あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

東京都はオリンピック招致の責任を取るべきだ

2015年05月28日 11時49分15秒 | Weblog
 新国立競技場の建設費の問題。東京都の舛添知事が文科省からの500億円の分担要請を拒否して紛糾している。
 そもそもオリンピック招致自体がおかしかったのだ。一度オリンピックを開催した東京がなぜ今ふたたびオリンピックを誘致しなければならないのか。まだまだ未開催都市はたくさんあるのである。日本がまず目指すべきは東日本大震災からの復興だったのに、なぜか権力者たちは人々の目をオリンピックという虚飾に向けさせようと躍起になった。
 そしてそこでは国内のみならず世界に対しても嘘にまみれた話をばらまいた。費用を極端に過小に見積もったり、賛成派が圧倒的多数であると言ってみたり、安倍総理は福島原発事故を完全にコントロールしているなどと全くの嘘を語った。マスコミはそれに完全に乗っかり、世論をオリンピック招致賛成に誘導した。(ところがマスコミはそんなことを忘れたかのように今はオリンピック政策批判を激しくやっている。初めから分かっていたことなのになんという無責任か!)
 ただ東京都民でない我々には、招致決定の是非へ何の権限も与えられない。オリンピックは国ではなく都市が開催するものだからだ。都民は都知事選挙や都議会議員選挙を通じてその意志決定に参加し、そして判断を下した。そういうことであるなら、それを「部外者」であるぼくたちがとやかく言うことも出来ない。
 今、国立競技場問題についてマスコミはまずもって国の責任だと言っている。舛添氏の、説明されていない負担は出来ないという主張を基本的に支持しているように見える。しかし本当にそうか。実際には都と国の間に密約があったのではないのか。石原、猪瀬両都知事と自民党との深い関係性を考えれば、それは不思議ではない。地方の時代と言われるのに東京都と国家権力はべったりだった。それは先日の大阪都構想を巡る中でも、現大阪行政と安倍自民党がべったりだったことを思い出すと、なかなか深い問題である。国家権力と地方自治体がなあなあになっている場合、それは必ず住民に一番のしわ寄せが来る。舛添氏もオリンピック問題では国に反撃しているように見えるが、現実にはべったりだ。横田基地へのオスプレイ配備は全くノータッチである。
 話が逸れた。問題は誰がオリンピックの責任を取るのかということである。舛添都知事はまるで他人事のように言っているが、本当にこの問題を全く知らなかったのか。そもそも舛添氏自身もオリンピック招致に賛成していたのではないのか。
 ぼくはオリンピックの費用の足りない部分は全て東京都が負担すべきだと考える。それが自治体としての責任の取り方ではないのか。都民はオリンピック招致の選択をした以上、有権者としてその責任を取るべきではないのか。
 原発誘致についても同じことを思うのだが、原発を誘致し稼働させることについては地元自治体の有権者が決定権を持ち、その周辺には意志決定に参加する権利がない。ところがいざ事故が起きると、地元は責任は国や電力会社、電力消費地にあると言い出す。それはもちろん間違っているわけではないが、しかし原発を誘致した人々、自治体、有権者には何の責任もないのか。ただ騙されたと言うのか。むしろわかっていて騙されたフリをしただけではないのか。とりわけ、3.11後の原発再稼働、新規建設については、もう原発安全神話がはっきり崩れている以上、可動に賛成した自治体は国や電力会社と同様の責任を分担してもらうべきだと思う。責任を取らない民主主義はあり得ないのである。
 オリンピックをやりたいのなら、どんどんやってもらいたい。しかしその負担をこっちに負わせられるのはまっぴらごめんである。


安保法制は難しいか

2015年05月27日 22時07分44秒 | Weblog
 安保法制論議は難しくて分かりづらいと言う意見がある。それは第一にわざわざ分かりづらくされているからだ。そもそも憲法の規定から完全に外れていることを無理矢理やろうとするのだから、その論理はアクロバティックにならざるを得ないし、さらに「国民の理解」を得るために現実的問題を出来るだけ隠して抽象的にしておかねばならない。
 一方の「野党」の反論も自分に都合の良いような話に終始するので、問題の本当の核心に迫れない。人々はそこに何か嘘くささを感じてしまう。何かを守ろうとすれば何かを捨てねばならない。それは致し方のないことである。ところが政治家はいつでも良いことしか言わない。まるで何か魔法の特効薬があって、それを選べばあらゆる事がうまくいくかのように言う。もちろんそんなことはあり得ないから、人々はますます混乱してしまう。
 今回の安保法制問題は表面上のひとつひとつは大変分かりづらい。しかしその根本を見ればそんな難しい話では無い。ここまでの経緯を見れば本質はすぐわかる。安倍政権の最大のテーマは憲法9条の廃絶である。安倍氏はそれを隠してもいない。その過程でしだいに安倍氏の思いとは違って国民の改憲への拒否感は強いことがわかってきた。そこで少しずつ少しずつ外堀を埋めるようにして実質的な改憲を進め、それを既成事実化することによって最終的に文言上の改憲を実現する戦略がとられることになった。これは実際上、これまで自民党が70年間進めてきた戦略の継続とも言える。
 つまり現在の安保法制は憲法9条を廃止することを目的としており、この問題は、9条を捨てるか、守るかということとして考えるべきなのである。そう考えれば実はそんなに難しいものではない。
 そしてもうひとつ付け加えれば、これは日本国民の品格の問題である。つまり憲法9条というのは、明治以降の日本の侵略による拡大政策を恥じ、どのようなことがあろうと(自分に不利になろうとも)同じことはしないという決意表明である。戦争放棄というのは侵略をしないということと同義であった。それではなぜ侵略放棄と書かれていないのか。それは侵略を侵略と言う政権はないからだ。侵略はかならず防衛行動として説明される。まさに「国民生活に死活的影響が生じる」「存立事態」と説明されて侵略は行われるのである。だから現実に侵略をしないと言うなら戦争をしないと言うしかないのである。
 実は問題は難しくない。ぼくたちが世界において品格を持った国であろうとするかどうか、自分のために戦争をするのか、世界のために戦争を放棄するのか、そうした国の品格であり続けるのかどうか、その選択なのである。

注目すべき中谷答弁

2015年05月26日 23時19分58秒 | Weblog
 事実上の憲法前文と9条の廃止と言える安保法制の審議が衆院本会議で始まった。もちろん語るべきことはたくさんあるが、ぼくは中谷防衛大臣の答弁に注目したい。
 安倍首相は5月20日の党首討論の場で「戦闘が起こった時は、ただちに(後方支援活動を)一時中止、あるいは退避することを明確に定めている」と答えている。このことに対して本日の代表質問で民主党の枝野幹事長は「そのようなことが出来るのか。そんなことをしたら同盟国の信用を無くしてしまう。このような中途半端なことではなく、はじめからはっきり法制上できないことはできないとするべきだ」と述べた。
 これに対して中谷防衛大臣は「日本の法律については事前に各国によく説明しておくので信頼を失うようなことにはならない」と答弁した。本当にそうなのか。
 ちょうど安倍首相が党首討論をした同じ日に、東京外大の教授である伊勢崎賢治氏が日本記者クラブで講演を行っている。伊勢崎氏はアフガニスタンや南スーダンなどでの国連PKOに長年関わってきた方だそうだが、この講演の中で「戦闘を前に撤退したら、完全に卑怯者となってしまう」と指摘した。はじめからケンカに加わるのを断るのと、ケンカの途中で都合が悪くなったら逃げてしまうのとでは、それは当然まったく意味も印象も違うだろう。
 中谷氏は今回の新たな法律が出来ても自衛官のリスクが高まることはないと言い切れるような人だから、何の矛盾も感じていないのだろうが、もし日本が自国の法律について説明すれば他国が納得する、何も信頼を損なうことはないと言うのであれば、それこそ日本国憲法があるから自衛隊は出せないと説明すれば良いだけである。そもそも湾岸戦争時に憲法の壁があって派兵できず日本は国際的に信用を失ったというのが、今回の法整備につながる発端の話ではなかったのか。なぜ以前は納得させられず、今回は納得させられると考えるのか、その点をはっきり説明してもらいたい。
 ようするに中谷大臣は、そして安倍首相の本心も、とにかく無内容の表面上だけの答弁をして、議論はやりましたという形を作り、最終的には数の力で決着をつけようということでしかないのだ。
 これでは本当に憲法はただの形骸である。そのことは実は誰もが知っている。国会論戦で語られていることは(「野党」も含め)何もかも嘘っぱちで、ただただ戦争のやれる国、国民統制をやれる国へと日本を改造するための形式的手続きを進めているだけだということを、誰もがわかっている。わかっていて、ある人は知らないふりをし、ある人は騙されたふりをしているだけなのだ。いったいこの国はどうなってしまったのだろう。なぜ人々はこんなにも無気力なのだろう。理想を忘れたのだろう。本当に情けない国、情けない国民になったなと思う。

イルカ追い込み漁と捕鯨問題を考える(1)~水族館の意味と太地町

2015年05月25日 15時27分01秒 | Weblog
 世界動物園水族館協会(WAZA)が日本協会(JAZA)に対して、追い込み漁によって捕獲されたイルカの購入を止めるように勧告した問題で、脱退を迫られた日本側はWAZAに従うことを決定した。これに対して自民党の捕鯨推進派は反発している。

