あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

ある地方議員のブログ

2013年11月28日 18時20分25秒 | Weblog
 国会では自民党の一党独裁的状況の下で世論無視の強硬な運営が続いている。残念なことに議会での討論ではなく、人の目に見えない密室での裏取引で物事が進んでいき、本当に意味のある議論は議場には全くない。政府側は議員にはただ決められた時間だけしゃべらせておいて、その内容を真摯に受け止めて一緒に考えようという姿勢は全くない。日本の国権の最高議決機関であるにもかかわらず、小学校の学級会だったら先生に叱られるレベルの最低の会議である。

 しかし議会の劣化は国会だけの問題ではない。地方議会もかなりひどいようだ。少し前なら「前時代的」とか「非民主主義的」とか「時代逆行」などと当然批判されていたようなことが、今やほとんど何の摩擦もなく平然と決められていく。
 今回のブログはちょっと禁じ手っぽいが、ある地方議員のブログを紹介して、読者の方にご自分で考えていただこうと思う。このブログを特に紹介する理由はあまりないのだが、自分が住んでいる地域に近いところの話なので、たまたま目についたのである。

ともちゃんのブログ
 よそ者の線引きはどこべに?意味不明だに~


 筆者の永野氏は共産党の地方議員のようだ。残念ながらぼくはこの市に住んでいるわけではないので、細かいニュアンスは分からない。ただ近隣のことなので多少の噂は聞いたことがある。あまり正確ではないが以下に用語解説のかわりに多少そうしたことを書いておこう。まあ、あくまで参考と言うことで。

 小野市長は地元出身の「有力者」だ。市議会議員から県議会議員に転身し、一番新しい市長選挙では自民党系勢力の対立構造の中で前市長から急遽後継指名を受けて当選した。

 冒頭で高野議員という名前が出てくるが、この人はこの市の共産党議員団のリーダーである。

 「上南の違法状態」というのはわかりづらいが、上日出谷南という地区の区画整理に関わる問題らしい。ここの区画整理組合では会計をあいまいにしたまま、多額の財源不足が発生しているとして組合員からおカネを徴収することになった。それを県が認可したのは違法だと地権者が裁判に訴えているようだ。

 たびたび登場する佐藤議員というのは、元市役所幹部で民主党系の有力議員である。彼が市の幹部だった当時は彼の妻が市会議員をやっていた。これはただのイメージで事実とは異なるかもしれないが、よく小説やドラマに出てくる陰の実力者という印象がある。

 「社協の会長」というのは、現市長を後継指名した前市長が、市の社会福祉協議会の会長に有償で就任していることを指している。この市長を巡っては次のような判決が出ている。

毎日jp『桶川市庁舎問題:精算金訴訟 市側の敗訴確定 上告受理されず』

 ちなみに、現在この社協でもあいまいな会計が問題になっているらしい。

 多くの人が疲弊している。そうした中でついつい人の目は目先のことだけしか見えなくなってくる。実は国会はまだ人目につきやすい。そういう中で案外自分が住んでいる地元の議会がおかしくなっているかもしれない。
 民主主義と漠然と言っても、一見、抽象的で自分の生活とは関係ないように思えるかもしれない。しかし民主主義は常に気をつけ、常に前進させていこうとしない限り、どんどん劣化していくのだ。
 民主主義はシステムではない。目的でもない。一回民主主義的なシステムが出来たらそれで万事OKというわけではないのである。それはまるで流れる川のようなものだ。川を作ったから大丈夫なのではない。川の底をさらいゴミを拾ってきれいな水を流し続ける努力をしなかったら、川はあっという間に腐った水たまりに化してしまう。
 もちろん民主主義は手段である。民主主義は持つことに意味があるのではない。使うことにこそ意味があるのだ。誰かに預けておいて安心していたら、きっといつの間にか消えてしまうだろうと思う。

反体制という生き方

2013年11月26日 23時52分01秒 | Weblog
 ぼくは政治的にはマイノリティである。いつからそうだったのか。自分では憶えていないが、小学校低学年の頃に書いたものにすでにベトナム反戦のニュアンスがあるから、少なくとも基本的な意識は子供の時からそんなに変わってはいないようだ。むしろ変わったのは社会の方かもしれない。
 たぶんぼくが子供の頃、1960年代は社会全体に反戦意識が強く、それは決してマイノリティではなかった。もちろん今でも多くの人は反戦主義者だという人もいるかもしれないが、その頃の反戦とは日本政府や合衆国に対する反戦行動を積極的にすることだった。

 もっとも、ぼくがマルクス主義を肯定するようになったのは、やっと高校の終わり頃で、ましてや新左翼運動を肯定できるようになったのは大学の後半だった。ぼくは正直に言って左翼嫌いだった。そしてそれから30年、今でも「自称」新左翼である。

 政治的マイノリティという生き方は厳しい。とりわけ、ぼくは逮捕・起訴歴もあるし、職業革命家であった時期もある。ぼくが現役の活動家だった頃は、実家に公安警察がしょっちゅうやって来ていたらしい。以前のブログにも書いたが、一定期間ごとに公安が職場に密告するので、一つの会社に3年以上いられたことがほとんどない。
 自分自身では自分の経歴などどうでもよいが、周囲には迷惑をかける。現役時代は、これもすでに書いたとおり弟の就職が妨害され、勤めていた会社は公安から取引先や親会社に知らせるぞと脅されていたと思う。これははっきり言って、国家による思想弾圧である。そもそも憲法に違反している。しかも卑劣にも当人に対してではなく、周囲に対して嫌らしい脅迫や嫌がらせを仕掛けてくるのだ。

 だが本当に恐ろしいのは「世間」である。公安警察が何の法的根拠もない脅しや嫌がらせをすることが出来るのも、社会全体が政治的マイノリティを、その主張を真面目に考えることもなくただ排除しようと動くからである。
 なぜ公務員の採用担当者が法律の規定を越えて違法な不採用判断をするのか、なぜ人手不足の会社が仕事を憶えた社員を辞めさせなければならないのか。彼らの更に周りにある社会や体制が彼らを圧迫するからだ。

 それは、ぼくが現役の活動かを辞めた後も、ずっと問題になる。
 たとえば、ぼくがあるアーチストのファン活動をしていたころの話だが、ファン仲間に自衛官や防衛施設庁の職員がいた。これにはとても困った。別にぼくはどうでもよいが、彼らが私的な交流だと言っても、もしぼくとつきあいがあることが役所で問題になったら申し訳ないことになる。一応、だから自分の経歴や思想については彼らには伝えておいた。
 それだけではない。たとえば保守系野党に近しい政治家とつきあいがあって選挙運動を手伝ったりしたこともある。しかしぼくが自分の主張をしてしまうと、その政治家も左翼だと思われるかもしれない。少なくとも政敵に利用される可能性は十分にある。
 市民運動などはもっとデリケートだ。何の政治思想もない、ただ自分たちの課題を追求する市民運動だと、中には右翼だってやってくる。主催者は当然こばむことはないし、ぼくも別にかまわないのだが、ぼくがいることによって、その市民運動が政治的な色を持っていると誤解されかねない。普段、政治問題にそんなに関心もなく政党、党派の区別もつかないような人がむしろそういう「色」を敬遠する。
 さらにそこに行政が関わってくると、ますます面倒になる。行政は左翼が大嫌いである。もちろん表面的には差別しないが、色々な面で支障が出る。

 もちろん、全て憲法違反である。思想・信条・結社の自由は保障されている。しかし現実の社会には、いわば目に見えない圧力が存在し、事実上、思想も信条も結社の自由も守られることがないのだ。

 ぼくは本来ならインターネットでは実名主義である。しかし上のような事情があって、本当の自分の主張をすると大きな支障が出てしまう。自分はどんな批判を受けようが、差別されようが、まあそれは仕方ないと言えるのだが、周囲の人を巻き込むのはとても耐えきれない。
 このブログを匿名ではじめたのには、そういう背景があった。ついでに言えば、現在では迷惑のかかりそうな関係は少しずつ清算している。そういう意味もあって、ぼくは段々と実践家でなくなりつつある。この点については、またいつか機会があったら書いてみよう。

 さて、しかし、人は政治的マイノリティだから、反体制派だから他人に迷惑をかけるというわけでもない。
 人間は行動する生き物だ。もちろん生物だから行動するのは当然だが、人間特有の行動は社会的行動である。社会生活の中で様々なことをする。そして社会の中で動けば動くほど、運動量が多いほど摩擦も生じるのである。それは必ずしも政治的行動でなくても、だ。
 そうしたことも含めて、つまりどこまでが政治的な問題なのかは線引きが難しいからだが、ぼくの生き方は自分が思う以上に摩擦を生んでいるらしい。ぼくを恨んでいる人、嫌っている人は多い。それはもちろん、ぼくの責任だ。何かをやろうとする限り、どんどん責任は多く重くなる。しかしそれは引き受けなければならない。
 だがまた同時に、誰も時間を取り戻すことは出来ない。やってしまったことを取り消すことは出来ない。いかに責任を取ると言ったところで、事実として人間には本当の意味で責任を取ることなどできるはずがない。目には目を、歯には歯をと言ったところで、しょせん私の目はあなたの目にはなれない。責任の等価交換は出来ないのである。

 それでは、ぼくはいったいどうやって自分の行き方の責任を取ればよいのだろう。だぶんぼくは、ずっとそのことばかり考えているのだ。
 そしてそれは、これからぼくがどう生きればよいのかということと同じことを意味しているのだと思う。

 ぼくは政治的マイノリティであり、かつ反体制派である。反体制派はいつでも必ず絶対的に少数派だ。なぜなら反体制派が多数になったらすでに体制は崩壊しているはずだからである。昔、「勝利するまでは敗北の連続である」という言葉の好きな仲間がいたのを思い出す。
 反体制派であるぼくの意見は前提的に受け入れられないと思わねばならない。それを理解し受け入れる生き方をしなくてはならない。

