あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

選挙を巡ってあれこれ

2012年11月25日 00時36分29秒 | Weblog
 AKB48が政治をパロって「総選挙」などというショービジネスを始めたのを見たときには、政治の劇場化・バラエティショー化が行き着くところまで行き着いた結果だなぁと思ったものだが、いよいよ今度はそのAKBのショーを逆輸入して、橋下さんが「候補はじゃんけんで決めよう」とか言い始めた。
 確かにこれは最も平等な方法だから、最も民主的と言ってよいのかもしれない。橋下さんにとっては本物の総選挙もAKBの総選挙も人気投票ショーと言う意味で本質的には同じことなのだろう。

 野田さんは「古い政治に戻してはならない!」と絶叫していたが、前にも指摘したように民主党に求められていたのは、かつて「最も進んだ社会主義」と海外メディアに皮肉られた古い自民党政治の復活であって、それではTPP参加という政策が新しいのかと言えば、それもまたブッシュ=小泉時代の新自由主義への逆戻りでしかない。
 だからと言って安倍自民党が新しいかと言えば、もちろんそんなことはなくて、こちちはさらにそんなレベルを軽々と飛び越えた復古主義になってしまっている。ようするに戦前の大日本帝国を復活させようという主張である。
 この選挙は、古い政治か、それともより古い政治かを選択する選挙の様相を強めている。

 ちなみに野田さんがいわゆる第三極を野合であると批判したのには、日本全国一億人の人が「そもそも民主党が野合だろうが」と即座に突っ込んだことと思う。
 ただ誰も指摘しないのでちょっとモヤモヤするのだが、元祖野合党派である自民党が、なぜかこの選挙では極右思想で完全に一体化してしてしまっているようで、この錯乱とも言える安倍さんのトンデモ公約に自民党内部から批判が聞こえてこないことがかなり恐ろしい。
 こうなってくるともはや自民党は完全に終わったなと思わざるを得ない。と言うか、すでにとっくに終わってるのか。

 今回の選挙を巡ってマスコミは「政党が多すぎてどこを選んでよいかわからない」という「キャンペーン」を始めている。ある意味巧妙である意味荒っぽい世論誘導である。
 客観的に政治家たちの言っていることを並べてみれば、誰が何を考えているのかは明確である。主張が変遷しているやつや両論併記的なことを言っているやつはようするに本音が別にあるということだ。
 ぼくは別に支持者ではないし、良くも悪くもと言うしかないが、はっきり言って主張が全くぶれていないのは共産党だけだろう。誰が見たって客観的にはそう言うしかない。
 ところがマスコミはその点には全く触れようとしない。中立公平の立場から一応共産党の主張を他と並列で並べてはいるが、さかんに「よくわからない」政治家たちのことを批判したり持ち上げたりする一方、共産党の主張が少なくともこの3~4年間の政権交代騒ぎの過程でもぶれていないということはあえて無視し続けている。
(残念ながらと言うか、社民党や公明党などはこの間に多くの妥協を重ね、結果的に変遷してきたと言うしかない。そしてその他の小政党はそれ以前にあまりに党としての歴史が浅すぎる)
 共産党の主張が気に入らないのであれば批判したって良いはずなのに、それさえしない、というか実際には共産党の公約はあまりにも大衆受けする主張で、これまでマスコミがあおってきたのとほとんど同じ内容だから表向きには批判できないのだろう。

 詳論は別の機会に譲るが、最後に一言付け加えれば、「どこを選んでよいのかわからない」のではなく、それはあなたがただ選びたくないだけなのであり、「選択肢が与えられない」のではなく、それはこれまであなたが自ら選択肢を排除してきた結果なのだ。
 もしあなたが本気になって考え、そのことに気づくのなら、この選挙も無意味ではないかもしれない。


