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あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

我々は何かを忘れてしまった

2013年12月29日 23時49分53秒 | Weblog
 先日、友人と安倍総理の靖国参拝について話をしていたら、どういうわけか話が噛み合わない。なぜなのだろうと思ったのだが、ひとつはまさに「歴史認識」の問題だった。
 ぼくの中では神道と国家神道、伝統文化と皇国史観、歴史的天皇制と近代天皇制ははっきり区別されるべきものになっているのだが、その相手はそこが同じものとして認識されていたのだ。確かに考えてみれば一般的にはそうなのだろう。
 右も左も神道を肯定するか否定するか、天皇を肯定するか否定するかというポイントで問題を考え、そこで対立する。しかしこのブログで度々書いているように、本当の問題はそこには無い。こうした日本の歴史的な宗教観や制度などを丸ごと否定することは出来ないし、また一方でいわゆる復古主義も認めることが出来ない。問題のポイントは日本の近代にあるのであって、歴史学や民俗学のレベルにまで話を広げることは、ただの政治戦術上のレトリックにしかならないのだ。

 もうひとつは、今回の参拝をどの視点から批判するのかという点だ。これも度々書いているように、マスコミなどの視点が「外交問題」に極端にシフトしていることが背景にある。
 そもそも日本における反靖国運動は全く自分たちの日本のあり方に関する運動であったはずだ。その当初は外交がどうのという問題ではなかったはずだ。更に言えばA級戦犯合祀問題にしても、基本的には分祀せよという運動ではない。A級戦犯が合祀されたことが靖国の性格をより鮮明にしているという視点からの指摘であって、なにもA級戦犯合祀が問題の中心にあるわけではない。
 それが問題の中心なのかどうかは、それでは外国からの批判が無ければ総理大臣が靖国を参拝しても良いのか、A級戦犯が分祀されたら良いのかと考えてみればよい。問題はそんなことではないことが(少なくとも靖国問題についてある程度関心を持っている人なら)すぐわかるだろう。

 ところが何か最近のマスコミの論調が、あまりにも中韓の政治的非難声明に引きずられ過ぎてしまい、いつの間にか多くの人が靖国問題の本来の争点を忘れてきているのである。
 皮肉なことにそのことは日本の国内にいる日本人より、それを外から見ている諸外国の方がずっとよく見えている。今回の安倍首相の靖国参拝に対しては、中韓のみならず米露、EUまでも遺憾や懸念を表明した。これは世界の見方が一斉に変わったわけではない。日本の方が変わってしまったということなのだ。実はそのことに気づいていないのは日本人だけなのだ。

 なぜこれまで総理大臣がなかなか靖国参拝できなかったのか。なぜ天皇は靖国に行かないのか。それは日本国民自身がそれが戦争と侵略の肯定につながると考えてきたからこそ、簡単に出来ない状況になったのだ。しかし何だか最近はその本質的なことを忘れてしまった人が増えてきた。今回の安倍首相の参拝はそうした日本内部の忘却と緩み(つまりそれが平和ボケそのものなのだが)が生まれたからこそ実現できたのである。
 変わったのは我々自身なのだ。そのことにちゃんと気づかねばならない。
 諸外国が小泉首相の靖国参拝には示さなかった懸念を、今回は大きく表明しているのは、そのことを意味しているのである。

 中国や韓国、アメリカやロシアがなぜ安倍首相の靖国参拝を批判するのかといった分析はもういい。なぜなら、外国が批判するから靖国参拝がいけないことになった訳ではないからだ。それにいくら外国の批判に対して反批判しても他人のことを変えることは出来ない。
 問題なのは自分自身である。自分の問題点をしっかり見極めるなら、自分を変えることは自分の意志でできる。外国の論調を批判するのは簡単だ。しかし簡単なことにはあまり意味は無い。より困難なのは自分自身に対する自己批判だ。ちゃんと他者を批判することは何も悪いことではない。むしろ積極的にやるべきことかもしれない。しかし他者を批判する言葉は必ず自分自身に戻ってくると知るべきだ。批判は常に自己批判を内包していなければならない。自分の身を切らない批判は欺瞞なのである。

 もう一度言うが、変わってしまったのは我々の方である。そのことの背景には我々自身が「持たざる人」から「持てる人」に変わったということもある。そうした中で我々は過去の自分たちが持っていたものを捨て去り、別の何かを得たのである。悲しいことに人間は、自分が忘れっぽいことさえ忘れてしまう。

 TBSテレビの「サンデーモーニング」が年末特集でアジアや世界における「戦争の火種」について論議をしていた。韓国の反日世論について中央大教授の目加田説子氏は「韓国はまだ民主化してそんなに経っていないことも考慮に入れるべきだ」と語った。それはたしかにそうだ。しかし彼女が韓国を見るとき見えていて、自分を見るとき見えないこと、もしくはいつの間にか忘れ去ってしまったことがある。日本もまた世界史的な視点から見れば、「民主化してあまり経っていない国」であるということだ。番組の中で他の人たちが言及していたことだが、もうひとつ言えば自分たちの血を流して民主主義を手に入れたわけでもない。
 そうした我々がいつの間にか尊大になって、自己批判・自己否定の感性を失ってしまったら、本当に日本は劣化する以外なくなるだろう。


アベノミクスの後に来ること

2013年12月28日 13時02分43秒 | Weblog
 2013年がどんな年だったのか、おそらくこれほど立場によって違った感覚になる年はなかったろう。もちろん、ぼくたちにとっては極右政権による戦争国家化、秘密警察国家化が急激に進んだ歴史的な危険な転換点となった年として深く記憶に残されるだろう。

