光市母子殺害事件の高裁差し戻し判決が出された。予想通りの死刑。
判決文では、元少年が差し戻し審になって新供述を展開したことを「不自然不合理」と言うが、それを言うなら最高裁が差し戻しを言い渡したこと自体が「不自然不合理」と言わざるを得ない。
18歳1ヶ月の少年で二人殺害という状況で、かつ非常に悪質な事案として無期懲役判決 が出されたのは一般的に言って妥当だった。しかし、それをなぜか最高裁がひっくり返した。不自然な判断だった。
そうした不自然な判断が出された原因は過激なマスコミ報道にあったのではないかと疑わざるを得ない。もちろん裁判官が裁判上の証拠資料以外の情報によって判断を左右されてはならないのは常識以前のことであるのだが。
BPOは差し戻し判決直前、この事件についてテレビ各局が偏った報道をしていると警告したが、まさに裁判員制度が開始されようとする時期にこうした裁判が行われたことは大変憂慮される事態だと思う。
被害者遺族が死刑を求める発言をするのは当然かもしれない。それを報道するのも当然だ。だがマスコミが被害者側をヒーロー、弁護側をエキセントリックな人々と一方的な表現をしてきたことは、まさに「万死に値する」。
また高裁も、もっと苦悩があってしかるべきではないか。
最高裁の差し戻し理由がはっきりしている以上、高裁が独自に死刑を回避することは出来なかったという事情はわかる。しかし一度自身が出した判決が否定され、いわば無理矢理出させられる判決なのだ。裁判の進め方や判決にもっと逡巡があってもよかったのではないか。
そもそも、一審二審は裁判所、検察、弁護側とも無期懲役が妥当だということを承知の上で裁判が進んだに違いない。だから少年側は殺意を認め早期の裁判の決着を目指したのではないだろうか。ところが最高裁が不自然な差し戻しを命じたことから弁護方針は根本から見直さざるを得なかった。
これに対して高裁はそうした準備期間を認めず強硬な訴訟指揮を行った。これも不自然と言うしかない。高裁もまた「早く吊せ!」というマスコミのキャンペーンに乗せられ(もしくは「脅され」かもしれないが)拙速裁判を断行したのだ。そこには真摯に人を裁くという姿勢は見られない。
その結果、弁護側の方針にはいささか奇妙・強引という印象を受けるようなものも含まれることになってしまったが、それは恐らく弁護団の責任と言うより十分な準備期間を認めなかった裁判所の問題である。
今回の判決文の中では「強姦の目的や計画性も否定できない」、また情状面について「斟酌(しんしゃく)する理由はみじんもない」と判断されているが、果たしてそうだろうか。
よくよく報道内容を吟味してみると、被告少年の行動に「計画性」と呼べるようなものはなく、行き当たりばったりの犯行だったとしか思えないし、父親の暴力と母親の自殺、精神的な未成熟など、18歳の少年であることをあわせ考えれば様々な情状酌量の余地があるではないか。
今回の裁判は非常に危険な時代の予兆を感じさせる。
裁判が公開リンチと化そうとしているのだ。まさに群衆が犯罪者を取り囲んで罵声を浴びせ首を吊る西部劇のリンチシーンそっくりだ。
現代社会において公判制度は基本的に犯罪者の更生を目指した教育刑を科すことを目的としてきた。それが100年、いやハムラビ法典の時代にまで遡ろうとしているのだ。
この裁判を報じる同じ新聞紙上に「死刑になりたくて人を殺した」という19歳少年自衛官の事件が報じられていた。つい先日の岡山駅でサラリーマンをホームから突き落とした少年とまったく同じ動機である。彼らに限らずこのところ「死刑になりたい」「刑務所に入りたい」という動機の殺傷事件は頻発しているし、それは10代20代の若者が引き起こすことが多いようだ。
少年犯罪への厳罰化の流れと同時に、ベルトコンベアーのように死刑を執行していくべきだと考える鳩山邦夫が法務大臣になり、これまでの慣行を完全に無視して国会開催中にこれ見よがしに大量の「国家殺人」を行う状況下で、死刑は新しい自殺の方法と考えられるようになってしまったのだ。
もはや死刑は犯罪の抑止ではなく誘発の原因となっている。
もちろんこうした事態が生じることは以前から指摘されていた。
死刑は「人殺し」を正当化するロジックである。死刑が盛大に行われれば行われるだけ人の命は軽くなる。
アメリカの戦争への荷担については国連決議を振りかざす日本政府が、死刑廃止については国連決議を無視し続けるというのも不合理きわまりない。まあ、殺人を肯定する方向で価値観にぶれがないという点では一貫しているのかもしれないが。
野党も目の前で大量の死刑執行を行っている政府を追及することさえ出来ない。
いったいこの国はどこに向かおうとしているのか。