よのなか研究所

多価値共存世界を考える

遠い国のはなし

2011-08-02 10:04:02 | 歴史

      photo (パナマ運河のガトゥン湖を進む貨物船)©masatsugu.e

パナマ運河が開通してから2014年には百年になるそうです。もうじきですね。

先日、中南米三カ国にて仕事をしてきた方と話をする機会がありました。その百年の歴史にまつわる話を聞くと興味深いものがあります。現代日本の行く末とも重ねて思考を展開することができます。

運河はもちろん中米のパナマにあるのですが、この狭い地域が北米、南米、欧州、それに極東からアジアを結んでいるからスエズ運河とともに世界の物流に重大な役割を果たしています。最近では運河自体が観光資産ともなっているようです。

 

この地峡に運河を作る構想は古くらかあったとのことですが、1869年にスエズ運河を建設したレセップスがここで1880年に工事を始めました。当時はコロンビアの一部であり、フランス政府がコロンビアと協定を結んで進められました(その頃からパナマはなんどもコロンビアに対して独立を宣言したが、実際にはなかなかできなかった)。

 

ここに介在するのがアメリカ合衆国です。当時すでにこの地域に鉄道を敷設し、コロンビアに対し沿線の土地の割譲を求めるなどしていました。1899年には米西戦争を引き起こしてカリブ海地域とフィリピン、ハワイを手に入れたアメリカは新世界では向かうところ敵なしの状態でした。ヨーロッパ諸国からは遠すぎたし、ロシアは疲弊していました。アメリカではこの戦争のさなか、西海岸にいた軍艦をキューバへと回すのにホーン岬を回り二カ月かかったことで運河の必要性を痛感させられたのでした。その後の経過は次の通りです。

1903113日 パナマがコロンビアから独立する
1903
1118日 アメリカとパナマが運河条約を締結する(実態はアメリカによる運河地帯の永久租借権の獲得)

1914
815日 パナマ運河開通

1936年 米巴友好協力一般条約で運河地帯にパナマの主権があることを確認、運河の租借料を25万ドルから45万ドルに引き上げる

1955年 米巴相互理解および協力条約で主権を一部認定し、租借料を193万ドルとする

197797日 両国が新運河条約に調印。1999年末の運河地帯返還が決まり、返還までの間は運河経営を共同管理にすることとなる
1999
1231日 アメリカがパナマ運河地帯をパナマに返還、米軍が撤退

 

大国が一旦手に入れた権益を手放すのは容易なことではありえません。パナマの百年の歴史はアメリカから主権を取り戻す闘いであったのであり、そのことについては多くの図書が刊行されています。アメリカが小国パナマの言い分を呑んだ背景には、1956年にエジプトでナセルがスエズ運河の国有化を宣言したことがありました(当時ナセルはインドのネルー、インドネシアのスカルノらと並んで国際的に評価された人物でした)。

パナマ運河の返還を実現した人物は1968年にクーデターで実権を握ったトリホス将軍でした。この人物はいろいろと表価の分かれるところがあるようですが、1972年には電力、通信の基幹インフラ、それにバナナ農園などを国有化し、またキューバに接近するなどしてアメリカに対抗しました。1973年には国連の安保理で「ラテンアメリカでの植民地主義」の問題を議題として取り上げるように事務総長に働きかけ、アメリカが拒否権を行使したものの運河返還の交渉に付かざるを得なりました。

1977年、当時のカーター大統領は1999年までの運河地帯からの撤退を認めたのでした。

 

この時に、最も過激な反対行動をとったのが、「ゾー二アンZonian」と呼ばれていた運河地帯に住むアメリカ人たちでした。いわゆる「既得権益者」であり、パマナ人とは別天地の生活をしていました。彼らはパナマ人たちに兆発的な行動を繰り返して、むしろ反発を買う結果となりました。

かれらの言い分は、「運河はアメリカが資金を出して建設したものである」、「国際的な重要な地域をパナマ政府がうまく管理できるとは思えない」などということでした。よく聞かされることばですね。

現在、沖縄には米軍の兵士だけではなく、軍属と呼ばれる軍の周囲にいる技術者や補助労働者などが大勢います(沖縄だけではなく全国の米軍基地にいますが)。また、軍に物資を納入する専門の商人たちも居住しています。彼らにとって沖縄は(あるいは日本は)かつてのパナマと同じように特権が認められ、裁判権も実質的に相手国にはなく、納税義務がないのみならず、家族の光熱費や娯楽の費用を相手国に負担させる、という楽園です。

 

アメリカという国とこれからも長く友好的に付き合うことを真剣に考えるならば、このような世界史的にもいびつな関係は解消していくことのがお互いのためであることは自明です。

(歴山)