 しかし別の人たちにとっては経済的利益が爆発的に拡大した年として記憶に残るのかもしれない。
 12月の日銀短観では、大企業が製造業・非製造業とも4四半期連続で改善したのみならず、中小企業でもプラスになった。中小企業非製造業の景況感はバブル期以来のプラス浮上となり、景気回復が末端まで浸透しつつあるとしている。

 いったいそれは本当なのだろうか。
 テレビを眺めているとなんだか景気の良さそうな雰囲気だけが垂れ流されているが、そのテレビの番組自体は高額ギャラのタレントがだんだん少なくなり、遠方のロケには局の社員が派遣されるケースが増えている。
 すっかり少なくなった東日本大震災と原発事故の被災地の取材番組だが、そこでも状況は停滞どころか、仮設住宅の劣化などより問題が悪化しているところさえある。
 ぼくが住んでいる市では、レンタルビデオ店が消え、ゲームセンターが消え、家電販売店が消え、飲食店が消えた。小規模の小売店は駅前でもない限り、ほとんどだめだ。要因はいろいろあるが、ぼくが住んでいる団地の内外にあった店は飲食店を除いて全滅した。
 十年来の計画だっだ郊外型のショッピングモールだけは続けて何件も開設したが、うわさによると集客はだいぶ悪いらしい。

 アベノミクスとは何なのか。
 いまだによくわからない。安倍氏は何をやったのか。別に何もやっていない。ただ言葉を発してきただけではないのか。あえて言うなら、増税とばらまきを決めただけかもしれない。もちろんこれは適正に運用されるなら富の再分配だから、格差是正につながるかもしれない(大企業優先の戦略の中ではそうなるはずもないが)。
 日本経済が活気づいた要因は何か実体的なものではなく、為替が変動したからだ。ようするに不自然な円高が是正してきたからである。そこにはもちろん安倍氏の各種の発言が影響した部分があるけれど、合衆国や中国の経済動向に左右されている面も大きい。

 日本の好況感が、このような実態のない言葉と諸外国の動きによって生み出されている以上、いつ反転するかわからない。というより世界史全体の流れから言えば、先進国経済が今後継続的に拡大することはあり得ない。2014年はおそらく安倍氏の靖国参拝に対する反発から中韓貿易が停滞すること、消費税増税による消費の落ち込みが契機となって、経済が悪化する可能性が高い。

 そうしたときに何がおこるのか。
 ようするに今儲かっている者だけが取り得で、勝ち逃げすると言うことである。結局、景気がよいと言っているのは現時点での金持ちであり、主に東京が代表する大都市圏だけである。小学生にもわかるだろうが、大企業が儲かればやがて末端まで潤うことになるという論理は、それが永続的に続かなければ破綻する。
 問題なのはその後だ。現在の日本社会の流れは、この社会をより閉塞させる方向に向かっている。それが今ぼやけているのは表面的な経済浮揚感があるからにすぎない。景気が悪くなったら、より重たい閉塞の時代がやってくる。
 その時、日本がかつての道を再び選択することになるのか。戦争に活路を見いだそうとすることになるのか。しかしもはや戦争はかつての戦争とは全く違う。戦争で利益を得るのはほんのわずかな一握りの者だけだろう。
 マルクスの言葉をもじれば「戦争はアヘン」である。人々の現実的な苦しみ、不満の源を、自国の権力者ではなく外国にあると思わせ、戦争という興奮剤でもって人々の感覚を麻痺させる。麻薬を使ったとき人は快楽を感じるが、しかし健康は根っこから失われ、やがてボロボロになって死んでいく。その時ただ一人儲けるのは麻薬密売人だけなのだということを、我々は今からよく憶えておかなくてはならない。

沖縄は小さな日本になるのか

2013年12月27日 17時18分00秒 | Weblog
 沖縄県の仲井真知事は米軍基地のための辺野古沖埋め立てを承認した。
 このような事態を阻止できなかったのは、まさに本土の人々の責任である。その一人として謝罪しなくてはならない。

 しかしその一方で今回の決定を下した県知事は沖縄県民が選んだというのも事実である。
 これは国民の過半数が反対しているのに秘密保護法を強行採決した安倍政権の姿に重なる。
 果たして沖縄はこのまま小さな日本になってしまうのだろうか。

 倫理と理性と論理は強欲と権力に敗れていくのか。やはり大きな悲劇と破滅に至らなくては人々は気づかないのか。取り返しがつかなくなって初めて誤りに気づくしかないのか。
 一年前よりさらにさらに暗く重苦しい年末となった。

靖国参拝を外交問題にするな

2013年12月27日 09時37分40秒 | Weblog
 安倍首相の靖国参拝から一夜明けたテレビ番組では、この問題について中韓のみならず合衆国も安倍政権を批判したことを報じている。しかしこういう報道の仕方は間違っていると思う。どういうわけか靖国問題は少しずつ外交問題として扱われるようになってきた。これはマスコミのミスリードである。

 ぼくにとっては靖国問題は第一に内政問題だ。この問題が外交問題に矮小化されていくと何が起こるか?
 人々が靖国問題を主体的に捉えられなくなる。他国が文句を言わなくなったらそれでOKだという話になってしまう。つまりは日本人が靖国問題を忘れてしまうということになってしまうのだ。おそらく安倍氏や保守勢力には願ったりだろう。

 テレビではほとんどの論調が「安倍氏の信念」に理解を示す。どんな信念を評価しているのだろう。縷々述べているように安倍氏の真意は慰霊にあるのではない。そしてそのことはみんな知っていてあえて触れない。報復が恐いからだ。まさに「心の問題」には証拠がない。証拠無く安倍氏の本心が「慰霊」ではないと言ったら高額慰謝料を求める報復訴訟を起こされるかもしれない。
 マスコミの場合はそれ以上のリスクを負う。NHKをはじめとして多くのマスコミが権力を持った政治家から裏側から恫喝され、報道の自粛や取材の制約、内容の変更を余儀なくされてきた。
 こうして言論人やマスコミは明らかにわかっていることであっても言えない、伝えられない事態に陥ってきたのである。

