あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

逆襲されるナショナリスト

2013年09月30日 11時26分56秒 | Weblog
 大阪府堺市の市長選挙で現職が当選し、大阪都構想を掲げた橋下氏の維新の会が敗れた。一般論から言えば、特に不思議な話ではない。そもそも首長選挙は現職が圧倒的に有利なのだ。
 それでもこのことが大きな意味を持っているのは、橋下氏と維新の会の魔法が解けたからである。
 大阪から遠く離れた関東の人間にとっては、橋下氏のカリスマ性がよくわからないし、なぜ維新の会がそんなに支持されるのか理由が見えない。それなのに選挙をやると連戦連勝で何かの魔法がかけられているかのようだった。全く端から見ているだけの感想だが、橋下氏と維新の会の伸張は、まさに有権者が魔法の効果に期待するというか、乗っかるというか、目に見えない何かの力によるものだったように思える。
 その(失礼ながら)唯一の原動力である魔法が解けてしまった時、橋下氏も維新の会も特になんでもない〈普通〉に戻るのだろう。ぼくはそれは健全なことだと思う。

 さて、ただそれ以上に今回の選挙が象徴しているのは、ナショナリストの矛盾の噴出だったのではないだろうか。
 今回の市長選の争点と言われていたのは大阪都構想である。言ってみれば、〈汎大阪主義〉対〈堺地域主義〉の対決だったように見える。
 橋下氏はナショナリストである。ナショナリズムは国家の支配下に人・モノ・思想を全て糾合しようという思想だ。しかしその橋下氏が選択したのは地方自治体の首長になることであった。そしてそこから道州制を主張し中央と対立する構造を作ってきた。ここが第一の矛盾である。たしかに歴史的に見ても世界的に見ても、国家主義者が地方分権=分離主義を唱えることがよくあるが、そこには根本的矛盾がはらまれているのだ。
 その橋下氏は、大阪というローカルにおいては今度は統合主義者となる。堺市を大大阪の下に吸収しようとした。しかしそれは堺市民の地域主義=小ナショナリズムに破れる結果となった。

 ひとつ思うことは、ナショナリストの地方分権の主張は危ういと言うことだ。それは権力を分離、分散することを目指すものではなく、むしろ自分という個人に全ての権力を集中したいという欲望の表れに見えるからだ。
 彼は王様になりたいのである。そして小さな王様になったら、今度はより大きな王様になろうとする。止める者が出てこない限り彼の野望は果てしなくどこまでも広がり続け、やがては世界を、もしかしたら宇宙まで支配したいと思うようになるかもしれない。

 ナショナリストは、しかし彼の主張を一般化して正当化する。つまり彼の主張は決して彼一人が王様になるためではなく、その共同体全体の共通した利益にかなうものなのだと。
 それはただのまやかしだが、それを信じる者たちが現れ、それはどんどん拡大する。恐ろしいのは彼らの間で相乗効果がおこり、連鎖反応のように全体がより先鋭化していくことである。やがてある場合には王様の意図を乗り越えて支持者の方が先に行ってしまったりする。

 〈右翼自認宣言〉をし、まさに日本のナショナリズムを煽り続けている安倍首相だが、彼が作り出そうとしてきた〈世論〉は、彼の思惑を越えて、ついに日韓交流イベントに出席した首相夫人が批判、非難される事態まで招いてしまった。
 同じようなことで思い起こされるのは、かねてより世論を右傾化させる原動力の一つとなってきた、最右派マスコミであるフジ・サンケイグループの主要メディアであるフジテレビが、韓流ドラマを放映しているとしてネトウヨから攻撃された事態だ。
 煽る側は実際には自分の利益のために世論を煽るのだが、煽られた世論はその言葉を真に受けてさらに極端なところに行ってしまう。そうなるともはや煽った側もコントロールが出来ない。そのことは中国共産党がときどきに行う反日キャンペーンの顛末を見てもよくわかる。

 ただそこで、煽った側が危険性を感じて沈静化へ動こうとすればまだよい。逆に煽り返されて、さらに先鋭化していったら、それこそ最悪の相乗効果が発生する。
 いま安倍氏の様子がなんとなく危うい。はじめは戦術的に言っていた右翼的発言が、だんだん本気に変化しているような感じを受けてしまう。たしかに日本の景気は彼の裏付けのない口先だけの言葉で急激な回復を見せた。原発事故をコントロールしていると宣言すれば世界も納得した。こうなってくると安倍氏の中に全能感が生まれてきてもおかしくはない。

 橋下氏はやっと冷水を浴び、カリスマ性を低めていきそうだが、安倍氏にも早く冷水をかけないと、日本が最悪のメルトダウンを起こしてしまうかもしれない。

後藤久典氏の処分に反対する

2013年09月28日 13時55分36秒 | Weblog
 タイトルの後藤久典という名前を知っている人は少ないかもしれない。しかし今ニュースで大騒ぎになっている「復興は不要」とブログに書いた経産官僚と言えばわかるだろう。

 この人は東大経済学部卒のエリートで、1986年に通産省に入省、中小企業庁、防衛省(出向)、貿易経済協力局貿易管理部安全保障貿易管理課長(長い;;)などを経て、事件発覚まではJETROに出向しミラノ国際博覧会日本政府代表を務めていた。安全保障と貿易管理の専門家とされている。
 プライベートでは2006年から「コロンとパパのにゃぁ/ラブの男の子コロンとサッカー好きのパパとのにゃぁにゃぁな語らい」というブログを始め(当初は娘が飼い始めた犬の成長期だったそうだが)、そこに頻繁に非常識な書き込みをしていた。

 マスコミでは「復興は不要だと正論を言わない政治家は死ねばいい」という部分がクローズアップされているが、ネットで調べてみるととてもそんなことに収まらないような多くの問題があるようだ。
 この人のブログは全体量が膨大で、しかもすでに記事は削除されており、申し訳ないことにぼくはまだ内容をちゃんと把握できていないのだが、ネット上では民族差別、高齢者差別、インサイダー取引き、防衛機密漏洩、天下り、動物虐待、盗撮など、多くの問題が指摘されている。また第一次安倍政権時に安倍首相を揶揄したり、野球や相撲など特定のスポーツや、特定の人の容姿について、侮蔑、誹謗、中傷もしていたようだ。
(そもそもこのブログが「発見」されたのは、2ちゃんねるのサッカーファンと野球ファンが罵倒しあうスレッドの中からだそうだ)

 はっきり言って、とんでもないろくでなしである。眉をひそめる人、憤る人が大半だろう。経産省は早々に現職を更迭し二ヶ月間の停職処分を下した。

 しかし。

 ぼくも腹立たしいし、こういう人が国家の官僚にいて欲しくない。だが、だからと言って、後藤氏が公務員としての信頼を失墜させたという処分理由は、果たして正当なのだろうか。
 確かに彼は国家のエリート官僚としてふさわしくない内容をブログに書いた。しかしそれは匿名であり、彼の身元を割り出し公開したのは2ちゃんねる住民であって、本人が公務員の身分を明かして意見表明する意図があったようには思えない。彼はむしろブログを匿名にすることによって公務員の信頼を守ろうとしたのではないのか。もちろん脇が甘かったというか、過失責任はあるかもしれないが。
 はっきり言って彼の書いているような「非常識」な言葉は、残念ながらネット上に蔓延している。そうした大量の悪意に満ちた匿名の書き込みを、表現の自由として放置し(あるときには政治家や官僚がそれを「世論」としてうまく利用したりもしておいて)、ただ後藤氏の身元が暴露されたことを理由に、ひとり彼だけに責任を負わせてすますのが正しいやり方なのだろうか。

 たとえばこれが、インサイダー取引だとか、機密漏洩だとか、はっきりした罪に対しての処分なら納得できる。彼に侮辱されたり、誹謗中傷されたり、盗撮された人々が彼を名誉毀損等で訴えたわけでもない。
 何かを隠すように、臭いものにふたをするように、すばやい処分を決めてしまった国と経産省のやり方には、何か納得できないものを感じる。また同時に、この問題を被災地復興に関する暴言問題としてだけ報道するマスコミのあり方にも疑問を感じる。

 ぼくは正直に言って、官僚や政治家が本音を語ることは、隠されるよりも、とりあえずずっと良いことだと思っている。本音がわからなければ批判もできない。騙され続けるより暴言を吐かれた方がずっと良い。
 今年の春に復興庁の官僚がツイッターで暴言を吐いて問題になった。その直後に某岩手県議が県立病院の対応をブログで非難し、それが原因で自殺に追い込まれた。さらにあの一連の橋下発言騒動があった。安倍現首相はまさに言いたい放題だ。
 確かにどれもひどすぎる。しかし彼らが発言するから、おそらく官僚は日本の現状についてこう考えているのだ、政治家は戦争と平和についてこう考えているのだ、そしてその品性はどの程度のものなのか、といったことがはっきりわかるのである。
 それでもなお、そうした政治家を選び、そうした政府をよしとするなら、それは政治家や官僚の責任ではない。全くもって有権者の責任なのである。騙されたなどという言い訳はできない。だがそれが民主主義としては健全なあり方なのではないだろうか。

