先日、友人と安倍総理の靖国参拝について話をしていたら、どういうわけか話が噛み合わない。なぜなのだろうと思ったのだが、ひとつはまさに「歴史認識」の問題だった。
ぼくの中では神道と国家神道、伝統文化と皇国史観、歴史的天皇制と近代天皇制ははっきり区別されるべきものになっているのだが、その相手はそこが同じものとして認識されていたのだ。確かに考えてみれば一般的にはそうなのだろう。
右も左も神道を肯定するか否定するか、天皇を肯定するか否定するかというポイントで問題を考え、そこで対立する。しかしこのブログで度々書いているように、本当の問題はそこには無い。こうした日本の歴史的な宗教観や制度などを丸ごと否定することは出来ないし、また一方でいわゆる復古主義も認めることが出来ない。問題のポイントは日本の近代にあるのであって、歴史学や民俗学のレベルにまで話を広げることは、ただの政治戦術上のレトリックにしかならないのだ。
もうひとつは、今回の参拝をどの視点から批判するのかという点だ。これも度々書いているように、マスコミなどの視点が「外交問題」に極端にシフトしていることが背景にある。
そもそも日本における反靖国運動は全く自分たちの日本のあり方に関する運動であったはずだ。その当初は外交がどうのという問題ではなかったはずだ。更に言えばA級戦犯合祀問題にしても、基本的には分祀せよという運動ではない。A級戦犯が合祀されたことが靖国の性格をより鮮明にしているという視点からの指摘であって、なにもA級戦犯合祀が問題の中心にあるわけではない。
それが問題の中心なのかどうかは、それでは外国からの批判が無ければ総理大臣が靖国を参拝しても良いのか、A級戦犯が分祀されたら良いのかと考えてみればよい。問題はそんなことではないことが(少なくとも靖国問題についてある程度関心を持っている人なら)すぐわかるだろう。
ところが何か最近のマスコミの論調が、あまりにも中韓の政治的非難声明に引きずられ過ぎてしまい、いつの間にか多くの人が靖国問題の本来の争点を忘れてきているのである。
皮肉なことにそのことは日本の国内にいる日本人より、それを外から見ている諸外国の方がずっとよく見えている。今回の安倍首相の靖国参拝に対しては、中韓のみならず米露、EUまでも遺憾や懸念を表明した。これは世界の見方が一斉に変わったわけではない。日本の方が変わってしまったということなのだ。実はそのことに気づいていないのは日本人だけなのだ。
なぜこれまで総理大臣がなかなか靖国参拝できなかったのか。なぜ天皇は靖国に行かないのか。それは日本国民自身がそれが戦争と侵略の肯定につながると考えてきたからこそ、簡単に出来ない状況になったのだ。しかし何だか最近はその本質的なことを忘れてしまった人が増えてきた。今回の安倍首相の参拝はそうした日本内部の忘却と緩み(つまりそれが平和ボケそのものなのだが)が生まれたからこそ実現できたのである。
変わったのは我々自身なのだ。そのことにちゃんと気づかねばならない。
諸外国が小泉首相の靖国参拝には示さなかった懸念を、今回は大きく表明しているのは、そのことを意味しているのである。
中国や韓国、アメリカやロシアがなぜ安倍首相の靖国参拝を批判するのかといった分析はもういい。なぜなら、外国が批判するから靖国参拝がいけないことになった訳ではないからだ。それにいくら外国の批判に対して反批判しても他人のことを変えることは出来ない。
問題なのは自分自身である。自分の問題点をしっかり見極めるなら、自分を変えることは自分の意志でできる。外国の論調を批判するのは簡単だ。しかし簡単なことにはあまり意味は無い。より困難なのは自分自身に対する自己批判だ。ちゃんと他者を批判することは何も悪いことではない。むしろ積極的にやるべきことかもしれない。しかし他者を批判する言葉は必ず自分自身に戻ってくると知るべきだ。批判は常に自己批判を内包していなければならない。自分の身を切らない批判は欺瞞なのである。
もう一度言うが、変わってしまったのは我々の方である。そのことの背景には我々自身が「持たざる人」から「持てる人」に変わったということもある。そうした中で我々は過去の自分たちが持っていたものを捨て去り、別の何かを得たのである。悲しいことに人間は、自分が忘れっぽいことさえ忘れてしまう。
TBSテレビの「サンデーモーニング」が年末特集でアジアや世界における「戦争の火種」について論議をしていた。韓国の反日世論について中央大教授の目加田説子氏は「韓国はまだ民主化してそんなに経っていないことも考慮に入れるべきだ」と語った。それはたしかにそうだ。しかし彼女が韓国を見るとき見えていて、自分を見るとき見えないこと、もしくはいつの間にか忘れ去ってしまったことがある。日本もまた世界史的な視点から見れば、「民主化してあまり経っていない国」であるということだ。番組の中で他の人たちが言及していたことだが、もうひとつ言えば自分たちの血を流して民主主義を手に入れたわけでもない。