 それがいったいどんな現象を生み出したのか?
 歴史の改ざんである。

 ジョージ・オーウェルの「1984」という有名な小説がある。ソ連のスターリン主義を揶揄した不条理恐怖小説であり、すぐれたSFでもある。この小説のテーマは監視社会と情報操作だ。独裁者の都合次第で歴史はきれいに書き換えられてしまう。本当の真相を知っていて語ろうとする者は摘発されてしまう。そして恐ろしいのは人々はその社会に順応し、作られたニセの歴史を信じ込むよう訓練されてしまっているのだ。
 まさに現在の日本に起きていることは、全くこれと同じだ。

 靖国神社は国家神道の要の施設のひとつとして設営された。神社と言っても鎮守の稲荷とか、氷川神社や八幡神社、天満宮のような本来的な民間信仰の神社ではない。伊勢や出雲のような歴史的な天皇制度と関わる神社でもない。
 100%近代の大日本帝国の侵略政策を遂行するためだけの目的で作られた政治施設なのである。
 この明らかな歴史的事実が隠蔽され、その本質が理解されないまま、上っ面の中韓との対立の話ばかりに世論はミスリードされてきたのである。

 こうした靖国の本質を理解すれば、なぜ戦後ずっと日本国民が靖国神社に反対してきたのか容易にわかるはずだが、なぜかマスコミは外国の論評は取り上げても、国内で反靖国運動をしている人たちの言説を一切伝えない。

 マスコミは日本の右傾化を憂い、安倍氏の暴走を懸念する論評をするけれど、それは何の力にもならない。なぜならそれは「中立のマスコミ」を装うイチジクの葉っぱでしかないからだ。本質的な問題を伝えない(伝えられない)限りそう言う以外無い。
 確かに権力は恐ろしい。目に見えないところに存在するから更に恐ろしい。しかし勇気を持たねばならない。ひとりひとりが少しずつ勇気を持つことによって、巨大に見える権力の足下をすくうことが出来るのだ。

嘘と虚無

2013年12月26日 23時40分27秒 | Weblog
 安倍総理の靖国神社参拝事件について。
 せっかくご高説をうかがいたいと思っているのだが、ヘタレ(?)ニセ右翼の名無しの権兵衛氏は、前ブログ記事のどこが歴史事実と違うのか指摘してくれない。全くがっかりだよー!

 さて、安倍氏はもちろんだが、保守政治家たちは今回の参拝に賛同する人も反対する人も、皆「心の問題」「信教の自由」だと言っている。しかし本当にそうなのだろうか。
 もし自分の心の問題ならなぜ密かに参拝しないのか。マスコミに知らせて行く必要があるのだろうか。夜の赤坂の料亭で誰かと会うときはこっそりやるのに。「私的」にやるというのはそういうことだろう。
 つまり安倍氏は嘘をついているのである。そしてみんなもそれを嘘だと知っている。それでいてなおかつ、その嘘に調子をあわせている。こんな不健全なことが総理大臣や国会議員によって行われていてよいのだろうか。

 安倍氏が本当にやりたかったのは個人の心の問題としての神社参拝ではない。ただ政治パフォーマンスをやりたかっただけだ。ナショナリズムをあおるのは政治家にとって一番おいしい票集めの手段なのだ。なにより一切カネがかからない。
 こんな不純な動機で参拝すること自体が、そもそも神様を冒涜しているのではないのか?

 一番の問題はこれが靖国神社だということである。
 確かに総理大臣がプライベートでお寺にお参りに行ったり、教会のミサに出席したりしても、まず大きな問題にはならないだろう。たぶん村の鎮守のような神社に参拝しても問題視する人は少ないはずだ。
 なぜ靖国神社が問題なのか、そのことは当然みんな知っている(もっとも実は本質的な意味については考えたことが無いのかもしれないが)。
 安倍氏は「中国、韓国の人々の気持ちを傷つける考えは毛頭ない」と語ったが、もちろんこれも嘘だ。これほどまでに中国や韓国から批判や反対の声があるのに、あえて強行しておいて、どうやったら傷つけずにすませることができると言うのだろう。どうせなら「傷つく人がいるのを承知で断固やった」と言った方がずっと正直だ。
 はっきり言って靖国問題の解決は簡単だ。宗教的政治的に中立の国立慰霊施設を作ればよい。国家の公式の戦没者・戦争犠牲者慰霊はそこで行うと決めればよいだけだ。そうして慰霊行為が国家神道や皇国史観、アジア侵略の問題と切り離されたとき始めて、靖国神社は宗教施設として純化できる。
 もちろん靖国神社の思想は批判され続けるだろうが、オウム真理教だって激しい批判を受けながらもずっと存続できている。あとはその信者の問題だ。
 そのように靖国神社が国家と分離されてちゃんとした独立した宗教施設になった時にこそ、そこへ参拝することが個人的な宗教行為、心の問題と言えるようになるのである。

 しかし日本政府も安倍氏も国立慰霊施設の建設をかたくなに拒否し続けている。靖国問題を解決する気など毛ほども持っていないのだ。そのことこそが、靖国問題が心の問題、単純な宗教的問題ではないことをはっきり示していると言える。
 まさに靖国問題は初めから完全に政治問題なのである。それはもっとあからさまに言えば、皇国史観、国家神道、アジア侵略戦略を肯定することを示す政治パフォーマンスであり、更に言えば未来においてそれらを復活させるための基礎固めとして行われているのである。