あえて野田さんを評価する

2012年11月17日 01時23分45秒 | Weblog
 ぼくは野田さんの思想にも政策にも全く共感も支持もしないが、客観的に言ってこの15年間の日本の総理大臣の中では最も総理の資質があった人だと思う。
 残念ながら考え方はまるっきり間違っているので、だからこそ最悪の総理になる可能性もあったが、それも政治家の足の引っ張り合いの中でうまいこと泥沼に落ちてくれたから、小泉さんの悪さを抜くまでには至らなかった。
 野田さんの次に総理大臣の資質が高かったのは、もちろんその小泉さんで、3、4が無くて5に菅さん、次点が福田さんと言うのがぼくの評価である。

 何を基準にしているかと言えば、まず第一に政治家としてやり遂げたい政策を持っていたかどうかということで、もちろん本来ならどんな政治家であっても政治家である以上持っているはずのことなのだが、悲しい日本の貧困な政治状況の中で、多くの政治家はそれを忘れてしまうか、最悪の場合は最初から持っていないのが普通(!)である。21世紀の日本の総理大臣で明確にそれを持っていたのは、おそらく小泉さんと野田さんだけだった。
 小泉さんは郵政の解体、野田さんは消費税増税である。

 ちなみに菅さんや福田さんにはそうしたものを感じなかったが、彼らには総理大臣としてやるべきことへの意地と覚悟と決断力があったと思う。決断力が無かったかのように言われる菅さんだが、客観的に見れば原発事故への対応や脱原発への舵切など、自民党系の二世議員にはまず出来ないような決断と粘りを見せたし、福田さんは総理大臣としてのセンスも実力も皆無だったが、少なくとも自分のためではなく党のために身を引く見識と潔さを持っていた。
 それは別の言い方をすれば実行力とも言えるだろう。もちろん野田さんと小泉さんも少なくとも自分の思ったことを一応やりとげたのだから、実行力があったと言ってよい。

 別にそれがよかったとか正しかったとか言うつもりは無いが、野田さんは消費税法案を通すために、自ら火だるまになり、政権与党であった民主党の解体をも辞さなかった。そういう意味では小泉さんも自民党をぶっ壊すと言い放ち多くの敵を作りながら郵政民営化を実現した。
 もっとも現在郵政民営化路線が否定され葬り去られようとしていることに見られるように、既存勢力、既得権者の圧力は常に怒涛のように押し寄せているのであり、野田消費税増税路線もすぐに頓挫するのかもしれない。そうした目に見えない強大な力は不気味でうっとうしく、目に見える石原さんや橋下さんより実はずっと恐ろしいのかもしれない。

 ところでなぜ野田一位、小泉二位なのかと言えば、やりとげたかったことの質の違いを見るからである。
 小泉さんの郵政解体への原動力は私怨であった。そしてその上、別の理由から合衆国も日本の郵政を解体したがっていたのをよいことに、合衆国に日本の国益を売り渡すことを通じて力を借り、自らの野望を成し遂げたのである。
 それに比べれば野田さんの消費税増税は、全く純粋とは言わないまでも、彼の思想・哲学・状況判断の結果行き着いた、公益を(少なくとも主観的には)考えた上での政策であって、その意味で小泉さんのやったこと質が違うと思えるのである。

 それにしても本当なら「まともな」政治家が小泉さんや野田さんのような資質を持って登場してもらいたいところなのだが、それは今の日本の政治状況、日本人の民度からして非常に難しい。ああ本当につらいなぁ…

一票の格差は本当に格差なのか?

