あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

勝ち馬に乗ることはそんなに大事か?

2014年01月29日 09時52分59秒 | Weblog
 先日の太地町のイルカ漁問題の件で、記事を書こうと思っているのだが、なかなか大変で作業が進まない。一番の問題はモチベーションが上がらないことだ。まあ愚痴はともかく、息抜き(?)に一言だけ。

 東京都知事選である。もちろん、ぼくは東京都民ではないし関係ないと言えば関係ないのだが。
 あの民主党による政権交代の悪夢を再び見ているような気がしてしまう。左翼は何も考えてないんだなあと思う。ぼくにとっては怪奇現象でしかないのだが、なぜか左翼(全てではないが)が保守系候補を支持し、応援している。本人は汚職疑惑で職を辞した元総理大臣で、それにまるで一心同体のように協力しているのは弱肉強食の粗暴な資本主義政策を推し進めた元総理である。なぜそんな陣営を左翼が支持するのか。
 もう一方には共産党と社民党が推す候補がいる。正直この人もいろいろ問題があるようで、すっきりとしない感じはあるが、常識的に考えれば左翼が共闘するならこちらであるべきだろう。

 そのポイントはただ一点、保守候補が脱原発をスローガンに掲げているからだ。繰り返すが、ただそれだけしか無い。それなのに左翼が保守候補を支持する理由はようするに「勝ちそうだから」ということでしかない。その大義名分は自民党系の候補を勝たせないため、である。
 しかし仮に保守系候補が勝利したとしても、結局はあの民主党政権と同じように、より一層ひどい状況が生まれることになる。そんなことは火を見るより明らかだ。この候補と後援者がどんな人物か、左翼ならよくよく分かっているだろう。ましてや候補の側は左翼の支持に対して何も恩義を感じてなどいない。
 こういうのを「勝ち馬に乗る」という。そんなことにどんな意味があるのか。左翼は劣化したのか。それともずっと昔から何も変わっていないのか。

 勝つことを第一に考えるのは現実主義である。しかしそうであるなら、現実主義はとことん突き詰めていけば、現実肯定にしかならなくなる。現状で一番勝っているのは安倍総理大臣であろう。都知事が何を言おうが、最終的には総理大臣の判断が優先される。それなら安倍総理にひっつくのが最も現実主義的だと言うことにしかならない。
 そうではないのだ。勝つことではなく目的こそが一番重要なのだ。何をめざすのかが全てだと言っても良い。そして目的は手段を規定する。どんな高邁なことを言っても手段が卑劣であったら、間違っていたら、そこには必ず大きな問題が生じる。

 かつて民主党は耳に心地よい公約を掲げて「風」に乗った。人々はその言葉にすっかり騙されていた。少なくとも左翼だけは、民主党の本性を知っていて、そんなまやかしに乗るわけがないと思っていたら、まさに雪崩を打って皆んなニワカ民主党支持者になってしまった。
 その結果はあっという間にメッキがはげて、自民党よりもっとひどい路線を取り、最後は民衆から新しい政治への希望を奪い取ってしまった。民主党政権が作り出したのは、結局より頑迷で危険な超保守政府だったと言って良い。
 こうしたあまりにも苦い経験を積んできたはずなのに、なぜ今また左翼が保守候補を支持するのか。ぼくには理解できない。

イルカ漁批判とは何か

2014年01月23日 18時47分09秒 | Weblog
 ケネディ駐日米国大使が、和歌山県太地町のイルカ追い込み漁について積極的に発言している。これに対して官房長官や和歌山県知事は反発するコメントを発表しているのだが。
 この問題がいったいどのくらい人々の間で知られているのか、さらに言えばどのくらい深く考えられているのか、気になるところである。

 太地町のイルカ漁が世界的に問題視されるようになったのは、2009年のアカデミー賞受賞映画「ザ・コーヴ」の公開がきっかけだった。アメリカでは高い評価を受けたが、日本では右翼が上映妨害活動を行い、ほとんど上映されなかったという経緯がある。ぼくも東京の小さな映画館に見に行ったが、前日には右翼が街宣車でやって来たということで少し緊張した記憶がある。
 映画自体は正直に言って「アメリカ人ならおもしろがるだろうなあ」という程度の出来だった。もっともそういう作り方をしないと興行的に成功しないと言うこともあったのだろう。太地町のイルカ漁に反対する国際的なグループが直接行動を行う様子を、同行したジャーナリストが撮影するという内容だっだ。

 太地町のイルカ追い込み漁は、入り江の奥にイルカを追い立てて、そこに集まったイルカを小舟の上からモリで突いて殺す漁法で、映像自体は大変ショッキングなものだ。だから映画を見た人の感想は、まず第一に「日本人は残虐だ」という印象になるだろう。
 しかしこの映画の本当のテーマはそこにはなかったと思う。ぼくが見た限り、真のテーマはアメリカ人やヨーロッパにおけるイルカ飼育、イルカ・ショーのあり方に対する、いわば自己批判に見えた。

 問題の第一は、本当に現在の太地町のイルカ漁が「伝統文化」なのかどうかにある。確かにかつては伝統的な食料確保のための漁業であったのだろう。それは否定しない。しかし映画では現在のイルカ漁の目的が全く違うところにあることを暴露していた。
 つまり追い込み漁の第一の目的は、欧米各国の動物園や水族館に売るためのイルカの確保にあるというのである。現在、これはイルカやクジラに限ったことではないが、世界的に野生動物の捕獲や施設における飼育に対する批判の声が大きくなっている。そのために動物園や水族館はなかなかイルカを手に入れることが出来ない。その点、日本は捕鯨推進国でもあり、イルカ漁は全くの合法で容易に生きたイルカを確保することが出来る。そのために世界中から良質の生きた野生イルカの出荷元として重宝されているというのである。
 太地町のイルカ漁では、まずそうした「生きの良い」生きたイルカをなるべく多く捕まえるために追い込みを行うというのだ。そこでまず目的のイルカを確保し、その上で残ったイルカを殺して食用等に利用するのだということらしい。

