あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

景気なんかどうでもよい

2014年10月31日 23時42分22秒 | Weblog
 今日も毎度同じことを繰り返して書く。もう聞き(読み?)飽きたという方にはあらかじめお詫びしておく。

 日銀の黒田総裁が「異次元の金融緩和」の続きを発表した。「黒田バズーカ2」と表現しているメディアもある。ようするに市場に出回るオカネの量を20~30パーセント増量して、政府発行の国債をほぼ全部買い取るという政策だ。市場では株高、円安が進行した。
 日銀の思惑は現在失点が続く安倍政権への援護射撃ではないかと言われている。つまり景気浮揚策を打って今年中と言われている消費税増額の決断を後押ししようとしていると言うのだ。黒田氏は「物価上昇率2%を確実にするため」と説明した。

 だが景気浮揚と言うが、いったい景気とは何だろう。結局のところそれは数字でしかない。物価が上がればそれは確かにインフレだ。株価が上がれば景気が良いと言うことになる。しかしそれはただ数字の上のことでしかない。
 何度も指摘してきたが、われわれは数字の上で景気が良いと言われているときに、自分たちの生活が良くなった実感があっただろうか。ぼくの実感としては80年代のバブル経済期と、いわゆる高度経済成長期に部分的に感じたことがあるだけだ。高度経済成長期はむしろ激しいインフレで常に生活が苦しかったという印象の方が強いくらいだ。

 円安によって輸出によって儲ける巨大企業は業績を上げるだろう。株価が上がればなおさらだ。そして景気動向はそうした「富者」「強者」の利益の動向を主な基準にして計られる。しかし実際の大多数のただの庶民は、株を大量に持っているわけではないし、輸出もしていない。日本の多くの人が働いている中小企業は円安によって逆に原料価格が上がって経営が苦しくなる。
 一般労働者の賃金は平均で計っても仕方ない。少なくとも標準偏差で考えるべきだし、貧困層の割合で考えるなどのやり方をしないと、本当の国民の実感というものはわからない。

 われわれが刷り込まれている常識を疑わねばならない。景気が良くなれば自分たちの暮らしが良くなるなどということは、現実の問題として全く無い。そのことを見据えよう。
 今回の日銀や政府の政策を批判して、マスコミはいわゆるアベノミクス第三の矢が無い、つまり構造改革が遅れていると指摘する。しかし安倍政権の現在までの経済政策も、また「第三の矢待望論」も、そのどちらも、われわれには関係ないと言うことに気づくべきだ。政治家や評論家やマスコミの「景気が良くなればうまくいく」というファンタジーに惑わされてはいけない。

 1970年代に「反合闘争」というのがあった。反合理化闘争の意味である。企業や役所が様々な機械化、合理化を行うことに労働組合が反対していた。それに対して企業・政府・資本家たちは、合理化によって労働者の負担が軽減すると主張した。もちろんそんなことは一切無かった。労働者は逆に機械やシステムに使われるようになって労働は強化された。職場から人間性が奪われた。最悪の場合はリストラされた。
 「合理化すれば労働者の負担が減る」という論理は一見して正しい。しかし問題なのは、その論理が通るのは、企業・資本家の取り分が変化しない場合だけだということだ。合理化を利用して企業・資本家がさらに儲けようとした場合には、そのしわよせは労働者の側に来る。
 そんな時代を経て、やがて時代は能力主義、成果主義、リストラの時代に急激に移っていく。終身雇用制は失われ、労働者の身分は不安定化し、非正規雇用は普通になった。企業自身も長期的利益を求めていると経営者は追放されるようになり、短期的利益を獲得することだけが目的となった。

 数字は実態を表さない。論理は前提が違っていたら、ただの言い訳、ただの隠れ蓑にしかならない。
 第三の矢に期待していたら、われわれはさらに窮地に追い込まれるだけだ。景気などくそくらえ! われわれに必要なのは好景気ではなく格差の是正であり、平等である。
 もちろん経済が成長すること自体が悪いことなのではない。しかしもう人類は十分成長している。今はその成果を皆が共有する時だ。そして無理な成長を画策して環境を破壊し全てを失うような愚挙ももういいかげん止めるべき時だ。
 誰かの「常識」にコントロールされることを拒絶して、まともに、素直に世界を見てみよう。そこにしか未来へ向かう扉はない。


朝日の記者のレベル

2014年10月30日 16時14分18秒 | Weblog
 ぼくがマスコミ嫌いだと言うことは何度も書いてきた。そしてマスコミの記者、新聞記者のレベルが実は我々の想像以上に低いという体験に触れたこともあったはずだ。(「国益が本当に一番大事なのか」)
 次のブログ記事に書かれている朝日新聞の記者の話などは、そうした実相がよく現れていると思う。

News & letters 澤山保太郎の室戸・東洋市民新聞
http://sawayama.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-65b9.html
http://sawayama.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-c277.html


もうちょっと考えてみよう

2014年10月29日 09時56分43秒 | Weblog
 (元?)厚生労働省医系技官の木村盛世氏が、エボラ出血熱についてテレビなどで積極的に発言している。この方の意見は国家主義的、強権主義的なところがあって賛同できないところもあるのだが、今回ひとつもっともだと思ったのは、なぜ政府が能動的に広報しないのかという批判である。
 木村氏は、今回の事態は「国家の危機」であり、政府は国民がホームページなどを読みに来るのを待つのではなく、テレビコマーシャルなどをどんどん使って、エボラ出血熱がどんな病気で、どのように感染し、どのような対策をすればよいのか積極的に国民に伝えるべきだと言う。
 「国家の危機」という表現はともかく、全くその通りだと思う。

 考えてみれば、国政政党は選挙になるとゴールデンタイムにドカドカとテレビCMを流す。財布が違うと言われればそれまでだが、あんなものを流すカネがあるなら、今回のような場合に使った方がずっと意味がある。
 テレビ局も、たとえばしばらく前に、盲導犬が電車内で傷つけられたり、盲学校の生徒が駅構内で蹴られた事件があったとき、番組内で盲導犬や白杖、点字ブロックなどについて、どのように接したらよいか、どんな注意をするべきかなど、いろいろやっていたが、ああいうのも短くインパクトのあるCMを作って流したら良かったのではなかったのか。
 自局の番宣CMを減らしてでも、そういうものをやるのがまさに「公共放送」ではないのか。もちろん一番そういう工夫をすべきなのはNHKなのだが。
 本来そうしたCMの社会的・公共的活用の先頭に立つべきなのはACだと思うのだが、なんとなく説教臭い、道徳教育っぽい、具体性のないイメージ先行のものが多いような気がする。

 日本には優秀なCMクリエイターが沢山いるのだし、短くて面白くてインパクトがあり、社会的・公共的に具体的有用性のあるテレビCMを作って、たくさん流せばよい。政党助成金を減らしてでもそうしたところにカネをまわし、公共CMはCM枠から外して流しやすいようにするとか、少し考えればいくらでも出来る余地があると思う。

ちょっと落ち着いて考えてみよう

2014年10月28日 22時10分50秒 | Weblog
 もちろんぼくは反自民党、反安倍政権だから、宮沢経産大臣が批判されても別に不快ではない。政治資金の使い方や東電株保有の問題など批判されて当然だ。
 だが、前にも書いたとおり、それは「SMバー」がいかがわしいとか、悪いとか言うことではない。9月に東京都渋谷区が購入した保養施設がアダルトビデオの撮影に使われていたとして区議が訴訟を起こしたということもあったが、不正があったのならそれは問題だろうが、AVが悪いというのは、ちょっとおかしな話だと思う。もちろんSMやポルノが嫌いだという人はいるだろう。しかしそれを押しつけられているわけではない、別に見たくなければ見なくてよい立場の人が、一般論として公的な問題にするのは、どうも違和感がある。
 同じように違和感を感じることは、他にもある。たとえば捕鯨問題だ。いったいどれだけの人がクジラを食べているのだろう。クジラを食べないではいられないという人がどれほどいるのか。もちろんそういう人を批判するつもりはない。だが事実上、鯨肉はありあまっている。おそらく沿岸捕鯨だけでもそんなに困ることはないだろう。それなのに、なぜ普段クジラを食べていないだろう人達が、捕鯨、捕鯨とこだわるのか。
 なんとなく良識、なんとなく常識と思っているようなことを、ちょっとだけ落ち着いて、その根拠を自分のうちに聞いてみる。そういうことが必要だと思うのである。

「のりこえねっと」の声明への疑問

2014年10月27日 00時00分55秒 | Weblog
 普通ならこんなことは記事には書かないで放っておくのだが、当ブログ・サイトからもリンクを張っているので、一言触れておきたい。「のりこえねっと」による先日の橋下大阪市長と桜井在特会会長との「会談」を巡る声明についてである。

大阪でのヘイトスピーチ対策に関して

 「のりこえねっと」の声明では「人種差別・ヘイトスピーチ対策を検討するにあたっては、被差別当事者であるマイノリティが受けている深刻な被害の実態調査や、行政と被差別当事者との間での意見交換こそ求められている。/ 私たちは、橋下市長がヘイトスピーチ対策に関しての被害当事者との市長面談を、現在に至っても行っていないことをきわめて遺憾におもう」とこの問題に対する大変妥当な見解が示されている。ぼくもこれこそがこの問題の核心だと思う。

