あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

「過激」で「カルト」な環境保護運動

2014年12月12日 10時40分06秒 | Weblog
 環境保護団体グリーンピースがナスカの地上絵にメッセージを置き、遺跡を破壊したと批判されている。ぼくはグリーンピースのメンバーでこそないが、サポーターをやっているので大変残念だ。

 ナスカの地上絵遺跡に多少なりとも知識があれば、それが大変貴重であり、かつ大変デリケートな遺跡であることを知らないはずがない。というのはナスカの地上絵は砂漠の上にほんの数センチだけ掘られた溝でしか無く、その場の石を蹴飛ばしただけで消えてしまうようなものだからだ。それがなぜ千年とか二千年とかいう長い時間残されたかというと、この場所には雨も風もほとんどないために風化しないからである。
 グリーンピースのコメントを聞くと、そのことを知った上でそれを気候変動に対する象徴として利用したらしく、それなら何故それだけの知識があって立ち入り禁止区域に入り込んだのか理解できない。
 グリーンピースには原因の究明と今後の再発防止に全力を挙げてもらいたい。

 ぼくは以前、地元の環境NPOに立ち上げから関わって活動していたことがある。そこに集まってくる人達は当然みなエコロジストかナチュラリストだった。しかしぼくだけは常に自分はエコロジストでもナチュラリストでもないと言い続け、ずっとひんしゅくを買っていた。そう言われてもそれが事実なのだから仕方がない。
 ぼくは別にとりわけ自然が好きなわけではない。森や山に入ると気持ちがよいし、たまには散歩や山登りをしてみたいと思うけれど、実際にはそんな機会もほとんどないし、また自然と触れあっていないと駄目という性格でもない。人混みも嫌いだが、どちらかと言えば都会の方が好きかもしれない。そう言う意味ではぼくは普通の町っ子である。

 それでも自然保護に関心を寄せ、実践的に、もしくは金銭的にそこに支援をするということを続けてきた。そのことこそが大事だと思うからである。
 自然環境問題は自然好きの人だけの問題ではない。当然のことながら我々人類が生きるための絶対的前提の問題である。そうであれば、エコロジストやナチュラリストでない、普通の生活者こそが環境問題に常時ベーシックにコミットしていかなくてはならないと信じている。好きか嫌いか、情熱があるか無いかの問題にしてはならないのだ。
 そのことをずっと訴えたのだが、残念ながらエコロジストの人達には理解されなかったようだ。環境NPOの中心メンバーである以上、エコロジストでなければならない、エコロジストを宣言しなくてはならないと言うのである。

 さてそう言う人達が、現場については確かに直感的に大変優れた状況判断と対処が出来るのだが、逆に科学的知見=一般的学説を軽視するところがあり、学者はこう言っているが現場の感覚は違うから信用できないということも良く言うのだ。極端な例では温暖化と地震とではメカニズムもスケールも違うのに、そういうことを「直感的に」結びつけてしまったりする人もいる。
 それは確かに政治的(プロパガンダ)には効果がある。否定の証明が出来ないことは全て「あり得ること」であり、たとえば行政がその土地を開発したくて、その自然を代替地に移植するという「学者的」な提案をしたとき、それは現場の経験上失敗するはずだと、拒否するための論理として使えたりする。
 開発を阻止することは政治的には必要で正しい対応であり、開発圧力に抵抗する手段としての「経験的・直観的判断」の主張は、有効ではあるが、一面ではカルト的独善に陥る危険性もはらんでいて、とても難しいところがある。例の「美味しんぼ」の福島に行ったら鼻血が出たというエピソードなど、まさにその辺りのギリギリの線の闘いであると言えよう。

 もうひとつ付け加えれば、こういうエコロジストの人達は地元の自然環境の問題には大変神経質に、また激しく闘っているのに、たとえば捕鯨問題とかになると案外冷たくなる。もう少し範囲を広げれば、農家の人達の経済的問題とか、都市生活者の安全と利便性の問題とかについても、しばしば忘れられてしまうところがある。
 だからこそ、環境問題にエコロジストでない人間が積極的に関わることの意味もあるのだが、現場の活動家は実際上、消滅の瀬戸際にある目の前の自然を守ることに必死にならざるを得ず、なかなかそうした全社会的視野で問題を捉え返すことにまで関心を広げられない。

 もちろんエコロジストが悪いのではない。悪いのは社会的に巨大な力を持ち、環境保護の訴えに耳を貸さず、立ち止まりもせず、壊滅的な環境破壊を続ける勢力の方である。そして自分の「快適な生活」のことだけしか考えず、そうした環境危機に対して無関心でいる多くの人々の責任でもある。エコロジストは視野狭窄に陥らざるを得ないほどに追い詰められているのだとも言えるのだ。

 グリーンピースを代表格として、しばしば先進的な環境保護運動は「過激」「カルト」とレッテル貼りされる。しかしそれ以上に過激でカルト的なのは、現代の資本主義社会の方だ。今やまさに多くの島々が海に沈み、台風や豪雨、豪雪、干ばつが世界中で激化しているのに「経済がまず優先」と言い、福島原発事故という取り返しのつかない破滅的被曝事故を経験してもなお原発と核兵器に頼ろうとする、この社会の権力者とそれを黙認する大衆の構造こそが、過激でカルトなのではないのか。
 それに異議を唱えると「科学的証明」を求め、それが出されたら今度は金と権力の力で「逆証明」を作りだし、「経済の低迷」という魔法の言葉で人々を不安に陥れ、どこまでも富裕者の特権を維持し抜こうとする。こうした世界のあり様の方が間違っているのではないのか。

 もう一度繰り返すが、だからと言って貴重な遺跡を壊して良いことにはならない。迷信じみた非科学的誤りに陥ってはならない。それは当然のことだ。だが世界が一瞬たりとも止められない現代資本主義という「狂気」に支配され続けているとしたら、いったい「正気」の人々はどうしたらよいのだろう。
 環境保護運動は批判されなくてはならないが、批判する側の人にも徹底的な自己批判が求められていると思う。

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (金満腹)
2017-10-14 11:59:41
資本主義社会が嫌なら、あちらの世界に旅立たれることを、お薦めいたします
返信する
 (仮名Z)
2017-10-14 15:56:15
なぜ?
そして、今ごろ?
(笑)
返信する

コメントを投稿