あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

ハラスメントと信頼関係

2014年07月31日 13時11分12秒 | Weblog
 以前に環境保全グループで活動していたとき、もうその当時は若者や子供がボランティアに参加するような状況ではなくなっていて、リタイア世代だけが運動を担っていた。子供は受験準備に追われ、青年は長引く不況の中でボランティアに関わる余裕を失ってしまったのだ。
 リーダーは年配の女性で、現実に暴力をふるうわけではないがとても攻撃的で気性の荒い人だった。とは言え、それは自分に近しい者、というより自分の部下と思う人にしか発現しなかったので、一般の活動参加者にはいつも「いい顔」を見せていた。通常の活動日に集まるのはだいたい5人から10人弱で、男女の比率は同じくらいだった。
 そんな中にいくぶん若い(と言っても60手前くらいだが)男性の常連がいた。その人は現場作業員というか職工ひとすじで生きてきた人だった。活動の中では明るくて仕事が出来、頼りになった。ただ少し気が短く、納得のいかないことはやらないタイプだった。実際にはそんなことはなかったが、見方によっては協調性のない人と見えたかもしれない。まあいわゆる頑固親父という感じだろうか。

 リーダーの女性はこの人がたぶん苦手だった。自分の思うとうりに動かないからだ。それともうひとつ問題だったのは、この男性がしばしば下ネタの冗談を言うことだった。
 環境保全活動の現場作業をやるために集まってくるリタイア世代の人々とはどういう人かというと、ある人々は高学歴、高収入のインテリタイプである。理念に共感してやって来て、美しい自然と交歓することに喜びを感じる奥様などである。その一方で現場たたき上げのおじさんたちも来る。こういう人達は子供のころ野山で遊んでいた感覚で、いわば秘密基地作りの代わりに高度な自然環境保全作業をやりに来るのである。もちろん当然理念にも共感しているのだが。
 この二つの層は通常は和気あいあいと作業をしている。しかしたとえばこういう「下品」な話題が出てきてしまうと、奥様たちはたちまち嫌になってしまうのだ。

 それで女性リーダーは、その場では一番年下の(それでも50くらいだったが)ぼくに、この男性を注意しろと言ってきた。関係性から言えば、ぼくはリーダーの子分、男性はベテランの一般参加者という感じだろうか。
 その時、ぼく自身に余裕があったら方策を色々考えたかもしれないが、色々あってその役は断固拒否した。色々ということのひとつにはリーダーへの反発があった。彼女はぼくのような子分に対して命令はしてくるが、ほとんど下からの意見を聞くことはなかった。もちろん技術的な細かい個々のことについては取り入れるのだが、運営方針のような重大な問題については決して他人の意見を聞く耳を持たなかった。子分たちも自分の言うことを聞くうちは主催者側としてこき使うが、言うことを聞かないと「お前には何の権限もないただの一般参加者だ」と露骨に言い放った。
 さらに言えば、ぼくも確かに下ネタの冗談は好きではないが、町工場の工員なども長くやったし、そういう話に慣れており受け流すことが出来た。ある意味で悪気もなくただ地が出てしまっただけの人に対して、気まずくなるようなことは言いたくはなかった。もしそれが本当に活動に支障をきたすようなことならリーダーである人が自分から言うべきであろうとも思った。

 この話はたぶんそこで何もしないまま放置されたのだと思うが、そのうちリーダーは男性の作業のやり方自体を批判するようになり、やがて男性は少しずつ活動から遠のいていった。ぼくも結局、リーダーのやり方に爆発してしまい活動から撤退した。もっともリーダーのカリスマ性と活動の重要性から、ぼくも件の男性もある程度の距離を取りながら、完全に決別することが出来ないままここまで来ているのが現状だ。まあ裏では今でも相当悪口を言われていると思うが。

 リーダーのことはさておくとしても、男性の冗談に対してどういう対処をすることが良かったのか、未だによくわからない。
 それは女性たちがいる前では一種のハラスメントであったと言うことが出来る。また、ぼくや男性がもう少し違う立場、違う状況だったら、ぼくも別に気兼ねなく軽く注意できたかもしれない。

 そこにあった本当の問題は運動内部の信頼関係のもろさだったのだろう。上下にも横にもしっかりした信頼関係が作られていれば、誰が誰に何を言っても問題は解決していったろう。
 しかしボランティア運動でも、ましてや一般の会社などの組織の中では、そうした強固な信頼関係はなかなか作れるものではない。そうであるならあとは個別の信頼関係を作っていくしかない。ぼくは環境保全グループではもういいかげんうんざりしていて、すぐにでも辞めてしまいたいという気持ちだったから、そういう関係構築をする気もなかった。いけないと言えばそれがいけなかったのだろう。
 少し前の記事(「テレビコメンテーターへの違和感(政務調査費とかイジメとか)」2014/7/3)の中で書いたように、ぼくは中学時代にイジメにあっていたけれど、たったひとりの女の子がひとこと言ってくれただけで本当に救われた。以前に初めて入った会社でイジメを受けた話も書いたことがある(「あなたの生活を破壊するかもしれない秘密法」2013/11/11)。このときはもちろん誰も社長に公然と抗議できるような人はいなかったが、その代わりみんなが社長の目を盗んではぼくに話しかけたり、差し入れをしてくれたりしてくれた。最後は送別会まで開いてくれた。とてもうれしかった。
 組織自体は不毛な場所であっても、それぞれの人間同士は何かを作ることが出来るかもしれない。そこから何かが始まることがあるかもしれない。もちろんいつもうまくいくわけではない。会社などで個人的な信頼関係を作ろうとして大きな失敗をしたこともある。今は詳細を書く気にならないけれど。

 ハラスメントの問題は難しい。同じ事をしても別の関係性、別の状況ではハラスメントにならないことも多い。それこそそこには化学式は無いから厳密にハラスメントを規定することができない。だからと言ってハラスメントが存在しないわけではないし、当事者が気づかなくてもそれはある。認めたくはないが、ぼくもたぶんずいぶんとやってきたと思う。被害者が訴えられないからこそハラスメントである部分もあるだろう。
 ぼくもなかなか出来ないことだけれど、周囲が気づかなくてはならないのだ。そしてもちろんそのハラスメントに立ち向かい是正させることが出来るのなら、それが一番良いだろうが、それ以前にまず弱い者に気持ちを寄り添わせることが先かもしれない。社長に隠れて声をかけてくれたぼくの昔の同僚のように。

目まいがするのは暑さのせいだけではない

2014年07月30日 21時49分43秒 | Weblog
 いったい日本はどうなっているのか。

「九条守れ」俳句、公民館が掲載拒否 さいたま市
http://www.asahi.com/articles/ASG745249G74UTNB00H.html

憲法9条の俳句掲載拒否 さいたま市公民館「誤解される」
http://www.47news.jp/CN/201407/CN2014070401001257.html


「九条守れ」俳句、今後も不掲載 世論二分なら排除
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014073002000130.html


俳句掲載拒否 公民館運営審議会で議論、外部識者らも対応批判
http://www.saitama-np.co.jp/news/2014/07/30/04.html


さいたま市長、俳句掲載拒否問題で見解の表明避ける
http://www.saitama-np.co.jp/news/2014/07/18/04.html

 自分の国の憲法を守ろうという主張が公権力によって排除される国というのは、いったいどうなっているのか。
 憲法には公務員の憲法遵守義務が定められていたはずだ。その憲法には表現の自由の保証も書かれている。憲法を積極的に守ることが出来ない役所が行うことには、もはや何の正当性の根拠もない。とりわけ教育長が公民館の横暴を支持するとは。本来なら子供にしっかり憲法を教えるのが最も重要な仕事ではないのか。
 こんなことで国を愛する教育などと言っても何の説得力もない。そもそも安倍首相だって平和憲法を根拠にして集団的自衛権行使が出来ると言ったのではないのか? 何が何だかさっぱりわからない。目まいが止まらない。

土用の丑の日をウナギ保護記念日に

2014年07月29日 11時46分56秒 | Weblog
 今日は土用の丑の日らしい。土用というのは立夏、立秋、立冬、立春の直前の18日間を言う。丑は十二支の丑である。十二支は「甲乙丙丁…」の十干と組み合わせて60をワンセットにする数詞として使われることもある。いわば昔の人の数の数え方である。ちょっと違うけれど昔の人は現在の曜日のように十二支で暦を区切っていた。それで丑の日。つまり土曜の期間中で丑の日に当たる日が今日だと言うことだ。
 そういうわけで土用の丑の日は一年間に最低4回はある。日の巡り合わせが良ければ、1回の土曜の期間中に2回丑の日が入ることもある。ただ現在では単に土用の丑と言った場合、夏のことだけを指す。これは日付の問題ではなく「ウナギを食べる日」だからだろう。ご馳走が食べられるハレの日だからである。人は欲望に弱い。

 土用の丑の日にウナギを食べる習慣は230~40年くらい前に始まったらしい。平賀源内が仕掛けたという説が有力だ。夏の暑さに負けないように勢力の付くものを食べろと言うことなのだろうが、それ以前から「丑の日に『う』の字が付くものを食べると夏バテしない」と言われていたという。だから別にウナギでなくても、牛でも馬でもうどんでも、梅干しやウリでも良かったらしい。ウリって、夏バテに効くのかとも思うけれど。

 さて今年はウナギが豊漁なのだと言う。そう言われるとどうも今年は去年に比べてスーバーに並べられるウナギの蒲焼きが多いような気もする。価格は下がっていないがパッケージの量が増量されているとのことだ。どのみち数年前に比べたらかなりの高額商品である。
 一方で北海道ではサンマが壊滅的な不漁だそうだ。昨年がかなりの不漁だったのだが、今年は更にその10分の1なのだという。