 別に政治的マイノリティとか反体制派とかに関わらず人は、とりわけ政治的主張をする人間は傲慢であってはならない。ぼくは質の高い民主主義にとって少数意見を尊重することが決定的に重要であることを主張してきた。しかし当然のことながら多数意見を軽んじることもまた間違いである。
 少数派であるからこそ、なぜ多数意見が多数なのか、そのことを正しく理解することが重要である。一番くだらないのは自分に都合の良い意見だけが正しい意見だと主張することだ。

 正義という言葉を否定する人がいる。正義など無い、正義はある人たちの行動を正当化させるだけのものでしかないと思っている人は多い。確かにそれは一面では正しい。しかしやはりぼくは正義はあると思う。人は自分の正義を持たなくてはならない。
 ただし気をつけなくてはならないのは、自分の正義は決して社会的正義ではないことを忘れてはならないということだ。それをちゃんと心得ている時にだけ、自分の正義は正義となる。

 当たり前のことだが、一人の正義によって全体を裁くことはできない。これを別の言い方で言い換えれば、少数が多数を支配してはならないということでもある。
 ぼくは他人から何かを無理やり押し付けられるのは嫌だ。何も強制されたくはない。多分の多くの人がそうだろう。そうならば、自分も何かを他人に押し付けてはいけないはずだ。必要なのは強制ではなく共生である。

 しかし何かを為そうとすれば、他者と食い違う場面は必ず生じる。ましてやこちらが少数派であるならば、多くの問題で他人と意見がぶつかり合う。
 そのときは当然、相手を批判するしかない。しかし批判が非難になっては意味が無い。批判は説得でなければならない。それは相手の内面に入り込ま無くてはならないということだ。相手の論理、相手の主張を正しく理解できてはじめて相手を説得することが出来る。
 そしてまた、批判は必ず自己批判でなければならない。相手を批判することは自分を規定することである。相手にむけてはなった言葉は全て自分に返ってくる。ある人の行為を否定する以上、もちろん自分が同じことをしてはならないし、それはまた過去の自分に対する自己批判でもある。

 もしかすると常に主流派の流れの中にいて、常に多数派の中にいる人には絶対理解できないことかもしれない。そして少数派であっても、このことを本当に理解している人は数少ないのではないかと思う。しかし政治的マイノリティや反体制派にとって、このことはとても重要だと、ぼくは思う。
 ようは、自分自身の意見、考え方に反論するもう一人の自分を常に持っていることだと思う。即時的な脊髄反射的な、直感的な感覚も大事だが、その一方で時間をかけて、たとえば文章を書くように〈もちろん実際に書いたらよいと思うが〉冷静に論理を展開し点検していくことも必要だ。

 たぶんもっと違う脈略で考える人もいるだろう。つまり結果から考えるというあり方だ。ある理想があって、その理想の結果を得るために行動する。やるべきことは求めた結果を出すことだ。そういう考え方もあるだろう。目標設定→実行→結果→総括、そしてそこから新たな目標設定へという、ある意味でごく当たり前の実践行動かもしれない。
 もちろんそれを否定するつもりは無いが、しかし結果は結果でしかない。ある結果を得るために、やってはいけない手段を取ったとしたら、おそらく表面的には同じ結果だとしても、その意味は全く違ったものになる。運動選手が勝つためにドーピングをしたら、それはすでにスポーツではなくなってしまう。民衆のための革命を実現しようとして、民衆を弾圧することになったら本末転倒である。
 時として、結果は得られなかったとしても「正しい」手段を選択するべきこともあるだろう。もちろん〈正しい手段とは正しい結果を得られる手段のことだ〉などと言う俗物的な理屈は排されなくてはならない。
 重要なのは結果ではない。過程である。あえて言うが、だからそのことは、結果は得られなくてもよいという覚悟をあなたに迫る思想でもある。

 レーニンは共闘戦術を語る中で「左翼小児病」を批判した。他の勢力と共闘するときには、たとえ自分が正しく相手が間違っているときでも、自分が折れなくてはならないこともある、と革命家は時として柔軟な対応をとらなくてはならないと教えをたれている。
 間違ってはいないかもしれないが、柔軟なようでいて実は傲慢な考え方である。レーニンが求めているのは結局は自らの勝利である。ここで語られているのは、つまりは自分の利益のためにいかに相手を利用するかという方法論なのだ。レーニンはまた「お人よし」になってはいけないとも教えている。
 ぼくの考え方はその点では全くレーニンとは異なる。重要なのは自分の勝利という結論ではないと思う。

 もちろん結果だけが重要な問題も確かにありうる。たとえば子供の被爆の問題などは、結果こそが全てであろう。目標に妥協の余地は無い。
 こうした目の前にある課題には妥協できない問題は多い。しかしだからと言って、あらゆる問題を同じ基準でとらえ考えるのも間違いではないだろうか。

 一般的に言えば、少数派の目標は、自分たちが多数派になることだ。しかしそれは本当に正しいのだろうか。そうした多数になること、勝利することを目標にするという考え方自体が(言ってみればそういうパラダイムが)根本的に変わっていく必要があるのではないだろうか。そもそも多数派になるということは手段であって目的ではないはずだ。
 いま少しずつ人々のパラダイムが変わりつつあるような気がする。今まで政治的反対派に対する批判として、対案が無い、ためにする反対、非現実的、などと言われることが多かった。もちろん今でもそうなのだが、たとえば小泉純一郎元総理が最近になって、脱原発の対案など無くてもよい、方針が決まれば自ずとその方針に沿った具体案が出てくる、などと発言するようになった。
 冷静に歴史を振り返ってみれば、対案の無い反対、多数を目指さない批判勢力などは、全く無意味どころか、権力の暴走に対するストッパーとしてとても重要な意味を持っていたことがわかだろう。
 歌の文句に「ナンバーワンよりオンリーワン」みたいな歌詞があったが、オンリーワンとはつまり究極のマイノリティである。今や多くのヒントが与えられている。新しい価値観が必要である。


猪瀬氏の変遷に考える

2013年11月25日 21時39分14秒 | Weblog
 猪瀬直樹東京都知事が徳洲会から五千万円を受け取っていたとして騒がれている。しかもそれを仲介したのは新右翼である一水会の木村三浩代表だったという。
 木村三浩氏というと、ぼくの世代では統一戦線義勇軍の議長のイメージが強い。直接会ったことはないが、個人的には若い頃に義勇軍にひどい目にあわされたと思っている。向こうは何も知らないかもしれないが。

 自民党の厚生族の大物と、豪腕の東京都知事、そして右翼を結ぶ怪しい関係。ちなみに新右翼というのは、旧来型の街宣右翼、ヤクザ右翼とは一線を画す理論武装をした勢力で、まるで新左翼のようなスタイルをした実力闘争派だ。しかし新左翼が旧左翼を徹底的に否定し敵対関係にあるのとは違って、新右翼は旧来型の右翼とも密接に関係し、その境界は曖昧である。

 さて、その渦中の猪瀬氏だが、実は彼自身は1960年代に信州大学の全共闘議長として運動を指導しており、どうやら中核派に属していたようだ。どうでも良い話だが、同じ頃コピーライターの糸井重里氏も日大で中核派系の活動家だった。北野武氏は明治大学でブント系の学生運動に関わっていたそうだ。

 猪瀬氏の、この極左から極右、そして既存権力の中枢までに渡る変遷というか、活動範囲の広がりはいったい何なのだろうか。転向の歴史なのだろうか。
 確かに左翼から右翼に転向する人は多い。有名なところでは昭和の怪右翼・赤尾敏がそうだし、ファシズムを作ったムッソリーニもそうだ。しかし猪瀬氏の変遷はどうもそういう「転向」とはニュアンスが違うように感じる。

 猪瀬氏から感じるのは腐敗の臭いである。権力を手に入れるに従って段々と嫌らしくなっているような感じがする。これが権力の魔力なのだろう。自分が正しいと思うことを実現するためには権力がいる。だから権力を目指すのだが、いざ権力を手に入れると、いつしか逆に自分が自らの権力欲に支配されるようになる。手段としての権力が目的としての権力に変わっていく。
 もちろん、これはあくまで、ぼくのイメージである。猪瀬氏の本心は猪瀬氏にしかわからない。しかし、たぶん多くの人が、こういうのはいかにも政治家(というより政治屋か)っぽいなあと思っているだろう。「汚い政治家」の典型的なイメージだ。

 時を同じくして、沖縄選出の自民党議員たちがそろって辺野古移転容認に「転向」した。以前のブログに書いたように自民党執行部からの強烈な圧力に屈したのだ。
 たぶんこういうことになるだろうことは、多くの人が知っていたはずだ。ぼくは一人くらいは、それでも自分の主張を曲げずに党に反旗を翻すのではないかと思っていたが、結局五人全員が打ちそろって「転向宣言」を行った。
 政治主張が大事なのか、権力が大事なのか。もちろんそれは政治家だけではなく、彼らを選ぶ有権者にも突きつけられた問題である。自民党がどんな政党か、誰でも知っている。それでも多くの人が結局は自民党を選択するのだ。
 悲しく切ない、と言ってしまって良いのかどうか。ともかくこれが21世紀の日本の実情なのである。

本当は政府の共犯であるマスコミ

2013年11月23日 00時04分42秒 | Weblog
 前回のブログでマスコミは大衆を敵にしないと書いたが、もうひとつ、マスコミは体制も絶対に敵にしないということも言っておきたい。
 確かに特定の政治家や政権、政党を批判することはある。場合によっては政治家の政治生命を奪ってしまうこともある。しかし体制を揺るがすこと、転覆させることは絶対的にタブーである。
 理由は簡単だ。マスコミがマスコミだからだ。マスコミは「マス」コミュニケーションである。その社会を構成する大衆全体に広く一律に情報提供できなかったら、それはもはやマスコミではない。そのためには巨大で安定的な社会が存続することが絶対条件なのだ。だから政治は批判しても体制は絶対に擁護する。

