あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

選挙をどう捉えるかは、あなた次第

2014年11月30日 10時56分34秒 | Weblog
 衆議院選公示が迫った。争点がないとか、大義がないとか言われている。もちろんそれはその通りだ。時期も年末という最悪の時期である。人々の関心は薄く、投票率はおそらく最低レベルだろう。

 だが、争点がないとは言え問題は山積みである。安倍政権がやっていること、やってきたことの評価を問うという意味なら、ありあまるほどの争点が存在する。
 集団的自衛権行使容認、沖縄基地問題、原発再稼働、原発事故処理、原発輸出、再生可能エネルギー導入、電力自由化、温暖化対策、秘密保護法施行、外交、政治倫理問題、国会議員定数問題、復興政策、TPP、貧困と格差の問題、社会保障、そして財政とアベノミクスの当否などなど。

 しかし問題点が多岐にわたればわたるほど、争点は拡散する。ましてや現状のような自民党分派型小政党の乱立の状況では、小さな差異を拡大して争点化しようとする動きもたくさんある。安倍政権とほとんど同じ立場でありながら、あえてそれより過激なことを主張したがる極右小政党もいくつもある。そうした政党はまさに安倍政権を補完するためのものでしかなく、野党という戦術を使った政権安定戦略だと言えよう。
 一見、多く存在するように見える小政党は目くらましであり、本質的な問題を見えづらくしている。

 そうした中で、まともに現在の政治のあり方を問うような政治勢力は排除され続け、その結果、人々はますます選択肢を失っている。どこに入れても同じ、どこにも入れる先がない、という感覚はますます強くなるばかりだ。
 なぜ選挙がこんなにも不毛になってしまったのか。

 大きな節目はやはり小選挙区制の導入であろう。小選挙区制になって選挙の意味が変わってしまったのだ。
 本来の選挙は、自分の主張に近い代議士を選び、文字通り自分の代わりに議論をさせるためのものだった。ところが人々の価値観が多様化する時代に、小選挙区制は全く逆に、二つの選択肢から一つを選ぶマークシートのような幅の狭いものに劣化させてしまったのだ。
 自分の考えに一番近い候補に投票するのではなく、どのようにしたら自分から一番遠い候補を勝たせずに済むか、という負の選択をすることが求められるようになった。これで有権者のモチベーションが上がるはずがない。
 結局そうなると候補の側も、勝つために無難な(つまりより現状肯定的な、変化の少ない)政策を訴えるようになる。それは有権者の求めるものとは全く逆だけれど、統計論的には最も票を集めることができるからだ。そして候補者はみな代わり映えのしない、同じような政治家ばかりになっていく。

 ぼくたちは実は、選挙に対する意識改革をしなくてはならないのかもしれない。つまり、候補を勝たせるための選挙か、自分の意志を表すための選挙か、考え直す方がよいのかもしれない。
 どのみち、権力者にへばりつくつまらない現状肯定の俗物候補が勝つことが決まっているのなら、選挙を政治家を選ぶ場ではなく、自分の意志を表明する場として位置づけ直しても良いのではないのか。
 残念ながら白票ははっきりと公表されないが、候補別の得票はちゃんと公表される。直接的に政治を変えることにはならないとしても、どういう立場の批判者がどの位いるのかというデモンストレーションにはなる。

 マルクス主義者は昔から選挙で体制は変えられないことを知っていた。しかしそれでも選挙には取り組んだ。選挙を宣伝の場として捉えていたからだ。それは有権者の側にもあてはまる。選挙には勝てなくても数字として自分たちの意志を表し、権力者に見せつけることができる。
 それは即効性はないだろう。しかしそれは街頭デモだって同じことだ。それはそれなりに我々の政治参加のスタイルであり得る。そう考えれば死票などはない。ともかくも今できることが無いのなら、できうる範囲で何かをすることは、なにも無意味なことではないと思う。

政策失敗を民間に押しつける安倍政権

2014年11月28日 18時33分34秒 | Weblog
 バターが不足しているという。
 ぼくもそんなに大量ではないがバターはいろいろ使うので、テレビのニュースでスーパーの棚が空になっているのを見ると、ちょっと不安になる。一応ある程度残り少なくなったら次の分を買っているので、忘れなければ買えるタイミングはあるだろうが。

 西川公也農水相は今日、「社会的な責任として家庭用バターに振り向けてもらえるよう要請していきたい」と、国内メーカーにバターの増産を強く求めた。ふざけていると思う。
 ようするに政策の失敗を民間企業に押しつけようということだ。大企業に大きな社会的責任があることは否定しないが、まさに最も社会的責任を負っているのは政府ではないか。
 そもそもTPPを強行的に進めるなどして、ますますバターの増産をしづらい状況を加速しておきながら、その部分は全くあらためるつもりが無い。安倍無責任内閣が今度の選挙でどれだけ信任されるのか? ぼくは有権者に決断を強く求めたい。


今日のネット署名

2014年11月26日 17時17分52秒 | Weblog
 ぼくは度々インターネット署名をしている。
 どれくらい意味があるのかは分からない。しかし別にたいした負担もないのだから、役に立つか立たぬかはともかく、ネット署名をして悪いこともない。そんな感じで参加した署名運動を紹介している。
 今日賛同した署名は次の署名である。

「集団的自衛権の行使容認に反対」で一致して選挙協力をしてください。

いかなる理由があろうとも戦争はしないでください。話し合いで平和的に解決してください。仲裁に努めてください。


京都事件とアベノミクス

2014年11月25日 22時12分00秒 | Weblog
 京都府向日市で夫を青酸系毒物で殺害したと言われる事件。容疑者の女は過去に多数の夫や交際相手と死別しており、そのたびに多額の遺産を相続してきたと報道されている。その総額数億円になるらしい。
 ところが、この女は現在ほとんど金を持っておらず、逆に多額の借金があるとも言われている。先物取引やFXに投資して失敗したのではないかとされている。
 彼女は犯人かもしれない。しかし同時に被害者でもあるのではないのか。金融資本主義という世界構造的な「詐欺」にあったと言えるのではないのか。