 正直言って問題があまりにも一面化されすぎていて、話になっていないと思う。まず大前提として、今回の問題は動物園・水族館のあり方に関する問題であって、WAZAは直接的に太地町のイルカ漁を止めろと言っているわけではない。それはつまり分をわきまえて踏み込んでいないということでもある。もちろん国際社会がイルカ追い込み漁に賛成しているはずもないが、本当のところ問題意識は逆であって、太地町の漁が残酷だからいけないということより、イルカを捕獲して展示する残酷性の象徴として太地町がターゲットになったのである。
 太地町のイルカ追い込み漁を告発したとされる映画「ザ・コーヴ」の根底に流れる思想も、イルカを水族館から解放すべきという考え方だった。すでに世界の水族館ではイルカの入手が困難になっており、その少ない入手先を太地町に求めているということを告発するのが「ザ・コーヴ」の一番根底にあるテーマだったのだ。本来ならそこのところが冷静に論議されるべきだったのに、ナショナリストの扇動によって問題が民族差別へとすり替わり、議論はあらぬところに向かったあげくうやむやのまま消滅してしまった。
 極端に言えばすでに世界の趨勢は動物園廃止の方向に向かっている。これはもう30年以上前からの動きである。動物園は見世物から始まった。珍しいものを娯楽のためにカネを取って見せるというものだった。しかしやがて教育的意義が重視されるようになり、生き物を展示する博物館へと位置づけが変わっていく。さらに第二次世界大戦後になると動物虐待が社会的に否定されるようになり、その思想は動物園にも広がっていった。その一方で交通やメディアの急速な発展によって、実際の動物を動物園で見なくても、その姿や生態を理解することがさほど難しくなくなった。野生動物を自然環境から引き離すことが否定的にとらえられるようになったと同時に、動物園そのものの存在意義が薄れてきたのだ。
 今回JAZAがWAZAから脱退できなかった最大の理由は、動物園の国際的ネットワークから離脱できなかったからだが、それはつまり、現状では動物園に収容する動物をすでに野生状態から捕ってくることが出来なくなっているということだ。現在では動物園で飼育する動物は、動物園内で繁殖させたものであることが原則になっている。そうなると近親交配による問題などもあり、繁殖のためには動物園間で動物の貸し借りをしなくてはならない。JAZAはそのネットワークから離脱できなかったのである。こうなったのはもちろん種の絶滅を防ぐという意味もあるが、たとえばアフリカ東南部ではゾウの数が増えている地域もあるが、それでも沢山いるから動物園に収容するという考え方はすでに基本的にはほとんど無くなっている(公平に言えば、以上のことはあくまでも原則であって様々な状況で例外も多くあるが)。これは思想的な運動であると言って良いだろう。
 たしか昔は上野動物園に「お猿の電車」があった。見世物小屋の流れを引き継ぐ動物ショーのひとつと言えよう。しかしもうそんなことが出来る時代ではない。動物園は教育機関でありレジャー施設ではない、動物ショーは虐待であるというのが、今の常識なのだ。人気テレビ番組「天才!志村どうぶつ園」でチンパンジーの「パンくん」が使われたことに対して、環境省やJAZAが問題視し、スタジオ出演が停止となり、飼育先の施設がJAZAから脱退することになった「事件」を憶えいてる方も多いだろう。これまで許されてきたからと言って、これからも許されることにはならないのだ。
 もはや動物園、水族館を名のる以上、経営優先、集客優先であることは許されない。サーカスや動物ショーなどの娯楽産業と完全に区別されていくしかないのである。その結果、動物園や水族館が経営できないのであれば、それはもう教育機関としての動物園が必要とされていないということを意味している。残念ながら学校が減らされていく時代にあって、博物館や動物園が減っていくのもある意味で仕方ないことなのかもしれない。しかしそれは当然、その国の文化水準が低下している指標でもあり、良くも悪くも教育・教養よりも娯楽が優先される社会ということになるのだろう。もう少し突っ込んで言えば、教育・教養が楽しくない、それが本当の娯楽につながっていかない、刹那的で民度の低い社会になっていくと言うべきなのかもしれない。

 さて今回の問題に戻ろう。ぼくは本当のことを知らないが、太地町のイルカ追い込み漁の一番の目的は水族館向けの捕獲であるというのが「ザ・コーヴ」の主張である。そして多くのイルカを追い込んで一番状態の良いものを傷つけず捕らえ、それ以外のイルカを銛で突いて殺すのだという。一方、日本で広く信じられているのは、イルカを食用にするための漁だという説だ。しかし、本当に太地町の漁師は食用イルカの漁を主目的にしているのだろうか。それで本当に生計が立てられるのだろうか。また、もうひとつ考えられるとしたら、イルカが近海の魚を食べてしまいその漁獲量が減ることに対して、害獣駆除という意味でイルカ漁をしている可能性もある。
 とにかく太地町のイルカ漁にはわからないことが多すぎる。マスコミは「ザ・コーヴ」を偏見に満ちていると言うが、それではちゃんと太地町の漁を取材し報道しているだろうか。公平に事実が明らかにされないまま一方的に偏見だと言い続けるのであれば、情報操作と言われてもしかたない。だがかつてはちゃんと報道されたことがある。「ザ・コーヴ」騒動が起きるよりはるか以前のことだが、ぼくは、たしか深夜放送のテレビ・ドキュメンタリーでイルカ追い込み漁の現場を撮った映像を見た覚えがある。なぜ問題になっている現在、そうした報道ができないのだろう。太地町や自民党の政治家たちは、それが日本の伝統だというなら堂々と公開すべきではないのか。こう言うとよくの現場だってテレビには出ないという人がいる。しかしそれは公開されていないのではない。品川には「お肉の情報館」という施設が出来、人々に偏見と誤解を与えないため、また安心してもらうために、食肉生産の工程を詳細に説明している。マスコミがどこまで報道するかはともかく、食肉市場側では積極的に現場を公開しようと努力しているのだ。
 太地町の大きな問題の一つはその秘密主義にある。「ザ・コーヴ」によれば反捕鯨活動家を監視しているのは公安警察だという。たぶんそれは本当だろう。このように何かを隠そうとする権力と政治・思想的弾圧に囲われているイルカ追い込み漁の現状こそが異様なのである。さらに異様なのはそのことを伝えないマスコミだ。ここには現代日本のひとつの暗い闇が存在している。重ねて言うが、「ザ・コーヴ」問題以降、太地町ではイルカ漁のやり方を変えたとされているが、それならなおさら現場を(少なくともマスコミに)公開して、その正当性を主張するべきであろう。それをやらない(できない?)ところに大きな疑問を感じざるを得ない。
(つづく)

今日のネット署名

2015年05月21日 21時35分54秒 | Weblog
 ぼくは度々インターネット署名をしている。
 どれくらい意味があるのかは分からない。しかし別にたいした負担もないのだから、役に立つか立たぬかはともかく、ネット署名をして悪いこともない。そんな感じで参加した署名運動を紹介している。
 今日賛同した署名は次の署名である。

わかりやすい電気の”原材料”表示を求める署名
http://a06.hm-f.jp/cc.php?t=M388115&c=56782&d=e141



今日のネット署名

2015年05月20日 17時54分56秒 | Weblog
 ぼくは度々インターネット署名をしている。
 どれくらい意味があるのかは分からない。しかし別にたいした負担もないのだから、役に立つか立たぬかはともかく、ネット署名をして悪いこともない。そんな感じで参加した署名運動を紹介している。
 今日賛同した署名は次の署名である。

同性婚の法制化を、内閣総理大臣・法務大臣・国会に勧告してください。


大阪都構想住民投票に思う

2015年05月18日 00時00分45秒 | Weblog
 大阪都構想の住民投票は驚異的な投票率と大接戦という歴史に残る大変な闘いになった。そして最終的には反対がわずかに上回り大阪維新の会=橋下陣営が敗れる結果となった。
 ぼくは関東の人間で、大阪の問題は全くわからない。どちらの主張に理があるのか判断できない。住民の方々の判断にゆだねるしかない。ただひとつ気になるのは、橋下氏が事前に宣言したように本当に政治家を引退するのかどうかと言う点だ。関東は武士の文化だし、一度言ったことに二言があってはならないと考えるのが普通だが、果たして大阪はどうなのか。すんなり引退してくれたら、ぼく個人としては大変歓迎するところだが。
 だがそれにしても、橋下氏の事前の引退宣言には正直あきれた。彼はタレント弁護士から政治家に転身する当時は、国家の問題を前面に掲げていたはずである。ところがいつの間にか地方政治家になってしまった。その時は地方の問題を地方が解決することで、より国家が国家の問題だけに専念できるからと言い訳していた。ところがまたまたいつの間にか最大の政治課題が大阪都構想に変わってしまった。そしてついにそこに政治生命をかけると言うようになったのだ。橋下氏が政治家として一番悪いところは情勢にあわせて過剰な演出をするところだ。たぶん自分が政治家引退を表明すれば賛成票が増えるという計算からだったのだろうが、いったいそれが本心なのかただの戦術なのか疑惑を生むばかりだ。彼は既成政党や既存の政治家を「腐っている」などと批判するが、まさに彼自身がやっていることが信用できないポピュリズムそのものなのである。

 橋下氏の問題は置いておくとしても、今回の住民投票には他にも気持ちの悪い構造があった。官邸の介入である。
 菅官房長官は、賛成派が劣勢であると伝えられていた投票一週間前に、反都構想で共産党などと連携した地元の自民党大阪府連を「個人的には全く理解できない」と批判した。身内を切って橋下氏を応援したのである。それこそ「理解できない」批判である。安倍首相も昨日関西方面の視察に行ったが大阪府連を素通りした。もちろん官邸としては現在の安保法制=戦争法案の成立に向けて維新の協力を当て込んでいるからである。
 沖縄の場合もそうだったが、自民党は「地方創世」を口では言いながら、地方組織が総理の意に沿わなければ力尽くで従わせるようになってしまった。それは中央対地方というだけではなく、党内のリベラルに対しても同じことなのだろう。ヒトラーやスターリンと似たようなものだ。そしてもちろん民衆の民意も中央の圧倒的な力で押しつぶす。今回は本当に薄皮一枚でその目論見は頓挫したが、こんなことが続けば沖縄のような自民系や保守の中央への反乱はもっと広がっていくかもしれない。

 今回の住民投票は結果はともあれ、着実に地方の時代という状況が強まっていることを示した。国政選挙や統一地方選での低投票率、政治への無関心が言われるけれど、ちゃんとした争点が明らかならばこれだけ投票率が上がるのである。安部氏はそれをあえて避けて昨年末の総選挙を強行し、今になってその時の公約だったと戦争法案を正当化している。もちろんそんなことは選挙の争点になっていないし、そもそも今回の戦争法案がはっきり自民党の公約に書かれていたわけではない。しかし中央でいかにそのような姑息な手を使って勝とうとしても、問題が直接地方の問題として浮上した時にはそれは通用しない。安倍政権は東京・横田基地への米空軍のオスプレイ配備決定を公表したが、このような頭ごなしの軍事拡大政策は地元の反発を激しくするだけだろう。さらにそうした住民の反発を無視したら状況はさらに悪くなるしかない。
 地方の時代を生むきっかけになったのは民主党政権の成立だった。それは地方の保守・右翼勢力が中央の民主党政権に反発、不服従、独自路線をとるという構図で始まったことだったが、まさに一度開いたパンドラの箱は閉じることが出来なかった。中央が安部極右政権に変わっても地方の反中央の意識は消えていないのだ。