 今回の特定秘密保護法案問題でも、マスコミは表面的には反対しているが、本当に本気で法案をつぶすなどということは考えていない。その意味ではマスコミもまた政治の共犯である。
 常識的に考えれば普通に一番肝心な部分を、マスコミはほとんど伝えていない。なぜこの法律が必要なのかという点だ。
 確かに国家運営に秘密は必ず生まれてくる。秘密である以上、それは守らなくては意味が無い。こういうあまりにも当たり前の話から、話は突然、だから新しい法律が必要なのだというところまで飛んでしまう。なぜなのか。
 つまり、現時点でも国家を含めた行政が持っている秘密を保護する法律は存在している。公務員も守秘義務を負っている。なぜ既存の法律の整備では足りないのか。新法が必要なのか。実はこここそが、この問題の要なのだ。
 それは当然ながら、今までもあったような秘密や秘密保持の問題とは全く別のことが考えられているということである。そしてそれはおそらく集団的自衛権の行使、そしてその先の改憲、戦争参加なのだと思う。

 ところがマスコミはこの肝心の問題についてほとんど語らない。拙速だとは言うが全く必要ないとは言わない。ここにマスコミの本心が表れている。
 事実報道だって、別に中立にやっているわけではない。維新だのみんなだのの無意味な修正協議の話は大きく時間を取って伝えるが、民主党の対案については説明もしない。それどころか、社民党や共産党の主張など全く取り上げもしないのだ。なぜこの法律が必要ないと彼らが主張しているのか、その理由を誰も知らない。
 皮肉な話だが、秘密法で知る権利が阻害されると主張するマスコミ自身が、大衆の知る権利をすでに阻害しているのだ。

 民主主義はなぜ民主主義なのか。
 誰か一人の意見ではなく、多くの人の意見を平等に聞くからではないのか。それはつまり、少数派の意見も多数派と同じだけ耳を傾けると言うことなのではないのか。
 現実の問題として、全ての人の意見をひとりひとり全部聞くことなど出来ない。しかしだからこそマスコミの意味がある。ある程度の意見の整理を行い、全体の傾向から代表的意見を平等に伝えることが、マスコミの仕事であり、それはマスコミにとって技術的に難しいことではない。だがいつでも、ある特定の人々の意見は無視され続ける。それはつまり、体制に疑問を持ち、体制を本質的に変革させようとする人々である。
 たとえば反体制を標榜していても右翼ならばマスコミは盛んに取り上げる。しかし反体制の新左翼系コメンテーターなど、とりわけ放送メディアではまず登場することは無い。それどころか今では、いわゆるリベラルでさえかなり排除されているように感じる。

 マスコミはもちろん特定秘密保護法が嫌なのだろう。それは嘘ではないと思う。しかしこの状況を生み出してきた責任の一端は、というよりかなり大きな部分がマスコミ自身にある。
 終戦後しばらくの間、マスコミは日本と日本人を戦争に向かわせてしまった責任を痛切に反省していた。二度と戦争のお先棒は担がないと誓った。今では極右雑誌と思えるような雑誌でさえ、当時はそう主張していたのである。
 この、「アハッ」体験のごとき、知らないうちに赤が白に変わってしまっている状況こそが、まさに戦前に日本人が体験した戦争への道だったのではないのか。マスコミはもう一度、終戦直後の原点を思い出すべきだと思う。

政治の詐欺師と私の責任

2013年11月22日 18時08分17秒 | Weblog
 特定秘密保護法案に、みんなの党と日本維新の会が賛成することになった。修正協議の結果だと言うが、ほとんど変わった点はない。せいぜい永久に公開されない可能性があった特定秘密が60年で公開になるという点くらいか。
 今から60年前と言えば朝鮮戦争が休戦した年であり、奄美が日本に返還され、永谷園が創業し、エリザベス女王が即位、REM睡眠が発見され、水俣病が発生した年である。これを前時代と見るか、今でも生々しい時代と見るか。それでも情報が公開されないよりは決定的に良いことだが、問題はそれ以前に政府が都合の悪い情報を破棄してしまう可能性が排除できないことだ。
 一番わけがわからないのは、みんなの党の主張だ。第三者機関として首相が一元管理させるように修正するという。特定秘密は政府の秘密であり、その最高責任者である首相は当事者以外の何者でもない。第三者というのは利害関係を持たない外部の人間のことを指すのであり、法律でもそうなっている。この奇怪な言い換えをして得意げな顔をするみんなの党とは、いったい何なのか。こういう政治家の自己宣伝のパフォーマンス、茶番に国民がうんざりしていることがわからないのだろうか。

 いったいなんで、こんな国になってしまったのか。
 政治的な反対派は、今までもそして今でも「国や与党に騙されるな」と主張している。しかし我々は騙されてここまで来てしまったのだろうか? それじゃあ騙されすぎである。
 憲法が守られていないとか、公約が守られていないとか、そんなことは、それこそ60年前から国民はみんな知っていたではないか。それなのに選挙になると政治家は幻想的で無意味な夢の図面を広げてみせ、有権者はそうした政治家を選んできた。
 投資詐欺とかオレオレ詐欺に引っかかるお年寄りは何度も同じような手口に引っかかると言うが、日本国民みんながみんな、そんなに騙され続けるようでは、それこそとてもナンバー・ワンの国になどなれるはずがない。

 有権者は騙されてなどいないのである。
 政治家が嘘を言っていて、いろんなことを誤魔化しているのをちゃんと知っているのである。それでもそういう政治家を選ぶ。これは騙されているのではない。共犯者なのだ。
 それこそ、政府や与党がひどいことをしても、これは私の責任ではない、騙した政治家が悪いのだ、と言い逃れをしているに過ぎない。もちろん、こんな責任回避をしているようでは民主主義など成立のしようもない。
 しかし政治家は(自分のために)選挙に勝とうとして、今日も虚言と嘘を言い続ける。60年後のことなど考えてはいない。その時に嘘がばれても、もう自分はいないのだから、今この瞬間だけの自分の利益が確保できればよいのである。

 有権者はなぜ政治家の共犯者になるのか。
 それは有権者も政治家と本質的に同じだからだ。
 将来、未来のことなど考えてはいない。今このときに甘みがあればそれでよいのだ。そもそもそれが自分の問題だとか責任だとか考えもしない。そしてまたそれを糾弾する人もどこにもいない。
 政治家や役人はもちろんだが、マスコミも大衆向けの商売をしているのだから、一般大衆を敵にはしない。誰も有権者の責任を問わない。

 それでは誰が有権者を批判できるのか。
 自分自身しかないのだ。自己批判するしか方法はない。
 自分のあり方を見つめ直す。それは最終的には自己否定に至るはずだ。このままでよいのか。何かを変えなくてはいけないのではないか、と。
 自己否定は自虐ではない。むしろ自己肯定への過程である。否定するしかない自分自身の問題点を乗り越えて、自分を芯から肯定することが出来るようになろうと思うことこそが自己否定の論理である。

 もう騙されたと言うのはやめよう。
 もちろん、これからも騙されることはあるだろう。しかしこれは詐欺ではない。すべての事実は見ようとしさえすれば見えるのである。隠されていることがあるなら、少なくとも隠されているという事実だけは見えるかもしれない。
 あなたが民主主義を正しいと思うならその責任も負わねばならない。そのとき「騙された」という言葉はただの責任回避の言葉にしかならないのだ。

すイエんサーガールズの活躍と日本の教育の限界

2013年11月19日 23時48分03秒 | Weblog
 NHKのEテレがおもしろい。ぼくは子供の頃から教育テレビをよく見ていた。科学番組や料理番組が好きだった。その頃はビデオなど無かったから、テレビの前に座って学校の授業を聞くように一所懸命ノートを取りながら見ていたものだ。
 今は見たい番組は基本的に録画予約してあって、後で見るのが普通になった。その分、真剣さが失われてあまり頭に入ってこない気がする。歳のせいかもしれないけど。

 さて、そのEテレで今でも子供向けの科学番組を楽しく見ている(録画だが)。知っている人は知っているだろうが、Eテレ番組の出演者には今が旬のタレントが多い。科学番組でも「サイエンスZERO」に南沢奈央、「すイエんサー」に小島瑠璃子などが司会進行役として出ている。「すイエんサー」にはこの他に少女向けファッション雑誌のモデルの女の子たちが〈すイエんサーガールズ〉として毎回数人ずつ出演し、様々な課題に挑戦するという趣向になっている。
 「すイエんサー」の最近の放送では、ハンバーガーを具やソースをこぼさすきれいに食べる方法がテーマになっていた。すイエんサーガールズの女の子たちが、大学の研究者などからフワフワしたアドバイスを受けながら、試行錯誤してきれいな食べ方にたどり着く。
 ようするに基本的には物理学の応用なのだが、
 1.ハンバーガーを逆さまに持つ(重いパティを下に軽い野菜を上にして安定させる)、
 2.食べる口と右手と左手が正三角形になるように「ハ」の字に持つ(滑りやすい具材が押し出されるのを止める)、
 3.前歯を噛み合わせるようにして食べる(人間の前歯は一般的に上の前歯が下の前歯より前に出ているので普通に食べると具材が滑ってしまうから)、
 4.食べる前に「アウアウ」と声を出して口を大きく開閉する(あごの準備運動をして口が大きく開くようにする)のだそうだ。
 日常生活の役に立つかどうか、よくわからないが、なかなかおもしろい。

 この「すイエんサー」の企画の中で、ぼくのお気に入りは「知力の格闘技シリーズ」だ。これはすイエんサーガールズが旧国立一期校(東大、京大、北大、東北大)などの学生、院生と対決する企画だ。たとえば制限時間内にA4の紙を規定の枚数使ってより丈夫な「橋」状の構造物を作れと言ったお題が出る。
 ここで痛快なのは高校生主体のガールズモデルたちが名門大学を次々撃破してしまうのである。またこういう普通ではない課題に直面すると各大学のそれぞれのカラーがよく出るというところもおもしろい。