 解散・総選挙でマスコミはアベノミクスが成功したのか失敗したのか、さかんに言い立てているが、歴史的株高で富裕層に大きな恩恵が与えられたのは事実である。笑いが絶えないらしい。ほとんどバブル景気のような感じだ。
 しかしそれは何なのか。彼らが好きな物を買えて贅沢できるということから言えば、彼らは富豪である。しかし彼らはカネ持ちなのだろうか?
 富裕層が儲かっているというのは、金融資産が増えていると言うことだ。別に何をしたわけではない。相場が勝手に上がって彼らの資産は名目的に巨額化しただけである。まさに泡のごときものだ。今の段階ならカネに換えることも出来るし、実体的資産に換えることも出来る。だが、夢のように増えた金融資産は、いつ夢のように消えてしまうかわからない。いったん相場が逆転すれば、彼らの「富裕」は一気に多額の負債による破産に変わってしまうかもしれない。
 富裕層が富裕であるのは事実だが、それはまさにシュレーディンガーの猫のように、存在していると同時に存在していない不確かで不可知なものなのである。そんなものが、本当の富なのだろうか。

 連続殺人犯とされる女の「稼いだ」カネはどこに消えたのか。結局最終的にはこのような富裕層のところに行ったのである。女はその穴埋めを何人もの人の命と引き替えに埋めようとした(のかもしれない)。
 彼女は投資でそのカネをより増やすことが出来ると考えたのかもしれないが、この金融資本主義社会のルールは別に人々に平等の配当を与えるようには出来ていない。個人投資家にはチャンスなど無い。あるのは「儲かるかもしれない」という幻想だけだ。この社会は持っている者がより多く儲けることが出来るように作られている。強い者が圧倒的有利で勝つ仕組みなのだ。
 彼女は勝てるはずのない勝負に誘われ、そして決まり通りに破綻した。彼女もまた被害者だったのではないかという理由である。

 そして彼女が投資市場に捧げた多額のカネを最終的に手にした「富裕層」もまた、その「富」をいつ蒸発させてしまうかしれない。最後の最後に勝つのは、この社会の歪んだルールに従って、世界で最も強い者ただ「ひとり」なのである。
 クックロビンを殺した真犯人は誰か? そのことを考えることは無意味ではない。

国家と国民、非難と責任

2014年11月23日 15時54分04秒 | Weblog
 11月18日、西エルサレムのシナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)を武装したパレスチナ人数名が襲撃し、礼拝に来ていた4人が死亡、8人が負傷したという。アムネスティは「過去6年間にエルサレムで起きた民間人襲撃の中で最悪」として、この襲撃を非難している。
 アムネスティによれば、この数ヶ月、イスラエルではパレスチナ人によるイスラエル人襲撃が多発しているとのことだ。一方でイスラエル人によるパレスチナ人への攻撃も国際法に違反した形で続けられており、アムネスティは双方に対して自制を求めている。

 当ブログでは繰り返し無差別テロを批判してきた。なんであれ非武装の一般人を狙ったテロ攻撃は恐怖政治の行使であり、許されない。
 もちろんパレスチナ人の怒りは理解できる。やられたらやりかえせ、目には目をという等価報復の考え方は分かりやすい。しかし、それでも恐怖によって誰かの行動をコントロールしようとするやり方は、人間文化の腐敗しか招かない。やるべきではないのである。

 おそらく一般化して言えば、問題は自分と他者と国家権力の関係性に対する省察が足りないところにある。
 自分もそして相手側も、まるでその国の国民が国家権力とイコールであるかのように考えてしまう。しかしそれは全くの間違いだ。9.11アメリカ同時多発テロで多数の人々が犠牲になったが、その全ての人がアメリカの侵略行為の加担者だったのか。中にはアメリカの対外戦略に反対していた人、パレスチナやイスラムに対する味方であった人もいたかもしれない。そういう人まで巻き込んで殺しても良いと言う考え方は、カルト的であり、野蛮である。

 これは決してよその国の問題ではない。日本や周辺諸国でもいつも起こっている問題だ。北朝鮮や中国、韓国と日本の間の拉致問題や歴史問題では、しばしば国家の犯罪と国民の責任がごっちゃにされる。
 それは批判する側だけの問題ではなく、批判される側も全く同じ混乱、混同を犯しているから、いつまでたっても本質が整理されないのだ。

 まずもって国家権力に対する非難をその国民への非難にしてはならない。そして非難される国の国民も、それを自分への非難として捉えるのは間違っている。従軍慰安婦問題は、戦前の日本政府や日本軍が批判されているのであって、現代の日本国民が直接的に批判されているわけではないのだ。そのことを冷静に受け止めなければならない。
 批判する側もされる側も国家と国民を安易に同一視してはならない。ナショナリズムを克服する基本はそこにこそある。

 国民と国家は一心同体ではない。しかしここが肝心なところだが、責任は存在する。国家の犯罪は国民の犯罪ではないが、犯罪を犯す国家を見逃すのは国民の責任である。ここの関係がいつも逆転してしまうのだ。
 国家が攻撃されると自分と同一視して怒ったりするのに、自分の国家に対する不満は政治家の責任にしてしまう。それは全く逆である。まずもって国家に瑕疵があるなら、それは(少なくとも民主主義国家を標榜するなら)主権者たる国民の責任だ。
 別にあなたが他国を侵略したわけではない。だからその非難を直接自分のこととして感じる必要はない。しかし侵略を肯定するような政治家を国の代表として置いていることは、あなた自身の責任だ。
 このことを理性的にしっかり整理しておくべきである。