 もちろん我々は食べる側だから、あるものを食べ、無いものは食べなければよい。もちろん無いものを無理やり食べようとするのは度を超した強欲であり、それはそもそも許されないと思う。サンマが無いならアジを食え(アジもそんなに安くはないが。アジの塩焼きはサンマより多少手間がいるがそれでも本当に簡単だ)。
 しかし漁師はそうはいかない。その獲物に特化した漁具や装備を用意し、その獲物がかかる漁場で操業するしかない。設備投資と生産計画ということだが、それは簡単に切り替えられるものではなく、サンマが駄目だからウナギに、というのことは絶対に不可能である。
 これではますます一般の漁労は衰退するしかない。その隙間に入り込むのは多国籍の巨大企業になるのかもしれない。そこでは海と人間との相関的な関係性は失われ、ただ目の前のより大きな営利のためにそれ以外のものが全て捨て去られることになる。

 なぜこんなことになってしまうのか。ひとつは地球温暖化による気象の過酷化であろう。毎年毎年海流の流れが大きく変化しているのだと思う。そこである年には思いがけないところで思いがけない魚が豊漁になり、ある年にはいつでもそこにいるはずの魚が全くいなくなるということが起こる。もちろん地球の歴史の中ではそうしたことは当たり前に起こることだけれど、現在の状況はそのサイクルが極端に短くなっており、かつて数十年、数百年かかって起きた変化が一年で起きてしまうような大変な事態になっているではないだろうか。

 もうひとつは海洋資源の乱獲である。世界中で獲られる魚のうち4分の1は商品にならず捨てられるのだという。更に人間の飽食が追い打ちをかける。強欲に任せて欲しいものを何でも食べようとし、しかもそのかなりの部分を食べ残して捨ててしまう。こうしたことを続けることによって海洋の生態系は破壊されていく。クジラが魚をたくさん食べるから漁獲量が減るなどという話とは比べものにならないのだ。

 土用の丑の日がウナギを食べる日から、ウナギを保護する記念日になるように望みたい。もし日本の伝統を守りたいならウナギを守らねばならないし、さらに250年前の風習を尊重して、梅干しと冷やしうどんで暑気払いをしても良いではないか。

 最後にGREENPEACEのキャンペーンを紹介しておこう。ウナギを巡る問題点がよくわかる。

ウナギが絶滅危惧種? 知ってるようで知らなかったウナギの話 - Eel Deal - (予告編)
 http://www.youtube.com/watch?v=8MdxPHrXL_c

ウナギが絶滅危惧種? 知ってるようで知らなかったウナギの話 - Eel Deal - (本編)
 http://www.youtube.com/watch?v=tKRlg27Kb7g

気になる!「代替ウナギ」って何?
 http://www.greenpeace.org/japan/ja/news/blog/staff/blog/49998/

GREENPEACE Japan Mobile Site 漁業問題
 http://m.greenpeace.org/japan/ja/high/campaign/ocean/fishing/

アニメと日常

2014年07月28日 14時12分03秒 | Weblog
 テリー伊藤氏によれば少女誘拐の原因はアニメにあるのだそうだ(まったくね…ため息)。ぼくはもちろん(!)アニメが好きだ。もっともオタクの人のように見ているわけではないので、アニメを体系的、もしくは研究的に語ることは出来ない。ただ非常に個人的な感想をしゃべったり書いたりするだけである。
 だからアニメ好きの人からしたら見当外れかもしれないが、最近のテレビアニメの質は相当に高いと思う。特に今年の前半はぼくにとって大収穫だった。「謀略のズヴィズダー」「スペース☆ダンディ」「ノラガミ」「極黒のブリュンヒルデ」「棺姫のチャイカ」「僕らはみんな河合荘」「となりの関くん」などなど。原作は途中で放り出したのにアニメで再構成されるとなかなかの作品になるものもあって面白い。
 思えば昨年も好きな作品がいくつもあった。たとえば「あいうら」「帰宅部活動記録」「のんのんびより」など。これらはいわゆる癒し系というか、女の子日常系アニメである。いや「帰宅部」はシュール・コメディか?
 「のんのんびより」は過疎の田舎の小中合同の分校の話で、この学校に一つしかない教室に通う小学生と中学生の女の子の物語である。ぼくにとっては懐かしい感じがした。一方「帰宅部活動記録」は女子高生を主人公にしたギャグ・アニメだ。スタッフやキャストに新人を多数起用し、中心キャストの声優は素人丸出しという感じで、最初は箸にも棒にもかからないひどい作品だと思っていたが、これが中盤から盛り上がり、一部にマニアックなカルト的人気を博した。実は後から知ったことだが中心声優はみな現役女子高生だった。
 「あいうら」は5分枠だったので本編は実質2分程度、全12話という非常に短い作品だったが、短いだけに凝縮されていてかなりの出来だと思う。特に何もない地方都市で特に何も起こらない女子高生の一学期の物語なのだが、明るく軽くしかし美しく説得力を持って描いている。似た傾向の作品で2011年放送の「Aチャンネル」があったが、こちらは東京西部あたりの女子高生の一年間の物語で、これも四季の描き方が美しかった。こうした作品は日本アニメのある部分の到達点を示していると思う。

 ところで、実は7月に入ってから母の調子が悪かった。多分暑さのせいだと思うが、病院への付き添いなどいろいろしなくてはならなかった。さらに先週あたりの関東は雨明け後、尋常でない猛暑となり、ぼく自身も熱中症気味になった。体力が奪われ集中力を失ってしまった。こういう気力の落ちたときには、頭を使わないですむ軽いアニメをただ流し続けるというのがぼくの以前からの対処法である。それでこの週末はずっと件の「帰宅部活動記録」や「あいうら」をだらだら見て過ごしていた。
 そしてそこに飛び込んできたのが、あの佐世保の女子高生殺人事件だったのである。

 進学校の高校一年女子がひとりで住むマンションの部屋で、中学からの知り合いだったクラスメートの女子を工具で殴り、首を絞めて殺害し、さらにベッドで首と手首を切り離した。加害者は人付き合いをしない孤立した子で、被害者は友人の多い活発な子だったと伝えられている。その二人の共通の関心事がアニメだったのだという。
 二人の好きなアニメがどういうジャンルだったかは知らない。しかしぼくがちょうど女子高生を主人公とするアニメをずっと見ていたところだっただけに、何か変な符合を感じてしまう。ぼくが見ていたのが何も起こらない日常系のアニメだったのに、現実の世界で起こっていたことはあまりにも常識からかけ離れた、まるでアニメの中で起きるような事件だった。

 考えてみれば、昔のアニメの中は日常ではなかった。まあせいぜいサザエさんくらいだったかもしれない。パーマンでもアッコちゃんでも、一見日常のような世界が舞台であったとしても、そこに非日常が入り込んでくるからこそアニメとして成立したのだ。
 そう言う意味では現在のマンガ・アニメ界で日常系がジャンルとして成立するのは、逆に言って現実の世界から「日常」が失われつつあるということを意味するのかもしれない。
 日常というのは、いわば安全・安心の代名詞でもある。それは普通の暮らしを意味するとも言えるが、さらに普通というのは平均的と言い換えることも出来そうだ。平均的というのは実は平均とはちょっと違う。平均はあくまで数字の上での平均である。100人のうちで50人が100点、50人が0点だったとしても平均は50点だ。この場合、50点を取るものが(そもそもここにはいないけど)平均的だとは言えないだろう。社会の中に様々な格差が生じ、それが極大化していくと、平均は平均的なものではなくなってしまうのだ。
 現代社会から普通が消えていき、「普通」というイメージだけが一種のファンタジーとして残っていく。おそらく現実にはサザエさんやドラえもんの世界はもうどこにもない。土管の置いてある原っぱ、おかっぱ頭でパンツ丸出しの女の子、丸刈りで半ズボンの男の子(は、逆に復活している気もするが)、そうした風景はもうはるか昔の、人の心の中で美しく浄化されたイメージとしてのみ存在するだけだ。

 もちろん現実の過去の時代は別に美しくも楽しくもなかった。いつの時代でも人は苦しみ悩んでいた。しかしそうしたことも含めて普通・平均的というものはあった。
 人々が自分たちの個性を自由に発現した結果、「普通」という概念がわからなくなってしまうというのならまだよい。しかし現代日本人はむしろ「普通」であることに必要以上にこだわっているように見える。そこには「普通」でありたいという強烈な意識が存在する。別の言い方をすれば「普通でないこと」に大きなストレスを感じているのである。

 今回の事件の加害少女も、もしかしたら「普通」を奪われていたのかもしれない。父親は地元で有数の大事業家で名士だという。アニメではともかく高校一年生の女子生徒がひとりでワンルーム・マンションに住むこともあまり普通とは言えまい。母親は昨年秋にガンで亡くなり、父親は20歳近く若い後妻と結婚したという。それは普通のことなのかもしれないが、少女自身にとっては尋常ならざる事であったかもしれない。
 日常が、また非日常がファンタジーである分には良いのだろうが、現実とファンタジーの区別がつかなくなるほどに社会が壊れてしまったら、それは恐ろしい世界なのだと言えよう。

