あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

デジタル放送はテレビ文化の終焉の始まり

2008年06月30日 16時45分49秒 | Weblog

 わからない人には全然わからない話なので恐縮だが、オリンピックを前にして家電メーカーはダビング10なるデジタル録画機器の新規格を打ち出した。


 この規格を巡っては著作権団体とのゴタゴタなどの話題が報道されているが、実は最大の問題はこれがユーザー不在の論議であることなのだ。
 たしかに現在のデジタル録画機器=ハードディスク/DVDビデオ機は非常に使いづらい。ダビング10が解決しようとしているハードディスクからDVDへの録画の一回規制もそのうちのひとつだが、はっきり言ってそれはたいした問題ではない。だいたい普通の使い方をしているユーザーが同じ番組を10回もDVDに焼く必要など、まずないだろう。むしろDVDの劣化に応じてDVD間でのダビングが出来ることが切実な問題なのだが、そこは全く考慮されていない。
 煩雑になるので詳細ははぶくが、動画記録用DVDには複数のフォーマットが混在し使い勝手を悪くしているだけでなく、そのほとんどが一般的なDVDビデオとの互換性がない。最近は様々な規格に対応した機器も増えてきたが再生専用機では使えないものも多い。


 これらの問題の原因は過剰なコピー防止対策にあると考えられる。著作権団体や家電メーカーの言い分としては「劣化しないクオリティで作品が複製されてしまう」ということらしいが、それもちょっと納得しがたい。それならば画質や音質を落とした形でダビングできるようにすればよいのだが、現在のところたとえ品質を落としたとしてもデジタルコンテンツのコピーは原則的に出来ない仕様になっているようだ。それどころか(メーカーによって違うかもしれないが)デジタル放送を品質を落として録画した場合、デジタル録画機器が「売り」にしている追いかけ再生さえ出来ないのだ。こういう仕様になるというのでは行き過ぎと言わざるを得ないだろう。
 そんなに警戒しなければならないのなら「高画質」のデジタル化など止めた方がよい。より高い機器やソフトを売りたいが、それをユーザーが勝手に使い回すのは防止したい、というのはメーカー側の身勝手であろう。(異様な執念で著作権権益の無限大の拡大を目指す米国の守銭奴的「スタンダード」もその背景にあるのだろうが。)


 しかしメーカーがそうまでして必死に普及を目指しているデジタル放送自体は大衆の支持を受けられずにいる。その理由の一つが前述した機器の使いづらさなのだが、皮肉なことにデジタル機器が普及するすることによってもデジタル放送が危機に陥るというジレンマがある。
 デジタル録画機器が性能を高めれば高めるほど、人はテレビ放送を録画して見ることが多くなり、その場合CMを飛ばして見るケースが増えるだろう。また、テレビ放送以外のデジタルコンテンツの価格が相対的に下がってきている状況は(封切りから一年程度で洋画のDVDが1500円になってしまうような)、家庭用放送録画環境がより販売メディアに近づく状況(前述している高画質化と過剰なコピー防止機能、複雑化)と相まって「テレビ放送でなくてもよい」事態を作り出す。
 つまりそれは広告媒体として女王の座に君臨していたテレビCMの没落を意味する。レンタルDVDの頭に入っているCMやネット配信番組に組み込まれたCMの方が宣伝効果が高いということにさえなりかねない。NHKはさて置くも、民放は今後スポンサーを失い経営を維持していくことが難しくなっていくだろう。
 家電メーカーが起死回生を狙ったテレビ放送のデジタル化は、こうしてテレビ時代の終焉のメルクマールと化していくのである。


宮崎への死刑執行と秋葉原事件~解決の糸口はあるのか?