高倉健と全共闘

2014年11月20日 18時17分42秒 | Weblog
 高倉健が死んでいたことが明らかにされた。高倉健について何かを語れと言われれば、多くの人が語るべきことを持っているだろう。もちろんぼくにもある。だからこの文章は決して高倉健を批判するものではない。
 ただ、なぜ高倉健はこんなに誰からも好かれるのだろう。実はそこに「健さん」の秘密があるのではないだろうか。

 ぼくにとっての高倉健はやはりまず第一にヤクザ映画の健さんである。世代的にはヤクザ映画を観た世代ではないが、銭湯の脱衣場にポスターが貼ってあった印象があるのである。もっともポスターと言っても大半は文字だけの三本立ての広告だった。見たことのない人も多いだろうが、赤、黄、黒などの三色刷で縦書きの映画名が三列並んで書かれているだけという安っぽいものだ。邦画はたいていヤクザかポルノか時々まんが、怪獣映画だった。付け足せば三本立て上映作の中には五年以上前の古い映画も多く、その意味でも少しタイムラグがあったのかもしれない。
 そんな中にたまにカラーの封切り用ポスターが貼られることがあって(とは言えやっぱり三本立ての一本だが)、たぶん諸肌脱ぎで「もんもん」を見せる健さんがあったと思う。ちなみに銭湯の中にも「もんもん」の人が結構いた気がする。
 ぼくの高齢の母も高倉健はヤクザ映画だと思っているので「この人の映画は観たことがない」と言っている。ヤクザ映画から「引退」した後も、高倉健のイメージは「寡黙」「不器用」「男」という感じだろう。一般的に大衆に受けるようなものではない。それがなぜ老若男女に愛される大スターになるのだろう。

 こうしたイメージは群れない一匹狼のイメージであり、それはアウトローのイメージに係ってくる。
 マスコミでは高倉健の特集が広がった。本当なら突然の解散総選挙の方が大ニュースだろうが、そちらの方が霞んでいるくらいだ。そうした中で意外なほど触れられているのが全共闘世代のシンボルという側面だ。これも先日少し触れた左翼に関する報道が増えているということと関連があるのかもしれない。
 全共闘などで闘った当時の若者は、義理と人情の中で理不尽な非道に耐えに耐え、最後に怒りを爆発させて超人と化す主人公に、自分を置き換えてヒロイズムに酔ったのだという。そこでは自分を既存社会に対するアウトロー、世界を根底からひっくり返す革命家として自らを投棄する決意を重ね合わせたのだと解説される。

 しかしあえて言うが、彼らは本当にアウトローだったのだろうか。そして健さんもまたアウトローだったのだろうか。
 少なくとも映画で高倉健が演じる主人公は本物のヤクザではない。あくまでヤクザをモチーフにしたファンタジックなヒーロー物語だ。その後の「仁義なき戦い」から始まるニヒリスティックな実録路線の映画とは一線を画している。「仁義なき戦い」の菅原文太や梅宮辰夫もスター俳優ではあるが、高倉健や池辺良とのイメージの違いは明らかだ。蛇足だけれど、1980年代前半にぼくが留置場で一緒になった人達には、実録映画に出ていた俳優の人気がとても高かった。
 東映のヤクザ映画が任侠路線から実録路線へと転換していくのは、70年安保闘争の敗北と終焉の流れに一致する。それはもうひとつついでに言えば日活がロマンポルノ路線に転換していく時期とも一致している。
 高倉健はそのタイミングで東映から離れ「幸せの黄色いハンカチ」「八甲田山」を転機に性格俳優の道に向かうのである。

 全共闘の若者たちはどうなったか。彼らもまたきれいに革命運動から召還し、社会の中核に入っていった。現在日本社会のトップレベルにある政治家や文化人、経営者の中に多くの全共闘メンバー、党派活動家がいることは周知の事実だ。そうした人達の中には運動のリーダー的存在だった人達もいる。
 見ようによっては、高倉健がアウトロー役を脱して最後には文化勲章を得るまでのメジャー中のメジャーに上り詰めたのと、全共闘運動という反体制派から既存社会の中枢を占めるに至った人々とは、大変似たような軌跡を描いているように見える。
 彼らは別にアウトローではなかった。俳優はもちろんそうした役を意図的に演じただけだが、若者もただ流行に乗っただけだったのではないのだろうか。役柄はともかく映画スターは実際には流行の最先端だし、若者の反乱も世界的な「トレンド」だった。そこに乗っかっていくのはアウトローや一匹狼とは正反対のあり方だ。そう考えれば、元党派活動家がその後流行語を生み出して一躍時代の寵児にのし上がったなどというエピソードも別に不思議ではない。

 ぼくや、ぼくの世代の「遅れてきた左翼」は全く流行には乗っていなかった。社会的な支持も薄く本当にアウトローのようだった。というより今でもぼくはアウトローなのかもしれない。勝新太郎のようにメジャーなアウトローもいるが、我々はマイナーなアウトローであり、全く何も良いことがない。
 でもそれこそが本物なんじゃないのかな、などと小声でつぶやいてみたりして…


民主主義なのか?

