という批判である。まあ確かに批判したい気持ちはわかる。と言うか批判しても良い。ただ、彼としてもまさか失敗したくて失敗したわけではないし、おそらく原因は不可抗力である(マッコウクジラにぶつかったとも言われている)。仕方ないことは仕方ないのだ。自衛隊は自衛隊で当然の任務として救出しなくてはならなかった。感情論的なやみくもな批判ではなく、冷静で分析的な批判をするべきであろう。
 一方で皮肉なことに、キャスター氏がさんざん言っていた自己責任論そのままの批判が自民党議員から噴出しているらしい。因果は巡るとはよく言ったものだ。

 もちろん批判は重要だ。相互批判があってこそ進歩が生まれる。当ブログもほとんど誰かの批判に終始している。しかし批判はその対象、その事象に対する批判でなければ意味がない。ためにする批判とか、批判のための批判に陥ってはならないし、また別の目的のために誰かへの批判を利用しようとするのなら、それは何の価値もないただの悪口でありイジメにしかならない。

 先に書いたように、このところ次から次へ批判の集中砲火が続いている。対象もどんどん変わっていく。ずっと以前から分かっていたことなのに何故か今になって批判が噴出した事例もある。
 国会審議の空洞化、都議選、参院選などの重要な政治問題が密集している時期にこうしたことが起こるのは偶然ではあろうが、少なくともそれを利用したい人はいるのではないだろうか。誰かの問題を「炎上」させ続けておいて自分の問題から目をそらさせようとしている人たちがどこかにいるのではないだろうか。

 そんなことを考えてしまう今日この頃だ。



都議選の分析を読んで

2013年06月25日 00時04分18秒 | Weblog
 東京の雰囲気がわからないのでよくわからないのが実感なのだが、都議選で共産党の議席が倍増した。
 メディアによって分析が微妙に違うのだが、結論的に言えば民主党への支持が完全に失われたことが根本的な要因なのだろう。もちろん共産党の議席が増えること自体は歓迎するが、今回の選挙結果はみごとに組織票の強い順になったわけで、それはそれであまり健全とは言えない。
 朝日新聞社の取材によれば、いわゆる無党派層の支持は自民、共産、みんながそれぞれ2割、民主が1割半、公明、維新がそれぞれ1割ということだ。社民党や地域政党である生活者ネットはゼロと言ってよい。
 当然ながら無党派層が正義だとは全く思わないが、東京都の無党派層は有権者の約4割と言われており、良いか悪いかはともかく、そうした人たちの意思が反映された選挙結果とはあまり思えない。

 ところで、ぼくが注目したのは年代別の投票先の分析だ。どの年代も自民が圧倒的に高かったのだが、共産へ入れた人は高齢者層が多く、維新への投票は比較的若年層が多かったという点である。
 昨日の記事にも関連するが、オトナが批判する若者の志向は実はオトナ社会が作り出したものなのだ。オトナ社会が現状を維持し、保守化を強めるから、若者たちはさらに突出した極右へと向かっていく。

 昨日は東京都議選の他に、ヨットで太平洋横断中に遭難して自衛隊に救助されたニュースキャスターが話題になった。彼らの冒険が無謀だったのか不幸な偶然だったのか、ぼくには判断できないし、海上自衛隊員の能力と精神力がすばらしいということを否定するつもりも無い。
 しかしテレビ報道には、あまりにも露骨な偏向があると思わざるを得ない。すべての報道がどうだったかなど知る由も無いが、あるニュースショーを見ていたら、キャスターたちの長い記者会見の中で、ひろわれていた言葉はほんの数言で、その中でわざわざ「僕は本当にね、ああこのすばらしい国に生まれた。これほどまでにうれしかったことはない」というコメントを赤い文字で強調したテロップと一緒に流していた。
 繰り返すが、遭難したキャスターの発言が悪いとか、自衛隊が悪いとかは全く思わない。しかしこうした「愛国心」を事ある毎に煽るような演出が日本社会を意図的に右傾化させているという事実は見過ごすことができない。

 どの時代でも大人が若者を批判するのは通例だ。しかし現代日本の若者はオトナ社会、つまりは自民党(もしくは第二自民の民主党)政権が長い時間をかけて戦略的に作り出してきたものだ。
 もともとはオトナ社会に対して反発しない従順なコドモたちを作ろうとしたのだが、当然のことながらそんなことがうまくコントロールできるはずも無く、コドモたちは無気力になったり、内向きのイジメに入り込んだり、極右化したり、無差別殺人を起こすようになったりしてしまった。
 そして今、そんなコドモたちにオトナは不気味さと恐怖感を感じ始めている。しかしそれはオトナ社会が生み出したモンスターなのである。


▼参考-こんなニュースもありました▼
日本の女子中学生が「朝鮮人を大虐殺する」との動画が、韓国で物議


「内向き」なのは誰?