 それにしてもなぜ、すイエんサーガールズが大学生、院生のチームに勝つのか。俗な言い方かもしれないが、実践的・経験的な直観力が暗記型の受験用学習に勝っていると言えるのではないだろうか。
 もちろんチームワークとか、得手不得手などもあるだろう。たとえばプラモデルさえ触ったことがない情報科学系の女子学生が、いきなり物理学を応用してペーパークラフトを作れと言われても、おそらく難しいものがある。とは言え、日本の最高水準にある大学の理系学部に入るということは、本来ならある程度の基礎的な力があると期待されるのも当然だ。

 重要なことは覚えた知識の量ではない。ものを考える力である。日本人の知力が劣ってきたと、いろいろなところで言われるけれど、それはおそらくそうした考える力=思考力の問題なのだ。
 知識の量とか、ある既存のテクニックに当てはめて答えを導き出す力とかは数量的に測ることが比較的簡単に出来る。つまり試験の点数で決められる。しかし思考力を測ることはかなり難しい。なぜなら知識とか公式とかは必ずひとつの正答があるが、思考の結果は無限だからだ。

 自由にものを考えていけば、必然的に多様な答えが出てくる。そしてそのことはいつか必ずパラダイムへの疑問にぶつかり、批判へと発展していく。しかし体制は批判を許さない。当然ながら体制はパラダイムの上に存在するからだ。

 思考力とはオリジナリティである。既存のものとは全く違う価値観、視点を得ることである。それはつまり既存の価値観に浸っている自分自身への自己否定である。
 現代ではたとえばベンチャー企業を成功させる青年実業家などが高く評価される。しかしその大半は本当の意味でのオリジナリティによる成功ではない。ただ既存のルールの隙間を見つける能力を持っているだけのことだ。それは結局のところ、現状を肯定した上で自分にとって一番有利な手段を見つけているに過ぎない。全く新しい価値観を生み出しているのではなく、既存の価値観を利用しているだけなのだ。

 当ブログでは再三にわたって言及しているが、まさに日本の1970年代以降の教育は、意図的に思考力の発展=批判力の形成を阻害してきた。知性の育成より体制の維持の方が重要だったからだ。
 しかしその中でアニメやマンガなどの体制には比較的無害と思われる子供向けメディアまでは、強く縛ることが無かった。むしろそれは一方で社会的批判の目をそらすためのメディアとしても使われた。その結果、アニメやマンガだけが日本の20世紀末から21世紀の文化における最も成長発展した分野になったのである。良い悪いはともかく、日本の若者の創造性はそうした限られた部分に集中的に開花したのである。

 いまは差別的、侮蔑的に使われる「ゆとり」だが、そもそもはこうした若者の知識偏重、思考力の低下に対応するものであったはずだ。本来は思考力を育成するためのプロジェクトだったのだが、その一方で、パラダイムに対する疑問や体制に対する批判は封印するという大前提が存在したために、それはまったく成果をあげなかった。当然である。自由に考えよう、ただし疑問や批判はしちゃだめよ、と言われたら、いったい何かできると言うのか。

 すイエんサーガールズが名門大学を撃破するのは痛快だが、同時に現代日本の受験本位教育、ひいては批判的思考の封殺という状況の、その虚ろさに寒々しくもなってくるのである。

福島と沖縄とフランケンシュタイン

2013年11月18日 23時04分28秒 | Weblog
 昨日の福島市長選で自・公・社推薦の現職が敗れた。福島県の首長選挙では郡山市、富岡町、いわき市と現職が続けて敗れ、自民党内の一部に危機感が生まれているという。「一部」というのは、これは福島だけの特殊な問題で日本全体としては自民党への支持は圧倒的だという見解も依然強いためだ。
 一方、今日は石破茂幹事長が自民党沖縄県連の会長を東京に呼びつけ、辺野古への米軍基地移設を容認するよう強く求めたという。これには前段があって、先週、高村正彦副総裁など複数の党幹部が沖縄県選出の自民党国会議員に対して辺野古移設の党方針に従わなければ離党勧告すると通告しているのである。
 自民党がいま沖縄の自民党議員に圧力をかけているのは、来月以降、沖縄県知事が移設に伴う埋め立て承認申請で可否の判断をすることになっているからだ。自民党県連が移設賛成を明確にして「知事が承認しやすい環境をつく」(石破茂幹事長)ろうというのである。

 依然として安倍内閣への異様と思えるほどの高支持率が続く。自民党は大きな自信を持っている。もちろん、自民党のみならずマスコミも国民もおそらくちょっとやそっとのことでは政権が揺らぐことは無いと思っているだろう。
 しかしこれはそれほど簡単な話では無いのかもしれない。もしかするとこれはアベノミクスという怪物の本当の正体がかすみの向こうから現れ出てくる瞬間なのかもしれない。そしてこの怪物は日本という共同体を修復不能にまで破壊しつくす怪獣かもしれないのだ。

 人々が安倍政権を支持しているのはアベノミクスの成功を信じ期待しているからだ。だが当然アベノミクスは弱者切捨ての政策だから、アベノミクスの恩恵を受けられない人も多数出てくるだろう。ただ今のところ弱者=負け組みは強者=勝ち組とモザイク状態になっているので、アベノミクスでいじめられている人々の姿がぼやけており、よく見えないのである。
 ところが安倍政権の施政が続く中で、この切捨てがしだいに地域の切捨てとなってはっきり人々の目に見えるようになってきたのではないのだろうか。
 モザイクの中の人々はバラバラで非力だが、地域というまとまった形になってきたら、それは簡単に勢力となる。

 福島や沖縄の問題はアベノミクスとは関係ないと言う人もいるだろうが、これらの問題の本当の根っこに何があるのかを見てみれば、それは明らかに地域間の経済格差である。豊かな中央と貧しい地方、吸い上げる一方の中央と吸い尽くされる地方の問題こそが、この問題の根幹にあるのだ。
 その意味ではアベノミクスは単に経済政策であるというだけではなく、ある思想、ある哲学の、経済政策として現れた側面であると言えるかもしれない。それはつまり、強者のために弱者を踏み台にし切り捨てる思想である。

 さて、民主主義国家の中に様々な勢力が誕生するのは必然で、それはよいのだが、強大な勢力が弱小勢力に対して譲歩し、融和をはからなければ、それは深刻な対立になりやがて修復不能の状況を生み出す。
 いろいろな見解はあるだろうが、戦後の日本の中では比較的融和的な風土が作られてきた。しかしそれは20世紀の終わりごろから徐々に変わってきてしまった。その現時点での到達点がアベノミクスだと言える。

 まさかそんなことは起きないと思っている人が多いだろうが、それこそ何かのきっかけで日本の中に分離独立運動が起きる可能性が生まれてきたと思う。皮肉な言い方をすれば、それがまさに現代世界の「普通の国」なのだと言うこともできるだろう。
 もちろん、安倍首相が日本の分裂を目指してアベノミクスを始めたわけではないだろう。しかしフランケンシュタイン博士も殺人鬼にしようとして人造人間を作ったわけではない。目先の利益のためにやり始めたことが、最後には破滅的な結果をもたらすことは、人類史には枚挙に暇がないほど多くあるのである。


政治家の「権力」と我々の「普通」

2013年11月16日 23時13分34秒 | Weblog
 民主党内部での集団的自衛権の論議がまとまらない。我々一般人には理解不能な事態であり、政治家というのが良くも悪くも特別な人間なのだと思う瞬間である。
 これだけ国家の根幹に関わるような重要な問題で、しかも根本的な意見の相違があるのなら、普通に考えれば同じ政党で一緒にやっていくことなど不可能だと思う。しかしそれでも彼らは別れることなく、同じ政党の党員として有権者の前に現れるのだ。これでは有権者は政策で政党を選択することが出来ない。そればかりか、その政治家の公約、政策が本心なのか政党の方針であるだけなのか、本心であったとしてもその政治家がそれを本当に貫けるのかどうかすら、全く信用することが出来ないということになる。

 これで国民に政治に期待しろと言う方が無理だろう。
 なぜこんなことが起きてしまうのか。なぜ政党が政策集団ではなく選挙互助会になってしまうのか。
 それは権力というのものの魔力なのである。

 あるところで聞いた話だが。
 とある公共事業で行政がひとつの失敗をおかして、その部分を今やり直している。その現場に関わりのある市民運動の活動家は記者会見を開いて、新聞社にその失敗について訴えたいと考えた。
 しかし、これまたその現場に関わりのある野党系の政治家はそれを押し留めて、その現場の状況と推移を観察し、証拠を集め、そこでどれだけ無駄な予算が使われたかを調べるべきだと主張した。

 どちらも戦術としてありうる方法だと思うが、しかし何かが本質的に違う。
 つまり活動家はその失敗自体が問題であり、そのことを多くの人に知らせることが重要だと考える。
 一方の政治家は失敗そのものより、この失敗の行政責任を明らかにしたいと考える。それはつまり権力を負かす(もしくは牽制)しなければ、同じことが繰り返されてしまうからだ。いくら大衆がひとつの失敗について行政に文句を言ったところでたいしたことは出来ない。それより行政の仕事の不備、執行の失敗という行政の内側の論理で追求した方が、現実的に行政のあり方を転換させることが出来る。

 ものすごく嫌な言い方をすれば、大衆には直接的には何の力も無く、権力闘争だけが本当の力を持つという考え方だ。
 しかし確かにそれが現実なのである。喧嘩に強い者が勝つ。喧嘩のやり方を知らない者、腕っ節の弱い者がいくら何を叫んでも、何にもならない。
 つまり政治家の権力闘争とはそういう力の論理のことを言うのだ。
 だから、見解とか見識とか政策とかを置いておいても、まず選挙に勝たなくてはならないし、数の論理で他の勢力に勝らなくてはならないと考えるのである。それが民主党が分裂しないただひとつの理由だ。