2014年11月18日 22時37分20秒 | Weblog
 安倍首相は、21日の衆議院解散、消費税の増額の一年半延期を宣言した。再延期はしないと断言している。
 何だかよくわからない。
 消費税を上げるとデフレから脱却できないという説明は分かる。逆に言えば現状もインフレ基調になっていないということを認めたのであり、何もしなければ常にデフレに向かう状況だと言うことだ。デフレが良いか悪いかについては置いておくとしても、この一点においては安倍氏の発言は整合性がある。

 しかしそれなら、なぜ一年半後には上げられるのか? なぜ再延期はしないなどと断言するのか。つまり一年半後にはインフレ基調になっていることがわかる予知能力を持っているのか、それともその時はもうデフレに戻っても仕方がないという意味か? ようするにただの政治的なその場しのぎ発言でしかない。
 もっと分からないのは、それを問うのに解散・総選挙を行うという論理だ。再増税の延期は法律的にも根拠があり、しかも増税を止めるというのではなく、一年半後には必ずやると言っているのだ。「重い重い決断」というが何一つ政策は変わっていない。いったいその何を国民に問うているのか、おそらく誰にもわからないだろう。

 マスコミは「なんとか解散」というキャッチフレーズを付けたがる。ぼくが名付けるなら「お子ちゃま安倍のわがまま解散」だ。
 安倍氏は民主主義を理解していないし、そもそも民主主義的であろうとする姿勢も持っていない。彼が知っているのは力を握れば何をやっても良いという単純な力の論理だけだ。

 安倍氏はこの経済状況を突きつけられてもアベノミクスは成功していると言い張る。マスコミはこぞって失敗ではないのかと言っている。事実上、安倍氏の主張は少数派の主張である。
 今日が最終日だった消費税増税の有識者会議の結論も無視した。自分が自分の都合の良いように集めた委員による結論なのに。しかもこの結論は消費税を8%に上げたときと同じである。その時はこの結論を根拠にしたのに、今回は投げ捨てた。どこにも整合性がない。
 原発や秘密保護法に対するパブリックコメントも完全に無視された。
 一票の格差に対する裁判所の判断もずっと置き去りにされたままだ。これは安倍政権だけの問題ではないが、選挙の得票率にしたって、実際の得票比率から言ったら、民意は決して自民党を一人勝ちさせたわけではない。小選挙区制のマジックで勝っているだけだ。
 沖縄の民意も無視しようとしている。翁長次期知事が辺野古埋め立てを認めない姿勢を示していることに対して、菅官房長官は「法治国家」として粛々と進めると発言した。法治国家が聞いて呆れる。憲法の解釈は勝手に自分の都合の良いように変更しているのに、どこが「法治」なんだか。

 一方で原発の再稼働については、地元の「判断」に全面的にゆだねた。本当に自分勝手。自分の都合の良いときには世論や民意に寄りかかるが、いったん自分の都合に悪くなると権力者の専権事項として全て押し切る。
 そしてそれを少し厳しく追及されると、公の国会の場で切れる。これが「お子ちゃまのわがまま」以外の何なのか。

 こういう日本の「民主主義」がいかに歪んで、奇妙なものか、ちょっと視点を外側に移して冷静に見てみれば、よくわかるはずだ。しかし、ぼくたちはなんとなく、こんなものかと思ってしまう。知らず知らずのうちに教育され、慣らされてきているのである。
 確かに意見の多い答えが正解であるとは限らない。もちろんそこに政治家の存在意義がある。いつでも民意と一致する政治が出来るわけではないと思う。
 しかしそうだからこそ、人々がそれでも納得できるルール、システムが無ければならない。本来ならそれが選挙と国会であるはずなのだが、今のようなやり方は自分の有利になるようにルールを次々変えていくようなものであり、人を納得させるものとは真反対になってしまっている。
 ここまで政治が腐るまでには長い長い時間がかかってきた。それを急に一気に変えることは(それこそ革命でも起こさない限り)無理な話だ。今回の選挙だけで何かが変わることはないだろう。しかしここからでも、少しずつでもこの奇妙な政治を変えていこうとすること、それが大事だと思う。

悪いことと良いこと(個人的なことをだらだらと)

2014年11月17日 21時48分44秒 | Weblog
 GDPの実質年率がマイナス1.6パーセントだったという発表で衝撃が走っている。おそらく安倍総理のところには事前に情報が入っていたのだろう。この一週間で一気に衆議院解散の動きが既定路線になったのは、この悪いサプライズを政権に有利に転換するための実によく考えられた戦術だったのだ。
 このままなら当然のことながらアベノミクスの失敗がクローズアップされ、しかたなく消費税増税を先延ばしするという「追い込まれた」感じになってしまうところを、先手を打って主体的・積極的に増税を延期し、あえてその「民意を問う」というイメージを作ったのは素晴らしいとさえ思える奇手である。
 そもそも増税は誰も好まない。しかもこの数値なら財務省と麻生氏も増税延期に反対できない。政権にとっては確かにこのタイミング以外無い。
 沖縄知事選では沖縄の人々は、沖縄への加重な基地負担はカネには換えられないという知性的、理性的な判断を示した。さて我々は今回の総選挙で、安倍さんのイメージ操作に惑わされず、正しい判断が出来るかどうか(もちろん選択肢としての野党勢力もまた、まともな政党が全くと言って良いほど無いわけだが)、問われていると言えよう。

 さて、安倍さんにとってGDP値は悪いニュースであったが、それを逆手にとって「災い転じて福」という状況を無理矢理作ろうとしている。そんな大きな話とは真逆に、非常に個人的なことだけれど、ぼくもこの一週間は悪いことと良いことに揺れた。

 ぼくは普段、食事の支度をするとき、火傷をすることはあっても包丁で手を切ることは滅多にない。ところがどういうわけか先週は二回も指を切ってしまった。最初は小カブを切っていたとき、抑えていた左の薬指をサクッと切った。いつもやっていることなので気を抜いていたのである。ぼくは切れない包丁が嫌いなので包丁の切れ味が悪くなると自分で研ぐ。そのおかげで包丁の先も良く切れるということだけはわかった。
 これはけっこう深いと思ったが、血は流れるのに全く痛くない。ともかくとりあえず傷バンと紙テープを固めにぐるぐる巻きして、その上からラップをかけ、止血と防水をしながら夕食を作った。

