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ザウルスの法則

宝くじが当たる可能性? 「可能性」 “一つ覚え” の日本人?

2019-10-13 22:49:33 | 哲学

宝くじが当たる可能性? 「可能性」 “一つ覚え” の日本人?

 

“可能性” は常に、1かゼロである。“可能性” に大小や高低はない。

 

「その可能性は極めて低い」 とか、「その可能性が非常に高い」 といった表現が新聞、テレビ、週刊誌、ネットに氾濫している。その影響でそういった言い方をするひとがわれわれのまわりにも増殖している。

 

天気予報やニュースのコメンテーターからはじまって、論壇の批評家や学界の論客に至るまで、可能性の “多寡” に関したこの種の表現を目や耳にしない日はないほどだ。内容的にはかなりレベルの高い論客でもこういう表現を繰り返し使っている場合があって、ガックリくることが多い。例 「トランプの疑惑が弾劾に相当するほど悪質とは考えられないので、トランプが辞めさせられる可能性は低い。」

 

はっきりさせておきたい。“可能性” というものは、有るか無いかのどちらかであって、その間(あいだ)はないのだ。 “1” か “0” ゼロ なのである。可能性に “グラデーション” はないのだ。

これはヴィトゲンシュタインが口を酸っぱくして言っていたことである。

 

可能性には高いだの、低いだの、大きいだの、小さいだの、は無いのである。そういう表現を使っているひとは “論理的な雰囲気” を少しでも漂わせて多少気取ったつもりなのだが、実は自分がものごとをきちんと論理的に考えていないことをさらけ出しているだけなのだ。

ただし、「可能性がある」 とか 「その可能性はゼロだ」 といった表現にはまったく問題はなく、むしろそれらこそが正しい使い方だ。

 

しかし、あなたのまわりにもいるはずだ、「その可能性は低い」 だの、 「その可能性が極めて高いです」 だのと、したり顔で言っている人間が


  

 

そもそも “可能性” とは何か?

 

「可能性がある」 とは論理的に矛盾がなく成立し得て、科学的にも決して不可能なことではなく、実際に起こり得ること、成立しうることをいう。

たとえば、「今日宝くじを1枚買うと、それが当たって5億円が手に入る」 ということは、ゆうに「可能性がある」 ことだ。それは論理的にも矛盾はなく十分に成立しうる事象である。当たる可能性があるからこそ人々は宝くじを買うのだ。何の不思議があろうか。

 

しかし、「買っていない宝くじが当たって5億円が手に入る」 となると、これは論理的に無理があって成立しえず、「可能性がある」 とは言えないことになる。そもそも 宝くじを買っていないのであるから 「当たる」 可能性はゼロである。もし宝くじを買わなくても当選する可能性があるのだったら、買っているひとは何のために金を使っているのかということになるだろう。

 

また、宝くじを1枚だけ買った人と、まとめて3千枚買った人でも、当選して5億円を手にする可能性があるという点ではどちらも同じなのだ。5億円が当たる可能性はどちらの場合も “ゼロ” ではなく、 “1” なのだ。持っている枚数に全く関係なく、単に宝くじを持ってるというだけで、すでに可能性は “1” なのだ。

ホームレスがお尻のポケットに宝くじを1枚入れていようが、資産家がアタッシュケースに3千枚入れていようが、そこには区別はない。5億円ゲットの同じ夢を見ることができるのだ。

一方、宝くじを持っていない人たちの場合は、宝くじが当たって5億円が手に入る可能性は、どう足掻(あが)いても “0 ゼロ” なのだ。この “1” と “ゼロ” の違いこそ、“可能性” という概念の本質である。これをおろそかにすることが諸悪の根源である。

  

いくらこう説明しても、多くのひとは何となく、可能性  "possibility"  には “程度の差” があるように “頑なに” 思っているのだ。そうそう、あなたのことだ。

しかし、それは単に、マスコミによる 「~という可能性が非常に高い」 などといった、実に無責任な “通俗的な非論理的誤用” を活字と音声でさんざん刷り込まれてきたためである。そして、それを自分でも何も疑わずに真似して使ってきたためである。