 もうひとつ考えておくべきことは、思想、信条、言論の自由の問題である。
 官僚や公務員が特定の思想・信条・宗教に偏って仕事をしたら、それは大問題である。それは当然ちゃんと検証され常識的な処分が下されてしかるべきだ。
 しかし今回のケースで後藤氏の仕事にそういうことがあったのだろうか。あったとしたら国、経産省はそれを明らかにすべきである。それは後藤氏本人の人権の問題だけでなく、国民全体に対する問題だからだ。
 しかし、もし彼が個人の立場、範囲において、自分の思うことを表現しただけだとしたら、それは安易に処分されて良いことなのだろうか。
 たとえば日の丸・君が代に批判的な教員が恒常的に当局から監視され、毎年処分者が出る。たしかにそれは時の政権の方針を否定するものかもしれないが、少なくとも教員個人が自分の思想・信条に従って行動し意見を表明することを弾圧するのは憲法違反で不当だと、ぼくは考えている。
 もちろん後藤氏の書いた内容は、ぼくの見るところでは犯罪に近いひどいものだと思うが、実際にそれが犯罪であると司法の判断が下されない限り、それをもって彼を処分してはならないと思う。
 いかにひどい内容だとしても、思想を裁いてはならない。

 ぼくは後藤氏が処分されたり処罰されることに反対しているのではない。むしろそうなって当然だと思う。しかしそのためにも国や経産省は弥縫のための(もしくは自己保身のための)処分を行うのではなく、彼のブログ書き込みがどのような罪に当たるのか、しっかり明らかにし、そして司法の場においてその罪をはっきりさせるべきである。
 そうでないと後藤氏の罪は「隠し通せなかったこと」になってしまう。彼自身、テレビ朝日の直撃インタビューで次のように語っている。

「ごく親しい方にのみ自分の日常を伝えているつもりでしたので…」

「匿名であれば私人であろうという誤った観念でやっておったというのが正直なところで、自分の考えが甘かったと思わざるを得ません」

「日々の出来事を淡々と書いていただけだったんですけれど…ITに関するリテラシーがなかった」

「結果として大変多くの皆様方を傷つけたことを深く反省しておりますので…私自身は日本の国家がいつまでもしっかりと繁栄していくことを本来切に願っています…申し訳ございませんでした」

 彼が反省しているのは、身元がばれてしまったことに対してであって、その内容、自分の思想に対して自己批判しているわけではない。「リテラシーがなかった」というのはブログをうまく使いこなせなかったという意味であり、書き込みは「国家がしっかり繁栄していく」ようにとの思いからだったが、それをうまくやれなかったと言っているようにさえ聞こえる。

 当然のことながら問題の本質は、官僚の本音が表面化したかどうかではない。エリート官僚に根深く存在する選民思想をこの社会の中でどう受け止め、社会としてどう対処するかである。
 これは政治的な問題、行政の問題というより、文化の問題であり、狭く言えば教育の問題、広く言えば社会の問題だ。処分、処罰をしたら解決するという性質のものではない。
 いったいなぜ21世紀の文明国にこんな輩が出現し、しかも国家の中枢に巣くっているのか。もちろん巣くっているのは国家官僚の中だけではないのだろう。おそらく経済界や文化人の中にも同じような人たちがたくさんいると思う。
 後藤氏たちの言動が示しているのはこの社会の根本的な歪みである。本音と建て前の乖離である。自由、平等、友愛、平和、民主主義といった我々の社会の基盤であるはずの崇高な思想と、現実にその社会に生きている人間が信じている価値観や思想が、あまりにも大きくずれているということだ。まるでこの世界が完全な虚構であったかのような気持ちに襲われる。
 右翼勢力はやれ自虐史観だ、内向きだと、現代の文化、教育を批判するが、まさにその正反対の思想を身につけた者たちが、このような考え方になってしまっているのである。

 ぼく自身が今この問いに対して、何かはっきりした答えを持っているわけではない。ただひとつ、もしかしたらヒントになるかもしれないのは、今日のこの文章の中で取り上げたすべての人物が、あのナチス発言の講演時に麻生氏が指摘して批判していた50代~60代の世代だと言うことである。
 それはポスト全共闘時代に行われた大きな教育制度改悪と関係しているのではないだろうか。

 いずれにせよ、この問題を即時処分で幕引き沈静化させてはならない。
 多くの人が怒りを感じ、処分に賛同する気持ちはわかる。しかしここでそうしたルサンチマンに乗っかり、嫌なやつは排除しろという論議で終わってしまったら、この問題はただの笑い話、エピソードで消えていくだけだ。
 冷静に、いったい後藤氏の何が犯罪であるのかをちゃんと検証して明らかにし、またすべての人が問題の本質としっかりと向き合うことによってのみ、この問題がこの社会において意味あるものになるのだと思う。


ケニアの事件から日本のあり方を考える

2013年09月26日 19時02分54秒 | Weblog
 ケニアの武装グループによるショッピングモール占拠、銃撃事件。

 ぼくはやはり、すぐにリッダ闘争(テルアビブ空港乱射事件)を思い出してしまう。
 1972年、パレスチナ闘争の最左派であったPFLPと連携して、黎明期の日本赤軍が決行した無差別テロ事件である。空港利用客26名が死亡、73人が重軽傷を負い、実行部隊の奥平、安田の両名もその場で死亡、ただひとり岡本公三氏だけが生き残った。岡本氏はその後ながく独居拘禁を受けて精神を病み、現在はパレスチナで庇護されているという。
 目には目を、歯には歯を、虐殺には虐殺を、という等価報復の論理で行われた闘争だが、当時20代の未熟な革命家を動かした単純な論理はもちろん間違っていた。まだ銃によって世界が変えられると思われていた時代の悲劇だった。(いまだにその頃から思想の変わらない前時代的な輩が世界中にたくさんいるが)

 今回の襲撃はソマリアのイスラム原理主義グループによるものと言われいてるが、目的はケニアによるソマリア出兵を停止させることにあるらしい。実行部隊の中には白い未亡人と呼ばれるイギリス人もいたと報道されている。
 現在のソマリア情勢はあまりにも混沌としており、誰の主張に最も合理性があるのか一概に判断できない。ケニアにも大義名分があるだろうし、ソマリアにも様々な立場の人がいるだろう。さらに世界規模で思想と運動が拡散している。その意味ではリッダ闘争の頃のように問題を単純に見ることすらできない。

 誰の言っていることが正しく、もしくは嘘なのかはともかく、ひとつはっきりしていることは、ケニアがソマリアに出兵したことが原因だ(もしくは口実にされている)ということである。

 これは全く他人事ではない。
 残念ながら多くの人が忘れ去っているのだろうが、日本もまたソマリア沖に出兵しているのだ。しかも当初は日本の船の警護を目的としていたが、新法が作られたり政権の判断による活動範囲の拡大がおこなわれ、現在では事実上アメリカ海軍が指揮を執る合同軍の中に自衛隊が組み込まれている。しかも日本国土を防衛することが目的であるはずの自衛隊が、この作戦のために史上初めてジブチに海外基地を建設しているのである。

 おりしも安倍首相は昨日、訪問先のアメリカの保守系シンクタンクでの講演で「もし私を右翼の軍国主義者と呼びたいのならどうぞ」と、ついに極右自認宣言を行った。
(皮肉が読み取れない読者の方も極まれにいらっしゃるので一応補足するが、これは皮肉表現です。事実としては安倍氏の真意は中国への挑発、もしくは日本の反軍拡派に対する開き直りにある)
 この講演の中で安倍氏は公海上での米艦防護などの具体的ケースを取り上げ「日本の艦船はどれだけ能力があっても米艦を助けることができない」と、集団的自衛権行使実現への強い意志を表明し、前段のマスコミ取材に対しては「地球の裏側という考え方はしない」と世界中どこにでも自衛隊の戦闘目的の派兵を行う姿勢をはっきり示した。

 かつて国会では、自衛隊の活動範囲を巡って激しく粘り強い議論が行われてきた。常識的に考えればそれは当然、日本の領土、領海、領空であるに決まっているが、日米安保との関係で「極東」という概念が生まれた。ここまでならちょっと押されたかなという感じだが、そのうち「極東」の範囲が広がっていった。いつの間にか世界中どこもが「極東」だというおかしな話になった。
 「極東」はまさに薄っぺらいイチジクの葉っぱだったわけだが、もはや現在ではその「極東」という言葉さえ使われない。そういえばゾッとすることに最近では専守防衛という言葉さえあまり聞くことがない。

 日本を守るために自衛権が必要だという論議は、それ自体奇異なものではない。それなのになぜ日本には反自衛隊の議論が起きるのか。それは政府が信用されていないからだ。
 そもそも日本の自衛隊が発足したのも朝鮮戦争への対処が発端だった。しかもそれを指示したのはアメリカ(GHQ)である。始まりからしてうさんくさいのだ。さらに政府は「日本防衛」を言いながら常に対外戦争に向けた軍備の拡大を進めようとしてきた。そしてついには現状の事態にまで到達し、やがては米国さえ懸念するような核武装と独自の軍事大国化を目指すことになるのだろう。
 ある意味で、本当の自衛、防衛の論議が完全にすっ飛ばされてきたのである。政治論争は自衛、防衛という言葉を使いながら、実は対外戦争をするかしないかという、まさに憲法九条を巡る本質的論議がされてきたのだ。しかし政府・与党はそのことを一般的な自衛権の問題とすり替え宣伝してきた。混乱の根本はここにあるのである。

 今回のケニアの武装グループの問題が教えてくれることは、どういう意味があるにしても、海外への派兵は自国の安全を守るどころか、常に自国を危険にさらすということである。

 アメリカを襲った9・11テロは、まるで一方的にアメリカとアメリカ国民が被害を受けたように言われるが、実際にはそれ以前にアメリカが世界中に軍隊を派遣し、世界の警察を名乗って世界を支配下に置こうとしていたのだ。当然のことだが、アメリカ軍がイスラム圏内に乗り込んで戦争をしていなかったら、イスラエルに軍事支援をしていなかったら、9・11が起こることはなかっただろう。