 現実は確かにそうだ。間違ってはいないのかもしれない。
 しかし、それが正しいあり方なのか。
 勝つことだけが正しいのか。それはつまり勝者が正義と言うことか?
 政治家も最初はただの普通の人である(世襲の人は違うかもしれないが)。しかし政治家になるとその人はだんだん変わっていく。普通の感覚を捨て去って権力闘争の論理を身につけていく。そうしなければ政治家として生き残っていけないのだろう。そしていつしか、我々とは遠く離れた「特別な人」になってしまう。
 それは、よいことなのか、仕方ないことなのか、それとも何かが歪んでいるのか。その評価の違いはおそらく、自分自身がこの社会をどう見ていて、どう関わろうとするのかの違いを表している。


なぜ竹田恒泰氏がテレビに出続けられるのか

2013年11月14日 18時55分52秒 | Weblog
 華原朋美に「告白」したという話題で一躍「人気者」になってしまった明治天皇の孫で学者の竹田恒泰氏だが。
 このところ本当に毎日のようにテレビのバラエティ番組で顔を見る。しかしぼくにはそのことにとても違和感を感じる。マルチ商法に荷担したとかブラックな噂もあるが、それよりも例の差別発言事件があったからだ。

 「例の差別発言事件」というのは先月、10月3日に読売テレビで放送された「たかじんのそこまで言って委員会」での発言のことだ。ぼくは見ていない。そもそも関東では放送されていない。
 その日の放送は、現代の日本で最も愚劣な差別排外団体である「在日特権を許さない市民の会(在特会)」をテーマに取り上げ、竹田氏はその中で「在特会が活動したおかげで在日の特権の問題が明らかになった。例えば、通名というのがあって、日本人の名前に変えることによって、犯罪歴や金融関係の経歴を全部消すことができ、また新たな犯罪ができる」と発言したそうだ。

 これはもちろん事実誤認である。そのことは後に読売テレビも認め、「一部不正確で誤解を生む表現があった」、「日本名に変えることで経歴が消えることはないと承知していたが、言葉足らずだった」と謝罪している。
 だいたい通名使用の歴史を考えたら、これは全くおかしな話だと分かりそうなものだが、慶応大学の教官をしている学者がこんな非常識なことを言うとなると、これは意図的な民族的侮蔑を含んでいると考えざるを得ない。
 本当に在日朝鮮・韓国人の通名使用について今の人たちは何も知らないのか? なんだか目眩がしそうだ。わかっているのか、いないのか、それとも知らないふりをしているのか、本当のことが分からなくなってくる。
 在日の人たちは本名を名乗ると差別されるから、必然的に通名を名乗っているのである。しかもその始まりをたどれば、日本が植民地支配した朝鮮において、朝鮮語と朝鮮人名の使用を禁止し、日本語と日本人名を使うことを強要したところに行き着くのである。彼らに通名を使うことを強要したのは日本人の側なのだ。戦後を通じて闘われてきたのは、だからむしろ本名(朝鮮・韓国名)使用を認めさせる運動だった。

 竹田氏は当然ながら激しい批判を受けた。しかし謝罪することなく反対に「私は在日特権について事実を述べただけのこと。まして在日を差別する発言はしていない。私はこれまで『在日は日本の宝』といい続けてきた」などと開き直っている。だから事実じゃないんだってば!
 なぜこんな態度を取る竹田氏が、その問題を起こしたテレビというメディアに軽々と出続けられるのか、テレビ局にも視聴者にも強い違和感を感じざるを得ない。
 これはつまり竹田氏が自分の言い分は正しく自粛する必要はないと主張しているということであり、またその主張をテレビ局や視聴者が支持しているということに他ならない。

 考えてみよう。たとえばこれが「天皇は日本国民ではない。いくら犯罪を犯しても裁かれないからやり放題だ」などという発言だったら、テレビはその発言者を使うだろうか。使うわけがない。しかしなぜ使わないのか。恐いからだ。それはいったい何が恐いのか?
 そうやって考えていくと、要するにこの問題はメディアが誰の方を向いているのか、誰の言いなりになっているのかが見えてくるだろう。

 ぼくは問題発言をした人をメディアから追い出し、問題を無かったことにする風潮は間違いだと思う。しかし、間違った発言をした者を「差別」して、ある人は追放し、ある人は不問に付すという不公平は許せない。
 ましてや民族差別問題は最も重要な人権問題である。こうした間違った発言が事実上肯定されていったら、いくら裁判所がヘイトクライムを有罪にしても、社会から差別集団はなくならない。メディアとメディアの享受者にもう一度モラルを問いたい。


参考リンク

在特会めぐる竹田氏発言で謝罪 読売テレビ「不正確」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131103-00000023-asahi-soci


差別はネットの娯楽なのか(16)
http://getnews.jp/archives/442445


在特会広報部が「在日特権リストはすべてデマ」と表明
http://matome.naver.jp/odai/2138389938746953101


在特会が「在日特権リストはすべてデマ」と認める
http://kdxn.tumblr.com/post/66592476078


Nさんへの手紙(5)~ソ連の政策について

2013年11月13日 10時38分31秒 | Weblog
 Nさん、おひさしぶりです。

 さてご質問は、旧ソ連の第一次五カ年計画の際に、重工業化政策が行われると同時に農家の集団化(集団農場の建設)が実施されたが、それを高く評価すべきかどうか、ということですね?

 これはロシア革命の正当性にも関わる難問です。もちろんどの方向から見るかによって評価は違うと思います。
 しかしそれでも、ぼくは「高く」評価することはできません。

 そもそもの経緯として、早すぎたロシア革命の悲劇としての革命政府による血の弾圧、人民への抑圧があり、さらにはネップなどのジグザグした政策を経て、当時の革命政権はまるでコントロールを失ったジャンボジェット機を、なんとか墜落しないように無理矢理飛ばせているような状況だったことでしょう。
 新左翼の俗論的な解釈としては、レーニンの戦時共産主義、ネップ、その後の経済政策の転換(実質的にスターリンの第一次五カ年計画のもと)は正しい、スターリンの五カ年計画は一番はじめは正しかったが、あとはだめだ、ということになるかもしれませんが、ぼくはそうは思いません。

 農工業の近代化と生産性の向上は、全世界の反革命からの攻撃、干渉に対抗するため、成立直後のソ連邦にとっては喫緊の課題であり、ロシア革命(と、その成果)の防衛という観点から言えば必要なことだったのだと思います。また、農業の集団化そのものは人類史レベルの大枠の議論で言っても当然のことだとも思います。
 問題なのはその手法です。これはレーニンもスターリンも同じだと思いますが、民衆、労働者、農民に対して強制と血の弾圧によって政策を実行するやり方は間違っていたと言うしかありません。
 何のための誰のための革命なのかという本質を忘れてしまっているのです。と言うより、これでは自分のための革命でしかありません。
 あまりにも早すぎたロシア革命は、封建主義的社会から一気にプロレタリア独裁に移行しようとしたために、何をするにも、時間的にも物質的にも精神的にも余裕がなかったことは理解できます。しかしこのことがマルクス主義を大きく(悪い方に)変容させてしまったことも事実です。

 さて一方で、ローザ・ルクセンブルクなどはロシア革命以前からレーニン主義を批判しており、戦時共産主義にも否定的でしたが、それではローザならロシア革命を成功させられたかと言えば、それも難しかったでしょう。しかし重要なのは成功するか失敗するかではなかったのだと、ぼくは思います。
 レーニンは、これは歴史的な制約で仕方ないことなのですが、マルクス哲学をほとんど知りませんでした。レーニンが知っていたのは後期マルクスの経済学だけだったと言ってもよいくらいです。もっともそこからあれだけの思想体系を作り出したのですから、やはりただ者では無いのですが。もしレーニンが初期マルクスの哲学的業績を知っていたら、あるいは革命後の政策も違っていたかもしれません。

 有名な『経済学批判序説』の「下部構造は上部構造を規定する」という言葉がありますが、これは新左翼でさえしばしばその意味を俗論的に取り違えます。本来の意味は法律や国家機構はその国の現実的な生産や流通、経済のあり方を支えるものにならざるを得ない、というような意味だとぼくは解釈していますが、これを誤って認識して、革命を起こして企業を国有化したりすれば、民衆は自動的にみな共産主義思想になるなどという暴論を吐く人がいます。レーニンが実際にそう思っていたかどうか、ぼくは知りませんが、おそらく結果的には同じような考え方になっていたのでしょう。
 とにかくまず実行ありきで(これもマルクスの『フォイエルバッハ・テーゼ』の「哲学者たちは、世界を様々に解釈してきただけである。肝心なのは、それを変革することである」という言葉を引用して正当化されることが多いのですが)、何かを成し遂げれば自動的にその後の歴史が発展するということだったかもしれません。

 ぼくの考え方は一般的な既成左翼や新左翼とは違うと思いますが、実践至上主義的な考え方は間違いだと考えますし、成果主義も間違いだと思っています。重要なのは過程であり、最も正しいと思われる過程を踏んでいって、その結果で失敗し破綻しても良いのだと考えます。もちろんそれは大変につらいことですし、何の成果も上げられず名前も残せず、ただ犬死にするだけのことになるかもしれません。しかし、そのことこそが、世界史の中でたぶんずっと後に輝くことになり、人類の未来への示唆になるはずだと思います。

 もう一度まとめて結論的に言えば、五カ年計画や農業集団化の政策自体は良いものだったかもしれないが、やり方は間違っていた。その間違いは五カ年計画の時に急に起きたものではなく、レーニンのロシア革命指導のところにまでさかのぼり、それは実践至上主義の誤りであった。たとえロシア革命が失敗したとしても、革命家は人民に寄り添う政策を採るべきだった。

 以上がぼくの考えです。


フィリピンと我々をつなぐ倫理

2013年11月12日 23時45分44秒 | Weblog
 フィリピンの台風被害には言葉がない。
 ぼくは全くの無力で、ただ被災者の皆さんに心からお見舞いと、不幸にもお亡くなりになった方々のご冥福を祈ることしかできない。とても歯がゆい。