2013年06月24日 00時01分40秒 | Weblog
 最近の若者はよく「内向き」だとか「草食系」だとか「ゆとり」だとか言って非難される。ぼくはそれは不当な批判だと思うし、むしろ彼らは成熟した世代なのだと思っている。
 しかし、もし若者たちが「内向き」なのだとしたら、いまどきの「オトナ」たちはどうなのだろう。

 ぼくには関知できないことだが、東京都議会選の結果はやはり自・公の圧勝ということになるらしい。投票率自体、五割を切るかもしれないほど有権者の関心も低い。まあ民主党の化けの皮がはがれてしまった以上、民主が勝つのもどうかと思うが、結局のところ人々の志向は保守に向かった。

 これこそ「内向き」なのではないか?

 そもそも「政権交代選挙」で民主党という第二自民党が大勝したのも、自民党にはうんざりだが、かと言って「革新」(死語?)には入れたくないという人々の気持ちの反映でしかなかった(と言うより、むしろ人々が本来の自民党路線を求めた結果だとぼくは考えているが)。
 ようするに大多数の有権者は、もはや資本主義というたったひとつの、もうさすがに古びて疲労劣化の極限まで来ている体制にしがみつくばかりで、次の新しい時代へ、新しい価値観へ踏み込むどころか、それを模索することさえ放棄しているのである。
 これこそが本当の「内向き」であり「ゆとり」なのだと言わざるを得ない。

 一見、復古主義的な印象を与える極右でさえ、実は封建主義への回帰を目指しているわけではない。彼らもまた近代=資本主義を守るための一手段として右翼思想を利用しているだけなのである。2・26事件に決起した青年将校のような本当の反資本主義思想で運動している右翼などほとんどいない。

 もちろん現状のような超保守主義の社会が生まれたのは、ひとえにスターリン主義者の自滅が引き起こした世界共産主義運動の衰退による、アメリカ一極支配の世界が成立したためである。
 そして共産主義運動の穴を埋めるものとしてイスラム原理主義運動が台頭したのだが、残念ながらそこには新しい価値観を生み出していくモメントが無い。
 こうして世界は底なしの保守の時代に突入したのだ。

 若者の「内向き」を声高に非難する者が、自らは現状を脱する新しい価値観・世界観の追求を放棄し、どんどん「内向き」を強めていく。しかもそれが「内向き」の「肉食系」だから悲惨きわまりない。
 この世界の外にある「未来」は未だにどこにも見えない。

絶妙な戦術

2013年06月23日 00時02分40秒 | Weblog
 日本維新の会の共同代表、橋下氏と石原氏が東京都議選の街頭演説で同席し「関係修復」をアピールしたと言う。
 思ったとおりの展開だが、実に絶妙のタイミングである。
 維新の会はみんなの党との選挙協力解消で苦戦が見えていた。その巻き返し作戦が一連の「橋下批判」騒動だったのだ。

 地元東京の石原氏が遠い大阪の橋下氏を批判する。この立ち位置がまず絶妙だ。
 石原氏と橋下氏が対立しているとなればマスコミは注目する。そうすると少なくとも「埋没」だけは避けられる。
 そして投票日直前の「お詫びメール」と和解演説。橋下氏は有権者に対して詫びたわけでも言説を撤回したわけでもないのに、なんとなくムードとしては謝ったみたいな雰囲気が作られてしまった。

 この投票日直前の和解アピールというタイミングが絶妙である。
 ぼくは、せいぜい地方都市の市議会とか市長選くらいしか実際に関わった経験が無いが、選挙が生き物であることは知っている。
 ある部分では、やる前からがっちり決まっている部分もあるし、しかし選挙期間中に大きく変動する部分もある。とりわけ都議会選挙のような大量の浮動票が動く選挙では、有権者にどのタイミングでどんなイメージを与えるかがとても重要だ。
 その意味では今回の維新の会は完璧とも言える演出だった。

 ぼくは都民ではないので全く関係ないけれど、都民の皆さんにあっては今日の投票にぜひとも良識ある判断をされることを願ってやまない。



復興予算流用の責任は誰が取る?