2008年06月18日 08時16分51秒 | Weblog

 昨日、宮崎勤ほか計3名の確定死刑囚に死刑が執行された。明らかに先週の秋葉原事件に対する見せしめである。
 そういう根拠は宮崎事件が現代の「理由無き殺人事件」の端緒であったからだ。まさに秋葉原事件は宮崎事件の嫡子にあたる。だからこそ刑確定から2年半の短さで、しかも精神鑑定から再審請求を進めようとしている最中の突然の刑執行となったのである。

 

 普通の日本人的感覚であれば、大災害直後で人々が死に対して敏感になっている時期に死刑を執行するということは、あり得ない。今回の死刑執行は鳩山法相が鈍感だと言うような話ではなく、国家が超絶的な暴力を使って反国家人物を意志的に抹殺して見せたということなのだ。このことを別の見方から言うならば、10日間ほどの間に無差別大量殺人があり、大震災による多くの犠牲があり、そしていかにも気軽に死刑が執り行われるという現状が、この国の人々の気持ちの中でますます人の命の重さを忘れさせていくということでもある。鳩山法相が本来国中が喪に服してしかるべき時に、まさに機械的に国家による殺人を強行する、しかもわずか半年あまりの間に13人もの人を殺してきたその一環として死刑執行を命令するという事態自体が、現代日本の状況を正確に反映しているとも言えるのだろう。

 

 そんな昨日もテレビの中では精神的にマッチョな、しかし肉体的にはヨボヨボのジイサン・バアサンが、宮崎や宅間某や加藤某をののしり死刑を歓迎する一方、普段なら彼らがアキバ系として怨嗟の的としている若者を、加藤某の犠牲者であるというだけで「有為な青年」として大げさにその死を悼んでいた。これを見て、第二第三の潜在的な加藤某たちは「人の命の重さは同じと言うが、やはり世の中には命を大切にされる者とその氏を願われる者がいる。人が平等に扱われるというのは幻想に過ぎない」と思っているだろう。
 もちろん、それは理不尽な(もっと言えば自己中心的な)考え方である。不愉快に思う人は多いだろう。自分の勝手な気持ちで無差別に大量の殺人をおこなった者と罪無く殺されていった人を同列に扱うことの方が不当だと思うだろう。それはその通りだが、しかし違う立場の視点から見れば世界観は180度ひっくり返って見える。
 違う立場の者から見れば、そもそもなぜ自分とさして変わらなく見える人間が裕福で幸せな暮らしを保証されているのに、自分は脱出する目処もない惨めな生活に甘んじていなければならないのか、その方がもっと理不尽ではないのかと考えるのである。

 

 誤解の無いように言っておくが、ぼくはどの立場の見方が正しいかということを言いたいわけではない。冷静に見ればこれが現実であり、この社会にはどうしても立場・見方を共有できない人々が併存していることを指摘したいだけなのだ。
 宮崎や宅間や加藤にとって死刑は犯罪抑止にならなかった。(もっとももっと「普通」の殺人者にとっても抑止効果がないことはもはや明白だが。)彼らはそもそも自分の生に執着がない。「普通」の人々と「彼ら」の間には深い断絶が存在している。
 そうした「彼ら」に対して、鳩山流の機械的国家殺人装置をいくら対置しても、何ら意味が無い。死刑も法律も既存の倫理感に対しても「そんなの関係ネェ」「彼ら」は、既存の社会に対して何度でも攻撃を仕掛けてくるだろう。
 もはや事態は膠着しどこにも解決の糸口が無いように見える。

 

 ところで、こうした状況にはどこか既視感があるではないか。そう、パレスチナ問題に代表される世界各地の宗教・民族紛争である。全く異なる妥協不能の価値観でぶつかり合う勢力が、かたやゲリラ戦の自爆攻撃で闘えば一方は強大な武力を集中させて殲滅戦を繰り広げる。まさに今日の日本の状況はこうした闘争の中にあると言ってよいのだ。

 