 傷が治りきらないその二日後、今度はやはりカブの皮をむいていて左手の親指を切った。これは切って当然で、手でカブを持ちながらその手の方に向かって包丁を入れたのだ。普通ならこんな切り方をしないのだが、ちょっとイライラしていて乱暴にやっていたのである。刃が滑って親指の真ん中あたりにぶつかった。今度は血はさほど出ないがかなり痛い。イライラしていることもあって、とりあえずいい加減に絆創膏を貼ってそのまま家事を続けた。
 薬指は丁寧に養生したのできれいに治ったが、親指はいい加減に対処したせいか未だに傷が残っている。
 イライラは翌日にも残り、母のことを怒鳴ったりして、なんだか歯車が噛み合わない感じがずっとしていた。そんなわけでブログも書けなかったのかもしれない。

 ところで、先日のブログにも書いたのだが、ぼくは今ひとつのテーマとして自分なりにマルクス主義を勉強し直している。とりわけ一番難しいのは「宗教」の問題である。
 そこにはやはりレーニン主義の問題があるのではないかという気がしてきた。そもそものマルクスの近代主義がエンゲルスによって俗物化し、レーニンによってそれが決定的に増幅され、世界にさらに劣化しながら拡大した。「宗教」問題もそれと連動している問題だと思う。近代主義の限界を近代思想内部から考えるためのアプローチの方向性として、今はヒュームの経験論に注目しているのだが、たとえばレーニンは『唯物論と認識批判論』などで認識論を否定しているようだ。
 また、もちろんマルクスを考えるときに経済学は絶対にはずせないが、その時は宇野弘蔵を足がかりにするしかない。ただ近現代思想には近代経済学の理論が強く入り込んでいるので、近経も常識程度は知らないといけない。

 というようなことを考えていて、とりあえず本は持っていないと仕方ないと思えてきて、ここのところ本を買っている。マクロ経済学、ミクロ経済学、ヒューム、ハーバーマス、マルクーゼ、サンデル、レーニン、宇野弘蔵など、原典ではなく概説書・入門書のようなものも含んでいるが、とても読み切れないがとりあえず買っている。
 とは言え、おカネは無いのでとても新刊は買えない。ブックオフの100円コーナーとか、アマゾンの中古「1円」本などが主である。

 その「1円」で買った本の一冊が宇野弘蔵の『恐慌論』(1953年/岩波書店)である。もちろんいろいろな版があるし、今は新刊なら岩波文庫で手に入るが、とにかくお金をかけたくないので一番安い古本を注文した。ところがこれがサプライズだった!
 今日届いた本を見て驚いた。初版である。しかしサプライズはそこではない。見返しに宇野先生直筆の献呈辞があったのである。もう家宝ものだ。まさか宇野先生の直筆文字を手にとって見られるとは。献辞の相手は「横山正彦様」とあるから、おそらく当時同じ東大で助教授をしていたマルクス経済学者の横山正彦氏であろう。

 本当は乱暴に扱ってもいいかなと思って買った本だが、これでちょっとこの本を読むのに気をつかわなくてはならなくなった。それでも、これがぼくのこの一週間で一番良かった出来事である。
 ただひとつ、最近は漢字の旧字を読むことが無かったので、実は本文がすごく読みづらい。うーん…これは文庫版を買い直した方がよいのだろうか?

左翼に関する報道が増えているような

2014年11月14日 11時54分13秒 | Weblog
 なんとなくだが何かがほんの少し変わってきたような感じがする。
 昨日の京都大学への120人の武装機動隊を使った家宅捜査が大きく報道されている。ついでにというか、その前日の東京の前進社への捜索も映像付きで放送された。ぼくが組織活動家だった頃は、別に珍しい光景でもなかったが、とりあえず中核派には良い宣伝になった形だ。
 前の記事で無視されていると書いた焼身抗議の続発もベトナム反戦運動を思い起こさせる。その上、総理大臣が自ら革マル派がどうのこうのと発言している。もちろん反原発、反集団的自衛権の官邸包囲デモも60年安保闘争以来の大爆発を見せた。
 実を言えばノーベル平和賞を受賞するマララ・ユスフザイ氏も第四インター系、つまりトロツキスト系の活動家であるようだ。
 もちろんそんなに単純な話ではないだろうが、歴史の必然として右翼が台頭するときには左翼も躍進する。先進国の極右とイスラム系極右であるイスラム原理主義が激しく対立する中で、中道・中間主義的勢力が没落し、下層の庶民が自分たちの思いを託すべき行き先を見つけられなくなってしまった。そこには当然左翼の登場が望まれるはずだ。
 もちろんマスコミは本質的に体制を守り維持する役割を持っているから、本当の意味での反体制である左翼を肯定するような論調には絶対にならない。しかしたとえ批判的、否定的に報道されるとしても、そもそも左翼の動きについて報道せざるを得ないということが、こうした背景の存在を示している。
 ただ残念ながら今の左翼、マルクス主義者は自分たちの思想に真摯な反省を加えていない。なぜ自分たちが没落したのか、どうすれば再び人々にマルクス主義を承認してもらえるか、そうしたことを本気で考えなければ、左翼が現代世界の人々の苦しみを担うことは出来ないだろう。
 それは実は切実で喫緊の課題であると思う。