 かつて動物タンパクを摂ることが困難だった時代にイルカやクジラを獲って食べたのは当然のことだったろう。そういう意味では人間はなんでも食べられるものを食べ、そのことによって生き残り、繁栄を確保した。
 しかし現代において、その状況は全く逆転してしまった。人間の「繁栄」は行きすぎて地球上の生態系を破壊し、気象環境を破壊してしまった。その結果、今度は自分自身の生存環境まで失うことになってしまったのだ。もはや「食うことは正義」の時代ではない。自分たちの欲望をコントロールしなければ、自分自身が死ぬしか無くなってしまったのだ。

 もちろんそうは言っても、現在の日本における漁業の現状は悲惨だ。漁民の多くが生活危機と向き合いながら漁師をしている。ぼくは太地町の漁業従事者がどれほど豊かなのか、または貧しいのか知らない。だから生活のためにしかたなくイルカ漁をしていると言われれば、その人を軽々に非難することは出来ない。
 だが日本の現状を見回してみれば、テレビでは東京の豪華な生活が垂れ流されるように放送され、雑誌では「秒速で一億稼ぐ」などという気持ちの悪い人々の記事が華やかに掲載されている。
 日本は全体で見れば決して貧しいわけではない。それならそれを分配すれば良いだけのことである。漁業や農業が危機に瀕しているのなら、政治がそれを解決するべきである。なぜならそのための近代民主主義政治だからだ。

 いったい現代の日本で、どれほどの人がイルカやクジラを食べているのだろう。そもそも、どうしてもそれを食べなくてはならなくて食べている人は存在するのだろうか。
 非常に個人的な話で恐縮だが、ぼくは子供の頃にさんざんクジラを食わされた。クジラの大和煮の缶詰とかクジラのベーコンとか、給食では固くて噛みきれないほどのクジラのソテーが出た。安かったからだ。本当なら牛肉や豚肉の方がずっとうまい。しかし昔は高級食材だったから貧乏人は気楽に食べられなかった。ぼくはクジラ肉が嫌いだ。あえて食べたいとは全く思わない。
 もちろん美食も文化のひとつではあろう。それを否定するつもりはない。クジラがどうしても食べたい人もいるだろう。しかし美食は美食で少ない食材を高いカネを出して食べるというのが筋というものだ。多くの人の反対を押し切って無理矢理に大量に獲る大義などどこにもない。

 それにしても、もし太地町のイルカ漁が伝統であると言うなら、なぜ広く公開しないのだろうか。実はここの所に、みんなが気がついているのに誰も触れたがらないもう一つの大きな問題が存在する。つまりナショナリズムの問題である。

 映画「ザ・コーヴ」の中で、反イルカ漁の団体を監視し嫌がらせをするのは公安警察である。なぜ漁業と環境保護、動物愛護の問題で公安警察が関わってくるのか。このことがこの問題の本質をはっきり示している。
 町や漁業組合、そして警察が妨害するのは、反イルカ漁団体による破壊工作ではない。実態の暴露に対して非常に敏感に妨害してくるのである。実は追い込み漁の現場は厳重に封鎖されていて、観光客はおろか地元の一般町民でさえ見ることが出来ない。そんな伝統文化があるだろうか。
 たとえば宗教儀式などの一部が秘密にされて隠されることはある。しかしイルカ追い込み漁は宗教儀式ではない。隠さなくてはならない理由は、それを見せると世論が反発することが必至だからである。屠場ではの状況を一般的に公開することはない。それは衛生上の問題もあるだろうが、やはり見たくない、見せたくないという部分が大きいだろう。良いか悪いかはともかく、それこそその社会の文化である。もちろん屠場は伝統文化を主張などしない。むしろ常に近代化が進められ、衛生管理と家畜の苦痛を極力減らす努力が払われている。その内実を調べようとしても別に公安警察に妨害されることもないだろう。

 イルカ追い込み漁が伝統だと政治家たちは主張するが、それでは日本人のどれだけ、というより和歌山県内でさえどれだけの人が、それがどんなものか知っているのだろう。
 ぼくは「ザ・コーヴ」が公開されるはるか以前に、この追い込み漁の映像を見たことがある。いつのことだったか忘れたが、たぶんテレビの深夜放送のドキュメンタリー番組だったと思う。どんなテーマだったかも憶えていない。たぶん「ザ・コーヴ」よりもずっと生々しくショッキングな映像だったと思う。
 しかし、たぶんその一回だけでその後、この「伝統文化」についてマスコミが紹介した例に出会ったことがなかった。
 そう言えば、ぼくが子供の頃には、テレビや雑誌などで捕鯨の様子というのは普通に紹介されていたと思う。だからたぶんぼくらの世代までは捕鯨船というものがどういう構造をしているか知っている人は多いだろう。ところが、今はそんな情報さえほとんど伝えられることがない。我々が目にするのは反捕鯨団体の「過激」な抗議活動の場面ばかりだ。
 なぜ伝統だ文化だと言うのなら、その実態を広く伝えようとしないのだろう。結果として食肉加工されたクジラ肉だけを映して、それが伝統文化なのだと言い続ける理由はどこにあるのだろう。

 つまり捕鯨やイルカ漁が本当の伝統文化であるわけではないと言うことなのだ。そもそも南氷洋で広範囲に大規模に行われる漁法が伝統文化であるはずがない。伝統というのなら、あくまで沿岸で行われる(それこそイルカ追い込み漁のような)捕鯨だけが伝統文化である。大規模捕鯨はようするにただの金儲けでしかない。伝統とか文化とかの名目で批判の多い「ブラック」ビジネスを肯定させようと言うだけのことだ。伝統とか文化をこんな風に使うことは、むしろ伝統や文化をおとしめることにしかならない。
 問題はそれがただのビジネスではないところに、この問題の深い闇がある。
 靖国問題とも通底することだが、戦没者の慰霊という問題が靖国という装置を通過させることによって侵略肯定、軍事大国化を肯定する論理にすり替えられるように、捕鯨という漁業ビジネスが伝統文化という虚言をかぶせられることによってナショナリズム宣揚の手段にされているのである。

 この問題はその構造も靖国問題と同じである。これを外国が日本の文化を理解せず一方的に批判するという問題に矮小化し、他者の側の問題、他者とどう折り合いを付けるのかという問題にしてしまっているのだ。
 もちろんそういう問題があるのは事実である。しかしそんなことはどうでもよいではないか。一番重要なのは日本人自身がこの問題とどう向き合うのかということにある。権力を持つ者の論理をそのまま鵜呑みにして、自己検証、自己批判、自己否定の視点を持てないとしたら、それは愚劣としか言いようがない。
 何も知らず、真面目に考えもしないままに、自分だけが被害者で、自分だけが正しいと思い込んでいるとしたら、日本はどんどん堕落し、本当の意味で没落していくしかないのだ。

観てもいない「永遠の0」を語る(?)