誰が危険ドラッグを広めたのか

2014年07月27日 18時24分37秒 | Weblog
 いわゆる脱法ドラッグを「危険ドラッグ」と呼ぶことにしたと警察庁と厚生労働省が宣言した。ぼくとしては公募数第一位の「準麻薬」の方が良いと思うけれど。
 国家権力が何かを規制するのには何かしらの理由がある。しかしその理由が官僚や政治家の思惑によって恣意的に決められていて、本当のところ深く考えはじめるとよくわからない事も多い。危険ドラッグもそのひとつだ。
 そもそも麻薬というのは何か。狭義の意味ではケシの実から作られる薬のことだけれど、一般的には精神に何らかの影響を与える常習性のある物質のことだと言ってもよいだろう。一応それを麻薬類と呼ぼう。
 麻薬類には合法のものと違法のものがある。合法のものを嗜好品と呼び、違法のものが一般に麻薬と呼ばれる。もっとも違法とは言っても状況によっては合法になる場合がある。医師が医療目的で処方する場合、一般には違法な薬物も合法的に使用できる場合がある。ガンの痛みを和らげるモルヒネなどがそうだ。

 嗜好品にはコーヒーやチョコレート、お茶、タバコ、酒などがある。それでは合法の酒と非合法の大麻とではどこがどの程度安全なのか危険なのか、実は客観的には説明できない。法律が違法とするから大麻は麻薬側に入っているだけだ。大麻より健康に悪いとも言われるタバコも合法だ。いわゆる危険ドラッグは覚醒剤より危険なものが存在するが法律上は合法である。
 もちろん危険ドラッグが非合法として指定できないのにはマスコミが言うように技術的問題も大きい。法律上は非合法な薬は化学式で指定する必要があるから、それとかけ離れた化学式の物質が作られたら取り締まれない、というのが一般的な説明だ。確かに一見納得できそうな理由だが、本当にそうなのか。どうも腑に落ちない。
 おそらくかなり広く包括的に取り締まる法律を作ることは可能だ。しかしそうすると弊害が出るのだという。弊害が出るとマスコミは言うのだが、実際それがどんな弊害なのか、ぼくは未だにそれを具体的に聞いたことがない。
 新薬の開発の問題だろうか。それなら新薬の開発現場だけは特別な許可を与えればよい。それとも商品として売られるもの全般の安全性を高めると企業が安全性を立証するのにコストがかかり、経済発展が阻害されるというのだろうか。もしそうであるなら当然、安全と経済とどちらが大切かという話になる。
 範囲を緩く広く指定した場合、本当のところ何が問題になるというのか、それは本当に解決不能の問題なのか。マスコミも行政も政治家もそれをはっきり説明するべきだ。

 あまりマスコミが指摘しないことだが、麻薬類を作り流行らせたのは国家権力である。
 本来の麻薬であるアヘンはどう使われたか。「アヘン戦争」という言葉を誰でも知っているだろう。イギリスの中国植民地化の策謀の一角としてのインド産アヘンの中国への密貿易と、それを巡る武力攻撃事件である。19世紀のイギリスは対中貿易で多額の赤字を出しており、これを解消するためにアヘンを中国に密輸出した。この利益で貿易赤字を解消しようとしたのである。これを阻止しようとした中国(当時は清)に対してイギリスは逆に圧倒的兵力で対抗し、実質的に欧州列強の中国侵出への大きな突破口となった。

 日本では明治政府がアヘンの輸入を規制し、国内での使用を厳しく取り締まったが、一方で台湾や中国、朝鮮などでは、日本が独占的にアヘンを製造、販売した。これも植民地政策の一環である。ちなみにSF作家である星新一の父が創業した星製薬は後藤新平と深いつながりがあり、実質的に台湾の阿片販売を独占していたが、政治家と組んで不正を行いこれが表面化して台湾阿片疑獄になった。

 覚醒剤はもともと日本で開発されたものである。アメリカやドイツでも使われたが、日本ではヒロポンという商品名で広く使用された。戦時中の軍需工場で徴用工を徹夜で働かせるためだった。また夜間爆撃機の乗員にも使われ、戦争末期には特攻隊員や玉砕作戦の兵士にも、戦意高揚のために用いられた。
 そのために戦後は軍からの放出品としてヒロポンが日本中に蔓延し、多くの中毒患者を生み出した。今でも使われているかどうか知らないが、30年ほど前ぼくが留置場に入ったとき、中では覚醒剤中毒のことを「ポン中」と呼んでいた。たぶんぼくの義理の祖母もヒロポンをやっていたと思う。昔、家に注射器のケースらしきブリキ缶があった記憶がある。

 合成麻薬はおそらくLSDが実用化された最初だろう(一応「半」合成らしいが)。開発したのはスイスの現ノバルティス社だそうだが、アメリカ政府が軍事利用を目的として様々な研究を行った。当初は自白剤として、そして敵側の戦意喪失を狙った散布用として研究されたが、どうやら実際にはベトナム戦争時のアメリカ兵の戦意高揚のために利用されたのが一番実用的だったようだ。また覚醒剤に化学式が似ている合成麻薬MDMAも、米軍が軍事利用研究のために機密指定されていたことがある。

 かつてインドシナの黄金の三角地帯と呼ばれた地域ではケシが大規模に栽培されていた。これは当時この周辺で覇権を争っていた各勢力の軍事資金にされた。こうしたことは全世界で起きていた。北朝鮮が覚醒剤を作って密輸出しているのも公然の秘密である。

 麻薬類というと、ぼくたちはどうしても犯罪組織の違法な金儲けの手段だと思ってしまうけれど、実は世界の麻薬汚染の基盤を作ってきたのは各国の国家権力なのである。そしてそれは残念ながらおそらく現在でも秘密裏に続けられているはずだ。
 いわば国家は麻薬を作り、利用し、蔓延させながら、一方では厳しく取り締まるというマッチポンプなのである。しかし多くの場合それは公式には否定されているので国家は何の責任もとらない。なんだか、この社会のいろいろな問題に共通したところがあるようにも思える。

その自衛権は本当の自衛権なのか?

2014年07月22日 11時51分34秒 | Weblog
 ガザの殺戮が終わらない。イスラエルは地上戦を展開しその規模をどんどん広げている。不気味なのはそれが隠されもせず、世界中の人が報道を通じて目の前に見ているということだ。世界中で抗議行動が行われていると言うが、それが何の力にもなっていない。そしてそのうち虐殺の光景は日常化し、人はどんどんそのことに鈍感になっていくだろう。
 先日マレーシア航空の旅客機がウクライナ東部で撃墜された。200人近い人が、子供や学者やただの普通の人が殺された。現代という時代はそうやって自分の直近に戦争が突然やってくる時代なのだ。その時はじめて人はその理不尽さに直面し、気づき、怒り、おののく。しかしその時にはもう遅い。今は政治的駆け引きの格好の材料になっているから注目を集めるが、しかし逆にその分、実際に死んでいった人々やその家族ひとりひとりの悲しみや無念は、世界の巨大な鈍感さの中にすぐ飲み込まれていってしまうだろう。
 ガザの殺戮は遠い外国の話では無い。それは明日なんらかの形であなたの身に降りかかってくるかもしれないのだ。そのことを感じ取る感性こそが必要だ。あなたがガザの人々のことを忘れてしまえば、あなたも世界から忘れられてしまう。

 イスラエルは国連で「世界がイスラエルの自衛権を認めているのに、いざそれを行使すると非難する」と国際世論を非難した。アメリカ合衆国はオバマ大統領を筆頭にイスラエルの「自衛権」を無条件・全面的に支持している。
 しかし現在行われているガザへの地上戦は本当に自衛権の行使なのか。それでは同じように自衛権を主張するパレスチナの側はなんなのか。いったい双方が同時に主張する自衛権とは何を意味するのか。
 どんどん報道が更新されてしまうけれど、おそらく現状ではパレスチナ側の死者は500人を超えている。その多くが子供や非戦闘員だと推察される。一方のイスラエル側は民間人が二人、戦闘員が13人亡くなっているという。人の命の重さは量れないと言っても、これは全く一方的な殺戮であり、これを自衛権の行使として容認したら、どんな戦争もすべて自衛の戦争だと言えてしまう。
 ユダヤ教の聖典である「旧約聖書」には「目には目を歯には歯を」と書かれているはずだ。それは報復は等価にすべしという教えである。イスラエルはその教えさえもはや全く守る気がない。

 振り返ってみて、日本の世論は今や「自衛権」という言葉に振り回されすぎている。「自衛のためなら仕方ない」という論調は実は非常に危険なのだ。もちろん本当に自分の身を守らなくてはならないときもあるだろう。しかしそれが本当にそういうギリギリの正当防衛なのかどうかを判断できるしっかりした見識が無かったら、何でも自衛権に入れ込んでしまうことが出来るのだ。

 ごく普通に先入観無くパレスチナ問題を見てみれば、パレスチナ人の土地に武力でもって侵入し勝手に国を作ったのがイスラエルである。その意味では自衛権はパレスチナの側にこそある。
(数千年前にユダヤ人の方がパレスチナの地を追われたという主張は、実は半分だけしか本当ではない。確かにユダヤ人は迫害を受けたが、そもそもユダヤ人というのは人種ではなくユダヤ教の信者のことを言う。だから人種的に言うならば現在のパレスチナ人こそ古代ユダヤ人の子孫に近く、戦後イスラエルに移住してきた欧州系のユダヤ人の大半は、もともとヨーロッパ系の人種である。彼らの先祖が土俗系の信仰を捨てユダヤ教に改宗したのが、欧州系ユダヤ人の発祥である)
 まさにハリウッド西部劇のようにアメリカ大陸に侵入したヨーロッパ人が先住民の土地を奪い、その土地を守ることを自衛と称してネイティブ・アメリカン(インディアン)を殺戮したのと同じ構造だ。それを自衛として正当化するのは、つまり侵略を正当化することでしかない。

 もちろんだからと言って、現在のイスラエル人の命が奪われても良いと言うことではないし、もはやイスラエル人をパレスチナの地から追放すれば良いというわけにもいかないだろう。その点では南アフリカがとりあえず白人と黒人の融和的国家を作った先例を参考にすることが出来るかもしれない。ただそれはイスラエルがこれまでの歴史を自己批判し清算してからの話だ。

 イスラエルが自衛権と言い、合衆国がそれを全面支持し、さらには日本がそれに追随するという構図。しかも安倍政権は米国にもイスラエルにも武器提供を可能にしてしまい、そのうえ集団的自衛権発動が出来るようにもしてしまった。これまでの安倍政権の説明を聞く限り、政治的判断次第で、論理上は自衛隊がイスラエル軍に協力してガザに侵攻することもあり得ることになっているのだ。内閣がそれを戦闘ではないと認定し、アメリカ・イスラエルとの同盟が日本にとって失ってはならない最重要な事態になっていると判断されれば、そういうことになってしまう。

 繰り返すが、ガザの問題は他人事ではない。

死刑を政治家の人気取りに使うな!!

