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あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

チュニジアのテロと民主化への幻想

2015年03月19日 18時33分09秒 | Weblog
 チュニジアのチュニスでテロが発生し、日本人を含む外国人にも多数の死傷者が出た。マスコミはチュニジアが「アラブの春」の数少ない成功例であり、民主化が一番進んでいると伝えている。そのニュアンスとしては「民主化したのになぜ?」「周辺の国にイスラム国が台頭しているのでそこから過激派が侵入した」というものである。
 その視点が間違っているということを、実は今回の事件そのものが示しているのだと思う。それはつまり欧米日の先進国の、というより近代の「常識」にとらわれた見方が実は大きく誤っているということだ。
 近代的「常識」では、独裁より民主化の方が進歩的であり、正しい選択だと考える。もちろんそれはそれだけを取り出せば正しいかもしれない。
 しかしアラブの春が明らかにしたことは、民主主義的な選挙を行うと復古主義や原理主義が選択されてしまうという現実であった。それは北アフリカだけの問題ではなく、すでにヨーロッパ各国ではネオナチなどの極右政党がじわじわと得票率を上げてきており、福祉先進国と思われていた北欧やフランスでも凄惨なテロが発生している。テロが拡大する背景には当然一定数の支持者の存在があるはずだ。
 もちろんそれは日本も例外ではなく、極右の安倍政権が戦後史上最大の支持を受けて圧倒的な権力を握り、好き放題出来る状況が生まれてしまった。
 別の言い方をすれば、「民主主義」や「民主化」が経年劣化を起こし、腐敗しつつあるとも言えるだろう。封建主義社会との狭間の時期においては、民主主義は進歩的、リベラルな社会への脱皮と結びついていたが、現代ではむしろ現状の固定化や古い思想、封建的思想への揺り戻し、理想より現実的権力への志向へ向かっている。もうひとつ別の言い方をすれば、これはようするに近代が終焉期に入ったと言うことでもある。
 実はこうした民主主義の腐敗の原因は近代自体が内包していたものである。このことは当ブログで何度も指摘していることなので恐縮だが、また繰り返させていただく。
 近代の理念はまさにフランス革命のスローガン「自由・平等・博愛(友愛)」に象徴される。もちろんこのスローガン自体は否定されるべきものではないが、実は相互に矛盾を抱えている。個人の自由が絶対的に優先されれば、他者との平等や、より下位の者への博愛の精神は忘れられてしまう。そして実際に世界史はそのように進んできた。民主主義の名の下に強収奪が容認され、21世紀の世界は史上最大の格差社会になってしまった。そしてそれこそが現在の各種の「テロ」の根本要因になっているのである。チュニジアが民主化しても若者の失業率は高く、そうした不満がイスラム国への参加者世界一と言われる状況を生んでいる。
 このことをどう考えたらよいのか。もちろん近代を後戻りさせることは解決にならない。腐った近代を終わらせて、近代を引き継ぎ発展させた次の時代を作る以外に解決策はない。もう少し言えば、それは「自由・平等・博愛(友愛)」を真っ当な解釈で再生させることである。
 自由と平等と博愛は並列的に並べられるものではない。このスローガンが矛盾無く成立するためには優先順序が必要だ。それは当然、博愛→平等→自由にならざるを得ない。もちろん博愛は思想もしくは価値観であり制度化できるようなものではない。しかしその価値観の上に、まず平等が保証され、それを侵害しない限りでの自由が容認されるのである。肝心なのは平等である。
 そして当然それは形式であっては意味が無い。事実上の平等、すなわち格差が常に解消され続ける社会でなければならない。そのために平等は「結果の平等」であることが前提とされる必要がある。なぜなら「条件の平等」が今までずっと格差を容認する言い訳に使われてきたからである。
 付け加えれば人間はそもそも不平等である。全く同じ人間はいないし、全く同じ境遇などあり得ない。だから何が平等なのか、平等とは何かという問いに確定した答えなど無い。「格差が常に解消され続ける社会」というのは、常に「平等とは何か」を考え続ける社会でもあるはずだ。厳しくつらく誰もやりたがらない仕事をする人が、他の人より優遇されることは平等と言うよりは不平等なのかもしれない。しかしだからと言ってその待遇があまりにも違ってしまったら、それも不平等になってしまうかもしれない。その意味では近代を超える次の時代は、固定的、確定的な社会ではあり得ない。
 すでに人類は十分成長してきた。もう少し考えることが出来れば、そして少しの勇気があれば、近代を超えることは不可能ではない。あとはそのことに気づけるかどうかである。