報道されない焼身抗議

2014年11月13日 18時53分24秒 | Weblog
 福島県警捜査二課の警部補が自殺をしていたというニュースが詳細に報道されている。同課では今年に入ってパワハラ問題や捜査費の盗難事件が起きていて、すでに二人の警察官が自殺している。
 かたやほとんどマスコミから無視されている自殺がある。昨日の日比谷公園での焼身自殺だ。
 この事件については未だに第一報以外の情報が何も出て来ない。ほとんど報道されていない。しかしこれが安倍政権の集団的自衛権行使容認や米軍の辺野古移転への抗議自殺であることははっきりしている。
 マスコミは自殺報道に慎重だ。プライバシー侵害や連鎖自殺が起きるのを恐れているからだが、しかし冒頭に紹介したように社会的意味の大きな事件の場合は、ちゃんと報道している。今回の自殺はまさに国家権力に対峙する実力闘争である。報道すべき十分な理由がある。
 すでに集団的自衛権行使容認への焼身抗議は二件目である。しかもそれはどちらも東京の真ん中で起きている。百歩譲っても首都圏中枢で火を放っているのである。治安問題としても重大問題だろう。それにも関わらずなぜマスコミは報道しないのか。
 このままでは自殺した人はまさに犬死にである。抗議の意思を表明したいのに、それがマスコミによって抹殺されるのだ。もちろん本人もそれはわかっていただろう。しかしそれでもやらなくてはならなかったのだと思う。
 こんな風に事件が消し去られていくとなると、これはもう中国や北朝鮮並みの報道管制、情報統制と言わざるを得なくなる。そうなれば、もっともっとやらなくてはならないと思う人達によって、今後こうした抗議はますます増えるだろうし、過激化していくだろう。

単純だけれど難しいこと

2014年11月12日 23時54分53秒 | Weblog
 解散総選挙はもう既定事実のようだ。「野党」は選挙協力が間に合わないとか、いろいろ愚痴が出ているが、どのみち思想的、本質的に自民党と対決しうる野党は社・共しかないわけで、そんな「ゆ党」がいかに選挙戦術で頭を悩ませようが、一般の人にとってはたいした問題ではない。おそらくこのままで行けば投票率は低くくなるだろう。まあそれが与党の狙い目ではあるのだが。

 こういう与党の思惑で、自分たちに都合の良い選挙で権力を握るというやり方を民主主義と言って良いものかどうか、釈然としない。
 日本の「お手本」であるアメリカ合衆国の先般の中間選挙では露骨に共和党有利の制度が導入されていたという。前回の大統領選挙の頃から、とりわけ共和党知事の州で導入された「有権者ID法」が、民主党支持基盤である大量の「弱者」から投票権を奪ったと言われている。これはようするに写真入りの身分証明書を持たない人の投票権を認めないという法律で、たとえば自動車免許を取得できない貧困層や移民、高齢者にとって非常に不利になっているそうだ。
 また、アメリカでは政治資金の上限に規制が無く、個人献金が建前であるため、出所のよく分からないカネが大量に候補者に集まってくる。そしてその多額の資金が、いわゆるネガティブキャンペーンに使われているのが実情だ。日本の選挙も相当にひどいと思うが、アメリカの選挙はそれ以上にぐちゃぐちゃらしいのだ。
 これが民主主義なのだろうか。中国はあからさまに権力者優位の形式的選挙をやっているが、陰湿な金と権力によってコントロールされる選挙で、堂々と権力を握る日本や米国の選挙がそれよりどれほど公正なのか、疑問に思わざるを得ない。

 真面目に投票しようと思っても、選ぶべき候補がいない。誰を選んでもたいした違いはない。確かにそうだ。それで投票率が下がる。結果的に現在の権力者に都合の良い結果となる。なんだか理不尽な話だ。
 しかし、ひとつには日本の選挙制度がそういう風に出来ているのも現実である。たとえば国会議員に立候補する場合、供託金は300万必要だ。その上にポスターやビラの費用がかかる。宣伝カーや事務所を借りるとなればそれにもお金がかかる。選挙運動員は原則的に無償ボランティアでなくてはならないが、それを集めるのも非常に大変だ。だが、実際の政治家が使っているカネはそんなものではない。こんな風に表に出る以外にかかるカネが莫大なのである。
 ただ表向きの、合法的にかかるカネだけでも大変なものだ。そのへんの若者がこの社会を変えようと思って選挙に出ようとしても、供託金とポスター、ビラの代金すら捻出するのは容易ではない。
 もちろん供託金制度にそれなりの根拠があることはわかるけれど、カネと組織ではなく、熱意と能力によって政治家が選ばれる制度がなければ、民主主義という極めてデリケートな政治体制は簡単に腐敗するだろう。
 新しい選挙の仕組みが本当に必要なのである。

 マスコミ評論家たちは、民衆の政治家不信をテコにして、こんな無能で自分の利益ばかり追求する政治家はいらない、政治家の数を減らせと叫ぶ。しかし本当のことを言えば、政治家の数を減らすより、良質な政治家を増やすことを考えた方がずっと建設的だ。
 評論家は訳知り顔に政治のコストが高いと指摘するが、本質的にはそこが問題ではないはずだ。本質的には政治家の質を高めることこそが課題なのである。もちろん政治家の数を単純に減らせば質が高まるなどということにはならない。
 もちろん政治家が一般の生活者よりはるかに高い報酬を得られるというのは問題だが、だからと言って別にコストが安ければ何でもよいわけではない。そこのところを間違えないようにするべきだ。

 一番の問題は、有権者がわざわざ「ろくでなし」を選ぶところにこそある。
 なぜなのか? もちろんそれは簡単に騙されるからだ。本心でない、やる気もやり様もないことを、いかにもやります、やれますと言う候補者に騙されるのである。しかしそれにしても、なぜ騙されるか?
 それは「騙されたいから」である。

 有権者は自分にとって一番都合の良いことを求める。そして候補者は、有権者が喜びそうな耳当たりの良い甘い言葉を言い立てる。本当は嘘かもしれない。しかし有権者はその言葉に抗うことが出来ない。
 つまり有権者が政治の問題を、ただ自分の利益の問題として考えるから、社会全体の問題として、人類の歴史の問題として考えないから、どんなに嘘くさいことであっても、自分にとって都合の良い甘い言葉にすがり、騙されてしまうのである。