2014年01月18日 11時58分10秒 | Weblog
 「永遠の0」という映画がヒットしているらしい。原作は百田尚樹。こちらも今や一番の売れっ子作家で小説もベストセラーだ。
 不思議なのはなぜかこの映画が妙に議論の対象にされることである。最初にお断りしておくが、ぼくはこの映画にも小説にも全く興味がない。少なくとも現時点では観る気も読む気もない。だからこの作品自体に対する直接的な評価は一切出来ない。ただ社会現象としておもしろいと思うだけである。

 実際、戦争映画は毎年何作も作られている。特攻や戦艦大和をテーマにしたもの、アクション映画として、または反戦映画として、いろいろな意図を持った映画が上映されている。
 これらの映画にも当然、必ず賛否の意見が現れる。しかしそれが大きな議論にならないのは、たいていの場合、その映画の意図がはっきりしているからだろう。戦争肯定的な意図があれば反戦派が非難し、反戦的な意図があれば右派が騒ぐ。しかしそれは結論が明白なだけに議論として成立しない。その人の思想、観点、立場によって感想が異なるのであって、作品以前の問題で意見がすれ違ってしまう。
 ところが今回の「永遠の0」は、珍しくも(?)反戦派の中で議論を呼んでいるようだ。たぶんこの映画を評価するかどうかということなのだろう。もっとも、ぼくはその議論の中身まではよく知らない。作品を知らない以上、その議論を理解することは出来ないからだ。

 先日、ある友人と話をした時にこの映画の話題が出た。
 酒を飲んでいたので、あまりはっきり憶えていないが、ぼくはそもそもこの映画には関心がないので、朝日新聞と百田尚樹氏の間に論争があったという話題を話した。これは昨年の春頃だったような気がするが、朝日のオピニオン欄で百田氏などの名前を挙げた上で「最近は右翼系の小説が流行っている」という評論記事が掲載されたことに対して、百田氏が反論した事件だ。
 残念ながら、実はぼくはこの件についても詳しくはない。ただ百田氏が極右的思想の持ち主であることだけは事実である。ネットで検索してみればすぐわかる。またもっと生々しい話をすれば、百田氏は安倍総理の熱烈な支持者で、最近では安倍総理の肝いりでNHKの経営委員に就任したと騒がれた。
 さてその友人は反戦派の方に入る人物だが、映画「永遠の0」を高く評価しており、ぼくが朝日新聞の記事の話をしたら「一方的だ」と批判した。
 おそらくこうした論議があちこちで起きているのだと思う。

 なぜこの映画が特に議論の的になるのかと言えば、それは安倍政権が成立したこととも関係あるだろう。戦争の体験者が減っていく中で、戦争や特攻は我々にとってファンタジーになってしまっている。しかしそれが良いことなのか、悪いことなのか、そしてそれは危険なことなのかどうか、安倍政権が現実の戦争に向かって急激に舵を切り始めた状況の中で、戦争という社会的問題と人は何のためにどう死ぬべきなのか(もしくは生きるべきなのか)を、人々が意識せざるを得ないところに来たのではないだろうか。
 もうひとつ、この映画に対抗するように昨年は宮崎駿監督の「長編最終作」と銘打たれた「風立ちぬ」も封切られた。この映画も賛否が広がった。というより多くの人がとまどい、評価できず、結果的にたぶん興行的にはあまりふるわなかったような気がする。これまではっきりとした反戦主義を掲げていた宮崎氏が、戦争肯定ともとれるテーマで映画を作ったからだ。もっともその宮崎監督は過激に「永遠の0」を否定するコメントを発しているようだが。(重ね重ね申し訳ないが、ぼくはこちらの映画も観ていないので、作品については何も言えない)

 一般論として言うなら、しかしこうした作品は作品として完成しているのだと思う。
 ぼくは芸術とは「鏡」だと思っている。作品を作るのは作者であり、そこにはもちろん作者の意図が込められている。しかしいったん作品が発表されたら、作品は受け手のものになる。受け手がその作品の中に何を見つけようと、それは受け手それぞれであり、もはや作者の意図は関係ない。
 それでは受け手は作品の中に何を見るのか。それは自分自身である。人は芸術作品の中に自分自身の姿を投影する。そこに自分の喜び、悲しみ、苦しさ、切なさ、快楽を発見するのだ。
 芸術の善し悪しは、この鏡がよく反射するかどうかにある。よく反射する鏡は時代や思想を越えた普遍性を獲得する。そうであるからこそ、我々ははるか古代の「源氏物語」を読むことが出来る。紫式部がどういう価値観を持ち、「源氏」で何を書こうとしたかは、とりあえず我々には関係がない。それは国文学の研究者の領域である。我々は、現代のこの時間、この世界にいる自分の価値観によって「源氏」を読んで解釈すればよいのだ。紫式部の時代の価値観を肯定することの出来る人はほとんどいないだろう。しかしそれでも「源氏物語」は永遠の名作であり続ける。それは、人々がそれぞれの時代、それぞれの価値観を作品に投影することができるからだ。
 その意味で、「永遠の0」であれ「風立ちぬ」であれ、多くの人が自分の立場で鑑賞した時に、それぞれ自分にとって何らかの意味を見いだすことが出来るなら、それは作者の意図が戦争肯定であれ、反戦であれ、それを超越して作品に生命力があり、よい作品だと言えるのだと思う。

 つまりは映画を語ることは自分を語ることなのである。そこに見たものは自分自身の姿なのである。だからこそ映画評は映画そのものから離れた独立の作品として成立するのだとも言える。