2014年07月22日 00時00分49秒 | Weblog
 ぼくは死刑廃止論者である。どう言おうが人が人を殺すことを正当化することは出来ない。もちろん戦争などにおいて殺さなくてはならない事態もあるだろう。しかしそれを正当化するのではなく、そこに深い責任を永遠に背負っていくのが人間社会の正しいあり方だと思う。
 安倍政権を初め多くの政治家が「普通の国家」を目指すという。国際法秩序に従うべきだという。それなら国連で廃止すべきと決議されている死刑は直ちに廃止されなくてはならない。
 もしアメリカ合衆国やロシア、中国のような国連の決議に従わず、力を背景にして自分勝手に好き勝手な事をやり続け、地球の支配者たらんとする国をお手本にしたいのなら、「普通」などと言う言葉は使わないでもらいたい。それは地球上でも非常に特殊な「抑圧国」なのだから。

 さらに国際的には日本の死刑制度はとりわけて残虐であると指摘されている。日本式絞首刑の物理的残虐性だけではなく、自分の死刑がいつ執行されるのかが全く知らされず、長い拘留期間の最中ずっと死の恐怖にさらしていくという精神的残虐性も問題なのである。
 マスコミが報道しないから知らない人が多いが、国際的には日本は人権侵害が激しい国だと思われている。そういうことを知らせないまま、国際化とか言うのはちゃんちゃらおかしい。

 さてそんな中で大変気になる週刊誌報道があった。
 安倍政権がこのところの集団的自衛権などに対する反対世論で落ちた支持率を回復させるために、オウム事件の麻原彰晃の死刑を執行する計画だというのだ。
 政治家が自分の人気取りのために死刑制度を利用することなどあってはならない。それは人の命をもてあそぶ行為であり、人間の倫理として許されることではない。
 安倍さんがもしそんなことを考えているとしたら、集団的自衛権の行使によって危険にさらされる自衛官の命も、同じように自分のためにもてあそんでいるのかもしれない。そうだとしたら確かに国会でいくら追及されても自衛官の危険について何も語らないはずだ。原子力発電所の周辺に住む人々の命についても本気で考えていないのではないのか。

 日本の有権者が選択した総理大臣がそんな人倫に外れたことをするのだとしたら、それは日本人全体の倫理の問題である。しっかり監視していかなくてはならない。

犯罪の陰にクルマあり

2014年07月21日 13時58分15秒 | Weblog
 岡山で行方不明になっていた少女が救出され、監禁していた49歳の独身男性が逮捕された。犯人は大阪大学で大学院まで行ったエリートで、自宅は一戸建て、それをおそらく誰かを監禁するために窓をつぶしたり、防音にしたり、部屋の鍵が内側からは開けられないような改装をしていたという。
 ニュースショーなどでは、自称イラストレーターで家には美少女アニメのポスターがたくさん貼ってあり、近所づきあいはほとんどせず、町内会費の支払いも理屈をこねて渋っていたと伝えている。
 「いかにも」な犯人像である。キモオタ、ロリコン、変態オヤジという感じだ。しかしもしかすると、別のことで(何かよいことで)取材されていたら、そういう一連のことが、繊細でおとなしいとか、頭の良い天才肌だとか、ポップな趣味のキュートな中年とかというイメージで報じられていたかもしれない。別のところで母の介護をしていて自宅にはほとんど帰っていなかったとも言われており、そう言う面では親孝行と言われたかもしれない。マスコミのバイアスには怖いところがある。

 もちろんこの男を免罪せよと言うつもりは全くない。介護を必要としている母親には気の毒だが、厳しい処罰が科せられて当然だと思う。ただある部分で自分と重なるところがあるので、どうしても気になってしまうのだ。もっともぼくは有名大学を出たわけでもなく、最下層に近い貧乏人なのだが。

 このところ嫌な事件が続く。もちろんそれは主観的な感じ方であって、現実には世界では切れ目無く嫌な事件が続いているのだろうが。
 池袋の暴走から騒がれるようになった脱法ドラッグ問題、重大なひき逃げ事件、誘拐・監禁、それぞれにそれぞれの要因があり、いろいろな対策の必要性が語られているのだが、誰も語らない一番重要な問題がある。しつこいようだがクルマの問題である。
 世の中の解決の難しい問題の多くに、実はクルマが関わっている。昔から言われるようにクルマは走る凶器であり、どこにでも出現可能な完全密室であり、顔も見せず足跡も残さずに移動できる魔法の透明薬である。
 先に挙げたような事件は普通にはドラッグや酒やロリコン趣味が原因だと思われているが、実はどれもクルマがなかったら起こり得ない事件だった。しかし人はドラッグや酒やロリコンものを批判し、規制し、排除しようとは言うけれど、決してクルマを排除しようとは言わない。なぜか?
 自分にとって便利で必要なものだからだ。おそらく多くの人はこう言うだろう。クルマが悪いわけではない、現実に圧倒的多数の人はクルマを安全に有効に使っている。クルマを悪用するのはほんの一部の悪い人間だけであると。しかしおそらくドラッグや酒やロリコン趣味についても、同じ事が言えるのである。本質的にはそれらがより多数の支持を受けているかいないかの違いでしかない。

 もちろん自動車という機械は大変有用でそれを無くせばよいと言うことにはならない。しかしそれがクルマを規制してはいけない理由にもならないのだ。
 まず自動車の総量を規制すること。緊急車両やバス、トラックなどは維持、もしくは逆に増やす必要があるだろうが、個人のマイカー=クルマは極力減らしていくべきだ。その代わりきめの細かい公共交通システムを充実すればよい。タクシーを増やして料金を税金で補填して使いやすくしても良い。それでも個人がマイカーをそれぞれ持つより、社会全体ではより安く済む。

 また別の角度からこの問題を考えた場合、以前にとても素晴らしいアイデアを聞いたことを思い出す。自動車のボディに大きく車両ナンバーを書くことを義務化したらどうかというのである。まさに名案だ。大きくナンバーが書かれているクルマで堂々と犯罪を犯すのはかなり勇気がいる。ペインティングだからナンパープレートのように簡単に取り外しはできない。車両ナンバーが書かれていない、もしくはナンパープレートと違う番号が書かれているクルマははじめから不審車両ということになる。これだけでも相当な犯罪抑止効果があると思う。
 おそらくプライバシーの侵害になるという意見はあるだろう。しかしそもそも交通インフラというものは公共的なものである、車両は私有物であろうと公共的なシステムの一環として路上を走っているのだと考えれば、つまり自動車という道具にはそもそもプライバシーは認めないのだという了解が社会的にあれば問題はない。すでに現在でも基本的にはそう言う考え方なのだ。車両には車両番号があり車検があり、しかもそれを運転するのには国家資格が必要で、運転者は常に免許証を携帯しなくてはならない。これはつまりクルマというものがただのモノではなく、公共的存在であることを意味している。
 さらに言えば、クルマにプライバシーが無くなると言っても、現実の社会では町中に無数の監視カメラが設置されている。すでにただ歩行するだけで我々のプライバシーは侵害されているのだ。それならクルマという相対的により危険性の高いアイテムをより強力に監視できても良いのではないのか。もっと言えば、クルマを持っている者はプライバシーが守られ、持っていない者はプライバシーがだだ漏れするというのでは、全くの不公平だとも言えるのではないか。

 薬物や酒や喫煙、さらには児童ポルノや著作権、特定秘密などを利用したメディア規制、警察による通信傍受、携帯電話による位置情報発信など、現状ではプライバシーや個人の嗜好に対する数多くの規制がかけられている。しかしこうしたことが犯罪に結びつくためには、多く場合クルマが利用されることは少し考えればすぐ気づく。そうであるなら、まずクルマの規制強化をすることが重要だ。
 自動車産業は日本経済の根幹を支え、またクルマはあなたにとってとても便利で手放しがたい道具かもしれない。しかしもし原発問題で経済より命、個人の少しの便利さよりより安全で安定した社会の方が大切だということに気づいたのなら、答えは一つしかないのではないだろうか。

川内原発を巡る不条理

2014年07月20日 23時56分13秒 | Weblog
 日本が太平洋戦争に突入しアメリカ合衆国と全く勝ち目のない戦いを行ったことを、評価はともかく、無謀なことだったと現在たいていの人は思うだろう。ほとんどの人はもうあんなバカな真似をするはずがないと思っているはずだ。
 しかし、そういうあまりにも明白な馬鹿げたことが、現実には堂々と行われているのである。人間のあまりの愚かさに言うべき言葉もない。

 原子力規制委員会は九州の川内原発の安全対策が基準を満たしていることを宣言した。安倍首相は再稼働をせっつく九州電力の会長にさっそく「何とかする。しっかりやっていく」と約束したという。
 しかし最も安全でなければならない原発について、実際には誰もその安全に責任をとらないという状況が、再稼働を目前にしてますますひどくなっている。