 中央政治と与党内部から反対派が一掃されて、一色に染まった独裁政治の様相を示してきた時、その歪みに対して中央対地方という形での新たなるバランス構造が作られ始めている。当ブログの前の記事で、日本が危機的状況に入ろうとしていると訴えたけれど、案外こういうところに危機を脱出する突破口が存在するのかも知れない。

危険なマスコミの自主規制

2015年05月17日 10時14分37秒 | Weblog
 安保法制の与党案と安倍総理の記者会見の中身には突っ込みどころが満載なのだが、マスコミの報道はあまりにも弱い。そもそもこの法案について解説(釈明?)する政治家も評論家も全く言っていることがバラバラで、本当のところなんなのか誰にも分からない。
 「戦闘地域には自衛隊を派遣しない」という内容一つとっても「戦闘」とは何なのか、説明する人によって全く違う。ある人は戦闘地域は国会が慎重に判断するし、戦闘が起こったらすぐに撤退するのだから心配ないと言うが、ある人は「戦闘」とは正規軍対正規軍の戦いを意味するのであって、潜伏ゲリラの攻撃や個別テロは戦闘ではないので、そういう事態で自衛隊が「交戦」しても法律には違反しないと言う。とりわけ「駆けつけ警護」などという状況では概念は限り無くあいまいになってしまうだろう。かつて小泉さんが総理答弁として「どこが戦闘地域かなんて自分に分かるはずがない」「自衛隊が活動している地域が非戦闘地域である」という迷言を残したが、きっと同じようなことになってくるのだろう。
 自衛隊のこれまでの殉職者とこれからの戦死者を同じレベルで語る安倍総理の安易な説明についても、ほとんど深い追及がない。数の面だけで言ってもこれからはそれに更に上乗せで増えるということだし、そもそも質の面で「死ぬ」のと「殺される」のとでは全く違うだろう。別に自衛官でなくてもこれまで政府関係者が海外で殉職することはあった。だが一般的な事故死とテロなどで殺されるのとではマスコミでも全く扱いが違う。

 以前にテレビ朝日の変質について書いたが、テレビはとりわけひどい状況になってしまった。安倍自民党の政策を真正面から批判する発言者はほとんど排除されている。もうテレビでは「戦争法案だから反対」とは言えないのだろう。今のテレビでは「言っていることは分かるがせめて慎重な審議を」がギリギリの線らしい。わずか数ヶ月の間にここまで後退してしまった。本当に恐ろしいことだと思う。
 おそらくまた一つ大きな転換点が来たのだ。安倍政権発足時から異様なまでに続けられてきたマスコミへの言論統制圧力に、ついに新聞もテレビも崩れはじめたという気がする。朝日新聞の吉田調書問題、テレビ朝日の報道ステーション古賀発言問題など、安倍自民党はマスコミの弱点を見つけるとそこを一気に突いて一点突破で足元をすくいにかかる。健全なマスコミなら、それはそれとして次の逆転のチャンスを狙ってしぶとく再起するのだろうが、おそらくもうマスコミにそんな力はない。すでに長期に渡る新聞離れ、テレビ離れによってマスコミはもう政府広報機関=大政翼賛機関としてしか生き残れなくなってきているのだろう。
 しかしその後に来るべき新たな「社会の公器」は存在しない。インターネットが普及し始めた時、一部にはこれがそうした役割を担うという論調もあったが(そして今でもネットの中に新しい公民社会が存在すると思っている人がいるが)、現実にはネットの向こう側にいるのは言わば四畳半から一歩も出ない自己中の引きこもりばかりなのである。リアルの世界に健全な社会が無いところでは、ネットは社会的ツールになるどころか、どこまでも個人的なツールへ純化していくしかない。

 それなのにリアルな社会では矛盾が蓄積するばかりで、人々の限界を越えようとしている。昔から金持ちケンカせずと言うけれど、余裕のある段階では人々は違う意見、違う立場を許容することが出来、交渉と妥協で社会のバランスを取っていられる。しかし21世紀のように誰にとっても限界に近づいた世界では、もはや力のある者だけが一方的に勝つしかない。力のある者自身が追い詰められているからだ。限界の社会では支配する者が一歩引いたら、たちまちそれまでの世界秩序が崩壊してしまう。もちろん永遠に勝ち続ける人はいないのだが、力のある者=支配者はその自然の節理にあらがおうとするから、社会は極度に緊張していく。
 しかし力のない者=支配される者も許容の限界まで行けば、もうそれ以上後へ引くことが出来ない。そこまで追い詰められたらついに爆発が始まる。

 現在のマスコミの完全屈服状態は、だからとても危険だ。もはや少数派の意見は抹殺されている。議論が無意味になり、あらかじめ決まった結論だけしか無くなっている。選択の余地のない、自分が意志決定に関われない世界が生まれてしまった。
 おそらく言葉であらがうことが一切できない社会になった時、暴力的な反撃が始まる。それは残念ながらもう世界中のあらゆるところで始まっている。だがさらに悪いことに、現代世界の支配者たちはすでに自分に敵対する有力な勢力をことごとく排除してしまっている。暴力的爆発に向かう人々は、だから皆個人でしか存在し得ず、それをコントロールする指導者のないままアナーキーに暴走するしかなくなるのだ。それはまさにカタストロフィの始まりである。

 近代は知性と理性の時代のはずであった。しかしまた一方で自由と欲望解放の時代でもあった。それは初めから矛盾していたが、マヨネーズのように乳化されることで、それぞれが単独のタマゴや酢や油でない画期的な調味料として食卓を豊かにしてきた。だが冷蔵に入れたり、こまめに混ぜ合わせたりすることを長く怠ってきた結果、それらの各要素は分離し傷み始めてしまった。悲しいけれど、もはや腐ったマヨネーズは捨てるしかない。ところがそれに替わる新しい調味料をまだ誰も開発できていない。
 腐ったものを食べ続けて腹をこわすのか、酢だけで食べなくてはならないのか、それとも美味い新しい調味料を自分で作り出すのか。ネットの前から動かないとしたらそれを選択することさえ出来ないかもしれない。



憲法の危機と民主主義と近代(9)~おわりに~積極的護憲主義へ

2015年05月16日 00時00分04秒 | Weblog
 日本国憲法は何を主張し、何を求めているのか。
 憲法は一般的な法律ではない。それは「国のかたち」であり、その国の「常識」の明文化である。それは個別詳細に具体的な罪と罰、事物の繊細な境界などを規定しているものではない。憲法が明らかにしているのは理念である。理念はつまりその人の人間性そのものでもある。
 憲法は本来的には権力者を縛りその暴走を防ぐ装置であるが、正常に機能している民主制においては、国民に主権者としての倫理の遵守と主権者たる覚悟を求めている。だから主権者である国民は理念を侵すものを押しとどめる義務がある。
 多くの国の中では改憲が頻繁に行われる国もあるが、しかし「普通」の国であれば、その憲法の核心的理念までは絶対に変更しない。普通の意味での改憲派はいるとしても、「自主憲法制定」などという現状の憲法を丸ごと廃棄してしまう事実上のクーデターを公然と主張する勢力はほとんどいないだろう。それはつまりヒトラーのナチスの手法だからだ(ただし必ずしも常にクーデターや革命という政治闘争手段そのものが不正であると言うつもりもりもない。それはまた別の問題である)。

 日本国憲法はぼくたちに何を求めているのか。
 先進的なこの憲法は、まさに文字通りの意味で「未来志向」の憲法である。その理念は制定当時からはるか未来を志向していた。理念であるから、もちろん具体的・現実的には中々その通りにいかないことがあるのは仕方がない。しかし高い理想を持っているのと、どこまでも現実に迎合して志をどんどん下げていくのとでは、同じことをするにしても全く意味が違う。人間の格を決めるのは(カネの力などではなく)その人の理念であろうと、ぼくは思う。
 日本国憲法がぼくたちに求めているのは、未来に生きることである。そして未来を守ることである。この世界は明らかに行き詰まっている。混乱・混沌と抑圧と暴力が世界を飲み込もうとしている。世界から急速に理念が失われようとしている。現状に圧倒され飲み込まれることに恐怖する人々は、目の前のことしか見えなくなり、ある者は過去に逃げ込み、ある者は我が身だけを守ることに汲々とする。しかし人類は類としてしか生きられない。言い方を変えれば人間はあくまでも社会的生物なのである。ましてやグローバルと呼ばれる時代に入って、人類は全地球規模で運命共同体となった。ぼくたちは現状をリアルに受け止め、そして全人類として未来を構築していかねばならない。そこにおいては自分だけ都合の良いことを言っているわけにはいかないのだ。
 日本国憲法はまさにそのことを理念としている。前文を読めば現憲法の理念ははっきりわかる。

 そして民主制における憲法が国民ひとりひとりに自らを律することを求めるとするならば、憲法を誰かにとって都合良く変更することは憲法の精神を否定することにつながってしまう。それはいずれにせよ憲法の力を弱めることになる。
 極右・安倍政権が「積極的平和主義」と言うなら、ぼくたちは「積極的護憲主義」を掲げよう。頑迷と言われようとも、変える必要のないものを変えてはいけない。対話と説得をあきらめてはいけないが、批判されようが絶対反対なら、絶対に反対し続けるしかない。
 堂々とした改憲論議をしろと改憲派は迫るが、そんなものは現在の日本には存在し得ない。憲法改「正」を主張するならば、まず現憲法を尊重し敬意を持たねばならない。そうでない改憲はクーデターでしかない。現憲法を尊重して現憲法の下で改憲を主張したいなら、改憲派はまず最初に、なぜ自分たちが今までずっと憲法を遵守できないで来たか自省すべきである。なぜ現憲法制定以前からこの憲法に反対してきたのか、そして安保や自衛隊、人権など、なぜ60年以上にわたって憲法を守らなかったのかを明らかにすべきである。そもそも現憲法に敬意を持ち、尊重する気の無い者が改憲を口にしたら、それはただ憲法を自分の利益のための道具に使うことにしかならず、憲法をおもちゃにすることにしかならない。そういう者がいくら新しい憲法を作ったところで、そのような憲法には正当性も権威も無く、何度繰り返しても誰も遵守することのない空疎な紙切れにしかならないだろう。

