2022年大晦日の朝日新聞「天声人語」の一節。
「右と左は鏡のなかで逆になるのに、なぜ上下は反転しないのだろう。片目をつぶってみたり、顔を斜めにしたりしても変わるのは左右だけ▼ひょっとして私の目が横についているからか。それとも地球の重力のせいか」
うむむ…
真面目に言えば鏡像は反転していない。
透明なガラスにマジックで菱形を書く。各頂点にA、B、C、Dと記号を打つ。これを鏡に映してみよう。
この時、鏡に映った菱形の各頂点をA'、B'、C'、D'とする。A点とA'点の関係を見ると、A点から出てくる光は鏡表面のA'点に当たって真っ直ぐA点に戻ってくる。B点からの光もB'点で反射してB点に戻る。C、C'、D、D'の関係も同じだ。(*)
つまりどの点を取っても光の射出と反射の関係は全く同じ構図になっている。この関係はどの方向、どの角度から見ても変わらない。首を右左に曲げても、逆立ちをして見ても同じ関係性のままだ。ガラスを回転させても関係性は変わらない。
もっと言えば、ガラスを透かして見ればガラスに書かれた菱形と鏡に映る菱形は全く同じに見えるはずだ。
(*)「A点から出てくる光」と書いているが、もちろんそれも実際には反射光である。この説明の記述は全体的に相当に模式的に単純化しているので実際に起きている物理現象を正確に説明できているわけでは無いが、煩雑にしたくないのでご容赦ねがいたい。
ではなぜ人間には左右が逆に見えてしまうのか。
結論から言えば、これは現象が反転しているのではなく、人間の感覚、もしくは常識の方が反転しているのである。
人間の生活において、天は御天道様の射してくる方角、右は御箸を持つ手の方向である。これは文化的な感覚だ。文化的、慣習的な感覚で天地左右を考えるから、一般的な物理現象に直面したときに混乱してしまうのだ。物理現象においては天地左右は座標上の相対的な位置関係に過ぎない。
左右が逆転しているように見えるのはたんなる錯覚である。
人間が鏡を見ると、一見、常識的に箸を持つ手とは逆の手に箸を握っているように思えてしまう。しかしこれは思い込みに過ぎない。人間が常識の霧の中でさまよっているだけだ。
別の言い方をしよう。猫に鏡を見せると猫はそこに映る自分を自分とは認識できない。猫は相手を捜そうとして鏡の裏に回り込む。しかしそこには誰もいない。
つまり鏡に映っているのは、ただの反射像に過ぎないのに、猫は鏡の中に本物の世界が存在していると思ってしまうのだ。
人間の錯覚も同じだ。鏡に映っているのは光の反射でしか無いのに、ついそこに本物の世界、本物の自分がいるように思ってしまうのである。だからそこにいる自分が、まるで常識外れの行動を取っているように感じて戸惑うのである。
人間も猫並みのオツムしか持っていないとも言えよう。
科学者というのは(自然科学のみならず、社会科学や人文科学でも)、こうした人間にかけられた常識の霧を、科学的手法で吹き飛ばしていく人達である。
科学的手法とは実証の積み重ねと論理の積み重ねの歴史を重んずるということだ。先人が積み上げてきた科学的論拠を前提としつつ、もしそこに視界を遮っている「常識の霧」があると思ったならば実証と論理でそれを晴らす、それが科学者のあり方であり、近代人のあり方である。
ニュートンが本当にリンゴの実が木から落ちるところを見て万有引力の法則を発見したのかは疑わしいが、「モノは上から下に落ちる」という常識に対して、引力は「万有」であって、質量の違う物体同士が引きつけ合った結果、リンゴが落ちるように見える現象が発生するという発見はまさに科学だ。
確かに普通に生活する上で、モノは上から下へ落ちる、太陽は東から昇って西に沈む、地面はどこまでも水平に続いていると考えてもほとんど何の支障も無い。
しかしだからと言って、万有引力を否定し、地球の公転と自転を否定し、地球が丸いことを否定していたら、人類はその先には決して進めない。
進まない方が良いという考え方もあるのかもしれない。先に進むことが逆に破滅への道なのかもしれない。そこにも一理あると思う。しかし、人類がここまで進歩してきてしまって、しかも日々進歩し続けている以上、今より後ろに戻ることは出来ないし、それこそそこには破滅しか無いように思える。
それに、どの道に破滅が待っているのかを判断するためにも、より進んだ科学的知見が必要となる。
科学と科学的手法と科学的思考と知見を、止めること無く自由闊達に発展させること、現代社会にはそれ以外に選択肢は無い。
人間は間違うことがある。むしろ間違うのが当たり前だ。しかし意図的に間違えるようなことはあってはならない。鏡の中にあるものが、ただの幻想、ただの反射像ではなく、もうひとつの本物の世界であるべきだという観念を守るために、あえて先人の積み重ねを無視し、実証されない論理でむりやり「常識」を押しつけて物理現象を否定するようなことがあってはならない。
その「常識」を捨てることがどんなに辛いことであったとしても、科学を受け入れるしか無い。
自然科学においても、社会科学、人文科学においても、先人の知見を安易に無視し、否定し、自分にとって心地よい観念に置き換えるようなことをしてはならない。それはフェイクであり、「歴史戦」などという非科学的姿勢に他ならない。歴史戦など必要無い。科学的手法による実証と論理を積み重ねれば良いだけである。
近代人である以上、宗教もイデオロギーも科学の基盤上にあらねばならないし、科学を認めて共生せねばならない。宗教もイデオロギーも科学を否定してはならない。
論争は続くだろうし、終わりは無いかもしれない。しかし論争を終わらせるのでは無く、続けることこそが科学であろう。
最後にふたつだけ付け加えたい。
どうしても鏡の中に「常識的世界」を再現したければ、二枚の鏡を90度に組み合わせて見れば良い。これで左右は逆転して見える。実用的に意味があるかどうかは知らないが。
もうひとつ、CMの言葉では無いが常識は簡単にひっくり返る。
人間の視覚の実験として、プリズムを使って天地が逆転して見える眼鏡をかけて生活するというのがあるそうだ。
もちろん最初は何も出来ないが、しばらくして慣れてくると、天地が逆に見えていても普通に行動できるようになるらしい。
そもそも人間の眼球の構造では、本来世界は天地逆さまに見えているはずだ。しかし我々は全くそんな風に感じない。脳が補正しているのかもしれないが、いずれにせよ、常識というのは破られるまでは絶対的なものに見えるが、いったん破られてしまえば全く違う世界が新たな常識となって、人々はそれに馴染んでいく。
常識を破ること、新たな常識を獲得することを恐れる必要は全く無い。