衆議院選公示が迫った。争点がないとか、大義がないとか言われている。もちろんそれはその通りだ。時期も年末という最悪の時期である。人々の関心は薄く、投票率はおそらく最低レベルだろう。
だが、争点がないとは言え問題は山積みである。安倍政権がやっていること、やってきたことの評価を問うという意味なら、ありあまるほどの争点が存在する。
集団的自衛権行使容認、沖縄基地問題、原発再稼働、原発事故処理、原発輸出、再生可能エネルギー導入、電力自由化、温暖化対策、秘密保護法施行、外交、政治倫理問題、国会議員定数問題、復興政策、TPP、貧困と格差の問題、社会保障、そして財政とアベノミクスの当否などなど。
しかし問題点が多岐にわたればわたるほど、争点は拡散する。ましてや現状のような自民党分派型小政党の乱立の状況では、小さな差異を拡大して争点化しようとする動きもたくさんある。安倍政権とほとんど同じ立場でありながら、あえてそれより過激なことを主張したがる極右小政党もいくつもある。そうした政党はまさに安倍政権を補完するためのものでしかなく、野党という戦術を使った政権安定戦略だと言えよう。
一見、多く存在するように見える小政党は目くらましであり、本質的な問題を見えづらくしている。
そうした中で、まともに現在の政治のあり方を問うような政治勢力は排除され続け、その結果、人々はますます選択肢を失っている。どこに入れても同じ、どこにも入れる先がない、という感覚はますます強くなるばかりだ。
なぜ選挙がこんなにも不毛になってしまったのか。
大きな節目はやはり小選挙区制の導入であろう。小選挙区制になって選挙の意味が変わってしまったのだ。
本来の選挙は、自分の主張に近い代議士を選び、文字通り自分の代わりに議論をさせるためのものだった。ところが人々の価値観が多様化する時代に、小選挙区制は全く逆に、二つの選択肢から一つを選ぶマークシートのような幅の狭いものに劣化させてしまったのだ。
自分の考えに一番近い候補に投票するのではなく、どのようにしたら自分から一番遠い候補を勝たせずに済むか、という負の選択をすることが求められるようになった。これで有権者のモチベーションが上がるはずがない。
結局そうなると候補の側も、勝つために無難な(つまりより現状肯定的な、変化の少ない)政策を訴えるようになる。それは有権者の求めるものとは全く逆だけれど、統計論的には最も票を集めることができるからだ。そして候補者はみな代わり映えのしない、同じような政治家ばかりになっていく。
ぼくたちは実は、選挙に対する意識改革をしなくてはならないのかもしれない。つまり、候補を勝たせるための選挙か、自分の意志を表すための選挙か、考え直す方がよいのかもしれない。
どのみち、権力者にへばりつくつまらない現状肯定の俗物候補が勝つことが決まっているのなら、選挙を政治家を選ぶ場ではなく、自分の意志を表明する場として位置づけ直しても良いのではないのか。
残念ながら白票ははっきりと公表されないが、候補別の得票はちゃんと公表される。直接的に政治を変えることにはならないとしても、どういう立場の批判者がどの位いるのかというデモンストレーションにはなる。
マルクス主義者は昔から選挙で体制は変えられないことを知っていた。しかしそれでも選挙には取り組んだ。選挙を宣伝の場として捉えていたからだ。それは有権者の側にもあてはまる。選挙には勝てなくても数字として自分たちの意志を表し、権力者に見せつけることができる。
それは即効性はないだろう。しかしそれは街頭デモだって同じことだ。それはそれなりに我々の政治参加のスタイルであり得る。そう考えれば死票などはない。ともかくも今できることが無いのなら、できうる範囲で何かをすることは、なにも無意味なことではないと思う。
だが、争点がないとは言え問題は山積みである。安倍政権がやっていること、やってきたことの評価を問うという意味なら、ありあまるほどの争点が存在する。
集団的自衛権行使容認、沖縄基地問題、原発再稼働、原発事故処理、原発輸出、再生可能エネルギー導入、電力自由化、温暖化対策、秘密保護法施行、外交、政治倫理問題、国会議員定数問題、復興政策、TPP、貧困と格差の問題、社会保障、そして財政とアベノミクスの当否などなど。
しかし問題点が多岐にわたればわたるほど、争点は拡散する。ましてや現状のような自民党分派型小政党の乱立の状況では、小さな差異を拡大して争点化しようとする動きもたくさんある。安倍政権とほとんど同じ立場でありながら、あえてそれより過激なことを主張したがる極右小政党もいくつもある。そうした政党はまさに安倍政権を補完するためのものでしかなく、野党という戦術を使った政権安定戦略だと言えよう。
一見、多く存在するように見える小政党は目くらましであり、本質的な問題を見えづらくしている。
そうした中で、まともに現在の政治のあり方を問うような政治勢力は排除され続け、その結果、人々はますます選択肢を失っている。どこに入れても同じ、どこにも入れる先がない、という感覚はますます強くなるばかりだ。
なぜ選挙がこんなにも不毛になってしまったのか。
大きな節目はやはり小選挙区制の導入であろう。小選挙区制になって選挙の意味が変わってしまったのだ。
本来の選挙は、自分の主張に近い代議士を選び、文字通り自分の代わりに議論をさせるためのものだった。ところが人々の価値観が多様化する時代に、小選挙区制は全く逆に、二つの選択肢から一つを選ぶマークシートのような幅の狭いものに劣化させてしまったのだ。
自分の考えに一番近い候補に投票するのではなく、どのようにしたら自分から一番遠い候補を勝たせずに済むか、という負の選択をすることが求められるようになった。これで有権者のモチベーションが上がるはずがない。
結局そうなると候補の側も、勝つために無難な(つまりより現状肯定的な、変化の少ない)政策を訴えるようになる。それは有権者の求めるものとは全く逆だけれど、統計論的には最も票を集めることができるからだ。そして候補者はみな代わり映えのしない、同じような政治家ばかりになっていく。
ぼくたちは実は、選挙に対する意識改革をしなくてはならないのかもしれない。つまり、候補を勝たせるための選挙か、自分の意志を表すための選挙か、考え直す方がよいのかもしれない。
どのみち、権力者にへばりつくつまらない現状肯定の俗物候補が勝つことが決まっているのなら、選挙を政治家を選ぶ場ではなく、自分の意志を表明する場として位置づけ直しても良いのではないのか。
残念ながら白票ははっきりと公表されないが、候補別の得票はちゃんと公表される。直接的に政治を変えることにはならないとしても、どういう立場の批判者がどの位いるのかというデモンストレーションにはなる。
マルクス主義者は昔から選挙で体制は変えられないことを知っていた。しかしそれでも選挙には取り組んだ。選挙を宣伝の場として捉えていたからだ。それは有権者の側にもあてはまる。選挙には勝てなくても数字として自分たちの意志を表し、権力者に見せつけることができる。
それは即効性はないだろう。しかしそれは街頭デモだって同じことだ。それはそれなりに我々の政治参加のスタイルであり得る。そう考えれば死票などはない。ともかくも今できることが無いのなら、できうる範囲で何かをすることは、なにも無意味なことではないと思う。