 ぼくたちは「積極的護憲主義」で行こう。それは憲法をただ護るのではなく、未来への足がかりとする立場である。今まで実現しなかった憲法の理念を遵守する国家へ日本を持って行こう。日本国憲法を基点にして世界の未来を考え、世界を変えて行こう。
 そのためには、まず知り、そして自分のオリジナリティでものを考えられるようになることが重要である。簡単でも楽でもないが、それだけが閉塞した現代を突破する方法なのだから。
(おわり)

憲法の危機と民主主義と近代(8)~「常識」の正体

2015年05月15日 00時00分50秒 | Weblog
 近代人であるぼくたちは、いずれにせよいつかは近代社会の常識と向き合い、新しい常識の世界に向かうことになる(もっともこの場合「ぼくたち」の中に、今生きているぼくたちが含まれるかどうかは難しいところだが)。だが自分の常識を冷静に検証することはすぐにでも出来るし、しなくてはならないだろう。

 常識ということから言うと、先述した「保守」という概念についても本質へさかのぼって考えていけば、おそらく多くの人が常識的に考える「保守」の様相も変わってくると思う。
 お気づきの方も多いだろうが、そもそも改憲論議においては保守と(いわゆる)革新という言葉の意味は逆転している。すなわち改憲派に属するのは表面上は復古主義、実態としては現状の肯定・維持を望む者たちであり、一方の護憲派の方は人類史・世界史レベルにおいてはむしろ過去の歴史を総括して別の次元へ転換させようとする者たちである。変えようとする者が保守で、守ろうとする者が「革新」と呼ばれている。これは大変象徴的だと思う。
 これも当ブログで以前から主張していることだが、本質的に言って共産主義は保守思想であり、資本主義は革新思想である。しかしたまたま時代が資本主義の時代であるから、現状変革対現状肯定の関係性で左翼が革新、右派が保守と呼ばれているだけなのだ。
 資本主義は常に流動していないと生きていけない。生産品目、生産方法、生産場所、消費者などは常に変化し、生産量と売上額は常に拡大していなければならない。資本と労働力は常に最も有利な条件を求めて移動し続ける。つまり資本主義は至上命題として「儲け」なければならないために、イルカやマグロのように死ぬまで止まることなく泳ぎ続けねばならないのだ。資本主義の原理は資本を拡大することにあり、資本が拡大しないなら投資するのは無意味となる。それくらいなら何もしないでお金を壺に入れて庭に埋めておいた方がよい。しかしもちろん本当にそんなことになったら人類は存続していけない。資本家が儲からないからと言って生産を止めたら、人間のあらゆる活動は停止してしまう。ここからわかることは、資本主義の時代において資本が行っている生産活動というものは、資本が「儲け」という目的のために行う活動であるのだが、しかし人類の全体史から位置づければ、資本家など存在しない時代においても人類にとって必要不可欠な活動として、別の論理、別の価値観から営々と行われてきた活動であるということだ。それがあったからこそ人類は生き残ってきたのである。
 共産主義はそうした人類の生産活動の原点を本質的なところにまで遡って位置づける。「儲け」という動機は歴史上の普遍性から言えば必ずしも必要ない。「儲け」が有ろうが無かろうが、人類にとって基本的に必要なことだから、どのような動機であれ人類がそれを放棄することはないし、それを市場経済と資本の論理から解き放って、社会が共同管理することは可能だ、というのが共産主義の根底的な思想である。共産主義が目指すのは平等であって、競争と格差ではなく、人間の意思=人間性によって支配される時代を作ることだ。そこへ向けての資本主義からの脱却なのである。だから共産主義思想の本質は人間が激しい変化に翻弄されることなく、生活を確保するという側面においては穏やかに生きることが出来、そのことを基盤にして、「儲け」ることとは違う別の人間的価値観・目的で生きることが出来る社会を目指すというところにある。つまり資本主義のような変化し続ける不安定な社会を否定し、前述したような生物として安定した生き方を保証するという意味で、本質的な保守思想なのである。

 繰り返しになるけれど、こうした考え方は資本主義=近代を脱するということを意味する。脱近代、ポストモダン、近代を超えるなどと言うと、何となく思想的なファッションやレトリックに聞こえてしまうかもしれないが、それはつまり資本主義を打倒するということである。こう言うととたんに多くの人が反発する。不思議というか滑稽というか、おもしろい話だが、ともかく資本主義打倒、脱資本主義という言葉は人々の心に穏やかならざる何かを引き起こすようだ。そしてまたそれは多くの人の耳にはエキセントリックに響く。
 しかしエキセントリックなものの中にこそ答えがある。ぼくたちが直面している人類史的難局を解決する最終回答は○×式で答えられるようなものではないし、選択式でもない。ぼくたちが必死で考え抜いて絞り出さねばならないのだ。人類が抜き差しならない矛盾に陥ったとき、その本当の答えは常にアクロバチックで、まるで謎々かとんちクイズの答えのようなのもなのである。それはこれまでの常識を完全に覆すものであり、ある人の要求と別の人の要求が真正面からぶつかり合い、ウィンウィンの余地のないゼロサムゲームで膠着してしまったら(まさに矛盾)、もはやその打開策はどちらの側に立つというレベルを超えた、とんでもない方法によるしかなくなるということである。
 こうした解決策の見つけ方は別に特別なものではない。人類ははるか昔からこうした手法を使って、どうしようもない矛盾から脱出してきた。その手法を弁証法という。今の人たちに聞きなじみがあるかどうか知らないが、「テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ」とか「正・反・合」などと呼ばれるあれである。
 答えは常に今まで人が誰も見ていない姿形をしている。ユークリッド幾何学やニュートン物理学では矛盾して解決できない問題が、非ユークリッド幾何学や相対性理論によって解かれる。人間の食べ物だとは全く考えられていなかったジャガイモが現代の人類を飢餓から救っている。人類が生きのびて次の世代につながっていくためには、抜本的な発想の転換が必要なのである。

 マルクスにしても、日本国憲法にしても、それは時代を先取りしすぎていた。そのことが意図的であったかどうかはともかく、だからそれは多くの人々にとってエキセントリックなものと映るのだろう。しかしそれらは決してお気楽な夢として提示されたのではない。それぞれの状況は全く違うけれど、それぞれ非常な危機感に迫られ、切羽詰まった中で作り出されたものであった。
 マルクスは自分の思想的信念と、時代の抱える不条理で巨大な悲劇的状況をなんとか結びつけねばならなかった。その哲学的営為が彼を経済学研究に向かわせ、画期的な古典経済学の集大成としての『資本論』へ結実させた。日本国憲法はいわば日本史上初めての敗戦と占領という危機的状況下で、日本人が近代日本のあり方と対峙し、その失敗を乗り越えるべく選択したものであった。
 それらはもちろん、それまでの社会の常識とかけ離れた、一見実現不可能に見える突飛な提起であったかもしれない。しかしそれらは追い詰められた末の、最後の解決の道として、現状の矛盾を乗り越える新しい方向性として、苦しみの中から絞り出されたものだったのである。日本国憲法について言えば、その過程をまさにリアルに生きた人々はそのことを自覚しており、だからこそそれを歓迎して受け入れ、護ってきた。そこには共有された強い危機感が存在していたのである。ところが、戦後の長期の自民党政権によってそうした危機感はどんどん排除されていった。人々は平和ボケに陥って危機感を失い、そしてもっと悪いことに欲ボケに陥って、人間としての方向性を見失うようになってしまったのである。

 しかしもう目を覚まさなければならない。いま目を覚まさないと、本当に目を覚ました時には悪夢が現実になっているかもしれない。自民党政権が長年にわたって人々にかけてきた催眠術によって、日本人は自民党が理想とする世界を「常識」だと思わされている。それはある意味で誠に島国的な閉塞性だ。かつて敗戦後からの20~30年は日本人はもっと謙虚だった。良くも悪くも日本人は「世界の目」を気にしていた。国際社会からの批判に対して敏感だった。それがいつのころからか批判をはじき返すことこそが強さであり、正しいことだと思われるようになってしまった。それはまさに自民党が長い時間をかけて人々に埋め込んだ傲慢である。
 指摘しておけばその傲慢はまさに明治時代の傲慢さである。安倍首相はさかんに明治維新を賛美し、たびたび国会答弁でも明治維新のあり方や精神について触れているが、その明治の思想的中心人物である福沢諭吉は「圧制もまた愉快なるかな」と言い放ち、たとえば台湾侵略について次のようなとんでもないアジテーションを行っている。

「(英字新聞が)日本兵がまたもを行いたりなどと蝶々するよしなれども…意に介するに足らず」

「我に反抗する島民等は一人も残らず殲滅して醜類を尽くし…兵力をもって容赦なく掃蕩を行ひ、葉を枯らし根を絶ちて一切の醜類を殲滅し、土地のごときはことごとくこれを没収して、全島あげて官有地となすの覚悟をもって大英断を行うべし」
(引用については「福沢諭吉ヘイトスピーチまとめ」を参照した http://togetter.com/li/807372

 そして福沢はその侵略論正当化の論拠を次のように述べている。

「文明の中心となり他の魁をなして西洋諸国にあたるものは、日本国民にあらずして誰ぞや。事情切迫に及ぶときは、無遠慮にその地面(アジア諸国の土地)を押領して、我が手をもって新築するも可なり」

「…無知蒙昧の蛮民をばとこごとく境外に追い払ふて殖産上一切の権力を日本人の手に握り、その全土をあげて断然日本化せしむることに方針を確定し…永遠の大利益を期せん」

「朝鮮人…人民は正しく牛馬豚犬」
(同じく「2014/09/03 「奴隷の群衆」「牛馬豚犬」…”元祖ヘイトスピーカー”としての福沢諭吉を徹底検証~岩上安身による名古屋大学名誉教授・安川寿之輔氏インタビューhttp://iwj.co.jp/wj/open/archives/166258