 しかしそうであれば、逆に解決の方向性も見えて来るではないか。
 力の強い者が譲歩して相手を受け入れる。これがまず前提である。そしてもうひとつ、経済的格差を是正する。どんな宗教的・民族的対立であろうと、それが単に思想信条の問題だけであれば致命的な対立にはなりづらい。それが血で血を洗う抗争に発展するのは経済的利害対立が背景にあるからなのだ。多くの場合それは強い者による弱い者からの収奪構造である。そのことを是正しない限り立場見方の異なる人々の間における平和は生まれない。
 日本の現状も全く同じなのだ。この点をふまえない議論は不毛なだけであろう。

 


秋葉原事件とマスコミジャーナリズム

2008年06月13日 00時33分11秒 | Weblog
 6月12日の朝日新聞朝刊に載った東浩紀の寄稿は、ぼくの抱いた感想とかなり近かった。東浩紀とは思想的にかなり遠いところにいるが、この時代を見つめるナイーブな感性をちゃんと持っている。本当なら誰でもわかることだと思うが、その普通の感性が今の時代には貴重になってしまったようだ。

 さて今回の事件だが、加害者=加藤某に対するシンパシーというか、加藤をもう一人の自分だと感じるような若者も少なからず存在すると思う。それは今日の日本の社会にとって非常に重大な問題なのだが、マスコミはなぜかその部分に鈍感だ。政府は素早くネット予告に対する対処法、ダガーナイフなどの販売規制とともに、派遣労働者問題についても検討を開始した。それに対してテレビは依然としてワイドショーの中で加害者の家族を追いかけてインタビューしたり、コメンテーターに加害者がいかにダメ人間か語らせたりするばかり。週刊誌はもっとひどくてステロタイプなオタク/ニート(負け組)攻撃をしているだけだ。
 この事件が凶悪な犯罪であり、加害者が重罪に相当するということは当然だし、理不尽な被害を受けた被害者や遺族への癒しも重要だ。だが、それは個別この起こってしまった事件に対する対処でしかない。これから以後こうした事件を防いでいくためにどうするべきかが社会全体にとっては大切なのだ。事件を掘り下げるなどと言いながらマスコミはこの事件の本質に迫ることを回避し、誰にでもわかるこの事件の「ひどさ」を繰り返して終わっているのである。

 それではこうした事件をどうとらえたらよいのか。問題を加害者個人の資質の問題、特殊な人格の問題としてとらえるならば、彼は社会の中の突然変異的異物であり、これを社会から取り除くことで事件は解決する。またそうであるなら、それは同時に社会(狭く言えば家族や学校や周辺の人々)の責任も問わないという立場になるはずだ。
 一方で、事件が社会的に生み出されていると考える場合、加害者を排除することで事件は解決しない。なぜなら加害者である彼は彼でなかったかもしれないからだ。彼は数多くの加害者予備軍のひとりでしかなく、加害者を生み出す社会の構造そのものが変えられない限り、事件はますます凶悪化しながら何度でもこの社会に戻ってくるだろう。
 このような考え方は別に新しいものではない。日本の刑法は戦前から犯罪は社会現象であるという観点で構築されており、犯罪者(および予備軍)の更正・教導を主眼としてきたのである。(「〈生への配慮〉が枯渇した社会」芹沢一也/『思想地図vol.1』NHKブックス別巻参照))
 近年「加害者の人権が過剰に守られている」という言説が横行し、裁判審理の時間短縮や厳罰主義が一種のブームとなっているが、そもそも日本の刑事司法システムは被害者のためでも、またもちろん加害者のためでもなく、国家・社会を防衛するために犯罪者を教導・更正させるシステムとして作られてきたのだ。それは確かに国家防衛の思想だったけれど、それが社会一般に広く承認されてきたのも事実であり、これまでの日本社会には個別の事件にとどまらず、「その先」を見こして犯罪の再発を防ごうとする見識が(それが現実にうまく適用できてきたかどうかは見解の分かれるところだろうが)あったのである。
 しかし、現在の日本ではものの見方があまりにも近視眼的で短絡的になってしまった。人々は早くわかりやすい答えを求めるようになってきた。犯罪について言えば見方はどんどん局所的になり、ハムラビ法典の時代に、つまり「歯には歯を、目には目を持って」、個別的被害に対して全く同じ損害を加害者に負わせることが正義だと言われるようになってきたのである。これでは文化的な後退と言うしかない。