 日本において普通選挙が始まって90年、民主主義選挙が始まって70年が経とうとしている。人ひとりの一生分の期間が経過した。それでもなお、なぜ未だにちゃんとした選挙が出来ないのか。このような低次元の選挙が横行しているのか。
 それはそういう風に教育されているからだとも言えよう。選挙の意味を権力者はちゃんと国民に教えていない。その意味とは、一般の人々=人民が主権者だということである。
 なぜ有権者が候補者から「お願い」されねばならないのか。本来なら有権者が政治家に自分の代弁をすることを命じるべきなのである。政治家は文字通り我々の代わりの代議士であるはずだ。

 なぜか政治家はエライ人で、民衆はただの人ということになっている。政治家は威張って権力を欲しいままにし、庶民はただその支配に従うだけだ。これは民主主義ではない。そのくせ選挙の時だけは、政治家は候補者として有権者に平身低頭の「お願い」をする。いったい彼らは何を「お願い」しているのか。自分が支配者として有権者の上に君臨する権利を与えてくれるよう「お願い」しているのだろうか。それこそ悪い冗談である。
 とは言え、我々はこの社会の主権者が実のところ我々ではないことに気づいている。自分は誰かに支配されているのだと、うすうす感づいているはずだ。それは絶対に民主主義ではない。自分の意志が社会の中で代弁されない民主主義などあり得ないのだから。

 ここに書いたことは単純な話である。ただ民主主義の原則について書いただけだ
 だがそうは言っても、このことは現実の社会では大変に難しい問題であり、多くの人が受け入れない内容である。それはなぜか。
 それは自分を否定しなくてはならないからだ。現状の社会は、いくらひどい社会、不満の鬱積した社会であるとしても、それは人民=民衆=有権者が、その場その場で自分にとって一番有利、一番都合の良い方向性を求めた結果としてある。「ろくでなし」の指導者を選んでしまったのは、それがその時、自分にとって一番都合の良いことを言っていたからだ。
 政治の問題を、ただ自分の利益の問題としてのみ考え、社会全体の問題、人類の歴史の問題として考えることが出来ないから、永遠に「ろくでなし」を自分の代弁者に選んでしまうのである。
 それを脱するためには自己否定しなくてはならない。誰かに対して(もくしは世界全体に対して)譲歩しなくてはならない。それはつまり自分自身との闘いである。

 だから、単純だけれど難しいのである。

くだらない解散

2014年11月11日 23時42分22秒 | Weblog
 来週にも衆議院の解散があるという。なんだかなあと思う。
 ようするに安倍内閣は改造でミソをつけた。これから先、世論を無視して進めなくてはならない政策が山積みだ。だから傷が浅いうちに選挙で「信任」をとった形を作って、政権基盤を安定化させておこうと言うことだ。
 自民党内では勝てる自身のある人たちは歓迎しているし(自分の権力をより強化できる)、負けそうな気配の人は反対している。

 何のための国会であり、誰のための代議士なのか。これほど有権者がバカにされているというのに、有権者の側はまるで自分の問題ではないかのように、政治家が悪い、国会がくだらない、政治家同士の足の引っ張り合いにはうんざりすると、まさにアノ人たちが望むような無関心な「バカ」になりきっている。

 政治に期待できないなどと、どの口が言うのか。まさにダメな政治を生んできたのは自分たちだという反省はひとかけらもない。醜悪な政治家が自分自身の姿の写し絵だとはみじんも思っていない。
 選びたい候補が出てこないのではない。自分たちでそうした候補を排除し抹殺してきたのだ。真面目にこれまでの我々のあり方を見直そうとする良質な人々を、自分たちの目先の利益、欲望に合致しないからと言って、政治から追っ払ってしまったのだ。
 自分たちで資源を取り尽くし、汚染を垂れ流し、それで地球環境が悪化したと文句を言うのと同じである。反省すべきは政治家ではなく、あなた自身なのだ。

 全くくだらない選挙だが、その選挙でくだらない選択をするなら、ますます世界はくだらない世界になっていく。その責任は自分自身にあるということを肝に銘じておくべきだ。


米民主党はなぜ大敗したか

2014年11月09日 23時23分48秒 | Weblog
 米国の中間選挙で民主党は歴史的敗北を喫した。原因はオバマ大統領の不人気だという。融和主義的、社会福祉的な政策を掲げるオバマ氏だが、本来そこで恩恵を受けるヒスパニックや下層の有権者も投票を棄権した人が多かったという。それは当初オバマ氏が公約したことが現実には実現されず、失望感が広がっているためらしい。
 既視感がある。日本の民主党政権の瓦解と同じ臭いがする。これはいったい何なのか。

 オバマ氏も日本の民主党も、掲げた理念は、反大企業、反富裕層、格差是正、下層の救済を期待させるものだった。しかし実際には保守派に徹底的に押し込まれる形で、そうした政策がすべて中途半端になり、換骨奪胎されてしまった。その結果、本来の支持層は失望と絶望に陥った。もちろんだからと言って、そもそも大企業や富裕層はこうした政策を前提的に否定しているわけで、そうした勢力から支持を受けられるわけでもない。結局、誰からも支持されないまま大敗北せざるを得なくなったのである。
 もはや中途半端な政策は存在する余地がないのだと言うしかない。中道的立場はしだいに居場所を失っている。公明党が中道の立場をかなぐり捨てて、自公連立にしがみついているのも、そうした流れの中での必死の生き残り策であると見ることが出来る。しかしこの流れが変わらなければ、公明党自身が極右化しない限り、現在乱立している極右小政党にその座を追われることになるかもしれない。安倍政権が改造するまではそれはかなり現実味のある話だった。