 もちろん、日本が侵略を受ける可能性が無いとはいえない。なぜなら日本自身がかつて理不尽な侵略を行う側だったからだ。我々はなぜ侵略が起こるのかを内面的実感として知っている(はずだ)。
 だから自衛権を否定するつもりはない。憲法も「国際紛争を解決する手段として」戦争と武力の行使を否定しているのであって、国内における自衛行動を禁じているわけではない。もちろんそこに自衛隊が存在する根拠もある。本来のちゃんとした自衛組織が、しっかりとした節度の中で構築されればよいと思う。
 もっともそれだけでは不十分だという意見もあるだろう。だからこそ平和外交の充実が必要なのである。軍事と戦争が平和の手段だなどという詭弁はあってはならない。

 右翼政治家や評論家は、海外派兵された自衛官が自由に銃を撃てないと自分の身を守ることもできないと言う。しかし、戦後の日本はあえて外に向かって銃を撃たないことをもって安全を守ってきた。
 銃を持ち銃を撃てるから相手から撃たれないわけではない。むしろ武装しているから撃たれる可能性が高まるのである。そもそもだからこそ紛争地域に自衛隊を派遣してはいけないという論議になっていたのに、論議は歯止めなく横滑りしていく。

 たしかに絶対の安全など無いだろう。ただ撃たなければ撃たれないかもしれない。しかし撃てば確実に撃ち返される。
 自衛隊員を死地に送ってはならない。ましてや誰かの特定の利益のために自衛隊員を犠牲にしてはならない。もし派兵しないと何らかの不利益を被るというのなら、日本人全部で平等に被ろう。嫌だと言う人もいるだろうが、少なくとも右翼の人たちだけは、おそらくきっとそういう自己犠牲精神を十分持ってるにちがいない。


※下の記事を参考にさせていただきました
日本がアブナイ!
安倍が「右翼の軍国主義者」宣言?&営業活動+増税対策で政府与党間の対立



クルマ社会とは

2013年09月24日 23時40分39秒 | Weblog
 京都府八幡市で、また少年の暴走自動車が小学生の列に突っ込む事故があった。
 本当か嘘かは知らないが、この道では以前からこの少年の自動車が乱暴な運転をしていることが問題になっており、事故が起きたちょうどその時、警察が200メートル先で交通取締りを行っていたという。少年はこの道に勢い良く入ってきてそれに気づき、あわててUターンしようとしたのではないかとも言われている。
 ちょうど、昨年起きた関越自動車道高速バス居眠り運転事故の裁判も行われており、被告の運転手は過失ではなく病気によるものだと主張した。いろいろな意味で虚しいというか、悲しい話である。

 かつて交通戦争と呼ばれた時代から比べれば交通事故は減っている。しかしいくら絶対量が減ろうとも、事故にあう人はいるのだし、事故にあった人にとっては統計など何の意味も持たない。怪我をするのも死ぬのも障害が残るのも、その当事者にとっては何かの比較で済まされることではないのだ。

 交通事故はなくならない。それはこの社会がクルマ社会だからだ。クルマ社会と言うのは自動車が最優先の社会と言うことである。
 おそらく誰も奇異に感じていないのだろうが、日本における道路とはほとんど全てが自動車用道路だ。アスファルト舗装はけっして歩行者が泥道で苦労しないためのものではない。自動車が走りやすいための整備である。交通信号や交通標識もすべて自動車のためのものである。自動車の優位性を示すものでしかない。江戸時代にも馬や大八車などによる交通事故は存在したが、交通標識や交通信号は存在しなかった。なぜなら、道はまず第一に人間が歩くものであったからだ。
 田中角栄が「日本列島改造」のために決断した6m道路も、自動車だけの利便性を考えたものであった。そしてそれがスタンダードとなり、日本全国あらゆるところで今も歩行者を苦しめている。
 つまり日本の道路はすべて自動車のために存在しているのだ。

 日本の産業構造を見ると自動車産業は圧倒的な位置を占める。よく日本は産業立国だと言うが、それは自動車立国と言い換えても良い。この社会からクルマを追い出せと主張しても賛同は全く得られない。

 もっとも、ただ自動車が使われている、自動車の数が多いことが、イコールでクルマ社会になるわけではない。自動車という機械は便利で重要な機械であり、それを否定するつもりは毛頭ない。
 問題はその使われ方であり、社会的位置づけである。
 あくまでもそれが運輸交通手段であり、そうである以上、個人的なものである以上に社会的インフラであることが明確にされる必要がある。クルマが個人の延長ではなく実用機械であることが忘れられていはけない。
 まず最優先されるべきなのは人間であることを誰もが理解し、それが社会システムの中で構造化されている社会なら、いくら自動車の数が多くてもそれはクルマ社会ではない。

 ぼくが脱クルマをはっきり主張するようになったのは、もう15年位前からだが、その当時は本当に誰一人耳を傾けてくれる人はいなかった。
 日本では右翼も左翼も金持ちも貧乏人も、皆が皆、クルマ依存症だった。クルマは豊かさの象徴であり、自由の象徴であり、自分の心身の延長にシームレスにつながる、まさに自分自身であった。クルマはその人の力を強大化し、プライベートを完璧に防衛する存在だったのである。そしてそれは同時に経済においては日本の資本主義を支える支柱であり、思想においては個人主義の正当な(スタンダードであるところの)象徴であった。そしてそれはまたまさに「競争」そのものの象徴でもある。

 この15年の間に、まず環境問題の脈略から脱クルマは少しずつ認められ始め、若者世代はついにメンタル面、思想面の呪縛から解放されつつあり、クルマ依存症から脱出し始めた。
 ただしこうした若者の変化に対するオトナからの攻撃は激しく、やれ夢や野望を無くしただの、草食系だのと罵詈雑言が浴びせかけられている。もちろん「景気回復」のお題目を唱え続ける限り、自動車産業の衰退は許されず、脱クルマの論理の入り込む余地は無い。

 しかし誰もが見ていない、見えない、見たくないクルマ社会の最重要の問題は、これが人権問題だということなのである。
 日常生活の場から一方的に安全性が奪われることは、まず第一に人権問題であろう。人権は、経済よりも競争力よりも、利便性や快楽よりも優先されるべきだと思う。

風評被害ではない、政治不信だ

2013年09月20日 00時00分34秒 | Weblog
 福島事故原発の汚染水垂れ流し問題。

 きのう安倍総理は現地視察を行った。別に悪いことではないが、それでいったい何を確認できたのか。なんだか作りこまれた政治パフォーマンスにしか見えなかった。とにかく政府の対応は、まず口先だけ格好の良い抽象的な言葉を先行させ、実態としてはなるべくカネをかけず、また現実的には全ての責任を東電に丸投げするという、あまりにもフワフワしたものでしかない。
 同じ視察でも菅直人総理(当時)の緊急視察のような切迫感も威圧感も無く、あまりにも危機感が薄い感じがした。実際にこの二年半の内閣の中で、福島原発事故が日本を滅ぼしかねない大事故であるという認識を持った政治家は、おそらく菅さん一人だろう。しかしその菅さんでさえ、結局は経済界の圧力に負け、すぐに腰砕けになってしまったのだが。

 地元の漁協は今月から試験操業を行う予定だったが、汚染水問題の発覚によって延期せざるを得なくなった。しかし、このままでは地元漁業が壊滅してしまうという危機感から再度あらためて開始を決めるなど、混乱を深めている。
 地元漁民にとって最も死活的重要性を持つのは消費者の動向である。いかに放射能の基準値が規定値を下回ったと言っても、同じものがあるのなら人があえてリスクの高い方をとるわけがない。スーバーに買い物に行けばすぐわかる。主婦は同じ棚に並んでいる同じ商品でも、細かく消費期限などをチェックして選んで買うのである。そこまで敏感な消費者に、汚染水が入り込んでいるかもしれない海で採れた魚を買わせるのは不可能に近い。

 この汚染水問題をきっかけとして韓国が東北、関東の8つの県からの水産物の輸入禁止を表明した時、菅官房長官は韓国は科学的根拠がないのに輸入を禁止したと非難した。
 しかし現実に日本国内においても人々が敬遠しているものを外国が拒否するのは当然ではないのか。管氏は忘れっぽい人なのかもしれないが、BSE(狂牛病)問題の時には日本政府はアメリカの基準を信用せず、日本独自の基準で輸入制限を行った。その規制がやっと緩和されたのは安倍政権が発足した今年の初めである。

 安倍首相も菅氏も「世界で一番厳しい基準」と言う言葉を好んで使うが、そもそも「日本が一番」神話ははるか昔に崩れ去ってしまっている。だいたい震災前から日本の原子力発電所は世界一安全だったのではなかったか? しかもいくら表面上基準が厳しくてもそれを守らなければ、そこにはひとかけらの意味もない。
 原子力規制委員会の田中俊一委員長が「世界一厳しい」と言い切った原発の新しい安全基準も、現実には各国が規定している予測される最大の地震の大きさが入っておらず、ザルと言われてもしかたないお粗末さだ。
 国内の一般的な許容被爆線量は年間1mSvだが、いつの間にか福島の避難指示解除準備区域の基準は年間20mSv以下にされてしまった。これはチェルノブイリの5mSvよりはるかに高い。政治的な判断で政府の都合の良い数字にコロコロ変わってしまうような基準のどこに「科学性」を主張できるのだろう。
 安倍氏の「汚染水は完全にコントロール出来ている」発言と言い、いったい政治家はこんないい加減な口から出任せを言い続けて恥ずかしくないのか。いや恥ずかしいどころではない。非常に危険である。一方でここに来ての秘密保持法だ。明らかに矛楯していることでもひょっとしたら今後はその根拠を追求することさえ出来なくなってしまうかもしれない。