 その責任はマークシートに象徴されるマルバツ即決式思考方法を「学力」としてきた教育行政にあるが、最も大きな影響を与えてきたのはマスコミであると思われる。
 マスコミ(テレビ・雑誌・新聞)は人々の感情を刺激しあおろうとしている。少なくとも現在の日本のマスコミは攻撃的で刹那的な情報を垂れ流す媒体である。よくインターネットの個人・中小サイトの内容が反社会的であるとして問題にされるが、人々に与える悪影響はマスコミの方がはるかに大きい。
 今回の事件の加害者がネットに書き込んだものの中に「彼女がいない、それが全ての元凶」という言葉があるそうだ。バカバカしい話だと思うが、しかしいつの間にか日本は恋愛至上主義の社会になってしまった。恋愛できない奴は落ちこぼれなのだ。
 こんな歪んだ価値観は記憶する限り1970年代までは無かったような気がする。もちろん若者が恋愛で悩んだり苦しんだりするのは当たり前だったが、だからと言って、恋愛していない(しない)人間が劣っているなどとは思われていなかった。(もっとも今とは逆に結婚しないことには非常に重い社会的圧力がかかった。しかしその分「お見合い」などの社会的婚姻システムも機能していたのだった。)
 思うにこうした恋愛至上主義は80年代以降のマスコミが作り出した一種の幻想である。アメリカの青春ドラマ的な価値観というのか、ドラマやセミドキュメンタリーを装ったバラエティー番組などで「彼女いない歴何年」などと恋愛(というより恋愛ゲーム)を若者たちに競わせる文化を創ってきたのだ。
 もちろん恋愛至上主義だけではない。意味不明確な「セレブ」の幻想を生み出し、高級グルメを惜しげもなく食い散らかし、それがあたかも日本人のスタンダードであるかのような錯覚をおこさせる。こんな情報に取り囲まれていれば、毎日ホームレスへの転落の恐怖と闘っている若者が、絶対にスタンダードになれない自分に対して絶望するのは無理ないことではないのか。

 テレビのコメンテーターたちは全てが「勝ち組」だ。そうしたコメンテーターが今回の加害者を「ダメ人間」呼ばわりすればするほど、加害者予備軍の若者たちはより絶望し自壊と破壊に向かっていく。加害者に対して「甘えている、努力していない、偉そうな口をきくな」とテレビ画面の中から偉そうな口ぶりで言い放つオジサン・オバサンは明らかに「彼ら」を挑発している。彼らは「それならもっと大きいことをやってやる」と暗い決意を固めていくだろう。テレビの送り手はそのことに気づかないのだろうか。加害者が「勝ち組はみんな死んでしまえ」とネットに書き込んだ意味をもう少し考えた方がよい。
 もっとも「勝ち組」の人にとっては、勝者も敗者も無く結果の平等の社会になってしまったら、自分のがんばりは一体何だったのかということになって存在基盤を失ってしまうから、彼らはそんなことを絶対に認めない(られない)のだろうけれど。
 ところで米英のマスコミは今回の事件を大きく報道したそうだ。日本もやっとアメリカ並みの犯罪が起きる国になった。合衆国こそ「普通の国」・スタンダードだと言い続け、普通の国になろう、合衆国型の二大政党制こそ正しいと宣伝してきたマスコミは、今こそ「普通の国」になった日本の現状を讃えればよいと思う。「勝ち組」の視点で日本の大衆を「啓蒙」してきたマスコミにとって、今回の事件はひとつの到達点のはずである。だから被害者や遺族・関係者が犯人を罵るのは(またそれを報道するのは)当然のことではあるけれど、マスコミがこの加害者を批判するのはお門違いである。