 規制委員会の田中委員長は「基準への適合は審査したが、安全だとは私は言わない」とはっきり言い切っている。それにもかかわらず安部首相は「規制委が科学的、技術的にしっかり審査し、安全だという結論が出れば、自治体の皆さんの理解をいただきながら、再稼働を進めていきたい」と述べた。しかも政府は「稼働させる政治判断はしない」としている。再稼働の判断は電力会社と立地自治体がするというのだ。

 その地元自治体である薩摩川内市の岩切市長は「国が決めた基準で審査した結果なので安全だと思う」と大歓迎の意向だ。
 そんな中で鹿児島県の伊藤知事は、川内原発から30キロ圏内にある病院や福祉施設で自力避難が難しい高齢者らの避難計画について「現実的ではない。作らない」と明言した。しかし一方で県の原子力安全対策課などは「30キロ圏の要援護者の避難計画はこれまでの方針に沿い、作成する」とも言っている。それはそもそも鹿児島県の地域防災計画に定められていることだからだ。

 桜島の噴火と火砕流が原発を襲う危険性についても、九電は数万年に一回のことだから50年程度の川内原発の運用期間中に噴火する可能性はきわめて低いと説明し、規制委員会もそれを追認しているが、日本火山学会は、「現在の観測態勢では、大規模な噴火の規模や時期を事前に正確に把握することは難しい」との見解である。地震の影響は10数万年レベルで検証しているのに、火山は数万年レベルの事すら考慮されないのはおかしいと異議を唱える学者もいるという。(<川内原発と火山>火山学者が異論 川内原発の調査基準5/30報道ステーション(内容書き出し)/みんな楽しくHappy?がいい♪)http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-3749.html

 いったいこの壊れ方は何だ?

 規制委員会は原発の安全に対する責任をはじめから放棄している。政府はその規制委員会の報告を以て安全であると宣言し、再稼働に前のめりになっているのにもかかわらず、最終的な責任は電力会社と地元自治体に押しつけている。自治体は自治体で自ら決めた避難計画作りも放棄して、国に安全判断を防衛策は現場の病院等にと責任を丸投げする。
 福島の事故でも誰一人責任をとらなかったけれど、今後も誰も原発事故の責任はとりませんと言っているようなものだ。それなのに地元は大喜びし、関係者はみな、安全だ安全だと念仏のように唱えている。
 不条理小説を読んでいるような不気味さを感じる。

 これが3.11前ならまだわかるけれど、現実に数万年に一回の大災害が起きるのを目の当たりにし、その結果として原発事故はどこまでいっても収束しないばかりか二次災害、三次災害が発生するのを見ているのに、なおこんな風にいられることは、不思議と言うより驚異、驚異と言うより恐怖を感じざるを得ない。
 これは根っこのところで集団的自衛権行使、武器輸出解禁、特定秘密保護法などの問題ともつながっているような気もする。
 こうなってくると、もはや日本人は平和ボケどころか、欲ボケの塊なのだと言うしかないだろう。

名簿とDMと資本主義

2014年07月19日 23時47分40秒 | Weblog
 ベネッセの名簿流出事件。それを利用したのがジャストシステムだというところがちょっとショックだった。ぼくは15年以上「一太郎」を愛用しているのでいろいろ複雑な気持ちだ。ワープロソフト「一太郎」と富士通が開発した親指シフト・システムは、コンピューター上で日本語を扱うのなら他に比類のない最高の環境である。「一太郎」開発に影響のないことを願いたい。

 それはそれとして、この事件のマスコミ報道には違和感を感じてしかたがない。ベネッセの管理体制と名簿業者一般が徹底的に叩かれている。兵庫の野々村議員のケースもそうだし、このブログでは以前から書いているのだが、誰からも文句が出ない「完全なる悪人」に対してマスコミや社会が徹底的に袋だたきにする、そういう「ネタ」にされていると思う。世の中が一色に染まってしまう風潮にはとても嫌な感じがしてしかたない。

 マスコミは名簿業者や個人情報の売買を徹底的に批判するが、そのマスコミはダイレクトメールを出すことはないのだろうか。関連会社の通販や出版部門はどうなのだろう。取材などに各種の名簿を利用することは全くないのか。
 名簿は自社で独自に情報収集して作ったものでない限り、外部から入手すれば違法性があるかどうか確かめようがない。
 選挙運動に関わった人なら知っているだろうけれど、政治家にとっても名簿は生死を分けると言ってもよいくらい重要なものである。もちろん選挙をやる度に情報が増え、精査され、意味あるものになっていくのだが、問題はそれを最初にどうやって手に入れるかだ。他の政治家から手に入れることもあるだろうが、おそらく何らかの形で購入することもあるだろう。政治家の場合でも違法性のある名簿を使っていないとは限らないのだ。

 そもそもダイレクトメールは「悪」なのか。人によっては思いもかけない情報を得る機会にならないとも言えない。その情報が意味を持つ人とマッチングした場合には良いものだと言えるだろう。
 とは言え、ほとんどの人にとってダイレクトメールはゴミである。ぼくは正直まったく気にしないけれど、まあ普通はゴミを送りつけられれば誰だって迷惑だ。しかしなぜダイレクトメールはゴミなのだろう。自分に必要のない商品の宣伝だからだ。もっと悪い場合にはある種の(もしくは完全な)詐欺である場合もある。
 だがこれは資本主義にとっては最も重要なことなのでもある。

 資本主義の基本は商品を売って儲けるということだ。たしかに商取引は資本主義以前から存在した。資本主義がそれ以前の社会と違うのは、あらゆる人間活動が全て商取引として成立するようになったことである。しかしそこまでなら、それ以前の社会のあり方と本質的に違いはない。問題はそこから商取引の意味が逆転してしまうところにある。
 資本主義は(理念的には)人間活動に必要なものを交換する、その目的を達成するための媒介として貨幣が全面的に使われるようになった社会システムだと説明される。が、実際には必要物の交換を目的にするのではなく、貨幣をより多く獲得することが目的になってしまった。というより理念として語られる構造とは違い当初からそれが目的(もしくは動機)だったわけだが。

 このことが意味することを簡単に言い換えれば、「より多くのいらないものを作って売る社会」だということである。資本主義の社会にあって「発展」とは経済発展のことであり、経済発展とはより大量の貨幣が動き回るようになることを意味する。
 しかし人間にとって本当に必要なものなど限られている。外部からの特別な刺激がなければ人間はそもそもそれほど多くのものを手に入れたいとは思わないだろう。それは地球上の辺境と言われる場所で伝統的な暮らしをしている人達のライフスタイルを見てみればよくわかる。
 だから資本主義社会は本来人間に必要ないものも売らなくてはならない。しかも大量にだ。前にも書いたことがあるが、セールスマンの教科書には「エスキモーに氷を売る」ことが最も素晴らしい営業の例として紹介されている。ぼくが高校や大学の一般教養で経済について学んだときも「必要ないものを売る」ことこそが経済の本質であると習ったと思う。
 必要ないものを売るためには購買対象者の欲望をわざわざ喚起する必要がある。それが宣伝・広告だ。だから宣伝・広告が行われる商品は基本的に「無くてもかまわないもの」である。昔の街角にあった八百屋とか風呂屋とかは特に宣伝も広告もしなかった。する必要がなかったからである。生活必需品だから宣伝に煽られなくても誰もがそこに普通に買い物に行った。

 だから我々にとっていつも目にする宣伝・広告は、ほとんどが不要なものなのである。もちろんそれが文化や芸術の側面も持ち、また一般的な情報としても有用であると言うことは出来る。現代社会においては宣伝や広告は不可欠なものとなっており、それを否定するつもりもないが、しかしやはり本質的にはうまくニーズがマッチングする人以外には意味が無い。そういうわけでダイレクトメールもその大半がそもそもゴミなのである。

 だが今述べたとおり、ダイレクトメールを毛嫌いする人も宣伝・広告が全くなくて良いと思っているわけではないだろう。ダイレクトメールだけが悪だというのも、ある意味で身勝手な話である。
 ダイレクトメールは確かにムダである。しかしもし企業が対象をしぼったダイレクトメール宣伝を止めて全ての人を対象にした広告に切り替えた場合、同じ効果を上げるためには莫大な費用がかかるだろう。それはさらに大きなムダであり、結果的にそれは商品の価格に上乗せされるということになる。

 もう少し突っ込んで考えてみよう。ダイレクトメールはそれ自体がひとつの産業である。広告業界、印刷業界、運輸配送業界などがその恩恵にあずかっている。ダイレクトメールの宣伝効果がどれほど売り上げを増加させるのか知らないが、一説には数十兆円規模だという話を聞いたことがある。こうしたことを考えれば、ダイレクトメールの存在は日本経済にとって必要不可欠だとさえ言えるのかもしれない。

 名簿が存在しなければダイレクトメール宣伝は不可能だ。名簿を各企業が独自で作るためには相当なコストがかかり、その場合も費用対効果で現実的でないケースが多いだろう。また名簿に載ることを拒否する人が相対的に多ければ名簿の意味は無くなる。
 名簿業者の情報収集を否定すると言うことは、実は現在の日本の資本主義のあり方を否定すると言うことでもある。個人情報を厳密に保護すると言うことはそういうことなのである。
 もし本当に多くの人がそれを望むなら、それは良いことなのだと思う。ただ一方で経済発展を望みつつ、自分の情報だけは守りたいなどと身勝手なことを言うのは、問題の根本から目をそらす行為なのだと言うしかない。

