チュニジアのチュニスでテロが発生し、日本人を含む外国人にも多数の死傷者が出た。マスコミはチュニジアが「アラブの春」の数少ない成功例であり、民主化が一番進んでいると伝えている。そのニュアンスとしては「民主化したのになぜ?」「周辺の国にイスラム国が台頭しているのでそこから過激派が侵入した」というものである。
その視点が間違っているということを、実は今回の事件そのものが示しているのだと思う。それはつまり欧米日の先進国の、というより近代の「常識」にとらわれた見方が実は大きく誤っているということだ。
近代的「常識」では、独裁より民主化の方が進歩的であり、正しい選択だと考える。もちろんそれはそれだけを取り出せば正しいかもしれない。
しかしアラブの春が明らかにしたことは、民主主義的な選挙を行うと復古主義や原理主義が選択されてしまうという現実であった。それは北アフリカだけの問題ではなく、すでにヨーロッパ各国ではネオナチなどの極右政党がじわじわと得票率を上げてきており、福祉先進国と思われていた北欧やフランスでも凄惨なテロが発生している。テロが拡大する背景には当然一定数の支持者の存在があるはずだ。
もちろんそれは日本も例外ではなく、極右の安倍政権が戦後史上最大の支持を受けて圧倒的な権力を握り、好き放題出来る状況が生まれてしまった。
別の言い方をすれば、「民主主義」や「民主化」が経年劣化を起こし、腐敗しつつあるとも言えるだろう。封建主義社会との狭間の時期においては、民主主義は進歩的、リベラルな社会への脱皮と結びついていたが、現代ではむしろ現状の固定化や古い思想、封建的思想への揺り戻し、理想より現実的権力への志向へ向かっている。もうひとつ別の言い方をすれば、これはようするに近代が終焉期に入ったと言うことでもある。
実はこうした民主主義の腐敗の原因は近代自体が内包していたものである。このことは当ブログで何度も指摘していることなので恐縮だが、また繰り返させていただく。
近代の理念はまさにフランス革命のスローガン「自由・平等・博愛(友愛)」に象徴される。もちろんこのスローガン自体は否定されるべきものではないが、実は相互に矛盾を抱えている。個人の自由が絶対的に優先されれば、他者との平等や、より下位の者への博愛の精神は忘れられてしまう。そして実際に世界史はそのように進んできた。民主主義の名の下に強収奪が容認され、21世紀の世界は史上最大の格差社会になってしまった。そしてそれこそが現在の各種の「テロ」の根本要因になっているのである。チュニジアが民主化しても若者の失業率は高く、そうした不満がイスラム国への参加者世界一と言われる状況を生んでいる。
このことをどう考えたらよいのか。もちろん近代を後戻りさせることは解決にならない。腐った近代を終わらせて、近代を引き継ぎ発展させた次の時代を作る以外に解決策はない。もう少し言えば、それは「自由・平等・博愛(友愛)」を真っ当な解釈で再生させることである。
自由と平等と博愛は並列的に並べられるものではない。このスローガンが矛盾無く成立するためには優先順序が必要だ。それは当然、博愛→平等→自由にならざるを得ない。もちろん博愛は思想もしくは価値観であり制度化できるようなものではない。しかしその価値観の上に、まず平等が保証され、それを侵害しない限りでの自由が容認されるのである。肝心なのは平等である。
そして当然それは形式であっては意味が無い。事実上の平等、すなわち格差が常に解消され続ける社会でなければならない。そのために平等は「結果の平等」であることが前提とされる必要がある。なぜなら「条件の平等」が今までずっと格差を容認する言い訳に使われてきたからである。
付け加えれば人間はそもそも不平等である。全く同じ人間はいないし、全く同じ境遇などあり得ない。だから何が平等なのか、平等とは何かという問いに確定した答えなど無い。「格差が常に解消され続ける社会」というのは、常に「平等とは何か」を考え続ける社会でもあるはずだ。厳しくつらく誰もやりたがらない仕事をする人が、他の人より優遇されることは平等と言うよりは不平等なのかもしれない。しかしだからと言ってその待遇があまりにも違ってしまったら、それも不平等になってしまうかもしれない。その意味では近代を超える次の時代は、固定的、確定的な社会ではあり得ない。