 とは言え、マスコミが扇情的で刹那的であるのは、ある意味本質的なことで、正直なところそれが絶対に悪いと言うことも出来ない。ジャーナリズムとはしょせん瓦版であり、その行きすぎた過激さゆえに社会を変える力を持っているのだ。マスコミは社会におけるひとつの毒素であり、だから時には薬になり得てきた。そうであるからこそマスコミジャーナリズムはそのことに自覚的であるべきである。
 今回ひとつのエピソードとして記憶に残ったあるテレビ報道について書いておこう。加害者家族が記者会見する場で多くの報道陣が周りを取り囲んで質問をぶつけた。加害者の母親が倒れ込む場面をビデオで流しながら、現場の記者は「加害者家族は今後どうなってしまうのでしょう?」とコメントした。それはお前らがどうするかだろう。なに他人事みたいなことを言ってるんだとおもわず思った。ジャーナリストの当事者感覚というのは相当にズレている。量子力学で言う「観測者問題」はジャーナリズムの現場にも存在する。取材し報道することによってジャーナリストは事件の当事者になってしまい、自らが事件の行方を変えていく存在になっているのである。
 自分たちの影響の下でこういう世の中が作られてきたこと、その結果として今回のような事件を発生させていること、きっとそう自覚しているジャーナリストもたくさんいることだろう。それはジャーナリズムやマスコミの本質的な働きに関わることであって、しかたないことではある。だから、ジャーナリストは偉そうなことを言うべきでない。マスコミは権力に対する批判勢力であるから価値があるのであって、自らが権力になってしまってはいけない。ジャーナリズムが正義面する必要はないのだ。マスコミが強者=勝ち組の視点で今回の事件を伝え続ける限り事件は終わらない。

秋葉原事件は理解しがたいか?

2008年06月10日 09時49分24秒 | Weblog
 秋葉原通り魔殺人事件の続報が報道されてくるに従って事件の全貌がみえてきた。

 マスコミは判で押したように「理解しがたい犯行」と言っているが、そんなことはない。ぼくには「非常に」わかりやすい。
 加害者は思春期の時に「エリート」の道から挫折し、タコ部屋一歩手前の派遣労働者になってしまった。しかも家族も友だちもいないような状況で孤独に鬱屈をためていった。自分が誰からも嫌われていると思い、誰も助けてくれる人がいないと思っていた。それは被害妄想のたぐいであるかもしれないが、誰も彼を「見て」いない環境の中でそれを治療させられることもなかった。
 彼は自分が生きて生きやすいように従順で真面目でおとなしい人間を演じたが(というよりも、それはおそらく彼の本質的な性格だったのだと思うが、逆にそれだから)、他人に見えない内的世界に激しいストレスをため込んだ。そして自分を苦しめたものが「この社会(外的世界)」であると考えるようになる。しかし、政治的にも経済的にも彼に外的世界を変え得る(もしくは外的世界と自分との関係を変え得る)希望はない。前記事で書いたようにかつての日本ではそうした希望や可能性を見いだすことが出来たのだけれど、社会改革運動が不毛と化した時代に生まれ育った若者にはそんなものが存在することすら知られていないのだろう。

 そして彼は自分に取り得る唯一の手段として、捨て身の「特攻」(今風に殉教的自爆テロと言ってもよいが)による外的世界への復讐を決行したのである。

 しかし実のところ、彼は外的社会=他者との関係を断ち切りたかったのではない。最後の最後まで彼は誰かとの関係を作りたがっていたのだ。彼が犯行直前まで実況中継のように書き込んでいた携帯電話のサイトの存在がそれを示しいている。インターネットサイトに書き込みをするのは自分の存在を誰かに知ってもらいたい、誰かに自分(の価値・主張)を認めてもらいたいからだ。彼が事細かく「実況中継」をしたのは、恐らく誰かが気づいて犯行を止めてくれるかもしれないという深層心理があったからではないのか。彼が携帯サイトに最後に「時間です」と書き込んだとき、彼の絶望は本当の絶望となった。やはり誰も気づかなかったと。