 ぼくは件(くだん)の名無しの権兵衛氏へのレスポンスで「興味深いコメント」と書いた。これは本当に興味深い。
 たぶん幸いなことなのだろうが、当ブログにコメントを寄せてくれる人は、ぼくに対してひどい批判をする人であっても、今まではみな一応はぼくが書いた内容に対する批判や自分の意見を述べていた。だから最低のコメントであったとしても、そこには少なくとも何らかの論議ができる余地があった。
 しかし今回の権兵衛氏のコメントには何の内容も無い。ただの空虚だ。あるのはただ無内容な悪口だけである。しかもその言葉自体が権兵衛氏の内側から出てきたものではなく、ネット上のそこかしこに転がっている、いわば「慣用句」を拾って並べただけのものだった。

(*もしあのコメントを書き込んだ名無しの権兵衛氏が、相当程度に若年の方であったとしたら、一言アドバイスしておきたい。誰かを批判するにしても罵倒するにしても、自分の頭で考えた論理を自分の言葉で書くようにしなさい。そうでないと悪口でさえ相手に届かない)

 少なくとも安倍氏は表向きは日本の戦争責任を認め、アジア各国への謝罪の言葉を口にしている。中韓国民を傷つけるつもりはないと言い、不戦を誓っている。
 しかし、そのように安倍氏が一応ポーズをつけているそばから、今回の名無しの権兵衛氏のような何も考えていない無内容な輩が勝手に湧いてきて、安倍氏の本音を代弁して真実を暴露してしまう。まったく安倍氏の努力もどこへやらだ。まさにこれが安倍支持層なのである。このことが逆照射で安倍氏とその政治の本質を明らかにする。ぼくにはそのことが大変興味深かった。

 誰がどう言おうと嘘は何万回ついたところで嘘でしかない。しかし見え透いた嘘はもはや嘘ですらない。それはただの恫喝だ。そしてそれが安倍政権の本質なのである。


安倍総理の靖国参拝を断固糾弾する

2013年12月26日 12時55分01秒 | Weblog
 安倍総理大臣が靖国神社を電撃参拝した。
 政権発足一年を記念したらしい。安倍首相に靖国参拝をさせてしまったことは、まさに痛恨の極みである。

 日本国の最高権力者が靖国神社を参拝することは、戦没者、戦争犠牲者を徹底的に愚弄し、冒涜する許し難い行為である。

 安倍総理は戦没者に感謝し、全ての戦争犠牲者を慰霊したという意味の発言をした。侵略戦争を自ら起こして日本国民とアジアや世界の人々を殺し傷つけた国の最高権力者が、そのことを反省し、犠牲者に謝罪するというのならまだ話はわかる。
 しかし言うに事欠いて、「今の自分はとっても大金持ちで好き勝手出来てとっても幸せだよ~、あんたらの犠牲のおかげ、ありがとねー!」と言うのでは、戦争犠牲者は怒りのあまりこの世に戻って来かねないほどだろう。
 なぜ謝罪をし続けないのか。なぜ責任を負いきろうとしないのか。
 安倍総理の言動は、人として全く最低のまさに下司(ゲス)の極みである。

 安倍総理は世界のリーダーがやっていることと同じことをやっているだけと言っているが、いったい世界のリーダーの何人が靖国神社を参拝したというのか? 良いか悪いかは別にしてアメリカのアーリントンには各国の首脳が訪れている。靖国神社は日本の天皇でさえ参拝しない。安倍総理の靖国神社参拝はいったいどこが世界のリーダーと共通なのか?
 また安倍総理は中国や韓国に対して説明したいと語ったが、その前に日本国民に対してちゃんと納得のいく説明をせよ。なぜ靖国に参拝するのか。なぜ宗教的に中立な国立の慰霊施設を作らないのか。合祀されたくないと強く求めている多数の人々の声を無視する傲慢な神社のあり方についてどう思うのか。

 マスコミはまた、外交がどうの、A級戦犯がどうのと外周的事情の問題ばかり報道している。しかしそれは本質的な問題ではない。
 靖国神社が大日本帝国という侵略国家の侵略戦略を実行するための重要な中核的装置として作られ維持されてきたという、この歴史的事実こそが核心なのだ。そのことをすっとばして、表面的なことばかり言い続けるのは、ようするにそのことを民衆に忘れさせたいからに他ならない。
 このような恥ずべき総理大臣を生んでしまったのは、我々国民の恥ずべき誤りであるけれど、またそれを仕組んで実行させたのは、恥ずべき権力者たちとそれに結託したマスコミであった。そのことも絶対に忘れてはならない。

 安倍氏と自民党に「取り戻」されてしまった日本を、いつか民衆が本当に自分のものとして奪い取らなくてはならない。その日が来ることを信じたい。

韓国政府の遺憾表明

2013年12月25日 23時29分03秒 | Weblog
 これはどういうことだろうか。
 韓国の新聞報道によると、南スーダンPKOで自衛隊が韓国軍に銃弾を提供したことに関して、韓国政府は「日本政府がこの問題を政治利用している」として外交ルートで強い遺憾の意を伝えたという。日本の右翼は大騒ぎである。もっとも騒げば騒ぐほど自分たちの矛盾が大きくなり、建て前と本音がぐちゃぐちゃになるだけなのだが。
 まあ、安倍サンもこんな風に裏目に出るとは思わなかったろう。
 しかしこのことはとても重要なことを思い出させてくれる。

 そもそもPKO法が作られた時、その理由は、日本も国際社会で相応の責任を取らないと孤立してしまうと言うものだった。
 その後も歴代の政権は、どの政党であれ同じ理屈で自衛隊の海外派兵をどんどん拡大させてきた。そしてそれはアメリカの「グローバル化」戦略と連動したものでもあった。今やついに武器輸出三原則も捨て去られ、来年にはいよいよ集団的自衛権が解禁されて、もしかしたら一年後には早くも自衛隊が実戦に参加しているかもしれない。