 もちろん事実として、放射能の海にいる魚を食べても「ただちに」健康に影響するわけではない。おそらく本当に深刻な影響が出るとしても、それが発覚するのははるか未来のことだろう。そのころには現在の政治家も官僚も企業家もみんな引退するか死んでるかしている。今さえ乗り切れば彼らは逃げ切れるのである。
 政治家は言葉で戦うと言われる。雄弁、能弁であることが政治家の資質であると言われる。しかし、レトリックで乗り切ってはいけないこともあるのだ。政治家の言葉をそういう風に使うことは絶対に許されない。
 本当か嘘か知らないが吉田茂は「嘘も百遍つけば本当になる」と言ったそうだ。しかし何千回、何万回嘘をつこうが、放射能の脅威が消えるはずがない。
 今ぼくが恐れるのは、安倍氏が国際社会に対して「完全なコントロール」を宣言してしまったことが、逆に新たな問題の隠蔽を生むのではないのかということだ。嘘を真実に見せるためにまた嘘をつく、事実を隠す。そんな連鎖が続いたらいったいどうなってしまうのか。

 福島の漁業の問題は確かに風評被害と言うことも出来る。テレビを見ていたらコメンテーターが「消費者の意識の問題だ」と言っていた。
 しかしやはりこれは風評被害などではないのだ。風評被害というのは根拠なく消費者がパニックに陥ることを言う。だが人々はパニックに陥っているわけではない。それではこれは何かと言えば、それは政府に対する不信感なのである。
 人々は風評に惑わされているのではなく、政府、行政によって担保されるはずの安全が失われている、嘘と隠蔽ばかりでもはや何も信用できないと感じているのだ。だから自分の身を自分で守ろうとしているだけなのである。

 まず政治家、政府、行政、企業が、現実と真摯に向き合うこと、何が出来て何が出来ないのかをはっきりさせること、不都合な真実であればあるほど隠さず公表すること。
 失敗したり、力が足りないことが悪いのではない。それを認めず隠蔽しその場しのぎをし続けることが最悪なのである。根底的な信頼を得られない政治は、どんなに表面的に好調であってもいずれ巨大な崩壊をまねく。歴史がそれを何度も証明してきたことを思い返すべきだろう。


宮崎監督引退と職人宣言

2013年09月19日 00時00分42秒 | Weblog
 東京オリンピック開催が決定する直前に映画監督の宮崎駿氏が引退を表明した。彼が本当に引退するかどうかはともかく、宮崎監督の中に矛盾がたまり続けていたことは確かであろう。
 彼はカネではなく心、モノではなく自然こそが重要だと、子供に向けたメディアの中で叫び続けてきた。しかしそれは彼の思想とは全く関係なく、巨大なカネとモノの世界に発展していってしまった。もはや宮崎監督は純粋に子供に呼びかけることができなくなった。そして彼が最後に「遺言」として撮ったのが、大人に問いかける矛盾に満ちた物語だったのである。

 宮崎氏の矛盾はまさに資本主義の中で理想を追い求める矛盾であった。
 彼自身はもともと日本共産党員であり、労働運動の指導者だった。激しい組合運動を闘っていたようだ。しかし1970年代後半から80年代におけるソ連と中国のスターリニズムに嫌悪し転向する。
 しかし当然ながら目の前にある日本の資本主義の現状も肯定することが出来なかった。宮崎氏の偉大なところは、既存の誰かの思想に安易に迎合することなく、目の前の現実と格闘しながら自らの独自の思想を磨き上げていったところにある。そうであったからこそ、あのような深い陰影のあるすばらしい映画を作ることが出来たのだ。
 ただ彼が莫大な制作費用のかかる劇場長編アニメ映画を作ることを職業として選んだ以上、彼の思想がどうであれ、資本主義の巨大なメカニズムの上に乗らなくてはならなかった。彼は映画制作がビジネスであることは十分承知していた。巨大な利権が動き、作品が評価されればされるほど、自分の作品がこの日本資本主義の重要な肥やしになっていくこともわかっていただろう。

 宮崎氏が悪いわけではない。資本主義の社会で仕事をする以上、そこから自由になれるわけはない。
 映画は商品であり、また芸術でもある。それは本質的には矛楯をはらんだ状況だ。しかしファンたちはその矛楯などには頓着せず、無邪気に芸術を商品として消費する。もちろんファンたちが一方的に悪いわけでもない。それが資本主義だからだ。

 宮崎氏は引退会見で、自分のことを文化人でも企業家でもなく、町工場の親父だと規定した。町工場の職人は、たしかに現代日本では資本家の側に分類される。もう少し細かく言えばプチブルであろうか。しかし町工場の職人は資本主義が生まれる前から存在した。
 資本主義における商品は基本的に「いらないモノ」である。人が生きるために絶対に必要ではないものを、より多く作り、より多く売るのが資本主義なのだ。だがそんな資本主義以前から人は生きてきた。人が生きるのに絶対に必要なものを作ってきたのが、農民であり漁師であり職人だった。
 宮崎氏が自分を資本家でもプチブル文化人でもなく職人だと宣言したことは、彼の引退表明の中で最も核心的な言葉だったと思う。

独裁権力を誇示したいの?川勝知事

2013年09月18日 00時00分48秒 | Weblog
 超長期自民党政権の求心力の低下と民主党政権の成立がもたらした最大の成果は、地方自治体の首長の力が大きくなったことかもしれない。
 たぶん当初は宮崎県あたりから知事のパフォーマンスが注目されはじめ、名古屋や愛知、東北被災地各県、大阪、そしてもちろん沖縄など、各地の知事や市長らが公然と中央政府を批判し対立するようになった。これを地方の時代の到来だと言うのはちょっとはばかられるけれど、建前上は中央と地方は対等なのだから当然のことであり、悪い傾向ではない。ただしそれが本当の地方政治の活性化によるものならば、である。

 明らかに沖縄や原発再稼動に慎重な知事などは、地元の世論の力に押されているところがあって、その意味では住民の声を聞いた(聞かざるを得なかった)結果なのだろうが、中にはただ単に知事や市長が自分をアピールするためだけの無内容な反抗パフォーマンスに思えるケースもある。

 現在、川勝平太静岡県知事は全国学力テストで小学校の国語の成績が全国最下位だったことに対し、下位100校の校長の氏名を公表すると息巻いている。もちろんこれは事実上禁じられている個別学校名の公表と同義であり、とうてい常識的に許されることではない。当然、教育委員会は強く抵抗している。
 テレビのニュースで見る限り、川勝氏はたいへん高圧的で、何をどうしたいのか丁寧に説明しているようにも見えない。ぼくは個人的には高圧的な権力者が大嫌いなので、川勝氏の顔を見るだけで虫唾が走ってしまう。

 そもそも川勝知事は成績最下位の責任は学校の先生にあると言い切っているが、県内の公立校の問題なのだから最終的な責任は各市長や知事にある。そのことは自覚しているのだろうか。
 教職員組合によれば、静岡県の児童ひとり当たりの教育予算は全国最下位なのだそうで、そういう意味から言っても、むしろ行政=知事の責任を問うことの方が先なのである。
 川勝氏は果たして子供のことを子供の身になって考えているだろうか。どう見てもそうではない。国なのか教育委員会なのか教員組合なのか知らないが、誰かに対する対抗、闘争としてやっているのではないのか。もしくは国の方針など自分なら簡単にひっくり返せるという力を誇示して「強い知事」を有権者にアピールしたいだけなのか。
 だいたい校長に全責任を押し付けたら子供の学力は上がるのだろうか。それより自分の決断で教育予算を上積みする方が意味があるのではないのか。冷静に考えれば誰にでもわかる。

 地方の時代というのは総理大臣より知事の方が偉いとか、そんなことを言うのではない。
 それは地域住民の意見がまっとうに行政に届くことであり、地域間格差を許さない国全体の形がしっかり出来ていることを言うのである。その上ではじめて地方は自由に自分の意志でユニークな自治をしていくことができるのだから。
 当たり前のことだが、地方自治を政治家の独裁権力誇示の場にしてはならないのである。

秘密裏に行われようとしている法案改訂

2013年09月17日 15時44分29秒 | Weblog
 消費税問題がどうやら全く方向性を変えてきたようだ。
 変えた、と言うより、本音がむき出しになったと言う方が正しいかもしれない。

 安部さんは、60人の有識者を幅広く呼び集めて、全国民的な意見聴取を行った。過半数が増税やむなしとの意見を述べた。消費税が増税になって得をする人は比較的少数だから、みな苦渋の決断をしたと言ってよい。
 しかし残念ながら、この聴取会は全くの茶番であった。政権はこの中から自分の都合の良いところだけをつまみ食いし、結果として人々の思いとは全く逆の方向に踏み出そうとしている。はじめから結論ありきの出来レースだったのかもしれない。

 そもそも甘利経済財政政策担当大臣の聴取会総括が変だった。甘利氏は、意見を述べた人たちの多くが増税は仕方ないが、その代わりに経済対策が必要だという意見だったと総括した。
 しかしそれは違う。
 確かに産業界からはそういう意見があったが、一般の庶民、生活者の代表として意見を述べ、条件付きで増税に賛成した人の大半はそんなことは言っていない。彼らは、税金の使い道を明確にせよ、それが増税の条件だと言ったのである。そして当然、その使い道は自民党が掲げているとおり社会福祉目的でなければならないと。

 一般国民は政治家や企業家、投資家とは違って、いたって冷静だ。増税は苦しいが、しかし国の借金が国民一人あたり1000万という想像を絶する状況にあるとき、もはやしかたがないと自らの身を切る決意を述べたのである。日本社会において最も弱い立場に立つ人たちの決断は重い。

 ところが安倍政権はそうした意見を意図的に曲解して「賛成してくれてありがとう、それじゃ経済対策に力を入れますね」と言ったのである。そんなことは頼んでいない! しかし安倍政権は消費税増税の2/3に当たる金額を公共投資でばらまく方針を打ち出したのだ。
 なにが経済対策か!