 自民党が戦後日本人の民主主義に対して陰に陽に仕掛けてきた洗脳(もしくはマインドコントロール)の中身は、まさにこうしたアジアの民衆を人とも思わない戦前の傲慢な帝国主義思想そのものである。そしてそれを自民党や安倍氏は悪びれもせず「日本人の誇り」と言うのだ。
 こうした中でいつの間にか日本人の常識は歪められ、批判を受け付けない独善的・島国的「常識」に変貌してしまった。その結果、日本人は実はどんどん世界に置いてけぼりにされているのである。今では日本人の「常識」は世界の非常識になってしまった。だが悲しいことにそれを多くの人は気づいていない。かつての人気テレビバラエティーに「ここがヘンだよ日本人」という番組があったが、それを放送していた局が今では「所さんのニッポンの出番!」を放送している。日本人はいつの間にか、自分を外側から眺めて自己批判的に見つめることを嫌い、外国人が日本を褒めまくってくれる快感に無批判に身をゆだねるようになってしまった。そして謙虚に、自己批判的に歴史に向き合おうとする人々を「反日」などと呼んで排除する空気さえ作られている。これこそ日本人の劣化というしかない。
 つい最近でも、世界動物園水族館協会が日本動物園水族館協会を太地町の追い込み漁によって捕獲されたイルカを飼育しているとして会員資格を停止したというニュースが流れた。当ブログでも昨年、何回か太地町の追い込み漁と映画「ザ・コーヴ」について触れたが(「イルカ漁批判とは何か」http://blog.goo.ne.jp/zetsubo/e/3d695c3f5b9274934b974b21348853ec 他)、「ザ・コーヴ」が社会問題化したのは2010年頃のことである。その時点で、本当の問題は漁の方法というより何故イルカ漁が行われるのか、つまり世界の水族館がイルカ・ショーのために無理なイルカ漁に頼っていることへの批判であったことは明白だった。それはもはや動物園は動物ショーを見せる見世物小屋であってはならないという世界的な常識の変化に伴ったものであったのに、マスコミや政治家はまるでこれが日本人に対する民族差別であるかのようなすり替えのキャンペーンを張り、今日に至るまでこの根本的な問題と向き合ってこなかったのである。このまま日本の協会が除名されるような事態に陥れば、それこそ日本は世界から孤立してしまう。
 またこの論考の最初の方で触れた軍艦島などの世界遺産登録に関しては、韓国が過去の朝鮮人労働者の強制労働の歴史を不問にしたままの登録に反対する運動を始めた。日本国内では韓国がやりすぎなだけで大勢に影響はないという論調だが、実際には当事国である日本は公式な発言権が制限されており、選定委員に入っている韓国が各国へ働きかけを強めれば選定が否決されてしまう可能性は小さくない。実際に国際的には日本に対して韓国と話し合って解決せよという圧力がかけられてきているらしい。日本人が「常識」「当たり前」と思わされていることは、必ずしも世界の常識ではないのである。

 「常識」はいつでもどこでも常識であるわけではない。ぼくたちは敗戦時の日本でそれまでの常識が一夜にして180度転換したことを知っている。そしてしばしば「常識」は権力者の情報コントロールと民衆の視野の狭さによって作られてしまうことがあるのも知っているはずだ。そのことを忘れてしまうのが、まさに平和ボケであり、戦争の風化である。自分の常識を常に疑い、検証し続けることはとても重要なのだ。
 憲法とはいわばその国の常識の明文化である。だから憲法論議は双方が常識を掲げた「常識」対「常識」の対立となる。しかしもしかしたら、それだけを眺めていても正しい判断は出来ないかもしれない。むしろ自分自身の常識の殻を破って全く別の視点から考えることが必要なのかもしれないのだ。
(つづく)

憲法の危機と民主主義と近代(7)~近代の限界と緊縛される近代人

2015年05月14日 00時00分13秒 | Weblog
 長々と述べてきたとおり、改憲論議は本当に根の深い、ぼくたちの根源的な本質に関わる問題である。しかし近代社会は本質を論議することを常に回避する社会なのでもある。それは近代社会が様々な価値観を容認し、共存することを前提にした社会だからだ。もし本質の議論をし始めたら、そこでは修復不能の対立が生まれ、社会を分裂させてしまうかもしれない。だから近代社会は形式を重んじる。多くの明文法が作られ、ルールが事細かく決められる。その文言はあくまで表面的で現象的であらねばならない。社会の構成員はその表面的ルールから外れない限り自由を保証される。
 近代社会は本質的な問題にさかのぼらない社会なのである。あらゆる問題は根本的な構造に手をつけず表面的な対処のみで対応していく。そのことを非難しているのではない。それは人類の叡智の現在的到達点でもある。それが現代の現実主義隆盛の根拠でもあるのだろう。
 近代社会に生まれ育ってきたぼくたちは近代人でしかあり得ない。だからリベラルも左翼も、多くの人たちが近代的思考でものを考える。前述したように近代社会に生きる人たち、とりわけ先進国の人々にとっては近代社会という前提があってはじめて自分という存在が存在しうる。近代の恩恵を受ける人々が近代を本質までさかのぼり、そこに闇と限界を見ることは自己否定、自己矛盾へとつながってしまう。だからその本質を問えない。それがつまり「保守」ということである。
 ついでに言えば、生物である人間は本能的に保守的である。環境が変わったら生物は生きていけない。出来る限り同じ場所、同じ環境に生息することを好む。しかし環境は変化し続ける。プレ・カンブリア紀に出現したシアノバクテリアが酸素を放出したため、それ以前の嫌酸素生物は絶滅し、かろうじて酸素をエネルギーに変えることの出来た生物のみが生き残って現在の大半の地球生物の先祖となった。中生代の終わりには隕石衝突によるものと言われる環境の大変動が起こり、恐竜類や大型爬虫類が絶滅、環境に適応したほ乳類が生き残って繁栄をはじめた。セイタカアワダチソウやミシシッピ・アカミミガメ(ミドリガメ)は、元々の生育場所とは全く違う日本の環境に適応して、どんどん繁殖地を広げている。ぼくたち人類自身も環境の変化に合わせてアフリカの熱帯雨林地域を出て、火や衣服などの道具を駆使することで地球全土に生息範囲を広げてきた。生物は基本的には保守的だが、生存に危機を与えるような環境変化に直面すると奇跡的な進化を遂げるのである。

 古生物学を単純にアナロジーすることは出来ないけれど、いま人類はまさに存続の危機に直面している。人間が本質的に保守的であることは否定できないとしても、変化しなくてはならない時は否応なくやって来る。それが手痛いインパクトによって筆舌に尽くしがたい苦しみを経てから変化するのか、事前に自らの本質を見つめ直し能動的に変化する道を選ぶのか。後者の選択肢ももちろん非常に困難な道ではあるが、決して不可能なことではない。
 ただしそれは近代を超えるということでもある。自分たちの常識を捨てねばならない。しかも人類史の歴史的流れを正しく理解して、捨てるものと継承するものを的確に判断しなくてはならない。
 極論であることを承知で言うが、近代までの人類はそこまで深く考える必要がなかった。これは多分にマルクスの史的唯物論に負うのだが、人類の発展の歴史は経済発展の歴史であった。経済の発展に伴って政治体制が進歩した。思想はそうした社会のありかたと密接に関係しながら生まれてくる。ところが人類の経済史は近代までは自然発生的に進歩してきた。そしておそらく資本主義が自然発生的な経済システムの最終形である。実はここに近代を乗り越えることの困難性の多くが存在している。多くの人が現代を最良の時代としてこれが永遠に続くと考えるのも、理由がないわけではないのだ。つまり近代までの歴史では人間が意図的に考えずとも次の時代へ移行することが出来たのだが、近代以降の時代はそうはいかず、人間が意識的に経済システムを設計し社会構造を作っていかねばならない。だから何を捨て何を継承するのかを熟考しなければならないのである。

 こう言うと、つまり人類社会の自然発生的進歩がこれ以上進まないと言うと、共産主義不可能論だとか俗論的な資本主義永続論が必ず出てくる。しかしそれは早計だ。よく共産主義者の平等主義を批判して「しょせん人間は自分の欲望で動くのだから平等なんか無理」「人は理想では動かない」というニヒルな言い方をする人がいる。確かにそれはそうかもしれないが、しかしやはりそれはその社会の思想によって位置づけられるものであろう。個人では抑えられないものを社会的に抑制するのは特別なことではない。むしろそれが社会の役割の一つなのである。近代においても、近代以前においても宗教、倫理、思想、法律など様々な社会的システムによって、社会が個人では抑えられない欲望を抑え、コントロールしてきた。
 また「人間は儲からないことはやらない」という言い方もある。しかしこれも時代に規定されている考え方だ。近代すなわち資本主義が全ての価値を貨幣で計る社会だから、人間が求めるものの最大公約数がカネになるだけのことではないのだろうか。逆説的な言い方をすればカネが万能だから人はカネを求めるのである。
 もし人間社会の根本的価値基準が貨幣でなくなったら、人の考え方の方も変わって不思議はないだろう。たとえばアマチュアスポーツの選手は(今ではだいぶ変わってしまったかもしれないが)原則的に金銭や財産ではなく栄誉を獲得することを目的として闘う。ミュージシャンはまずもって良い演奏をすることを目指し素晴らしいステージが出来たら満足できる。職人は自分にしかできない仕事をすることで充足する。ただし現代社会では、まず第一に自分と家族が生きていくため、そしてその仕事の必要経費を獲得するためにお金が必要となり、第二に自分に対する評価を客観的に(社会的に)明らかにするため、報酬という数字で表現できる対価を求めることになる。だが仮に貨幣がない社会であったとしたら、もしくはベーシックインカムのような制度によってとりあえず何をしても自分が生きていける条件が整っていたとしたら、仕事をするための資本が全て公共財として提供される仕組みがあったら、そこでの人間の目的はカネではない何か、たとえば精神的な満足とかに置き換わるのではないだろうか。
 人間がカネに縛られる社会というのは実は人類の歴史の中ではごく短い期間しかないと言える。当然貨幣が発明される以前の人類はそうだし、封建時代においてさえ社会の多くは貨幣経済以外の経済によって成り立っていた。そして各時代の価値観や個人の行動の動機付けも様々だった。
 ただ、未来社会の設計図を書くことは出来ても、その社会における人々の意識がどう変化するのか、そしてその結果なにが起こるのかまで予測するのは難しい。共産主義は未来の経済システムの概要について語ることは出来るが、それ以上は保証しない。それはその時代の人々が問題と向き合いながら解決していくべき事柄だからだ。人間の行動と欲望、モノと貨幣や流通の連動関係は、歴史性を含めたその社会の仕組みや価値観、思想によって異なり、単純、一概に言えるようなことではない。だからとりあえずここでは、別の時代、別の社会、別の価値観においては、ぼくたちの常識が当てはまらないこともあり得るのだということを指摘するにとどめておく。

 ともかくも近代人は本質に遡ることを知恵として回避しているが、いつか(それは今かもしれないが)そこと対峙することになる。ぼくたちがいま常識だと思っていることを捨てて、新しい常識へと変わっていかねばならない時が来る。しかしそれは、人類として、また生物として不可能なことでも、恐れるようなことでもないのである。
(つづく)