 それではなぜ中間主義的、中道的政策は居場所を失ったのか。それは社会が二極化を強めたためだ。
 今や一国内的にも、世界的にも中間層はますます無くなり、富裕層と貧困層へはっきり分かれようとしている。世界の多くの政治家が口にする中流階級の育成というのは、事実上、中流層を上流と下流に切り離す政策であると言ってよい。彼らの言う中流階級とは上流の中の比較的下層という意味でしかない。中流階級は激しい選抜戦、蹴落とし構造の中で、生き残ればリッチ、一つ失敗したらホームレスにという過酷な状況に置かれている。

 もちろん二極化は今に始まったわけではない。資本主義は本質的に二極化する性質を生まれ持ってきている。しかしかつては「自由競争」の中で、その立場性は流動的になり、成功者はやがて没落し、下層からトップに勝ち上がるということも頻繁に起こり得た。今でも「ベンチャー企業」としてそうしたファンタジーが語られるが、それは社会の表層のごくごく一部の話で、宝くじで一等を当てたというのと同じレベルのファンタジーでしかない。
 もちろん大企業の没落も起こらないわけではないが、それは結局また別の大企業を肥え太らせることになるだけで、下層の人々のチャンスが増えるわけでは決してない。

 世界の富の量が変わっているわけではないのに、大資本はより多くの利益を上げなければ没落してしまう。だから富の流れはますます下から上に流れるしかない。格差は拡大し続けるしかない。強い者ほど競争力が高まるという面白くもない原則が貫かれる限り、「普通」のままで状況が変わる可能性はない。

 しかし社会階層が二極化するからと言って、政治思想が二極化すると単純に言えないのが、現代世界の不幸である。片方があまりにも強すぎて、人々の思想の中では「グローバリズム」の一人勝ち状態だ。かつてはマルクス主義、社会主義というオルタナティブの思想が一定の勢力を持っていたのだが、左翼が自滅する中で、現状では腐敗した末期的資本主義思想に対抗する思想はどこにもない。そのはけ口が、まさにイスラム国として出現したのである。
 現代の下層の人々の前に示されている選択肢は、グローバリズムを掲げる強大な権力に屈服してその奴隷に甘んじるか、前時代的理不尽を押し通すイスラム原理主義に身を投じるかという、どこにも救いのない二者択一なのである。
 われわれの上に覆い被さる重苦しさは、このように現実の生活自体は二極化の苦しみの中にあるのに、それを表現しうる思想的選択肢を奪われていることに起因するのだと思う。

 それは、はっきり言えば、われわれ自身が近代の呪縛から逃れられないからである。われわれは、どう言おうと近代の子供であって、その身に染みついた近代を洗い落とすことなど出来ない。そして近代というものを純化していけば、結局、競争によって強い者が勝つというきわめてシンプルな原則を否定できず、だから現代社会を本質的に否定できなくなるのである。
 われわれ自身が近代=資本主義=現在の社会=今のワタクシを否定し、乗り越えない限り、この苦しい時代は続かざるを得ない。

自治体も責任を負うべきだ

2014年11月08日 00時00分55秒 | Weblog
 鹿児島県知事が川内原発の再稼働に同意した。
 まあそれはもはや既定路線だったから驚きはしないが、その無責任さにはあきれるしかない。いったい事故が起きたとき鹿児島県はどのような責任をとるのだろうか。知事はなぜか他人事だ。「政府が責任を取ると言っている」だって。自分には何の責任もないという言い方だ。どうして政治家がこんな無責任な言い方が出来るのか。常識的に考えたら口先だけであっても「安全を守ります、安心してお任せください」くらいは言うだろう。住民の安全を保証できない首長が政治を信託されるはずがない。けっきょく鹿児島県自身は十分な避難計画も作るつもりがないらしい。
 それは薩摩川内市の市長も同じだ。県議会も市議会も、確かに同意するのはそれぞれの見識だが、そうであるなら、それに見合う責任は取ってもらいたい。

 どうしてこういう無責任なことになるのかと言えば、やはり政治家を選ぶ有権者が無責任だからだろう。政治家は有権者の写し鏡でしかない。
 確かに3.11前なら、まだ原発の安全神話は生きていたかもしれない。しかし目の前でこれだけの災害が起きていて、いまだに何一つ解決していないのに、それでも原発を選択する以上、もう今までと同じであってはいけないのではないのか。
 やはり地元の人々、有権者にも責任をとってもらうシステムにするべきだ。原発に賛成した自治体は被害を受けた周辺自治体や住民に、国とともに補償する義務を課すべきだ。先日、菅官房長官は30キロ圏内の自治体の合意は必要ないと明言している。いよいよ責任は立地自治体にかかってきた。メリットを受けようとするなら、そのリスクも負うのが当然であろう。
 また事故が起きたときは、発生した核のゴミを、原発受け入れに賛成した自治体に強制的に中間保存させるルールにしなければならない。

 リスクを受け入れればよいと言うものではないが、最低限そのくらいのルールは作らなければ、誰も納得しないだろう。

また政治家が自虐的な発言

2014年11月07日 18時11分40秒 | Weblog
 なんで右翼はこうも自虐的なのか。

 9条をノーベル賞に「笑えぬ冗談」 次世代の党・西野氏

 日本が評価されるのがそんなに嫌なのか。
 日本が国際的に高評価を受けたのは戦後のことである。それが意味しているのは日本が戦前の日本と決別したと判断されたからだ。それはもう戦争をしない国、平和な国になると宣言し、それが評価されたからだ。そしてその象徴が現憲法、とりわけ第九条である。
 この人はそういうあまりにも当たり前の歴史的事実を学んでこなかったのか。
 この人の言葉はもはや冗談にもならない。