2013年06月22日 22時58分29秒 | Weblog
 復興予算の流用問題。
 財務省と復興庁がまだ使われていない約1000億円について、予算執行の見合わせと国への返還を求める方針を固めたという報道があった。今後、基金を所管する各省庁の閣僚に通知、各閣僚が自治体などに返還を要請するとのこと。

 なんだか釈然としない。
 それはそれで良いのだろうが、誰が責任を取るのだろう。
 予算の凍結と返納を求めるということは、何らかの重大な問題があるという認識があるということだ。もちろん、普通の庶民の感覚で見れば言うまでも無くおかしいわけだが、それを国も認めているということだ。
 そうであれば、当然なんらかの責任問題が発生するはずだろう。ぼくは昨今の厳罰化の風潮が良いとは思っていないが、再発防止の観点から見れば誰にどんな問題があったのか明らかにすることが絶対に必要だ。

 しかしそんなことは誰も言わない。

 まず第一に現場の役人に責任を問えないからだ。
 法律に従って予算が支給される。現場は法律に則ってそれを執行する。この場合、法律的には対象が被災者でなくても予算を使ってよいと書いてある。もし「法律の趣旨と違う」と現場が独自に判断して予算を使わなかったら、自治体からも市民からも役人が勝手な判断をして得られるはずの利益を失わせたとして批判される可能性がある。もし裁判を起こされたら法律に従わなかった方が負けるに違いない。
 つまり現場は良くも悪くも色々な意味で法律に厳しく縛られているのだ。この点は自由な裁量が認められる民間企業とは違う。

 となると問題は当然、法律のほうにある。
 法律を決めたのは誰か? もちろん国会である。責任は国会議員が負わねばならない。少なくともこの法律に賛成した議員、問題を全く指摘しなかった議員には大きな責任がある。
 だからこそ誰もこのことに触れない。
 誰の責任も問わない。

 これはひどすぎるのではないだろうか。
 マスコミの一部は、官僚が法律を骨抜きにしたのだとか言うが、実際に法案を通したのは国会議員たちなのだ。

 本当はそのことを有権者がちゃんと理解していなくてはならない。
 そしてそれを判断基準にしなくてはならない。
 誰も責任を取らないのなら我々が取るしかない。正しい判断をすることこそが、この問題に対する有権者の責任の取り方なのである。


貧乏人が金持ちの味方をする

2013年06月21日 00時07分07秒 | Weblog
 民主主義を支持するのであれば、政治の問題は究極的には政治家の問題ではなく、あなた自身の問題だ。
(もっとも、民主主義を否定する立場であっても、やっぱり責任はあなたにあるのだが…)

 マスコミは、そして政治家自身も、政治の責任を政治家に押し付けようとする。それは確かにそうなのだが、しかしその政治家を選んでいるのは有権者であり、有権者が政治家を見極める力が無いから、ダメな政治家が選ばれ、ダメな政治が横行するのである。
 そして有権者がダメな政治家を選べば選ぶほど、良質な政治家は消えていく。よほど特別な立場の人でなければ落選し続けて、なお政治家を続けられる人はいない。政治の世界から消えていくしかないのだ。
 悪貨は良貨を駆逐する、とはよく言ったものである。

 なぜ有権者がダメな政治家を選んでしまうのか。
 それは有権者が自分と同じレベルの指導者しか求めないからだ。現在の政治と政治家は、まさに有権者の顔を映す鏡である。

 貧乏人が金持ちの味方をしている。
 本来、貧乏人と金持ちの利害は対立しているはずだ。なぜなら貧富とは相対的な概念だからだ。それは絶対額ではなく、誰かが誰かよりより多く持っている(もしくはより少なくしか持っていない)ということだからだ。
 それはつまり結果的に社会全体の富の分配が偏っているということであり、ありていに言えば金持ちが独り占めしているということである。