 それにしても、これが地球温暖化によるのは明らかだ。現在開かれているCOP19の会議に参加しているフィリピン代表が嗚咽をこらえながら発言しているのをテレビで見た。彼は大変冷静で、必ずしも今回の台風が温暖化によるものとは言えないが、温暖化が進めば気象被害が大きくなるのは科学的に明らかだ、将来の母国がスーパー台風の被害にあい続けることは容認できないとインタビューに答えていた。

 温暖化問題が指摘されてからいったいどれほどのたっただろう。なぜ人類は何の対処も出来なかったのだろう。
 確かに科学的な解明が出来ているわけではない。誰の責任なのかという論議も答えが出ない。しかしそんなことをグダグダ言っている場合ではなかったのだ。
 事実として地球表面の気温は急激に上昇しており、その結果、多くの悲劇が起こることははっきりしていた。まずはそれに対処することが最重要のことだったはずだ。

 しかし、たとえば原発事故もそうだが、取り返しのつかない大きな危機に直面してもなお、人は自らの強欲に勝つことが出来ない。いつかおきるどこかの誰かの危機より、今日の自分の豊かさの方が大事なのだ。
 もちろん人間は弱い。自分自身には自分の強欲をコントロールすることは難しいかもしれない。しかしだからこそ社会的倫理が存在するのではないのか。そしてそれを体現するものがたとえば政治なのではないのか。
 ところが政治家が口にする社会的倫理は結局のところ、自分や自分に関わる人の強欲を合理化して肯定し、本当に重要で必要な強欲を多い隠すことにしかなっていない。

 つい先日、道徳の授業を正規の科目にするという提言だか進言だかがまた行われた。戦前の「修身」の復活を目指す保守勢力がずっと以前から主張してきていることをまた繰り返しているのだ。もちろん子供たちに倫理を教えることが悪いわけではない。しかし今の日本のどんな大人が、子供に倫理・道徳を語れるのか。
 たびたび紹介するのだが、新約聖書の福音書に書かれているエピソードに、イエスが石打の刑の現場に通りかかる話がある。イエスは罪人のまわりで石を投げつけようとする群衆に対して「自分自身はこの女と違ってひとつも間違いを犯していないと言い切れる者だけが石を投げなさい」と語りかける。そうすると誰一人石を投げられる者はいなかった。
 これが倫理であり道徳であると、ぼくは思う。
 倫理はどこにあるのか。それは自分たちの内側である。他人のことをあげつらうことが倫理でないことは明白だ。それでは自分のどこに倫理はあるのか。それは自分自身に対する内省である。反省であり自己批判であり自己否定である。そこにこそ倫理が存在する。
 自分たち(の国)がおかした侵略に対する責任を、強い相手から言われる時には認めるふりをするが、本心からは反省せず、ことあるごとに責任をあいまいにしようとし続ける奴らに、道徳だの倫理だのと言う資格はない。

 話がそれた。
 つまり必要なのはまず自分自身の「身を切る改革」である(どこかで聞いた言葉だが)。自分(たち)の即時的な利益を考え始めたら、誰も温暖化を止めることが出来ない。鉄筋コンクリートの上層階に住んでいる人に、平屋に住んでいる人の高潮被害は関係がない。しかしそれはその瞬間だけのことだ。すぐに一階部分が浸水したら電気も水道もエレベーターもストップし、結局は自分自身も窮地に追い込まれてしまう。
 そのことに思い至ることが肝心だ。
 フィリピンの悲劇は我々の責任であり、そしてそれはまた、すぐに我々自身に降りかかってくることを、本気で理解しなければならない。


あなたの生活を破壊するかもしれない秘密法

2013年11月11日 23時57分29秒 | Weblog
 特定秘密保護法案の審議が国会で始まっているが、今日の委員会審議では民間人への調査が問題になった。つまり特定秘密に関わる民間企業の従業員について国が事細かに調査するというのである。

 自民党のホームページに掲載されているQ&Aによると、特定秘密を扱う職員(公務員)は特定秘密を漏らすおそれがないかどうか適正評価を受けなくてはならないとされている(ただし大臣などは免除…一番必要な木もするが)。

 その際、調査される項目は、

(1)特定有害活動及びテロリズムとの関係
(2)犯罪及び懲戒の経歴
(3)情報の取扱いに係る非違の経歴
(4)薬物の濫用及び影響
(5)精神疾患
(6)飲酒についての節度 
(7)信用状態その他の経済的な状況

 だと言う。

 さらに「評価対象者の家族(配偶者、父母、子、兄弟姉妹、配偶者の父母及び子)と同居人について氏名、生年月日、住所及び国籍のみを調査します」とある。
 そしてわざわざ「適性評価により、プライバシーが侵害されるのではありませんか?」などの設問を立てた上で、「適性評価の実施に当たっては、評価対象者の明示的な同意を必要(とする)」とか、「政治活動や組合活動、個人の思想・信条は調査事項ではありません」などと書いている。

 国会で取り上げられたのは、この本来なら担当する職員に対して行われる適正評価が、民間企業の従業員にも同様に行われるという問題である。たとえば兵器産業で特定秘密に指定された部分を担当する人も、国によって本人や家族の素行調査が行われるのだ。

 ここで生じる大きな問題のひとつは、この適正評価の結果が企業側に報告されるという点である。担当の森雅子大臣は「企業側に伝えられるのは結果だけ。またこの結果を人事考課に影響させることは法律で禁じている」と答弁した。人事考課というのはようするに査定というこであろう。
 しかし当然ながら、もし企業の側が国から「この人は特定秘密に関わる適正が無い」もしくは「この人は調査に同意しなかった」と言われて、ただ見過ごすことが出来るだろうか。おそらく独自に社内調査をするに違いない。その結果をもってその人を左遷するなり処分するなりをするなら、これは直接に国の調査結果を反映させたのではないと言い張れるわけだから、企業は法律に違反しないことになる。

 もちろん、そもそも国の調査範囲の限定規定の方も全くなんの歯止めになっていない。
 「政治活動や組合活動、個人の思想・信条は調査事項ではない」と言っても、調査事項の中に「特定有害活動及びテロリズムとの関係」とか「情報の取扱いに係る非違の経歴」などという項目が入っている以上、たとえば社会主義者や共産主義者、もしくはイスラム教徒であるかどうか、まさに思想信条信教が調べられることは間違いない。
 当然それは本人にとどまらず、家族、同居人、友人や恋人まで拡大されるだろう。たとえば恋人が左翼活動家だとか、友人がイスラム原理主義者だとかというケースもありうる訳で、表向きは恋人や友人は調査対象でないと言っても、「テロリズムの関係」という名目でいくらでも調べることが出来るのだ。

 ただ本当のことを言えば、こんな法律が出来ようが出来まいが、現実にはもっとひどいことが、すでに今現在でも公安警察によって日常的に行われているのである。
 ぼくは学生時代から新左翼運動の活動家だったのだが、卒業して最初の就職先は意図したわけではなかったが軍事産業の下請けだった。ぼくは実際にその工場の中に入って当時最新鋭のジェット戦闘機の性能試験の報告書やマニュアルを整理したりしていた。
 別に不正なことをしたことはない。情報を外部に持ち出したことも無い。そもそもそんな資料は現実の革命運動には何の意味も無かった。実を言えばむしろ違法なことをしていたのは、その軍事産業の大会社とぼくが入社した下請け会社の方だった。ここでも断っておくが、ぼくはその不正についても別に誰にも口外しなかったし、どちらの会社にも不利益を与えていない。
 それでもある日ぼくは突然、大会社への出入りが禁止され、自分の会社の中でもイジメを受けることになった。仕事を全て奪われ、いつの間にか机が窓際に移動され、そのうちその机も無くなり、やがて椅子さえ無くなった。追い出しを受けたのである。
 こうなった原因はもちろん公安警察が大会社に密告したからだ。しかしぼくは別に前科もなかったし、法的にも契約上もクビになる理由は無かった(少なくともその時はw)
 その後、いろいろな会社を転転とすることになるのだが、たいていの場合、2~3年すると公安警察が会社に密告してきた。どの場合も一応表向きは自己都合の円満退社の形を取ったが実質的にはクビになった。(その頃にはこちらの脛にも多少の傷がついてたのも事実だがww)

 こういう国家権力のやり方は、単に嫌がらせと言うより反体制派を経済的に追い詰める策略である。革命家だって飯を食わなくてはならない。年中クビになっていたら革命運動も出来なくなるというわけだ。

 ただ一番つらかったのは、こうした嫌がらせが家族にまで及んだときだった。革命運動をしていたのは家族でぼく一人だったし、また学校を卒業すると同時に家を出ていたから、ほとんど家族と音信は無かった。それでも国家権力はその家族にまで嫌がらせをした。
 具体的に言えば、弟が就職差別を受けたのだ。彼は教員免許を取り教員になろうとしていた。それなりに優秀だったのにずっと公立学校の教員試験に落ち続けた。ある人が弟にその理由として兄が革命運動をしているからだと教えてくれたそうだ。
 全くこの国の権力者ははじめから憲法を守る気など持っていない。いかに思想、信条、表現の自由などと書かれていても、彼らにはそんなことは関係ないのである。

 さて思わず思い出話に話が脱線してしまったが、ようするに今回の特定秘密保護法は、ぼくが体験したようなことを、より合法的にやれるようにする法律でもあると言うことなのである。
 ある企業に勤めている人が、たとえば自分の家族や友人が反体制の思想を持っているというだけで、会社をクビになってしまうかもしれない。
 もしあなたが急に防衛省関連の仕事を命じられるとする。それはあなたが知らないところで特定秘密に指定されているかもしれない(秘密なんだから知らないのが当然か…)。すると国家機関があなたの身辺調査を始める。あなたは直接関係なくとも家族か親友の中に反原発などの活発な活動家がいたとする。国はそれを反体制活動とみなし、あなたはそういう人と近しい関係者と見られて「適正評価」で不可とされる。
 その結果報告を受けた会社は驚き慌てる。会社にとって最大の得意先である省庁に嫌われるような社員を置いておくわけにいかないからだ。会社はあなたをどこか遠い勤務地に転勤させるかもしれない。意味の無い部署に配置転換するかもしれない。あなたは耐え切れず会社を辞めることになる。
 確かに表向き会社はあなたをクビにすることは出来ないが、今では社員を追い出す技術はぼくが若い頃よりずっと進化しているようだし、法的規制もかなり緩くなっているようだ。

