今日も毎度同じことを繰り返して書く。もう聞き(読み?)飽きたという方にはあらかじめお詫びしておく。
日銀の黒田総裁が「異次元の金融緩和」の続きを発表した。「黒田バズーカ2」と表現しているメディアもある。ようするに市場に出回るオカネの量を20~30パーセント増量して、政府発行の国債をほぼ全部買い取るという政策だ。市場では株高、円安が進行した。
日銀の思惑は現在失点が続く安倍政権への援護射撃ではないかと言われている。つまり景気浮揚策を打って今年中と言われている消費税増額の決断を後押ししようとしていると言うのだ。黒田氏は「物価上昇率2%を確実にするため」と説明した。
だが景気浮揚と言うが、いったい景気とは何だろう。結局のところそれは数字でしかない。物価が上がればそれは確かにインフレだ。株価が上がれば景気が良いと言うことになる。しかしそれはただ数字の上のことでしかない。
何度も指摘してきたが、われわれは数字の上で景気が良いと言われているときに、自分たちの生活が良くなった実感があっただろうか。ぼくの実感としては80年代のバブル経済期と、いわゆる高度経済成長期に部分的に感じたことがあるだけだ。高度経済成長期はむしろ激しいインフレで常に生活が苦しかったという印象の方が強いくらいだ。
円安によって輸出によって儲ける巨大企業は業績を上げるだろう。株価が上がればなおさらだ。そして景気動向はそうした「富者」「強者」の利益の動向を主な基準にして計られる。しかし実際の大多数のただの庶民は、株を大量に持っているわけではないし、輸出もしていない。日本の多くの人が働いている中小企業は円安によって逆に原料価格が上がって経営が苦しくなる。
一般労働者の賃金は平均で計っても仕方ない。少なくとも標準偏差で考えるべきだし、貧困層の割合で考えるなどのやり方をしないと、本当の国民の実感というものはわからない。
われわれが刷り込まれている常識を疑わねばならない。景気が良くなれば自分たちの暮らしが良くなるなどということは、現実の問題として全く無い。そのことを見据えよう。
今回の日銀や政府の政策を批判して、マスコミはいわゆるアベノミクス第三の矢が無い、つまり構造改革が遅れていると指摘する。しかし安倍政権の現在までの経済政策も、また「第三の矢待望論」も、そのどちらも、われわれには関係ないと言うことに気づくべきだ。政治家や評論家やマスコミの「景気が良くなればうまくいく」というファンタジーに惑わされてはいけない。
1970年代に「反合闘争」というのがあった。反合理化闘争の意味である。企業や役所が様々な機械化、合理化を行うことに労働組合が反対していた。それに対して企業・政府・資本家たちは、合理化によって労働者の負担が軽減すると主張した。もちろんそんなことは一切無かった。労働者は逆に機械やシステムに使われるようになって労働は強化された。職場から人間性が奪われた。最悪の場合はリストラされた。
「合理化すれば労働者の負担が減る」という論理は一見して正しい。しかし問題なのは、その論理が通るのは、企業・資本家の取り分が変化しない場合だけだということだ。合理化を利用して企業・資本家がさらに儲けようとした場合には、そのしわよせは労働者の側に来る。
そんな時代を経て、やがて時代は能力主義、成果主義、リストラの時代に急激に移っていく。終身雇用制は失われ、労働者の身分は不安定化し、非正規雇用は普通になった。企業自身も長期的利益を求めていると経営者は追放されるようになり、短期的利益を獲得することだけが目的となった。
数字は実態を表さない。論理は前提が違っていたら、ただの言い訳、ただの隠れ蓑にしかならない。
第三の矢に期待していたら、われわれはさらに窮地に追い込まれるだけだ。景気などくそくらえ! われわれに必要なのは好景気ではなく格差の是正であり、平等である。
もちろん経済が成長すること自体が悪いことなのではない。しかしもう人類は十分成長している。今はその成果を皆が共有する時だ。そして無理な成長を画策して環境を破壊し全てを失うような愚挙ももういいかげん止めるべき時だ。
誰かの「常識」にコントロールされることを拒絶して、まともに、素直に世界を見てみよう。そこにしか未来へ向かう扉はない。