 その格差を経済のエンジンと位置づけ、経済システムが稼動するために貧富の差が必要だとするのが、資本主義者の言い分である。つまりそれは永久的に富者と貧者を無くさないという宣言である。
 貧乏人にとっては耐え難いはずの論理を、しかしその貧乏人が支持している。資本主義を強化する政治家ばかりが圧倒的な支持を集めている。

 それは貧乏人が貧乏を憎まないからだ。貧乏人が憎むのは自分の現在の境遇でしかない。自分も金持ちの側に入れる、入りたい、入る可能性を残しておきたい。だから貧乏人が資本主義を求める。
 しかし結果として大多数の貧者はどこまで行っても貧者のままである。貧困の連鎖などと難しいことまで言わなくてもよい。これはギャンブルなのだ。
 人はいつか当たると思うからギャンブルにカネを注ぎ込む。しかし実際にはそのカネは自分以外の誰かのところに行くように出来ている。

 本当はギャンブルを廃止して、そこに賭けられたお金をみんなに平等に配分したら、小口のギャンブラーはギャンブルするよりも多くを手に入れられるはずだ。しかし現在の世の中ではギャンブルが無くなったら、全てが無くなると宣伝されている。ギャンブルが無くなるという前提そのものが検討されることすらない。

 もちろんこれは、ただの理屈だ。
 しかしその理屈すら考えることなく、貧乏人が金持ちの側に味方して、今もひたすら自分の首を絞め続けていることだけは、まぎれもない現実なのである。

右翼政治家の発言二題~後日談

2013年06月20日 00時00分53秒 | Weblog
 昨日のブログで書いたふたつの有力政治家の発言問題。
 一日たって多少の動きがあった。

 ひとつは石原さんに批判された橋下さん。
 こちらは、自分の発言は間違っていないから有権者に対しては謝罪しない、石原氏の批判については、表立って批判しあう姿こそ維新の会のあるべき姿だと、まさにぶれない姿勢を示してみせた。
 混乱気味の石原さんより、ずっとはっきりしていてよいと思うが、ちゃんと最後までこの姿勢を貫くかどうか。あるとき突然てのひらを返すのが橋下流だから真意は良くわからない。

 それよりも自民党の高市さんの方だ。
 元自衛隊幹部の田母神さんがツイッターで、「橋下徹の慰安婦の発言と同じで、反日が難癖をつけているだけ」とか、なんだか意味不明な応援をした以外は、自民党内部からもかなり突き上げを食らったみたいで、結局きょうになって「私が申し上げたエネルギー政策のすべての部分を撤回する」と全面降伏する形となった。
 潔いのか卑怯なのか、よくわからない。

 ただ問題なのは菅官房長官の発言だ。
 昨日の時点では「前後を見れば、高市氏の言おうとしていた意図と違って報道されている。そんな問題になるような発言ではなかった」と、高市発言を評価していたのに、一転きょうは「政治家は誤解を招くことがないよう発言には注意しなければならない」と批判する側にまわった。
 もちろん、発言を撤回すればお咎めなしで政調会長を続けさせるという合意があったものと推察されるが、本当になんだかなあと思わざるを得ない。
 政治家なら、信念を持って発言したのならそれを貫くべきだろうし、間違ったと認めるなら何かしらの責任を取るべきだ。

 こういうのが「美しい国」なのか。そうか。


右翼政治家の発言二題

2013年06月19日 11時48分57秒 | Weblog
 有力政治家の発言を巡ってふたつ。

 ひとつは日本維新の会共同代表の石原氏の発言。
 石原氏は共同通信のインタビューに対して、同じ共同代表の橋下氏のいわゆる「従軍慰安婦発言」について「大迷惑」、「言わなくてもいいことを言ってタブーに触れた」と批判し、選挙結果によって責任を取るよう示唆した。

 まあ石原さんのことだから、裏の方で打ち合わせをした上であえて「悪役」を演じて見せただけなのかもしれないが、それにしても無責任極まりない。
 自分でも同じような(と言うか、もっとひどい?)ことを堂々発言しておきながら、橋本氏の発言がマスコミに叩かれたから「大迷惑」とは、いったいどこに信念を持っていらっしゃることやら。「言わなくてもいいことを言っ」たとはどういう批判だ。
 政治家が自分の意見を言えなくてどうするのか? マスコミも「政治家なんだから」とか「公党の代表なんだから」とかよく批判するが、政治家であり公党の代表だからこそ、我々は本音を知りたいのだし、その本音を以って選挙に臨んでもらいたい。そうなって初めて有権者は正しい選択ができると言うものではないのか?