 あなたは何一つ秘密に関わったわけでもなく、ましてや秘密を漏らしたわけでもないのに、人生を滅茶苦茶にされてしまうかもしれない。秘密法の恐ろしさはこういうところにあるのである。

 



「日本ブランド」の劣化

2013年11月10日 18時12分45秒 | Weblog
 このところ問題にされているニセ食材事件やネット通販の価格不当表示問題、また原発事故問題、もう少し古くは耐震偽装事件や阪神淡路大震災時の高速道路倒壊、少し毛色が違うがいわゆるバカッターの迷惑写真投稿の連続など、世界一安全で真面目、正確、親切で礼儀正しいと言われ、また我々自身もそう思ってきた日本の「よさ」が揺らぐ時代になってしまった。それにあわせるかのように自然まで日本的な四季が失われ、一年の半分が熱帯、もう半分が寒冷地になってしまう有様である。
 いわば誇るべき「日本ブランド」が失われつつある。その根底には「日本らしさ」の変質と喪失があるのだろう。
 きょう見ていたテレビ番組で写真家の浅井慎平氏が、最近の「オ、モ、テ、ナ、シ」という流行語について、もてなす気持ちを表にあらわすこと自体が違うのではないか、日本のもてなしはそれを相手に気づかせないように裏側で気遣いするところにあるのではないか、というような主旨の発言をしていた。

 ところが一方で世の中はナショナリスト、国粋主義者が跋扈し、日本国内での「日本ブーム」も続いている。テレビを見ていると、つくづくみんな褒められるのが好きなんだなあと思う。辟易するくらい「外国人の見た日本の素晴らしさ」みたいな番組ばかりが放送されている。本来外国のことを紹介するはずの番組でさえ、かなりの部分が「外国で評価される日本」の話であったりする。
 日本人が自信を持つようになったということなのかもしれない。ぼくの記憶の中では20世紀半ば頃のメディアは、日本のマイナス・イメージばかり取り上げていたような気がする。たとえばエコノミック・アニマルだとか、農協の海外団体旅行とか、島国根性とか。我々はそれを恥ずかしく思い、自分たちを変えていきたいと思った。
 皮肉な話なのか、それとも〈だから〉なのか、日本人の自己評価が高まり「自分大好き」になっていくに従って、「日本ブランド」が揺らぐようになってきたような気がする。

 もう少し別の言い方をすれば、政治の面ではそれは「普通の国」化の進行であるとも言える。日本を「普通の国」にするというのは確か小沢一郎氏のスローガンだったような気がするが、それは右翼・保守政治家共通のテーマでもある。彼らの言う「普通の国」とは一般的な「普通」のことではない。彼らにとっては、ようするにアメリカ合衆国こそが唯一正しい国家の姿であり、普遍的国家像である。「普通の国」とはアメリカ型の国、アメリカ型の社会になることを意味している。
 あるひとつの国(もちろん人でも同じことだが)が、他の国と比べて評価されるのは、他の国と違うところがあるからだ。「日本ブランド」はまさに他の国にはない日本的なものが評価されたのである。それが他の国と同じになることを目指そうというのだから、そうした独自の特色が失われるのは当然のことである。
 「良いところは残して、良くないところだけ変えていけばよい」と、脳天気な「いいとこ取り」を主張する人もいるかもしれない。しかし、一つの国の特色がその国の歴史と文化の上に成り立っている以上、根幹の部分を変更したら表面的な事象だけを残すなど不可能だ。

 こんなことを言うと排外主義者のように思われてしまうかもしれないが、現実の問題として、「日本は治安がよい」と言われる背景の大きな理由の一つは、日本が極端な排外主義政策を採っているからである。日本は世界で最も外国人が移住するのが難しい国だ。難民でさえほとんど受け入れない国は珍しい。
 しかし、そのことが結果的に貧富の差が拡大するスピードを抑制しているし、文化的衝突の度合いを緩和している。
 日本人が外国人に親切だ、お人好しだ、などと言われるのも、あえていえば〈残念ながら〉、こうした日本政府の政策によって「鎖国」が続けられているおかげでもある。

 「日本的」なるものの背景にあるのは、日本の歴史と文化である。それは日本に資本主義がもたらされるはるか以前から存在するもので、非資本主義的、非近代主義的、というよりむしろ反近代的なものだ。もちろん現代にあってその全てを肯定的に受け入れることは難しい。我々はもはや近代主義の洗礼を受けてしまった。しかし「日本的」なものを支えているのは、肯定できると出来ないとに関わらずそうした歴史と文化であることは理解しておかねばならない。
 現代の右翼、ナショナリスト、保守派の矛盾は、そうした文化や歴史をスローガン的にというか看板的に掲げながら、実はその中身を全く知らず、本心としては近代主義の終着駅であるアメリカのようになろうとしているところにある。彼らにとって日本の歴史と文化とは、自分に一番都合の良い明治以降の(つまりは実は近代の)皇国史観や国家神道、帝国主義、富国強兵イズムに限定されたものでしかない。まあこれもまた「いいとこ取り」ということなのだが。

 かつて日本の高度経済成長を支え、「Japan as No.1」(エズラ・ヴォーゲル)と言われるまでになった1970年代の日本社会は、やがて「日本型社会主義」「護送船団方式」などと揶揄され批判された。
 日本型社会主義と言っても、もちろんその実態は社会主義でも何でもない戦後日本型資本主義と呼ぶべきものであり、基本的には大企業を支えるシステムだったのだが、しかし確かに「社会主義」と呼ばれる要素が無かったわけではない。
 そこには非近代的な、いわば合理主義を支える非合理主義的感性が存在した。
 こうした「日本型経営」は結果的に成功し、世界第二位の経済大国に上りつめたわけだが、その本当の意味を誰も理解しなかった。それはつまり経済大国になったという経済的勝利、つまり世界二位になったという結果ではなく、アメリカ型資本主義やファシズム、スターリニズムなどには無い日本的感性による社会倫理、もしくは共生思想のようなものを、現実の社会制度の中にリアルに実体化させることが出来た点だ。
 そして当時の日本人はこれが民主主義=近代主義の成功の道程であり、これが更に進んでいくものと信じていた。それを象徴するのが、たとえば市民運動、学生運動、労働運動の高揚であり、野党第一党としての社会党の大きな存在感であった。まさに当時の日本人にとって民主主義日本は平和主義であり、人権の拡大を意味していたのである。

 しかし多くの人々はそれを経済的成功と一体のものととらえた。ある意味で「世界第二位」という高順位が人々の意識を規定してしまったのかもしれない。本来なら民主主義を充実させていく方向で進んでいくべきだったのに、日本人が目指したのは経済大国化の方向であった。思想より強欲が勝ったとも言えよう。
 近代合理主義が経済的効能としてのみとらえられてしまい、バブル景気とその後の「不況」の中で日本型経営は間違いとされ、強競争社会、新古典主義的経済、グローバリズムと、脱「日本的」社会へ日本人は転落していくのである。

 既成左翼(社会党、共産党)は、基本的に「モノ取り路線」であった。資本から労働者に経済的権益を少しでも奪い取ってくるのが使命であった。つまりモノ・カネで労働者の支持を得ていたのだ。だから高度成長やバブルの時期にはより多く取ることでなんとかなったが、不況になるとそれは難しくなり行き詰まってしまった。
 一方の新左翼はレーニン主義の原理的解釈、つまりは中途半端な近代主義に陥っていた。新左翼の目指した方向は経済主義ではなく思想主義的な革命であり、それはマルクス主義を近代=資本主義を乗り越える思想と位置づけてのものだった。
 しかし彼らに見えなかったのは、マルクス主義自体が近代合理主義であったことだ。そしてレーニン主義は(しかたなかったのではあるが)それを更に無自覚に継承し、近代合理主義によって近代主義を縛り上げコントロールする政治手法として確立していった(この点はもっと詳細な論議が必要なのだが申し訳ないが今はその余裕がない)。
 そのような新左翼には「日本的」なるものは、一律に否定すべき前近代的遺物でしかなかった。現実には自分たちはかなりの部分においてそうした「日本的」なものに浸っていたと思うのだが…

 ぼくは「日本的」なるものと真正面から向き合えば、そこには西洋近代主義とは違う視点が存在し、そこから本当に近代を乗り越えるヒントが得られると思う。こう言うとまるで「近代の超克」のように聞こえるかもしれないが、言うまでもなくぼくは復古主義でも侵略主義でもない。もちろんこの問題はおそらく非常に危険で微妙な問題ではある。それでもこれはいつか立ち向かわなくなはならない課題だと思う。

 結局のところ歴史的事実としては、その後のソ連崩壊と世界的なマルクス主義の衰退、アメリカの一極支配宣言と原理主義勢力の台頭という世界史の嵐の中で、近代を乗り越える思想どころか右傾化=復古主義の勢力が拡大していく中で、日本社会はどんどん劣化していった。
 ぼくたちはもはや単純に「日本的」なるものを取り戻すことは出来ない。もう一度根幹に立ち戻って、本当にぼくたちに必要なのは何なのか、何を目指すべきなのか考えるべき時が来ている。それはこのまま強欲に支配されたまま普通でない「普通の国」への道を進むのか、歴史上いまだに誰も到達したことのない新しい文化を創出する方向へ向かうのかということなのかもしれない。