すでに人類は十分成長してきた。もう少し考えることが出来れば、そして少しの勇気があれば、近代を超えることは不可能ではない。あとはそのことに気づけるかどうかである。
その視点が間違っているということを、実は今回の事件そのものが示しているのだと思う。それはつまり欧米日の先進国の、というより近代の「常識」にとらわれた見方が実は大きく誤っているということだ。
近代的「常識」では、独裁より民主化の方が進歩的であり、正しい選択だと考える。もちろんそれはそれだけを取り出せば正しいかもしれない。
しかしアラブの春が明らかにしたことは、民主主義的な選挙を行うと復古主義や原理主義が選択されてしまうという現実であった。それは北アフリカだけの問題ではなく、すでにヨーロッパ各国ではネオナチなどの極右政党がじわじわと得票率を上げてきており、福祉先進国と思われていた北欧やフランスでも凄惨なテロが発生している。テロが拡大する背景には当然一定数の支持者の存在があるはずだ。
もちろんそれは日本も例外ではなく、極右の安倍政権が戦後史上最大の支持を受けて圧倒的な権力を握り、好き放題出来る状況が生まれてしまった。
別の言い方をすれば、「民主主義」や「民主化」が経年劣化を起こし、腐敗しつつあるとも言えるだろう。封建主義社会との狭間の時期においては、民主主義は進歩的、リベラルな社会への脱皮と結びついていたが、現代ではむしろ現状の固定化や古い思想、封建的思想への揺り戻し、理想より現実的権力への志向へ向かっている。もうひとつ別の言い方をすれば、これはようするに近代が終焉期に入ったと言うことでもある。
実はこうした民主主義の腐敗の原因は近代自体が内包していたものである。このことは当ブログで何度も指摘していることなので恐縮だが、また繰り返させていただく。
近代の理念はまさにフランス革命のスローガン「自由・平等・博愛(友愛)」に象徴される。もちろんこのスローガン自体は否定されるべきものではないが、実は相互に矛盾を抱えている。個人の自由が絶対的に優先されれば、他者との平等や、より下位の者への博愛の精神は忘れられてしまう。そして実際に世界史はそのように進んできた。民主主義の名の下に強収奪が容認され、21世紀の世界は史上最大の格差社会になってしまった。そしてそれこそが現在の各種の「テロ」の根本要因になっているのである。チュニジアが民主化しても若者の失業率は高く、そうした不満がイスラム国への参加者世界一と言われる状況を生んでいる。
このことをどう考えたらよいのか。もちろん近代を後戻りさせることは解決にならない。腐った近代を終わらせて、近代を引き継ぎ発展させた次の時代を作る以外に解決策はない。もう少し言えば、それは「自由・平等・博愛(友愛)」を真っ当な解釈で再生させることである。
自由と平等と博愛は並列的に並べられるものではない。このスローガンが矛盾無く成立するためには優先順序が必要だ。それは当然、博愛→平等→自由にならざるを得ない。もちろん博愛は思想もしくは価値観であり制度化できるようなものではない。しかしその価値観の上に、まず平等が保証され、それを侵害しない限りでの自由が容認されるのである。肝心なのは平等である。
そして当然それは形式であっては意味が無い。事実上の平等、すなわち格差が常に解消され続ける社会でなければならない。そのために平等は「結果の平等」であることが前提とされる必要がある。なぜなら「条件の平等」が今までずっと格差を容認する言い訳に使われてきたからである。
付け加えれば人間はそもそも不平等である。全く同じ人間はいないし、全く同じ境遇などあり得ない。だから何が平等なのか、平等とは何かという問いに確定した答えなど無い。「格差が常に解消され続ける社会」というのは、常に「平等とは何か」を考え続ける社会でもあるはずだ。厳しくつらく誰もやりたがらない仕事をする人が、他の人より優遇されることは平等と言うよりは不平等なのかもしれない。しかしだからと言ってその待遇があまりにも違ってしまったら、それも不平等になってしまうかもしれない。その意味では近代を超える次の時代は、固定的、確定的な社会ではあり得ない。
すでに人類は十分成長してきた。もう少し考えることが出来れば、そして少しの勇気があれば、近代を超えることは不可能ではない。あとはそのことに気づけるかどうかである。