 そもそも「言わなくてもいいことを言ってタブーに触れた」のは石原さんの方が先だし、現実には維新の会の盛衰なんかよりもっと「国益」に関わる重大な問題を引き起こしているではないか。石原さんが「東京都が尖閣列島を買う」などと言わなければ、昨年から現在に至るまでの日本の外交や経済の混乱は起こらなかったか、もしくはもっと小さくて済んだのではないのか?
 前にも書いたけれど、自分のことを棚にあげて他者を非難する政治家は腐りきっていると言うしかない。

 もうひとり、実はこんな成り上がり野党などとは比べ物にならないくらい政治責任が重いにもかかわらず、何でもかんでも言いっぱなしで、責任の「せ」の字も感じていない政治家がいる。自民党の高市早苗政調会長だ。
 今回は、自民党兵庫県連の会合で「原発は廃炉まで考えると莫大なお金がかかるが、稼働している間のコストは比較的安い」「事故を起こした東京電力福島第一原発を含めて、事故によって死亡者が出ている状況ではない。安全性を最大限確保しながら活用するしかない」と発言し、批判をうけている。

 もちろん「原発事故で死者は出ていない」という点が注目されているわけで、それ自体、被災者が怒りを感じるのは当然だ。ぼくの友人にも南相馬で両親が被災し、結局避難先で相次いで亡くなったという人がいる。
 ただ、この言葉ひとつだけを取って論評したり非難したりするのは、やはり違うと思う。橋本氏が何度も強調していた「国語力」の問題である。
 話の中のひとつの単語だけを切り出してきて、そればかり攻撃するのは揚げ足取りと言うものだ。かつて民主党政権下で当時の官房長官だった仙谷由人氏が「自衛隊は暴力装置」と発言して批判されたが、あの場合はどう聞いても社会学的概念としての「暴力装置」の意味でしかなく、本来、批判の対象になるような話ではなかった。
 その意味で、今回の高市発言についてもマスコミはその意味を文脈で捉えていないから、まったく的外れと言うか、本質を突いていないヘンテコな批判に終わってしまっている。そしてそれは結局は高市氏と自民党の政策を側面的に擁護する結果になってしまっている。

 マスコミは「死者は出ていない」という言葉だけを捉えて「心無い」とか「言葉が足りない」と批判しているが、はっきり言って問題はそんなところにあるのではない。
 高市氏は釈明の会見で「被ばくで亡くなった方はいないが安全を確保しなければならないと伝えたかった」「もし誤解されたとしたら、しゃべり方が下手だった」と述べた。
 果たして本当にそうだったのか。
 まさにこれこそ読解力であり、正しく読み解く能力が問われるところだ。

 高市氏の講演での発言は、あきらかに「死者が出るほどの事故にはならないから、原発は使い続けるべきだ」と言っている。釈明での「死者はいなかったがもっと安全性を確保しなければならない」というのとは、まさに趣旨が変わっている。
 マスコミはこの違いをこそ分析して解説しなくてはならない。なぜなら、この二つの発言の狭間にこそ高市氏の本音と性根が読み取れるからだ。
 もし「原発は言われているほど危険ではない」という主張ならそれを堂々と言い続ければよい。しかしそれを批判されたら姑息に本音を隠すような態度を取る。ここにこそ政治家の質を問わなくてはならない。

 政治家の言葉が「失言」なのかどうか、そのことは決して面白おかしいことではないかもしれないが、最も重要なことだと思う。


労働組合は何をやっているのか

2013年06月18日 18時45分01秒 | Weblog
 関西電力の社員が大阪市内の路上に設置されている配電設備を故意に壊して、一般家庭や病院を停電させたとして警察から書類送検された。自首だったという。
 もちろんとんでもない事件で、モラル以前の問題だと思う。
 しかし容疑者の動機が「仕事が忙しくて不満を持っていた。事故が起きれば、人員が増えると思ってやった」ということで、いったい職場の環境がどんなものだったのか知りたいところだ。

 最近ブラック企業という言葉が流行るくらいで、労働者が過酷な状況に追い込まれているのは事実だと思う。内閣府の発表では20代の若年層の死亡原因の約半数が自殺であり、その原因は主に職場環境にあるという。
 特に今回の事件は関西電力という大企業で起きた。もし容疑者の言っているのが本当なら、いったい労働組合は何をやっているのかと思う。