 これはつまり、実質的に消費税を一般財源化するということである。「おカネには色がついていない」以上、ほかに財源がない公共投資は当然消費税増税分から出て行くしかないのだ。こうして自民党の本音である税金をジャブジャブ使うことが可能になろうとしている。
 税金をジャブジャブ使うとは何か。そのカネは別に直接政治家の懐に入るわけではない。官僚が全部奪うわけではない。公共投資として最終的に大資本、大企業のところにまわるのだ。複雑そうな表側をはいでみれば、結局のところ低所得者から奪って高額所得者の懐に流れる仕組みなのである。
 そのことによって自民党は産業界からの圧倒的な支持を獲得でき、官僚たちは財布の紐を握ることによって実質的に日本を支配することが出来る。

 これはもはや自民・民主が掲げていた消費税増税とは中身が全く違う、最悪の搾取システムでしかない。これでは増税の意味が皆無になるだけではなく、逆に事実上の福祉政策の圧縮である。
 消費税に賛成するとか反対するとか言う以上の非常に大きな問題なのだ。しかもそれが、解釈改憲のように、まさに麻生発言にあった「ナチスのやり方」に習った隠された法案改訂として行われようとしているのである。

 ところがこれだけ重大な事態を迎えようとしているときに、いまだにマスコミや「世論」は、消費税やるかやらないか、などという的外れな議論をしている。
 まさに誰もが目先の利害のことしか考えていないから、裏側で画策されていることの本質を見抜くことが出来ないのである。増税はいずれにしても実行する以外にないという事実の前で、多くの人が自分のファンタジーの世界で、どうすれば自分が一番得をするかなどと夢想しているのだ。いいかげんに目を覚ませ!

 なにもやらない民主、ごまかしばかりの自民、そしてそういう政治家に踊らされるだけの民衆。2010年代の世界は、そんなフワフワしてはいてはとても越えられないほどの危機のど真ん中にある。
 真剣に勇敢に、そして賢くならなければいけない時なのだ。


あるアパートのゴミ問題

2013年09月16日 10時25分53秒 | Weblog
 あるアパートで大家がゴミを溜め込んでいた。どうしてかと言うと分別できないほどにごちゃ混ぜになっていたので町が引き取ってくれないからだ。アパートの敷地にゴミがたまっていったが、一応ふくろに密閉してあって臭いも出なかったから、一部の人を除けば住民も近所の人もあまり文句を言わなかった。
 あるとき台風のような嵐が来て、敷地内にあったゴミ袋が破れごみが散乱した。大家はとりあえず一番目立つところだけは片付けたが、あとは難しそうなので放置したままにした。
 それからしばらくは分別できるゴミだけにして町に回収してもらったので、ゴミは増えはしなかったが袋が破れたゴミはずっとそのままになっていた。大家は他人に訊かれると一生懸命片付けていると答えた。確かにかなり面倒なことは誰にもわかっていたので、皆しかたないなと思った。
 ところがそのうち大家は、もうちょっと我慢できないんで、と言って、また分別できていないゴミを出し始め、再びアパートの敷地にゴミをためようとし始めた。
 近所の人たちはゴミがアパートの敷地の外に飛び散っているのではないかと心配していた。しかし大家はゴミはちゃんと管理しているのでアパートの外には絶対に出ない、臭いもしないし汚くもないので、近所の人に今度宴会を開くからぜひ来てほしいと呼びかけた。
 そのころ近所の子どものひとりがそのアパートをゴミ・アパートと呼び、アパートの住民をゴミの中に住んでいると言ってからかった。
 大家は怒った。アパートの住民を傷つけるんじゃないと子供の親に猛抗議した。
 次の日、ごみは風とカラスによって近隣に撒き散らされていることがわかってしまった。しかしどこかに飛んでいってしまったため、別に問題ないじゃんと大家は言った。

問 上の文章を読んで以下の設問に答えなさい。

1.子供の揶揄とゴミを散乱させることを比べたら、どちらがより多く人を傷つけるでしょうか? また揶揄した子供に揶揄されるような状況を作った大家が文句を言うことができるでしょうか?(ちゃんとした大人ならば)

2.現実には全くゴミをコントロール出来ていないのに、絶対安心と断言し、あまつさえ恥ずかしげもなく近所の人を宴会に呼ぶ大家は、厚顔無恥の大嘘つきではないでしょうか?

3.一番の被害者はアパートの住民だと思われるのに、なぜアパートの住民が最初に大家に責任をとらせようとしないのでしょうか? なぜ近所の人がとても心配しているのにアパート住民は涼しい顔をしていられるのでしょうか?

この一週間と、コンピューター文化のこと

2013年09月15日 10時27分58秒 | Weblog
 一週間かけてパソコンの改修をした。改修と言うより新しいパソコンを組みなおしたと言う方が正確かもしれない。
 この記事では、おそらく関心の無い方には全く意味の無いことを延々と書くが、どうでもよいと思うところはどうか読み飛ばして欲しい。


 と言うことで今回は、マザーボード、CPU、メモリ、それとシステム用のHDDを換装し、新しいOSをインストール、アプリケーションも入れ直した。
 ぼくが最初にパソコンの自作をしたのは、たしか15年位前のことで、そのころから基本的にAMD信者だ。しかし最近はAMDもIntelと真正面から張り合わないような路線変更をしているようで、あまりこれと言えるようなCPUが無く、今回はHaswell版のCore i5を選択した。たぶんIntelの石を買ったのはPentium 4以来ではないかと思う。

 パソコンは何台か持っていて、今回改修したのはメインマシンなのだが、この夏の暑さのせいもあったのか、この数ヶ月間フリーズする回数が多くなり、ついに先々週にはビープ音をビービー言わせて立ち上がらなくなった。
 このときは蓋を開けてメモリを抜き差ししたら立ち上がったのだが、そもそもOSがWindows XPだったこともあり、いよいよここがタイミングだと思って組み直す決断をしたのである。

 新しいOSはあえてWindows 7の64bit版を選択。セットアップまでは半日で全て作業が終わったのだが、むしろここからが大変なのだ。
 一応、数え切れないほどやってきたことだから、それなりに慣れてはいるが、やはり長年使ってきた環境を再現させることは簡単ではない。完全にマシンを作り直したようなものなので、普通にアップグレードとはいかないのである。

 意外にもアプリケーションは普段使っているものに関してはほとんど問題なかったが、むしろハードの方がかなりひどい状態になった。
 マザーをMicroATXにしたためもあって、FDD、IEEE1394、ATAのソケットが無くなった。まあこの辺は現状では使っていないので実質的に問題ないのだが。
 困ったのはドライバが無くなってしまったものだ。これで使えなくなったのは、キーボード、FAXモデム、電子手帳、サウンドボードなどである。これらは現役で毎日使っているようなものばかりなので大打撃だ。
 サウンドボードはオンボードサウンドを使うことで決定的な支障にはならないが、MIDI端子が無くなってしまった。キーボードは純正の富士通の親指シフトであったが、仕方ないので普通のキーボードに変更した。日本語が打ちづらくなってしまった。
 FAXは64bit Windows 7に対応したものを買い直すしかない。最も打撃なのは電子手帳で、これは日常的に使っているものなのに急に全く使えなくなってしまった。今のところ打開策はないようだ。


 新しく購入すればなんとかなるものなら、それを買い直すのは必要なコストとしてある程度仕方ない。しかし全く代わるものが無い場合はとても困る。
 それだけではない。壊れてもおらずにちゃんと使える機械が、しかも本当は必要なものなのに、ゴミにするしかなくなるということに大きな疑問を感じてしまう。
 一番の原因はマイクロソフト社の方針にある。新しいOSを売るために古いOSを使えないようにしてしまうのだ。もちろん建前上は全く使えないわけではない。使おうと思えば使えるのだが、マイクロソフトがサポートを打ち切れば、他の会社も皆追随してサポートしなくなる。セキュリティソフトが対応しなくなるのは、現在の状況ではパソコンとして使えなくなるのと同義である。
 結局、古いOSは使えなくなるのである。

 これはつまり商売=ビジネス戦略なのだ。古いものをいつまでも使われると儲けにならない。だから強制的に使えないようにして、古いものはたとえ使えるものであっても捨てさせようというのである。
 そして新製品は天文学的な宣伝費をかけて徹底的に売り込みをはかり、人々の頭の中に植えつける。これが資本主義経済である。

 昔ある会社で営業部に配属になったとき読まされた本に、エスキモーに氷を売るとか、冷蔵庫を売るという話が書いてあった。それが偉大なセールスマンだと言うのである。新たな需要の開拓という。
 しかしそれは言い換えれば必要ないものを買わせるということである(もしくは詐欺か?)。そしてそれが資本主義経済を支える根本的なあり方である。
 自給自足の社会に貨幣経済を持ち込み、いくら働いてもカネにならなければ生きていけない社会に改変すること、それが資本主義の正義である。

 世の中に広告があふれているが、極論すれば宣伝されているものは何一つ必要なものではない。必要が無いから宣伝しなくては売れないのだ。古い社会では広告が無くても、人は自分に必要なものがどこにあり、どうやったら手に入るのかを知っていた。それでちゃんと生きていけた。何の店がどこにあるのか、自分で作れるものは何でそれはどうやって作るのか、山や海に行ったら何が採れ、採るにはどうしたらよいのか。