 ところがこの宣言の初めの方に書かれていることには同意できないし、正直言って失望した。

「この会談はおよそ「議論」の体をなしていなかったが、そのことを私たちはまったく問題としない」
(ヘイトスピーチは)「表現の自由の範疇に属するものではなく、相互に意見を交換して「議論」するべきものではない」
「ヘイトスピーチへの対抗言論を平穏にかつ効果的になすことは不可能に等しい」

 としてヘイト団体との議論の可能性を全面否定し、

「橋下市長から、桜井誠に対し、「おまえみたいな差別主義者は大阪にはいらない」「民族をひとくくりにして語るな」等、在特会の主張が差別にあたることが明言された」
「ヘイトスピーチを「やめろ」という正義の言明がなされたことを歓迎する」
「橋下市長の口調が穏当と呼べるものではなかったということに関しても、私たちは問題としない」

 と、橋下氏を全面的に肯定している。

 確かにヘイト団体との議論は不可能に近い。だからたとえば橋下氏が町中で突然ヘイト団体から話しかけられたのだったら、こうした評価は正しいと思うが、問題なのは、この会談を設定したのはそもそも橋下氏自身だったという点である。
 これについて「のりこえねっと」も、

「行政の長による人種差別・ヘイトスピーチ禁止の宣言が、レイシズム団体の長を大阪市役所内に招いて行われる必要はまったくない」

 と述べているが、しかしこの「会談」を「行政の長による人種差別・ヘイトスピーチ禁止の宣言」の場であると評価している点は納得しがたい。これはおそろしい誤解というか、むしろねつ造だ。わざわざ桜井会長を招いて彼の持論を詰めかけたマスコミの前で主張させたのは、むしろヘイトスピーチを公の場で宣伝することに力を貸したとさえ言える。橋下氏はいつでもどこでも自由に「人種差別・ヘイトスピーチ禁止の宣言」の場を選べるのだから、ここにはそんなこととは全然違う目的があったと言うしかないのだ。
 それはマスコミでも一般のネット・ユーザーでも、みんなが見抜いているのに、あえて「のりこえねっと」がこのような評価をするのは何故なのか。

 それはつまり、ヘイトスピーチとナショナリズムを切り離そうという意図があるとしか考えられないのである。桜井会長のヘイトスピーチは許されないが、橋下氏のナショナリズムは良いということにしたいのではないのか。
 当然のことだが、ヘイトスピーチはレイシズムと切り離すことが出来ず、レイシズムはナショナリズムと切り離すことが出来ない。これらの根は一緒のところにある。だからこそ在特会の桜井会長は「会談」の席で執拗に、

「ヘイトスピーチについておうかがいできます?」
「朝鮮人を批判することがいけないって、あなたは言ってるわけ?」
(参政権のない在日に言ってもしかたがないと言う橋下氏に対して)「その参政権を求めてるだろ彼らは」
「特別永住制度なくしたらどうなるかわかるだろ」
「おまえも日本人の代表だったら少しくらい言えよ、韓国人に」
「なんで差別主義者なんだ、教えてくれるか?」
「韓国人がみんな差別主義者か答えろよ」

 などと、橋下氏のナショナリズム観を問うているのだ。桜井氏は本質的な部分で橋下氏が桜井氏の問うナショナリズムを否定することが出来ないことを知っている。そして事実、橋下氏はこうした桜井氏の質問に対して何一つ反論をしていないのである。橋下氏が言い得たのは「個人を特定して言え」(特定したら良いのか?)、「国会議員に言え」(自分が国会政党の党首であるにも関わらず!)、「選挙に出ろ」、「施設管理権は大阪市長にある」くらいのことだ。
 橋下氏は「朝鮮人を批判することがいけないのか」と問われたとき、はっきりと「いけない」と言うべきだった。なぜなら、いかなる問題であっても批判の対象にされるのは政治であり、民族であってはならないからだ。それを橋下氏は言い切ることが出来なかった。そこに橋下氏の思想がはっきりとあぶり出されている。

 「のりこえねっと」の声明は、この「会談」の翌日に橋下氏が「特別扱いというのは、逆に差別を生む」「ヘイトスピーチ対策として、特別永住資格の見直しを考える」と発言したことに対して、「特別永住資格は何ら「特権」ではない。したがって、ヘイトスピーチ対策と在日韓国・朝鮮人の特別永住資格とには何の関係もない」と当然の批判をしている。だが「のりこえねっと」はここでも(橋本市長は)「結果的に差別主義者たちの悪質なデマを助長した」と寛容である。どう聞いても橋下氏と桜井氏の発想は同じではないか。なぜそのことを批判しきれないのか。どうしても「のりこえねっと」はヘイトスピーチはナショナリズムのせいではない、ナショナリズムとヘイトスピーチは違うと言いたいのではないのか。
 こうなってくると、「のりこえねっと」がヘイトスピーカーとの議論は不可能だと言っている意味そのものにも疑念を抱かざるを得なくなってくる。すなわち理性的な会話が成り立たないのではなく、対等に議論したら相手の論理に同意せざるを得ないから議論できないという意味なのではないのかとさえ、思えてしまうのだ。

 問題を本質的に、自分たち日本人のナショナリズムの問題として自らの痛みを伴って切開できないとしたら、「のりこえねっと」は「結果的に」ヘイトスピーチを表面的に覆い隠すだけの、イチジクの葉でしかなくなるかもしれない。そのことを、ぼくは危惧する。

イスラム国を目指す人々(2)~川原栄峰「ニヒリズム」を参考にして

2014年10月26日 00時00分26秒 | Weblog
 イスラム国渡航希望者の北大生が私戦予備罪で事情聴取されたりした事件。さらにフリーカメラマンが同行しようとしていたなどの短い続報はあるものの、今になってもほとんど詳細が報道されない。結局は「大山鳴動して鼠一匹」ということなのではないのか。私戦予備罪を本当に適用したら有名人を含めて多くの人を摘発しなくてはならなくなるからなのか。移り気で忘れっぽいマスコミは毎日新しい「ネタ」を追いかけるから、ぼくたちもついつい色々なことを忘れてしまいがちになる。

 問題になった北大の学生はフリージャーナリストの常岡浩介氏のインタビューに答えて次のようなことを語っていた。

「社会的な地位とか社会的なものにあまり価値を感じられなくなったという、ただ、それだけのことです」
「僕は今日本の中で流通しているフィクションというものにすごく嫌な気持ちを抱いていて、向こう(シリア)のフィクションの中に行けばまた違う発見があるのかなと、まあ、それぐらいですね」
「日本に生きてても、1、2年の間にたぶん自殺したと思うんで。まあ、1年と2年、戦場で死ぬか日本で死ぬかが違うだけ」
(シリアの政治、戦争については)「ニュースで追いかけていたくらいの知識」
高世仁の「諸悪莫作」日記/2014-10-08 北大生は違ったフィクションに生きたかった

 また今回の事件で「発見」された鵜澤佳史氏。彼は今回の事件とは全く別に昨年シリアに入り、自由シリア軍に近い組織で戦闘員をしていたという。戦闘で大けがを負って帰国した。もうシリアに行くつもりはないと言う。
 彼は次のような発言をしている。

「小学校の時に、いじめに遭いまして。生と死の極限状況に身を置けば、自分が生きる意味が違った視点から見られるかなと」
鵜澤佳史氏『イスラム過激派に参加』の言い分は? 5分でチェック
「生活には満足していたが、もう一歩突き抜けたいという思いがあった。政治や思想的な信条は全くなく、死と隣り合わせの戦士になれば見えるものがあると思った」
毎日新聞 2014年10月09日/シリア戦闘:元自衛官が参加「政治・思想的信念なし」

 あるテレビのコメンテーターは「なぜ豊かな現代の日本にこういう人物が出てくるのか」と疑問形で発言していたが、これは為にする質問である。こういうタイプの人は別にいま急に出現したわけではない。むしろ普通にいると言える。コメンテーターの発言は、それをあえて特殊な人物として際立たせようという意図の「なぜ」である。

──人生何のために生きているんでしょうか?
──ばか、そんなこと考える暇があったら、ピアノを習うとか絵をかくとか、外国語をうんと勉強するとかスポーツで汗を流すとかなんとかしてみろ。
──でも、何をしても無駄なように思うんです。
──そんならおれにそんなことを尋ねるのも無駄なはずじゃないか。ふざけんな!