 マスコミや政治家がどんなに叩いても、労働者の労働環境を守るのが労働組合の最も重要な仕事だろう。
 しかし日本の労働組合は企業内組合としてまず第一に企業の利益を考え、よくても自分の組合員のことしか考えないできた。そのひずみを下請け企業と下層労働者、海外の労働者にたらいまわしをしてきただけだ。
 そういう体質が人々の不信感を拡大してきたのであり、また結局のところ企業の側から追い込まれるとやすやすと自分の組合員にまでひずみを押し付けるようになるのだ。

 根っこの思想が企業・資本家と同じでは労働組合の存在意義が無い。

天皇と天皇制への視点(1)~思い出

2013年06月17日 22時01分39秒 | Weblog
 まったく知らなかったのだが、先日ぼくが天皇問題で書いたこととそっくりな提案が宮内庁から出ているという週刊誌の記事があるらしい。なにやらもめているようだが、読んでいないので誰が誰に対して何を求め何を怒っているのか、全然わからない。
 いずれにしても、ぼくのような凡庸な人間の考えることなど必ず誰かが先に考えているわけで、そういう意味では別にぼくの主張がさほどエキセントリックなものではないということなのだろう。

 まあ、それはともかく。

 本当のことを言えば、ぼくはずっと反天皇制主義者だ。
 もう大昔といえるくらい昔、大学の卒業論文を提出した日に、表紙の提出年度を西暦で書いて提出したら大騒動になった。大学事務局が騒ぎ、学部や研究室の教授が何人もかかって、年号に書き直すよう「説得」された。西暦では論文を受け付けることが出来ず、そうすると卒業できないと言うのである。
 事務局とはいろいろな問題でずっともめていたが、教授とは良好な関係だった。彼らも悪意があったわけではない。ただ「制度上」形式だけ整えてくれればよい、それだけの問題ではないか、と言われた。
 実を言うとこちらにもちょっと微妙な問題があって、と言うのも、ぼくの論文のタイトルが「明治前期の東京語」だったのである。
 もちろんタイトルの「明治前期」は日本の文化史における区分であって、別にそれが自分自身で年号を使うか使わないかという問題とは別問題だったのだが、「タイトルに明治を使っているんだから、提出年を昭和で書いても良いではないか」と言われたりして、結局不本意ながら表紙に紙を張って、提出年の西暦を昭和に直した。論文自体は珍しいテーマであったこともあって、ありがたいことにどの教授からも高評価を受けた。
 ちなみに翌年卒業した友人は、西暦で書いて事務局の受付窓口の中に放り込んでそのまま帰ってきたら、別に何の問題も無く受け付けられていたと言っていた。
 その当時はこの事件がとても悔しくて仕方なかったのだが、もう今となっては悲しい笑い話である。
 これを書くと時代が特定されてしまうけれど、この事件が起きたのは「元号法」が制定されてから間もない時期のことである。

 それまで戦後の日本人は年を表現するのに、年号を使っても西暦を使っても全く自由だった。そして元号法が制定されたときも、法律は作ったが国民を縛るものではないと説明されていた。
 しかし実態はこういうことだったのである。そのうち様々な公文書、私的文書の用紙の年月日記入欄の先頭にあらかじめ「昭和」と印刷されるようになった。ぼくはかなりの期間、わざわざこの「昭和」を横線で消して西暦を書き、ほんとに小さな抵抗を続けたものだった。

 それからおおよそ20年後、今度は「国旗国歌法」が制定された。このときも法律は作るけど国民を縛るものではないのだ、と説明された。しかし今では学校の卒業式で校長、教頭が一般教師の口の動きまでチェックするほどの事態になっている。

 言うまでもないが、年号(元号)は天皇が時間をも支配するという思想であり、君が代はどう言おうが天皇賛美の歌である。
 戦前・戦中の日本では天皇は現人神(あらひとがみ)とされ逆らったら大変な罰を受けた。それは何のためだったのか。それこそ今の言葉で言えば既得権者の権益を確保するためであり、そのために庶民の反発、反抗を封じ込め、ついには日本を無謀な戦争に突入させるところまでに至った。
 しかもその戦争で多数の人の命を失わせ、日本人にも世界の人々たちにも大きな苦痛を与えたのに、ほんのわずかの責任者にだけ責任を負わせて、ほとんどの政治家、官僚、資本家はたいした傷も負わずに生き延び、戦後ほとぼりを冷ましたら皆復活してしまった。
 日本は間違っていなかったという右翼の主張はつまりこうした輩の責任を無かったことにしようということに他ならない。