憲法の危機と民主主義と近代(6)~「改憲」とどう向き合うか

2015年05月13日 00時00分53秒 | Weblog
 前々章で指摘したように、自民党と改憲論者は、そもそも最初の最初から日本国憲法を否定し、これを守る気などなかった。そういう者が、いわば一度も憲法に従属したことのない輩が、この現在の日本において改憲を主張してよいものなのだろうか。もちろんそういう立場もあるだろう。しかしそれはつまり革命もしくはクーデターの立場である。根底的に戦後の日本を否定する立場である。自民党(と自民党にルーツを持つ改憲派)は、少なくともそういう立場であることをちゃんと明らかにするのがフェアだろうと思う。

 いずれにせよ自民党は何が何でも改憲を実現するつもりだ。ストレートな9条廃絶には未だに国民世論の反発が大きいと判断して、まずはハードルを下げて改憲の実績を作り、一方で既成事実を積み重ねることで最終的には自民党草案に沿った改憲を実現しようという戦略のようだ。連休明けの国会では衆議院の憲法審査会が再開されたが、この席で自民党の船田元議員は「緊急事態条項、環境権をはじめとする新しい人権、財政規律条項の設定」を優先的に議論するテーマとしてあげた。
 しかし繰り返すが、自民党の改憲運動は「時代遅れ」の憲法を現代の状況に適合させるためのものではない。戦前からシームレスにつながっている大日本帝国護持・復活運動なのである。船田氏は「お試し改憲」というマスコミの揶揄的な指摘を否定したが、いくら否定しようと、今日的テーマを持ってくるのはそれが本当に必要なのではなく、本音を隠すための目くらましでしかないのだ。
 だいたい国民の誰が「緊急事態条項」とか「環境権」とか「財政規律条項」が憲法に明記されていなくて困ったことがあっただろうか。もちろん中にはこうした条項を憲法に明記することで、国家の絶対的優先事項にされた方がよいものもあるかもしれない。しかし、あなたは現在の政府、国会、地方、企業、資産家・投資家などが、「環境権」や「財政規律条項」を本気で最重要課題にすると思うだろうか。前章でも書いたが、もしその気があるのなら、改憲以前にとっくにやっているだろう。まったく人を馬鹿にした改憲論議だと言うしかない。

 自民党や右翼勢力による改憲策動を前にして問われているのは、テクニカルな問題では全くない。問われているのは思想であり人間性である。もう少し具体的に言えば我々が人間として何を守り何を捨てるかということである。もちろん簡単な問題ではないが、だからと言ってそんなに難しい問いでもない。なぜなら憲法は細かい現実的な対処を求めないからである。そこに求められているのは理念であり大きな方向性だ。そうである以上、自分の胸に手を置いて考えれば、答えはおのずと出る。
 もっと具体的に言えば、今問われているのは「平和を捨てて権益を守るか」「強欲を捨てて安定を守るか」ということである。
 これはもちろんきれい事ではない。現実を生きる人間として泥を被る決意を持たなければ答えられない問いである。どういう決断をしても、ただ幸せで平和で楽しい世界など待っていない。政治家が甘くささやきかけるようなウィンウィンも「いいとこ取り」もない。今我々が生きているこの社会が、良くも悪くも近代社会である以上、誰かが勝ったときには当然誰かが負けている。何事にもメリットとデメリットがある。
 平和を捨てて権益を守ろうとすれば、世界中と過酷な戦いをしなくてはならなくなるだろう。生きのびるためには誰かを犠牲にしてその上に這い上がらねばならない。その道の先に行きついた見本が現在の米国である。
 一方、強欲を捨てて安定を守ろうとすれば、経済的繁栄、世界トップクラスの経済大国の立場を捨てなくてはならないだろう。もっともそれはただ「普通の国」になるというだけのことだが。国際社会における平和も、より神経質に多くの気遣いと妥協を繰り返しながら維持していくしかない。しかしそれこそが外交であり、知恵と勇気と忍耐力があれば、不断の努力で実現可能なはずだし、しなくてはならない。それこそが憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」することだからである。
 夢のような特効薬はない。繰り返すが現代社会にウィンウィンはない。もしあるとすれば、それは誰も負けないという場合だけである。そしてそのことが意味するのは、誰も勝たないということであり、別の言い方をすれば結果的平等と言うことでもある。誰もが勝つようなユートピアは存在しないが、誰も勝たない平等社会は実現しうる。それが本当のリアルである。逆に言えば社会の基準に勝ち負けを据えていることこそが誤りなのであり、それが近代の決定的な限界なのである。

 「平和を捨てて権益を守るか」「強欲を捨てて安定を守るか」という二者択一は、別の視点から言えば、現状を変更のしようがない絶対的な前提として、それを堅持しなくてはならないと考えるのか、それとも現状という前提を全て捨て去って、もう一度最初の根本から考え直そうとするのかという立場性の問題でもある。
 安倍氏は戦後政治の総決算、戦後レジームの清算などと言っているが、しかしやっていることは戦後の保守政治が一貫して進めてきた対米従属、再軍備、国家統制強化、覇権国家復活という路線の徹底化でしかない。ただ一本にひかれた線路を突き進んでいるに過ぎない。

 一方で日本人・国民・有権者の大半も、現在と過去にとらわれ続けている。今の生活に不満があるのにもかかわらず、同時に今の生活を捨てたくもない。変化することを極度に恐れている。現在の日本が世界的に見て突出して贅沢であり、それだけ地球に負荷をかけ、世界の人々から奪い取っていることに無自覚で(と言うよりそういう事実を直視したくないのだろうが)、今の状況が普通で当たり前だと思っている(もしくは思いたがっている)。本当のことを言えば、日本人として日本に生まれたというのは偶然プラチナチケットを手に入れたようなものだ。誰もこの特権を手放したくない。
 しかし、自分は変わりたくなくても世界はどんどん変わっていく。栄枯盛衰、盛者必滅が世界の法則なのだ。最近さかんに「日本が沈んだ」「没落した」と言われ、政治家は「再浮上」「復活」「失地回復」などと叫ぶが、よく考えてみよう。日本のどこが没落したのだろうか。そうではない。まだ日本は沈んでいないのだ。日本はこれから没落するのである。残念ながら歴史的視座で見ればそれは避けようのない事実である。永久にチャンピオンであり続ける人はいない。現状はそうした没落の兆しがわずかに見え始めただけの段階でしかない。
 いわゆる「三丁目の夕日」症候群というか、1960年代へのノスタルジー・ブームがある。多くの人が指摘するように60年代は事実としては決して住みやすい・生きやすい時代ではなかった。それなのに人々がそこに惹かれてしまうのは、それが高度経済成長・右肩上がりの時代だったからだ。だがそうした成功体験の過去にいかに憧れても、もう歴史は繰り返さない。日本は、そして人類はもはやそんな時代にないのである。

 人々はいわば現在の安楽な現状を変えたくない。変えたくないから「変えられないもの」であると考える。近代=資本主義社会はだから唯一の正答になってしまう。一方で近代=現状が地獄でしかない人々がいる。たとえばアフリカの絶対的貧困の中にいる人々、ヨーロッパ社会の中の差別される移民たち、日本国内でイジメを受け、もしくは疎外を感じ続けている若者。そうした人々にとっては現状は死活をかけて打破せねばならぬ鎖であり壁である。そうした人々が近代社会を憎み、現状の秩序を破壊すべく、イスラム国に走ったり無差別殺傷事件に走ったりしているのだ。
 もちろんぼくたちは、イスラム国や通り魔になることが解決の道にならないことをよく知っている。しかし近代にしがみつき、現状の前提を変更することを拒み続けるのも、また行き止まりの道なのである。

 改憲論議はすでに動き始めてしまった。日本国憲法を護るのか、それとも似て非なる別の道を選択するのかという問いを、ぼくたちはもう回避することが出来ない。それは実のところ維持か変化かという問いではない。護憲を選択するにせよ、改憲を選択するにせよ、それは歴史の分岐点でどの道を選択するのかという能動的選択にならざるを得ないのだ。そして前述したようにそれは、現状の前提を堅持するところから考えるのか、それとも前提を捨てて根本から考えるのかという本質的な選択なのである。
 ところが、ほとんどの人はこれが非常に重大な分岐点であることを自覚していない。重大問題だと思っている人でさえ、おそらくその本当の重要性が理解できていない。それはリベラルも、実は左翼でさえそうなのである。そこには近代の持つ更なる限界性が存在しているからだ。それは本質的論議を常に回避するという近代の特性である。その結果、自分自身に突きつけるという自己批判・自己否定的思索が行われないのだ。
(つづく)

憲法の危機と民主主義と近代(5)~リベラル改憲派の誤り-田中秀征氏を批判する

2015年05月12日 00時00分21秒 | Weblog
 憲法が時代遅れになったという改憲論者の主張は、歴史的に見ればただの口実に過ぎないことがわかる。しかしリベラル派の中にはそれを知って知らずか、「平和主義は守るべきだが、時代遅れになった部分は改正すべきだ」という主張をする人たちがいる。あらかじめ言っておけば、それは仮に善意で言っていることであったとしても、最終的には改憲派の唯一の目的である9条廃絶=戦争国家としての再立国策動の後押しにしかならない。そもそも彼らの主張するところの「時代遅れ」になったという部分は、実際には憲法を改正したら解決できるというような問題ではなく、また国会、政府、政治家に本当にやる気があるのなら、憲法を改正するまでもなく実現できるような内容でしかない。彼らリベラルの主張は、だから一見正しいように見えて、大局からみれば(そして大局から見るのが憲法の本来的なあり方なわけだが)危険な誤りだというしかない。