2012年11月15日 11時26分19秒 | Weblog
 引き続き選挙制度の話だが…

 どうやらいわゆる0増5減という法案は通るらしい。ただし今回の選挙では適用されないので「違憲状態」での選挙になるそうだ。ただ、そもそも「一票の格差」は本当に違憲なのか。

 違憲判断をした裁判所の根拠は法の下の平等を侵しているという論理だが、日本国憲法には具体的に選挙において一票の重さが平等でなければならないと書かれているわけではない。最高裁が二倍を越えると違法状態であると判断したことを基準に違憲か合憲が判断されているのだ。
 法律的解釈は一応合理的だとは思う。しかし憲法で保障されているのは一票の重さではなく人権上の平等だということが重要だ。

 そもそも現代の日本において法の下の平等が最も侵されているところはどこか? それは貧富の格差であり、地域格差なのだ。
 新自由主義者に言わせればそれも個人の努力の問題ということになるのだろうが、スタートの時点で不平等な競争が正当な競争であるはずがない。
 昭和の自民党政治は田中角栄の列島改造論に見られるように、地域格差の是正を名目にしながら、その実、重厚長大・中央集約型の政策を続け、その結果、地方はどんどん疲弊し過疎化が進行していった。逆に都市圏は過度な人口集中によって様々な問題を生み出しており、一例では宅地として不適当な土地に住宅がどんどん作られたために先の千葉の地盤液状化問題などの問題を引き起こすなどということが起こっている。

 まさに一票の格差問題はこうした原点にまでさかのぼって考えなければならない。
 大資本と政治家のために人口を奪われてきた地方が、そのことによってますます政治への影響力を奪われていくということが正しいことなのかよくよく考えるべきではないのか。数字の問題だけで割り切ってよいものなのか。
 たとえば沖縄の人口が東京と同じだったら、基地問題がこのようにいつまでも続いていただろうか。
 これは地域だけの問題ではない。問題を世代間格差に置き換えてみれば身に詰まれる人も多いのではないだろうか。年寄りと若者の一票の重さが同じだからこそ、数の多い年寄りに厚く数の少ない若者に冷たい政治が横行するのではないのか。

 一見間違いのない正義のように見えることでも、視点を変えてみればそんな単純なことではないことは常に忘れてはならないのだ。

40議席削減は身を切る政策か

2012年11月14日 23時55分15秒 | Weblog
 衆議院の解散総選挙が決定したらしい。
 野田総理が党首討論で自民党が定数削減法案に協力すれば解散すると発言したそうだ。

 これはつまり公然談合だ。安倍氏や小沢氏が「民主と自民だけで決めてよいのか」と反論したのはもっともだ。しかしそういう正論を吐いておいて安倍氏はさっさと野田提案に乗っかることを決めてしまった。野田氏の発言は覚悟を決めた迫力があったが、安倍氏の言葉はどこまでも軽い。

 まあそれはとりあえず置いておいて、さてこの国会議員の定数削減は消費税増税のバーターで「国会議員の身を切る」政策なんだと言う。そんなバカなことがあるか。ちょっと考えればすぐわかる。身を切るというなら議員歳費を減らせばよいだけだ。とりあえず一割削減して後でまた戻すとか野田さんは言っているが、一時的にせよ削れるのならずっとそのままにしておけよと突っ込みたいところだ。(*)
 ようするに定数削減とは、甘い汁は吸い続けるが甘い汁を吸える人数を減らそうというだけのことだ。
 だいたい議員を一割減らすのと歳費を一割減らすのとどっちが簡単なことだろうか。こんなおためごかしに国民がだまされるわけが無い…と思うのだが、どういうわけか多くの人が騙されているようだ。いったい誰が「国会議員の定数削減はとても良いことだ」というデマを生み出し、垂れ流し、人々を洗脳したのだろう?