 だから多くの日本人が天皇制に嫌悪感を覚え、疑問を持ち、異議を唱えたのは当然のことだった。

 ただよく考えてみると、ぼく自身は別に最初から反天皇制でも反体制でもなかった。
 子供のころ育ったのは埼玉県で、当時は日教組反主流派が強い力を持っていた。そのころの日教組・高教組は主流派が社会党系で反主流派は共産党系だった。
 そういうこともあって周りにいた先生には熱心な組合活動家が多かった。ほとんどの先生は良い先生だった。逆に組合活動に反発しているような先生には尊敬できる先生がいなかったような気がする。
 しかし、ぼくは子供の頃から自分で納得できないことを押し付けられるのが嫌いだった。そのころぼくが通学していた学校では行事のときに君が代を歌うことは無かった。教わったことも無かった。
 小学生の頃だから歌の意味も歴史もわからず、どうして君が代を歌わないのかが理解できなかった。だからぼくはたぶん一人で大声を出して君が代を歌っていた。

 おそらく戦後、1970年代くらいまでは、世の中全体も今とはずいぶん雰囲気が違った。おじさんたちは軍歌が好きで酒を飲むと軍歌を歌うというのが「デフォ」だった(父は歌わなかったが)。
 一方で天皇や皇室に対する感覚も今とはずいぶん違った。美智子皇后(当時は皇太子妃)は「ミッチー」と呼ばれ、紀宮(現黒田清子氏)は「サーヤ」と呼ばれた。それは本当に何の悪意も無く、親しみを込めて愛称で呼ばれていたのである。
 ぼくは直接は知らないが戦後すぐには天皇家を一般家庭のように描いたマンガもあったそうだ。
 もちろんメディアによるこうした天皇と皇族の伝えられ方の背景には、日本全体に強く残る天皇制アレルギーを和らげるために意図的に作られたイメージ戦略があったと思われる。まだ昭和天皇が健在で、それはつまり天皇の戦争責任の問題が生々しい問題として残っていたからでもある。
 しかしあえて言うが、そういう政府・政権の思惑というものがあったとしても、少なくとも天皇や皇室に対して「神聖にして侵すべからず」(大日本帝国憲法・第三条)という雰囲気は強くなかった。おそらく現在よりずっと明るく軽やかな感じだったと思う。
 もちろんすでに「風流夢譚事件(嶋中事件)」のような事件も起こっていて、マスコミはナーバスになり右傾化が始まっていたが、それでも今のような暗く重苦しい感じではなかった気がする。

 天皇と天皇制を巡る話は、長くならざるを得ない。とりあえず今回はここまでと言うことで。


ふと、脱資本主義を考えた

2013年06月16日 23時31分34秒 | Weblog
 この数年減っていたいわゆる「振り込め」詐欺が昨年末から急に増加し、月額の被害額が20億円レベルとなって2008年以前の状況に戻ったと言う。アベノミクスで最も成長した産業は実は詐欺だった。

 経済とは何か。おそらくいろいろな定義が出来ると思うが、少なくとも資本主義経済は経済競争を原理としており、それが経済学の基本的な研究対象となっている。
 競争である以上、誰かが勝ち誰かが負ける。
 少なくともミクロ経済のレベルではそれ以外はありえない。もちろん人類史的な巨大な視点で見るなら、また違った結論があるのだろうが。

 よく「winwin」と言う言葉が使われるが、今われわれが生きている世界の現実ではそれはあり得ない。もしそれに近いことが起こりうるとしたら、それは「三方一両損」と言うべきかも知れない。誰かひとりが勝つ代わりに、みんなが少しずつ我慢をして、それぞれが痛みわけをすることならあり得るだろう。