ぼくの日常に入り込むパレスチナ

2014年07月16日 13時26分58秒 | Weblog
 日常ってなんだろう、と夏の日の午前中、スーバーで買い物をした帰り道に自転車をこぎながらふと思う。今日の昼はコンビニに寄って母が好きなアメリカンドッグを買って済まそうかとか、ああビール飲みたいなとか、そんな何でもないことを考えている心の隅から、パレスチナはどうなっているのかなという声が聞こえる。
 パレスチナのガザ地区ではイスラエル軍の実質上の殺戮行為が止まない。イスラエルはいったんは停戦に合意すると発表したが、直後に今回の事態でイスラエル側に初の(!)犠牲者が出たことから逆に攻撃を激化させ、ついにパレスチナ側の死者は200人を超えてしまった模様だ。その大半は一般住民=非戦闘員であり子供も多数含まれているという。

 ガザは東京23区と比較すると、その約6割程度の面積しかない。ちなみに人口密度は福岡市、鎌倉市、羽曳野市などに近い。そこに軍事力で世界上位10カ国に入るイスラエル軍が総攻撃しているのである。殺戮と言う所以だ。
 ガザの雰囲気は以下のインタビューで感じることが出来る。

土井敏邦WEBコラム
 日々の雑感 316:子どもたちの眼に羞恥ではなく、“誇り”をみたい
 -ラジ・スラーニ氏・インタビュー- 
 http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20140710.html


 今回の事態の発端はイスラエルの少年3人が行方不明になり、後に死体となって発見されたことだった。イスラエルはパレスチナによるテロと断定し軍事行動を発動した。この間パレスチナの少年がイスラエル人集団によって生きたまま火を付けられ殺されるという残虐な事件も起きた。
 しかし事件が起きたのはヨルダン川西岸のパレスチナ自治区南部のヘブロンであり、ガザ地区とは最短でも50キロ以上離れた場所である。ヨルダン川西岸地区とガザ地区とは直接つながっておらず、あいだにはイスラエル施政圏が横たわる。パレスチナ人はイスラエルから完全に隔離されており、自由に往来できるわけがない。もし本気で犯人を捜す気なら、まずヨルダン川西岸地区に行くべきだろう。まさに発端の事件はガザ攻撃の口実にされただけなのである。

 ぼくの日常とパレスチナでの殺戮、そのあまりにも大きな落差に思考停止に陥ってしまいそうになる。しかし考えてみれば、ぼくの母は東京のど真ん中でB29の大編隊の空襲を何度も受け、グラマンから機銃掃射を受けたのである。
 先日、少しゴジラの話題を書いたが、ファンタジー映画はその意味では全く無力ではない。大怪獣に蹂躙される見慣れた街の惨状をリアルに描いてくれるのだ。オタクの世界の戦争にリアリティが無いのではない。それを現実の問題へとつなげる想像力に欠けているだけである。
 もちろん日常の隙間にふと世界の裏側で起きている大量殺戮を思うだけでは、何も変わらないかもしれない。しかしそれを思い出すのと全く知らずに過ごすのとではおそらく大きな違いがある。まず知ること、そして感じることが重要だ。それを機転にして自分のあり方や社会のあり方について考える、見識を広げることが、やがては何かを生むはずだ。

 安倍政権はこの4月に武器輸出三原則を破棄、防衛装備移転三原則を閣議決定している。その論議の最中、政府の最大の意図の一つがイスラエルへの武器輸出を可能にすることだということが明らかになった。そのために基本理念の中の「国際紛争の助長回避」という言葉を「国連憲章を遵守」に変更したのだという。自民党に対する説明で政府担当者は「イスラエルは(禁輸対象国に)入らないだろう」と明言したそうだ。産経新聞は新三原則を「イスラエルなどへの輸出を恒常的に可能にする」(2014/3/18)と報じた。(基本理念に「国連憲章遵守」 対イスラエル念頭、政府・与党が最終調整 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140318/plc14031808290005-n1.htm)

 その後5月にネタニヤフ・イスラエル首相が来日して安倍総理と会談し、今月(7月)6日には、日本とイスラエルの間で企業や研究機関が「共同研究・開発」を促進する覚書が締結されている。IWJの報道によればその中には「もちろん「武器」が含まれる」という。IWJはさらに「安倍政権とイスラエルの協力関係は、将来的に、集団的自衛権の対象になる可能性もある」と続けている。(【IWJブログ】安倍政権とイスラエルの「協力」が集団的自衛権の対象に!? ~ガザ空爆を続けるイスラエル、日本政府は過去に「武器輸出」の可能性を示唆 http://iwj.co.jp/wj/open/archives/152793

 我々が「選んだ」総理大臣がまさにパレスチナ人の殺戮に直接的に手を貸しているのだ。集団的自衛権の行使がどうのと騒いでいる間に、実務的には現実の中東地域の紛争に日本の企業が足を踏み入れようとしている。戦闘をするかしないかなどというレベルの問題ではなく、もう日本はイスラエルを軍事支援するパレスチナの敵対者となってしまったのであり、すでにイスラム原理主義者からははっきりとした攻撃目標にされているかもしれない。

 そうした事も含めて、ぼくがどう感じようが、ぼくの日常は現実的な問題としてパレスチナと強く結びついてしまっているのだ。それなのにぼくにはこの事態を打開する力はない。
 しかしもう一度言う。無力でも思うことはできる。思うことが何かを生むことが出来るかもしれない。そんな動きを最後に紹介しておこう。

アムネスティ「イスラエル/パレスチナ緊急フォトアクション」
https://twitter.com/hashtag/CiviliansUnderFire?src=hash
https://www.facebook.com/hashtag/civiliansunderfire

(残念ながら、ぼく自身はSNSに入会していないので参加できないが)





安倍首相の無理念・非論理

2014年07月16日 00時01分13秒 | Weblog
 安倍政権の日本を戦争が出来る「普通の」国家に改造する強硬な路線は、実は右翼からも批判を受けている。秘密法でも解釈改憲でも、実は論客と言われるような右翼からは警戒されている。もちろんその理由はいくつかあるのだろうが、その根底にあるのは安倍氏の無理念、非論理なあり方にあると思う。
 一見、安倍氏は強い理念を持っているように見える。しかしその理念とはいったい何かと考えるとたちまち混乱してしまう。今回の集団的自衛権の問題でも、本当はいったい何かしたいのかわからなくなってくる。本当に集団的自衛権を行使したいのか。

 「怪人」佐藤優氏によれば、今回の与党会議で公明党の同意を得るために安倍氏は本質的な部分で譲歩してしまったのだという。つまり「我が国に直接的な攻撃を受けたのと同程度の危機が迫ったとき」にしか行使できないという縛りは、集団的自衛権行使の条件を限り無く個別自衛権に近づけてしまったというのだ。こうした見方が妥当かどうかは意見の分かれるところだが、佐藤氏によるとこうした本質的な譲歩が行われたことによって、集団的自衛権行使に強い期待感を持っていた外務省に困惑が広がっているという。名目は出来ても実際に使えないのではないかというのだ。
 そもそも安倍氏が表向き集団的自衛権の必要性として掲げてきた事例は、基本的に個別自衛権としても必ずしも無理というわけではない。集団的自衛権を認める憲法解釈をするよりはずっとハードルが低い。だから公明党としては当初、実質的には安倍氏の主張を丸呑みにする代わり集団的自衛権という言葉を外してもらうという方向で考えていたようだ。しかしこれに安倍氏は強行に反対した。今回の集団的自衛権行使容認の閣議決定は、名を捨て実を取ったのか、実を捨てて名を取ったのか、そうだとしてもそれは安倍氏にとってか公明党にとってか、とにかくあまりにも内容がふわふわしているので本当のところが全くわからない。

 右翼の論客たちは、まず自主憲法を国民的合意の下に制定するべきだと主張する。一内閣、一総理の恣意的な意向で憲法解釈がいかようにもできると言うことになったら、自分たちにとって不利な状況だっていつ起こるかしれない。そうした意味で秘密保護法によって情報を国が全て掌握してしまうことも批判している。それはたしかに理念としても論理としても筋が通っている。
 このブログでも指摘していることだが、実際のところ安倍氏の解釈改憲には大きな矛盾が存在している。つまり解釈を是とするなら論理的に現憲法を尊重するしかなく、安倍氏と自民党の改憲論と矛盾する。また集団的自衛権行使には他国との対等な関係性を前提とするわけで、そうすると片務条約の構造において作られた日米安保と矛盾する。集団的自衛権を行使するなら現在の日米安保は破棄されねばならない。そのことは日本がアメリカの子分として後ろを付いていくのか、それともアメリカと対等な同盟国として自立するかという選択を迫っていると言うことであるが、安倍氏においてはそれもあいまいなままだ。

 集団的自衛権に関する国会の閉会中審査が行われた。たった二日間のアリバイ的なものでしかない。しかもその内容が全くの無内容だった。
 集団的自衛権は限定的であり、国際的に認められているようなものとは違うのだと首相は力説する。しかしその限定の範囲がどこら辺にあるのかという話になると、全く曖昧模糊としてしまう。
 「日本が攻撃されたのと同程度の危険」と言うが、それがいったいどういうことなのかさえわからない。首相は中東で石油ルートが封鎖されることが「日本が攻撃されたのと同程度の危険」であると言う。もしそういう経済的問題が集団的自衛権行使の条件であったら、本当にどこまでも解釈は拡大してしまうだろう。石油が入ってこなくなるより世界的な株価暴落の方が危機かもしれない、アメリカに対するサイバー攻撃の方が打撃が大きいかもしれない。つまりは9.11のようなアメリカに対するテロだって「日本が攻撃されるのと同程度の危険」であると主張されるかもしれないのだ。そうしたらあのアフガンやイラクへの侵攻のような戦争にも集団的自衛権の行使として参戦することになりかねない。首相は「戦闘」には参加しないと力説するが、実際には戦闘地域で「後方支援」することは、事実上、戦闘参加と何ら変わりがない。
 ちなみに安倍首相は「集団的自衛権の行使とは戦争に参加するということではないのか」という至極当然の質問に対して、「そんな単純なことではない」と回答を拒否した。戦争に参加するという概念はそんなに複雑なものなのか。と言うより、日本の国会においてそれがどうかではなく、国際社会からはどう見えるかという問題であり、そこははっきりしていることだと思う。

