よのなか研究所

多価値共存世界を考える

イスラムとカソリックの共存 in ミンダナオ島

2012-10-17 22:23:35 | 歴史

         Photo  (朝食準備中の屋外食堂街、バンコク)

フィリピンのミンダナオ島の南部にイスラム自治政府の発足を目指す和平への「枠組み」作りにフィリピン政府とモロ・イスラム解放戦線(MILF)とが合意し、合意文書に署名したと報じられた(朝日ほか、10月16日)。合意では、現在のミンダナオ・イスラム自治区を廃止し、イスラム系住人が広範な権限を持つ自治政府を2016年に発足させることになっている。キリスト教が主流の国家の中にイスラム自治政府が登場すれば、文明共存の新しい扉が開かれることになるかも知れない。

この国は多くの島からなっている。北からルソン島、ビサヤス諸島、そしてミンダナオ島である。島の数は七千ともいわれる。ミンダナオ島南西のサンボアンガ半島の先にスル―諸島が続きボルネオ島とは一衣帯水の距離にある。海洋交易と共に伝わったイスラムがこの島に伝わったのは自然の成り行きである。それは、ミンダナオ島が中国と東南アジアの交易の中継点となり、中国商人たちが北から、マレー商人たちが南からやってくるなかで、マレー系のムスリム(イスラム信徒)たちが14世紀の後半にもたらしたとされている。地図を見るとフィリピン全土、つまりルソン島がイスラム化しなかったことがむしろ不思議に思えてくるのである。

日本人にとっては、ルソンといえば秀吉の時代に豪商として名を馳せた呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)を連想するなど、ルソン島までは台湾の南に位置するとの感覚があるが、ミンダナオ島まではなかなか思いが回らない。南海の奥まったところにある島というイメージであり、筆者もルソン島までは行ってもミンダナオ島へは渡ったことがない。長らく渡航地域として制限されていたことによるが、マニラの下街の宿泊先周辺に銃器を持った男が多くたむろしていたことにもよる。

しかし、その昔この島のダバオはマニラ麻の一大集散地であり多くの日本人がいた。二十世紀の初めにルソン島のバギオに至る道路建設に数千人の日本人が厳しい労働に従事したのちにその多くがミンダナオへ移住したといわれている。ダバオには日本人経営の農園と工場が多くの日本人を雇用し、戦争前には民間人二万人が居住しており、日本軍もここを重要拠点の一つとしていた。マッカーサー大将率いる連合国軍は、すでにルソン島を制圧して北へ向かう所、この島で徹底的な掃討作戦を展開し、日本人の多くは死亡した。戦史に「ミンダナオの戦い」として記録されている。マッカーサーはフィリピン制圧の功で日本占領の際の総司令官の地位を得た、とされる。彼の親の代からフィリピン支配階層との結びつきがあったことは良く知られている。

ミンダナオ島には、デルモンテ社のパイナップル工場、ドール社のバナナ工場があり、世界に輸出している。しかし、商品作物、単一作物の農園が広がる一帯では、農民は自分たちの食糧を自給することができず、工場労働者となって賃金を得て米も小麦も芋もスーパーマーケットで買うことになった。決して生活が豊かになったわけではない。このような社会状況が、MILFが民衆の中に溶け込んで活動してきた背景となっていた。

今回の「和平構築合意」を双方が順守し、自治政府が成立することになれば、フィリピンのみならず地域の安定に貢献することになるが、まだまだ容易ではないと思われる。

フィリピン政府は1991年の冷戦終結を機に駐留米軍を撤退させた。1992年までにクラーク空軍基地、スーピック海軍基地を閉鎖して産業特区、住宅街開発、観光施設として再開発を進めているが、「中国の脅威」を理由に、一部を基地として復活し、期限付きの米軍の使用を認めている。ミンダナオにはフィリピン軍と米特殊部隊が訓練を行なっているがこの先どうなるか予測がつかないものがある。。

同じ島国として、フィリピンの真の自立自尊を祈念したい。

(歴山)



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