ちなみに、“頑迷さ” は多くの場合、単なる “染脳” の結果である。自分自身の経験や思考の結果ではない。

 

実は、“程度の差” があるのは、 “確率、蓋然性 probability”  もしくは、“公算 likelihood” のほうなのである。“程度の差” や “多寡” について言えるのは、“公算” もしくは “確率”、“蓋然性” のほうであって、“可能性” ではないのだ。英語の世界では日本語とは比べ物にならないほどこの区別が画然とある。

 

“可能性 = possibility”  の “一つ覚え” のひと は、以下の検索結果に驚くかもしれない。

 

 

 

   論理的な事柄に関して、いかに日本人が見当違いな言葉 「可能性」 でいい加減に済ませているかを逆に物語っている。

 

 

それでは、どうすればいいのか? という声が聞こえてくる。


 

簡単なことである。要は、日本語でも、「確率が高い」、「公算が大きい」、「蓋然性が高い」、などと正しく言えばいいだけのことだ。

  

せっかく “可能性” とは論理的にはっきり区別される、きちんとした言葉と概念がありながらも、「可能性」 の “一つ覚え” で、高いの、低いのと “濫用” しているとなると、これは日本語に問題があるのではなく、個々人の論理的思考力の問題ということになる。日本語のせいにはできない事柄である。

 

しかし、必ずやこう反論する人間がいるはずだ。日本語の “可能性” という言葉には “確率” “公算” という意味も含まれているのであって、“可能性が高い” “可能性が小さい” という言い方は間違いではないのだ、云々」 と。そういう姑息なことを言う人間の自己正当化のための下劣な心理 が手に取るようにわかる。

いかにももっともそうに聞こえる この “現状肯定論”、“誤用容認論” の致命的な点 は、“可能性” という用語の非論理的な誤用によって、この語の本来の意味、元々の概念が忘れられ、失われ、“論理的混乱” に陥るところにある。

つまり、自分でも “可能性”  と “公算や確率”  との論理的区別がつかなくなるだけでなく、そういった誤ったフレーズの反復的発信によって、受信する側までも “非論理的な混濁した思考” に引きずり込むという悪弊があるのだ。

“可能性” という “哲学的に非常に重要な概念” の “皮相な論理的誤用” によって、自分と日本人の低脳化に大いに貢献しているのである。

いくら開き直っても、けっきょくは自らの単なる 無知論理的思考力の欠如をなし崩しに正当化しようとしているだけである。本人は多少カッコつけているつもりなのだが、論理の混乱、非論理性、皮相な知性、哲学的無知、知的怠惰、をさらけ出しているのである。

 

 

「こぶし大の隕石 が降ってきて、あなたの頭に命中してあなたが即死する可能性 がある。」

この可能性を誰が否定できようか?絶対無いと誰が断言できようか?この事象が物理的に生起することを妨げるものは何もなく、この命題には、論理的にも科学的にも何の矛盾もない。この可能性が、ある(1) か、 ない(0 ゼロ) かと問われれば、ない(ゼロ)とは言い切れないだろう。そして、“ゼロ” でなければ “1” なのだ。“1” ということは、“可能性がある” ということなのだ。

もちろん、それが実際に起こる “確率” はたしかに極めて低いと言えよう。つまり、可能性はあるが、実現する確率は極めて低い、ということである。

あなたにはこの区別が理解できるだろうか?この区別ができるのなら、もう 「可能性が高い」 だの、「可能性が低い」 だのという言い方は金輪際やめることだ。

 

最後に要点をまとめよう。

● “可能性” は常に、有るか、無いかである。

● “可能性” は “1” か “0 ゼロ” である。“白か黒” かである。

● そこには “程度の差” や “グラデーション” はない。

 

● 程度の差、度合の大小があるのは、上の図の “左下の縦のグラデーション部分” であり、確率、蓋然性、確からしさ(probability)や 公算(likelihood)である。

 

上の図が、上半分の “横の白黒の二部屋” と、下半分の “縦のグラデーション部分” とに画然と分けられることが十分お分かり頂けたであろうか?