 朝日新聞の記事(2014/7/15夕刊・東京)から引用すれば、

(自民党の高村氏が機雷の掃海ができる例とできない例について説明を求めたのに対し、首相はそれに答えず状況説明を延々とし)「その間2分48秒。結局、個別の想定には触れなかった。/それなのに高村氏は「よくわかりました」。議場でも失笑が起こ」(った。)

「自衛隊へのリスクは、首相の覚悟は、と民主党の岡田克也氏が4回重ねて問うても、陸海空の自衛隊約24万人の最高指揮官たる首相は明確に答えない」

(生活の党の村上史好氏が集団的自衛権行使のリスクを何度も質問したが答えず)「「はぐらかされた」「質問に答えていない」。村上氏が注意しても、答えない」

 そもそも安倍首相は「他国の防衛それ自体を目的とした集団的自衛権は行使しない」としきりに言うが、だいたい「他国の防衛それ自体を目的とする」と言明して集団的自衛権を行使する国など存在するのだろうか。集団的自衛権という以上、自国の権益のために参戦するのであって、純粋に他国を防衛するためだけに派兵すると宣言して国内が納得したのは中国やキューバくらいだったのではないのか。

 繰り返すが、安部氏には論理性がない。論理を積み上げて立証し相手を納得させる気がない。マスコミは国会で論戦が行われたと報じているが、論争は論理があってはじめて成立する。論理のない安倍政権といくら論争しようとしてもただ虚しいだけだ。
 もはやこれは民主主義的議会ではない。論理が無視される国会はただのセレモニーでしかない。

 さらに繰り返すが安部氏には理念もない。理念というのは何かしらの普遍的な価値観に基づいて普遍的な理想を実現しようとする意志だ。だから理念は何らかの一貫性、何らかの論理を必要とする。それが必ずしも近代合理主義的なものでなかったとしてもだ。
 しかし先に見たように安部氏の論理はことごとく破綻し矛盾しまくっている。その場しのぎでなんとかなればそれでよいという感じがする。とても崇高な理念に殉じようという姿には見えない。

 思想には理念と論理が存在しなければならない。だから安部氏には思想はない。それでは安部氏にあるのは何か。おそらく常人には理解しがたい私的な執念のようなものなのであろう。それは祖父・岸信介の遺訓を継ぎたいということかもしれないし、歴史に名を残したいと言うことかもしれない。日本という国を考えているのではなく、自分のために日本を全地球を支配する最強国にしたいと思っているのである。それはある種の宗教性と呼べるかもしれない。

 いままだ多くの人々は安部氏の無理念・非論理性にはっきり気づいていない。少なくともその意味についてよくわかっていない。それに気づいたときにはもう何もかも手遅れになっていたということにだけはならないよう、気をつけておかねばならない。



自動車事故と脱近代

2014年07月14日 23時46分51秒 | Weblog
 北海道で海水浴から帰る途中の女性4人がひき逃げにあい、3人が死亡、一人が重傷を負った。また埼玉県では女性の乗るバイクがクルマに1.3キロも引きずられこちらも死亡した。どちらもおそらく若い男性の飲酒ひき逃げ事件だろうと言われている。
 しばらく前は東京池袋で脱法ドラッグを吸った男がクルマを暴走させ女性ひとりを殺した。その後各地で脱法ハーブによる交通事故が続き死者が出ている。また大阪では糖尿病の男性が発作を起こしてクルマを暴走させた。
 一方、鳥取ではサッカーのサポーターを乗せたクルマが事故を起こしひとり死亡、3人が重軽傷を負ったというニュースもある。

 マスコミや政府は脱法ドラッグの取り締まり強化とか、運転手に対する罰則の強化などを訴え、また実現してきた。しかしおそらくそんなことで交通事故をなくすことはできない。
 もちろん交通取り締まりやキャンペーンを通じて、かつての交通戦争と言われた時期よりずっと交通事故は減っている。そのことに効果があったことは事実だ。しかし本質的に自動車事故は無くせない。

 ぼくの友人に原発の技術者がいる。その男がもう何十年も前にシステムと安全について教えてくれたことがある。つまり人間が介在する要素の大きなシステムは事故が起きて当然だということだ。人間という要素はとても不安定で信頼性が低いのである。
 つまり鉄道のように軌道があって、そこに侵入物が無いようなシステムなら安全性が高いが、自動車のように運転者の意志で好きなところを走れるようなシステムはそもそも交通システムとしては欠陥があるのである。

 もうひとつ、これは大学の一般教養の法学で習ったことだが、本来的に事業者は利用者を危険にさらしてはならない。しかしそれも例外がある。全ての人が理解し了解している危険は認められる。その代表例が駅のプラットホームである。あれほど危険な場所は無い。何も仕切られていないところに高速で鉄の車両が走り込んでくるのだ。ほんの些細なことでも利用者に命の危険が生じる。だがその危険に対して鉄道会社は保護対策をとらなくても良いのだ、と。
 ぼくはずっとそのことを忘れずにいた。駅のホームに立つたびに思い出していた。しかしそれもついに最近は流れが変わった。ホームの危険は社会が認めうる危険ではなくなったのだ。鉄道会社は多額の出資をしてホームドアをつけなくてはならなくなったのだ。

 昔から自動車は走る凶器と呼ばれてきた。しかしその危険性は社会が受忍すべき危険だった。だがもうこれも是正すべき危険にして良い時なのではないのか。
 明らかにわかっている欠陥交通システムとしての自動車はもう無くすべきなのではないのか。
 自家用車の総量規制を行い、さまざまに多額の課税を行い、一方で公共交通機関を拡充し、鉄道の活用拡大政策を進め、業務用車両の共同利用化を進めていけば、自動車を減らすことは難しくない。もちろん緊急車両や産業用の自動車は必要なだけ残せばよいし、地域的にすぐに自動車を減らせない地域にはそれなりの減税や優遇政策を行えばよい。

 この話題もずっとこのブログで書いていることだが、しかしこうした脱クルマ論に対しては激しい抵抗が存在する。
 ひとつは経済的な立場からの抵抗だ。日本は自動車立国と言われるくらい自動車産業への依存度が高い。自動車が減ることは日本経済を悪化させることにつながる。
 しかし経済が悪くなっても良い、安心で安全な生活環境の方が大事だという思想が生まれて拡散すれば、経済の問題は大きな問題ではなくなる。

 もうひとつは自由という問題だ。自動車は戦後民主主義の象徴である。自分の思い通りに、どこへでも速く快適に行ける自動車は、その人の自由を保証する手段であり、かつ自分自身の肉体の拡張でもある。自動車はその人そのものであり、だから人は自動車の内部空間をパーソナルなシンボルで埋め尽くそうとする。マスコットだったりぬいぐるみだったり、カバーであったり、ステレオやテレビであったり。中にはそれが外側にもにじみ出てしまう痛車もある。

 自動車は自由競争の象徴でもある。かつて鉄道輸送が主体だった時代には、モノが届くのはどの企業でも同じタイミングであった。そこには競争の生まれようがない。鉄道輸送を否定しトラック輸送に切り替えたとたん、モノの届く時間は苛烈な競争の場になった。

 明らかな欠陥のある自動車というシステムは、その意味で資本主義・自由主義・民主主義の象徴である。だから脱クルマ運動は理解されない。
 逆に言えば、脱クルマが実現するとき、それは日本が新しい時代に入る=脱近代を果たすメルクマールになるとも言えよう。


あえて湯山玲子氏を批判する

2014年07月13日 23時27分54秒 | Weblog
 ゴジラが誕生してから60年だそうだ。奇しくも自衛隊の創設と同じだったことになる。今回アメリカで新作のゴジラ映画が制作された。前回のアメリカ版ゴジラは残念ながらゴジラではなかった。フランスの核実験によって巨大化したイグアナがニューヨークを襲うという話で、それを最初に見た日本人漁夫が「あれはゴジラだ」とつぶやいたのでそう呼ばれるようになるという設定だっだ。たぶん漁夫は過去にゴジラ映画を見たことがあったのであろう(と、ぼくは解釈している)。さて今回はどんな映画になっているのだろう。予告編を見る限りけっこう期待大である。

 ゴジラ生誕60年を記念してNHK-BSでゴジラ特集が組まれている。先日「ゴジラ~デジタルリマスター版」が放送された。久しぶりに観た第一作だが、やはりどうみても明らかな反戦・反核映画だった。恐ろしく悲しくどこか哀れで憤りを感じさせる名画だと思う。
 後年いわゆる平成ゴジラ・シリーズを手がけた映画人は、どちらかと言うと「キングコング対ゴジラ」を子供の時に見て衝撃を受けた人が多いらしい。しかしぼくが最初に観たのはたぶんテレビで放送された第一作と第二作だ。小学校の低学年だったろうか。
 「キン・ゴジ」を観たのはずいぶん後だと思う。場末の三本立てだったかもしれない。ぼくは第一作の印象が強くて、どうも「キン・ゴジ」の明るさというか娯楽性の強いゴジラ映画はしっくりこなかった。ウルトラマンとかガメラなら子供っぽくても何の違和感もなかったのに不思議なものである。