 彼がそうやって自分の心情を過剰に吹き出させていたが故に、今回の事件では加害者の行動の意味が「非常に」わかりやすくなっているのだ。ぼくには「理解しがたい」と言い続けるマスコミや多くの「常識人」の方が理解しがたい。彼らは本当に彼の動機がわからないのだろうか。それは自分の価値観や自分の利害とぶつかるから「理解したくない」だけではないのだろうか。
 この事件のことではないが、ぼくも時々「常識人」と話をすることがある。彼らが社会の最底辺にいる人々の実状を知らないのかというと、どうもそうではないらしい。そうではなく「努力していない」「がんばっていない」「我慢しない」というのが多くの「常識人」の感想のようだ。それは裏を返せば、自分は努力家で我慢を重ねてがんばってるのだという自慢話であるわけだが。しかし、そんなことを言い続けることで世の中の何が改善されていくのだろうか。
 今回の事件が凶悪な犯罪で許されない行為であることは言うまでもない。だが今後こうした事件を防いでいこうとするならば、最も重要なことは「彼(ら)」の内面の声に気づき、それを聞き、理解してやることではないのか。
 「理解しがたい」と言って、理解すること・共感することを拒む人々は、加害者の陰の共犯者になっていると思うのである。


秋葉原通り魔殺人事件について思う

2008年06月09日 18時20分14秒 | Weblog
 6月8日正午に秋葉原で起きた通り魔殺人事件。
 テレビのコメンテーターは一様に無差別テロに似ていると発言している。そこに違和感を感じるが、しかし、やはりこれは無差別テロであったのかもしれないという気にもなってくる。

 テロリズムは政治手法の一つであって、何らかの政治目的を実現するための手段である。そうであるが故に、テロリズムはある陣営からは犯罪と見なされ、他の陣営からは正義の行使として賞賛されるのだ。
 今回の事件は普通に考えれば個人的ないわゆる「動機無き殺人」に分類されるべきだ。これをテロリズムであるとするなら、事件を起こした加藤某は社会のある位置にいる人々から英雄視されることになってしまうのではないか。

 だがしかし、それでも気になるのはこの犯行が行われたのが6月8日であったことである。
 あの宅間某が引き起こした池田小学校事件の日だ。今回の事件の加害者がこの日を「記念日」としてこの事件を起こしたとすれば(現在までの報道を見る限り関係はないようだが)これは一つのテロリズムであったと考えることもできるのだ。
 自己評価と社会的評価が著しく異なっていると感じ、自分が社会から疎外され差別されていると考える若者が「社会」に衝撃的な攻撃を仕掛けることで自己をアピールする、別の言い方をすれば自分に対する認識を変更することを社会に要求する行動として、今回の事件が行われたのかもしれない。
 仮に今回の加藤某にそうした明白な意図はなく、単なる憂さ晴らし(?)であったとしても、同じような境遇にいる若者が今回の事件にそのような意味付与をすることがあったとしたら、宅間や加藤は彼らの世界の殉教者になっていく可能性もある。

 そもそも、多くの時代、多くの場所で、若者は現状をよしとせず社会に反抗して闘ってきた。自分たちの新しい価値観を社会に対して認めるよう要求してきた。今でも欧米でアジアで、多くの若者や労働者が実力闘争をしている様子が毎日のようにマスコミを通して伝えられている。たとえばサミットが行われれば必ず大きな闘いが起こるというのが当たり前となっている。
 しかし、ひとり日本だけは(あえて言えば日本と北朝鮮だけは)そうした激しい闘いが起こらない。もちろんかつてはそうした闘いがあった。そして手ひどく敗北し、今では日本の社会変革闘争の場はペンペン草も生えない荒野となってしまった。
 誰が悪いのかという議論は置いておくとして、そうした現実の中で、現代の若者には、個人の「劇場型犯罪」として社会に復讐する以外の方法が無くなってしまったのかもしれない。