そうした我々がいつの間にか尊大になって、自己批判・自己否定の感性を失ってしまったら、本当に日本は劣化する以外なくなるだろう。
ぼくの中では神道と国家神道、伝統文化と皇国史観、歴史的天皇制と近代天皇制ははっきり区別されるべきものになっているのだが、その相手はそこが同じものとして認識されていたのだ。確かに考えてみれば一般的にはそうなのだろう。
右も左も神道を肯定するか否定するか、天皇を肯定するか否定するかというポイントで問題を考え、そこで対立する。しかしこのブログで度々書いているように、本当の問題はそこには無い。こうした日本の歴史的な宗教観や制度などを丸ごと否定することは出来ないし、また一方でいわゆる復古主義も認めることが出来ない。問題のポイントは日本の近代にあるのであって、歴史学や民俗学のレベルにまで話を広げることは、ただの政治戦術上のレトリックにしかならないのだ。
もうひとつは、今回の参拝をどの視点から批判するのかという点だ。これも度々書いているように、マスコミなどの視点が「外交問題」に極端にシフトしていることが背景にある。
そもそも日本における反靖国運動は全く自分たちの日本のあり方に関する運動であったはずだ。その当初は外交がどうのという問題ではなかったはずだ。更に言えばA級戦犯合祀問題にしても、基本的には分祀せよという運動ではない。A級戦犯が合祀されたことが靖国の性格をより鮮明にしているという視点からの指摘であって、なにもA級戦犯合祀が問題の中心にあるわけではない。
それが問題の中心なのかどうかは、それでは外国からの批判が無ければ総理大臣が靖国を参拝しても良いのか、A級戦犯が分祀されたら良いのかと考えてみればよい。問題はそんなことではないことが(少なくとも靖国問題についてある程度関心を持っている人なら)すぐわかるだろう。
ところが何か最近のマスコミの論調が、あまりにも中韓の政治的非難声明に引きずられ過ぎてしまい、いつの間にか多くの人が靖国問題の本来の争点を忘れてきているのである。
皮肉なことにそのことは日本の国内にいる日本人より、それを外から見ている諸外国の方がずっとよく見えている。今回の安倍首相の靖国参拝に対しては、中韓のみならず米露、EUまでも遺憾や懸念を表明した。これは世界の見方が一斉に変わったわけではない。日本の方が変わってしまったということなのだ。実はそのことに気づいていないのは日本人だけなのだ。
なぜこれまで総理大臣がなかなか靖国参拝できなかったのか。なぜ天皇は靖国に行かないのか。それは日本国民自身がそれが戦争と侵略の肯定につながると考えてきたからこそ、簡単に出来ない状況になったのだ。しかし何だか最近はその本質的なことを忘れてしまった人が増えてきた。今回の安倍首相の参拝はそうした日本内部の忘却と緩み(つまりそれが平和ボケそのものなのだが)が生まれたからこそ実現できたのである。
変わったのは我々自身なのだ。そのことにちゃんと気づかねばならない。
諸外国が小泉首相の靖国参拝には示さなかった懸念を、今回は大きく表明しているのは、そのことを意味しているのである。
中国や韓国、アメリカやロシアがなぜ安倍首相の靖国参拝を批判するのかといった分析はもういい。なぜなら、外国が批判するから靖国参拝がいけないことになった訳ではないからだ。それにいくら外国の批判に対して反批判しても他人のことを変えることは出来ない。
問題なのは自分自身である。自分の問題点をしっかり見極めるなら、自分を変えることは自分の意志でできる。外国の論調を批判するのは簡単だ。しかし簡単なことにはあまり意味は無い。より困難なのは自分自身に対する自己批判だ。ちゃんと他者を批判することは何も悪いことではない。むしろ積極的にやるべきことかもしれない。しかし他者を批判する言葉は必ず自分自身に戻ってくると知るべきだ。批判は常に自己批判を内包していなければならない。自分の身を切らない批判は欺瞞なのである。
もう一度言うが、変わってしまったのは我々の方である。そのことの背景には我々自身が「持たざる人」から「持てる人」に変わったということもある。そうした中で我々は過去の自分たちが持っていたものを捨て去り、別の何かを得たのである。悲しいことに人間は、自分が忘れっぽいことさえ忘れてしまう。
TBSテレビの「サンデーモーニング」が年末特集でアジアや世界における「戦争の火種」について論議をしていた。韓国の反日世論について中央大教授の目加田説子氏は「韓国はまだ民主化してそんなに経っていないことも考慮に入れるべきだ」と語った。それはたしかにそうだ。しかし彼女が韓国を見るとき見えていて、自分を見るとき見えないこと、もしくはいつの間にか忘れ去ってしまったことがある。日本もまた世界史的な視点から見れば、「民主化してあまり経っていない国」であるということだ。番組の中で他の人たちが言及していたことだが、もうひとつ言えば自分たちの血を流して民主主義を手に入れたわけでもない。
そうした我々がいつの間にか尊大になって、自己批判・自己否定の感性を失ってしまったら、本当に日本は劣化する以外なくなるだろう。