 さて話はガラッと変わるのだが…

 少し前の朝日新聞に著述家である湯山玲子氏の談話記事が掲載された。「集団的自衛権を問う」という囲み記事のシリーズのひとつであった。失礼ながら湯山玲子という方については全く知らない。ただどうも、ほぼぼくと同世代の方のようだ。
 記事のタイトルは「あきらめが一番怖い」というもので、この記事の中で湯山氏は次のようなことを語っている。

「3.11を機に多くの人が「政治の季節」を迎えた。私自身もそうです」

(いわゆるオタクについて)「ファンタジーの世界に逃げるから、現実に向き合えない」

(「エヴァンゲリオン」や「永遠の0」は)「ヒロイズムで満載」

「安倍首相は」(宇宙戦艦ヤマトの)「乗組員みたいな心情」で「国を守るヒロイズムに酔っているように見える」

(3.11後に「政治の季節」を迎えた人達は)「かつてのように組織ではなく、個人の判断で集まった」

「日本は「滅私」が美学ですが、それでは自立した政治意識は生まれません」

「「こんなものだ」とあきらめてしまうのが一番怖い」

 もちろん談話記事なので、どこまで湯山氏の真意が正確に伝わっているのかはわからない。それを前提にしたところで、あくまでこの短い文章だけにこだわって感じたことを書いてみたい。

 もしこの文章が20代の若者の意見なら、ぼくは無条件で歓迎しただろう。しかし50代半ばの人にこういうことを言われると違和感を感じざるを得ない。そもそもぼくたちの世代なら1980年代初頭の欧州と日本で巻き起こった巡航ミサイル配備に対する大規模な反対運動を見なかったはずがない。直接経験しなかったとしても安保闘争という言葉を聞いたこともあるはずだ。国旗・国歌法の強権的な施行もあった。国民的に大論争になった自衛隊の海外派兵強行もあった。
 3.11を機に政治に初めて関心を持ったというのは良いことだと思う。しかしそうであるなら、それまでの自分について何かかえりみることは無いのだろうか。現在の事態は突然起こったことではない。ここに至るまでの道のりは段階を追って着実に進められてきたことなのである。そしてそれもここで終わるのではなく、この先に続く戦争への道のひとつの過程でしかない。
 それとも、これまでの日本の政策は問題なく、この集団的自衛権行使容認だけが問題だとでも言うのだろうか。これまでの自分の無関心がこうした事態を悪化させてきたとは少しも考えないのだろうか。

 湯山氏はいわゆるオタクを批判している。「オタクの世界の戦争にリアリティはない」、「ファンタジーの世界に逃げるから、現実に向き合えない」と語る。しかしそれはオタクだけの問題なのか。オタクであろうが無かろうが、多くの人々の無関心が時代を悪化させてきたのであり、この文章で読み取る限り湯山氏もそのひとりだったのではないのか。
 確かにファンタジーに逃げる人はいるだろうが、同じようにクラブやグルメやファッション、映画、音楽など様々な個人的関心事に逃げる人もいるだろう。もし無関心であることを「逃げる」と言うのなら、どれも全く同じ事である。

 ファンタジーにも大きな力がある。冒頭にあげたゴジラはその最たるものではないのか。エヴァンゲリオンでも宇宙戦艦ヤマト(少なくともオリジナルのテレビシリーズに限れば)でも、そのテーマは単純なヒロイズムとか滅私奉公とか戦争賛美でないことは、ちゃんと読み解く力があればわかるはずだ。と言うより、こうした作品をどう解釈するかはその人の心の反映であり、問題は作品自体にあるというより、それを受け取る側にある。
 ぼくは普通に見ればゴジラは反戦・反核映画だと思うけれど、観る人によっては単なるモンスター・パニック・エンターテイメントでしかないかもしれないし(実際アメリカではそう受け止められている)、自衛隊賛美、軍拡必要論と見る人もいるかもしれない。

 これはあくまでこの短い文章だけから分析することだが、湯山氏がこう言うのは、その次に続く問題意識に関連しているかもしれない。つまり「かつてのように組織ではなく、個人の判断で集まった人たち」の声こそが本物で重要だという思想である。
 つまり極論すれば、全体のことを考えて自己犠牲的に戦おうとする人は間違っており、あくまで自分個人のために反抗し戦うことだけが正しいという考え方だ。湯山氏が本当にそう思っているかどうかはしらないが、こうした考え方はずっと大昔から反権力運動、反体制運動の中に存在しており、組織中心主義対個人主義の対立として表出していた。
 湯山氏がエヴァやヤマトに見ているのは、そうした組織や全体に殉じることへの嫌悪感である。もちろんそれはそれでもいい。しかし「滅私」では自立した政治意識が生まれないとしても、自分にしか関心が無い者にも自立した政治意識など生まれようもない。つまり湯山氏が批判する「オタクがファンタジーに逃げる」というのがまさにそのことであろう。

 別に組織中心主義が正しいと言いたいわけではない。ぼく自身が組織というものに対する不信感や反発から組織活動を離脱した人間だ。しかし「自立した個人」がただ個人であるだけでは何ものでもないということに気づかねばならない。
 本来、近代的(もしくは脱近代的)組織は自立した個人が集合し、個人としての自立性を確保しながらも組織的統一性を保持し、困難な目標に向けて団結を崩さず苦しみながら実践活動を遂行していくはずのものだ。それは滅私などということではなく、個人で有りつつ個人を超えたものにならなければならない非常に難しい作業である。
 そうした活動を経験したこともやろうとしたこともない者に、気楽に「個人」などと言ってほしくはない。それはただ単に自分を甘やかし、わかりやすくやりやすいことをちょっとやってみるというだけのことでしかない。
 自立した政治意識というけれど、湯山氏は何からどう自立しようとしているのだろう。湯山氏は本当に自立した政治意識を持っているのか。自立というのはそんなに簡単なものではない。申し訳ないがこの程度のステロタイプの意見に自立性を見つけるのは難しい。
 何かに反対する者にも葛藤がなければならない。自分自身の内なる「賛成派」と内在的に対決し、苦闘の結果として得られた反対の立場でなければ、それは本当に自立した政治意識などとは呼べない。

 湯山氏は「あきらめるな」と言う。
 しかし無関心な者はあきらめてさえいない。考えていないからだ。対決していないからだ。あきらめというのは、何かにぶつかって挫折し絶望するときはじめて経験できることである。
 湯山氏の「あきらめ」はあきらめではない。ただの怠惰であり逃げなのだ。怖いのはあきらめではなく、易き方へ流されていくことなのである。




安倍政権がNHKを恫喝したという

2014年07月12日 20時57分56秒 | Weblog
 週間フライデーが「国谷キャスターは涙した/安倍官邸がNHKを"土下座"させた一部始終」というスクープ記事を掲載した。この記事についてはネット上でも様々なサイトが取り上げている。下はその一つ。

【週刊フライデーが衝撃のスクープ】安倍官邸がNHKを恫喝!NHK側土下座と国谷キャスター涙
http://matome.naver.jp/odai/2140503940426178901


 あれだけの批判を浴びながら堂々と居座る籾井NHK会長。NHKにはどこにも世論が反映する余地はなさそうだ。小泉政権登場で政治がエンターテインメントになるまでは、NHKはそれなりにバランスのとれた番組構成をしていた。というより民放のニュース番組はごく一部を除いてかなり底が浅かったのだ。そのぶんNHKに対する期待や信頼度は高かった。
 おそらくあまり気づいている人はいないだろうが、最近のNHKテレビのニュースは民放報道とかなりニュアンスが違うことがある。ぼくはたまに昼前のテレビ朝日のニュースを見て、すぐにNHKの昼のニュースを見ることがあるが、同じ問題が180度違うニュアンスで伝えられることがままある。メモをとっているわけではないので一々具体的には書けないが、たとえば法人税減税に対する麻生副総理の対応について、テレ朝では財源が確保されなければ反対と言ったと報道したのに、NHKではついに麻生副大臣が法人税減税を容認したとなっていた。他にも同じ発表を否定的な側面から伝えるか肯定的側面から伝えるかという部分でかなり違った印象になっていることがある。

 スクープ記事にある管官房長官の怒りは、おそらく民放だったら起こらなかっただろう。籾井K会長を送り込み、いわば政権にとって安心できる場所を作ったと思って油断していたところへ、突然熱いお茶を飲まされたので激怒したのである。自分は大切なお客としてもてなしてもらうつもりだったのに、という思いがあったのであろう。
 よく比較されることだがイギリスのBBCは権力に対してきわめて辛辣な報道をする。現在の日本人の感覚だとやり過ぎにさえ思える。背景には国家の成り立ちの歴史性の違いもある。もちろん権力の側も強大な強制権限を持っている。しかしやはり民主主義とか権力とマスコミの関係に対する考え方とか、イギリスの方がずっと進んでいると言うか成熟しているのだろう。

 NHKは例の新宿での焼身抗議についても一言も報道していない。英国人作家ジョージ・オーウェルの小説「1984年」はソ連の秘密警察国家政策をカリカチュアした作品だが、そこでは情報操作によって事実がなんだったのか誰にもわからなくなり、歴史の「真実」がどんどん「生産」されていく。まさに存在したはずのことが完全に抹消されてしまうのである。
 不完全で偏向された報道であったとしても報道される限り人々は何かを感じることが出来る。しかしそもそも報道されなかったら、人はそのことが存在したことさえ知らずに終わってしまう。そのことがおそらく最も恐ろしい。

 もちろん我々にはインターネットがある。しかしそれも関心を持って自分で情報を得ようとしなければ何の意味もない。さらに言えば自分で得た情報を自分の中で、誰かの視点ではなくしっかり理解することが出来なければ、それもただ流されるだけになる。自分にとって心地よい情報だけを探していては本質には届かない。全くやっかいで大変なことだ。