 映画「永遠の0」を制作した中心人物は阿部秀司氏という。この人とこの人が立ち上げたROBOTというプロダクションは、岩井俊二の「Love Letter」とか「ALWAYS 三丁目の夕日」、アカデミー賞を取った加藤久仁生の短編アニメ「つみきのいえ」などを手がけている。ノスタルジックでファンタスティックでヒューマニスティックな作品が多い。正直に言ってぼくは好きだ。
 おそらく「永遠の0」のテイストが、アクション映画、戦争映画というより、こうした制作者のものに近いことが評価が分かれる理由なのかもしれない。(見てないけどね)
 ただひとつだけ警戒しておかねばならないことは、戦争をノスタルジーやファンタジーにしてしまうことは危険だということだ。
 ぼくの友人に特攻のアマチュア研究家がいる。恥ずかしながら彼の論文を読んで初めて特攻がいかにファンタジーで作り上げられてきたかを知った。彼は別に特攻隊員を否定しているわけではない。冷静に史実を研究しているだけだ。しかしその資料の中に誰かが作り出したフィクションがあまりにも多い。
 もちろん戦争末期の混乱した時代状況の中で正確な資料が残っていないこともあるだろう。必ずしも悪意で、もしくは意図的に作られた話ではないかもしれない。しかし人々が特攻隊員に対して敬意や負い目、またある種の恐怖を感じるが故に、様々な「伝説」が生み出されてきたのだろうと思われる。残念なのはそうした伝説の上に我々の史観が築かれていってしまうことである。

 確かにたかが映画、たかが小説である作品が、別に事実である必要はない。しかし我々が映画や小説に影響されやすい存在であることも事実である。それが史実の中にフィクションを混じり込ませることになり、そしてまたそれが映画や小説に再度還元してくる。映画や小説に感動することは全く否定されるべきことではない。しかし我々の中にこうした歴史や情勢を変質させてしまう危険性が存在していることだけは、常に自覚しておく必要がある。
 そのためには現実を見ることが重要だ。
 実は今でも特攻は行われている。イスラム原理主義者たちの自爆攻撃はまさに特攻ではないか。国家の命令で家族や自分の命を捧げる社会がある。北朝鮮はまさに戦争中の日本と瓜二つだ。
 我々はこれらのことを通じて自分たちの歴史を外側から客観的に眺めることができる。戦時中に日本の外からは日本がどう見えていたのか。もしくは戦争指導者の側からではなく、戦争被害者の側からは戦争はどう見えていたのか。
 こうした現実を通じつつ、また映画や小説のどこの何に自分が感動したのか考えることを通じて、自分と社会を見つめ直すことが出来るなら、それこそが最もよい作品鑑賞法になるだろうと思う。


小野田氏の悲劇と語られない悲劇

2014年01月17日 18時34分55秒 | Weblog
 小野田寛郎氏が亡くなったという。旧日本軍将校で太平洋戦争敗戦後も20年近くもフィリピンのルバング島に潜伏していた人だ。

 この人は、よくグアム島で発見された横井庄一さんと並べて語られるが、実情は相当違う。横井さんは本当に普通の庶民で、一度はちゃんと兵役を勤め上げたのに戦況悪化から再招集を受け、グアム島で敗戦を知らずに一人で密林の中に隠れ住んでいた。
 一方の小野田氏はエリート一家に生まれ、父は県会議員、母は教師、兄弟は将校であった。(ちなみに当時の県議会議員というのは現在とは比べものにならないくらいの権力者である)
 本人は上海の商社に入ったホワイトカラーだったが、招集命令を受けて入隊。しかし英語や中国語に堪能だったため、スパイ養成所である陸軍中の学校に入校させられる。ここで教えられたのはゲリラ戦であった。
 軍上層部はすでに南方戦線での敗北を予想していたのだろう。小野田氏に与えられた任務は、日本軍の戦闘部隊が撤退した後に、現地に潜伏してゲリラ戦を敢行し、アメリカ軍の後方攪乱と日本軍の再進出に備えた下準備をしておくことだった。
 こうして小野田氏は終戦を知りながらも、命令の解除が行われなかったため、三人の部下とともにルバング島の密林地帯に潜伏することを決意し、その後も「戦闘」を継続し続けたのである。

 小野田氏は、おそらく戦況に関する情報をかなり正確に把握していた。さらに上海の商社に勤務していたのだから国際的な感覚も持っていただろう。しかし情報戦の訓練を受けていたことが逆に仇になったのかもしれない。日本の無条件降伏、武装解除・戦争放棄、再独立などの情報が耳に入っても、それ自体が情報操作された謀略だと思ってしまったとされる。彼の判断では日本は満州に亡命政権を作っていると考えていたそうだ。
 もちろん、それが嘘だとは言わない。おそらくそうした論理を作らなければ、部下を統率しながら孤立した戦闘を続けることは出来なかっただろう。しかし、もし彼が少しでも自分の判断に迷いがあったのだとしたら、勇気を持って投降して欲しかった。なぜなら、小野田氏の悲劇は彼一人のものではなかったからだ。

 小野田氏について語られる時、たいていは彼自身のことに限定されてしまう。しかし小野田氏の命令によって戦争終結後も行動をともにした部下のうち、自主的に投降した一人は助かったが、残りの二人はフィリピン軍警によって射殺されている。それも一人は小野田氏が投降する直前のことだった。さらに小野田氏らの「ゲリラ戦」によってフィリピン側にも多数の死傷者が出た。
 小野田氏の悲劇を思う時、こうした人々の悲劇を忘れてはいけないと思う。もちろん小野田氏は軍部と戦争の犠牲者の一人である。しかし彼だけが犠牲者であったわけでも、英雄であったわけでもない。
 小野田氏はメディアに対して多くを語らなかった。日本を離れてブラジルに移住してしまった。しかし彼は全く自分を語らなかったわけではない。メディアも彼のことを伝えなかったわけではない。しかし、小野田氏の部下や小野田氏らによって殺傷された人々の声は誰も伝えなかった。

 本当の戦争の意味は、おそらく伝えられない「ただの人」たちの中にこそある。一番表側に現れているものだけを判断基準にしてしまうことは、歴史を観念と美化に平板化してしまうことである。あらゆる歴史には表も裏も、真実もねつ造も、立場による違いも存在する。
 そのことを前提にした上で、借り物ではない自分の視点で、過去から今を、そして未来を考えることが必要だ。