 たとえば多摩大学学長で評論家の寺島実郎氏はことあるたびに「アメリカの国会議員はずっと少ない」「政治で飯を食う人間を減らさなければ政治の劣化を防げない」と発言している。
 しかしこれはあきらかに為にするレトリックだ。そもそも合衆国と日本の政治システムは全く違う。合衆国は合衆国であってすなわち連邦だ。州と呼ばれる独立国家が連合国家を形成しており、一般の国の国会にあたる州議会があった上で連邦議会が存在しているのである。大統領も直接選挙で選ばれる完全な三権分立であり、議院内閣制の日本とは統治システムの考え方が違う。日本の県議会や国会、総理大臣のあり方とは意味が違うのである。
 よく言われることだが日本の国会議員の数は明治時代にヨーロッパの議会を参考にして決めたと言われている。国民10万人にひとりの議員という割合であった。これは基本的に現在も変わらない。

 脇道にそれるが、寺島氏の発言の背後にあるのはアメリカ・コンプレックスである。ある意味でこれは戦後世代に宿命的な病だ。左翼から右翼まである世代の人々の頭の中に非常にしつこくこびりついている。アメリカは世界で一番進んだすばらしいデモクラシー社会だという誤った感情をぬぐうことができない。冷静に論理的に見ればわかるのだが心がそれを許さない。この世代の人たちは反米主義者でさえ強いアメリカ・コンプレックスに侵されている。

 話が脱線した。
 代議制というのは、もちろん大衆の代理人として少数の議員に議論を託す制度である。当たり前の話だが、代理人の数が多いほど大衆の意見をより生の形に近く議会に持ち込むことができる。
 ましてや現代のようなポストモダン社会においては価値観が多様化しているのだから、より多くの違った立場の意見が公の場に持ち込まれなくてはならない。
 つまり国民にとっては議員の数が多い方が良いのである。
 みんなで飯でも食いに行こうということになって、寿司かカツ丼かラーメンかイタリアンかフランス料理かタイカレーか、それとも一杯いくか、と考えている人たちに、選択肢は和食か中華の日替わり定食だけですと言ったらガッカリするのではないだろうか。贅沢と言えば贅沢だが少なくとも今は食糧難の時代ではないのだ。
 結果的に100パーセント自分の思い通りになるわけではないとしても、考慮の余地や選択肢が沢山あって議論の俎上に上っていくことで、それまで気がつかなかったことや新鮮な観点が浮かび上がっていき、より深く本質的な議論が出来るようになる。それが本来の「会議」の機能である。その意味では結論ありきであったり、議論がただの駆け引きでしかないような現在の国会は小学校の学級会以下だと言ってよい。

 よく思い出して欲しい。
 いつだったか、二大政党制になればもっと物事がダイナミックに決まるようになり日本が活性化すると、誰か言ってなかったか?(もちろんこれもアメリカ・コンプレックスのひとつの現れだが)
 二大政党制は独裁かねじれになるしかなく、その結果として何も決まらないか、より悪いほうに行くしかないということは、もはや当のアメリカ人だって気づき始めている。ハンバーガーかポテトチップスかどっちかがあれば満足できる味音痴の人でもなければ、二大政党制というのがあまりに乱暴で大雑把で野蛮な古い政治体制であることがわかると思う。

 そもそも議員の数が減ったら議員の質は向上するのか? そんな根拠はどこにあるのだろうか。
 常識的に考えれば、権力が少数のものに集中すればより腐敗が進む。だからこその民主主義ではないのか。最近では直接民主主義の是非が議論されることがあるが、議員の数が多いということはそれだけ直接民主主義に近いと言うことだ。
 議員の質を高めるために必要なのは議員を特権階級化させないことだ。権力を持つからこそ特権が与えられないようにしなくてはならないのだ。

 なぜこんな当たり前のことが誰にも理解されないのか。それが不思議でならない。

* 12/11/17追記 実際は2割削減だった

政権交代とは何だったのか(2)

2012年11月08日 21時55分37秒 | Weblog
 いわゆる政権交代の時に様々な言説が乱れ飛んだわけだが、私見では大きく言って三つの立場があったように思う。
 ひとつめは「国民が変化を望んだ結果」「二大政党制がようやく実体化した」などと政権交代を肯定的に受け止める立場で、こうした論調の背景にはポスト小泉時代における自民党政権の混乱と低迷への失望感があり、もう少し具体的に言うならそれは総理大臣が一年ごとに変わってしまう政治の不安定さと景気低迷・悪化感の持続・蔓延に対する国民的ストレスの増大であった。
 有権者はこれを閉塞感と感じ、それを打破する「自民党ではない」民主党に期待したのだ。