 PKO法が審議されていた時に論議されたのは、「本当に国際貢献とは自衛隊を派兵することなのか」「国際社会は本当に日本の軍事的貢献を求めているのか」という疑問であり、「自衛」隊が海外の紛争地に出撃したら戦闘に巻き込まれ、憲法に禁止されている戦争を行うことになるのではないかという疑問だった。
 それから年月を経て、人々は自衛隊の海外派兵に慣れてしまい、根本的な疑問は次第に忘れられてきた。政権はそこまで状況を作ってきた上で今回ついに外国軍への弾薬供与が行われる所にまで至った。
 マスコミは武器輸出三原則のなし崩しにつながると批判した。だがそれは全く見当違いだ。なし崩しになっているのはPKOに関する当初の、そして歴代の政府見解なのである。
 政府のロジックは自衛隊は憲法が禁じている戦争には参加しない。だから戦闘を行わなければならないような場所には派遣しないし、だから相手を攻撃するような戦闘はおこらないし、またすることもない、ということだった。ところが実体はそうでなかったと言うことが今回の件で証明されてしまったのである。
 自衛隊は建前上、紛争地域にいないことになっているはずだが、しかし実際には国連軍の中のひとつのパーツとして、戦闘遂行の重要な一部分を担っているのである。もちろんそんなことは初めからわかっていることだ。あえて隠されてさえいない。テレビのニュースショーである軍事専門家は、今回のようなことは別に特別なことではないし当たり前のことだ、自衛隊も国連軍の一部として全体の作戦の中に組み込まれている、そのことを国民が良く知らないから騒ぎになるだけだ、と発言していた。
 しかしそれは国民が知らないのではない。そもそもの政府の説明とは違うから、政府がなるべくそこを隠しておこうとしてきただけなのである。

 韓国政府の遺憾表明は、もちろん背景に複雑な国内事情が存在しているとはいえ、我々に忘れていた根本的な疑問を再び思い出させた。すなわち自衛隊の海外派兵は本当に国際社会に望まれていることだったのかという疑問である。
 日本は主観的にも国際的にも普通の国ではない。やはりある特別な位置にある国なのだ。その特殊性は戦後史を通じて「戦争放棄」「平和主義」という独自の路線を堅持することによって、絶妙のバランスで国際社会に評価され認められてきたのである。

 安倍政権はそのバランスを一気に崩そうとしている。おそらく国際社会はそれを望んではない。アメリカでさえ安倍氏の動向に懐疑を抱き始めているようだ。韓国政府の一見すると矛盾的な遺憾表明は、まさにこれまでの日本が保ってきたバランスが、微妙に傾いてきたことを示しているのではないかと思う。

銃弾供与を巡る問題

2013年12月25日 01時16分06秒 | Weblog
 昨24日夕方のテレビ朝日「スーパーJチャンネル」の中で、自衛隊が韓国軍に銃弾一万発を供与した問題について、コメンテーターの大谷昭宏氏が「このくらいのことが認められないと、やっぱり憲法九条があると不都合だとされ、改憲の論調が逆に高まってしまう」といった内容の発言をした。
 たぶんこういうトンチンカンな意見が出てくるだろうなと予感していたので、ぼくは先日の文章を書いたのである。完全に問題がすり替わっている。すでに九条を実質的に無効にして自衛隊が海外に派兵されているのであって、もし九条を問題にするなら、まずそこを問わなければ話にならない。

 そうした根本的な問題があることを前提にした上で、今回の銃弾供与を巡る問題点がだんだん明らかになってきたことに注目したい。
 まず日本政府の説明と韓国政府の説明が食い違っている点である。
 日本政府は今回の事態が極めて緊急の切迫した事態であったから、武器輸出三原則の例外として急遽供与を決定したと説明しているが、韓国側は銃弾は足りており、あくまで呼びの銃弾として国連に供与を依頼したと説明している。
 もちろん韓国側の説明の背景には、韓国軍が甘い見積もりをしていたために日本の安倍政権の軍事大国化路線を利するような結果になったという韓国世論がある。韓国軍か窮地に追い込まれたなどと言える状況に無い。
 だがそうであっても、やはり現状では真実は藪の中だ。本当に緊急性があったのかどうか、こういう機会を使って無理やり武器供与の実績を作りたかったのではないかと勘ぐることも出来る。そして当然こうした軍事情報は基本的に特定秘密に当たるのだろう。本当の本当のところを我々は永久に知らされることは無い。

 もうひとつ政府答弁の問題がある。PKO法が作られたとき政府は国会答弁で明確に武器供与を求められてもやらないと述べている。今回の事態はそれを完全に無視した。
 先日の秘密保護法の論議の中でも、数多くの政府答弁が行われ、普通の一般国民には適用されないと強調されたが、今回の事態を見れば、いかに政府答弁で立法趣旨を説明していたとしても、現実にはそれが守られる保証は全く無いということがわかるのである。
 国旗・国歌法のときもそうだった。絶対に強制はしないと政府は確約したくせに、現状は各地で教職員の口元まで見て、君が代を歌っているかどうかチェックするという常識はずれの強制が行われている。
 政府答弁とは何か、安倍政権はどう考えているのか、その点は明確にされなくてはならない。


クリスマスになると思い出す

2013年12月24日 00時05分13秒 | Weblog
 クリスマス・イヴである。

 20代のころ、クリスマス・シーズンはとてもせつなかった。
 ぼくの20代というのは、ちょうど1980年代に重なり、そしてその時期の全てをぼくは革命家として過ごした。