 別にそうした生活がベストだ、そういう生き方をしようと言いたいのではない。ただ人類がずっとそんな風にして生きてきたことを、そういう形でも破滅などしないのだということを、忘れない方が良いと思うだけだ。
 今の世の中のあり方だけが全てではない。唯一の正解でもない。経済が活性化しなくては生きていけないわけではないし、経済成長しなかったら人類が滅ぶわけでもない。それは我々がそう思い込んでしまっているだけのことなのだ。
 冷静に考えたら、地球が何億年もかけて蓄積した資源を大量に消費し、大量のゴミや放射能をばら撒き、絶対に必要というわけでもないモノを買い、そしてそのために必要以上に働かなくてはならない社会の方が、ずっと不健全で、破滅への道ではないのか。
 それなのに今の社会は、それこそ最も重要なのだと叫び続けている。

 Linuxという系統のOSがある。多くの場合、これらは無償で提供されている。ボランティアが作り支えているのだ。Linux系のOSもかなり速いスピードで世代交代するが、以前使えていた部品や周辺機器が使えなくなるケースは比較的少ない。
 ぼくは必ずしも「無償」が正義だとも思わないが、こうした「フリーウェア」や「フリーソフトウェア」主義者たちの理想は、古い時代に後戻りするというのではない、商業主義を越えた新しい思想の可能性を教えてくれる。
 マイクロソフトやインテルやアップルが世界を支配し莫大な利益を得ている。そしてそのことを彼ら自身も、そしてそのユーザーも、まるで現代の福音のように誇り、あがめたてている。それはいかにも世界の最先端にいるようでいて、しかし実は行き詰った社会のあだ花でしかないのだと思う。

 せめてマイクロソフトはサポートを終了したOSを、フリーソフトとして解禁したらどうだろう。そうすれば、ボランティアが様々なサポートを引き継ぎ、ずっと使い続けられるものになるかもしれない。
 マイクロソフトの利益は激減するだろうが、それでも最新の技術を追い求める人たちが、より高額の出費をしてでも新しいソフトを求めるだろうから、全くビジネスにならなくなるわけでもないだろう。開発費は少なくなるが、それは開発サイクルを長くしていけばよいだけのことだ。今のような一日、一時間、一秒を争うような開発スピードが常軌を逸しているのであって、もっと人類の生理に合わせたスピードにした方が良いに決まっている。

 コンピューターと電子的ネットワークは人類の新たな可能性を引き出した。言論においても産業においても、過去の人類にとって桎梏だったことを、やすやすと乗り越えている。
 活用できれば、資源の消費を減らし、労働時間を短縮し、人類の平等をもたらすことができ、新しい文明の基礎になり得る技術革命である。しかしそれが今は旧世代の商業主義、資本主義、国家主義の道具にされて、それとは全く逆の方向に使われている。新しい可能性の萌芽が、脂ぎったジジイたちの欲望を満たす手段に堕している。

 とは言え、ぼくにとっていま一番あたまが痛いのは、新たに買ったパーツの支払いをどうするかであるのだが…


オリンピックは東京に、オールジャパンは復興に!

2013年09月09日 13時56分40秒 | Weblog
 同床異夢という言葉がある。安倍政権が誕生して以来の日本の浮かれようは、まさに同床異夢の状態なのだろう。それぞれが何も起こっていない現状の果てに、自分自身の幻想を投影している。
 いや、何も起こっていないのではなく、事実はひょっとすると悪くなっているくらいなのかもしれない。

 オリンピックに沸き立つ人々の中にも、おそらく多くの「異夢」がある。単純にスポーツが好きで喜んでいる人はともかく、中には危うい夢を見ている人もいる。
 たぶんここに明るさを感じた人の感覚には、あの民主党の政権交代と同じような意味が隠されている。それは高度経済成長期の日本への回帰願望だ。
 東京オリンピックという言葉の響きの中には、若さと躍動感、明るさと希望を感じる人が多いだろう。もちろん年寄りの話だが。まさに三丁目の夕日の時代である。
 だからもう一度オリンピックがやってくれば、あの若々しい日本が取り戻せると思う人がいてもおかしくない。

 しかしそれは日本が戦争に負け、貧しく何も持っていなかったからこそ、あり得た成長期であった。若くありたい、できれば時間をさかのぼって青春時代に戻りたいという願望は、人間に刷り込まれた意識なのかもしれないが、時間は戻せないし、若いときは一瞬で、我々は老いていかねばならない。
 だが老いていくことは不幸ではない。それは自然なことであり、それを受け入れ「正しく」老いていくことこそが、つまり成熟していくことこそが、おそらく最高の幸福なのだと思う。
 もはや時代は大きく変わった。日本が奇跡のような経済成長を実現できる可能性は全く無い。そうした状況の中では成長よりも安定をめざすべきであり、無理をして一番を目指し挫折するより、順位にこだわらず身の丈にあった場所を地道に探すべきなのである。
 それは負けでも自信喪失でもない、大人になるということである。

 今朝のテレビでは、オリンピックの経済効果が150兆円とか、吹き出してしまうような大風呂敷を広げた話も出ていた。おカネで何事かを換算することの虚しさに、まだ気づかないのだろうか。というより、現代人はそれ以外に何かを計る基準を持っていないのだ。

 経済効果というのは、おカネがどのくらい動くかという話だ。カネが動くというのは、誰かから誰かにカネが移動するだけのことである。それは社会全体の富が増えることとは全く関係がない。
 当たり前のことだが、一個のリンゴをみんなで次から次へ手渡していっても、誰の腹を満たすことも出来ない。リンゴが人数分あってそれをみんなが食べたときはじめてリンゴの意味がある。
 もしリンゴを手回ししているうちに、誰かが満腹になっていたとすれば、それは誰も気づかぬうちにリンゴの中身がくりぬかれているということである。
 またもし、リンゴを採ってきていないのにリンゴの数が増えているとすれば、それはただリンゴを小さく割って数を多く見せているだけのことだ。しかしそれでも人々が回すリンゴの数は増えたことになってしまう。
 皮だけになったリンゴ、小さくなったリンゴ片でも威勢よく回しているうちはいかにも景気がよさそうに見えるが、最後にその皮だけをつかまされて泣きを見る者も出てくるだろう。
 人間と人間社会にとって重要なことは、リンゴを回すことではなく、汗を流してリンゴを採ってきてみんなで食べることである。

 経済効果というものが本当に意味を持つのは、持っている者から持っていない者へおカネが移動する場合だけだが、経済効果という指標の中にそうした区分がない以上それを計るすべは無い。
 先日、マンガ雑誌のアンケート募集の景品に空クジがあると報道されたが、経済効果というのも読者アンケートの景品の「当選は発送をもって代えさせていただきます」と同じで、自分にはっきり恩恵が回ってこない限り、あったのか無かったのかさえ実は誰にも分からない。
 いったい日本人はいつからこんな経済効果などという言葉で幸せを計ろうとするようになったのか。右翼の皆さんは、くだらない嫌韓デモをやっている暇があったら、日本の伝統には無いこんな醜い尺度を排斥するよう尽力されるとよい。

 オリンピックで経済効果を期待する人は、自分のところにカネが回ってくると考えている。どこから回ってくるのか。と言うより、その結果どこへおカネが回らなくなるのか。持ちすぎている人がただ吐き出してくれるだけなら良いだろう。しかし往々にして持ちすぎている人の財布の紐は固く(だから金持ちになれるのだが)、無いところから無いところへ「共食い」の連鎖が起きるばかりである。
 いま最もカネ・モノ・人・時間が必要なのはどこか。言うまでもなく被災地であり福島である。オリンピックはそこに回すべきカネ・モノ・人・時間を自分のところに引っ張ろうとしている。それはダメだ。

 今日の記者会見で菅官房長官は、昨日の安倍首相の発言を踏襲する形で「(オリンピックは)復興を成し遂げた姿を世界に見ていただくという面もあって、復興にも強く取り組んで生きたい」と述べた。
 やはりそれは違う。それではオリンピックのための復興になってしまう。復興のためのオリンピックと言っていたことと逆転している。汚染水対策もそうだが、オリンピックのため、オリンピック第一という姿勢はひどすぎる。まず人々の生活があって、その上でのオリンピックであり、その上での経済だ。その順番が違うと全く何のことか分からなくなってしまう。

 前に書いたことの繰り返しになってしまうが、ぼくはオリンピックをやめろと言っているわけではない。そもそも都民でないぼくにそれを言う資格は無い。しかし国の問題は別だ。オリンピックは東京に任せて、国は国のやるべきことに力を注ぐべきだ。
 オリンピックは東京に、オールジャパンは被災地復興のために! それがスローガンでなければならない。


重苦しさの正体

2013年09月08日 22時27分44秒 | Weblog
 これは論理でも批判でもなく、ただの愚痴である。
 ものすごく心が重い。
 たかがオリンピック開催の話なのに、自分でも驚くくらい気持ちが暗くなっている。

 いったい何故なのか自分に問いかけてみる。
 おそらく東京でオリンピックが開催されるという、そのこと自体の問題ではない。世の中の雰囲気の問題なのだ。

 オリンピックの2020年東京開催が決定した今日のお昼、あるニュースショーの冒頭で、宮崎県日向市の猿による被害のニュースが伝えられた。その時コメントを求められた漫画家の黒鉄ヒロシ氏はひとこと「サルのことなんかどうでもいいって感じですよね」と言い放った。あわてて隣にいたテリー伊藤氏がフォローしたが、まさにこの場面に、ぼくの重苦しさの根拠がある。
 ぼくは別に黒鉄氏ひとりを批判しているわけではない。当のテレビ番組を初めとして、マスコミも政治家もこぞってそういう雰囲気を作っているのだ。