 これは川原栄峰氏が1977年に出した「ニヒリズム」(講談社現代新書)という本の冒頭に紹介されている学生同士の会話である。40年近く前の学生も今回のシリア渡航希望者と同じようなことを言っているではないか。これらの人々はようするにニヒリストと呼ばれるタイプの人なのである。そうであればニヒリストはもっと以前、どのように概念規定するかにもよるが一般的に言えば、19世紀の終わりにはすでに存在していた。ちなみにこの本の中で川原氏は、70年代の爆弾闘争を敢行した人々のこともニヒリストであると規定している。

 少し話が脱線するが、この「ニヒリズム」という本は好著である。素人がニヒリズムについて少しちゃんと勉強したいというのにはぴったりだと思う。ただし新書という性格から通俗的なたとえで分かりやすくしようとしているのだが、今の人には「ビート族」とか「昭和40年代の若者」というような比喩はかえって分かりづらいかもしれない。またこの本のクライマックスはハイデガーのニーチェ批判だが、ここは流石に難解で、結局ぼくは匙を投げた。
 もう一つ言えば、川原氏の結論は「暇」と「退屈」がニヒリズムを生むということなのだが、これは少し乱暴な言い方でそのままでは納得しがたい。もちろん哲学的な脈略での「暇」という言い方なのだろうが、やはりこれには少し気楽というかのんきな印象がある。おそらくそこには時代的制約があったと思う。この本が書かれた当時はいわば人類が最も幸福な時代であった。日本も高度経済成長の余力を持ち、すぐそこにバブル時代が控えていた。少なくとも日本人にとっては最も豊かさに包まれ、余裕ある幸福を感じられた時代だったのである。だから「暇」「退屈」という言葉は違和感がなかったのだろう。
 今現在の状況から言えば、これはむしろ「無為な時間」「無意味な時間」と言い換えるべきではないかと思う。いそがしい時にも人はものを考える。具体的に何かをやっていたとしても空虚で退屈な思いを持つ人も多いだろう。問題なのはその人の「時間」が自分にとって無意味であり、意味のある結論に結びつかないということにある。

 ニヒリズムとはニヒル(何もない)のイズムであり、あらゆる価値観、あらゆる意味を否定する思想だ。日本では世の中をすねている人というイメージが強いが、西欧思想史的に言うと破壊主義的な意味合いが強いようだ。ロシア革命以前のロシアのアナキストのテロリズムも、しばしばニヒリズムと呼ばれている。その意味ではニヒリストがテロ集団に引きつけられるのも不思議ではないが、それで強引に現状の全てを説明してしまえるわけでもない。
 川原氏のハイデガーを基礎とした哲学的なニヒリズム解釈は、西欧思想の全てをニヒリズムとして捉えるという膨大かつ難解な話になってしまうのでひとまず置くとして、一応ここでは、自分と自分が所属する世界における全ての価値観を疑うようになり自分の内部が空虚になってしまうことをニヒリズムであると措定してみよう。
 「社会的な地位とか社会的なものにあまり価値を感じられなくなった」、「(日本でもシリアでも社会は)フィクション」、「政治や思想的な信条は全くな(い)」というようなシリア渡航希望者の言葉はそういう「気分」を端的に示している。

 川原氏はもう一点、ニーチェを仲介してニヒリズムと「(ロシア文学的な)余計者」とに強い連関性があることを示唆している。川原氏によれば、余計者はすなわち暇人であり「退屈男」であり、それがニヒリズムの「共通公分母」=一般的共通点であると言う。余計者というのははみ出し者であり、社会から拒絶された者、もしくは社会を拒絶した者とも言える。別の言い方をすればその人の所属する世界を形作る構造の中で多数派に入れなかった(もしくは入らなかった)者である。
 問題の北大生は就職活動に失敗したと言っているし、鵜澤氏は子供の頃にイジメに遭い、その後に入った自衛隊学校でも違和感を感じたと述べている。世界中でイスラム国に参加する割合が高いと思われているのは移民の二世、三世だが、彼らも自分の生まれ育った社会の中で、それにも関わらず永遠の異邦人として疎外感をつのらせている。そうした人々が「暇人」「退屈男」であるかどうかは分からないが、少なくとも社会的「余計者」(と少なくとも自分では思っている)ではありそうだ。北大生のシリア渡航の橋渡し役をしたと言われている中田考氏によれば、今回の事件の事実上の「首謀者」である「大司教」や北大生は高機能広汎性発達障害があり、いわゆるコミュニケーション障害であるという。まさに社会に拒否され社会を拒否する人達である。

 川原氏がニヒリストを「暇人」とか「退屈男」と言うのは、ニヒリストには一般的に教養があるからでもある。必ずしも正しい見解だとは思わないが、少なくとも少し昔の認識では教養は金持ちで余裕がある人のものと思われていた。極論だが逆に言えば貧乏で忙しく働く者には教養がない(=ニヒリストにはなれない)という意味なのであろう。
 ぼくはそれは疑わしいと思うが、それはともかく、現在イスラム国を目指す人の中に多くの中流階級で高等教育を受けた人が含まれているのは事実らしい。日本のイスラム国渡航希望者にも高い教養を見て取れる。鵜沢氏はフェイスブックに次のような書き込みをしていたという。

「相手はテロリストだ」と敵を作って需要を生み出し、/「今やらなければやられる」と人の恐怖心を煽りたてて衝動に駆らせ、/「国のために戦う君はヒーローだ」と自尊心をくすぐるようなブランディングをする。/そして、今まで売れなかった高価な武器がドンドン売れるようになる。/ビジネスと戦争って類似点ばかりだけれども、冷静に見れば「戦争」って、人の心理を見事に活かしたマーケティングそのものだよなぁってふと思った。
ホンマでっか!?ウソでっか?CH/鵜沢佳史氏の経歴や出身大学!シリアから帰国後の現在は?Facebookから見えるもの

 まさに現実を鋭く見破っている。そして同時にどこにも正義を見いだしていない、つまりどこにも価値を認めないニヒリスト的な見方でもある。
 問題なのは、ここまで冷徹に現実を見つめる目を持っていながら、なぜあえて建前でしかない嘘の論理を掲げる陣営に、しかも自分の命を賭けて参加しようとするのかということである。全ての価値を認めないニヒリストが、なぜ原理主義者の中に入り込もうとするのだろうか。

 当然彼らの中にイスラムへの本当の信仰などあるはずがない。入信は形だけのものである。彼らが自由シリア軍やイスラム国を選択したのは、それが流行っているからでしかないのではないかと、ぼくは疑っている。
 ニヒリストはあらゆる価値観、それは善悪を判断する価値観も含めて、全ての価値観を捨て去っており、彼の内部は空洞である。空洞は何かによって埋められねばならない。しかしそこに何か別の一般的な価値観が入り込むなら、彼はすでにニヒリストではない。
 それでは彼は何によって空洞を埋めるのか。それは風、もしくは空気、具体的にはその時の流行なのではないだろうか。形や固さを持った社会の構造物としての価値観ではなく、ただ流動的にその場を流れる形も重さも無い気体のような「価値観」。しかもそれはただ空気のような価値観であるだけではなく、彼が疎外された社会の構造を担う多数派の代わりに、流れ去る一過性のしかしそれでも一瞬は多数派であるところの「流行」、かりそめの多数派側価値観なのではないだろうか。
 とは言え、流行という風が必ずしも空気的であり続けるとは限らない。ある人の内部においては、それが長いこと留まり、やがて固形化していき、価値観として定着していく場合もあるだろう。そうなればその人はやはりニヒリストではなくなる。ある時にはそれは、より古い価値観であるかもしれないが。

 ぼくはニヒリストだからと言って誰もがテロリストになるわけではないと思う。特に日本のニヒリストは一神教の強固な価値観に固められた社会に生きているわけではないので、常識的価値観を否定したからと言って必ずしも暴力的に既存の価値観を破壊する必要がない。そう言う人々はアニメとかフィギュアとかコスプレとかに、もっと「普通」ならクルマとかファッションとかで自分の内なる空隙を埋めているのではないだろうか。
 もちろん「オタク」が皆ニヒリストであるというような話をしたいわけではない。どの人がニヒリストでどのひとがそうではないかなど、表面的に見分けがつくはずがない。そもそも本人自身にだって分からないかもしれない。あくまでニヒリストは流行を追いかけやすい傾向があるのではないかという話である。
 その意味で今回の事件のキーマンである「大司教」がサブカル系の古書店関係者であるというのは示唆的だ。渡航希望者の中には明らかな軍事オタクもいたという。だいたいからして今回の事件はイスラム国のリクルート組織があるというような実体的な話ではなく、いわゆる「ネット事件」に分類されうる問題である。ネットを使ったらオタクだなどとは言うつもりはないが、しかしネットとサブカル、オタク文化などは一般的に親和性が高い感じがする。

 おそらく現代社会にはニヒリストが多い。先進国には「暇人」ニヒリストが大量にいるだろうし、発展途上国にも「無意味な時間」しか与えられない絶望型のニヒリストがいるだろう。理解しておかねばならないことは、ニヒリストは決して特別・特殊な存在ではないということだ。ごく当たり前にいるごく普通の人だと言うことだ。
 もう一つ言えば、ニヒリストがテロリズムを生んでいるわけではない。テロリズムがニヒリストを取り込むのだ。イスラム国の中心にいるのはニヒリストではない。原理主義者という名の「自己中」だ。
 ニヒリズムやニヒリストをどう評価したらよいか、ぼくにはまだよく分からない。それは時代の必然なのかもしれない。ただなんであれ、最終的にはわれわれは何らかの価値観を持たなくては生きていけないし(「1、2年の間にたぶん自殺した」という北大生の言葉は示唆的である)、社会を形成していくことも出来ない。それも流行ではなく固く重さを持った価値観を持たなくてはならない。少なくともニヒリストの言い分に共感できる点、正しく思える視点があるとしても、それがトータルとして最終的な答えにはなり得ないと思う。
 ニヒリズムがなぜ生まれるのかを考えることも必要だが、なぜニヒリストの空隙にわれわれの社会の側の価値観が入り込めないのかも考えるべきだ。見ようによってはニヒリストはいわゆる「新しい皮袋」である。そこには「古い酒」は入れられない。「新しい皮袋」に入れる「新しい酒」が未だに醸し出されていないのが最大の問題だと、ぼくは思う。