 当時のぼくは、会社の残業を拒否して帰り、毎夕のように駅頭でビラまきをし、喫茶店でオルグをし、夜になると数人で共同生活をしている汚いアパートのアジトに帰って会議をするという日常だった。
 会社の給料は自分の生活費(と言っても基本的にギリギリの食費と交通費分くらいしかもらえなかったが)を取って、後は全額を組織に上納していたので、遊ぶようなカネは無かった。もっもとも今書いたような日常だったから、遊ぶ暇も無かったのだが。

 そんな自分に比較して、クリスマスの街中はあまりにも華やかできらびやかに見えた。12月の街はイルミネーションで飾られ、クリスマスソングがどこにも流れていた。
 80年代はバブルとその余韻の中にあった時代だ。70年代とは質的に違う洗練された都会的な文化が花開き、若者たちは甘くロマンティックでかっこいい、まさにトレンディ・ドラマのような生き方を、本当にしていたのである。
 窮屈に自分を縛っておくしかないぼくは、自分とは隔絶した華やかな街中を歩きながら、あちら側にいけたらなあと切望に近い思いを抱いたものだった。

 もちろんそうは言っても、自分の使命は革命以外にないと確信していたから、現実には毎日、会社と駅頭とアジトを往復し、三里塚で泥にまみれ、常盤橋で機動隊と激突する日々を捨てることは出来なかった。

 その後、あるとき自分の限界の糸がぷっつりと切れ、組織を離脱して逃亡した。思えばそれも12月の出来事だった。あちこちさまよった末、地方で住み込みの仕事を見つけて、ついに「自由」な生活をするようになった。
 しかし全く不思議なことに、自分の好きにやれるようになったとたん、クリスマスの魔法はきれいさっぱり消えてしまった。ぼくが逃亡先で見つけた仕事は時間的にも日程的にもかなり不規則な仕事で、休日はバラバラ、数日おきに夜勤が入るシフト体制をとっていた。
 従業員仲間は、とくに家族のいる人は、日曜や祝祭日、正月やお盆に休みを取りたがったが、ぼくはむしろそういう時に休みたいと思わなかった。どこに行っても混んでいるし、料金が高かったりするからだ。クリスマスもそうだった。別にクリスマスだからと言ってどうということも無かった。もうイルミネーションを見ても、街中でクリスマスソングを聞いても、特別に楽しくなることも、せつなくなることも無くなってしまった。

 人間は不思議なものだ。
 きっと自分が持っていないから欲しくなるのだ。手が届かないから渇望するのだ。あれだけ欲しくて仕方なかったものが、いざ手に入るぞとなったとたん、別にどうということのないつまらないものになってしまうのだ。

 クリスマスになると、そのことを思い出す。


あまりにも当たり前のことを忘れてしまいそう

2013年12月23日 21時38分44秒 | Weblog
 自衛隊が外国軍に対して銃弾一万発を提供することになった。スーダンでのPKOで韓国軍の弾薬が不足したらしい。韓国軍の小銃と口径が同じ弾を使っているのは自衛隊だけのなで、国連からの要請があったという。政府は「緊急の必要性・人道性が極めて高い」として武器輸出三原則の例外扱いにすることを決めたのだ。
 ただ、これは過去の国会答弁とは明らかに異なっているため、問題になっている。

 戦闘の渦中にある軍隊が武器を失えば当然ながら生命に関わる。その意味で今回の事態が「緊急の必要性・人道性が極めて高い」ということは確かに言えるだろう。
 よく政権や自衛隊が使うレトリックに「もし隣にいる他国の軍隊が攻撃された時、自衛隊はただ見ているだけしかできなくてよいのか」というものがある。まさに今回の事態はこうしたケースに準じていると言える。
 生命の危機が直前に迫っている時、法律がどうのこうの言っている余裕はない。本当にそういう切羽詰まった状態なら戦う以外無いのだろう。

 しかし問題はそんなところにあるのではない。
 そもそも何故そのような外国の戦場に自衛隊がいなくてはならないのか、ということなのである。たぶん今の若い人たちは自衛隊の海外派遣が当たり前のことだ思っているのだろうが、これは実は全く当たり前ではない。
 なぜ日本の軍隊が「自衛隊」と呼ばれるのか。海外で戦争をしないという前提があるからだ。専守防衛という原則があるからだ。もちろんそれは憲法が戦争を禁じているからである。

 あまりにも当たり前のことなのだが、なぜかその当たり前が当たり前でなくなっている。いちいち確認しないと段々なにが当たり前なのかわからなくなってくる。

 危機的状況になったらどうするのかと迫るのは、あまりにも汚いやり方だ。危機的状況の場に自らわざわざ突入しておいて、命が危ないと叫ぶのは根本のところで間違っている。
 そもそも自衛隊は海外に出るべきではない。全て引き上げてきて、それから論議をはじめよう。

「一般の国民の皆様」

2013年12月20日 22時38分15秒 | Weblog
 安倍サンの顔を見ると虫唾が走る(つまり吐き気をもよおすという意味だ)。しかし最近は背筋も寒くなるようになってきた。本当にぼくにとっては病原菌以外の何者でもない。

 安部サンは秘密法について「一般の国民の皆様を対象にしたものではない」と繰り返し言うけれど、いったい「一般の国民」って何なのだろう?
 一般の国民と一般でない国民はどこで線引きされるのだろう。

 公務員というわけでもなさそうだ。なぜなら公務員だけを処罰するための法律ならすでに存在しているし、実際この法律では公務員以外も処罰することが出来るようになっているはずだ。
 それでは一般でない国民とはいったい誰だ。なぜその質問を誰もしないのだろう。

 国民を一般とそうでない者とに区別(差別)するところに、この法律の悪質性が見えるのではないのか。
 たとえば普通の刑法を説明するのに、一般の国民が対象かどうかなどと、わざわざ注釈を入れる人はいない。一般的な法律は一般的な国民が対象だからだ。