 日向市の猿被害ではすでに20人近い重軽傷者を出しており、市議会まで中止になる大きな事件に発展している。こういう時に我々は、オリンピックと「たかが20人近くの重軽傷者」を比べて「どうでもいいって感じ」てしまう。たぶん当事者以外の多くの人がそう思うのだろう。
 そこにぼくは重苦しさを感じる。

 オリンピック招致は東日本大震災被災地の復興のため、と当初いわれていた。それが誘致成功後の安倍首相の言葉では微妙な違いを見せた。安倍氏はこう述べた。
「復興を見事に成し遂げた日本の姿を世界中の人々に向けて力強く発信していく。それこそが感謝の気持ちを表す最善の道だ」
 オリンピックの位置づけが復興へのエンジンではなく、政府の復興政策の成功をアピールする場に変わろうとしているように聞こえるのだ。

 日本中がはしゃいでいるが、被災地と原発事故がどこかに置き去りにされている気がして仕方ない。
 テレビのインタビューで町中の店の店主が「外国のお客さんも来るし景気がよくなる」と言っていた。なんだかそれでは復興のためと言っていた言葉が、ただ被災地をダシに使っただけのような感じになってしまう。

 「日本でオリンピックを開くことで人々に希望と元気を与えられる」という言葉もよく使われるが、それではオリンピックとは日本でやらなければ人に元気も希望も与えられないものなのだろうか。
 国内でやることで元気になるのは、それで何か儲けになる人だけなのではないのか、そんな風にも思ってしまう。

 ついこのあいだまで「復興に向かって心をひとつにして行こう」というのが、日本人のスローガンだった。いつの間にかそれが「オリンピックで心をひとつに」に変えられてしまってはいけない気がする。
 よくプラス思考とかマイナス思考とか言われる。明るい話題が必要なんだと言う人がいる。「オリンピック第一」はプラス思考なのか? 「被災地を忘れない」というのはマイナス思考なのか?
 オリンピックに期待するより、復興をこそ日本の期待、日本の希望にしなくてはならないのではないのか。

 オリンピックの華やかな喧騒で、何か大事なこと、重要なことが隠されようとしているのではないのか。

 集団的自衛権が容認され、自衛隊の敵地攻撃能力が増強され、人種差別デモが常態化され、日の丸・君が代が強要され、戦争を批判した教科書が排除され、秘密保全法案が制定され、ついに改憲が現実化しようという情勢の中で、大きな反対の声も無くオリンピックが日本中を席巻していくことに、ぼくは何とも言えない息苦しさ重苦しさを感じるのである。


▼今日ネットで目に留まった記事です

IOC総会で「健康問題は『将来も』まったく問題ない」と言い切った安倍首相
 http://bylines.news.yahoo.co.jp/takedasatetsu/20130908-00027934/

東京五輪決定 日本野鳥の会、カヌー会場見直し求め声明
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130908-00000580-san-spo

在特会 五輪招致待っていたかのように「嫌韓デモ」再開
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130908-00000009-yonh-kr


差別制度を「取り戻」したい右翼

2013年09月07日 23時18分19秒 | Weblog
 先日ある重要な判決が出された。いわゆる婚外子の財産相続は婚内子の半分という民法の規定が違憲であるとの最高裁の判断だ。
 問題は差別と人権であり、同じ親から生まれた子供が自分の瑕疵の無いところで一方的に不利な条件を押し付けられるのはは間違っているという、まあしごく当たり前の結論だ。
 ただ、ぼくの意見は「どうでもいい」だ。

 確かに子供は親を選べない。自分で選べない理由によって差別されるのはおかしい。しかしそれを言うなら、貧乏人の子供は貧乏を選んで生まれてくるわけではない。子供が自分の責任でないところで差別されてはいけないと言うのなら、そもそも全ての人の生活を平等にするべきである。
 今回の判決は当然ではあるが、結局は金持ちだけの問題だ。もし最高裁が今回の論理の正当性を心から信じ、徹底させる気概があるなら、格差社会は違憲であるとはっきり断じてもらいたい。

 まあそれはともかく、この判決にネトウヨが騒いでいるという。
 ツイッターで「婚外子と嫡出子の遺産相続が平等になると、婚姻制度と日本社会が破壊されるっ!」という「拡散希望記事」が発信されたという。
 この中で紹介されているのが、水間政憲氏(ジャーナリスト?)の「『「非嫡出子遺産相続平等法』は究極の日本解体法案になります」というタイトルのブログ記事だ。「中国人や韓国人には『恥』の概念がない」などと堂々と書く、まさに恥を知らないひどい民族差別に満ちた文章である。

 ここで水間氏が主張していることは簡単に言えば、1.一夫一婦制が破壊される、2.中国人や韓国人に資産と「家督」が乗っ取られる、ということである。つまり日本には大量の中国人や韓国人の売春婦がおり、そこで日本人の男が買春したために子供が生まれたら、そうした子供に財産が取られてしまうと言うのである。

 民族差別に満ちているばかりではなく矛盾に満ちた論である。しかもこの文書を孫引きしているネトウヨがさらに矛盾したことを言うので、もう収拾のつかない大混乱といった状況だ。
 まず第一に一夫一婦制を大事にすると言っているのに、買春する男に対する批判がない。普通の感覚なら一番悪いのは男の方だろと思うだろう。
 第二に資産はともかく、現状の日本には「家督」という権利は存在しない。存在しない権利が奪われるわけがない。
 水間氏の文書は直接的には、まだ存在していない「非嫡出子遺産相続平等法」を批判するものだが、その最後に次の一節がある。

「『非嫡出子遺産相続平等法』は、法律を改正しなくても、実質的に日本は『一夫一婦制』から『一夫多妻制』に移行することになり、日本の伝統的な倫理観はズタズタに破壊されます」

 実は、あの(*)元航空自衛隊幕僚長の田母神俊雄氏も今回の判決について、ツイッターで「これも日本ぶち壊しの1つだと思います。意見が割れる問題についてはこれまでの伝統や文化に敬意を払うことが保守主義だと思います。ここにも日本が悪い国だ、遅れた国だという自虐史観が見て取れます」と発言しているそうだ。

(*)ご存知とは思うが、一応補足しておくと田母神氏は在任中に「大東亜戦争は侵略戦争ではなく、中華民国やアメリカを操ったコミンテルンによる策謀が原因である」という陰謀史観に立った論文を発表して、事実上自衛隊をクビになった。
 また「集団的自衛権を認めるべき」とする改憲論を主張し、「核の悲劇を繰り返さないために、日本は核武装すべき」と言い放ち、沖縄の在日米兵による集団強姦事件では女性の側の非を問う発言をネットで発信している。そういう方である。

 右翼の無知なのか論理性の欠如なのか、それとも知っていて意図的に歴史を改ざんしているのか、わからないけれど、こうした論議には歴史的な混乱がある。
 つまり「日本の伝統的な倫理観」は一夫一婦制ではなく一夫多妻制だったということである。もう少し丁寧に言えば、権力や財力のある、つまり相続する値打ちのある「家督」を持った階級、階層においては、絶対的に跡取りが必要であり、そのために側室や妾(めかけ)のような存在が公認されていたのである。また養子縁組も広く一般的に行われていた。
 こんなことは、あえて言うまでもなく小中学校の教科書を見てもわかることだ。

 少し脱線すれば、こうした多妻制は日本だけではなく世界中に見られる。しかしもちろん女系制社会には存在せず、男系社会における地位と財産の相続を確実に行うための制度なのである。そしてそれとセットになるのが女性の側の不貞禁止、もしくは他者の妻との不倫の禁止である。男の側からすると妻が生んだ子どもが確実に自分の子どもでなければならないからだ。
 ただし多妻制の中でも、妻の中に順位が厳然と設けられており、第一位は正妻であり、最後はただの遊び相手、つまり売春婦になる。ようするに男女差別を基本としながら、同時に女性同士の中にも差別構造が作られているのである。
 日本ではこうした制度は基本的に敗戦前まで続いていた。一般的には「家制度」という。ちなみに女性の参政権も敗戦前までは無かった。男女平等は戦後の日本国憲法で始めて認められたのである。

 もう一度整理すると、右翼の言っている論理の中には、戦前の「家制度」の価値観と、戦後の男女同権=一夫一婦制度の価値観が混在しており、矛盾をはらんだ全くのご都合主義でしかないのである。

 右翼の主張の主眼は「差別制度を取り戻す」ことに他ならない。
 差別は無前提である。たとえばパイロットになるためには様々な制約がある。しかしそれは安全性を考慮した上で、しかたなく、かつ合理的に行われる選抜であって、誰も差別とは思わない。
 差別はこうした合理性を必要としない無前提のものであって、それは被差別者が自分ではどうしようもない理由で(もしくは理由も無く)差別されるものであるのと同時に、差別者もまた自分の能力や合理的理由なく(つまり自分では何の努力も苦労もなしに)あらかじめ特権階級、差別者であることができる。
 右翼が欲しいのは、その差別者の地位なのだ。
 民主主義で平等をよしとする価値観の世界では、その人はただの人でしかないが、差別制度の社会では、ただ男であるだけ、ただ長男であるだけ、ただ日本人であるだけで、特権的な身分が保証されるのである。差別者側にとってこんなうまい話はない。

 多くの右翼は(もちろん「だけ」ではないが)無前提の平等に反対する。しかしこうして無前提の不平等は大好きなのだ。こういう人たちに対してぴったりな呼び名がある。ゲス野郎!である。

