よのなか研究所

多価値共存世界を考える

坂の上の暗雲

2012-10-10 09:43:36 | メディア

                        Photo (海の上の白雲、鹿児島県奄美大島)

 1954(昭和29)年3月1日、米国はミクロネシアのマーシャル諸島ビキニ環礁で水爆実験を行った。その時、風下85マイル(約136キロ)の地点で日本の第五福竜丸がマグロトロール漁を行っていた。船に汚染された灰と雨が降りかかった。

3月14日に船が母港に帰還した時に乗組員には被爆の症状があらわれており、報道各社は「死の灰」と報道した。9月23日久保山務船長は被爆が原因で死亡する。被爆した乗組員の治療には死の灰の成分を知ることが不可欠だったが米側は情報を公開せず、米国から覇権されさた医師は治療のためというより調査が目的だったという。

時の首相吉田茂は米国に抗議することをためらい、このため吉田政権と米国への批判が一気に噴き出した。全国で「反米運動」に加えて「原水爆禁止」運動が盛り上がっていく。日米両国政府は対応策を考えた結果、「毒は毒をもって制す」の譬えに倣い「原子力の平和利用」を前面に打ち出すことになった(孫崎亨著『戦後史の正体』より引用させていただいている)。

1955(昭和30)年12月には原子力基本法が成立し、翌56年1月に原子力委員会が設立され、原子力発電への流れが既成事実化した。56年元旦の新聞に「原子力平和利用使節団」来日の記事が大きく掲載された。同年11月から翌57年8月まで米国大使館と読売新聞主催の「原子力平和利用博覧会」が全国11 都市で開催され、当時としては驚異的な260万人を動員したと記録されている。

自民党の中曽根議員が中心となって原子力委員会設置法や科学技術庁設置法など、八本の法案が議員立法で国会に提出され、原発建設が本格化していく。原子力を兵器にではなく、平和利用する、という宣伝は全国に届いたその効果は老若男女に表れる。田舎で科学少年を自認していた筆者が学校の図書館で最初に借りたのが「驚異の原子力」という子供向けにしては厚い本だった。今にして思うと<脅威>ではなく<驚異>というタイトルがミソだった。

東京電力福島第一原発の原子炉は米国のGE 社製であり、当初から事故の危険性が指摘されていたシロモノであった。これに異を唱える学者・研究者は変人扱いされて原子力関係の産業界、学会から排除されていったことは最近になって明らかにされている。

民主党政権となった時、原発を推進してきた自民党政権の施策からの転換が期待されたが、現政権は言葉を操るのみで、実態は変わっていない。次々と稼働再開され、建設も継続している。復興予算の多くが復興とは関係の薄い天下り法人へと吸い込まれている。

核兵器も原発も人類にとっては<脅威>であることはすでに明らかになっている。この夏の猛暑にあっても、国民が少し節約するだけで電力は原発抜きでも余裕があることが実証されてしまった。電力会社と経済界は石油、天然ガスの安定供給に不安があるとして当分は原発に頼らざるを得ない、とか、再生エネルギーでは料金が倍になる、などと主張しているが、エネルギー源の分散化は世界の流れとなっている。日本と並ぶ技術大国であるドイツでは国家として脱原発を決めて動きはじめている。

日本の場合は、電力会社と一部政治家と一部産業界、それに学会とマスコミが加わって原発を進めてきた経緯がある。地域ごとの事業体であり、競争相手もいない電力会社が毎年数百億円もの広告費を新聞・雑誌、ラジオ・テレビで使う背景は何であったのか。各地に作られた「電力館」などと称する豪華な施設、学者やマスコミ記者を宿泊・食事付きのバスツアーで招いての見学会、研究者への資金援助、原発までの道路工事やそのための用地買収など、裾野の広い利権構造が地域の有力者や地元議員も絡んで容易には解きほぐせないまでに入り組んで出来上がっていたのである。

今、福島に残っている児童・生徒、幼児たちの健康被害の状況は正しく計測されているのだろうか。公にされているのだろうか。

もし、政治家や官僚に本当に国を愛する者がいるとしたら、国土を汚し、将来の国を担う青少年をむしばんでいく原発の即時廃棄を主張するだろう。少数ながらそんな人たちがいるようであるが、なかなか政策を決定する中枢にはその声は届かないようである。自称愛国者たちは国境問題にひっかけて周辺諸国を挑発する言動を繰り返している。

坂の上には「白い雲」ではなく「暗雲」が漂っている。雲はいずれ風に流されるのであろうが気になるところである。

(歴山)



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