 安部サンが秘密法に関して「一般の国民」という場合、そのニュアンスにはまがまがしい臭いがする。
 安倍政権打倒を掲げる政治家は一般の国民なのか、そうでないのか。原発に反対する市民活動家は一般の国民なのか、そうでないのか。「安倍の糞野郎は死んじまえばいいんだ」と飲み屋で管を巻く親父は一般の国民なのか、そうでないのか。

 安部サンはもしかしたら罪を犯した者とそうでない者を区別しているのかもしれない。そうであるとしたら、それはトートロジーだろう。
 罪を犯した者がこの法律の対象だ。それでは何が罪なのかと言えばこの法律が規定していることだ。当たり前と言えば当たり前だが、少なくともこれでは安部サンの言う「一般の国民」の概念規定の説明にはならない。

 この法律の危険性は「一般の国民の皆様」と言わざるを得ないところに潜んでいるのである。

猪瀬辞任の不毛

2013年12月19日 18時58分09秒 | Weblog
 猪瀬東京都知事が辞任を表明した。おそらく政治家たちはこれで全部幕引きにしたいところだろう。

 猪瀬氏が辞任を表明したのは、都議会が百条委員会の設置を決定したからだが、これは猪瀬氏が追求を逃れるためというだけではなく、自民党側と呼吸を合わせたのだと思われる。
 このまま猪瀬氏の追求が続けば世論もこの問題に引きられ続ける。そうすれば安倍首相周辺に問題が飛び火する危険性が高まってしまう。その前に当然ながら石原慎太郎氏も追求されるだろう。
 都議会も世論の声があるから徹底追求しなければならないし、必然的に百条委員会を設置するしか道はない。しかしあまり話が広がると自分や自分たちの身内・親分にも火の粉がかかりかねない。この微妙なバランス・ラインが昨日だったということだ。
 百条委員会が決定されれば猪瀬氏は辞任以外の手がない。都議会はマスコミ動向や年末・年始で人々の関心が薄れることも計算しながら、このあたりで問題をうやむやに終わらせる。こういう嫌らしい呼吸あわせがあったのである。
 市民からの告発状を東京地検が受理したから良いと言う人もいるが、これも嫌疑不十分で終わる可能性が高いと思う。

 それにしても、ここに至ってもまだ「猪瀬氏は良い仕事をした」とか「良い都知事だった」と言う人が多い。ぼくは都民でもないし、いったい何のどこが良かったのかさっぱりわからない。
 猪瀬氏は「アマチュアだった」という言い訳をしたが、アマチュアならば、無利子・無担保の現金5000万円というカネが一般的な普通のものではないと感じるに違いない。たぶん、普通の庶民のあなたに突然そんなものを渡してくれる人がいたら気持ち悪いだろう。
 最後に猪瀬氏は「政治のプロではない」ということを、自分の都政の成果として胸を張ったが、政治のプロでないからよいということにはならない。むしろ本当なら政治のプロフェッショナルが政治をやってもらわないと困る。
 しかし人々は「プロ」の意味を取り違えている。この社会ではカネを儲ける者がプロだと誤解されている。政治のプロというのが、政治でカネを儲けるすべを知っているという意味だとしたら、猪瀬氏は立派に政治のプロだ。
 もちろん、それは政治のプロではない。政治屋のプロと言うべきだろう。もっとも猪瀬氏が良かったと言っている東京都民が、政治のアマチュアでも、政治屋のプロでもない、ちゃんとした政治のプロを選べるかどうか。そもそもそうした人を候補にすることが出来るかどうかすら、ぼくにははなはだ疑問である。

固結びではなく、ほどきやすい政治を

2013年12月17日 18時09分17秒 | Weblog
 みんなの党を分裂させた江田憲司前幹事長は、直後の12月9日の記者会見で「野党勢力を結集し、政権交代可能な一大勢力をつくること」が野党の使命だと述べた。
 まだそんなことを言っているのかと、あきれてしまった。その新党の名前はどうも「結いの党」になるらしい。野党を結集するという意味なのだろう。

 それはつまり二大政党制を前提にした議論である。しかしそれはもはや世界的な流れから言っても時代遅れだ。そもそも我々は民主党の「政権交代」を体験してその空しさを痛感したではないか。
 江田氏は「政治理念や基本政策の一致が前提」としているが、20世紀の半ばならともかく、価値観の多様化が当たり前の時代に、政治理念や基本政策をたった二つに分けることなど出来るはずがない。
 アメリカの二大政党でもそうだし、なにより日本の自民党と民主党の政策が実はほとんど同じだったという事実が、この問題の不毛性を示している。それは党内で意見が一致していることを示しているのではない。むしろ一致していないことを意味しているのである。大きな集団の意見を統一することは難しい。結局最大公約数を探っていくと個性の失われた無難なところで妥協することになってしまうのだ。
 その結果、誰一人望まない方針が全体方針になってしまうという笑うに笑えない矛盾が生じる。まさに自分で生み出したのにコントロール出来なくなってしまうフランケンシュタインの怪物だ。

 二大政党制は自民党長期政権に対する批判から始まった。動かない権力構造を流動化させるための制度だと説明された。〈そのために〉として小選挙区制が導入された。
 二つの問題がある。ひとつは二大政党制を宣伝し、小選挙区制を強行した勢力は(それはつまり自民党と言うことだが)、実際には権力構造を変革しようとして二大政党制を作ろうとしたのではないということだ。そうではなく逆に権力構造を守ろうとした結果の策だったのだ。事実、自民党は小選挙区制のおかげで圧倒的な優位を獲得した。
 もう少しつっこんで言えば、あのまま自民党の腐敗政治が続いていたら、資本主義というイデオロギー自体が否定されてしまう危険性があった。だからひとつの空気抜きとして第二自民党が作られ、表面上は政権交代したとしても、基本的な日本の資本主義体制は一切変更されない安全策として二大政党制が提案されたのである。