 このようなリベラル系「時代遅れ」改憲論者のひとりである、もと新党さきがけ代表代行の田中秀征氏の主張を考察してみよう。田中氏は、改憲派の増加を肯定的に評価して「いろんな点で不備が出てきていると感じる人が増えてきた」として、改憲派の中にも、田中氏のように純粋に時代に合わない部分があると考えている人たち、もともとの自主憲法制定派、それに集団的自衛権をどうしても合憲化したい人たちの三種類がいる、そして、「一言一句変更を認めなかった護憲派が悪かった」「それが現在の(歯止め無き解釈改憲という)状況を作った」と護憲派を批判し、堂々と恐れず改憲論議をするべきだと主張している(TBSテレビ「サンデーモーニング」15/5/3)。
 しかしこの理屈は歪んでいる。まず護憲派批判について言えば、田中氏の主張を歴史的脈略で言い直すと、国家に対して国家の最高法規であるところの憲法を遵守させようとした人々の方が間違っており、そんなことをするから法を守ることの出来ない連中が法を無視するようになるのだということになる。田中氏は憲法が時代に合わないことの例として三権の相互チェックの不十分性を挙げたが、しかしそのような課題はこれまで改憲論議の前面に出てきたことが無く、護憲派がその点での改憲をこばんだことが理由で自民党が解釈改憲を広げてきたわけではない。田中氏の言い様は法を破る側が強いのだから、そうした力を持った者の言い分を認めない方が悪いと言っているように聞こえてしまう。冒頭に書いた開き直った交通違反者のたとえと根は同じである。
 また改憲派には三種類いると言うが、はたして自主憲法制定派と集団的自衛権確立派との間にそんなに違いがあるのだろうか。もしあるのだとしたらその本質は何が違うのだろうか。実際にはかなりの部分で重なっているのではないのか。さらに言えば、自主憲法制定派も集団的自衛権確立派も、やはりその論拠として「時代に合わない」と主張しているのではないだろうか。そうだとするとこの三者の違いは一体何だというのか。
 この話が混乱するのは、集団的自衛権などはっきりした具体的な要求の主張と、「時代に合わない」というその言葉自体はなんの意味も明らかにされない抽象的な論拠が並立されているからである。時代に合わないのなら何が合わないのか、それこそ三権分立問題など明快な論点で議論しなければ、話はどんどん迷宮化して行ってしまう。これは護憲派が議論に乗ってこないからなどということとは全く別の問題である。憲法の特定の部分が時代遅れだと思うなら、そう思う人の方にこそその議論を広め深め、それが議論の中心になるように努力する責務がある。
 なぜ田中氏は「三権分立問題」と言わずに「時代遅れの問題」という総花的な言い方をするのか。実はここにひとつのレトリックが存在する。つまり9条廃絶とか集団的自衛権などの課題に並びうるほどに「三権問題」が重要であると思う人はいないのである。というよりほとんど存在しない、絶対的少数派だと言って良い。それは公明党の環境権なども似たようなものだ。ようするに田中氏が三種類のうちの一つ目にあげた純粋な「時代遅れ」派は、個別具体的には各々極めて少数派であり、それは言い換えればその課題が国民的議論になっていない、つまり多くの人が憲法を改正するまでもない問題だと認識しているということなのである。だからそれは、ある人もしくはある小グループの強い思い込みであるか、もしくは改憲論議の本質から人々の目をそらすための目くらましでしかないと言うしかないのだ。

 そもそも現状の憲法のままでさえ、長い期間にわたって自衛隊は存続し続けている。普通に憲法を読めば海外派兵はおろか、自衛隊の存在自体が違憲であるのは明白だ。しかしそれでも自衛隊は現実に社会的地位を認められ、現実に必要とされ、容認されている。
 そうであるならば、たとえば環境権が憲法に明文化されておらずとも、それを保証する法律をしっかり作れば十分なのであって、それが最高裁で違憲であると判断されたらその時はじめて改憲を論議すればよいのである。もっと皮肉な言い方をすれば、仮に憲法の条文を変えたところで、今のような現状ではそれがただちに何かを実現したり、抑止したりすることにはつながらないだろう。おそらく肝心なのは本当にそれを実現するという強い意志なのである。環境を守るという強い意志を政府や国会が持つならば、憲法の明文化によらずともそれを実現することが出来るだろう。なにしろ自民党の強い意向で自衛隊の在外基地建設さえ行うことが可能なのだから。
 本当のところ問題なのは、改憲自体というより政府や自民党が何をしてきたか、何をしたいのか、何をしようとしているのか、という事なのである。自民党や右翼が思い通りに日本を動かそうとしてきた、そしてこれからもしていこうとしている事こそが問題なのだ。解釈改憲がどこまでも進んでいく現実がそれを示している。改憲が始まりなのではなく、改憲はそうした自民党や右翼の路線の追随でしかなく、事後承認、後付けの論拠作り、既成事実の永久固定化なのである。
 だからこそ護憲派は改憲に反対してきたのであり、そもそもまず政府が憲法を遵守すること、原点に戻って日本の政治を憲法に則って正常化し、それが出来て初めて、現憲法に日本と日本国民にとって桎梏となる点があるのかどうかの議論が可能になるのである。40キロ制限の道路を80キロで走り続ける者たちが、取り締まられることもなく、歩行者や制限速度を守る人たちに80キロ走行を無理矢理認めさせるのでは、法治国家でも何でもなく、そのどこにも説得力はない。

 見てきたように改憲問題の論点は、現実的には9条が象徴する平和主義、人権主義を護持するか、廃絶するかという一点しかない。もしくはもっと大きく言えば戦後憲法を守るのか、明治憲法を復活させるのかという問題以外ではないのである。それ以外の議論は(少なくとも結果的に)結局は中心軸を隠す目くらましに過ぎない。
 そうした目くらましの中には笑ってしまうような稚拙な論議もある。現憲法は文語調で難しいというものである。それならまず現代文に翻訳すればよい。原文に忠実に現代語訳してとりあえずそれを差し替えれるだけで済む。そのような改憲ならハードルはかなり低いだろう。まずそれから初めて、そこで多くの国民がよくその内容を把握できる状態にしてから内容的な改憲議論をすれば、おそらく現在の改憲論議よりずっと実のあるものになるだろう。そんなことは誰だって思いつくのだが、しかし誰も提言しない。それはそんなことをすると逆に現在の改憲論に不利に働いことが分かっているからなのか? 情けないほど低レベルの論議である。

 ここまで田中氏の主張を批判してきたが、しかしもちろん田中氏が主張するように現在の憲法ではどうしても問題が解決しないという本当に切実な問題があるのなら、それは無視するわけにもいかない。加憲という言葉を使いたがる勢力もあるが、本当に憲法に足りないところがあるなら、現在の憲法を否定しない上で加えるところがあってよいのかもしれない。
 ただどうも本当は問題が逆なのではないかと思う。つまり憲法に足りない部分があるのではなく、憲法が規定していることが多すぎて、それを遵守できない(したくない)というのが、為政者や改憲論者の本音なのではないのか。というのは自民党的な意味での加憲は、加えると言いつつ実際上は国民の権利を奪い政府の権限を強めるものだからだ。緊急事態条項などが典型だが、これは実質的には憲法に規定されている制約を取り除く方向の条項である。

 最近よく立憲主義について語られることが多い。憲法とは権力者を縛る法律であるという思想である。もちろんそれ自体は間違っていない。現在の政府・自民党という権力が、前記のように自分を縛るものを排除してフリーハンドを得ようとするなど、憲法の原則から考えて認められるはずがない。
 だが、確かにそうではあるのだが、もう少し掘り下げて考えてみると、民主政体においてはその権力者の概念が少し微妙になってくる。なぜなら民主制は主権在民、国民主権の思想であるからだ。実態としての事実は一応置いておくとして、建前上は国民全てが権力者なのである。
 この場合「権力者」を「政府」と置き換えられれば分かりやすいのだが、しかし必ずしもそう言ってしまってよいのか自信がない。ぼくはむしろ民主制における憲法は政府を含めた国民全てにとっての自律自戒と考えるべきなのではないかと思う。たとえば言論の自由であれば、それを守るのは政府だけの義務ではなく、誰であろうと侵してはならないのであって、右翼がテロの恫喝でもって誰かの言論に圧力をかけるなどということはあってはならないのである。もちろん逆に批判の自由は、自分にとって不利であろうと認めなくてはならない。
 さらに指摘するならば、事実として現在の日本の実質的権力者は政府だけではない。財界=大資本もそうだし、マスコミも権力である。大雑把に言えば右翼勢力も権力もしくは権力の一部と言えるだろう。政治家や官僚だから憲法に縛られるべきで、財界、マスコミ、右翼は一般国民だから縛られないでよいなどということが言えるはずがない。

 こうしたことを考えると、改憲という行為はまずもって自制的でなくてはならないということになる。政府か国民かという区別無く、誰かにとって有利なことが別の誰かにとって不利になるというような改訂は、基本的にやってはいけないということになるのではないだろうか。もちろんそのために日本国憲法は改訂について大変高いハードルを設けている。改憲論者は日本の憲法は変えづらいから問題だと言うが、実はそれは日本国憲法が憲法の本質を正しく位置づけているからではないのか。
 繰り返すが、法律はとりわけ憲法はぼくたち自身を縛るものである。もちろん他者も縛るが、それが正当化されるのは自分も自ら縛られることを容認するからである。だから自分に有利な方向に変更しようとすること自体がそもそも問題なのだ。憲法は思い通りに変えられるものであってはいけないのである。変えられないからこそ意味があるのだ。
(つづく)

憲法の危機と民主主義と近代(4)~リベラルの誤算と改憲論者のまやかし

2015年05月11日 00時00分34秒 | Weblog
 もう一度論点を振り返ってみよう。現代の多くの日本人が体制に対して批判さえ出来ないように(ソフトに=思想的・精神的に)封じ込められてしまったのは、長期にわたる自民党政権の支配戦略の結果である。そしてそれを許してしまった要因の一つは、リベラルと呼ばれる人々の限界があまりにも大きくて、それに抗することが出来なかったことにある。さらにその背景には日本の民衆が自らの手で、自らの血と汗によって民主主義を獲得した歴史を持たず、そのためリベラルたちも本当のところ何が最も重要なのか理解できずに来たということがある。