ゾンビ同士の抗争というリアル

2014年01月13日 21時06分58秒 | Weblog
 今日テレビで東京都議選に関するニュースを見ていたら、母が「なんで昔の人ばかり出ているの」と訊いてきた。なるほどテレビに出てくるのは小泉さんや森さん、細川さんと、一般的にはとうの昔に引退したと思われている人ばかりだ。
 いろいろ言われていたが、結局、知事選に出馬した人の中に若手や女性は皆無となった。

 そういえば思い出してみると、一年前まではけっこうテレビに自民党の若手などがよく映っていた。最近では小泉進次郎くんまで影が薄くなった感じだ。
 つまり全て安部さんが食ってしまったということだろう。ある意味でテレビは正直だ。現状が自民党政権なのではなく安倍独裁であるということを、いみじくも正確に表現しているのだろう。

 そういう中で安倍氏に対抗できるのは、もはや最長老クラスしかいない。それもただの長老ではなく、表向きは引退したような顔をして、実は裏側ではどろどろと生臭く動き回り、潮目が変わるのをずっと待っていた人たちだ。

 都知事選を巡るニュースに登場する人たちの顔ぶれは、確かに日本の現在のリアルに他ならない。しかしそこにどんな希望ある未来があるのだろう。
 いかに支配層がアベノミクスだ、景気回復だとはしゃぎ回ろうと、ネトウヨたちが排外主義と戦争機運に沸き立とうと、気味の悪いゾンビのような老人たちばかりが跋扈して、自分たちの利益をかき集めようと争いあう姿の先には何の光を見ることも出来ない。


オトナの謀略

2014年01月12日 10時42分51秒 | Weblog
 「成人の日」がやってくる。1月15日ではない成人の日というのは、いまだにどうもピンとこないのだが。
 こんな辺境のブログに訪問してくれる若い人はいないかもしれないが、もし若い人がこの文章を読んでくれているのなら、ぜひ一つ申し上げたい。「オトナの価値観はきっと間違っている」ということである。残念ながらぼくの書いていることも信用してはいけない。
 幅広い意見を知って自分の思想形成の糧にするのはよい。しかし考えてみよう。人類は紆余曲折しながらもずっと進歩してきた。それはつまり人類は常に前の世代を否定してきたということを意味している。ぼくが若い頃も、それどころか有史以来、オトナは若者が気に入らない。いつの時代でも若者はオトナに従わず、しかし結果的にそのことによって時代を切り開いてきた。
 もちろん誰でも、若者ならなおさら間違うことはある。大いに論争しよう。それによって決着が付くわけでもないが、それはいつかはきっと意味を持つ。

 さてそんな中、成人の日が明ける14日に文科省の教科書検定基準の改定案に対するパブリックコメントが締め切られる。
 募集期間は20日くらいあったが、その間に年末と年始が挟まっていて、いったいなぜこの時期にこの短期間の募集になったのか疑問が残るところだ。もっとも公聴会にしてもパブコメにしても別に全く何の意味もない。一応意見は聞きましたという形を作ることだけが目的で、そこでどんな意見が出てこうようと、どれだけの人が反対しようと、案が修正されるたことはない。先日の秘密法案議決の時も、公聴会開催からたった一日で強行採決された。当然、国会議員は公聴会の中身をほとんど知らなかったろうし知ろうともしなかった。

 今回の新検定基準の重要点は、

・近現代史で通説がない事項はそれを明示し、児童生徒が誤解の恐れがある表現はしない
・政府見解や確定判例がある事項はそれに基づく記述をする
・未確定の時事的事項は特定の事柄を強調しすぎない

 の三点を付け加えることだという。

 残念ながら、ぼくは今回はパブコメを書けなかったが、とにかく現在の教育の右傾化はあまりにもひどすぎる。いったいどの国のいつの話だと思ってしまう。
 そもそも現代の教育原理は人々に自分で考える力を与えることにあるはずだった。しかし戦後の保守政権はずっと、子供たちが権力に従順に従うように思考力を奪い、学校における支配構造を強化してきた。君が代を歌っているかどうか教師の口元を監視するなど、もはや教育どころかホラーに近い非日常的状況が生まれている。

 いま政権はさかんに近現代史の歴史教育が必要だと主張する。しかし事実としては戦後長い期間、保守政権はむしろ子供たちに近現代史を教えることに消極的だった。なぜなら、多くの人が現実に侵略と戦争を体験しており、近現代史を学ぶことは帝国主義日本の否定にしかならなかったからだ。
 日本の右傾化がなぜこんなに進んできたのか、冷静に考えれば右傾化がなぜおこるかわかる。明らかに戦争の体験者が少なったから戦争肯定、戦前日本の肯定、侵略擁護の声が大きくなったである。こうして支配層にとって「不都合な真実」が消え去るのを待って、少しずつねつ造・歪曲された歴史観が流され始めたのである。
 戦争を知らないナショナリスト=ネトウヨ=ニセ右翼は、ねつ造された「かつての美しく強大な日本」幻想に泥酔していないで、戦争体験者が多数を占めていた時代には世論が圧倒的に反戦主義だったことの意味を考えてみるべきだ。

 ぼくら世代、つまり現在の中年の世代は、広島や沖縄などの一部の先進的地域を除いてほとんど近現代史を教わっていない。相当に意識的に学ぼうと思わなかったら、何も知らないままここまで来ている人が大多数だ。
 だから実は、今では憲法教育も平和教育も受けていないとんでもない輩が力を持ってしまった。そんなやつらがどんなに偉そうなことを言っても、よくても誤解、普通は自分の利益になるから言っているだけなのだ。
 そもそも自分の国の憲法をちゃんと理解していない人が憲法を批判する。押しつけなどと言っているが、事実としては大日本帝国議会が決議した憲法である。それを否定するのはまさに自虐であろう。さらには憲法より上位に日米安保が押しつけられているのに、それは何にも批判しない。これはもっともっと自虐的である、というより奴隷根性だ。ようするに彼らは戦後ずっと日本よりアメリカが偉いと思ってきて、アメリカの威を借るポチ・ナショナリストだったのだ。(もっとも安部さんはアメリカに主人の手を噛むバカ犬と思われているかもしれないが)
 それは日本に限ったことではないかもしれないが、国家主義者が実は国家を一番軽んじ侮辱しているのである。まさにそういう人たちが「積極的平和主義」を支えている。もう何がなんだか、たぶん自分たちでも収拾が付かなくなっているのだろう。