政治家とカネ、そして忘れてはならないこと

2014年10月25日 00時00分38秒 | Weblog
 小渕優子前経産大臣の疑惑報道が止まらない。
大臣を辞任した後も、売却後の家に母親が家賃なしで住んでいた問題とか、日用品を日常的に政治資金から購入していたのではないかという話が出ている。政治資金報告書の責任者は名義貸しで、実質上の作成者であったと名乗り出た群馬県中之条町の町長が辞職した。
 小渕氏は来週にも辞職するという報道もあるが、いずれにしても刑事事件に発展するのは必至で、最低数年間は死に体ということになるのではないだろうか。何もかも知り尽くした狸親父である小沢一郎氏が、全てを秘書の責任にしてしっぽを出さず、刑事被告人となってもなお権勢を誇ったのとは対照的である。何も知らないお嬢様というか、「政治屋」としてはズブの素人だったと言える。

 さてその小渕氏の後任である宮沢洋一氏も、小渕氏、松島みどり氏叩きの勢いで、早くも政治資金からSMバーの利用代金を支出していたとして追及された。この流れでなければ、たぶん笑い話でいなされていたようなネタだったろうが。本人はその日の「アリバイ」まで示して、自分は行っていない、地元の「秘書のような者」が情報交換で使ったと釈明し、「大変情けない話で、私自身も、本当に怒り心頭という気持ち」と述べた。
 まず、別にSMバーというもの自体が悪いわけではない。マスコミは面白がってそこをセンセーショナルに取り上げているが、本質的に言えばいわゆる料亭政治となんら変わらない。むしろ金額は一万八千円程度で可愛いものである。果たして大物政治家はあの料亭の費用を全部自腹で払っているのだろうか? それこそ庶民の感覚からはとうてい考えられない贅沢である。
 SMバーという珍しさから、実際は地元の秘書たちが自分たちで楽しんだのだろうと言っているテレビ・コメンテーターもいるが、それは甘すぎる認識だと思う。それくらいならさほど罪のない話だが、もしかしたらこれも支援者への接待=買収であった可能性がある。そうなると公職選挙法違反だ。さらに一般的に政治関係者が使わないであろうSMバーということから、うがって考えればかなり秘密性の高い打ち合わせに使ったのかもしれない。もしかしたら汚職などの大変な不正が絡むかもしれないのだ。国会議員クラスの政治家をあまり甘く見ない方がよい。

 こうした問題の根のひとつは、政治家が事業家であるということだ。共産党や社民党などは少ないかもしれないが、保守政治家の多くが本職として実業家の面を持っている。そうした人達の中には政治は自分の事業の多角化の一環という感覚もあるのではないのか。それは言い過ぎだとしても、事業で培われたノウハウやテクニック、倫理感などが政治活動に反映していることはあるだろう。
 政治はカネだと言われるが、カネを作るのも使うのも政治活動だという感覚は普通にあると思う。小渕氏が「一般企業では普通だ」という意味のことを記者会見で発言したのは示唆的である。日本は資本主義社会だからそれは当然と言えば当然である。事業家はより多く稼ぎ、より節約し、基本的に支出はより多くの収入を得るための投資でなければならない。
 実はこれは市民運動などでも同じだ。市民運動でも経営者感覚を持ったリーダーが賞賛される。その典型はNPO法人だろう。おそらく多くのNPO法人で「経営努力」の名目の下、様々なごまかしが横行しているはずだ。政治資金もNPOの経理も、指摘されるまでは「合法」であり賢いテクニックとして世間的には承認されているのである。それこそが政治にはびこる不正の温床そのものなのである。
 それを問題だと思うのであれば、やはり資本主義というシステムそのものを取り替えていかなくてはならないのだと思う。

 ただ、今そのことよりも、もっと注意しておくべきことがある。
 マスコミも政界も政治とカネの問題、閣僚の資質問題に目を奪われている。しかしそのこと自体が実はひとつの目くらましなのかもしれないということである。
 今臨時国会で本当に問題にし、追及されるべきなのは集団的自衛権行使の問題であり、日米ガイドラインの問題であり、秘密法の問題であり、沖縄基地問題、原発再稼働、事故処理問題、労働者派遣法の問題であったはずだ。さらには消費税再増税、薬物取締問題、拉致問題など議論せねばならない切迫した問題もたくさんある。
 政治家のスキャンダルに振り回されている間に、こうした問題が突っ込んだ議論もなく採決されたり、先送りされたりすることになることを、ぼくたちは最も警戒しておく必要がある。なにしろ現状の安倍政権はどれほど支持率を落とそうと、国会内では圧倒的な力を持っているのであり、押し通そうとしさえすればどんなことでも押し通せるのだ。
 このことだけは忘れてはならない。

カナダ乱射事件を自分のこととする

2014年10月24日 00時00分42秒 | Weblog
 カナダ・オタワの国会議事堂内外で銃の乱射事件が起きた。カナダ議会がイスラム国に対する空爆に参加する決定をしたこと、ノーベル平和賞のマララ・ユスフザイ氏がカナダ名誉市民受賞式に参加するためにオタワに滞在していたことなど、背景については色々言われている。
 射殺された実行者は当局に事前にマークされており、シリアに渡航しようとしたがパスポートを没収されてたのだという。この事件の前にモントリオールでカナダ軍の軍人が自動車にひき殺される事件が起きているが、この犯人も同様にパスポートを没収されていたそうだ。

 これらの実行者は別に海外から潜入したわけではない。逆に出国を止められた人が、その代わりに(?)国内で事件を起こしているのである。
 ぼくたちがよく理解しておかなくてはならないのは、これこそが21世紀の戦争なのだということだ。日本でも安倍政権が集団的自衛権行使容認で海外派兵をすれば、日本が戦争に巻き込まれると言われている。しかし大多数の人はそれを海外で自衛隊が戦闘をするとか、日本に外から軍事勢力が攻め込んでくるというようなイメージでしか考えていないように見える。もちろんそういうことはあり得ないことではないが、そんな戦争は軍隊がするものだという世界大戦以前のような認識はもう過去のものになりつつあることに気づくべきだ。

 21世紀型の戦争は軍対軍ではないし、国家対国家でもない。もはや敵も味方も液状化し、誰もが被害者になり得るし、また誰もが攻撃者になり得るのである。それは別の言い方をすれば我々の社会の内部に戦争が内包されてしまったということである。戦争の理由も、戦争の当事者も、戦争の手段も、すべてが実は自分たちの社会の中に存在しているのだ。

 もちろんこれは大変深刻な問題である。ハードにこれと戦うためには社会を監視社会にし、秘密警察社会にしていくしかない。しかしそうすればするほど、人も物も思想もますます地下に潜っていき見えなくなっていくだけだ。
 表側に見えていることに対していくら対処していっても、それは事態を悪化させるだけなのだ。前に書いたたとえだが、痒いところを掻いてしまえば皮膚炎はどんどん重症化する。それをあえてがまんして薬を塗り、根本治療をしなくてはならない。社会も同じだ。
 世界がどんどん格差を広げていくことが、それはつまり近代の「欲望の完全解放」を是とする根底的思想によるものだが、それが続く限り、現代社会の病はおさまることはないだろう。

 カナダも、そして米国や英国、オーストラリアなど各国が「テロには屈しない」と勇ましい宣言をしあっている。しかしそれはもはや何の「抑止力」にならない。いくら強面の対応をしても、それが逆に状況を悪化させるだけになってしまう。現状に反発する人々は、どんどん追い詰められて過激化していく。彼らから奪えば奪うほど、彼らに守るものが無くなり、全てを捨てても良いというハードルをどんどん引き下げてしまうのだ。

 正直に言えば、その意味では多くの人が戦後ずっと現行憲法を規範としてやってきた日本は、比較的格差の小さな、平等で平和な社会である。今ならまだ最悪の事態を回避できるかもしれない。日本は様々な間違いと限界を抱えているとは言え、多くの人々の努力で西欧先進国とは違うあり方を模索してきた。今こそその特質を世界平和のために十分発揮するときである。戦うことではなく話し合うことで、戦争ではなく平和によって世界の調停役の地位に自分たちを高めていくべき時である。
 日本を「普通の国」にしてはならない。確かにそれは簡単な話ではない。それは痛みを伴う。自分たちの誤りを認め、おそらく何かしらのものをあきらめねばならないだろう。平和も名誉も地位も富も、その全てを同時に手にすることなど出来るはずはない。何を手にし何を手放すのか、その決断をせねばならない。何が一番大切なのか、何を自ら捨てるのか、それをしっかり考えるときが来ているのである。