 もうひとつの立場は「自民党へのお仕置き」論である。
 これらの人々は前述したような状況への不満を持ってはいるが、基本的に自民党以外に日本の政権運営はできないと信じており、いわば逆説的に自民党再生への期待をかけて(自民党が反省して自己変革するきっかけになるようにと)民主党に投票した。
 一見矛盾した行動のようにも思えるが、実際には民主党も第二自民党でしかないわけで、こうした人々は自民と民主の間に決定的な違いが無いことを看破していたのだとも言えよう。

 そして最後のひとつは、あたかも民主党政権が極左政権であるかのように言い募るデマゴギーであった。多くはネットウヨクなどの右翼ならざる右翼の言説であったが、ここには彼らの恐怖か傷心か侮蔑か中傷か危機感か、もしくはおそらくそのすべてがない交ぜになった感情を読み取ることができる。
 本論とは関係ないことだが、こうした人々にとっては、より融和的な思想や政策は否定すべきものと映る。彼らにとって国家は、実態的には弱者でしかない自分自身を観念的に強大化させてくれる依り代なのであり、そうした「強くあってくれないと困る」国家の論理としては脆弱で頼りなく思えてしまうのである。

 さてこうした三つの論調の中で最も「正論」として語られたのは最初の立場のものであり、そしてそれは政権交代をあおり演出したマスコミの主論でもあった。
 世の中の多くの人々が(それはようするに自ら当事者である人々が)その言葉を信じてしまったが、しかしもちろんこれは誤りだった。
 もし有権者が本当に変化・変革を望んでいたのであれば、もっと自民党から遠く離れた野党がより多く選択されたはずだ。具体的には社共の得票率が(過半数とは言わないまでも)より伸びてしかるべきだったのに、現実にはそうしたことは起きなかった。
 つまり国民=有権者は変革を望んで民主党に投票したのではなかったのである。

 当時、そして今現在、人々が感じている閉塞感とは何か。
 おそらくそれは基本的には経済的な閉塞感である。景気がよくならない、生活は苦しくなっていくばかり、といった感覚だ。震災と進まない復興、領土問題などは、それとくっついているからこそ、より重たく息苦しく感じられるのである。
 しかし残念ながらというか、現在の経済状況は歴史的必然として現れているものであり、景気が回復するとかしないとかいうレベルの話ではない。いわゆる先進国、すなわち日米欧といった20世紀の帝国主義・覇権国家が世界人類を支配する時代が終わろうとしているのだ。
 エジプトやメソポタミアの王国が、ローマ帝国やオスマン帝国が、スペイン、ポルトガルが、大躍進して絶頂を向かえそして没落して行ったように、今われわれも世界の頂点から転げ落ちているのである。永遠の覇者など存在しないのだ。

 ただ付け加えておくなら、これは覇権がアメリカから中国に移るなどという単純な事態ではない。
 産業革命に伴って起きた世界史的転換は経済的な覇権が重商主義的国家から工業国へ移ったというだけではなかった。それは科学主義の台頭、平民的民主主義、自由主義的競争社会の現出など文化的社会的側面においても人類史上の一大変革であった。
 今おこっている事態はまさにそれ以上の非常に大きな激動だと言ってよい。
 なぜなら現在人類が直面しているのは、ヒトという種と地球自然環境の関係性を根本的に変えるか、それともこのまま人類の衰亡へと向かうのか、大げさではなく人類史上最大の危機との戦いであるからだ。
(これはまさしく「地球幼年期の終わり」を果たせるかどうかの人類の正念場であるわけだが、このテーマはそれ自体かなり大きい話なのでいつか稿を改めたいと思う)