上半分の “白黒の二部屋” を、以下のように無理やり “連続したグラデーション” にしようとするのが、「可能性が高い」 だの、「可能性が低い」 だのと “一つ覚え” で言っている輩(やから)の発想なのだ。自分が陥っている “重大な論理の混乱” に気づいていないのだ。

 

 

繰り返す。「可能性が高い」だの、「可能性が低い」だの、「可能性が大きい」だの、「可能性が小さい」だの という言い方は、すべて “明白な論理的混乱” である。

気づいた時からでも改めるのが “知的誠実さ” であり、“知的謙虚さ” である。誤りに気づいた時にこそ、あなたの知性が問われる。

A) 惰性的な習慣に従って、“混濁した論理” を受け入れ反復し続けるか、

それとも、

B) “明晰な論理” に従って、整合的な語法に改め、論理の混乱を回避するか

である。

 

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7 コメント

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Unknown (sy)
2019-10-15 03:23:13
正しくザウルスさんの仰る通り
意識体が認知する無限時空、過去未来
関係なく 今を認識しその選択肢は
1と0だと思います
何が そうさせるのでしょうか
自分を認識する、其れはいつたい
何なのでしょうか、
過ぎ去った それ は何か
sy  さま (ザウルス)
2019-10-15 07:42:56
ご指摘のように、“1と0” の本質的な重要性を軽く見ている表層的な思考が根底にあるようですね。
“心地よい混乱” に浸って、“明晰な論理” を忌避しているのです。
儲かりません (希ノ醍 輝平左ヱ門)
2019-10-18 18:29:51
お世話になります、私自身の経験から。

数字選択式宝くじの場合は、数字の選び方次第ではあたることがあります。

ですから、我こそはと、大儲けを狙って投資(投機)をして、元が取れることもあるわけです。

ですが、世の中には、チャレンジャーたちの懐を狙った詐欺商法として、当選確率をあげる予想方法や、確率をあげる数字選びのコンピュータープログラムなどが販売されています。

こういう、「当てる方法があるという話」は、彼ら詐欺師たちの騙し道具です。

昔、アメリカの金鉱堀の話に、「金鉱を掘るよりも、金鉱を掘りたいもの達に道具を売って、商売したほうが儲かった。」という実話を、思い出しました。

賢明な諸氏は、おかしな罠に引っかからないように~。

たとえ、当てる方法があったとしてもまず発見者が独占するでしょう。他の人に譲るわけがありません。

現実とはそういうものですから、宝くじなど当たりません。常識です。
儲かりません  さま (ザウルス)
2019-10-18 19:28:04
この記事は、いかに宝くじで儲けるかという話ではありません。宝くじというものは少し買ってもたくさん買っても当選の可能性がゼロから1になるという意味では同じという例として触れています。

実際、たった1枚買った宝くじがみごと当選して5憶円、7憶円をゲットするひともいます。また一方で、1800万円使って6万枚買っても、660万円ほどしか回収できずず、けっきょく1100万円ほどの損失に終わったという実例もあります。       
https://www.mag2.com/p/news/391906  

 

全部買っても~ (希ノ醍 輝平左ヱ門)
2019-10-19 01:20:11
ザウルス様の仰せの通りです。

宝くじは、当たりません。全部の組み合わせを買ったとしても、配当は4分の一ぐらいになります。

平均的に買っても、投資金に見合う配当は得られない仕組みに作られています。

この手の、籤は偏った買い方をしても、偏った当たり方をするものなので、狙っても、的は外れます。

数字選択式も、同様です。毎回必ず当たり続けるような必勝法は存在しません。

必勝法があるかのように偽装した作文を、使う詐欺が横行しているだけなのです。
Unknown (Unknown)
2019-10-20 18:47:45
記事の本題とは関係がなく申し訳ないのですが、強調表現の量がもう少し、少ないと見やすくて助かります!
強調表現 さま (ザウルス)
2019-10-20 20:02:40
「強調表現の量がもう少し、少ないと見やすくて助かります!」   とのことですが、部分的に文字が大きいということですよね?


「与那国島の 「海底遺跡」 のウソ:エセ研究者と観光業者による産業化 」  のコメント欄では  「文字が大きくて読みやすかったです。」    という書き込みもありますので、このままでいくつもりです。 あしからず。

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