橋下徹氏の底知れない空虚さ

2014年10月23日 01時35分19秒 | Weblog
 橋下徹大阪市長兼維新の党共同代表の支離滅裂さが止まらない。いったいこういう人に権力を持たせておいて良いのだろうか。恐ろしい気がするとともに、少し哀れさも感じる。

 つい先日、ヘイト団体である在特会の会長と訳の分からないバトルをやった橋下氏が、今度は在日韓国・朝鮮人に与えられている特別永住者制度を廃止し一般永住者制度に一本化する必要があると発言した。もう聞いている方が大混乱である。
 当ブログでも指摘したとおり、橋下氏は結局のところナショナリズムという点では在特会と全く同じ立場であり、前回の会談もようするにただ注目を集めるためのパフォーマンスでしかなかったことを、いみじくも証明したような形になった。

 特別永住者制度があるからヘイトスピーチが生まれるという論理は、100パーセント在特会の主張と同じである。論理の専門家である弁護士がいったいなぜこんな混乱した発言をするのだろう。こんな言い方をして人々を煙に巻けると思っているのだろうか。
 橋下氏の主張はつまり、差別が無くならないのは運動=反差別運動があるからだから、運動を無くせ、学校のイジメ問題が起きるのはいじめられる子がいるせいだから、学校からいじめられる子を追い出せ、というようなものである。
 本質的な差別やイジメ自体を否定し、無くすことを目指すのではなく、差別やイジメの対象そのものを排除しようとするものであり、まさに差別排外主義以外の何ものでもない。

 これを見ていると、あの沖縄米軍の司令官に米兵の性犯罪を止めるために「地元の性産業を活用しろ」と言ったり、性奴隷のようなことはどの国にもあったのだから従軍慰安婦もしかたがなかったと言ったりしたのを思い出す。普通には誰も納得しないような奇妙な論理をわざわざ言い回るのだ。橋下氏はなぜいつもこんな矛盾と混乱に満ちた対応をするのだろう。

 橋下氏を見ていて感じるのは、この人には理想というものがないんだなという印象である。自分が信じる絶対的正義のようなものを持っていないのだ。だからと言って現実をそのまま肯定するのかというとそういうわけでもない。何かに対して必死で闘っている。それはいったい何か。
 つまり彼は自分と闘っているのだ。と言うより強烈な上昇志向に自分を奪われているのだ。彼の目的は自己実現以外なにも無い。それ以上でもそれ以下でもない。何のためというものは無い。だから、その中心には底知れない空虚があるだけである。
 彼にとって政治は社会とか民衆とかの為のものではない。彼にとっての政治は公ではなく完全に自分の自己実現の手段としての私的なものでしかない。彼の強烈な権力欲は、他者をより多くより強く支配することによって自己評価を高めたいという衝動である。
 そして彼は常に自己確認し続けなくてはならない。そうしないと不安に押しつぶされてしまうのだ。自分は本当に強いか、自分は本当に権力を握っているか、自分は本当に偉いのかと。それが奇矯にさえ見えるパフォーマンスの数々なのである。

 このように自分の内側に何も持たない人をニヒリストと呼ぶ。
 また改めて書くけれど、それは実はシリアへ渡航しようとした学生と本質的には同じものである。ただ彼の空虚を埋めるものがタレント政治家という流行か、イスラム国という流行かという違いだけなのだ。
 橋下氏を政治家の場所から引きずり下ろして、彼を権力欲の呪縛から解き放ってあげる方が、彼にとっては良いことなのかもしれないと思う。

マルクス主義への視点 もう一言

2014年10月22日 23時45分12秒 | Weblog
 「日本は社会主義では足りない、共産主義ではないかと思えてきます」。これは今年のノーベル賞受賞が決まった中村修二氏の言葉である。(日本を捨てた「青色の職人」 中村修二 ――知られざる日本の“異脳”たち(1) (「週刊ダイヤモンド」2001年6月9日号連載)
 申し訳ないが、いったい中村氏は共産主義の何を知っているのだろうか? ほんの少しでも共産主義について知っている人ならば、いまだに人類社会に共産主義が成立したことがないのは自明のことである。ましてや中村氏自身が批判するように私企業の力が強大な社会のどこが社会主義、共産主義なのだろうか。皮肉で言っているのかもしれないが、皮肉というのは正しい知識を持っているからこそ成立するのであって、何も知らないところで生半可に何か分かったようなことを言うのは、ただのお笑いぐさでしかない。

 もちろん中村氏だけが悪いわけではない。日本でマルクス主義に関する教育が行われることは望むべくも無いが、そもそもマスコミでさえマルクス主義について正確な情報を伝えようとしない。だから日本人はずっとマルクス主義のことを何か理解を超える悪魔崇拝のごとくに思っているのである。それをちゃんと理解しようとする人はまずいない。イメージだけが先行し、ソ連や中国が共産主義そのものであるという誤った言説が当たり前のようにまかり通っている。そもそも現在の中国のどこが社会主義なのか。北欧諸国の方がずっと社会主義的ではないか。

 と言うのは、まあようするに愚痴である。本当のところ、マルクス主義者が誹謗、中傷、誤解と闘い続けることが出来なかったのが悪かったのだ。そして今ではこうして作られてきた逆境を跳ね返すのは並大抵なことではなくなった。
 そもそもマルクス主義者自身が真摯にマルクス主義に向かい合ってきたのか疑問である。自分自身に真摯でなければ他者に理解されるはずもない。この問題はまた別の機会にもっと詳しく考えてみたいと思っている。

 さて、ぼく自身はそうしたマルクス主義者自身の内省的検証として、先日の記事「マルクス主義への視点」で書いたようなことを考えてきた。ついでと言うか前回書いたことに少し付け加えたいと思う。

 ひとつは「宗教」のことだ。マルクス主義者にとって宗教という言葉は非常に刺激的で危険なニュアンスを持っている。マルクスの有名な「宗教はアヘンである」という言葉がマルクス主義者を縛ってきた。さらに現代日本でも宗教は多くの人に怪しげでアンタッチャブルな印象を持たれている。そうした二重の意味で、ポスト・マルクス主義のキーワードに「宗教」を持ってくると抵抗感を持たれる可能性は大きい。
 ぼく自身もこの問題を考え始めてからずっと悩んでいた。やはり自分でも宗教という言葉を使うことに抵抗感があったのである。それで長いこと「価値観」とか「文芸」という言い方をしてきた。しかしやはりこれは「宗教」以外の言い方はないと結論したのである。
 ただしこの「宗教」の概念は一般的な宗教を指すものではない。前回「メタ宗教」と書いたが、おそらくそれでも正確ではない。もっと言えば形而上学ではない宗教、形而上学以前の宗教、形而上学的宗教の根底にあるもののことである。そんなものがあるのかと言われそうだが、逆にそういう概念規定をすることによって、ぼくは人類にとっての宗教の意味が明確になるのではないかと思っているところがある。ただこれはまだ展開できるほど練れていない。まだひとつのアイデアでしかないので、これ以上書くことが出来ない。

 もうひとつ重要なことを書き忘れていた。これは以前にも当ブログで書いたことがあると思うが、共産主義は本質的には保守思想であるということだ。
 歴史的経緯から常識的に共産主義は「革新」と呼ばれる。もちろん政治用語としてぼくもその意味で使うけれど、資本主義社会においては本質的に革新的なのは資本主義であり、共産主義は保守的なのだ。つまり常に流動して変化し続けなければ生き残れないのが資本主義のシステムであり、安定的でスタティックなあり方を求めるのが共産主義の思想である。ただ局面的に現状打破をしなくてはならない、革命を起こさなくてはならないという意味においてマルクス主義者はダイナミックな政治・社会・思想運動を志向するしかない。左翼の「革新」というのはそういう意味でしかないのだ。この点についても今は深く触れまい。

 そして前回と今回書いた全ての問題に関わる重要な視点として、政治革命優先主義からの脱却が必要であると考える。
 マルクス主義者が大好きな言葉のひとつに「下部構造が上部構造を規定する」というのがある。これはマルクスの「経済学批判」の序説に書かれている唯物史観の公式とも言われる部分のエッセンスである。これも詳細を書く余裕はないので省略するが、多くのマルクス主義者に誤解されてきたところがあるとぼくは思っている。
 この言葉にそれこそ「規定」されて、多くの革命運動がまず政治革命を目指してきた。下部構造とは簡単に言えば生産から分配にいたる経済システムである。政治革命によって生産手段を資本家から奪い取り、国有化などの形で共有化すれはよい、つまり下部構造を変えればよいと考えられてきた。そうすれば下部構造に規定されて上部構造も変わる、つまり人々の意識がそれによって「共産主義化」するというのである。
 しかしそれは間違いである。そもそも「上部構造」のとらえ方が間違っていると思う。確かにマルクスの書き方も紛らわしく、わかりづらいのだが。この辺ももう少し勉強してからあらためて書いてみたい。