 話を戻せば、単純に言って国民=有権者が求めた(求めている)のは経済的繁栄の再来であり、ようするに1980年代までの高度成長~バブル期をもう一度(というか永遠に)ということである。しかしそれは残念ながら無いものねだりであり、絶対に有り得ない「ファンタジー」である。
 しかし一方、宿命的に政治家はたとえ嘘であったとしても常に大衆が喜ぶことを言い続けるしかなく、人々はこれまた自分に一番都合の良い嘘をつく者を選択する(もしくは許容する)のである。

 もちろん本当の解決策はひとつの国家がこのように経済的、政治的なステイタスを相対的に低下させていくときに、どのように「豊かさ」を形成していけるかである。今現在の我々にとっての変革・前進というのは本来そうした方向に無ければならないはずだ。歴史が繰り返さない以上、過去の栄光に浸ることは真の意味での没落をしか意味しない。そうである以上、我々は今こそ自らの価値観を変革し前進していかねばならないのだ。
 流行語ではないが「一番じゃなきゃいけないんですか?」という問いかけを自らにしなくてはならない時はとっくに来ている。事実を見てみよう。世界を見回してみれば別にGDPの順位が高い国が豊かな国なのではない。そんなこととは全く関係なく人々が豊かさを感じている国はいくらでもある。そもそも日本人はこれまで自分たちが豊かだとなかなか実感できないできたではないか。
 そんなことはすでにショーペン・ハウエルの時代から明らかなことなのに(「富は海水に似ている。飲めば飲むほど喉が渇く」『幸福のためのアフォリスメン』)、思考が完全に「アメリカあたま」として洗脳されてしまっている我々はそのことに思い至ることすらできない。
 実はこのあえて言えば「歪んだ」日本人の精神構造こそ、現在の日本の混迷する政治を生み出している元凶であり、また同時に民主党政権交代を実現させた原動力だったのである。

 思えば政権交代当時、流行していたのは昭和ブームであった。「三丁目の夕日」とか「20世紀少年」とか「東京タワー」とか。それはおそらく歴史的現実としての「戦後」ではなく、イメージとしてのバラ色の高度経済成長だった。いつの間にか国家的大悪人であった田中角栄が英雄視されるようになるまで昭和のファンタジー化は進行してきている。
 繰り返しになるがもう一度はっきり言おう。国民=有権者が望んでいた(いる)のは前進でも変革でもなく過去への回帰である。人々が民主党に求めたのは新しい論理、新しい価値観、新しい政治などではなく、高度経済成長期の「古い」政治、「昔の自民党」だったのである。
 まさに政権交代時の民主党=鳩山・小沢体制は鳩山一郎と田中角栄という高度経済成長期の自民党を暗示していた。新自由主義という過酷なポスト冷戦期をもたらした小泉時代~ポスト小泉時代に疲弊しきった人々が求めたのは、右肩上がりだった時代への郷愁だったのだ。
 にもかかわらず人々は自らさえもごまかすごとく、民主党という選択を「新しい」選択であると思い込んだのであった。それはファンタジーにファンタジーを上乗せしたまさに「夢」だった。

 夢である以上それは必ずいつか覚める。そのとき現実に気づき、それを受け入れるのか、再び現実から逃避して夢の世界に浸ろうとするのか。われわれにとって大変困難なのは、政治家、評論家、マスコミ、学者、ありとあらゆる勢力が事実を隠蔽し、われわれを永遠に夢の世界に留めおこうとするということだ。その夢は、経済がいつまでも拡大し続け、人類は無限に富を増やし続け、そして一つの国が永久に世界のトップであり続けることが出来るという、夢の錬金術、永久機関という中世的幻想である。
 もちろん人はいつまでも夢を見ていたい。それが出来るのなら幸せなことだ。しかし麻薬が見せる夢は地獄の門の入り口であることを忘れてはならない。