 競争をよしとするのが資本主義者であり、競争原理を否定するなら資本主義を否定するしかない。単純な二者択一である。

 ただし資本主義の競争は単純な競争ではない。そこにはあらかじめ嘘と言うかごまかしと言うか、隠された不公平が存在する、ということに気づいたのが「資本論」を書いたカール・マルクスであった。
 今マルクスの理論を展開する余裕は無いが、彼の有名な発見の一つに「資本家は労働者を搾取している」という資本主義の基本構造がある。この場合「搾取」とは、資本家が労働者に賃金を払って雇い働かせて利益を得るという、いわばごく当たり前の行為の中に、あらかじめ資本家が一方的に労働者の労働をタダで奪い取る構造が仕組まれているということを意味している。
 これはある資本家個人が悪党だと言うような話ではなく、資本主義という経済のシステム自体の中に組み込まれた構造だから、その意味で労働者も資本家も騙されているのだと言ってもよいだろう。

 ぼくは常々、近代はファンタジーの上に成り立っていると主張しているが、マルクス的な視点から見れば資本主義は壮大な詐欺の上に成り立っているといっても良いのかもしれない。
 そう考えると、日本の資本主義の再生をかけたアベノミクスで最も成長したのが詐欺だというのは、皮肉とも当然とも言えそうである。

 そんな中、今日のニュースサイトに掲載されていた二つの記事に目が向いた。
 ひとつは政府の社会保障制度改革国民会議が年金支給額を67~68歳に引き上げる検討をしているというニュース、もうひとつは、いわゆる「自炊」用の非破壊スキャン機が登場して出版業界に打撃を与えるのではないかというニュースだ。

 二つのニュースに特別な関連は無いが、しかし深い部分ではつながっている。それは人間が生きるための資材をいかにして獲得し、いかにして分配するかという問題だ。
 年金問題は現在支給を受けている高齢者の年金が、現在の若年層から徴収された年金掛け金によって支払われているのに、その若年層が高齢になっても現在の高齢者と同じような待遇を受けられない不公平のところにある。
 もう一方のスキャナー問題は、書籍の電子化が流行する中で、今までは本を1ページずつにバラバラに解体しないとスキャンできなかったのに、新しい機械は本を解体しなくてもきれいにスキャンできるため、たとえば図書館で借りた本を電子化してしまうことができる。そうするとそれが市中に出回って結果的に出版物の販売が激減する危険があるという問題だ。

 年金問題の場合、なぜ年金が必要なのかというところまでさかのぼれば、それは生きるためだということになるだろう。しかしもちろん、老人だろうが若者だろうが生きなければならないのだし、そういう意味では年金と呼ぼうが生活保護と呼ぼうが、生活が出来るように保証することは憲法にも明記された社会的義務である。
 問題なのは格差=不公平であって、より多く取る人とより多く奪われる人がいることが問題なのだ。だからいわゆるベーシックインカムのような制度を使って、年金も生活保護も最低賃金もみなそこに統合し、すべての人が同じ基準で生活資金(資材)を分配される仕組みにしてしまえば解決することなのではないだろうか。
 もちろん時代背景等によって、その時々の最低限の生活のレベルも違うだろうし、絶対額としてどの時代も同じにはならないだろうが、少なくともその時代、その時において、すべての人の生活をあるラインで保証することが出来るなら、不公平感もずいぶん違うのではないだろうか。

 スキャナー問題も問題なのは出版物が売れなくなることにあるのではなく、より本質的にはそのことによって出版にたずさわる人たちに収入が無くなること、また出版業の再生産に必要な資金が回収できなくなることにある。
 それなら人間については先に書いたようなベーシックインカムで保証すればよいし、産業自体についても産業版ベーシックインカムのような仕組みが作れればよい。特殊、出版についてはその場合、むしろ電子化はコストの圧倒的削減が可能になるため、よりやりやすくなるだろう。

 もし社会が決断さえ出来れば、こうした仕組みを作ることは不可能ではない。なぜならこうしたメカニズムは現在でも市場原理を通じてそれなりに実現されているからだ。仕組みを市場原理からいわば「社会主義原理」に変更するだけのことである。
 この場合おそらく、競争がなくなると経済が衰退し人類が生きていけなくなると言った反発が起きるだろう。しかしもちろんそんなことはない。むしろ現在の資本主義の行き詰まりを見れば、このまま人類が競争と過剰消費を続ける方が人類の破滅を招くにちがいない。

 まあ、かなり荒い論ではあるが、いずれこのくらいの大胆な視点の変換をしなければ、人類社会は存続できなくなると思っている。