医薬品を規制緩和してよいのか

2013年11月09日 23時41分49秒 | Weblog
 市販薬に関する新たな政府の方針。医療用から一般用に転用された「スイッチ直後品目」については副作用の評価が定まっていないとして、ネット販売は3年間の禁止とした。また劇薬に指定された薬は永久にネットでの販売を禁止になる。
 これに対して楽天の三木谷社長は猛反発し、法案が成立したら行政訴訟を起こすと息巻いた。
 いわく
「ネット販売は安全性について十分担保できる」
「医薬品のネット販売を規制する、科学的かつ客観的な事実は一切ない」
「ITの活用を推進していく上では『対面・書面の原則』を撤廃することがどの分野でも必要」で、これは「我々は非常に重要なポイントだと思っている。ここを突破できなければ前に進めない」
 つまり安倍政権は大胆な規制緩和を行うと言ったのに全くそうなっていないと怒っているのだ。医薬品のネット販売を行う関係者は店頭販売よりネット販売の方がむしろ安全だと主張する人たちもいる。

 そんな中で今度はネット販売サイトである「楽天市場」で、プロ野球の日本シリーズ優勝記念セールに出品された商品の中に、価格を本来の価格より高く表示して大幅値引きをしたように偽装したケースが多数見つかった。
 この問題について三木谷社長は「正式な日本一セールは厳正なる審査を経て実施していた。便乗して勝手にセールをやっている店舗があった」と述べた。
 しかしネット上の論評などを見ると、一般の利用者には正式な出品と勝手セールの区別はつけづらい、楽天には責任があるという批判も多かった。

 さて、薬のネット販売だが、確かにネットで買えるのはとても便利だ。実を言うとぼくも先ほどネットで買った薬を受け取ったところだったりする。第三類医薬品(リスクが比較的低い)に指定されている傷薬で、かなり昔からある銘柄なのだが、最近良く売られているものとは違う特別な特徴を持った薬で、あまり代わりになるものがない。近くの薬屋を回ったのだがどこも扱っておらず、しかたなくアマゾン経由でケンコーコムから購入した。
 ぼくに限らず、たとえば特殊な漢方薬などを服用している人が、以前から通信販売の形で専門店から薬を取り寄せるケースも多いと聞く。こうしたあまり一般的でない薬が欲しい人にとっては、通信販売は単に便利というだけでなく、ひょっとしたら命に関わるくらい重要であるかもしれない。
 しかしそれでもやはり医薬品のネット販売を全面的に解禁するべきかと聞かれれば、そこは疑問が残る。

 楽天の優勝記念セールでの価格偽装、価格の不当表示事件がそのことを如実に示した。やはりネット販売が対面販売より安全だなどというのは詭弁でしかない。ネットには大きなリスクがあるということを前提にして、制度設計をするのが当然だと思う。
 楽天は正規のセールではちゃんとチェックをしていた、そもそも出店業者は登録時に厳しく審査をしていると言っているが、もしそうだとしたら、それでもこうした事件が起きてしまったということになる。いわばどんなに厳正にやろうとしても、そこは管理しきれないということが逆に明らかになったのだ。

 ぼくはネット通販も使うし、ネットオークションにも参加する。入札もするし時々出品もする。だからよく感じることだが、やはりネットはリスキーだ。写真が貼ってあってもそれが実物かどうかわからない。と言うより一般的な商品ではほとんど見本の写真だろう。一般の店の店頭で直接品物を手に取って、それを直接レジに持っていってお金を払い、まさに実際にそのものを持って帰ってくるのとは全く違うのだ。
 しかも今回の楽天の件では、生産発売をしている業者と消費者の間に、通販会社、接続業者、サイト運営業者=楽天など、多くの業者が間に入っている。直接的に不当表示をしたのは通販会社とされているが、こうした仕組みは利用者・消費者には見えづらいし、結局のところ圧倒的多数の人は「楽天」というブランドを信じるしかない。
 おそらく楽天も問題を野放しにしているわけではないだろう。以前、楽天ではないがアマゾンのマーケットプレイスの業者から商品を購入しようとしたところ、アマゾンから「この業者は悪質な詐欺をやっている疑いがあるので販売手続きを中止・破棄します」みたいなメールが来たことがあった。そうやってチェックして被害を未然に防いでくれるのはありがたい。しかし当然だがそれはぼくの前に誰か被害者が出ているから、その業者が悪質業者だとわかっただろう。やはり完全に問題を無くすことは出来ないのだ。

 それにしても三木谷社長がネット販売があたかも日本経済の救世主になるかのごとく言うのには違和感を感じる。
 たしかにインターネットを利用すると安くて早くて便利にモノが買える。しかし当然その裏側にそれなりの理由も存在しているはずだ。それはたとえばWWWサイトの裏側にいる人たちが低賃金であることかもしれない。それは単にサイト運営会社とか通販会社にとどまらず、生産者や運送会社もそうなのかもしれない。それは我々には見えないところだ。
 だいたい今回の事件では「77%OFF」などとうたったセールが問題になったが、常識的に言って商品を77%値引きして販売することなど、まず不可能である。普通なら何かのからくりがあると考えざるを得ない。
 これはネットだから成立する話だ。普通の一般の店ではそこを利用する人たちには通常価格はよく知られているわけだから、まず価格偽装は不可能だ。もし77%引きの商品が出ていたとしたら、その理由もだいたいわかるはずだ。消費期限が迫っているとか、閉店のための在庫一掃セールだとかという風に。
 しかしネット通販では、その店の事情はほとんどわからない。何か理由が書かれていたとしてもその真偽を確かめるすべは無い。だから逆に何をやってもよいのだ、それがネット業者のアドバンテージだと思われているのだとしたら、それはあまりにも歪んでいる。歪みの隙間に日本経済活性化の特効薬があるのだとしたら、そんな経済は先に行ってどんなことになるかしれたものではない。

 医薬品販売の問題としては、もちろん消費者の側のリスクの問題が最重要だが、しかしもしかしたら逆のリスクも考えておかなくてはならない。つまりお客の側が悪意を持っている可能性もあるということだ。
 たとえば直接店に行って薬を買う場合、必要以上に大量に買うのは大変だ。一軒の店で大量購入したら怪しまれるし、多くの店を回って買うのも時間と体力がいる。その点、ネットでは比較的身元を隠しやすいし、また多くの店で買うのも簡単だ。いくら毒性の低い市販薬であっても大量に使えば危険な使い方もできるようになるかもしれない。だから具体的にどんな問題が起こるのかと聞かれても困るが、原発事故がそうであったように、我々が想定していない思いがけない事件・事故が起こされる危険性もあるのだ。

 小泉改革の時に、我々は「規制緩和」というものがどれほど社会を破壊するかを目の当たりにしたはずだ。「経済成長、経済発展」という言葉は甘美な響きを持っているのかもしれないが、それこそがまさに強い副作用を持った危険な劇薬である。そのことは忘れてはならない。

日本版NSCの恐ろしさ

2013年11月07日 23時09分19秒 | Weblog
 いわゆる日本版NSC(国家安全保障会議)設置法案が衆議院を通過した。

 国家機構の中に安全保障のための迅速な意志決定システムが必要だと言われれば確かにそうかもしれない。しかし問題はこの今回の日本版NSCはちゃんと機能するのか、これが本当に国民の安心と安全、世界平和に資するのか、重要な話なのになんだかほとんど国会で議論された感じがしないまま決められてしまうことにある。いったい政治家はどこまで真面目なのだろう。これで国会の審議時間を短くしようとか言っているのだから、まさに税金泥棒かと思ってしまう。

 特定秘密法もそうだし、そもそも改憲論議もそうなのだが、いったい現状で何が問題になっているのか、具体的に国家運営で桎梏となった事例はどういうものだったのか、そのことが全然分からない。それとも別に問題は無いが変更しようと言うのか、それならその具体例は何なのか。
 たとえば地震対策問題なら、最悪の見積もりでどこでどんな地震が発生したらこんなことが起きる可能性があると、かなりの程度具体的に数値を出す研究者がいるはずだ。もしそうなった場合に、ここが不十分である、だからここは今日までは問題なかったが、今後はこうしようという議論が出来る。しかし安全保障の問題はそういう研究さえ無い(もしくは秘密にされている)のだ。

 しかしすでに明らかなこともある。それは過去の歴史である。
 今回の日本版NSCにおいては、どうやら議事録を作らない方向らしい。一応イチジクの葉っぱとして付帯事項に「検討する」という一言が入っているようだが、法案における「検討」は、官僚用語で「やらない」と言う意味だと誰かが言っていた。
 議事録を作らないというのはどういうことか。責任を取るつもりが無いということである。
 原発事故直後の政府内の様々な会議で議事録が作られなかったことを、当時の野党である自民党は批判していたのではなかったか。今回は野党の民主党もどうやら一応ポーズとしては議事録を作るべきと言っているが、本音は作らなくても良いと考えているようだ。特定秘密法で情報の公開の時期が議論になっているが、記録そのものが作られないとしたらそうした議論はそもそも虚しい。
 まさに記録が残らなければあらゆることが無かったことにできる。従軍慰安婦問題などその最たる例だが、日中戦争から太平洋戦争にかけての戦争責任があいまいにされてしまい、それを後になって検証しようにも、「記録が無いから無かったのだ」という右翼政治家どもの常軌を逸した叫び声に吹き飛ばされてしまうのである。
 我々はすでにこのような茶番をさんざん見せ付けられてきた。そしてそこから学んだのか、もしくは学んでいないと言う方が正確かもしれないが、現右翼政権はありとあらゆることを秘密にし、記録を作ることすらせず、自分たちの好き勝手が出来る仕組みを作ろうとしている。

 もう一度言う。安全保障のための実効性のある意思決定機関は必要だ。しかしその機関は考えられる限り最も危険性の高い任務を担い、また最も重い責任を持つ。その機関が設置される以前からあらかじめ責任を取らなくてよいものとして設計されているとしたら、これほど恐ろしいことは無いと思うのである。