 自民党は歴史教育とか道徳教育とか盛んに言いたがる。
 確かに教育は重要だ。子供たちにしっかりした教育が与えられなくなはならない。歴史や倫理がネグレクトされてはならない。
 だからこそ言いたい。歴史教育の前に憲法教育をしよう。なんであれ、日本国民というのなら最も重要なのは憲法のはずだ。まず憲法からはじめて、そこから歴史や道徳を考えるというのが筋であろう。
 そしてそうするならば、道徳教育はむしろ人権教育であるべきだ。なぜ自民党はあえて人権と言わず道徳と言うのか。もし本当に現代に必要な道徳を考えるなら、それは差別であり、イジメであり、性であり、宗教対立の問題である。
 そして当然のことながら現代の道徳の基本は多様な価値観を認め合うことに求められる。誰かに、そして周囲の環境に押しつけられるものではない自分の考えを持って判断することにあるはずだ。道徳は戦前の修身であってはならない。人権教育こそ現代に求められる道徳教育のすべてである。

 ぼくらのようなフワフワした時代に育ったのではない現代の若者たちは、ぼくらとは比較にならないほどしっかりしているし大人である。それでも未熟で自分勝手なオトナが若者を自分の都合の良いようにしつけようと悪あがきしているのだ。それは醜悪なことだと早く気づくべきだろう。
 ただ最後に絶対なことは、未来は必ず現在の若者のものだということだ。もうオトナは引っ込もう。

ぼくの危機感

2014年01月10日 10時37分55秒 | Weblog
 ぼくが「年内にも戦争が始まるかもしれない」と言うと、誰もが「そうかなあ」と言って笑う。笑われるのは慣れているからかまわないが、本当にそんなに危機感が薄くて大丈夫なのだろうか。
 恩師でもある高齢のマルキストに「暗い気持ちの年明けだ」と書いて送ったら、「明るい希望も見える」と返信が来た。政治党派の政治的な楽観主義にも慣れているし、ぼく自身も活動家だった時はどんなに負けていても希望的な総括をしたものだ。しかしそうした楽観主義に自家中毒になってはならない。あくまでも現実は現実として冷徹に見据える必要がある。

 安倍内閣は集団的自衛権の行使容認について、年内に有識者会議に一定の方向性を出させ、その後法案化するとしている。たぶん多くの人は、だから今年はまだ戦争なんかおこらないと思っているのかもしれない。
 しかし現代の戦争とは何なのか、みな知っているのだろうか?
 中世の戦士が名乗りを上げて一騎打ちをするような、とまで言わなくても、正式な宣戦布告をしてから正規軍同士が衝突するというような、そんな戦争でさえもうとっくの昔に終わっている。

 現代の戦争は、ようするに「国家連合」対「不定形集団」の非対称的な戦争である。この戦争にははっきりした終わりがない。はっきりした範囲もない。それどころか誰が誰と戦争をしているのかさえ判然としない。被害が及ぶのが世界中のどこであろうと、誰であろうと不思議はない。
 そういう戦争なのだ。
 その意味では、安倍氏が言うように安保の範囲が全世界に及ぶという主張もあながち間違っているわけではないのかもしれない。
 もちろん現代のそうした戦争を世界規模にまで拡大させているのは国家連合の側である。彼らは自分たちの強欲のために世界中に侵出し、摩擦を作り、やがて強力な軍隊を派兵し、反対勢力の指導者を殲滅してしまう。しかしそれで反対派が消滅するわけではない。頭を失った勢力は個々に分散し、まさにアリの群れが巨象を襲うように反撃を開始するのである。これを反撃者はジハードと呼び、国家連合は対テロ戦争とよぶ。

 国家連合の背景には国際的な大企業がいる。つまりはそれが21世紀の世界を支配している本当の実体である。もちろん誰もが知っていることだ。
 彼らは本質的に儲からないことはやらない。だから多くの人が思っているような日中戦争のようなことはまず起こらない。偶発的な衝突があったとしてもすぐに沈静化するはずだ。なぜなら現状において大国同士が戦争しても国際的企業にはあまり利益がないからだ。

 安倍内閣はアベノミクスという実態性に乏しい「口先」戦術でみごとに為替をコントロールした。その結果、企業利益は大きく改善している。しかし当然こうした状況は長続きはしない。消費税導入を契機に景気は後退する。それと同時に安倍内閣への支持率も急落する。
 しかし安倍氏はその時のために昨年後半に多くの布石を打っていた。それはたとえば秘密保護法の成立であったり、靖国参拝であった。極右政策を強行することによってそうした事柄を既成事実化し、人々を徐々に慣らしていった。多くの人は気づいていないかもしれないが「世論」は驚くほど「右傾化」しているのだ。ただ人々がそれに慣れてしまって、「右傾化」を「右傾化」として認識できなくなっているだけだ。
(そのことはむしろ外国からの方が良く見えている。昨年末の安倍氏の靖国参拝に多くの国が一斉に懸念を示したのはそのことを意味している)

 もしいったん経済が後退状況に入ると、おそらく安倍内閣には経済をコントロールすることが出来なくなるだろう。なぜならアベノミクスは基本的に言葉による政策であって、実態がないからだ。(このことを経済記事風に言えば「外国人投資家は第三の矢に失望している」とも言える)
 経済失速・後退局面になったときに、安倍政権が用意しているのがまさに「戦争」なのである。現状を考えるとおそらくそれは多くの人に歓迎されるだろう。はじめは「脱原発」のように反戦運動が巻き起こるかもしれない。しかしそれは同じように失速するに違いない。