 先日、関東のある町で沖縄の基地移転問題に絡めたと推測されるゲリラ事件が発生した。その評価について軽々なことは言えないので今は止めておくが、ぼくは原則的に暴力を否定しない。この場合、暴力というのは国家の暴力装置(警察や軍隊)という意味の暴力も当然含んだ概念である。マルクス主義者の革命は最終的には暴力革命であるしかないとも思っている。
 しかしそれは常に最大限抑制的であるべきだと思う。そして暴力を暴力そのもの、何かを実力で行うためのものとして限定することが重要だと考える。しばしば暴力が精神的な圧力として、ありていに言えば脅迫の手段として使われることがあるけれど、それはいわゆるテロリズムであり、恐怖政治そのものである。少なくともそうしたことを目的として暴力が使われるべきではない。それはひとつの政治腐敗であると思う。

 マルクス主義は理想主義である。こう書くと反発される方も多いだろう。マルクス主義者はリアリストであるべきだというのが、マルクス主義者の常識だからだ。しかしいったいリアリストとは何なのか。現実的であることが最も正しいことなら、現状を認めることが最も正しい。そうではない。理想を持つからこそ、理想を追求するからこそ、その時々において現実的な判断が必要とされるだけで、本質的にわれわれは理想主義者でなければならない。
 しかしそのことは非常に厳しい問題を突きつける。つまり理想に反したら、理想の方に近づかないのなら、いかに現実的であろうとその政策を捨てるしかないということだ。レーニンやローザ・ルクセンブルグが直面したように、理想か現実か、革命の勝利か断念か、その断腸の決断をしなくてはならない。しかしそれが真の革命=近代の乗り越えを達成できるか否かの分かれ目になるのだ。
 このことは逆に言えば、政策はいかなるものでも、それが理想に向かう方向性を持っているなら容認しうると言うことである。現実的政策はどこまでもフレキシブルでよい。別に「左翼らしい」スタイルなど無い。ただしいつでも自分のやっていることを厳しく検証し続けることが出来なければ、何をやってもダメなのは言うまでもない。

 ぼくのマルクス主義への視点は、前回と今回でだいたい言い尽くしたと思う。いずれにしても、まだどれひとつちゃんと論じられるものはない。ただのメモである。おそらくこれだけでは誰にも理解されないだろう。ぼくがとりとめもない問題意識の中で毎日おぼれかけていると言うことだけ伝われば、とりあえず良しとしよう。

橋下・桜井「会談」の茶番

2014年10月21日 09時32分29秒 | Weblog
 橋下徹大阪市長がヘイト団体である在特会の桜井誠会長と公開「会談」を行った。実際は何の話もせず怒鳴りあってすぐ終わった。茶番である。
 当然ながらぼくは在特会を擁護する気はさらさらない。しかし今回の「会談」は明らかに橋下氏の一方的なパフォーマンスとして企画され、予定通り行われたとしか思えない。在特会はただの「ダシ」であった。

 「会談」自体は普通に桜井氏が話し始めたところから始まったのだが、それをいきなり橋下氏が乱暴な言葉遣いで遮った。そこから言葉遣いを巡ってヒートアップしたのだが、終始挑発したのは橋下氏の方だった。そもそも橋下氏が桜井氏を市役所に招いたのである。桜井氏が押しかけたわけではないし、橋下氏が呼びつけたわけでもない。一般的にはホストとして礼をつくすのが当然だろう。ところが橋下氏は最初から威圧的態度をとった。とうてい普通の社会人の対応とは言えない。

 橋下氏の狙いが会談すること自体にはなかったことは明らかである。マスコミを呼んで、うまくいけば在特会をしかり飛ばす姿を見せる、うまくいかなくても激しくケンカする姿を見せてワイドショーに取り上げてもらい、マスコミに露出し、関心を自分に向けさせられれば良かったのである。自分が忘れられ埋没しないための話題作りでしかなかった。
 とにかく維新の会は結いの党との合併で、ますます東京=国会議員の発言力が強まってしまった。みんなの党の渡辺氏ではないが、まさに自分が作った党なのにひさしを貸して母屋を取られる思いがあるのだろう。

 橋下氏が桜井氏に話をさせなかった理由ははっきりしている。本質的な問題になったとき、橋下氏は桜井氏のナショナリズムに反論できなくなるからだ。橋下氏が本物のナショナリストかどうかは疑問なところがあるが、少なくともナショナリスティックな発言によって人気を保っている以上、それを揺るがすような発言をするわけにはいかない。桜井氏とまともに話し合わなかったのは、そういう失言対策であったと推察される。

 ただおそらく橋下氏に誤算だったのは、ちょうどその日に安倍内閣の閣僚二人が同日辞任するという大事件が発生してしまったことだ。結局この話題はただのキワモノ扱いされることになってしまった。まあ、それでもマスコミは取り上げすぎだと思うけれど。

安倍内閣の閣僚辞任に思う

2014年10月20日 15時18分08秒 | Weblog
 安倍内閣で一日のうちにふたりの大臣辞任がおこった。

 ひとりの大臣の記者会見は全く意味不明である。なんの反省も口にせず、ただ外部の「雑音」によって政権運営が妨げられるから、自分は何も悪くないが大臣を辞めるのだという。まあおそらく、この人は直前まで辞めるつもりはなかったが、もうひとりが辞めるということになったため、官邸側がなるべく傷を浅くするために引導を渡したのだろう。だから未練と不満がたらたらの態度になったように見える。

 もうひとりは、それなりに真面目で真摯に見える。国会議員で大臣なのだから当然ではあるのだが。ただ、だからと言って主張していることが誠実であるわけではない。
 この大臣については政治資金規正法と公職選挙法に違反する疑いが出ていたのだが、予想通り記者会見では、政治資金規正法違反について認め、公選法には違反していないという論法だった。もっとも、選挙区内の有権者の生産物を買い取った、ワインを有権者に送ったなどの問題が次々と出てきており、公選法もおそらくアウトという感じがする。
 選挙区外の支援者に社交辞令の範囲内で品物を送ることは企業でもやっている、人脈を広げる政治活動だと弁明しているわけだが、県外の人になら贈答しても良いという論理も疑問だ。国会議員である。今回も大臣になったことで問題が発覚したわけだが、国会議員である以上、選挙区外の人であっても利害関係者である可能性がある。大臣の権限は日本国中に及ぶのだ。
 確かに公務の出張で公的な相手にプレゼントを贈るということなら慣習としてあるだろう。しかしその場合なら出張を命じた機関が公的に支出するべきで、政治家個人の政治資金から支出するというのもおかしい。
 もちろん個人的な関係において儀礼として贈答を行うということはあるだろう。しかし、そもそも政治資金団体が管理する政治活動費はあくまで公費であり、それならやはり自分のポケットマネーから出すべきだ。そしてそれでもなお政治家である限り選挙区内ではやってはいけないのである。
 いずれにしても大臣辞任で済まされる問題ではない。議員辞職するのが筋だと思う。

 ぼくは25年ほど前に数年間、この大臣の出身県に住んでいたことがある。この県はまさに保守王国であった。同じ自民党でありながらN派とF派が強大な権勢を誇り、両者は互いを仇として骨肉の争いを繰り広げていた。選挙となるとこのふたつの派閥が目の色を変えて相争うのである。おもしろいことに逆に革新陣営は敵視されていなかった。自分たちの戦いには最初から無縁だと思われていたのだろう。共産党の議員のことなど軽く「ああ、あの人はいい人だよ~」などと言っているのである。
 ぼくがそこに住んでいたのは小選挙区制が導入される直前くらいで、選挙違反など別に当たり前という雰囲気だった。ちょうどその時はS議員(やはり以前の安倍内閣で政治資金不正問題で閣僚を辞任した)とO元議員(今回の大臣の関係者ではない)が、両派の代表として激突していた。さすがに選挙事務所に顔を出せばお土産に一万円くれるなどというのは「昔の話」だと言われていたが、ぼくは実際に目の前でいくつもの選挙違反が行われているのを目にした。あっけらかんと公然とやっていた。
 実際に選挙違反を行っていたのは選対の下に公式に組織されている人達ではない。おそらく裏側では裏選対が行われていたのだろうが、一応は候補とは直接繋がりがない人や企業が「勝手」にやっているのだ。そして実際に活動している末端の人達には公選法に違反している、悪いことをやっているという自覚がない。そんなことを教えられもしないし、ずっと昔からの慣習のようなものとして自然にやっていたのである。

 こうした状況の中で今回辞任した大臣の父親が、その二強の中に割ってはいる形で頭角を現した。当然ながら対抗するためには同じようなことを、もっと強烈にやる必要もあったことだろう。
 この保守王国にあっては議員・候補は王様である。戦いの主体はは議員・候補本人ではなく地元なのである。それは一種の祭りのようなものなのかもしれない。人々はこの戦いに加熱する。議員・候補は担がれるご神体のようなものであり下々のことに気を遣わせてはならない。汚れ仕事は末端が勝手にやる、そういう風土なのだと思う。皮肉なことにその意味では議員は完全に地元有権者の「代議員」であり、選挙は本質的に地域グループの権力争奪戦である。
 今回の大臣もそうした構造の上に、ただ急逝した父親の代理として担がれただけ、ただのシンボルにすぎなかったのである。そして残念なことに、幾度選挙制度「改革」を繰り返しても、結局その構造は何も改革されることなく、現在にまで至ったということだ。