とは言え鳩山氏も

2015年03月15日 00時45分47秒 | Weblog
 さて、鳩山由起夫氏に対するパッシングが国益ならぬ誰かの私益のために行われているとしても、もちろん鳩山氏が正義であるわけでもない。

 もちろん鳩山氏が自分の「信念」で、現在の安倍政権の方向性を批判し、思ったことを発言するのは自由だし、確かに言ってることは正しいかも知れない。ぼくも「日本人は洗脳されている」と思うし、パスポートを失効させられたらクリミアに住むと発言したのもよく言ったと思う。そもそも、発端はウクライナのクーデターにあり、その意味でクリミア問題は、現ウクライナ政府が「違法」な手法で暴力的に政治権力を奪ったからこそ起きた問題である。そのウクライナ政府とそれを無批判に承認した欧米が、少なくとも表向きには民主主義的に行われたクリミアの住民投票を非難しても、目くそ鼻くその話にしかならないと思う。

 それはそうだとしても、しかしやはり鳩山氏に諸手を挙げて賛同するという気にはならない。そこまで言うのなら、なぜ総理大臣の時にその自分の信念を貫かなかったのか。なぜアメリカに対して沖縄基地の「最低でも県外」を主張しなかったのか。
 鳩山氏は官僚に良いようにやられてしまったと言っているが、それは言い訳でしかない。それまでの公約をそのまま言うことが出来なかったはずがない。だが鳩山氏は一回たりともアメリカに対して県外移設を要請することがなかった。

 そんな鳩山氏が今なにを言っても残念ながら何の説得力もない。おそらく政治家としては最低なのだと思う。だから良くも悪くも鳩山氏を叩く意味がない。鳩山氏の言動に何の意味もないからだ。何を言い何をやっても、彼は最後にはどっちつかずになって話をすべてうやむやにしてしまうだろう。それはただ何も変わらないのではない。状況をより悪くするのである。
 沖縄がそうだ。安倍政権成立がそうだ。鳩山氏が人々に期待を持たせ、しかし結果的に全てを裏切ったから、沖縄では人々が米軍や日本政府と抜き差しならない厳しい対立状態になったのだし、本土では民主党に絶望した人々が極右政権を選択してしまったのである。

 もちろん政治家は結果を出さなくてはならない。だから現実的な選択をすることが必ずしも間違っているとは言えない。しかし人々はまずもって政治家に納得のいく行動を求めているのだ。結果的に出来なかったとしても、そこに向かって全力を尽くす姿を見たかったのだ。
 ぼくは安倍政権を全く認めるつもりはないが、それでも安部氏は自分の言ったことを実現しようと全力を尽くしている。その方向性が全く逆方向だから、それは大変な脅威になってしまってうれしくはないが、安部氏が鳩山氏よりも政治家として質が高いことは結果として認めざるを得ない。

 ただこのことが意味しているのは、もしかすると保守政治の枠の中では、どんなに正しい考え方を持っていても何の力にもならないということなのかもしれない。その枠の中は右方向には動けるが、逆方向には身動きがとれない構造になっているのかもしれない。鳩山氏に続いた管元総理がグズグズの保守政治を行い、原発問題で敗北したことを併せて考えると、そう思えなくもない。

「鳩山叩き」に見る「国益」の正体

2015年03月14日 23時36分00秒 | Weblog
 「国益」という言葉は、いったいいつからこんな風に氾濫するようになったのだろう。20世紀の後半に「国益」などと口にするのはかなり特殊なことだったような気がする。
 それにはもちろん理由があって、人々が戦争を忘れていなかったからだ。戦争は「国益」のために行われ、それに反する者は「国賊」であり「非国民」であった。しかし惨めな敗戦を経験して、人々はそれが全くのデタラメであり、財閥や軍官僚など一部の特権階級の利益のために大衆を騙すための悪魔の呪文であったことに気づいた。「国益」の名の下に人々にもたらされたものは、財産を失い、家族を失い、穏やかな生活を失い、人間性を失い、そして最後は自分の命まで失う状況だけだった。
 だから戦後は個人の権利が高らかにうたわれた。国より国民、国益より個人の利益が当たり前のように尊重された。それはまた日本国憲法の精神でもあった。
 もっとも特権階級は素晴らしい変わり身の早さで、今度は「個人の権利」を錦の御旗に押し立てて、あらゆる富をむさぼり食うことを正当化することになったのだが。