オリンピック招致への疑惑

2013年09月06日 21時17分18秒 | Weblog
 マスコミはあげてオリンピック招致の話題で持ちきりだが。

 ぼくは前にも書いたようにオリンピックの東京招致に反対だ。たぶん以前はかなりの人が反対していたと思うが、いつの間にか「全員賛成」みたいな雰囲気になってしまった。今ではテレビで反対を口にする人は皆無になった。
 現在の反喫煙の風潮に対して「禁煙ファシズム」と言う人たちがいるが(ぼくはそれは全く違うと思うが)、今やオリンピック・ファシズムなのではないかと思えるほどだ。

 開催地決定直前になって、いよいよこの「オリンピック招致」の怪しさがますます強まっている。

 その一番の原因は安倍政権の異様なまでの力の入れようにある。
 おそらく国際政治において最も重要な会議のひとつであろうG20を一日で「早退」してまで安倍首相はIOC総会に行く。しかも集票のために「唯一の同盟国」アメリカのシリアへの軍事行動への支持表明さえ控え、ロシア、中国、韓国と関係修復を演出して見せた。

 さらに宮内庁の反対を押し切って久子妃を引っ張り出し、皇族の政治利用を強行した。これはまた集団自衛権の容認と同様に、解釈改憲=麻生氏の言うナチスの手法を使った強権的な実質改憲でもある。

 こうした安倍政権のオリンピック招致への異様な執着ぶりを最も表しているのは、福島原発の汚染水対策に政府が全面に立つと宣言したことである。
 まさにこれこそ、IOC委員の最大の関心事である放射能汚染への疑念を封じ込めるためのポーズだ。そもそもここで政府が言っているのは本当に口だけで、実質的には喫緊の汚染水の流出阻止に政府が関わろうという話ではない。
 しかも、もし本気で汚染水問題に取り組むつもりがあるのなら国会で国民的論議をおこなうことが重要だが、安倍政権はオリンピック招致に弊害があると判断し、衆院経済産業委の閉会中審査を先送りにした。いったい誰のためのどこを向いた汚染水対策なのか。

 なお、あまり誰も話題にしていないが、真面目に科学的な意味で最も危険なのは、実は巨大地震である。
 もう大地震は来ないと思っているかもしれないが、現代の地震学、火山学の研究成果によれば、M9クラスの巨大地震が起こった後、10年以内にそれに誘発されたM7~8クラスの大地震が起きるとされている。今回の東日本大震災のケースだと、その地震は千葉、東京、神奈川、静岡のライン上で発生する可能性が高い。
 東京が大きなダメージを受ける危険性が高いのだ。さらにこんなことは考えたくないが、その地震の余波で福島の事故現場で二重事故が起きるかもしれない。
 こうした情報は、オリンピックと全く切り離されたところでは報道もされているのだが、なぜかマスコミはそこを結び付けようとしない。IOC委員もおそらく知らされていない。

 ロイターの記者が東京発で書いた記事に、オリンピック誘致がアベノミクスの成否にかかわり、安倍・自民政権の支持率に直結しているという分析がある。オリンピックが誘致できないと株価が下落しアベノミクスが失敗し、消費税増税も出来なくなるというのである。
 もしそうなら、まさに久子妃問題は完全な政治利用である。

 一方では、自民党が青天井の公共事業拡大に向かう状況下で、地方ではオリンピックを起爆剤に停滞している「ハコモノ」事業の活性化を期待しているところも多い。こうしたところでは、税金の無駄遣いなどという話ではなく、開発による自然環境破壊の問題が発生する危険も大きい。

 ただ、ぼくが一番いやな感じがするのは、安倍氏が目指していることがオリンピックの経済効果などではないかもしれないというところにある。
 ただ景気浮揚のためにオリンピックを誘致したいというだけなら、言って見れば普通のことだが、参院選後の安倍氏を見ていると、何か大きなタガが外れたような危険な感じを受けるのである。
 第二次世界大戦直前に大々的に行われたのは、あの有名なベルリン・オリンピックである。ヒトラーが全面的に演出しナチスの力を内外に誇示したイベントとなった。
 そしてその次のオリンピック開催予定地だったのが東京である。日本もこの場を利用して国力を誇示する予定であった。戦争が始まってしまいオリンピックは中止になったが、そのかわりに日本政府が行ったのが紀元2600年祭であった。
 不気味なのは、G20とオバマの支持要求を蹴ってまで、オリンピック招致を優先した安倍氏の行動である。ぼくの勘でしかないが、何か今までとは違うニュアンスを感じる。

 いずれにせよ、原発問題も震災復興も何も進んでいないのが日本の現状である。もし仮にオリンピックで景気が浮揚するとしても、結局その恩恵は上から順番に下りていくのであって、最も困っている人たちに届くのは最後の最後か、むしろ最後まで残らず何も回っていかないかもしれない。
 大きな赤字を抱えた家の主人が、何とかしようと競馬に大きく賭ける。当然大穴は当てられず、親父は一気に破産、一家は離散。あのとき競馬にかけたカネを地道に使っていた方がずっとよかったと後悔する。それが当たり前の世の中である。
 国民を路頭に迷わせようとする指導者は絶対にいてもらっては困る。

橘玲氏に学ぶ

2013年09月05日 11時42分23秒 | Weblog
 橘玲という作家の方がおられる。大変申し訳ないが、ぼくは全く知らない。ただネット上でたまたま軽いエッセイのようなものを読ませていただいて、ちょっとおもしろいと思った。
 この方はどうやらぼくと同世代の経済小説作家とのことで、元編集者だそうだ。

 ぼくが目にしたのは「週刊プレイボーイ」の2013年8月26日発売号に掲載されたという「共産党と右翼の主張が同じになり 日本からリベラル勢力がいなくなった理由」という文章だ。現時点ではネット検索していただければ読めると思うので、興味のある方はご自身で調べて欲しい。
 話の概要は「日本の政治からリベラル勢力がいなくなってしまった。それはリベラルの理想がすべて実現してしまい、主張すべきことがなくなったからだ」というものである。

 正直言って歴史軸がぐちゃぐちゃで、一読したらめまいがした。ただこの方の他の文章をネットでチラ見した限りでは、頭の良い方のようで発想が面白いし、変な混乱もしていないので、たぶん政治史の分野の知識だけが少し薄いだけなのだろう。

 「歴史軸がぐちゃぐちゃ」と言うのは、

「リベラリズムが成立したのは、権力者に不都合なことを書けば投獄や処刑され、黒人が奴隷として使役され、女性には選挙権も結婚相手を選ぶ自由もなかった時代」

 と、書かれているのに、

「リベラルが退潮したいちばんの理由は、その思想が陳腐化したからではなく、理想の多くが実現してしまったから」

 と述べておられるような点だ。
 確かに世界史的観点から考察すればそういう見解もあると思うが、日本においてリベラルが最も活発だったのは、1950年代から90年代のことであり、橘玲氏の論で言えば、日本においてさえすでに「権力者に不都合なことを書けば投獄や処刑され、黒人が奴隷として使役され、女性には選挙権も結婚相手を選ぶ自由もなかった時代」ではなかった。
 その時代をリアルタイムで生きてこられた橘玲氏には当然よく分かることだと思う。

 この文章の冒頭は先の参院選後の社民党の没落ぶりから始まっていて、問題意識は明らかに日本のリベラルにあるのだから、どうしてもこの説はちぐはぐである。
 また、この文章ではリベラルに反対する保守勢力を「コミニュニタリアン」と規定しているが、これも事実とは異なる。むしろ日本のリベラルと呼ばれる勢力は、事実上コミュニタリアンに近い。日本でリベラルに反対している勢力は、少なくとも表面的には「近代以前の封建社会に戻せという暴論を唱えている」勢力と言ってよいであろう。
 さらに、

「(日本共産党も)いまでは共産主義革命の夢を語ろうとせず、『アメリカいいなりもうやめよう』という不思議な日本語のポスターをあちこちに張っています。これは右翼・保守派の主張と同じ」

 と書かれているが、これも事実誤認と言うか、錯誤である。
 共産党を含めた日本の左翼のほとんどが「反米」を掲げたのは1950年代からであり、逆にその左翼を暴力的に排除することで安保体制を確立させようとしたのが、戦後のいわゆる「右翼」の始まりである。
 つまり戦後一貫して、右翼はアメリカ追従であり、左翼は反米であったのだ。
 いったいこの混乱した文章は、あまりに無知なのか、それとも意図的なのか、判断に苦しむところである。

 ただこうした点を置いておくと、橘氏の論は核心を突いてもいる。

「日本のリベラルはいま憲法護持、TPP反対、社会保障制度の『改悪』反対、原発反対を唱え(中略)原発を除けば、リベラルの主張はほとんどが現状維持だ」

 橘氏がどこまで理解しているかはともかく、実を言えばここが最大の核心なのだ。誰もが、当事者でさえ否定したがるが、まさに左翼とは保守思想なのである。

 近代主義者である我々は、潜在的意識の中で「保守的=古い=悪、革新的=新しい=正義」というイメージを持ってしまっている。共産主義者は革新で、資本主義者は保守だと、たぶん誰もが無意識に思っている。
 しかしそれが、そもそも間違いなのだ。
 橘氏の文章の混乱の一因もおそらくこの「常識」によるところがあるだろう。
 日本のリベラルはようするに左派である。そして実は左翼は最初から本質的に保守なのである。それはつまり、理不尽な危機や不安定を排し、人々の生活の安定を求める思想だからだ。
 一方、自由競争の資本主義を求める人たちは、社会が変革され続けることを求める。自己責任のリスクを取り、ジェットコースターのような、もしくはバクチのような、富の奪い合いのできる社会を求める。

 こうした内容は、当ブログで何度も主張してきたことなので、重複して申し訳ないが、最後にもうひとつ繰り返そう。本当に「保守」的な安定した社会を望むなら共産主義を選択すべきだ。そしてそれだけが地球人類が次の時代に生き延びるための唯一の選択肢である。