 もう一つの問題は、歴史的現実として二大政党制は流動化とは全く反対に、より政治の固定化と腐敗を進めたということである。いわゆる「ねじれ現象」の現出だ。
 とりわけ二大政党制を作った自民党自身が政権交代に激しい抵抗を示した。自分たちが政権を取っていた時代にさんざん批判していた野党の抵抗戦術を今度は自分たちが徹底的に使って民主党政権を瓦解に導いた。

 政治の流動化は(それはつまり安定化とは反対の動きであり、それを是とするか非とするかはまた別の問題なのだが)二大政党制では実現できないことは、すでにはっきりしている。
 むしろ政治の流動化は中小政党の共闘、連立によって生まれる。政治理念の一致や全面的な政策の一致ではなく、ある局面における一部の政策的一致でよいのだ。別の政策で不一致となったら、また与野党が共闘を組み直せばよい。そのことによって流動化が生まれ、その方がずっと民意を反映することが出来るはずだ。
 もちろんそのためには中小政党がちゃんと育たなくてはならない。小選挙区制を廃止して中選挙区制に戻すなどの制度変更をするべき時が来ていると思う。


猪瀬追求の不毛

2013年12月17日 11時46分00秒 | Weblog
 東京都議会で猪瀬知事に対する追求が激しい。
 つるし上げというか、罵声を浴びせかけ、ある意味で公開リンチのような感じがして、ニュースで見ていて気持ちの良いものではない。

 もちろん悪いのは猪瀬氏であって、汚職するのも悪いし、これまで権力の上にふんぞり返って傲慢な都政運営をしてきた報いでもある。まあそれにしても、ここぞとばかりにカサにかかって威圧的な態度を取る都議会議員にも、あまり品位を感じない。これで民主主義的態度と言えるのだろうか。

 猪瀬氏は当然ながら都知事を辞める。それが決まっているのに何故かいつまでも事態がだらだらと続いている。それはひとつには猪瀬氏が辞めるに辞められないからだ。
 たぶん本当はすぐに辞めたいのではないだろうか。しかし自分から辞めると汚職を認めることになってしまう。今後の訴追や裁判に不利になってしまうかもしれない。だから実際には議会が不信任決議をあげてくれるのを待っているのではないかと思う。

 しかし自民・公明もいま猪瀬を辞めさせることが出来ない。選挙になっても勝てる候補がいないからだ。いわゆる「山本太郎現象」のような事態が起きないとも限らない。既成政党は簡単に吹き飛ばされてしまうかもしれない。おそらく秘密法強行採決の影響もまだまだ大きい。

 既成政党としては、リスクをとるより今のところは猪瀬をいたぶれるだけいたぶって、都民に自公が正義の味方だという印象を植え付けておきたいと言うことだろう。
 こうして考えると、みな自分のことばかりで誰も都政のことなど考えていない。どっちもどっちという感じだ。
 選挙は人々が「忘年」してほとぼりが冷める来年になる。そもそも猪瀬氏を圧倒的に支持した都民の判断にあまり期待は出来ないが、あまりマスコミのおもしろおかしい大騒ぎに惑わされることなく、しっかりした判断をしてもらいたいところである。

機関銃データが改ざんされていたことの意味

2013年12月14日 23時30分31秒 | Weblog
 住友重機が防衛省に納入している機関銃の試験データが10年以上にわたり改ざんされていたことがスクープされた。住重はこれまでも機関銃製造に関して過大請求が発覚したり、相当問題があるようだ。防衛省は指名停止にするらしいが、事実上、日本の軍事産業はいずれも完全独占企業だから、代わりの企業を育てるところから始めることになるのだろうか。
 いずれにせよ、現時点ではどういうデータがどう改ざんされていたのかわからないので何とも言えないが(というより下記のように公表されない可能性が高いが)、銃の安全性でも、性能でも、どこに問題があったとしても大変危険なことである。

 これは本当に多くの問題を含んでいる。
 兵器のデータは当然重要な軍事機密だから、現在問題になっている特定秘密に指定される可能性が高い。今回は防衛省側が問題を明らかにしたから不正がわかったが、もし役所側が隠蔽しようとしたら、この不正を暴くこと自体が非合法とされる可能性がある。おそらく特定秘密保護法には、違法行為の暴露だから無罪になるとは書かれていないと思う。

 さらにここには独占の問題がある。つまり競争原理が働かないということだ。軍事産業は他に仕事を奪われるライバルがいない。その意味で腐敗が横行する危険性がそもそも大きい。
 しかし当然ながら兵器は普通の商品とは全く違う。誰もが参入してよい分野ではない。また簡単に参入させてはいけない。軍事産業が前提的に抱えている問題である。

 そしてこれはもうひとつの問題と裏腹である。つまり軍事産業が営利企業であるということだ。
 軍事産業が最優先しているのは日本の防衛ではない。利益だ。それは営利企業として当然のことであり、また資本主義社会が抱える本質的問題でもあるが、こと防衛という特殊な分野においては文字通り致命的な問題に直結する。
 いかに極右政治家どもが「愛国」とか言ったところで、その根っこの部分において、国よりカネの論理が存在している以上、言っていることと現実は最後に大きなギャップを生まざるを得ないのである。

 これらのことは根本的には戦争とビジネスが結びついて良いのかどうかということに行き着く。またそもそも戦争とは何か、何のための戦争か、戦争は回避できないのかという疑問にも発展する。
 日本がやろうとしている戦争は、いったい誰の何を守る戦争なのか。誰の何のための軍備なのか。誰の何のための軍事産業なのか。
 そのことは、ちゃんと見ておかなくてはいけないと思う。