 戦後の右翼と自民党政権とリベラルと左翼の関係性を図式的に言えば以下のようになるだろう。
 もともと自民党は戦後のまだ過渡期と言える時代に、資本主義体制を守り発展させるために連合(野合?)して出来た政党であり、その内部には戦前からシームレスに明治的帝国主義を継承している勢力から、戦後のアメリカ型自由主義を信奉するリベラル派までが混在していた。
 一方の左翼勢力の基本的立場は近代=資本主義の限界を見すえ、次の時代を社会主義の時代として能動的に作り出していこうとするものだった。ただ付け加えておくならば、事実として左翼自身もまた近代に完全に飲み込まれており、近代を乗り越える力量も意識も決定的に不足していた。そしてそのこともあって、左翼自身が自分たちと資本主義者であるリベラルとの区別を明確につけることが出来ず、おそらく混乱もあったのだろうと思う。このことにさらに付け加えれば、左翼の大半もまた自らの手で民主主義を獲得する戦いを主体的に経験しておらず(身も蓋もなく言えば「遅れたアジア」の半封建主義の状況を主体的に打破する前に、突然天から降ってきた民主主義を労せず手に入れただけだった)、民主主義の意味と限界を理解できないか、もしくは間違って認識してしまった部分も大きかったと考えられる。
 戦後リベラルはだから当然ながら大枠としては右翼と同じ陣営に属しており、そこに脅威を与える左翼を認めることは出来ず、これを排除する立場に立った。そしてソ連の崩壊と55年体制の終焉=ポスト冷戦の到来によって左翼が駆逐されたとき、今度は自らが排除される側に置かれてしまったのである。リベラルが忌み嫌った左翼の存在こそが、実はリベラルの立場を保全するための要石だったのだ。こうして今では本来のリベラル派が「左翼」という、誰にとっても不本意なカテゴリーにくくられるという皮肉が起きている。

 しかしそれでもリベラルはどこまでいってもリベラルで(当然か…)、その不見識も今に至ってなお続く。その代表格が鳩山由紀夫元総理だろう。その言っていることとやっていることのチグハグさ。それはリベラル特有の本質を問わない曖昧さを見事に表している。自らの内部に渦巻く矛盾をそのまま表出させているのだ。
 このリベラルの限界性は改憲論議を見てみればよくわかる。

 かつての憲法論議は明快だった。改憲は右翼、護憲は左翼であり、改憲論議はその両陣営による最前線の激突だった。もちろんこの戦いはあくまで資本主義日本という舞台における戦いであって、いわばアウェイである左翼にとっては矛楯をはらんでいた。日本国憲法は明らかに資本主義を基軸的前提にした憲法であり、しかも天皇条項を含んでいる。本質的には左翼的立場とは全く違うものである。
 左翼は当然そのことを自覚した上で、なおあえて「護憲」の側に身を置いた。それは自ら革命を成し遂げられない状況下では次善の策だったからだ。
 右翼はその主張は復古主義に寄りながら、事実上は、国際関係的にはアメリカと一体化することによって、今度は米国と対立しないですむ覇権国家・軍事大国化を実現し、国内的には国家主義的統制社会によって国民を為政者に従属させるシステムの構築を目指した。それが改憲策動における昔も今も変わらぬ最大にして唯一の意図である。
 リベラルの立場はその中であいまいだった。彼らにとってはある部分では近代主義の原則的な理念を守るべきだという理想がありつつ、しかし現実においては自分たちのビジネスにとって最も有利な条件が必要であった。当ブログで何度も指摘しているように、それは根本的に矛盾する。リベラルはその狭間で常にぶれ続けるしかなかった。

 最近の改憲論議の中では「時代が変化したから」「時代に合わせなくてはならないから」と言う主張が前面に出てきている。具体的なその中身には様々な見解があるとしても、確かに時代との関係性で問題を考える立場は一般論としては間違っていない。リベラルの中にもこういう「時代遅れ」論を口にする人は多い。
 しかし改憲論議の歴史を振り返ってみれば、これがただの口実、後付けの意味付与でしかないことは明白である。逆に改憲論者に問いたいが、それでは日本国憲法はいったいいつから時代遅れになったのか。
 自民党憲法改正推進本部長である保利耕輔氏は「自主憲法制定は立党以来のわが党の党是だ」と明言している(自民党のホームページより)。自民党の結党は1955年だからその時にはすでに改憲(自主憲法制定)派であったことになる。結党当時にすでに改憲派であったと言うことは、当然それ以前の歴史があるはずだ。実は保守合同で自民党の母体となった日本民主党(鳩山一郎総裁、岸信介幹事長)は、すでに自主憲法制定を唱え再軍備を主張していた。さらにその前身組織のひとつである日本進歩党は、終戦直後に戦時中の大政翼賛会に参加した議員が中心になって結成された政党だが、帝国憲法体制擁護の主張が強かったと言われる(以上の歴史はウィキペディアを参照した)。
 つまり自民党の改憲論のルーツを探っていけば、戦争を積極的に遂行した勢力が、戦後も大日本帝国憲法護持を主張し、日本国憲法を否定するところから一貫して切れ目無くつながっていることがわかるのである。日本国憲法が時代遅れになったどころか、現憲法が制定されるよりずっと以前から続いている流れだと言えるのだ。
 憲法「時代遅れ」論は、それこそ時代に合わせた口当たりの良い新しい改憲の口実に過ぎないのである。ようするにただの嘘でしかないのだ。
(つづく)

憲法の危機と民主主義と近代(3)~民主主義の基礎は何か

2015年05月10日 00時00分52秒 | Weblog
 現在の日本の右傾化=ナショナリズムの高揚と軍事国家化には、もちろん世界史的同時性の側面もある。それこそグローバル化した世界では世界中のどこかの国の問題が、別の国の政策に大きな影響を与えるざるをえない。ヨーロッパにおけるネオ・ナチ勢力の伸張、中東やアフリカ、中央アジアに広がるイスラム原理主義武装勢力、極東と東南アジアにおける領土・領海問題の激化と軍事的緊張の高まり、米国におけるキリスト教原理主義とネオコンの再浮上、中南米での根強い反米主義、そしてその背景にあるグローバル企業による世界支配と、格差と貧困の究極的な激化、地球環境=人類の生息環境の加速度的壊滅。そうした世界的な政治・経済・環境・軍事的状況に引きづられて日本の右傾化が進んでいることは否定できない。

 とは言え、ただ歴史に流されていくだけだとしたら人類に未来はない。近代以前の時代においては、人類は状況に流されていくだけでも何とかなった。隣の国が戦争の準備をしていたら、自国が先に攻めていって相手を滅ぼす。収穫(獲)が少なくなったら、別の場所へ移ったり、活動範囲を広げたりする。そうした過程を経て各国、各民族は栄枯盛衰を繰り返しながらも、人類全体としての発展を少しずつ進めてきた。そこでは人類も地球環境の一部としてとりあえずバランスを取ることができていたから、人々はいわば自然に身を任せていても最終的な地球全体規模、人類全体規模での収支は合うようになっていたのだ。
 ところが近代の産業革命は、人類に地球史上空前の圧倒的に巨大な力を与えてしまった。それは巨大な生産力というプラスの力と同時に(少なくとも人類の尺度では)永遠に取り返しのつかない破壊というマイナスの力を含んでいた。それまで地球上のどの生物も持たなかったような、一瞬にして人類および地球上のあらゆる生態系をも滅ぼすことの出来る力である(この場合の「一瞬」も地学的スケールにおける一瞬と考えていただいてもよい)。
 人類はこれまでの歴史とは全く違う次元に突入したのである。子供のケンカはせいぜい擦り傷・たんこぶ程度で済むけれど、大人が得物を持ってケンカをしたらただでは済まない。人類はまさに今そのステータスに上がったのである。しかも一番危ない、身体は大人、精神は子供という状況にあると言えるだろう。もはや、これまで許されてきたからこれからも許されるなどと甘いことは言っていられないのだ。

 当然ながら、政治の質もそれにあわせて変化させていかねばならない。近代以前の政治や軍事は、特定の個人やグループや民族の繁栄のために行われれば良かった。近代に入るとそれが国家に替わり、今ではグローバル企業の利益になった。しかし、もはやそれで良いと言える時代ではない。否応なく現代の政治は誰かの繁栄よりも全体の存続を目的に行われねばならなくなったのである。

 それではその政治の質の保証、責任は誰が負うのか。
 一般的に言えば、それは政治家の責任である。おそらく誰もがそう言うだろう。しかしそれは本当にそうなのか。民主制だから人々から選出された政治家が責任を持って政治を行うのだ、人々はそれを選挙を通じて採点すればよいのだ、それが現代日本の「良識」である。その際、政策を提示し実行するのは政治家という業者であり、消費者としての民衆は並べられたメニューを見て自分に一番都合の良い業者を選ぶ。ただし品質は保証してくださいね、ということだ。
 ところが多くの業者は小ずるく、なるべく安く質の悪いものを高くたくさん売ろうとする。それはその分、自分の利益になったり、自分にとって楽だったりするからだ。そのためメニューはきれいに見栄え良く、いかにも素晴らしいもののように飾り立てる。消費者はそのことを知ってはいるけれど、結果的に問題があったら業者の責任にすればよいのだから、信じた振りをすればよい。騙される者より騙す者が悪いのだから。気楽なものである。
 しかし、それでよいのだろうか? 政治は店頭で選ぶ商品と同じなのだろうか。
 民主主義がイコール代議制なのではない。民主主義の理念は言ってみれば、その共同体に所属する人全てが同等の権利を有する共同経営者であるというものだ。そうであるなら政治の責任も全ての成員が負うべきである。

 現在の安倍極右政権は、猛烈な圧力とスピードで戦後日本の平和と民主主義を破壊しようとしている。連休明け国会では、いよいよ安保法制に関する議論が始まった。評論家たちは、こうした安倍自民党に対して野党が戦略を練って闘わないと厳しいと言う。しかしそれは本当に野党の問題なのだろうか。
 現実に起こっていることは、選挙制度のまやかしで生じた国会議員比率によって、国民の意思とはかけ離れた改憲派の絶対優勢状態になっているということである。改憲反対の世論と改憲派議員の割合は全く逆転している。
 街頭インタビューでは多くの人がマスコミの受け売りで、「野党が弱い」「野党がふがいない」と言う。しかし本当に弱く、ふがいないのは有権者なのだ。このような歪んだ選挙制度を容認し、国会審議の行方を政治家の責任にして済ましている国民こそが、最も無責任だと言うべきではないだろうか。
 代議制の正当性を保証するのは、有権者が政治家にかける圧力である。政治家に圧力を与えられない有権者という構造の下では民主主義は成立しない。それこそそれは明治憲法のようなニセモノの形骸化した民主主義という装いでしかない。
 代議員が意向に沿わないことをするなら、自分自身がデモなどの直接行動を通して政治参加するということ=直接民主主義こそが民主主義の基本であり、普段は隠されているが実はそれこそが代議制を支える本当の基礎なのである。それがあるからこそ代議制に正当性が与えられるのだ。
 ところが前述したとおり、自民党政権の教育政策で頭の中を「洗濯」されてしまった日本人は、今や全く逆にデモや直接行動、批判精神、反権力を、反社会行為であるかのように思い込まされてしまっているのである。
(つづく)