よのなか研究所

多価値共存世界を考える

「キリスト教原理主義」とは、

2011-08-29 00:00:52 | 信仰

         Photo(サンピエトロ大聖堂のベルニーニの天蓋、バチカン市国)

 

 月、ノルウェーで「移民排斥」を主張する極右青年による銃乱射事件があったとき、当初、「キリスト教原理主義者による犯行か」というニュースが流れました。新聞でも同様な表現がなされました。ほんの一日か二日のことで、その後この用語は使われなくなったようです。一度出してはみたものの、すぐに引っ込めたわけです。それは日本のマスコミのみならず、欧米メディアも同様だったようです。

 現実には原理主義者はどこにもいますし、またいて当然です。こういう人たちは、自分の考え、自分たちのシステムが最高であり、世の中はこれに従わなければならない、と考えています。経済社会では市場原理主義者たちが跋扈しています。

 原理主義者がイスラームにはいるが、キリスト教やユダヤ教にはいない、ということはありません。どちらにもいて当然です。仏教や儒教や道教にはその可能性は低くなるでしょう。「無我」を説く仏教では、他者と自己との相対化を考えています。自分の教えが最も優れている、とも言っていないのです。他者の説くところも耳を傾けなければなりません。儒教は自己を高める行動規範であり、その理論づけであり、それに伴う儀式です。道教は自己と一族とその生息する土地についての生活規範です。他者にとやかくかまっていません。

 ひと口に〈一神教〉という括り方にも問題がありますが、一般に一神教に他者排斥の傾向か見られることは確かです。昭和初期の日本の神道は、唯一神による統制と支配、という点で極めて一神教に近い考えであったと言うことができます。それは本来の神道からはかけ離れていました。どの宗教にも時の経過に沿っての一長一短がありますよね。

 

だれが何に気を使っているのか知りませんが、一瞬出たかと思うと、その後とたんに使われなくなる用語が言論界には多く存在します。また、それが時間をかけて後に再登場することもあります。

 ここにきて、日本の新聞もテレビも「キリスト教原理主義」という用語を再び使うことになる状況が生じてきました。なにしろその勢力はアメリカでは選挙のみならず、学校教育の現場でも無視できない大きな組織であり、そのことが以前からに報じられているのです。

 

828日の共同電は、

「来年11月の米大頭領選で共和党候補指名争いの人気トップに躍り出たテキサス州のリック・ペリー知事が進化論や地球温暖化を否定する「超保守派」ぶりで物議をかもしている」と報じています。この主張こそキリスト教原理主義の説いているところなのです。

 

 もともと英語で「原理主義」と言えば「キリスト教原理主義」のことを指してさしていました。「イスラーム原理主義」の用語が世界のメディアにあふれるようになったのは、「十字軍」発言をしたブッシュ前大統領の頃ではないかと思われます。それに呼応するかのように「キリスト教原理主義」の用語は封印されたかのように感じます。

 

手元にある研究社「新英和辞典」第五版を引いてみると次のように記述されています。

Fundamentalism  [n]. (u) 《キリスト教》根本主義、原理主義《第一次大戦後に起った米国のプロテスタントの一派で、聖書の創造説を堅く信じ進化説を排する》

 

第一次大戦後の動きとはいえ、すでに百年に近い活動歴があるわけです。その間、いろいろな批判や反対に遭いながらも生き伸びているわけです。むしろ、そちらの方が驚きです。そして、大統領を狙う心物がその主張を公言しているということです。

 

キリスト教はよく「愛の宗教」と言われます。世界の宗教はいずれも「愛」(英語で”Love”)を説いていますが一番熱心なのはキリスト教でしょう。ちなみに、仏教にも「愛」の用語が登場しますが、その意味会いは同じではありません。仏典では「愛」の一文字でよりも、熟語となってたびたび登場します。それは、人間の欲望と関連づけられて使用されることが多いようです。たとえば、「渇愛」、「愛染」、「愛欲」、「愛憎」、「愛着」、「愛執」などなどです。およそ意味は通じると思います。では、仏教ではこれに代わるものは何か、と問われれば、それは「慈悲」のこころです。

われわれが普段接しているのは漢訳仏典のそのまた翻訳ですから、ゴータマ・シッダルタが説いたことばから少し変化していることは考えられます。それでもサンスクリットやパーリ語の写本テキストから見て、その本質は変わっていないと思われます。

仏教は「執着」から離れることを理想とする考えですから、他人さまの意見や行動をとやかく善悪で判断することはしません。それこそが既に執着なのです。このような執着する心を、そこから離脱するように、と繰り返し説いているのです。

 

今のところ日本のメディアは先のペリー知事のことを「超保守派」とか「極右」とか形容していますが、いずれ「キリスト教原理主義」と書くことになるのではないでしょうか。そうでないと、その発言の意味が正しく伝わらないし、理解できないことになります。

もっとも彼が選挙戦を続けることが前提となります。人気が落ちてくると、記者たちはとたんに報じなくなくなるでしょう。

 

言葉の自主規制は言論活動の衰退に繋がります。日本のマス・メディアの抱える「ガラパゴス」的現象はいつまでも解消できないことになります。妙な〈用語〉の自主規制を改める日が来るか、それともマス・メディアの退場が先になるか分かりません。少なくとも、在来メディアの衰退の因のひとつがこのあたりにあることは間違いありません。

(歴山)