日銀の黒田総裁が「異次元の金融緩和」の続きを発表した。「黒田バズーカ2」と表現しているメディアもある。ようするに市場に出回るオカネの量を20~30パーセント増量して、政府発行の国債をほぼ全部買い取るという政策だ。市場では株高、円安が進行した。
日銀の思惑は現在失点が続く安倍政権への援護射撃ではないかと言われている。つまり景気浮揚策を打って今年中と言われている消費税増額の決断を後押ししようとしていると言うのだ。黒田氏は「物価上昇率2%を確実にするため」と説明した。
だが景気浮揚と言うが、いったい景気とは何だろう。結局のところそれは数字でしかない。物価が上がればそれは確かにインフレだ。株価が上がれば景気が良いと言うことになる。しかしそれはただ数字の上のことでしかない。
何度も指摘してきたが、われわれは数字の上で景気が良いと言われているときに、自分たちの生活が良くなった実感があっただろうか。ぼくの実感としては80年代のバブル経済期と、いわゆる高度経済成長期に部分的に感じたことがあるだけだ。高度経済成長期はむしろ激しいインフレで常に生活が苦しかったという印象の方が強いくらいだ。
円安によって輸出によって儲ける巨大企業は業績を上げるだろう。株価が上がればなおさらだ。そして景気動向はそうした「富者」「強者」の利益の動向を主な基準にして計られる。しかし実際の大多数のただの庶民は、株を大量に持っているわけではないし、輸出もしていない。日本の多くの人が働いている中小企業は円安によって逆に原料価格が上がって経営が苦しくなる。
一般労働者の賃金は平均で計っても仕方ない。少なくとも標準偏差で考えるべきだし、貧困層の割合で考えるなどのやり方をしないと、本当の国民の実感というものはわからない。
われわれが刷り込まれている常識を疑わねばならない。景気が良くなれば自分たちの暮らしが良くなるなどということは、現実の問題として全く無い。そのことを見据えよう。
今回の日銀や政府の政策を批判して、マスコミはいわゆるアベノミクス第三の矢が無い、つまり構造改革が遅れていると指摘する。しかし安倍政権の現在までの経済政策も、また「第三の矢待望論」も、そのどちらも、われわれには関係ないと言うことに気づくべきだ。政治家や評論家やマスコミの「景気が良くなればうまくいく」というファンタジーに惑わされてはいけない。
1970年代に「反合闘争」というのがあった。反合理化闘争の意味である。企業や役所が様々な機械化、合理化を行うことに労働組合が反対していた。それに対して企業・政府・資本家たちは、合理化によって労働者の負担が軽減すると主張した。もちろんそんなことは一切無かった。労働者は逆に機械やシステムに使われるようになって労働は強化された。職場から人間性が奪われた。最悪の場合はリストラされた。
「合理化すれば労働者の負担が減る」という論理は一見して正しい。しかし問題なのは、その論理が通るのは、企業・資本家の取り分が変化しない場合だけだということだ。合理化を利用して企業・資本家がさらに儲けようとした場合には、そのしわよせは労働者の側に来る。
そんな時代を経て、やがて時代は能力主義、成果主義、リストラの時代に急激に移っていく。終身雇用制は失われ、労働者の身分は不安定化し、非正規雇用は普通になった。企業自身も長期的利益を求めていると経営者は追放されるようになり、短期的利益を獲得することだけが目的となった。
数字は実態を表さない。論理は前提が違っていたら、ただの言い訳、ただの隠れ蓑にしかならない。
第三の矢に期待していたら、われわれはさらに窮地に追い込まれるだけだ。景気などくそくらえ! われわれに必要なのは好景気ではなく格差の是正であり、平等である。
もちろん経済が成長すること自体が悪いことなのではない。しかしもう人類は十分成長している。今はその成果を皆が共有する時だ。そして無理な成長を画策して環境を破壊し全てを失うような愚挙ももういいかげん止めるべき時だ。
誰かの「常識」にコントロールされることを拒絶して、まともに、素直に世界を見てみよう。そこにしか未来へ向かう扉はない。