 当ブログでは同じことを何度も繰り返して主張しているけれど、これは有権者の質、民度の問題である。
 しかしそうした質を「維持」し、自分たちの都合の良い状況を守り続けてきたのは政治家たちの戦略でもある。教育現場で、マスコミを通じて、民主主義や平等、公正、自立的思考というものを、あえて軽視してきた、というより敵視してきた自民党の教育戦略の結果である。民衆の権利を敵視し、義務を強調する。人権より道徳を押しつけようとする。それがこうした政治風土が無くならない理由である。

 ともかくも、本質的には選挙のやり方を抜本的に変える以外にこうした不正をただす方法はない。選挙活動を広報と立ち会い演説会だけに限定し、政治資金を選挙や集票活動に一切使わせない仕組みにしなくてはだめだ。必要なら議員や候補の文化活動や芸能活動も制限しなくてはならないかもしれない。それくらいのことをやらないと、不正選挙は無くならないと思う。

マルクス主義への視点

2014年10月19日 14時47分37秒 | Weblog
 先日の記事『「科学者は金持ちになろう」?』に対するコメントへの返信の中で、ぼくは自分に「過去の一般的なマルクス主義者とは少し違う点がある」と書いた。良い機会なのでそのことについて少し書いてみたい。とは言え、まだ何かまとまったものがあるわけではなく、いわばぼくのマルクス主義への視点に関する作業メモのようなものにしかならないのだが。
 細かいことを言ってもしかたないので、最も大きな点について書く。

 まず政治論、革命論、組織論の点だ。従来からのマルクス主義者の多くは基本的に「マルクス・レーニン主義」もしくは「マルクス・レーニン主義+トロツキー主義」であった。
 確かにレーニンが史上初めてマルクス主義を掲げて革命に成功したのは事実だが、しかしレーニンの革命手法はあくまでも20世紀前期のロシアという限定された状況における個別特殊な手法であって、それをマルクス主義革命のスタンダードとして普遍化するのには無理がある。
 おそらくレーニンのボルシェヴィキ組織論は、亡命先におけるインテリ革命家を組織する上で出来上がったもので、ぼくが思うに労働者一般や民衆を組織する論理ではない。そこにおける厳しい「鉄の掟」は一番には直接現場にはいない、ややもすれば観念的な指導者たちに対する締め付けとしてあった。もちろんツァーリの秘密警察による過酷な弾圧に打ち勝つために秘密結社として活動しなくてはならなかったロシア国内の現実からも必要だったろうが、しかしそれは、100歩譲ってもあくまで革命党内に限定された統制であるべきで、民衆に求めるべきものではなかった。
 しかしレーニンは自分の革命の成功と防衛に必死になったために、革命直後から民衆を弾圧する政策に手を染めてしまい、それがスターリンによって純化されて継承されスターリン主義に「発展」したのである。
 スターリン主義の害悪はもうあらためて列記するまでもないが、まさにこの形態がマルクス主義のスタンダードとして世界に「輸出」され、いわゆる「東側諸国」の国内弾圧政策容認の根拠となったのである。

 ただレーニンの手法が、レーニン主義としてマルクス主義者の中でスタンダード化したのには理由がある。そこにぼくはマルクスの限界を見る。つまり第二の視点として哲学的、思想的にマルクスが近代の乗り越えを画策しながら、実際には近代主義の手のひらの中から出ることが出来なかったという点である。
 マルクス主義者はみな実践至上主義者である。よくマルクスの有名な言葉「哲学者たちは、世界を様々に解釈してきただけである。肝心なのは、それを変革することである」が引用され、言葉より実践だと言う。
 しかしこれこそ近代主義そのものではないのだろうか。つまり「神を殺した」近代は倫理や道徳、論理やご託より、現実的な実践を重んじ、かつそれを正当化してきた。つまり実利主義である。そのことが人類史上最大の驚異的な経済発展を実現する思想的原動力となった。だがそれは同時に様々な問題を引き起こした。
 地球温暖化をもたらした産業の暴走とスターリン主義へと暴走した共産主義運動とは、実は近代の実践至上主義という同根なのではないのか、というのがぼくの疑念である。
 マルクス主義の実践至上主義がもたらした弊害の最大のものは、批判と自己批判の自由を制約したということだ。
 実践家は自己批判が出来ない。なぜなら実践における失敗は実践において解決しなくてはならないからだ。たとえば賃上げを勝ち取るという方針が出る。そこで失敗した場合、それを信じてついてきた同志たちに「方針が間違ってました」とは言えない。それは清算主義である。責任をとるとは必ず賃上げを勝ち取ることなのであり、次にはより強力な戦いを実現しようということになる。誤りの指摘は外部からしかできないし、もっと言えば、間違った方針を出した組織がつぶれて新しい方針を出した組織が出現するという、よりダイナミックな形で誤りが修正されていくのである。しかし当然、新しい組織も必ずどこかで間違うだろう。
 実践上の誤りのスパイラルからの脱却は、つまりそのとき実践から自由=離れている者の指摘によるしかない。それを受忍する、いわば寛容さが必要なのである。

 さらにマルクスの近代主義的陥穽は、その論理を近代合理主義の上に構築していることにある。もっと突き詰めて言えば科学主義の上にマルクス主義が作られていることが問題なのである。
 たしかに19世紀において科学主義は絶対的正当性を持っているように見えた。しかしたとえば量子論などに見られるように、すでに現代科学は実証性によって必ずあるひとつの結論にたどりつくとは限らないという地平にまでやってきた。マルクスとエンゲルスが措定した史的唯物論も、新発見や新解釈によって唯一の正解とは言えなくなってくるだろう。「科学性」「客観性」に根拠をおく思想は、逆に「科学」や「客観」という概念そのものが揺らいだとき、崩壊せざる得ないのだ。
 今はまだちゃんと言えないのだが、ぼくはそれを突破する方向性は、マルクスが排斥した「宗教」の中に隠されているのではないかと考えている。もちろんこの場合、宗教と言ってもそのへんの宗教法人のことを言うのではない。いわばプレ宗教というような、人間の価値観を規定する何ものかなのだが。

 もうひとつ経済政策についてだが。
 現在、社会主義というとイコール「計画経済」であると考えられている。しかしこれもどこかおかしい。それでは資本主義経済に計画はないのだろうか。無いとしても無いままでどこまでやっていけるのだろうか。
 誰しもスミスの「神の見えざる手」が、人類の未来を自動的にコントロールして座礁と漂流から守ってくれるとは思っていないだろう(おそらくスミス自身もそんなことは考えていなかったと思うが)。グローバリズムの時代などと言うけれど、経済が本格的に国際的になった以上、人類が経済活動に計画性を持ち込むことは必然である。
 計画経済というものを、単純に企業の国有化だなどと考えるのは誤りであろう。現実の社会の中では多くの企業が株式会社になっている。つまり企業がある部分においては共有化されているだ。より多くの人が株主となり、かつ株主が平等の権利を有するようになれば(つまりひとり一票とか)、それだけでもう生産手段の公有化と言えるかもしれない。
 マルクスは生産手段の私有化を廃し公有化することで、社会主義=共産主義社会を建設していくプランを持っていた。つまり生産点での構造を変えることを第一にしていたわけだが、むしろ現実から考えれば分配点の構造を変えることの方が先なのかもしれない。つまり先に生産物の分配を平等化する、すなわち格差を是正することから、結果的に生産手段の私有化的状況を実質的に変えることになるかもしれない。

 この場合、おそらく完全なる平等ということは、少なくとも近代に近接する時代においては難しいだろう。政策的調整はどうしても必要になる。たとえば人気のない仕事、難しい仕事、人がやりたがらない仕事などには、やはり他よりも高い配分を出さなくてはならないかもしれない。
 考え得るのは最低保障と最高収入の差を、たとえば10倍以内というように限定するやり方である。生活保護がひとり年間150万円なら収入として得られる最高額を1500万円にする。200万なら2000万だ。この最低保障をベーシック・インカムとしてあらかじめ支給し、逆に最低賃金を廃止するというのはどうか。ちょっと乱暴か。財産も最高収入の10倍まで認めるようにする。つまり個人で1億から2億くらいの資産はよしとすれば、おそらく現状でもほとんどの人の生活に影響は出ない。

 重要なのは経済発展を指標にしない、望まないと言うことだ。経済発展が人間を幸福にするわけではない。むしろ現代においては経済発展の結果、地球環境が破壊されている現状がある。この点においてマルクスはあまりにも楽観的だった。マルクスは経済の永続的、無限の発展が共産主義を実現すると考えていたようだが、それはまさにファンタジーである。
 われわれが知っている歴史においては、経済発展は格差の拡大しか生んでこなかった。富裕と貧困は相関的なものである。ゼロサム的と言ってもよい。平等になれば富裕層もいなくなるが貧困層もいなくなる。当たり前のようだがそれが社会主義なのだと思う。少ない富を分け合う社会であって何が悪いのか。というより、おそらくそんなに悲観するほど地球人類の富は少なくはないと思う。