 たぶん多くの人は法律が整備されるまで戦争は起こらないと考えている。しかし実は全く逆のことがおきる危険性がある。
 戦争事態を生むことによって、逆に法律を整備させるということもあり得るのだ。
 これは全く絵空事ではない。そのことは昨年の南スーダンでの自衛隊による韓国軍への緊急弾薬供与が示している。事態が緊急を要するという状況が起きたら、おそらく何でも出来るという前例が作られたのだ。
 たとえばアフリカや中東に派兵されている自衛隊が武装集団に襲撃されたとする。自衛隊が反撃し、双方に死傷者が出たとしよう。おそらく昨年までなら、自衛隊は派兵の条件が失われたわけだから緊急に帰還しただろう。しかし今年だったらそうなるだろうか。現在の日本国内の雰囲気はむしろずっと好戦的で、おそらく反撃、戦闘突入を可能とする法整備を急げと言う声が高まるのではないか。
 まさにそれは第二の盧溝橋事件になってしまうかもしれない。

 しかし、こんなことは考えたくないが、それがもしかしたら第二の柳条湖事件である可能性もあるかもしれない。つまり、日本側の自作自演、謀略が行われたとしたらどうなるのかということである。
 アフリカや中東のジャーナリストも少なく、通信手段も限られた現場で、自衛隊が襲撃されたという報告が入ってきても、その詳細を我々はちゃんと知ることが出来るのだろうか。ましてや秘密法が成立した現在である。

 事態はおそらく我々がついていけないほどの急激な速度で激変している。おそらく戦争は我々が思っても見ないような形で始まり、一気に泥沼に入り込むだろう。そして気づいた時にはもう後戻りが出来なくなっている。
 安倍氏にとっては中国と戦争をするより、アフリカ・中東で自衛隊が実戦参加することの方がずっとメリットがある。中国と直接戦争をしたら経済関係がめちゃくちゃになってしまう。それよりもむしろ自衛隊はいつでもどこでも実戦が出来るのだぞということを遠回しにアピールした方が、ずっと日本の威圧感を高めることが出来、交渉を有利に運ぶことができるようになる。

 ぼくには安倍氏がどんどん変わっているように見える。彼自身の資質が変わったというわけではないが、周囲の環境が変わったのだ。
 ヒトラーは取り巻きが持ち上げなければ、一生ただの偏執的な貧乏画家だったかもしれない。大衆が熱狂しなければ史上最悪の虐殺者にはなならなかったかもしれない。
 まさに安倍氏もこの一年の情勢の変化の中で絶対的な自信をつけてきた。それはいつか誇大妄想に変化していくかもしれない。なにしろ口先だけで円安を実現し、株価を押し上げられたのだ。彼が全能感を持ったとしても不思議ではない。実際、靖国参拝で米国から批判を受けても、以前ならうろたえたかもしれないが、今回はどこか悠然としているように見える。
 安倍氏が「自分には何でも出来る」と思うようになっていたとしたら、それは日本が本当に危険なゾーンに入ったということなのである。

感情増幅装置としてのネット

2014年01月09日 22時56分32秒 | Weblog
 時事問題について調べようと思ってインターネットで検索してみる。そうすると、いわゆるネット右翼(ネトウヨ)的なサイトが大量に引っかかる。まあ一応読んでみたりするのだが、たいていはあまりにも稚拙なというか、検証と論理性を欠いた即時的な悪口雑言ばかりで、うんざりしてしまう。もちろん中にはぼくとは意見は違うもののちゃんと立論しようとする文章も無くはないけれど。

 なぜネット上にネトウヨが大量発生するのか。なかなか興味深いテーマだが、いずれにしてもひとつ言えるのは、ネットという空間が人々の感情の増幅装置になっているということである。よく話題になる「炎上」現象がそのことを象徴している。
 かつて「世論の賛否」というものはマスコミが作った。マスコミが街頭インタビューをしたり、世論調査をしたりして、それをマスコミの視点から整理して世の中に伝えた。それが更に世論を形成することになった。
 ところが現在では誰にも管理されない場、介入されない場で「ネット世論」が作られる。確かにある意味でピュアな生な世論なのかもしれない。(もちろんインターネットに積極的に参加しない層の意見は繁栄されないけれど)

 ある人が漠然と思っていることが、誰かのネット上の書き込みによって何らかの論拠を得る(得た気になる)。そういう人が一瞬で爆発的に増幅する。そうした機能をインターネットは持っている。
 昔なら自分の意見を検証する場は、誰かと討論したり、論文を読んだりするしかなかった。それはある意味でかなりのエネルギーを必要とする。更にその意見を世の中に表明するためには、本を書いて出版するか、雑誌や新聞に投稿するか、集会やデモに参加するしかなかった。当然それはもっと大きなエネルギーを必要とした。

 しかし今はネットがある。いわばネットの書き込みは不定形で巨大なデモだ。しかもそこにはそれほど大きなエネルギーを必要としない。寝転がってスマホをいじるだけで済んでしまうのである。そこには何の決意も必要ない。肉体的にも精神的にも。
 意見表明をするハードルが下がることは、おそらく悪いことではないのだろう。しかし問題なのは人間の質である。人間は弱い。常に流れやすい方に流れる。人間は本質的に保守的存在である。大きな変革には恐怖を覚える。そのかわり現在の自分にとって得になると思える程度の小さな変革は大歓迎である。いわば寝転がったままでも向こうからやってくる幸福なら大好きなのだ。
 それはつまり自分を変える必要がないからだ。自分の意識と生き方を問われないからだ。
 ようするに自己中心主義である。そのように自分に都合の良い方向に流れていく結果、人々はどんどんネトウヨ化していく。彼らは決して自分の身を切る改革などするつもりはない。他人には強烈に求めるのに。

 インターネットの黎明期には多くの人が、この新しいメディアに期待した。個人が全世界に対して自由に意見を表明できる画期的な場だと歓迎された。そのことによって思想も社会も進歩すると考えられた。しかし現実は全く逆に、復古主義とヘイトスピーチが蔓延し、世界を広げるどころかどんどん狭め、インターナショナリズムからナショナリズムへ人々を誘導するツールになってしまった。
 しかしそれは不思議なことではない。インターネットが世界を社会のレベルから家庭のレベルに、そして個人のレベルにまで圧縮してしまったのだ。そこにはすでに他者は存在しない。協働、共存の論理とは全く無縁の、個人の腹の内側が無限にさらけ出される異形の空間に変貌させたのだ。
 もはやインターネットは人間の道具ではなく、手の付けられない怪物になってしまったのかもしれない。