 鳩山由紀夫元首相がクリミアを訪問し、ロシア編入を決めた住民投票は正当である等と発言したことに対して、政治家、評論家、マスコミ、ネットが総掛かりで批判している。そのキーワードこそ「国益」である。しかしそのことが逆に「国益」の正体を如実に現すことになってしまった。

 ごく普通に常識的に考えるなら、鳩山氏を袋だたきにすることこそが国益を損なうことは明白だ。もし鳩山氏の行動を認めないのなら、政治家はただ黙って無視すればよい。いくら元首相と言っても今はただの人でしかないのだから。それをあえて大声で非難したら何が起こるか。当然ロシア側が反発せざるを得なくなる。公人が公の場で非難すると言うことは、相手側を公式の場で反駁せざるを得ない状況に追い込むと言うことだ。北方領土問題を抱え、ロシアとの関係性を悪化させたくない現状では、このことは全く国益に反する。
 また、各国の人権侵害、思想・言論統制を非民主主義的と非難するのなら、日本では多くの思想や立場が尊重され、誰もがその言動を認められていると示す方が、国際的にはずっと日本の成熟した民主主義をアピールできるはずである。

 それではいったいなぜ、みんながこぞって鳩山叩きに出るのか。その理由は一つしか考えられない。ようするにアメリカのポチとして「米国の国益」に反しないことをアピールしようとしているのだ。まさに忠誠合戦である。みっともないと言うか、恥ずかしいと言うべきか。
 「国益」は当然ながら「国民の益」ではない。そして「日本国の益」でさえない。ここに如実に表れているように、それは政治や権力の中枢にいる者(と、そこに群がって自分もおこぼれにありつきたい者)の自分にとってだけの「益」なのである。

 ひとつだけ蛇足を付け加えるならば、その当のアメリカは大統領経験者がフリーの立場を利用して、独自の民間外交を行っている。それは時の権力の意向と全く違う方向で多面的に外交を展開できるメリットがあるからだ。そこにはしたたかな戦略があり、政治家が行う表面的な批判は必ずしも本音ではなく、ある種の策略や演出によって行われたり、あえて行われなかったりする。それが必ずしも良いとは思わないが、何も考えず一番力の強い者に媚びへつらって、寄らば大樹、長いものに巻かれろ式の生き方よりは、ずっと頭が良く、洗練された文化だと思わざるを得ない。

「報ステ」古賀氏のレトリックが

2015年03月06日 23時46分25秒 | Weblog
 報道ステーションで干されていた古賀茂明氏が久々に登場し、数分間にわたって「演説」した。部分的に混乱した部分もあったが、「官邸から怒られた」といったフレーズを何度も繰り返し、安倍政権との対決姿勢をはっきり示していた。ネットではまた「叩き」で祭り状態になるだろう。
 ぼくは古賀氏の主張に賛同しているわけではないが、しかし政府に対して正面切って批判する声がテレビから聞こえてくることはうれしい。おそらくこの背後に様々な権力側の圧力と闘う多くの人がいるであろうことを思うと敬意を禁じ得ない。

 ただやはり古賀氏のレトリックには少しイライラするところもある。古賀氏は集団的自衛権や自衛隊の文官統制など一連の安倍政権の軍事政策について、ひとつひとつ個別にやっていてそれぞれには納得できるようなところもあるが、最終的にどのような国を目指すのかがはっきりしない、という主旨の発言をした。
 しかし安倍政権と自民党が目指している国の形ははっきりしている。たしか井上ひさしだったと思うが、国の形とは憲法のことだと言った人がいた。まさに安倍政権と自民党が目指している国の形は、自民党の憲法草案そのものである。つまり国民の権利を抑圧して国家の力を強化し、戦争の出来る国にするということだ。もっとわかりやすく言えば戦前・戦中の日本に戻っていこうと言うことである。

 それに対して我々が目指してきた国の形は、現在の日本国憲法そのものである。そしてそれは未だに自民党政権が一度も守ったことも守ろうとしたこともないものだ。守らなくてはならないと書かれている憲法を守ろうとしたことのない者が、勝手に自分に都合の良い憲法を作ろうとする。そうなったらおそらく自分たちが作った憲法もそもそも守る気だってないのかもしれない。それは今問題になっている政治資金規正法と同じである。自分たちで作った自分たちを縛るはずの法律を、そもそも抜け道だらけで守らなくて済むように設計してあるのだ。

 現行憲法が「わかりづらい」などと言う理由は全くの後付けでしかない。そんなことを言い始めたら、安部氏の政治とカネの説明などもっとわからない。問題なのは精神であり、どのような国の形を求めるのかということなのである。