 相当に荒っぽいことを並べ立てた。また暴力論などについては触れる余裕がなかった。だが今のところ、こうした諸点がぼくのマルクス主義への視点である。出来るかどうか分からないが、こうした点を深めていけたらいいなと思っている。

イスラム国を目指す人々(1)

2014年10月17日 17時44分06秒 | Weblog
 イスラム国が奴隷制を復活させたと公表したことで、マスコミが一斉に非難をしている。「100年前に戻った」という言い方もされる。つまりこの100年ほどは公式に奴隷制を容認するイスラム教国が無かったからだ。もちろんイスラムに限らず世界中で、特別な国の一時的な事例を除けば、基本的に奴隷制度は廃止されている。
 ただそれは表向きの話で、この100年、と言うより現在でも実質的な奴隷が多くの国で存在していることは周知の事実である。
 中国やタイ、中東、アフリカ、アメリカ合衆国においてさえ人身売買や奴隷的拘束が行われていることが推察される。マスコミはあまり取り上げないが、国際社会の見方では日本はその中でも特に人身売買の温床であると思われている。政府や右翼は懸命に「日本軍による正式かつ組織的関与は無かった」として従軍慰安婦問題を隠そうとするが、韓国でもオランダでも自分の意志ではなく日本軍に性奴隷にされたという証言が存在する。どう言おうが実態として存在していたことは否定しがたい。
 以前、橋下徹日本維新の会共同代表が「世界中にあった」と日本の従軍慰安婦を正当化したことが問題になったが、確かに歴史的事実としては彼の言うとおりなのである。
 しかし現代においてそれを正当化しようとしたら、橋下氏が徹底的に糾弾されたように非難されるのは必至である。だからどの国でも、また誰でもその事実を隠そうとするし、ましてや公認することなどあり得ない。
 ところが今回イスラム国はそのタブーを破って公然と奴隷制を宣言した。それどころか、むしろそれを宣伝に使っている。そのことが世界を慄然とさせたのである。

 だがそういう意味では、別にイスラム国は100年前に戻ったわけではない。彼らは、コーランでは奴隷を持つことを禁じていないから、自分たちはイスラムの教えに忠実であり、奴隷制に反対する者はイスラムへの敵対者だと言う。しかしそれは全く自分たちの都合に合わせた詭弁だ。そもそもコーランには女性や奴隷は大切に守られ、人道的に扱われなくてはならないと書かれているそうだ。現在のイスラム国やイスラム原理主義者たちのやっていることが、その正反対の行為であることは歴然としている。
 そもそも人々の大きな誤解は、イスラムに限らず原理主義というものを復古主義と考えている点にある。原理主義は復古主義ではない。ただ復古主義を利用しているだけなのだ。古い教えの中の言葉をつまみ食い的に抜き出して、現在の自分たちに一番都合の良いように、自分たちのやっていることを正当化するように、勝手な解釈をしているだけなのである。これは米国のキリスト教原理主義でも、日本の右翼でもみな同じだ。
 だから今回イスラム国に渡航しようとした学生に便宜を図った元大学教授の中田考氏が、イスラム国を「人類と大地を偶像神リヴァイアサン領域国民国家から解放するカリフ制再興の先触れ」(Wikipedia日本語版より)と評価していることには、大きな疑問を抱かざるを得ない。
 原理主義者が純粋で原則的な敬虔な信徒、教徒である思うのは全くの幻想であり、原理主義者はいつでも自分のことを一番に、自分のために行動している、つまりは宗教のために生きているのではなく宗論を自分だけのために利用し、結果的に汚しているのだということを、しっかり見ておく必要がある。

 こうした原理主義に引き寄せられる人々はいったいそこに何を求めているのだろうか。それを考えるときニヒリズムの考察は不可欠なのだが、テーマが変わってしまうので、今回はもう少し別の視点で書いてみよう。すなわち、単純に言って人々はイスラム国に行った方が、現在の自分の暮らしより快適になると思って行くのだろうかということである。

 ひとつには現実としてある特定の人々は、イスラム国では快適に暮らせそうだということがある。イスラム国の正式の活動家として採用されれば、とりあえず「戦利品」としての家や奴隷を与えられ、高給(現地比ではあるが)や妻も与えられるという。現在のところイスラム国は資金も潤沢でそうしたことが可能になるらしいが、イスラム国の「体制」内に所属しない人々の暮らしは大変厳しいようである。
 しかしそうした優遇は当然ながら「体制」に絶対的に帰属しているか、意志決定権を持つ幹部である限りにおいての話だ。いったんそうした立場=多数派から外れる、もしくは外された場合には想像を絶する過酷な運命が待ち受けていることは明白だ。そのことをイスラム国参加希望者たちは考えないのだろうか。
 以前『「選別・純化」と「寛容・多様化」』という記事を書いたが、そこで指摘した「選別・純化」型思想の社会体制の中に入ってしまったら、結局いつか最後には自分も排除される側に選別されてしまう。おそらくイスラム国を選択する人の多くが、自分の現在いる場所において「選別・純化」に苦しみ、そこからの脱出を図っているのだろうが、その本質を否定するのではなく、ただ多数派になれる場所に移転しただけであったら、そこに根本的な解決などあるはずがない。ただ事態を悪化させるだけだと言うことに気づくべきなのである。

 もちろん自分の状況がもっと悪くなることを承知で、それでもイスラム国を選択するのだと言う人がいるかもしれない。しかしいま自分の自由な選択で選んだ道が、即座に自分の自由を奪う結果になってしまったら、そこに何かの意味があるのだろうか。これはオウム真理教などのカルト教団と同じことかもしれないし、かつての新左翼の運動にも似たことが言えるかもしれない。ヤクザとかブラック企業にも言えそうだ。
 少なくとも人類は苦難の20世紀を生きてきて、そこで歴史的に学んだことがたくさんあるはずだ。自分の頭で考え、判断し、決断するという近代人の根幹を否定するような行為にあえて飛び込まないよう、多くの警告がなされてきたと思う。しかし残念ながらそれは、なかなか人々の中に浸透しなかったのだろう。なぜならそれは支配層、権力者にとって不都合が大きいからだ。教育の中からそうした啓発はこっそりと、もしくはあからさまに排除されてきた。その極限にあるのが、実は原理主義なのである。その意味では原理主義こそが原理主義の拡大を生み出してきたのだとも言える。

 これだけイスラム国が自分たちの理念、自分たちの実態を公然と宣伝しているのだ。いかに西欧近代民主主義に限界があり不十分であるとしても、イスラム国がそれよりも生きづらい社会、生活実態的にも思想的にも不自由な社会であることは容易に判断できる。
 たとえば20世紀を席巻した共産主義の場合、確かに実態として抑圧的な政治が行われ、多くの人々が悲劇的な状況に落とし込められた。だが共産主義運動に参加した人々の多くは、そんな結果が待っているとは思わなかっただろう。なぜならマルクス主義は西欧近代合理主義の系譜の上に生まれてきた思想であり、少なくとも理念上は人権や民主主義を主張し、資本主義よりも自由で平等な社会を作ることをスローガンとしていたからだ。もちろん多くの場合、それが空念仏となり、ある場合には悪質な嘘になり、理念と実態が大きく乖離してしまったのは残念ながら事実であるが。言ってみれば共産主義運動の場合、人々は騙されてしまったのだと言える。

 しかしイスラム国は違う。はじめから西欧近代的な人権主義を否定しているのだ。それでも人々はイスラム国を目指す。
 このことをどう見るべきか。明らかに過酷であるイスラム原理主義であるにも関わらず、それでもそれを求めなくてはならないほど人々が追い詰められていると言うことなのではないのか。
 ひとつには原理主義の欺瞞のメカニズムを明らかにしていくこと、ふたつにはわれわれの社会の現実を変えていくこと、そして三つ目にそのためにも自由な精神と批判の自由をどこまでも拡大し続けること、それ以外にイスラム国を押さえ込む方法はないと思う。

香港政府担当者への返信

2014年10月16日 00時00分53秒 | Weblog
 先日のブログ記事に書いたとおり、香港の民主化要求デモに対する弾圧に抗議する主旨のメールを出した。
 これに対して、アムネスティのサイトに紹介されているのと同様と思われる返信が届いた。そんなときテレビニュースでは、香港の武装警察官が後ろ手に縛られたデモ参加者を建物の陰に連れ込んで数人がかりで暴行する様子が流されていた。しっかり見張りの私服警官もまわりを囲んでいて、明らかに違法な対応である。
 それで、この返信への再返信として以下のように香港特別行政区政府宛てのメールを出した。

Dear Mr.Edmond Cheung:

Thank you for replying.

It is right to follow a law.
Police officers of Hong Kong had hit and kicked a young man,
I saw that in the TV news.
I think you are in violation of the law.
You wrote that citizens should adhere to the law,
If so, police officers should also protect the law.

Yours sincerely,
(仮名Z)

 自分で書くのは大変なので翻訳サイトを利用したのだが、意味は通じているかな? まあ、抗議していると言うことが分かれば良いだけだが。