靖国を巡る嘘

2014年01月08日 18時37分35秒 | Weblog
 安倍首相が1月6日に都内のイタリア料理店で俳優の津川雅彦氏たちと懇談したそうだ。
 この中で安倍氏は、靖国神社に代わる新たな国立の追悼施設建設について「別の施設を造ったとしても、赤紙1枚で戦争に駆り出されて犠牲になった方のご家族は、そこにはお参りしないだろう」、「『靖国で会おう』という一言でみんな死んでいった。その魂というのは、あそこにあるんじゃないか」と語ったとされる。

 安倍氏が本当にそう考えているとは思えない。もしかしたら自分でもわかっていないのだろうか。いずれにしてもこの話はおかしい。
 彼の主張は、そもそも靖国神社には大きな権威がある、だから新施設を作っても意味が無いというのである。しかし現実には、いわゆる靖国支持派は公的な施設が作られたら靖国に参拝する人が減る、靖国が忘れ去られてしまうと思っているのである。実はそのことを恐れているのだ。そうでなかったら、どんな施設を作っても別に何の問題もないではないか。
 そもそも安倍氏も建前上は政教分離を否定していない。公的参拝を公然と主張できない。だから公的か私的かという質問には答えない。そういう建前の論理の延長上に考えれば公的施設を作ることには全く支障がない。それをあえて否定しなくてはならいところに靖国支持派の恐れがはっきり見えてしまう。

 戦死者が「靖国で会おう」と言ったかどうか、もちろん言った人もいるし言わなかった人もいた。断固として拒絶した人もいた。それはそれこそ心の問題だから人それぞれだろうが、靖国に祀られることを拒否した人のことをどう思っているのだろう。そういう人にとっては靖国に祀られることは屈辱でしかない。そういう戦死者、殉死者の気持ちは踏みにじられ続けている。

 何も靖国神社を廃社せよというのではない。日本国としての公的な施設として新たな慰霊施設を作ろうと言うだけの話だ。というより、別に新たに作る必要さえない。現在、第二次世界大戦の戦没者で遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置するとしている千鳥ヶ淵の戦没者墓苑の位置づけを変えるだけでもよいのだ。
 そうして公的には新慰霊施設を、私的には靖国を参拝すれば良いではないか。何一つ問題はない。

 つまり、ここのところに安倍氏の嘘があるのだ。その嘘はつまり本音を隠しているからである。もちろん本気で隠しているわけでもない。あえて本音がわかるような嘘をつく。そうしなければ政治的に意味が無いからだ。つまり政治パフォーマンスとして靖国参拝を強行していると言うことである。
 その目指すところは支持率の維持であり、その真意は日本を再び侵略戦争の出来る国家に改造することにある。
 これほどまでに明白なことを、しかしやはり公式にはそう言わないところに安倍氏の政治家としての根本的な劣悪さがあるのである。


新年の明るいニュースについて

2014年01月07日 18時38分13秒 | Weblog
 1月7日、新年恒例の財界団体合同の祝賀パーティーが開かれた。来賓は安倍首相で、当然ながらアベノミクスの自画自賛大会となった。
 その直前の自民党の仕事始め式では、安倍氏は4月の消費税増税時に賃上げがあるかどうかが勝負だと述べていた。祝賀パーティーの様子を伝えるテレビでは、多くの一流企業のトップが賃上げに言及した。たぶんこれは明るいニュースとして受け取られるのだろう。

 しかしあえて言えば、賃上げはして欲しくない。
 大企業が賃上げすれば、当然その社員の収入は上がる。しかし日本の労働者の圧倒的多数は中小・零細企業にいる。一握りの人たちにだけ恩恵が偏ってはいけない。
 大企業は巨額の内部留保をする前に株主に還元しなくてはならない。株主に還元する前に社員に還元しなくてはならない。そして、社員に還元する前に下請け単価を上げするべきである。
 上から取っていったら下にまわる分はどんどん減っていく。それどころか、一番下に回るまでに状況が悪化して、結局、上の人たちの取り得で終わってしまう可能性も高い。
 そう考えたら賃上げの話題は必ずしも「明るい」ニュースではないのだ。

分水嶺の年が始まる

2014年01月01日 00時00分05秒 | Weblog
 普通なら年賀の祝辞を述べ、読者の方のご多幸をお祈りするのが常道だろうが。
 とても今年はそんな気分にならない。たぶん人生でこれほどまでに暗い気持ちで迎えた新年は無かった。

 年末にロシアや中国で無差別テロが相次いだ。日本がああした国になるのか、それとも踏みとどまるのか、その分水嶺の年が2014年なのに、人々はあまりにものんびりしている。
 なんだか自分ひとりが空回りしているような、なにかとてつもない勘違いをしているのかもしれないという不安まで感じてしまう。おかしいのは自分なのか世界なのか。

 1月から始まる通常国会の後半で集団自衛権が容認されれば、本当に今年中に自衛隊が実践に投入される可能性があるのだ。そんなことがあるはずないと思うかもしれない。しかし昨年末の南スーダンでの突然の弾薬供与を思い出して欲しい。まさかそんなことが起こるはずが無いと誰しもが思っていたことが、まさに突発的に起こってしまったのである。
 自衛隊が戦闘に参加するまで、ほんの紙一枚のところに来ているのだ。

 かつての戦争も思い出そう。戦争が始まれば人々の心は一気に高揚してしまう。戦争参加はオリンピック招致ではない。だがいざそのときが来たら、多くの人はそれを讃えることになるだろう。もしかしたら脱原発運動のように最初は巨大な反戦のうねりが起こるかもしれない。しかしいま脱原発はどうなっただろう? アベノミクスの陰に隠れてしまったのではないか?

 実はこれが「リアル」である。時代は簡単に人々の思惑を越えていく。
 このまま行けばいずれ自衛隊が中東で手を血に染める日が来るだろう。そうしたら本当に我々はもう後戻りできない泥沼にはまり込んでしまう。
 そこへ転がり始めるかどうかの一年が始まる。