田中文科相たたきが示すもの

2012年11月07日 12時00分08秒 | Weblog
 ぼくは田中真紀子が嫌いだ。
 ついでに言うと、公務員バッシングとか官僚がすべての元凶という論調にも組しない。まずそれは最初にお断りしておく。

 さて先日来、田中大臣が新設大学三校を認可しないと宣言した件で、マスコミも自民党もここぞとばかりに田中叩き、ひいては野田内閣の問題として大騒ぎをしている。
 だいたいの論調は総論賛成、各論反対、ようするに「言っていることは正しいがやり方が間違っている」といったところだろう。
 たしかに進学を希望している学生にとっては深刻な問題であり、同情するし、これらの大学が認可されても良いと思う。

 ただこの「田中たたき」は明らかに変だ。
 日ごろ政治主導だ、官僚主導の打破だ、と言っているマスコミ・評論家・自民党や「改革派」右翼タレント首長たちが、この田中大臣の「政治主導」をこぞって非難するのはこっけいと言うしかない。
 こういうところに本音、本心、決意の強さというものが透けて見える。

 もと朝日新聞記者で極右の評論家でもある萩谷順法政大学教授はテレビ番組で「法律に従わなければならない大臣が法律・規則をちゃぶ台返しした」「文科省の指導に従ってきた新設大学を認可しないよりも問題のある大学をつぶすべきだ」と発言していた。
 この問題に関して最もひどい意見なのであえて取り上げるが、このところ続いている大学の廃止や解散命令などのニュースを見れば明らかなように、これから進学しようとする学生の負うリスクより、すでにある大学が無くなるほうがはるかに学生への痛手は大きい。それこそ直ちに出来ることではないし、より慎重に進めるべきことになってしまう。
 たしか例の大澤孝征弁護士も、もし訴えられたら田中大臣が負ける可能性が圧倒的に高いと言っていたと思うが、田中大臣のどこが法律に違反していると言うのだろうか。
 大学の設置については審議会が3月から検討し10月に大臣に答申する。それをその月の終わりに大臣が認可するかしないか決定したのだから、これが法律や規則を侵しているとはとても言えない。厳密に法律に従うというのならそういうことになる。
 つまり萩谷教授が言っていることは、政治家は法律や規則ではなく官僚が決めた暗黙のルールに従うべきだということなのである。

 確かに田中大臣の今回の決定は唐突ではある。しかし管前総理の原発事故処理・脱原発路線への舵きりもそうだったが、官僚や既得権益と闘うためには奇襲以外に勝ち目はない。おそらくそんなことはみんな知っている。
 相手の体制が固まらないうちに、反包囲網が出来ないうちにすばやく事を進めなくてはならない。(もちろんそれは戦術的に必要だと一般的に言うだけであって戦略的に正しいかどうかはまた別問題であるが)
 決断を遅らせれば、千葉景子元法務大臣のように死刑廃絶派の政治家でさえ死刑執行命令を下さざるを得ない状況に追い込まれるし、いろいろ言い訳をして今後死刑廃絶への検討を進めていくなどと言っていたのが今や官僚の思惑通り論議は雲散霧消してしまったではないか。

 つまりは官僚から主導権を奪還するなどと言いながら結局それは政治的な駆け引きに過ぎず、実際には決意も実行力も持っていない政治家が大半だというのが現実である。
 マスコミや評論家もしかりで、政治家や官僚を叩いておけば安全だと思っているだけで、現実に世界が本当に変わろうとしたらそれに頑強に抵抗するのである。

 ただそれは本当のことを言えば政治家や官僚やマスコミの責任ではないのかもしれない。「民主主義」社会の中で誰もが人気取りに走り、大衆の耳あたりの良いことを言い続けることが本性となってしまったのだ。
 自分の本心ではない甘言を吐き続け、大衆を騙し続けることこそが現代社会の処世術なのである。
 それが嫌なら、まず自分自身が騙されない人に、つらくとも厳しい現実を受け入れる人間に変わっていくしかない。